横須賀の聖ヨゼフ病院産婦人科と湘南病院精神科−立原道造/須田剋太


横須賀にある聖ヨゼフ病院は、石本建築事務所の設計により1939年に建った。
数年前から、この設計には石本建築事務所の所員だった立原道造が関わっていたことがわかってきた。(関わりがどの程度かは見方が分かれている。)
僕の妻の母は横須賀の人だが、結婚してから東京都府中市に住んでいる。
とくに聖ヨゼフ病院との関連を思ってみたこともなかったのだが、僕の妻の出産にあたっては実家に帰り、聖ヨゼフ病院で産んだことをつい最近知った。
横須賀では別の病院で僕はアルバイトしていたことがあり、両方たずねてみようと出かけた。

* 京浜急行で三浦半島に向かうと、横須賀中央駅の1つ手前が汐入駅で、そこで降りる。

メルキュールホテル横須賀
北側には駅前広場があり、メルキュールホテル横須賀がそびえている。
青空を背景に白い建築が映える。

そこから東にドブ板通りが始まるが、今はそちらに行かないで南に向かう。
両側にアーケードのある商店街の間を車が走っている。
道は直線ではなく、ゆるくうねっている。
ドブ板通りは、かつては歓楽街で、ちょっとアブナイところだったようだが、汐入駅から南にのびる商店街はふつうに暮らす人の店が並んでいる。


■ 妻のおじいちゃんの旧宅

商店街を行くと左に交番があり、義母の実家はその近くだった。
出産がすむと府中に戻ったから妻はここで育ったわけではないが、妻の祖父母や、叔父叔母いとこたちが横須賀に住んでいるので、子供のころ妻はしばしば横須賀に行った。

横須賀に行くと汐入商店街にあるおじいちゃんのところに泊まった。
妻が府中から遊びに行ったころは、おじいちゃんは直接の商いからは身をひき、2階に住み、下を貸していて、食堂になっていた。
遊んでいるうち食事どきになると、下からオムライスとかスパゲティとかを届けさせる。
おじいちゃんもそういうものが好みで、食べ物の好みに限らずその頃の老人にしてはハイカラだったという。
横須賀という土地柄もあったろう。
義母の出産にあたっては、当時ほかに個人経営の産科医院もあったというから、聖ヨゼフ病院を選んだのにはおじいちゃんの意向があったかもしれない。

* 義母の家から聖ヨゼフ病院まで歩いてみる。
交番の左の道に入り、すぐまた左に折れる。
汐入小学校の南端に沿っていく。
細い坂道をのぼっていくと、やがて階段が現れて、車だったら進めなくなってしまう。
この丘の下には京浜急行が走るトンネルがあり、トンネルの西は汐入駅、東は横須賀中央駅になる。
階段を上がりきると、道は突き当たってT字路になり、左への道をいくとすぐ右が聖ヨゼフ病院だった。
道の左には諏訪神社があり、社殿は高い位置にある。
はじめに諏訪神社を上がって、病院の全景を眺めた。


■ 聖ヨゼフ病院
神奈川県横須賀市緑が丘28 tel.046-822-2134
http://www.st-joseph.jp/

諏訪神社の斜面が病院の凹面につながり一体となって、その下の住宅街と、その先にある海を囲いこむかのような、大きな空間を作っている。
病院の屋上には海を見晴るかすように聖像があるが、これは戦後に加えられたもの。


立原道造が完成予想図を描いている。
もとは4階建てだったが、目の前にある病院は5階建てで、5階部分はあとから増築されている。立原の図ではいちばん下の階が見えない視点から描いているので3階建てに見える。
病院は傾斜地にたっているので2階相当に正面入口があり、現病院の設定は「地下1階、地上4階」になっている。

予想図の中央下あたり、右から左へ向かって、木立ちの中から現れてきたふうに人物が描かれているが、立原の自画像だという人がある。
汐入の商店街から歩いてきた僕らもこの道を来たことになる。
立原道造 聖ヨゼフ病院完成予想図

聖ヨゼフ病院

病院の中に入る。
ロビーはやや雑然としていて、年月を感じさせる。
正面に向かう廊下は右にカーブしていて、先は見えない。
左にも廊下があり、こちらは直線。
受付にいる人から「面会ならこの用紙に記入を」とにこやかに話しかけられる。
「ここで生まれたので、久しぶりに寄りました」と妻が話すと、それなら聖堂を見ていらっしゃいとすすめられる。
左の廊下を進んで、右に出る。
簡素な聖堂があり、入ると正面に十字架のイエス。

聖ヨゼフ病院
聖堂の脇、上の完成予想図と写真にある病棟からは裏庭にあたるところには花壇が作られていて、海の見えない部屋からは花が見える。

横須賀は大きな軍港で、もとから海軍の軍人とその家族用の病院があったが、施設に不足があり、1939年に横須賀海仁会病院が現在地に創設された。
戦後の1946年に、カトリック女子修道会聖母訪問会に経営が移管され、聖ヨゼフ病院と改められた。
屋上の聖像や裏の聖堂は、とうぜん移管後にくわえられたものだが、軍人のための病院より、カトリック系の病院のほうが立原道造のイメージに似合っている気がする。
聖ヨゼフ病院は2012年にDOCOMOMO(ドコモモ)の156番目の建築に選ばれている。
DOCOMOMO(Documentation and Conservation of buildings,sites and neighbourhoods of the Modern Movement)はモダニズム(近代主義)の建築として歴史的価値があるものを選定している。
近代の建築は、ふだん使われているから、古典として認められている古い時代の建築よりかえって壊されやすいので、重要なものを選定して保存と活用をめざしている。

聖ヨゼフ病院

義母の話では、妻が生まれた日は雪だったという。
青山学院に通っていた妹が三笠山(という和菓子)を買ってきてくれたのがとてもおいしくて強く印象に残っている。
近くに産科の個人病院もあるが、聖ヨゼフ病院でのお産は評判がよかった。
それで満室だったが、ちょうど姉もここで出産して退院したところに入院できて、そのとき生まれたいとこと妻とは10日違いになる。
(いとこは横須賀住なので、やがて横須賀市立不入斗(いりやまず)中学校に通い、1学年下に山口百恵がいたという。)

聖ヨゼフ病院の産婦人科は2010年4月から休診となった。
時代の要請にあわせてということだろう。
休診としているが、再開することはまずないだろうと思う。

■ 立原道造−神保光太郎−須田剋太

聖ヨゼフ病院の設計に関わった立原道造は、須田剋太と同時代のひとで、神保光太郎という詩人を介してつながりがある。
神保光太郎(1905-1990)は、山形市生まれだが、1934年に埼玉県浦和市(現・さいたま市)の別所沼畔に家を建て、亡くなるまで暮らした。
須田剋太(1906-1990)は鴻巣市生まれで、1927年から浦和に住んだ。
1930年に別所沼畔にアトリエを新築し、1941年関西へ移ったが、その沼のほとりにアトリエを建てて描いていたころの須田剋太を、神保光太郎が詩に書いている。
立原道造(1914-1939)は、東京日本橋生まれ。神保光太郎を敬愛し、別所沼の神保宅の近くに住むことを望んでヒアシンスハウスという小住宅の設計図を描いたが、実現しないまま若くして亡くなった。
立原道造と須田剋太が直接会ったという確証はないが、小さな別所沼のほとりで神保光太郎を介してごく近くにいたことになる。
→[別所沼のひとたち]

僕は1998年に高崎市美術館と群馬県立近代美術館で開催された「パトロンと芸術家 井上房一郎の世界」という展覧会を見てから井上房一郎に興味をもち、足跡をたどるようになった。
井上房一郎は高崎市にあった建設会社の経営者だったが、文化に深い関心をもち、群馬・高崎の文化をおおいに発展させた。
ナチスのドイツから逃れてきたブルーノ・タウトを保護していたことがあるが、タウトが1934年に東京大学で講演したとき、建築を学ぶ学生だった立原道造がそれを聴いて、ノートにきれいに整理した講演記録を残している。

須田剋太は埼玉県鴻巣市の生まれで、1990年に亡くなった直後に、故郷の知人たちが画家の業績を後代に伝えようとして須田剋太研究会を結成した。
作品の収集や展覧会の開催などを続けていて、僕は2010年ころに研究会に加えてもらった。
埼玉の美術館に勤務したことがあり、須田剋太の生家から歩いて5分ほどのところに暮らしている縁もある。

立原道造と須田剋太に別ないきがかりから関心をもったのだが、神保光太郎をとおして線がつながってしまった。
さらに最近になって、立原道造が設計した病院で妻が生まれたことがわかった。
ここ数年、いろいろなことがつながってしまうことに驚くことが次々とあり、とまどうほどだが、また1つ思いがけないことが加わった。

* 坂を下るとドブ板通りの東端になる。
通りを西へ歩く。
スカジャンやカレーやハンバーガーの店。
フリーマーケットがいくつか。
前にも来たことがあり、もう少し雑然としていたように思うが、観光地的に整理されている。
12時少し前だが、どの店も小さくて行列ができていて(待つことが苦手なもので)結局ドブ板通りを抜けイオンに入ってランチにした。
期待していなかったのがかえって○で、海が見える窓際の席で、食事もなかなかよかった。
港に沿って歩いて横須賀駅に向かう。


■ ヴェルニー公園

遊歩道が細長くのびている。
軍港めぐりの船が出発したところで、案内の声がきこえてくる。
「もし船から落ちて右のほうに行くと、米軍基地なので、上陸にはパスポートがいります」
対岸は米軍基地で、アメリカ国旗をつけた軍艦や潜水艦がとまっていて、パスポートはジョークにしても、あちら岸に上がろうとしたらめんどうなことになるだろう。


ヴェルニー公園を端まで歩くと、目の前にJR横須賀駅がある。
妻がおじいちゃんの家に行くときはこの駅から歩いたが、その頃は駅のすぐ前にずっと塀が続いていたという。
かつてあった軍港は、今は公園にかわって、塀も撤去されている。
公園の途中に、軍港だったことをしのばせる門が保存されていた。
ヴェルニー公園 旧軍港の門

■ 横須賀駅


駅舎は1940年に建ったもので、独特な形をしていている。
構内も独特。
階段がない駅は全国でも数少ないという。
横須賀駅

* またヴェルニー公園を歩いて汐入駅あたりまで戻る。
そびえているホテルに入ってみる。


● メルキュールホテル横須賀
横須賀市本町3丁目27 tel.:046-821-1111
http://mercureyokosuka.jp/

もとは旧日本海軍の下士官兵集会所があり、戦後はアメリカ軍に接収され、アメリカ海軍の下士官クラブとして使われていた。
1983年に日本に返還され、住宅都市整備公団が跡地の再開発事業をすすめた。
1993年に、横須賀市の芸術劇場と、横須賀プリンスホテルとして開業。
設計は丹下健三だった。
ホテルは2006年からホテルトリニティ横須賀にかわり、2008年に閉館。
約1年間空き状態となっていたあと、今のメルキュールホテル横須賀となった。
高い階の部屋やレストランは眺めがよさそう。

メルキュールホテル横須賀 丹下健三
妻がおじいちゃんの家に行っていた幼い頃には、まだホテルはなかったし、駅前のロータリーもなかった。
おじいちゃんが亡くなってからはずっと来ることがなかったので、駅周辺がすっかり変わったと驚いていた。

* またドブ板通りをぷらぷらと今度は東に歩いて抜けて三笠公園に行く。
午後からくもりの予想どおりに、雲が多くなってくる。


■ 三笠公園


日露戦争を戦った戦艦三笠が修復され展示されている。
内部を見学する。
須田剋太が亡くなったあとの『街道をゆく』で司馬遼太郎は三浦半島を訪れ、安野光雅が挿絵を描いたが、三笠も1枚描かれている。
船艦三笠

三笠のすぐ隣の岸壁から、猿島に向かう船がでている。
島は無人島だが、出ていく船も戻ってくる船も満員で、戦跡があるという。

* 横須賀中央駅に向かう。
暗くなっていた空から急にみぞれが降ってきだしたが、まもなくやんだ。
京浜急行に乗って追浜(おっぱま)駅で降りる。
西側には鷹取山につづく崖が迫っていて、その中腹に湘南病院がある。
ここに僕は学生時代のうちの3年間ほど、アルバイトに通った。
その頃は東側(海の側)にだけ改札口があり、駅からすぐにある踏切を渡って坂をあがると病院の正面にでた。

追浜駅 今は西側にも出口があり、

階段を上がるとすぐ病院の前にでる。 湘南病院

■ 湘南病院
神奈川県横須賀市鷹取1-1-1 tel.046-865-4105
http://www.shonanhp.or.jp/

湘南病院は内科、外科など、2017年現在でいえば13の診療科がある総合病院だが、精神科の比重が大きく、歴代の院長も精神科医が就任している。
僕は学生だったころ、卒業する先輩から引き継ぐかたちで精神科のアルバイトに入った。
4日に一度の夜間と、土曜、日曜、祝日に、交代で勤務する。
平日昼は都心で小木貞孝(筆名は加賀乙彦)先生の精神医学の講義をきき、夜や週末に横須賀に行って実例にふれるというふうだった。


入った当時の院長は竹山恒寿先生で、日本で最初の(ときいたことがある)病跡学(パトグラフィー)の論文を芥川龍之介について書いた人だった。
(右の掲載誌表紙の目次では『芥川龍之介に関する考察』だが、本文でのタイトルは『芥川龍之介に就ての一考察』になっている。)
卒業する先輩を送る会が横浜の中華街であり、新入りの僕らに看護婦さん数人も加わって、院長先生からごちそうになったことがある。
卒業するのでアルバイトをやめた数年後、先生は湘南病院で亡くなられた。
『神経質』表紙 竹山恒寿先生の論文

正面入口を入ると、受付があり、各科の診察室がある。
丘の傾斜にそって3つの病棟があり、精神科の入院病棟はいちばん奥にあるから、連絡通路をとおって(というか連絡階段をあがって)病棟に行くことになる。
今は勤めているわけでも面会に来ているわけでもないので、奥まで入っていきにくい。
外に出て、病棟に沿って丘の上に向かう右手の坂道を上がる。

かつては病棟の西側(道側)に空き地があり、散歩や作業療法に使っていたように思うが、今は道のきわまで病棟が増築され、空き地はない。
坂の傾斜にしたがって病棟が並ぶ基本的な形はかつてのとおりだが、何もかもが前のままということはなく、見覚えがあるふうでもあり、違和感もあり、もどかしい気がした。

丘は鷹取山で、坂を上がりきると小さな公園になっている。
一部に大きな岩が顔を出していて、いくつかこども向けの遊具が置かれている。
道をときたま人が通る。
この小山を越えた先には鷹取の住宅街があり、高級住宅街だという。駅まで行くには山を越えなくてはで、ほかに迂回する自動車道があるにしても、暮らすには体力がいりそう。
鷹取公園

坂を下って正面に戻る。
さっきは駅から最短距離の階段を上がったが、今度はかつてのように踏切へ向かう坂をおりた。
アルバイトをはじめたころの最初の何回かは、精神病棟の雰囲気に圧倒されて、朝、勤務を終えてこの坂から駅に向かうとき、ふう〜と深呼吸する思いだった。
今、40年ぶりほど経って来ても、坂の上から見おろすと、当時の感覚をリアルに思い起こす。
3年間つとめてやめたあとも、そうとう後年まで、精神病棟の夢を見ることがあった。

湘南病院

坂から駅に向かって歩くうち、妻が「おじいちゃんは湘南病院で亡くなり、見舞いにきたことがある」という。
僕は埼玉県鴻巣市、妻は東京都府中市の人だが、僕が横須賀でアルバイトしていたことがあり、妻の母の実家が横須賀にある。
ともに横須賀に縁がある偶然は前から承知していたのだが、おじいちゃんが湘南病院で亡くなって妻が見舞いにきていたことは、このとき初めて知った。
しかも僕がアルバイトしていたころで、時期が重なる。
府中の中学生が横須賀に見舞いに来るのは土曜か日曜くらいだろうから、同じ日に僕が勤務していてすれ違ったり見かけたりしたことはありうる。
立原道造の聖ヨゼフ病院で生まれたことに加えて、湘南病院にもそんなことがあったかと、また偶然に驚かされた。

僕が通っていたころ、踏切を越えた先を歩いて駅までいく間に、小さなパン屋さんがあった。
コッペパンがおいてあったり、そのころでも懐かしい気がするようなパン屋さんだったが、今は見あたらない。
国道16号を通って駅に入る。
かつては高架駅ではなく、海側に改札口があるだけだったが、今は立ち食いそばとセブンイレブンが、改札の両側にある。

* 京浜急行に乗って品川に向かう。
上大岡に着いたところで、先で人身事故があってここでしばらくとまるというので、京急の改札口からいったん出た。


■ 上大岡京急

駅から接続する上大岡京急のガラス張り吹き抜けの大空間に、奈良美智の作品が置かれている。

上大岡京急 奈良美智
淡いパステルカラーの少年少女が思い思いに遊んでいる。
もし機会があったら見ようと思っていたのが、設置からずいぶん年月が経ってようやく機会があった。

* 地下鉄で横浜駅にでて、夕食をとり、上野東京ラインのグリーン車に乗って帰った。

ページ先頭へ▲

参考:

  • 『「某病院計画案」顛末記』 津村泰範 「立原道造記念館」 第51号 2009.12
  • 『立原道造の、夢見る建築』 岡村民夫 現代詩手帖 57(10) 60-69 2014.10
  • 『立原道造全集 4 建築図面 彩色画 スケッチ 建築評論 翻訳1・2 採録文集 拾遺文集』 中村稔・安藤元雄・宇佐美斉・鈴木博之/編 筑摩書房 2009
  • 『立原道造の夢みた建築』 種田元晴 鹿島出版会 2016
  • ヒアシンスハウスの会
  • 『街道をゆく 42』「三浦半島記」  司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1996
  • 『芥川龍之介に就ての一考察』 竹山恒寿 「神経質」第4巻10号 1933
  • 1日の行程 (2017.2)(→電車 ⇒地下鉄 …徒歩)
    品川駅→追浜駅…湘南病院…追浜駅→汐入駅…聖ヨゼフ病院…ドブ板通り…ヴェルニー公園…横須賀駅…記念艦三笠…横須賀中央駅→上大岡駅⇒横浜駅