通崎睦美さんの木琴新刊書+木琴コンサート

(2013.10/10)
日米で活躍した木琴奏者・平岡養一のことを通崎睦美さんがまとめた本を読んだ。(『木琴デイズ 平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』講談社2013)。
平岡養一の人生、その時代背景、木琴とマリンバという楽器のこと、それらに関わって演奏家としての通崎さんの今と、これから志向することとが書かれていた。
僕は通崎さんが須田剋太に縁があることを最近知って、ちょっと前に初めてコンサートに行ったばかり。木琴やマリンバのことなど、わからないことだらけ。
でもこの本1冊にまず知りたいことがすべて盛りこまれていた。

平岡養一は1907年から1981年まで日米を往復して木琴を演奏する一生を送った。その生涯を読みたどりながら、そのころの日本は、あるいはアメリカはどんなだったろうと、ふっと知りたく思うところで、当時の社会状況が要領よく説明される。
木琴という楽器については、わかっているようで実は詳しいことは知らないなあと思い至るところで、楽器そのものについても、きっちり説明される。
僕の座右の書に『理科系の作文技術』(木下是雄 中公文庫 1981)という本があり、こんな文章がある。
必要なことは洩れなく記述し、必要でないことは一つも書かないのが仕事の文書を書くときの第一の原則である。何が必要かは目的(用件)により、また相手(読者)の要求や予備知識による。その判断に、書く人の力量があらわれる。
この本を読んだのはずいぶん前のことだが、まさにその好例としてピッタリな文章に初めて出会った気がした。

資料は念入りに集めてあり、いろんなことを盛りこんでいるのに構成がよく考えられていて、読んでいて混乱しない。
かといって理詰めで窮屈ではなく、
平岡の勢い溢れる演奏を、時々「おっとっと」と思いながら、痛快な気分で聴き進める
とか、
平岡の当時の録音には、時折「あっ、それをやるとブレナー先生に叱られるよ」というような箇所が顔を出す
とか、通崎さんのステージ上の溌剌とした姿を思い起こさせるような表現がまじって、読んでいて楽しい。

平岡の演奏についても、言葉でみごとに説明される。
前に飛ぶ音色 明るくはじけるようなリズム感
とか
ちょっとしたフレーズの処理にかわいらしい色気が感じられる
とか。
そうした説明の積み重ねにより、平岡養一の演奏の特質や、木琴界や音楽界での位置、なぜ人々に人気があったかがおよそ理解できた。
それでも
平岡独特の「よれ」が見られるようになる。そして、この「よれ」こそが平岡の味、とみんなが認めるようになっていた。
というとき、木琴の演奏について「よれ」とはどんなものか、実際の音を聞いてみたくなる。あるいはこんなのもある。
演奏の中で、ほんの一瞬タイミングがずれてドキッとさせられる場面があるが、平岡は同じず、指揮者も上手く合わせて事なきを得ている。もちろん音楽的に大きな問題ではなく気付かない人がほとんどだと思う。しかし「事故」から「事故処理」まで、あえて時間にすれば四秒ほどの出来事だが、こんなささいなところからも、平岡の百戦錬磨ぶりがうかがえる。
演奏者の耳はさすがに鋭いが、ほとんどの人が気付かないこの「事故」とはどんな演奏だったのか。
たとえば「平岡養一講義」のような企画があって、平岡が残した音源を聴きながら、こんなのが「よれ」だとか、ここが「事故」だとか、指し示してもらえるとおもしろいと思う。

かなりのボリュームがある本を読み進めながら、通崎さんは木琴に出会って(抵抗の大きい)波を越えようとしている人なのだと思った。
平岡養一はクラシックの世界で木琴を演奏して評価された例外的な演奏者だった。でも、もともと木琴を想定しないで作曲されたクラシック音楽を「木琴でも演奏できる」としても、本来的ではない。
木琴そのものの名曲が必要だが、新しく作曲される現代音楽は「聴くほうにも特別な興味が要求される」もので、一般的に認知されにくい。
バイオリンだのピアノだの、確立した楽器なら、演奏者は技術や表現力を磨いていけばいい。ところが木琴となると、楽器そのものの存在価値をまず定着させなくてはらない。通崎さんが難しい位置にいることがわかってきて、日米を往復した平岡養一のイメージが重なって、波を越えようとしている人にみえてきた。
でも木琴を演奏している姿を見れば、きっと軽々と乗り越えていくのだろうと思う。


そんな本を読んでいる頃、『通崎睦美リサイタル 木琴文庫』を聴きに行った(東京オペラシティリサイタルホール 2013.10/10)。
通崎さんのコンサートには2度目(前回は『通崎睦美 モッキンソロとリコーダーとのデュオ』ロゴバ 2013.7/5→[10年以上も毎年描かれた肖像画−マリンバ奏者、通崎睦美さん])。
この夜は第1部はクラシック。
第2部は現代の曲が主で、委嘱して作られた初演の曲が2つもある。
意欲的な構成だったが、僕は前ほどときめかなかった.演奏の間の話で通崎さん自身が「平岡の本を書きあげたばかりで、いろんな思いがまだ頭の中につまったまま」と語ったとおり、大量の平岡養一をかかえこんで、もどかしい感じがあったかもしれない。
精細な評伝を仕上げて、ひと区切りついて、次のコンサートがどんなになるか、また楽しみに行こうと思う。
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