坂の上の雲ミュージアム『街道をゆく』挿絵原画展 2017


四国・松山市にある坂の上の雲ミュージアムで、『街道をゆく』挿絵原画展第5回(「愛蘭土紀行」)が開催され、今回も僕が撮った現地写真が須田剋太の挿絵と並んで展示された。
愛媛県美術館で『没後20年司馬遼太郎「21世紀"未来の街角"で」』が開催されているのにあわせて、秋10月の松山に行った。

第1日 松山空港 愛媛県美術館・愛媛県立図書館 坂の上の雲ミュージアム 松山(泊) 
第2日 久万美術館 衛門三郎の里美術館 重信川河口 愛媛大学ミュージアム 松山(泊)
第3日 子規記念博物館 愛媛県立図書館 松山空港


第1日 松山空港 愛媛県美術館・愛媛県立図書館 坂の上の雲ミュージアム 松山(泊)

* 松山空港へは成田空港からジェットスターで向かった。
成田空港ではLCC専用の第3ターミナルが2015年4月に開業している。
その後何度か『街道をゆく』の挿絵の地をめざして空路を行ったが、LCCが飛んでいない路線だったり、たまったマイルをつかったりで、成田第3ターミナルには初めて。
成田空港駅から遠いときいていたのに、わが家の最寄り駅からは、朝、始発電車に乗って、かなりぎりぎりに着く予定なのに、さらにその始発電車が遅れて(線路に妨害物が置かれたという)、ちょっと焦った。
なんとか間に合って予約した便に乗る。
松山空港から松山市駅までリムジンバスで行く。


■ 愛媛県美術館
松山市堀之内 tel. 089-932-0010
http://www.ehime-art.jp/

『没後20年司馬遼太郎「21世紀"未来の街角"で」』を見る。
この展覧会は全国を巡回していて、僕は6月に横浜のそごう美術館ですでに見ている。
『街道をゆく』の挿絵原画もは数点が展示されていた。
各会場にゆかりの地の絵も含まれていて、松山では「南伊予・西土佐の道」から『松山城』と『檮原神楽』。
どちらもかつて行ったところで懐かしい。(→[幸運のえひめ] )

美術館では『安倍能成展〜学習院中興の祖と称された偉人〜』も開催されていた。
先だって「秋田県散歩」をたどって秋田県大館市に行った。
狩野亨吉の出身地で、狩野亨吉をめぐる事績を見ていると安倍能成(あべよししげ)の名がでてくる。
狩野は第一高等学校の校長をしていたころ、点や出席日数の足りないものは容赦なく落第させた。それで岩波茂雄が2度も落ちたため安倍能成と同学年で学ぶことになり、親しくなった。
のちに安倍能成が編者となった『狩野亨吉遺文集』を岩波書店から刊行することにもなっていく。
このあと行った坂の上の雲ミュージアムでは『子規・漱石生誕150年記念特別展示「松山と漱石」』を開催していたが、狩野亨吉は漱石と東京帝国大学で知り合って親しくしていた。
松岡正剛が『千夜千冊』でこう書いているほど。
「友人代表の弔辞」を誰に頼むかということになったのだが、やっぱり狩野亨吉だろうと誰かが言い出すと、反対者は一人もいず、すんなり決まった。(『松岡正剛の千夜千冊』1229夜 青江舜二郎「狩野亨吉の生涯」
大館にはひと月ほど前に行ったばかりで、そこから松山に旅が続いている感じがした。

美術館のレストランでランチにした。
明るく開放的な雰囲気で、大きなガラス壁の向こうに公園が広がっている。

■ 愛媛県立図書館
松山市堀之内 tel. 089-941-1441

美術館からするとすぐ裏といった感じの位置に図書館がある。
松山で神官をしていた三輪田米山(みわだべいざん)の書をどこかでまとめて見られるところがあるか知りたかった。松山近辺の神社にはたくさんあり、図書館の米山関係書にもその説明はあるのだが、まとまったコレクションがどこかにあるものかは見つけられなかった。


* 城の堀に沿って東へ歩く。
9/30から10/10まで愛媛国体が開催されていた。
ホテルも予約がとりにくいというので終わったあとに来た。
これから10/28から10/30までは全国障害者スポーツ大会が開催されるので、国体とあわせたノボリが道ばたにいくつも立っている。


松山城の堀 えひめ国体ののぼり

■ 坂の上の雲ミュージアム
松山市一番町3-20 tel.089-915-2600
http://www.sakanouenokumomuseum.jp/


坂の上の雲ミュージアムでの『街道をゆく』挿絵原画展は今年で5回目。
須田剋太が描いた原画にあわせて、描かれた地の今の様子を撮った写真もあわせて展示していて、ことしも僕が撮った写真がつかわれた。

(画像をクリックすると拡大します)
坂の上の雲ミュージアム 須田剋太『街道をゆく』挿絵原画展「愛蘭土(アイルランド)紀行」


今年の展示は『愛蘭土紀行』で、挿絵90点のうち20点を展示してある。
司馬遼太郎一行はアイルランドに行く前にロンドンに寄るのだが、僕が行ったのはロンドンのみ、それも一部で、写真が展示されたのはタワーブリッジ、ウォルドルフホテル、ウォルドルフホテル食堂、ロンドン・ユーストン駅構内の4点のみだった。
坂の上の雲ミュージアム 『街道をゆく』挿絵原画展 会場風景

今年もここで松山市に住む一色成人さんにお会いした。
一色さんは、もと松山三越の美術部にいて須田剋太展を担当し、その後独立して開いた松山画廊でも須田作品を扱い、須田剋太と親しかった。
去年も原画展にあわせて松山にきたとき、須田剋太の作品をおさめる独特の額をたくさん作った金田明治さんが、松山にはこういう須田剋太ゆかりの方がおられるということで連絡され、やはりこのミュージアムで初めてお会いしたのだった。
ミュージアムのカフェで、ミュージアムの担当の方々もまじえて話をして、楽しい時間だった。

● 松山三越
松山市一番町3-1-1 tel.089-945-3111

かつて一色さんがおられた松山三越には8階にレストランがある。
広くて明るい。
入口前のガラスケースの食事見本を見ると、ローカルなメニューもあり、値段も手ごろで、よさそうに思うのだが、がらんとしている。
去年も来てみたことがあるが、この広さなのに客が誰もいないのに圧倒されて、入るのをためらった。
今夜はほかに女性客が1組だけいた。
入って、このあたりの名物の鯛釜飯と生ビールをとった。
ふつうにおいしかった。
なぜこれほど人気がないのかわからない。

● アビスイン道後・松山
愛媛県松山市勝山町2−3−3 tel.089-998-6000
http://www.abis.ne.jp/dogo/

大街道あたりの繁華街を西から東に走る市内電車は、「勝山町」で左折して、北に向きを変える。
その内側(北西)の角に今夜のホテルがある。
8階の部屋に入って窓から見おろすと、すぐ下に市内電車が曲がっていく交差点がある。
向かいのビルの屋上には、タルトの大きな広告がある。
朝にはスクランブル交差点を、おおぜいの中高生が自転車で走り抜けていった。
この眺めに朝食がついて2泊で1万円弱で、いいホテルだった。

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第2日 久万美術館 衛門三郎の里美術館 重信川河口 愛媛大学ミュージアム 松山(泊)

坊ちゃん列車

* ホテルから出ると、目の前を坊ちゃん列車がゆっくり曲がっていった。
 ホテルから歩いていける近さに営業所があるレンタカーを借りた。
全日空ホテルのわきを南に入った三番町にある。
松山市を南に抜けて、山中の道を行くと、久万高原町に入る。


■ 久万高原町立久万美術館
愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生2-1442-7 tel.0892-21-2881
http://www.kumakogen.jp/culture/muse/

「シュらん2017」という企画展を見た。
伊丹万作(映画監督)、中村草田男(俳人)、重松鶴之助(画家)ら松山出身者が大正期に「朱欒(しゅらん)」という手書きの同人誌を発行していた。
今この美術館が所蔵していて、翻刻出版し、研究を続けている。
企画展はその同人誌の若い意欲的な精神を今に受け継ごうと企画されたもので、愛媛ゆかりの3人の若いアーティスト、海野貴彦(かいのたかひこ 1975-)、西武アキラ(にしたけ あきら 1980-)、八木良太(1980-)の作品を展示している。
企画展開催中は美術館がもつコレクションは展示されないのだが、海野貴彦が自身の作品に関わらせて伊丹万作の作品を展示していた。
『市河夫妻之像』(1924-25頃)、『櫻狩』(1927)の2点で、なかなか目にすることができない作品を見られてよかった。

コレクションの中で見たかったのが村山槐多(むらやまかいた)の作品。
須田剋太、本名「勝三郎」は、槐多に憧れて「剋太(かいた)」と名乗ったほど。(ところが人がみな「こくた」というのでそうしてしまった。)
この美術館には『裸婦』(1914-15頃)という、いかにも槐多らしい熱い絵と、『勺薬』(1915-16 頃)という、花を描いた静物画があり、見られなかったのが惜しい。
明治時代の松山の書家、三輪田米山の『思無邪』という書も見たかった。

久万高原町立久万美術館 久万高原町は半世紀ほどの間に人口がおよそ40%ほどに減っている。
久万造林の経営者だった故井部栄治氏のコレクションの寄贈をうけて美術館が開館したのは1989年のこと。
それからの四半世紀でも人口は約13,000人から2015年の国勢調査では8,500人ほど、約65%に減っている。

これだけの人口の町でこれだけの美術館を維持し、しかも寄贈されたコレクションを展示するだけでなく、若いアーティストを鼓舞する展覧会も開催していることは今どき驚異的で、たいしたことと思う。

□ 三輪田俊助氏のこと

すこし回り道をする。
東京駒込に「ときの忘れもの」という画廊がある。
その主宰者である綿貫不二雄さんは群馬県高崎高校の出身で、群馬の文化振興に大きな影響をもたらした井上房一郎という実業家の後輩にあたる。綿貫さんは井上房一郎に恩義を感じている人で、僕は井上房一郎の事績をたどっていて知り合った。
ときの忘れもの」のWebサイトには、たくさんの人が美術や建築などをめぐるエッセイを連載していて、清家克久氏が「瀧口修造を求めて」を書いている。
その第7回( 2017.9.20)にこういう文章があった。

 宇和島市在住の画家で戦前にシュルレアリスムの影響を受け、瀧口とも交流のあった三輪田俊助先生に当時のお話を伺いたいと思い、初めてご自宅を訪ねたのは1980年代中頃のことだったと記憶する。道路に面した生垣、奥の玄関へ続く煉瓦を敷いた通路脇の植込みや中庭の佇まいに植物を愛する画家のまなざしを感じた。(中略)
 愛媛の洋画家を代表する一人であり、度々宇和島に取材に訪れた小説家の司馬遼太郎とも交流があった。司馬遼太郎は「街道をゆく」のなかで、三輪田先生が史跡である城山に市が武道館建設を計画していることを知り、「城山の緑を守る会」を立ち上げて反対運動をした経緯について書いている。

僕は以前、『街道をゆく』の「南伊予・西土佐の道」をたどって宇和島に行った。
宇和島で司馬遼太郎は親しい人たちが集まって持ち寄った材料で料理を作って楽しむ寄合酒(よりあいざけ)というものを再現する集まりをした。
そのとき会場となった魚屋さんの消息が気になって、参加者についてよく注意しなかったが、清家氏の文章から、あらためて『街道をゆく』を読み直してみると三輪田俊助氏も参加していたのだし、『街道をゆく』の旅で訪れた1978年より前から親しくしていたのだった。

「三輪田さんは何年生まれですか」
 ときいてみて、おどろいた。大正二年うまれで、私より十歳上である。容貌は十数年前に会ったときとすこしもかわらず、万年書生の感じがするのは、細面(ほそおもて)で髪が黒いせいと、美術家にあたえられた天恵というものかもしれない。(『街道をゆく 14』「南伊予・西土佐の道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1981)

三輪田俊助氏は高齢になっても絵を描きつづけていたが、2015年に101歳で亡くなった。
久万美術館では、生前1997年に三輪田俊助回顧展を開催し、その図録を販売していたので買った。
1930年代、軍国主義が拡大して息苦しくなっていく状況に、シュールレアリスムの絵を描く画家が多く現れたが、三輪田氏もそういう時代に画業をはじめ、滝口修造に注目されることともなった。

あとでのことになるが、坂の上の雲ミュージアムの学芸員さんに教えられて『司馬遼太郎 伊予の足跡』という本を手に入れた。『街道をゆく』の旅をふくめ、司馬遼太郎と愛媛の関わりがたどってあって、とても参考になった。
宇和島の寄合酒のとき撮った集合写真が掲載されていて、そこに三輪田俊助氏も並んでおられた。

* 松山市街に戻る途中、市街にはまだ十数キロというあたりで寄り道する。

■ 衛門三郎の里美術館
愛媛県松山市東浄瑠璃町甲511-1 tel.089-963-5040

四国の札所46番浄瑠璃寺と47番八坂寺のあいだに遍路ショップ「衛門三郎の里」がある。衛門三郎(えもんさぶろう)は、四国遍路の起源に関わるという伝説の人で、このあたりに住んでいたという。

「衛門三郎の里」の経営者、市川武秀(市川堯星)氏は現代美術に関心が深く、 木や石や鉄板などの素材を組み合わせて造形する「もの派」の作品を集めてこられた。
それらの作品を展示する美術館を作ろうとしてパートナーに選んだのが川俣正氏で、川俣氏は建築物に多量の木材をまとわせる作品を国内外で展開してきたアーティスト。
川俣氏と市川氏は、美術館を作っていくプロセス自体も作品のように公開していこうと企て、手はじめに『MUSEUM CONSTRUCTION』という展覧会を1997年に開催した。
そのとき刊行された図録には2000年に竣工予定とあった。
今回、松山に来るのにあたってインターネットでみると、2014年、四国遍路開創1200年記念の年に美術館がオープンしたとある。

国道194号線に沿った土地に遍路ショップ「衛門三郎の里」があり、別棟に美術館があるが、どちらも閉じている。
美術館の前に概要を記した板が置かれていて、設計者として川俣正氏でない名前があった。川俣氏のプランで2000年に竣工するという計画は実現しなかったようだし、実際、建物はごくふつうの外観をしている。
衛門三郎の里美術館

草花がいい感じに植わった庭をうろうろしているうち、バイクに乗った女性が現れた。
市川氏の夫人で、市川氏はことしの7月に亡くなり、店はつづけていくが、美術館は閉館したといわれる。
もの派の作品を集めた美術館は珍しく、貴重なコレクションをぜひ見たかったのだが、来るのが遅かった。

国道を歩いて札所46番浄瑠璃寺にお参りした。畑のなかの道を戻るとちゅう、大きなカボチャを見かけた。そばで女性2人がのんびり楽しそうに話していた。「カボチャは大きさのコンテストにだすもので、食べたらおいしくない」と教えられた。
カボチャの写真を撮ろうとしたら、わきへよけようとするので、カボチャだけでは大きさがわからないからとお願いして、写ってもらった。
大きなカボチャ

* 昼どきになったが、途中に手ごろな店がなくて、ローソンでランチをして海辺に出た。

■ 河口ウォッチング/重信川

重信川河口は松山中心部から7キロほど離れている。
とはいっても、山地が大部分を占める四国全体から見れば松山平野(道後平野)はとても小さく、人が集中していて、河口まで松山市街がずっとつづいている。それで河口は素っ気ない人工的な眺めだろうと予想していた。

重信川河口

重信川河口


左岸の河口に着くと、たしかに先端部はしっかりした護岸の上を舗装道路がとおり、角には四国ガスの工場がある。
向こうの対岸は埋め立て地らしく、やはり工場があって、人工的ではあった。

ただ重信川は急傾斜地を水源としていて河床に砂礫がたまりやすく、砂州が川幅の大半を占めたうえ、砂嘴が長く伸びている。
道から砂嘴に降りられる。
雲が厚く、ふつうには海辺で遊ぶ気にはならないような日だったが、老婦人と孫がかがんで砂遊びをしている。
さらに先に歩いていくと、砂嘴の先端近くに流木が1本横たわっている。
タルコフスキーの映画『サクリファイス』のラストシーンのようだった。
先端に立つと、海のなかにひとりぼっちで立っているような、体を陸から海に押し出されたような、今まで味わったことがない感覚があり、印象深い河口だった。

重信川というのは、川の名にしては珍しく江戸時代に河川改修にあたった足立重信という個人名によるという。
 石手川重信川の青田かな 高浜虚子
 夏川を二つ渡りて田神山 正岡子規
高浜虚子も松山生まれの俳人。
石手川(いしてがわ)は、重信川より松山の市街に近くを流れていて、河口まで4キロほどの地点で重信川に合流している。
子規の句の夏川2つも重信川と石手川とされ、どちらも松山の人には親しまれているようだ。

* 中心部に戻ってレンタカーを返却する。
便利なように三番町の営業所で借りたのだが、一方通行があるうえに、カーナビがピンポイントで目的地を示してくれないので、営業所の周囲をカフカの城のようにまわってしまった。
「大街道」から市内電車に乗り、城の東側を回って環状線の北側にでて、「赤十字病院前」で降りた。


■ 愛媛大学ミュージアム
愛媛県松山市文京町3 tel.089-927-8293

松山の神官だった三輪田米山(みわだべいざん)の書が好みで、去年松山に来たときも米山の書が刻まれている神社をたずねたりした。
「あいだい(愛媛大学)のミュージアムで米山の書を展示している」という話をきいたので来てみた。
ところがミュージアムは大学の研究内容、研究成果を公開する展示がほとんどで、米山の書はなかった。
ミュージアムの受付にいる人にたずねてみると、米山の書は図書館が所蔵しているもので、図書館やミュージアムの企画展示で公開することがあるが、常設展示はないとのことだった。


それは残念だったが、キャンパスが広々して、のびやかな開放感があり、歩いていてとても気持ちがよかった。
僕が通った大学は都心にあってビルが並んで窮屈だった。こういう環境で学び、青春できる学生がうらやましい。
愛媛大学

* 「赤十字病院前」に戻り、環状線の左回りに乗った。住宅の中を抜ける江ノ電のようなところがあり、「古町」には線路がいくつも並ぶ操車場があった。
これまで大街道あたりの繁華街できり乗ったことがなかったので、新鮮だった。
2日目も同じホテルに泊まる。


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 第3日 子規記念博物館 愛媛県立図書館 松山空港

* ホテル前の「勝山町」から市内電車にのり、「道後温泉」で降りる。

■ 松山市立子規記念博物館
愛媛県松山市道後公園1-30 tel.089-931-5566
http://sikihaku.lesp.co.jp/

子規記念博物館 『子規・漱石・極堂生誕150年記念 第63回特別企画展 子規・漱石・極堂−俳句革新の地 松山−』を開催していた。
子規と漱石はともに1867年の生まれ。
この節目の年にあわせて、この博物館では一時休館して常設展示室を一部展示新しくしたり、力が入っている。

* 「道後温泉」停留所に戻ると観光客がやけに多い。坊ちゃん列車が走る時間で、それ目当ての人たちだった。
「南堀端」で降りて、軽く美術館と図書館に寄り道。
松山市駅から乗り合いバスに乗って(直行のリムジンバスより安い)空港へ。
帰りの便は13:15成田行きのジェットスター便で、旅の最終日こんなに早い時間の便で帰るのは珍しい。
左の窓際席をとってあった。
離陸するとぐるっと旋回して松山空港を見おろし、きのう行った重信川河口が見えてきた。
歩いて感慨があったところを、あとで高いところから見おろして味わい直せるのはなかなかいい。



重信川河口。
大きな砂州があり、砂嘴が長く伸びている。
上のほう、左右に直線があるのは松山空港の滑走路。
重信川河口と松山空港

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参考:

  • 『街道をゆく 14』「南伊予・西土佐の道」  司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1981
  • 『没後20年司馬遼太郎展「21世紀"未来の街角"で」』 産経新聞社・司馬遼太郎記念館/編 産経新聞社/刊 2016
  • 『松岡正剛の千夜千冊』1229夜 青江舜二郎「狩野亨吉の生涯」
  • 『第11回企画展テーマ展示 好古 真之 子規−明治20年代初頭−』 坂の上の雲ミュージアム/編・刊 2017
  • 『司馬遼太郎 伊予の足跡』 アトラス出版編集部/編 アトラス出版/刊 1999
  • 『三輪田俊助回顧展』 町立久万美術館編/刊 1997
  • 『KAWAMATA+PH STUDIO MUSEUM CONSTRUCTION 』 川俣正+オンザテイブル PHスタジオ/編 牛渕ミュージアム+児玉画廊+ヒルサイド・ギャラリー/刊 1997
  • 『蒐集もまた創作なり 山本發次郎・下』 竹田博志 日本経済新聞 2007.3.11
  • 『愛媛の水をめぐる歴史』 内田恭一郎 愛媛文化双書刊行会 2006
  • 狩野亨吉 1865大館−1942
    正岡子規 1867松山−1902
    夏目漱石 1867東京新宿区−1916
    高浜虚子 1874松山−1959
    岩波茂雄 1881 長野県諏訪市−1946
    安倍能成 1883松山−1966
  • 2泊3日の行程 (2017.10/12-14)
    (→電車 ⇒市内電車 =バス −レンタカー …徒歩 >飛行機)
    第1日 成田空港>松山空港=愛媛県美術館・愛媛県立図書館…坂の上の雲ミュージアム…松山三越…アビスイン道後・松山
    第2日 −久万美術館−衛門三郎の里美術館−重信川河口−(大街道)⇒愛媛大学ミュージアム⇒愛媛県美術館…松山三越…アビスイン道後・松山
    第3日 ⇒子規記念博物館⇒愛媛県立図書館=松山空港>成田空港