坂の上の雲ミュージアム『街道をゆく』挿絵原画展 2016


松山市にある坂の上の雲ミュージアムで『街道をゆく』挿絵原画展が開催された。
挿絵展は4回目になり、これまで「南伊予・西土佐の道」「檮原街道」「阿波紀行」と四国島内の道を対象にし、挿絵が描かれた地の今の風景の写真を撮って作品と見比べるように展示してきた。
今年は瀬戸内海を渡った「芸備の道」で、今の風景には僕が行って撮った写真が使われることになり、あわせて館長との対談が企画された。
展示期間は2016年10月1日(土)から10月31日(月)で、対談は開会2日目の10月2日にある。

10月1日に松山に向かった。
羽田空港の待合室にいるとき、携帯に連絡があった。
「湖西の道」をめぐったときに訪れて話をうかがった琵琶湖西岸にある興聖寺(こうしょうじ)の住職、森泰孝さんからだった。(→[琵琶湖から南へ、北へ-「湖西のみち」 ほか])
10月に開催される松山市と鴻巣市の須田剋太展の案内をお送りしてあったのだが、松山展に行かれるとのことだった。
明日、お会いできるのが楽しみ。

* 飛行機が松山空港に近づいたころ、瀬戸内海の島にかかる橋が見えた。
あとで地図と見比べてみると、松山の北西30kmほどにある鹿島と倉橋島とを結ぶ橋だった。倉橋島は音戸ノ瀬戸を経て本土の呉市とつながっている。かつて音戸ノ瀬戸を越えて、隈研吾氏が設計した音戸市民センターを見に来たことがあった。
鹿島-倉橋島

* 松山空港からリムジンバスで市内に入る。
松山市駅で北に向かうバスに乗り換える。
かなりの時間乗っていても市街地がつづいている。
30分ほどだったかで内宮バス停を降りる。
10月になっても今年は暑い日がある。
目的の美術館までせいぜい10分ほどだが、日射しが暑くて、折りたたみの傘をだして日傘にして歩いた。
せめてバス停寄りに入口があるといいのに、溜池に沿ってぐるりと遠回りしてようやく入口がある。


■ ミウラ-ト・ヴィレッジ
愛媛県松山市堀江町1165-1 tel. 089-978-6838
http://www.miuraz.co.jp/miurart/index.html

2年前のやはり秋、松山に来た。
道後温泉に泊まって、『街道をゆく』の関連地のほか、美術館や図書館を見たけれど、行きそこねて惜しい思いをしていたのがこのミュージアムで、今回は真っ先にきた。( [ 幸運のえひめ ])

長方形の展示室を往復して見るようになっている。
往路は特別展で、今は『野間仁根展 色彩踊る幻想の世界へ』を開催中だった。
野間仁根(のまひとね1901-1979)は、瀬戸内海の大島の生まれ。
大島といったら、これも隈研吾氏の設計による亀老山展望台があるところ。
前に「芸備の道」をたどったあと、しまなみ海道をえんえんと島伝いに走って見に行ったことがある。
そこから来島海峡大橋が見おろせて、あとその橋1つ越えれば四国の今治市というところまで至っている。
 →[ 「芸備の道」 としまなみ海道+尾道市立美術館の須田剋太展 ]

野間は、熊谷守一(1880-1977)と親しくして、「自分の感興に従い、自由に思うがままに」という信念をもったという。
そうして描かれた海や魚や森や花は、瀬戸内の空気感を漂わせている。

展示室を端まで行くと、折り返して復路は常設展示室で、三浦保氏の陶の作品が展示されている。
三浦氏はボイラーメーカーの創始者で、一方で陶芸作品を作った。
その作品をミウラートと名づけ、このミュージアムはその展示のために作られた。
特別展の部屋には外光が入らないが、陶作品は光にナーバスではないので常設展示室はガラス張りで明るい。
今日は温室状態でかなり暑くて、三浦作品はさらっと眺めて涼しい部屋に戻った。

ミウラ-ト・ヴィレッジ ミュージアムを設計したのは長谷川逸子氏で、ほかにアーティスト・イン・レジデンスのための宿泊室やアトリエが作られている。
外には楕円形の芝の庭があり、三浦氏の板状の陶が並んでストーンサークルになっている。

三浦氏はここが完成する前の1996年に亡くなられている。
ここを拠点に思い描いていたことがたくさんあったのだろうに惜しまれる。

* バスで松山市駅に戻る。
今度は伊予鉄横河原線の電車に乗り、5駅目の久米駅で降りる。
駅前に大きなマンションがあるのを回りこんだ先に久米街道があり、その交差点の向こうの角に神社がある。


■ 日尾八幡神社
松山市鷹子町894 tel. 089-975-1744

前に松山に来たとき、もう1つ行きそこねて心残りになっていたところ。
この宮司をしていた三輪田米山(みわだべいざん 1821-1908)は書家で、書の依頼があるとたっぷり酒を飲んでから書いたという。
米山の文字は現代的で若々しい。
僕は須田剋太のがっしりとして迫力がある書にとてもひかれている。
でも自分であんな字を書きたいとは思わない(もちろん書けるはずもないが)。
米山の書は見るにもいいが(またとんでもないことをいうようだが)あんな字を書けたらいいと僕は憧れている。

交差点の向かい側から神社を眺めると、もわっとしたヴォリュームの木々が背後にある。
久米山という丘の先端に神社があって、米山という号はそこからとっている。
なかに進むと、鳥居の前の柱に文字があり、右の柱には「鳥舞」、左には「魚躍」とある。

三輪田米山(みわだべいざん) 日尾八幡神社

ついで山門があり、その扁額には「日尾八幡大神」とある。
階段を上がったところに、また左右に柱があり、右は「上善」、左は「如水」。
まっとうな由来は別として、つい酒の名前を思い出してしまう。

松山にあった米山の書を、芦屋に邸宅を構えていた山本發次郎という大コレクターが、精力的に集めた。
それらの書は、山本が熱愛した佐伯祐三作品などとあわせて大阪市に寄贈された。
大阪市ではそのコレクションを核に新しい美術館を建てる計画があり、長く停滞していたがようやく2016年度には設計者の選択を終え、2021年度開館予定となっている。
西宮に住んだ須田剋太は、『街道をゆく』挿絵原画の全点を、新しい美術館で展示するという意向を受けて大阪府に寄贈した。
似たような成り行きだったのだが、大阪府のほうの美術館計画はまだ動いていないようだ。

* 松山市駅に戻る。
地下街が東西にあり、東の端から地上に出る。
商店街はさらに東にのびていて、やがて松山一の繁華街の大街道と交差する。
商店街を歩いていると、向こうから歩いてくる人があり、向こうへ歩いていく人があり、途切れることなくつづいている。
あちこちの都市で人通りのまばらな商店街を見たが、昼間からただ歩いている(かのようにみえる)人がこんなにいるのはたいしたことだと思う。


● いよてつ髙島屋
愛媛県松山市湊町5-1-1 tel. 089-948-2111(代表)

松山市駅の上層階はいよてつ高島屋になっている。
8階のレストランの窓際の席があいていたので入って夕飯にした。
正面に松山城の丘があり、その手前に市街のビル群が広がっている。
食事の後、9階の乗り場から「大観覧車くるりん」に乗った。
レストランよりさらに高くに上がってゆっくりめぐる。

いよてつ髙島屋から松山市街

カラスがたくさんいる。
いくつかのビルの屋上に、10羽以上ずつが集中している。
しばらくとまっていて西の方へ飛び去り、また背後から別の群れがやってくる。
松山城の森へ帰っていくのだろうか。

* 市電に乗って勝山町停で降りて今夜のホテルに入る。

● ネストホテル松山
愛媛県松山市二番町1-7-1 tel. 089-945-8111

ツインルームのシングルユースというちょっとぜいたくをしたが、連泊だと2泊目が安くなるサービスがあり、朝食バイキングがついて、かなり安く泊まれた。

ネストホテル松山
もとはワシントン・ホテルで、今もタクシーが前で数台並んで客待ちしているような格式のあるホテルで、部屋も快適だった。

翌朝、朝食を終えて、ロビーで愛媛新聞を買った。
坂の上の雲ミュージアムの『街道をゆく』挿絵原画展の記事がでていた。

* 歩いて坂の上の雲ミュージアムに向かう。
細い道を歩いて大街道にぶつかったところで大街道に右折。
少し行くと松山三越があった。


● 松山三越
愛媛県松山市一番町3−1−1 tel. 089-945-3111

松山三越
前を通りかかると70周年記念とあり、そんなに長いのかと思って店内に入ってみた。

70年前といったら戦後まもなくのこと。
戦後の混乱期に、松山から東京や大阪へ物資を送り出し、周辺の商店街に刺激を与え復興にも貢献した。
混乱期を過ぎると、東京資本の百貨店として、東京の文化や香りを松山に紹介する役割を担ってきたという。
店内では、過去を振り返る写真が展示され、愛用者に記念品が配られていた。
6階に上がると 美術ギャラリーがあった。
広い面積を占めていて、今、売れ筋の有名作家の作品が並んでいた。
数十万から数百万の値がついている。
きのうミウラ-ト・ヴィレッジで見た野間仁根の作品もあり、ちょっとした額が表示されていた。

■ 坂の上の雲ミュージアム
松山市一番町3-20 tel. 089-915-2600
http://www.sakanouenokumomuseum.jp/

午後から対談があるのだが、午前の早い時間に着いた。
11時ころ、館内放送があり、開館140万人目の人が入ったとのこと。
松原正毅館長が迎え、くす玉を割り、記念品が渡された。
島根県益田市から来られた人だった。
開館から9年5か月で、地方都市にあり、しかも1つのテーマに限定したミュージアムなのに、たいしたことと思う。

ミュージアムの方たちと対談前の打合せをする。
終わる頃にたずねてこられた方があった。
一色成人さんといわれる。
須田作品の多くの額を作られた金田明治(かなたあきはる)さんに、松山での挿絵原画展の案内をお送りしたところ、「当地在住の知人にお報らせしておきます」と返信の手紙をいただいていた。(金田さんは大阪住)
その知人というのが一色成人さんで、松山にお住まいで、かつて松山三越の美術部にお勤めだったという。
1978年、『街道をゆく』の「南伊予・西土佐の道」の取材のとき、一色さんが全日空ホテルのロビーで須田さんと話しているとき、朝食に降りて来られた司馬さんに行きあうということもあった。
松山三越では1986年、1988年の2回、須田剋太展を開催し、とても好評だった。
どちらも図録を作っていて、1回目の図録には司馬さんが序文を寄せている。
坂の上の雲ミュージアムの方々にもご紹介すると、地元にこういう関係者がいらしたことに驚いておられた。

■ 歴史の記憶 須田剋太「街道をゆく」挿絵原画展 第4回 芸備の道

会場には大阪府から借用した「芸備の道」の挿絵26点が展示された。
あわせて僕が2013年に行って撮った写真も前に置かれている。
挿絵と写真は1:1で対応していなくて、写真がないものもあり、全体と部分と2枚あるものもある。

坂の上の雲ミュージアム 須田剋太「街道をゆく」挿絵原画展 松原正毅館長との対談
対談ではUSBメモリーに用意した画像を映しながら、「芸備の道」での話をした。
須田剋太が夏目漱石の『坊っちゃん』を介して松山ともつながりがあることもお話しした。

(左の写真:坂の上の雲ミュージアム玉井友子さん撮影)

松原館長はお話しのなかで、「坂の上の雲」に関する展示について40年かかる構想があると言われた。
1編の本に関わるミュージアムでそれほどのテーマがあり、ふくらみがあるのかと印象に残った。
また『街道をゆく』の挿絵原画についても、すべての街道を展示するのに40年かかるとも言われる。
遠大なことだ。
松原館長は遊牧の研究のためにトルコの遊牧民にまじって1年暮らしたことがあり、『街道をゆく』の中国の旅に同行されたこともあり、思いが深く、スケールが大きい。

対談の最後に琵琶湖近くから来られた興聖寺の住職、森泰孝さんをご紹介した。
車で片道7時間もかけてご夫妻で来られていた。
興聖寺は『街道をゆく』の第1回「湖西のみち」の最後に語られる印象深いところで、そんなゆかりの方にはるばる来ていただいてありがたいことだった。

一色さんは対談前にお話ししたとき、こういう場で紹介されることを遠慮されていたので、こういう方がいらしていただいたということと、一色さんに連絡された金田明治さんのことをお話しした。

会場に展示されている作品は、すべて金田さんが額装されたものだった。
1点ごとにていねいに手作りされた独特の額で、金田さんのものと一見してすぐわかる。
その額のなかにある須田剋太の作品は正確な長方形ではない。
剋太は大きな紙を適当な大きさに大雑把に切って使っていて、紙の角は90度ではないし、紙のはしはきちっとした直線ではない。
印刷された画集や、このサイトでも、作品の画像をすっきり長方形にトリミングしてしまっているが、実は1点ごとに違うといえるほど。
紙の形が大雑把といっても、須田剋太は描くことに手を抜いていたわけではない。
金田さんは額作りを始めてまもないころ、剋太が絵の縁(ふち)を指さして「金田くん、僕はここまで命をかけている。この先はあなたが命をかけてくれなくてはいけない」と迫られたという。
しだいにその思いにこたえられるようになり、画家が若い額制作者を育てたことになる。
須田剋太の挿絵は原画を見なくてはそうしたことは見えない。
また、もともと週刊朝日でも、単行本や文庫本に掲載されたときでも、絵はモノクロで印刷された。
でも須田剋太は色をつけていたのだし、別な紙に描いたものを貼りつけたり、チョコレートの包装紙を刻んで画面にふりまいたりもしている。
そうした多彩な制作のありようも、原画を間近で見なくてはわからない。
坂の上の雲ミュージアムがこれから40年もかけて展示し尽くそうということは、そうした点でも魅力ある企てになる。
挿絵の原画を見ることは、もちろんほかに『街道をゆく』の文章と関わって、描かれた地への思い、時間の変化への思いも重ねることになる。

対談を終えて僕は松山から帰ってからのことになるが、坂の上の雲ミュージアムの学芸員の石丸耕一さんが産経新聞にことしの挿絵展について『「街道をゆく」が生んだ縁』というタイトルで寄稿され、掲載紙を送っていただいた。
僕が『街道をゆく』の挿絵の地をたどって訪ねた興聖寺の森泰孝師が松山展を見にこられたことを紹介し、こういう文章で結んでいる。
 博物館の展示や事業が、いろいろな人々との出会いや縁を生み、一つの形になっていく。そうしたことを改めて感じさせられた出来事であった。
『街道をゆく』の挿絵の地をたどっていると、ただ過去をなぞるということだけでなく、ささやかでもこんふうに今の人の動きに関わることがある。

同じ月の後半には、須田剋太の生地、埼玉県鴻巣市で「大久保喜一・須田剋太師弟展」が開催された。
松山のことがこちらまでつながっていたり、100年も前の師弟関係の展覧会で、今まで見えていなかった人のつながりがわかってくることなどあって驚かされた。
(→ [ 絵のさざ波 「大久保喜一・須田剋太師弟展」 ] )

松山では2泊し、翌朝、レンタカーを借りて「阿波紀行」をたどって徳島に向かった。(→ [ 台風と同行二人-「阿波紀行」 ] ) 

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参考:

  • 『街道をゆく 21』 「芸備のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1983
  • 『山本發次郎コレクション 遺稿と蒐集品にみる全容』 山本發次郎/著 河崎晃一/監修 淡交社 2006
  • 『蒐集もまた創作なり-山本發次郎』 竹田博志 日本経済新聞 「美の美」  2007.3.11
  • 『「街道をゆく」が生んだ縁』 石丸耕一 産経新聞愛媛版「坂の上の雲ミュージアムカフェ213」 2016.10.21
  • 3泊4日の行程 (2016.10/1-5)
    (→電車 ⇒市内電車 =バス -レンタカー …徒歩 >飛行機)
    第1日 羽田空港>松山空港=松山市駅=ミウラ-ト・ヴィレッジ=松山市駅→久米駅…日尾八幡神社…久米駅→松山市駅…いよてつ髙島屋⇒「勝山町」…ネストホテル松山(泊)
    第2日 …坂の上の雲ミュージアム…ネストホテル松山(泊)
    第3日 …「勝山町」⇒JR松山駅…トヨタレンタカー松山-株式会社あしたのチーム三好ランド(旧政海旅館)-阿波池田駅・一福亭-白地-かづら橋-デ・レイケ堰堤-美馬市立脇町図書館・正木酒店-ビジネスホテルマツカ(泊)
    第4日 -重要文化財田中家住宅-勝瑞城-霊山寺-大麻比古神社-堂浦-北泊-レストランカリフォルニアテーブル-大鳴門橋-土佐泊-徳島城-トヨタレンタカー徳島…眉山ロープウェイ…ハイパーイン徳島東船場(泊)
    第5日 …徳島市立図書館…徳島駅=徳島空港>羽田空港
    (第3日以後は→ [ 台風と同行二人-「阿波紀行」 ]