吹上小学校−郷里の木造校舎


◇ 吹上小学校

僕の家から歩いて10分ちょっとのところに母校の小学校がある。
埼玉県北部の鴻巣市にある吹上小学校で、吹上町が2005年に鴻巣市に編入される前、僕らが通ったころは吹上町立吹上小学校といった。
木造校舎はあたたかみのあるもので、階段の踊り場や廊下を雑巾をもって掃除したことが、とくに印象的な情景として記憶に残っている。小さな図書室で冒険記を読んで心をときめかせたことも懐かしく思い出される。
今も日曜などに散歩にいくと、少年野球のチームが練習していたりする。バックネットあたりも昔と変わらないし、そこから眺めると2階建ての校舎がゆったりと広がっている。

吹上小学校・西玄関 吹上小学校・正面玄関
吹上小学校・うだつのある校舎 吹上小学校・校庭からの全景

この学校が近く解体される予定で、このところあらためて愛着を覚えるようになった。
吹上小学校のすぐ近くにある吹上図書館に行って『吹上町史』をみると、吹上小学校は1889年に吹上尋常小学校として、今とは別の位置に創立されている。
現在地での校舎の建設にあたっては、1930年に、元荒川の改修工事で余った土砂で水田を埋め立てて敷地を造成したとある。
その後1935年に建設工事が始まり、1936年に竣工し、現在地の新校舎に移転している。

土地の造成から着工まで5年もかかっているのが不思議に思える。
『吹小新聞』1959.10.1号は開校70周年記念の特集として組まれている。
移転期に校長だった代田快之助の文章によると、移転に反対する人があったこと、大蔵省からの借入金では足りないので卒業生有志の寄付を集めたことが書かれているから、そうした調整と準備に時間がかかったのかもしれない。

完成した校舎は、当時としては先進的な意匠の建築で、『吹小新聞』には「県下に誇る学校」とか「埼玉県一と自慢した」といった表現がでてきて、多くの視察者が訪れたという。

吹上小学校・完成記念絵はがき 完成記念に発行された絵はがきから。今は住宅に囲まれているが、当時まわりは田んぼばかり。刈り取られた稲の束が並んでいる。

(新校舎が建った1936年は、僕の関心に基づく歴史のものさしでいうと、ブルーノ・タウトが日本を離れてトルコに発った年にあたる。高崎に住んでいたタウトは、下関港から旅立つために高崎駅から乗車して上野駅にまず向かった。この小学校のそばの線路を通り過ぎたとき、もしかしたら目にしたかもしれない−といったら想像が過ぎるだろうけれど)

須田剋太の父の代五郎は1895年から1925年まで吹上小学校の校長を勤めた人だった。初めて校長になったのがその1895年の吹上小学校で、以後57歳で亡くなるまで、同じ学校で30年間校長をしていた。
今、吹上小学校には、須田代五郎校長の顕彰碑が建っている。
1980年の顕彰碑除幕式には、当時、西宮市に住んでいた須田剋太も来訪して旧友たちと会っている。
(ただし須田代五郎校長が勤務し、須田剋太が通学したのは、現在地に移転する前の校舎だった)

僕が在校していた頃の1959年に、吹上小学校は開校70周年を迎えて、前記の『吹小新聞』記念号が発刊されている。
そのときトップにいた清水義治校長の祝辞の文章が載っていて、顔写真もあって懐かしい。毎週月曜の朝だったかに、校庭の朝礼台の上から訓話をしていた姿を思い出す。表情をかえず、謹厳実直そうに語り、聞く側としては率直にいって退屈だった。
特集号では、旧職員や卒業生の思い出話のなかに、須田剋太も短い文章を寄せている。
すでに兵庫県西宮市に移っているが、活躍している卒業生ということで依頼がいったのだろう。肩書きは「抽象画家」となっている。
その文章には
幼い時からの清水先生の一切を知っている私には自分の年をとったのは忘れて、如何にしても清水義ちゃんの校長先生のイメエージが浮かんでこない!
とある。
僕らにはカタブツに見えた校長先生だったが、小さいころはイタズラっこかワルだったか、とにかくまじめな優等生ではなかったらしいと推測できる。
校長先生にしてみれば、「かっちゃん(須田剋太の本名は勝三郎で、幼いころ仲間からはそう呼ばれていた)は幼ななじみだから祝辞を書いてくれるだろう」ということで依頼したのかもしれないが、こういうことを暴露されて困惑したかもしれない。
幼ななじみにしても、晴れがましいところに公にする文章だから、それなりのいいようがありそうなものだが、さすがに須田剋太というべきか、「!」マークまでつけて思いのままに書いている。
最後は「健闘されている清水義治校長先生、しっかり吹小のために闘って下さい!」と励ましの言葉で結んでいるが、この一文にもいくらか「信じられない」という気分がまじっているようでもある。

◇ 新佐賀橋〜昭和病院

吹上小学校から町並みを北にたどると元荒川が流れている。
行田に向かう道に新佐賀橋という橋ががかかっていて、2012年度に土木学会による「選奨土木遺産」に選ばれた。
土木遺産には、ほかにどんなところがあるのだろうかと見てみると、琵琶湖疏水の発電施設群とか、三国港エッセル堤だとかある。土木の専門書だけでなく、歴史書とか、観光案内とかに掲載されているような有名なものが並んでいる。
近所にあって、ふだんなにげに渡っている小さな橋が、そんなたいそうなものだったのかと驚いた。
(http://www.jsce.or.jp/contents/isan/)

あらためて見に行ってみると、短い橋だが、ていねいに考えてつくられ、今どきの橋にはない装飾が施されている。
竣工年は「昭和八年」と記してある。
(その昭和八年=1933年は、また僕のものさしでいうとブルーノ・タウトがナチスのドイツから逃れて日本にやってきた年のこと。そういう時代に僕の地元ではこういう橋が造られていた、という感慨がある。)

新佐賀橋 新佐賀橋・雪景色

吹上小学校と元荒川のあいだに昭和病院がある。
今もレトロ・モダンなすてきな建築を目にすることができる。
建ったのは吹上小学校と同じ頃で、同じところから部材を調達した。小学校が着工に手間取ったので、小学校より早く、1932年に完成している。
部材も施工者も同じために表情が似ている。
長い年月を経るうちには、いたみが生じているはずだが、補修や塗装など丁寧に手入れが施されているようで、きれいな姿を保っている。
病院がこの正面とは反対側(裏側)に病棟を増築したとき、そこにあった須田剋太の生家はそのために解体されて今はない。

昭和病院

◇ 解体される母校

吹上小学校の建設にあたっては、1930年に、元荒川の改修工事で余った土砂で水田を埋め立てて敷地を造成した。
新佐賀橋が架けられたのは1933年。
架橋が元荒川の改修工事の一連の事業だったかどうかは定かではないが、少なくとも改修をまって橋を架けるという段取りになるから、関連することは確かだろう。

元荒川の改修工事がすんで新佐賀橋が架かる。
改修工事の余った土砂で小学校の用地が作られ、1936年に新校舎ができる。
小学校と共通の部材を使って1932年に昭和病院ができる。
新佐賀橋、吹上小学校、昭和病院とつながって、そこに須田剋太の父、須田剋太の生家がからまって、昭和初期の歴史的情景が浮かび上がってくる。

新佐賀橋は土木遺産に選ばれ、昭和病院はきれいに手入れされて今も健在だが、吹上小学校は耐震強度が不足しているという理由で解体予定になっている。
2013年度に同じ校地内に新校舎を建てはじめ、2014年度に竣工。
2015年度に新校舎に移って授業をはじめて、現校舎を解体する−という日程が組まれている。
吹上小学校の解体は、このあたりの一連の歴史的の記憶の一部が失われるということもあるし、僕にとっても懐かしい風景を欠くことになり(もちろんほかの多くの卒業生にとっても同じだろう)、とても惜しいと思う。

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参考:

  • 『吹上町史』吹上町史編さん会 1980
  • 『吹小新聞』1959.10.1
  • 『我が学舎の歩み』吹上小学校百周年記念実行委員会 1989
  • 『画狂 剋太曼荼羅』加藤勉 邑心文庫 2003
  • 『埼玉県の近代化遺産』埼玉県立博物館編 埼玉県教育委員会 1996
  • 『埼玉の木造校舎』中島清治 さきたま出版会 1990