東日本大震災後の三陸海岸北部(八戸~釜石)-「陸奥のみち」 (2015)
『街道をゆく』の「3陸奥のみち」をたどって青森と岩手を旅した。
岩手県洋野町小子内(おこない)の清光館という宿に、100年ほど前に柳田国男が訪れて泊まった。6年後に訪れるとその宿がなくなっていたことを『浜の月夜』と『清光館哀史』に書き、高校の教科書にも掲載されてよく知られている。
司馬遼太郎は『街道をゆく』のなかで何度か柳田国男にふれているが、この宿があったところに行き、須田剋太が絵にも描いている。この3者の具体的な接点になった場所が今どうなっているか、行ってみた。
今回の行程には、2013年NHKの朝ドラ『あまちゃん』の舞台になったところがある。レンタカーでめぐったのだけれど、三陸鉄道にも乗った。
2011年の東日本大震災のあと、何度かにわたって太平洋岸を見てきたが、2015年のこの旅で青森から福島までの海岸線を、ほぼひととおり見たことにもなった。
第1日 東北新幹線・七戸十和田駅から野辺地・十和田をまわって三沢へ [藩境跡 十和田市現代美術館 新渡戸記念館 古牧温泉青森屋(泊)] |
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第2日 三沢から八戸へ [寺山修司記念館 櫛引八幡宮 根城 八戸市立図書館 願栄寺 八戸(泊)] |
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第3日 陸中海岸を南下して田老へ [種差海岸 洋野町立歴史民俗資料館 清光館跡 巽山公園 小袖海女センター 三陸鉄道久慈駅 渚亭たろう庵(泊)] |
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第4日 宮古~釜石を経て内陸に入り新花巻駅から帰る [閉伊川河口 鯨と海の科学館 吉里吉里駅 大槌町役場 釜石市商店街 遠野駅 宮守川橋梁] |
第1日 東北新幹線・七戸十和田駅から野辺地・十和田をまわって三沢へ [藩境跡 十和田市現代美術館 新渡戸記念館 古牧温泉青森屋(泊)] |
* JR東日本に「えきねっとトクだ値」という割引きっぷがあり、初めて新幹線のグリーン車に乗った。グリーン車なのに普通車をふつうに買うより安い。
東北新幹線の七戸十和田駅は、新幹線が北海道まで延びるのにあわせて新設された駅で、周囲は既成の街ではない。駅舎、イオン、道の駅などがあるほかは、がらんとしている。
レンタカーの営業所もすぐ目に入り、迷わずに着いて予約どおりに借りる。
真北へ、野辺地湾に向かって走る。
本州の北のはずれという思いこみがあったが、意外に交通量が多い。国道4号線という幹線だから当然といえば当然か。
■ 県史跡・藩境跡
青森県東津軽郡平内町狩場沢・野辺地町野辺地
青い森鉄道・狩場沢駅の南、平内町と野辺地町の境は、江戸時代に南部領と津軽領の境界だった。
境の印として築かれた塚が、南部と津軽のそれぞれに2つずつ、合わせて4つある。
司馬遼太郎はこのあたりを走っていて「小用を足すために車から降り」、道から浜のほうに下ったところで偶然この珍しい藩境を見つけている。
「須田さん、これはめずらしいものですよ」 と、私は頭上の道路に向かって声をかけた。 須田さんは、枝道をすべるように降りてきて、スケッチブックをひろげた。(『街道をゆく 3』「陸奥のみち」司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。) |
場所の見当はつけてきたが、国道4号線を走っていてうまくこの地点に気づけるだろうかと覚束ない感じで走ってきた。
ところが今は史跡として整備され、道沿いに駐車場があり、案内表示があり、見逃さずに着けた。
坂を降りると4つの塚がある
僕のなじみの感覚からいえば、埼玉県内の近くにさきたま古墳というのがあるが、その中の円墳をもう少し小さくしたような感じ。
須田剋太『津軽南部藩境四つ塚風景』 |
4つの塚の間を、南北方向には旧奥羽街道がとおっていた。
東西方向には二本又川(ふたまたがわ)という細い川が流れていて、そこと烏帽子岳山頂を結ぶ線がクニの境とされていた。
川はこの塚のすぐ先で太平洋に流れこんでいる。
司馬遼太郎の文章では、南部側の塚はいかにも立派で、津軽側は枯れた萱(かや)が生えてわびしい様子をしているように書かれている。今は4つの塚ともそろってきれいに散髪したばかりの頭のようで、違いはない。
史跡の公園として整備したとき、このように整えられたかもしれない。
* 来た道を南に戻る。
七戸十和田駅を通りかかるあたりで昼どきになり、駅前すぐにある道の駅でランチにした。
さらに南下して十和田市街に入る。
十和田市は広く、市街地から南西の端にある十和田湖までは30kmほどもある。
司馬遼太郎の『街道をゆく』の取材では、八戸から十和田市を経て青森に行って、青森空港から空路帰った。十和田市はただその通過点としてだけ記されているのだが、僕はここの美術館を見てみたくて寄り道した。
■ 十和田市現代美術館
青森県十和田市西二番町10-9 tel. 0176-20-1127
美術館から数分離れたところにある駐車場に車を置いた。
入口に近づいていくと、箱状の展示室の壁がガラスになっていて、アナ・ラウラ・アラエズの「光の橋」という、タイムトンネルのような作品が見える。
その隣、屋外に椿昇の「アッタ」という巨大な赤いアリが、こちら向きに迫っている。
正面入口前の、やはり屋外に、チェ・ジョンファの「フラワー・ホース」という花模様の馬が前脚を高くあげている。
大きな建築のなかに作品が並んでいるのではなくて、1作品ごとに箱状の展示室があるのを通路が結んでいる。
正面入口の近くからは、箱に描かれた壁画-ポール・モリソンのリンゴの木や、奈良美智の少女など-も目に入る。(右の写真は館内の2階から撮っている。) だから通りを歩くと、美術館の壁を眺めるのではなく、歩いているうちにかなりの作品にふれていることになる。 |
美術館は、「アート作品のための家」を作ってまちとのつながるように配置するという西沢立衛の提案がコンペで選ばれて、2008年に開館した。
中に入ると、箱と箱に囲まれた中庭に、オノ・ヨーコの「念願の木」「三途の川」「平和の鐘」。
このところ平和や自由が侵されていく動きが続いているなか、オノ・ヨーコの作品、言動、そして存在そのものが、僕にはかすかな希望になっている。
そのほかの作品も、つよく印象に残るおもしろいものだった。
とはいえ、建設費の9割を超える22億円ほどが、六ヶ所村核燃料再処理施設や放射性廃棄物管理施設から得られる電源3法交付金で賄われている。
このあと行った寺山修司記念館も同じ交付金が財源になったという。
美術館も記念館も、そそる展示でいいが、わりきれない思いがある。
* 新渡戸記念館に向かう。美術館から歩いても行けるかなという距離だが、これから行く三沢方向にあるので車に乗る。
■ 十和田市立新渡戸記念館
青森県十和田市東三番町24 - 1 tel. 0176-23-4430
この記念館は、十和田市の礎となった三本木開拓に貢献した盛岡藩士の新渡戸伝(つとう)、孫の新渡戸稲造の関連資料などを展示する施設。
僕が行ったときには、正面入口のわきの「ご利用案内」の看板に、「壁面コンクリートが耐震強度が低いので、4月1日から休館する」ということが記されていた。 |
1964年に市が新渡戸家の土地を借りて記念館を建設したあと、市が月15,000円払って新渡戸家所蔵の資料を借り受ける形をとり、館運営のための人件費も負担していた。
2015年2月に、市は突然4月からの休館を通告(上記の休館予告の貼り紙は、そのとき掲げられたのだろう)、別な展示施設をどこかに用意するという具体案もないまま、資料を市に寄贈するように求めたという。
その後も、十和田市と、記念館の存続を求める人たちとの間で、裁判が続いている。
現代美術館が登場して、十和田市はもとから自然にある十和田湖以外に、文化にも先進的なまちという印象ができていたのに、新渡戸記念館のことで評価をおとしてしまった。
* 東へ、太平洋に向かって走って、三沢市にはいる。
● 星野リゾート古牧温泉青森屋
青森県三沢市字古間木山56 tel. 050-3786-0022
1泊目は、ずいぶん前から行きたいと思っていた宿に予約した。
大きな池を擁する広い敷地内に、見どころがたくさんある。
ここの開発者、杉本行雄は、大蔵大臣や日本銀行総裁などを務めた渋沢敬三の秘書兼執事だった人。旧渋沢邸など、ゆかりの建物が移築されている。 |
岡本太郎の作品が屋内、屋外に散在している。 |
今は軽井沢の星野温泉を基点にした星野リゾートが経営していて、宿泊者を楽しませるしかけがいくつもつくられている。
夕食はショーレストランで、青森の祭りを再現したショーや、津軽三味線、南部民謡などで楽しませてくれる。
館内には居酒屋のようなスペースがあり、ほかにも小さな見せ物があれこれあり、ひと晩泊まっただけでは遊び尽くせないほど。
「寺山修司迷宮かくれんぼ」には、生涯をたどれる展示がしてあって、コートの裾をひるがえして線路を歩いているダンディな写真とか、「ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない」なんて記した卒塔婆が立っていたりする。
朝は津軽弁体操があり、三味線の伴奏で体操するのがおかしい。
■ 不動神社
青森県三沢市本町1丁目4
夕飯前、小牧温泉の庭を散策したあと、古い元湯の建物などをながめながら、青い森鉄道にそった敷地を三沢駅のほうに歩いた。
駅に近づいたところで左にそれると、ちょっと高くなったところに小さな神社がある。 少年時代の寺山修司が、ここで遊び、三沢駅を発着する汽車を眺めていたというところ。 |
今は家が建てこんで駅への視界はさえぎられているが、かつては間近に見えて遠くへの思いを誘われていたろうか。
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第2日 三沢から八戸へ [寺山修司記念館 櫛引八幡宮 根城 八戸市立図書館 願栄寺 八戸(泊)] |
* 朝、北に向かう。
三沢空港の南西のへりを走っていくと、水面に突きあたる。
左に小川原湖、右が空港という間の、両側を柵にはさまれた窮屈な道を北に走っていく。
左の湖岸の一部は左側は米軍専用のビーチになっていて、立ち止まってはいけないような圧迫感がある、ほかでは覚えがない独特な印象の道だった。
大きな小川原湖岸の道を右へそれると、また小さな沼=小山内沼がある。
沼の水面には浮き草が島状にいくつも浮かんでいて、このあたりの道の風景も-もう一度この風景を眺めるためだけにでも来てみたいと思えるほどに-独特だった。
■ 寺山修司記念館
青森県三沢市大字三沢字淋代平116-2955 tel. 0176-59-3434
いろんなしかけに満ちた小道具や照明のなかに展示物があって、いかにも寺山修司にふさわしいワンダーランドにひきこまれた。 近くにあれば、気が向いたときにふらっと出かけて、好きなように浸っていたいところだ。 |
外に出て遊歩道を歩くと、本の形をした記念碑があった。
マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや |
本は小田内沼を見おろすように開いていて、前で首を垂れる犬(の像)がいとおしい。
* 南に走って八戸市にはいる。
市内には見どころがいくつかあって、おおむね西から東へ見ていく。
■ 櫛引八幡宮
青森県八戸市八幡字八幡丁3 tel. 0178-27-3053
http://www.kushihikihachimangu.com/
八戸の市街地から西にはずれたところにある。
観光バスがとまり、数人のグループがガイドさんに案内されて見てまわっている。
三沢基地の米軍の軍人とその家族らしき外国人団体もいた。
司馬遼太郎一行がここに来たとき、八戸市立図書館長の西村嘉氏が案内に同行してきている。 司馬が気にかかっていた甲冑のことを尋ねると、西村氏が「新築の宝物殿に収蔵しています」とこたえている。 そのあと神社の禰宜(ねぎ)が宝物殿のカギをあけて司馬を中に導いている。 今は「国宝館」として400円で公開しているが、かつては常時公開はしていなかったのかもしれない。 須田剋太『八戸櫛引神社所蔵の鎧』 |
須田剋太が八幡馬も描いている。
八幡馬は境内の何カ所か置かれてあり、小さな複製がみやげ品として売られている。
須田剋太『八戸の八幡馬』 |
■ 根城の広場
青森県八戸市大字根城字根城47 tel. 0178-41-1726
根城(ねじょう)は14世紀につくられた南部氏の居城。
ここで須田剋太は3点の挿絵を描いている。
広そうなのでやみくもに歩いても見つけられない不安がある。
駐車場に車を置いて根城の区画内に入ると、ボランティアの案内の人たちが団体向けの説明をしているところだった。
手のあいていそうな人に挿絵を見てもらって場所をたずねると、こんなふうに教えられた。
・城跡は長く私有地だったし、なかを貫くようにして国道104号線がつくられたりした。
・1978年から11年にわたる発掘調査と、9年間の復元整備によって、史跡公園としてととのえられた。
(『街道をゆく』の取材は1971年だったから、まだそうしたことが始まる前のこと。)
・「史跡根城阯」の石柱は、国道に近いところにある。
そばにあった門は移築され、公園全体の入口になっている。
なるほど、団体の人たちが説明をきいているすぐそこに門があり、門をくぐってしばらく歩くと石碑があった。
須田剋太『八戸根城阯』 かつて隣りあっていた門と石柱が、今は離れている。 |
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司馬遼太郎の文章では、リンゴの木が植えられているが、ほこりをかぶっているふうだったり、枝に大根が干されていたりしたとある。
須田剋太の絵でも、本丸跡の標柱の脇に、鉄条網に囲まれたリンゴ園が描かれている。
今はすっかり整備され、リンゴの木はなくなっているが、栗、柿、桃、梅など、「実のなる木」を植えた一画があって、ちょっと似た風景ではあった。
須田剋太『根城本丸跡はりんご畑ばかり』 |
中に進んでいくと、なだらかにうねる丘に遊歩道をつくってある。
木橋を渡った先の本丸は有料になる。
須田剋太の絵では、「本丸跡」の標柱が立ち、周囲は久しく放置状態にあるように見える。
今は一帯が整備され、主殿、納屋、馬屋などが復原されている。
以前の寂しいような眺めも僕は好みだけれど、復元してここに何があったと示されるのも思いが具体的になっていい。
須田剋太『八戸市内根城跡』 |
* 八戸市街中心部に入る。
昼を過ぎているので食事をしたいけれど、駐車できる店が見つからない。
あと行きたいところは歩ける範囲だし、食事の店も歩いていけばみつかるだろうと、今夜予約してあるホテルの駐車場にいったん車を置き、チェックインをすませた。
ホテルのとなりのビルの地下にいくつか店があり、中華の店に入ってラーメンを食べた。
■ 八戸市立図書館
青森県八戸市糠塚字下道2-1 tel. 0178-22-0266
http://www.lib.hachinohe.aomori.jp/
八戸市立図書館の西村嘉氏が、司馬遼太郎一行が訪れたとき、根城などを案内されている。
たまたま中央公論の『日本の名著』の安藤昌益の巻を担当した岩田君という私の友人が私の八戸ゆきを知って、「八戸へいらっしゃるなら連絡しておきましょう」ということで、市立図書館に籍をおいておられる西村嘉氏に電話をかけ、わずらわせてしまった。 |
須田剋太の絵に『安藤昌益在世当時の八戸市街図 八戸市立図書館西村嘉氏作成(模写)』がある。 図書館に行けばこの絵のことがわかるかもしれないと行ってみた。 司書の方に尋ねると、西村氏は八戸の歴史や自然を研究し、多くの著作物があるとのこと。 司書の方が、この絵に関わりがある資料を選んで出していただいた。 (画像をクリックすると拡大します) |
そのなかに、もと南部家に伝わり、今は図書館の所蔵になっている『文久改正八戸御城下略図』があった。
毛筆でかかれた原図を、西村氏が今の時代に見やすいようにかきおこしたものが上記の『日本の名著』に掲載され、それを須田剋太がまた挿絵にかいたのだった。
須田剋太『安藤昌益在世当時の八戸市街図 八戸市立図書館西村嘉氏作成(模写)』を一部拡大 | 八戸市立図書館所蔵『文久改正八戸御城下略図』を一部拡大 |
左は、上の須田剋太『安藤昌益在世当時の八戸市街図 八戸市立図書館西村嘉氏作成(模写)』のうち、左下にかかれている地図の城付近を拡大。
右は、八戸市立図書館所蔵の『文久改正八戸御城下略図』の、やはり城付近を拡大。
西村嘉氏が作成した市街の模写図は、現代の人が見ても現市街と見比べやすいように、道は直線でかき、文字は活字体で入れて、カキッとした説明図になっている。
それをまた須田剋太が模写すると、もとの絵図の印象に近づいてしまっているのがおもしろい。
安藤昌益の『自然真営道大序』の原典は東京大学の図書館に所蔵されているが、この図書館では東京大学から許可されてそっくりコピーしたものを所蔵している。
須田剋太の上記の絵には、右上にその表紙が描かれている。 一見すると表紙の写真をコラージュしているかのようだが、見比べてみると違うもので、須田剋太はすっかり表紙を自分で描いている。 和紙が時間を経て擦れたようになっている感じまで表現している。 須田剋太『安藤昌益在世当時の八戸市街図 八戸市立図書館西村嘉氏作成(模写)』の右上部分を拡大 |
須田剋太『安藤昌益』 |
『街道をゆく』の挿絵にもう1枚、『安藤昌益』という絵がある。 これも『自然真営道大序』からの模写。 構図はほとんど原本どおりだが、人物はすっかり須田剋太らしく描いている。 「自然真営道第一巻の末尾挿絵は昌益の字書学的説明で右の人物はかれの風貌を伝えたものではないかといわれている。」という一文を画中に加えている。 |
安藤昌益の資料からいくつも念入りに挿絵にとりいれていて、須田剋太は安藤昌益にひかれるところが大きかったようだ。
図書館で司書の方が用意された資料を見ているうち、『八戸地域史』第34号のあとがきに、西村嘉氏についておもしろいことが書いてあった。
西村氏は、図書館に在職中、歴史や自然科学など広い関心と知識があり、後進の人材を大勢育てた。ところが「忽然と八戸からきえ」て、岩手県陸前高田市でひとり釣りを楽しんでいるとある。
地域文化の中心にいた人が、なにかしら避けがたい事情があるというのでもなさそうなのに他に移ってしまうということは、とても珍しいことだろうと思う。
それでも、かなりの高齢になっているが、今でも八戸で安藤昌益に関わるイベントがある折りなど、元気に姿を現すという。
これまで須田剋太がなにかしらの資料から模写して描いたらしい挿絵はいくつも見てきたが、出所がはっきりわかったのは初めてのこと。
図書館で大きな収穫があった。
* 八戸市街を国道340号線が貫いていて、表には商店街があり、少しはずれると住宅街になる。
願栄寺は表通りから200mほどはいったところにあった。
■ 願栄寺
青森県八戸市十一日町58-1 tel. 0178-22-1402
寺の本堂は建て替わって間もないらしく新しい。
ここで須田剋太が描いた絵には「安藤昌益の墓か 八戸市願栄寺」
と文字がかきこまれている。
上:願栄寺にある「安藤氏」の墓 左:須田剋太『安藤昌益の墓か 八戸市願栄寺』 |
特定の墓を探すのにひどく苦労するほど広い墓地ではないのだが、なかなか見つからない。
大きな木が並ぶ道にあると思いこんだのがいけなかったようだ。
木はなく、まわりの墓もすっかり新しくなっているなかに、取り残されたように1つ、「安藤氏」と刻んだ古い墓があった。
本堂の改築にあわせて、墓地も整理されたようだ。
安藤昌益は秋田県大館市で1703年生まれ、大館市で1762年没。
その間、1744年から58年まで、八戸で医師をした。
墓は大館市の温泉寺境内にある。
八戸の願栄寺にある「安藤氏」の墓は、須田剋太が訪れたころは安藤昌益の墓という説があった。ただし当時も確定していたのではなかったということだろう、剋太の絵にかかれた文字では、「安藤昌益の墓」のあとに小さく「か」の字が加えられている。
今は大館市の墓が安藤昌益のものと確定しているようだ。
● 八戸ワシントンホテル
青森県八戸市十三日町7 tel. 0178-46-3111
日が暮れて、車を置いておいた340号線沿いのホテルに戻る。
● らぷらざ亭
青森県八戸市六日町13 tel. 0178-72-5587
八戸中心部には、みろく横町とか花小路とか、飲み屋が並ぶ細い通りがいくつもあって、街に活気がある。
「日本一の銀サバの刺身ございます」という看板のある店で夕食。
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第3日 陸中海岸を南下して田老へ [種差海岸 洋野町立歴史民俗資料館 清光館跡 巽山公園 小袖海女センター 三陸鉄道久慈駅 渚亭たろう庵(泊)] |
* 八戸市街を西へ抜けて、太平洋岸にでる。
■ 種差海岸
青森県八戸市
司馬遼太郎は種差海岸についてこう書いている。
どこかの天体から人がきて地球の美しさを教えてやらねばならないはめになったとき、一番にこの種差海岸に案内してやろうとおもったりした。 |
須田剋太『八戸市種差海岸』 |
たしかに独特な景観ではある。
ゆるやかに起伏する海岸は草でおおわれていて、海べりは岩がゴツゴツしている。
明るく雄大。
草地のあちこちに小さな穴があいている。
作業服を着た人がバケツと小さなシャベルを持ってまわっているので、何をしているのかきいてみると、モグラがあけた穴を土でふさいでいるのだという。
モグラたたきというゲームを思い出してしまった。
まだ朝早い時間で、草地では太極拳をしているグループもあった。
* 国道45号を南下。この旅はこのあと釜石まで、主にこの道に沿って下ることになる。
青森県から岩手県に入ると、最初の町が洋野町。
岩手県立種市高等学校の前を通る。
2013年のNHK朝ドラ「あまちゃん」のヒロインの出身校のモデル。
車を止めずに走り抜けたが、あまちゃんが潜水実習をしたプールのある校舎が、校門から見える位置にあったようだ。
■ 洋野町立種市歴史民俗資料館/清光館跡1
岩手県九戸郡洋野町種市第23地割27-1 tel. 0194-65-3943
須田剋太が『柳田国男先生の宿った宿 小子内海岸』を描いている。 それがどこか、旅行前にいちおう調べてはあったが、今の状況についてわかりにくいところがある。 地元の資料館なら確認できるかもしれないと考えて寄ってみた。 行程上も、南に向かって走っていると都合よくその宿の地点より手前にある。 |
柳田国男は『浜の月夜』と『清光館哀史』に、この宿のことを書いている。
1920年、たまたま旧盆の日にここに泊まった。
夜には女たちが共同井戸のわきの道で輪になって盆踊りするのを見た。
6年後の1926年、鉄道が開通して近くの陸中八木駅まで来たとき、思い出して懐かしくなり、清光館まで行ってみた。
すると、家はなくなり、石垣だけが残っていた。
主が漁にでて嵐にあって遭難し、妻は子供と離れて久慈に働きにでているという。
いくらあればかりの小家でも、よくまあ建っていたなと思うほどの小さな地面で、片隅には二三本の玉蜀黍が秋風にそよぎ、残りも畠となって一面の南瓜の花盛である。(中略)運命の神様もご多忙であろうのに、かくのごとき微々たる片隅の生存まで、一々点検して、与うべきものを与え、もしくはあれほどの猫の額から元あったものをことごとく取り除いて、南瓜の花などを咲かせようとなされる。(『清光館哀史』柳田国男) |
柳田国男の膨大な著作のなかでも、この2編は教科書にもつかわれたりして、よく知られている。
資料館では、九戸歴史民俗の会会長の酒井久男さんに、僕が持参していた地図と、グーグル・アースの該当地点のコピーを見ながら話をうかがった。
国道45号を海岸寄りにそれて陸中八木駅の前を通る細い道があり、旧街道になる。
その道を南に走ると、いちど鉄道を踏切で越える。(鉄道が山側、道が海側になる)
さらにいくと、今度は鉄道が高架になっているところをくぐる。(ふたたび鉄道が海側、道が山側になる)
清光館は(陸中八木駅から南に向かっていく言い方で)高架線のすぐ下手前、海側にあったという。(地図上では、鉄道の北、道の東側)
今は、その地点に案内板が立っているという。
酒井さんに『小子内小学校のあゆみ』という冊子をみせていただいた。
1976年に創立百周年を迎えたときに刊行された記念誌で、ずいぶん歴史の長い学校だが、今は統合されてないという。
そこに清光館のことが、「隣に住んでいたという小砂子鶴松さん」からの聞き書きとしてかなり詳細に書かれている。
宿は1901年(明治34年)ころ、菅原連次郎という人が久慈から移ってきて開業した。
はじめは「旅人宿」と看板を掲げていたが、連次郎さんのアイデアで「清光館」というロマンチックな名にあらため、近くの「なや」という酒場の主人が看板をかいた。
小砂子鶴松さんからきいて描かれたという清光館のスケッチ図も掲載されている。
柳田国男の文章から想像されるほど小さくないように見える。
1901年に建って1920年に泊まったのだから、ひどく古くもない。
ただ、海に近いから、潮風にさらされて風化が早いということはあるかもしれない。
1軒ずつ設計図をかいて建てるわけではなく、同じ大工さんがあちらの家もこちらの家も建てるから、似たような家ができあがる。
この絵と似た家が今も近くにあるとのこと。
記念誌の該当ページのコピーをいただき、礼をいって資料館を出た。
資料館内の潜水具の展示。ガラスケースを水中に見立てていて、おもしろい。 |
* 国道45号を南下する。
左にそれる細い道に進んで、陸中八木駅の前にでる。
■ 陸中八木駅
岩手県九戸郡洋野町種市
駅は、柳田国男の2度の来訪-1920年と1926年-のあいだの1925年に開通している。
2008年に新駅舎が完成。
2011年3月11日の東日本大震災では、八戸線は全線不通になり、2012年3月17日に運転再開した。
駅舎は小さいし、駅前は広場になっているが、ひっそりとして、人の姿が見えない。 ホームのすぐ向こうに海がある。 |
* 駅前の細い道をさらに南へ走る。
いちど八戸線の踏切を越え、次には高架の下をくぐる手前に、民俗資料館で教えられたとおりに、清光館跡の案内板が立っていた。
■ 小子内(おこない)/清光館跡2
岩手県九戸郡洋野町小子内
左の写真の右はしに案内板がある。その向こうに見える石垣が、右の写真の中央にある石垣。青い高架はJR八戸線。 左の写真の左向こうは海岸で、司馬一行が訪れたあとにつくられた防潮堤がある。 |
「清光館の跡」という木製の案内板が立つ向こうには狭い畑があり、さらにその先、低い崖の裾に小さな家が1軒ある。
畑をすすんでいくと、もう1つ清光館の碑がある。
1984年につくられた碑で、こちらは石でどっしりして、こう文章を刻んである。
柳田先生の遺徳を偲び今は無き「清光館」の面影を抱いて訪れる人々のために、また後生の目標となるものを建立して、「小子内浜」を世にあらわした先生の恩義に報いたいと思います。 |
須田剋太の絵では、崖の下に2軒の家があり、すぐ先が海岸になっている。 上の左の写真の中央あたり、建物が1つ見えるあたりにこの絵にある家が建っていたろうか。 須田剋太『柳田国男先生の宿った宿 小子内海岸』(再掲) |
防潮堤に上がってみる。 防潮堤は須田剋太の絵にある崖の下まで延びている。この防潮堤をつくるために2軒の家が移転したかもしれない。 |
「1970年頃に(須田剋太の絵にあるように)崖近くにあった2軒の家が、防潮堤ができたあとになくなっている」ということを確かめられるか、旅行から帰ってから調べてみた。
25000分の1「陸中中野」の地形図の、司馬一行が訪れたころに近い1974年版と、その後の1986年版、2003年版。
国会図書館にある住宅地図で、司馬一行が訪れた時期の「久慈市・種市町・野田村1971」と、その後の「九戸郡種市町1988,1992,1995,1999」「九戸郡洋野町2013」。
それにグーグルアースの画像とを加えて、何度となく見比べてみたが、確信をもてる推移は見つけられなかった。
種市歴史民俗資料館で酒井さんにうかがったとき、清光館跡の位置に不安があったので、それを確かめたところで安心してしまったが、須田剋太の絵との関係を詳しくおききしておけばよかったと後悔した。
右のスケッチは、『小子内小学校のあゆみ』に、近くに住む人からの聞き書きとして描かれ掲載された清光館。 同じ大工さんが建てたから今も似たような家があると資料館の酒井さんが言われていたが、たしかに高架線をくぐった先によく似た表情の家があった。 |
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柳田国男は1920年、小子内に初めて来たときのことを『浜の月夜』に書いた。
1926年に来たときのことを『清光館哀史』に書き、宿がなくなっていることについてこう記している。
何を聞いてみてもただ丁寧なばかりで、少しも問うことの答のようではなかった。しかし多勢の言うことを綜合してみると、つまり清光館は没落したのである。月日不詳の大暴風雨の日に村から沖に出ていて還らなかった船がある。それにこの宿の小造りな亭主も乗っていたのである。女房は今久慈の町に往(い)って、何とかいう家に奉公をしている。 |
司馬遼太郎は『街道をゆく』にこう書いている。
(柳田国男が)そのつぎに小子内にきたとき、この懐かしいホテルが影もかたちもなかった。あの宿はどうしたのだ、ときくと、 「津波で流れてしまった」 と、事もなげに土地のひとは言ったという。 |
柳田国男が「そのつぎに小子内にきたとき」のことを書いた『清光館哀史』には津波で流されたと土地のひとが言ったとは書かれていない。
柳田国男の別の文章にあるのか、あるいは司馬遼太郎の思い違いか。
ただたしかに三陸海岸は、明治以後だけでも何度も津波に襲われている。
明治三陸津波(1896)
チリ沖地震津波(1922)
昭和三陸津波(1933)
チリ沖地震津波(1960)
十勝沖地震津波(1968)
東日本大震災(2011)
柳田国男の2度の訪問の間に、「チリ沖地震津波」(1922)に襲われているから、宿の主人が船で遭難死したあと、そのときの津波で家が流されたということはありうる。
清光館の案内板がある位置から道のほぼ向かい側に、大きな石碑が立っている。
「三陸津波記念碑」とある。 1933年(昭和8年)の津波のとき、東京朝日新聞が義援金をつのり、市町村に配布し、その残余金で碑を建てたと、裏面に簡潔に記してある。 表面には、次の地震と津波への備えの警告を刻んである。 一 地震があったら津波の用心 一 津波が来たなら高い所へ 一 あぶない所に家を建てるな 2011年の東日本大震災のとき、こうした教訓・警告が伝わり意識されていたところでは被害が小さかったことを、いくつも見聞きした。 |
『街道をゆく』では、尊敬の思いをこめて何度か柳田国男の名がでてくるが、このように具体的な地点で柳田国男の文章、司馬遼太郎の文章、そして須田剋太の絵とが重なるところはほかにはない。
須田剋太が描いた場所について、描かれた家について、確定的なことまでたどりつけなかったが、それでもここは特別なポイントという気がした。
* 久慈に向かう。
何点か、その道の途中で描いたらしき絵がある。
『八戸より久慈街道風景』には、馬と母子が描かれている。母の野良着は今でもあるかもしれないが、こどもが着物を着ているのは今はないだろう。 |
『久慈街道街頭』には、茅葺き屋根の家が並んでいる。 てっぺんがボーと煙のようなのは、頂部に根を張らせて強化するために草を植えた芝棟だろう。 |
僕が芝棟を知ったのは藤森照信の文章によってだった。
日本にだけあると思っていたらフランスのノルマンディ地方にもあって驚いたというような文章だった。(『天下無双の建築学入門』ちくま新書 2001)
日本では数が減っているが、北東北に、なかでも岩手県北部と青森県東部の「旧南部藩領」に多く残っているという。
藤森の著書によってか、近ごろ復刻版のような形で芝棟が作られているのを見ることがある。
まだ芝棟が注目されない頃、須田剋太の絵に記録されていたことになる。
『街道をゆく』の取材は八戸~久慈間の旧南部藩領を通っているが、このあたりであまり脇道に入ることはなかったろうから、表通りに芝棟の家が並んでいたことになる。
* 八戸~久慈の間では、久慈街道を高山彦九郎が通ったことが司馬遼太郎の文章にある。(司馬遼太郎は高山彦九郎を、取材能力と堅牢な文体から今でいえば小田実と本多勝一をミックスしたような人だろうという。)
須田剋太がこのときの挿絵に描いた『高山彦九郎』は、もとになった像が京都にある。
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鴨川にかかる三条大橋の近くにあり、御所の方角を拝んでいる。
これは何かの資料をもとにしたのではなく、須田剋太の住む西宮から近いから、直接目にしていたろう。
→ [ 大阪から奈良へ竹内峠を越え、京都でコンサートを聴く ]
もう1枚の『久慈街道を行く高山彦九郎』は、銅像をもとにして描いたらしきものと顔はそのままで久慈街道の風景にコラージュしたかのよう。 |
* 久慈市街にはいる。
駅周辺は、あとで三陸鉄道に乗るつもりなのであとにして、やや離れた巽山公園にまず向かった。
■ 巽山公園
岩手県久慈市中町1丁目
巽山公園は久慈駅の西方の丘にある。
(『街道をゆく』では「巽公園」になっている。)
久慈市出身で「柔道の神様」とあがめられた三船久蔵の記念碑がある。
丘の頂上に神社があり、そこから一段下がって広場になる境目のところにある。
かつては公園内に「三船記念館」があったが、今は「三船十段記念館」として新築移転したので、公園はひろびろしている。
展望台からは久慈市街の見晴らしがいい。
須田剋太『久慈市巽公園三船十段碑』 |
須田剋太の絵には、主柱の上の球がない。
絵を描いたときにはなかったのか、絵の構成上、省略したのか。
* いったん久慈市中心部から離れて、南東へ10kmほど海岸沿いの細い道を走る。
海岸に向かうのに、あいにく霧のような雨模様になってきた。
波も荒く、岩にぶつかって白くはじけている。
■ 小袖海女センター
岩手県久慈市宇部町小袖漁港 tel. 0194-54-2261
小袖海岸は2013年NHKの朝ドラ『あまちゃん』の舞台で、主役の天野アキが何度も潜ったところ。
夏の土日祝日には海女の実演がある。 僕らが着くと、ちょうど潜っているときで、見学料500円を払って間近に行く。 4人の海女さんが潜っていた。 傘がいるほどではないが、霧が流れる程度の雨が降っている。長袖に風除けを着ていてもうっすら肌寒い。 水も冷たいだろうが、海女さんたちは何度も潜って、ウニがとれると頭上に掲げてみせてくれて、拍手がおくられる。 |
15分ほどであがってくるが、そのあと殻をむく作業があり、濡れたまま寒くてたいへんそう。 ウニは量でもおいしさでもピークは過ぎているという。 |
小袖海女センターでは、もうウニ丼は売り切れ。 中のカフェで、『あまちゃん』で何度も見たまめぶ汁を食べた。団子のなかに黒砂糖とクルミが入っていて、うまい。海べなのに野菜ばかりなのは、もともとが山間部の食べ物だったからのようだ。 |
* 南に走って陸中野田駅へ。
この駅は三陸鉄道北リアス線17駅のうち、久慈から2駅目。
「道の駅のだ」が駅にあわせてあり、だから駐車場もあるので、ここに車を置く。
陸中野田12:29発に乗り、間に陸中宇部駅があって、久慈着12:42。
あとで久慈発14:10発に乗れば、陸中野田に14:23に戻ってこられる。
わずかだが北リアス線に乗り、久慈で1時間半ほど駅周辺を見てこようという段取り。
陸中野田駅の窓口で切符を買うと、久しぶりの硬券で390円。 同じ時間に出る宮古に向かう列車が先にホームに入ってきて、茶色の車体のわきに「クェート国からの支援に感謝します。」とアラビア語、英語も並べて書いてある。 |
僕らが乗った久慈行きはふつうの車両。 2両編成、ワンマン運転で、降りるときは運転手さんに切符を渡して前のドアから。 陸中野田駅から13分乗って久慈駅で降りる。 |
■ 久慈駅前ビル
『街道をゆく』の一行が久慈駅をおりたとき、昼食にしたいのに、飲食店らしい店が見あたらなかった。
やっと気づいたことだが、目の前にスーパー風の雑貨店があった。その店内ならそういう設備があるようにおもわれ、入ってみると、はたして親子丼いくらと書いたハリ紙がさがっていた。 ここで、トンカツとラーメンを食った。トンカツは私の旅の小さな心得のひとつで、こればかりは土地の都鄙(とひ)を問わず、味に上下がない。 |
トンカツでも味に上下はありそうに思うが、食については司馬遼太郎はほとんど執着することがない。
駅の観光案内所で「駅の目の前のスーパー風の雑貨店」についてきいてみた。
久慈駅前ビルがそうだろうという。
1階にある店がいくつか入れ替わっているが、雑貨店がはいっていたこともあるという。
駅前に立って見まわしてみて、なるほどほかに候補はなさそうに思える。
朝ドラ『あまちゃん』では、「北三陸市観光協会」が入居していた今やとても有名なビル。 1965年に建設され地上4階、地下1階。 司馬遼太郎らが訪れたのは1971年だったから、まだ新しかったころ。 老朽化と駅前再開発のため解体される方針という。 |
今は1階に観光案内施設らしいのと、コミュニティ関係の法人があるようだ。
のぼりや看板やポスターがいっぱいあるが、色あせているのが多く、ちょっとさびしい。
2階より上は、解体を前にしているので、もう使われていないようだ。
4階の上に一部展望室らしいのがとびだしている。眺めがよさそうだが、入れないのが惜しい。
午後1時近いが、僕らもまだ昼を食べていない。
(まめぶ汁でいくらかつないではいるけれど。)
駅内の売店のウニ丼は一日30食だかの限定販売で、とうぜんもうない。
町を歩いていっても手ごろな店がなくて、結局、巽山公園のすそにある「道の駅くじ やませ土風館」にはいった。
鉄道より車で移動する人が多いということか、駐車場は満車になっていて、レストランも満席で何人か並んでいる。
電車に乗る都合があって待つ余裕はないので、産直品売場でおにぎりを買い、外のテーブルで食べた。
リニューアルオープンした「あまちゃんハウス」を見てから駅に戻った。
■ 久慈駅
須田剋太は、一行が食事をしたと思われる駅前ビルの側から駅舎を描いている。
須田剋太『さいへての久慈 終着駅に人一人なし』 |
今、久慈駅は三陸鉄道とJRの駅舎が別々にある。 道の駅のほかは街の通りを歩いている人の姿は少なかったが、駅には人が多い。 |
左の赤いのが三陸鉄道の久慈駅 | 右にJR久慈駅 |
JR八戸線が八戸から久慈を結び、久慈から南は三陸鉄道北リアス線が宮古までを結んでいる。
司馬遼太郎の文章では、こう書かれている。
なるほど駅舎があり、小さな駅前広場があった。 「八戸線の終着駅ですね」 と、西村さんがいった。この駅からむこうはレールがないのだ、という。(その後、南方二十六キロにわたり久慈線が開通した)。 |
『街道をゆく』第3巻は1973年に刊行され、まだ久慈線は開通していなかった。(上記の引用文中「(その後、南方二十六キロにわたり久慈線が開通した)。」は、文庫本から追加された。)
久慈線が第三セクターの三陸鉄道へ転換されたのは1984年だった。
三陸鉄道の久慈駅の待合室。 『あまちゃん』の駅に似ている。 |
* 久慈駅発14:10発に乗る。
先にある島越駅からだったか団体客が乗るということで2両のうち1両が貸切になっていて、あとの1両はかなりの混雑になる。
僕らも立ったまま2駅乗った。
惜しいことにこの区間は海から離れて走っているので、海の景色は見えない。
陸中野田駅に戻って、道の駅にとめてあったレンタカーに乗る。
三陸鉄道に乗ってみる行程を組みこんであって「旅行社のツアーのようだ」と妻に驚かれる(あるいは呆れられる)。
『街道をゆく』「陸奥のみち」は、青森から久慈に南下したところで折り返している。
僕らは、東日本大震災後の三陸の風景をたどりながら、さらに南に向かう
■ 田野畑駅
岩手県下閉伊郡田野畑村和野
東日本大震災の津波は海抜20m以上の位置にあるこの駅まで迫り、駅舎は大きな被害はなかったが、駅周辺は壊滅的被害を受けた。
駅前に立ってみると、山に囲まれた駅というふうで、こんなところまで海から波が押し寄せるとは信じられないくらい。
2012年4月1日に、北リアス線は陸中野田駅からこの駅まで部分開通した。 その際に、キットカットをつくるネスレ日本(キットカット)協賛で「キット、ずっとカンパネルラ田野畑駅」として、駅舎前面の壁いっぱいに桜の花が描かれた。 |
2014年4月6日に、小本駅と田野畑駅間が復旧し、北リアス線の全線が運転再開した。
* 田野畑駅から宮古方面の次の駅が島越駅。
駅間は2キロほどと短い。
■ 島越駅(しまのこしえき)
岩手県下閉伊郡田野畑村
北リアス線、71.0km、17駅のうち、駅舎が流されたのは島越駅だけだった。 高い位置に新しい駅舎が見える。 周辺の工事が続いていて近づきにくそうなので、降りて見あげるだけで過ぎる。 |
* すこし走って国道45号線に戻る。
南下して、宮古市田老地区にはいる。
■ 田老
岩手県宮古市田老
田老地区には、高さ10m、2433mの巨大なX字型防潮堤がつくられていた。
1960年チリ地震では被害がほとんどなくて、津波防災の町として知られていた。東日本大震災では、それを越える津波が襲い、大きな破壊があった。
今夜の宿は、防潮堤がある街の中心部より海寄り、田老漁港を半ば囲むように着きだした岬にある。
45号線は、壊滅的被害を受けて建物がほとんど残らなかった地域を通っている。宿に向かおうとすると、土地の造成工事現場に進入していきそうで、道がわからない。
宿に電話して道をきいた。
ガソリンスタンドとJFがある角を海側に進むように教えられる。
(農協のJAはよく見かけるが、漁協のJFは、ここで初めてみた。)
防潮堤の下を海側へくぐりぬけ、坂を上がって海岸の崖の上にある宿に着いた。
● 渚亭たろう庵
岩手県宮古市田老字青砂里164-1 tel.0193-87-2002
この宿は、以前は今通ってきた防潮堤の内側にあった。
(翌日、帰り道にその位置を通った。津波被害の遺構として保存することが決まっていて、安全確保のための工事中だった。)
宿の主人が高い階から撮影した津波の映像を、ロビーに置かれた大画面の装置で見た。
津波の映像はたくさん見たが、まさにその地点というところで見ると一段と迫力がある。
津波の被害を受けたのに、宿はさらに海寄りに移ったわけだが、港を見おろす日和山のような高い位置にある。
僕らの部屋は海を見おろす眺めだったが、館内から別の向きを見おろすと、津波の被害をうけ、工事がすすむ一帯が広がっている。
宿は和風の意匠をいかしてモダンな感覚でデザインされている。
高級旅館で、部屋のなかに大きな壺のような浴槽があり、時間予約制の貸切露天風呂もある。
食事は別の個室に用意される。
外は暗くなっているので大きなガラス戸にブラインドをおろしている。
食べているうちにブラインドの向こうに白い明るい小円が光っているのに気がついて、駐車場の照明灯かなにかかと思ってブラインドを開くと、晴れて満月が光っていた。
海面に反射もして、縦長おvv1R?b z]'_#Ӑثcw#F/9_` ~p?ɑv^AP@Sg$1Fx 14_0fmdje4)3#/f0N@H]˵vTLyaػ%} =[iwحQ%U'50dvRGY,ݿ2C"} 0,qJS-TG㛱G`k S9ܭtQ! H,WamjZ.3y "Fx{|RvF X6Rq1*_vkfWIMsVdE]iE$t . җc:}SM' L #Wqo t ߸KY^){;3c
[閉伊川河口 鯨と海の科学館 吉里吉里駅 大槌町役場 釜石市商店街 遠野駅 宮守川橋梁]
* 朝、宿を出て、坂を下り、保存工事中のたろう庵の旧館わきをとおる。 防波堤をくぐり、カーナ+=c)hht#C1-ݑxS͎<YjI41 |