旧正月に中華街へ-「横浜散歩」


『街道をゆく』の「横浜散歩」をたどる。
司馬遼太郎一行の取材は1982年のことで、34年前。
みなとみらい21の再開発が始まる直前のことで、今では横浜駅から桜木町駅あたりの湾岸風景は大きく変わっている。
僕はみなとみらい21の再開発より前に横浜に住んでいたことがあり、その後もしばしば訪れていて、『街道をゆく』のほかの回より直接関わりがあって、思い入れが深い。
中華街の旧正月にあわせて出かけた。

* 湘南新宿ラインで横浜駅まで行き、根岸線に乗り換える。
電車は海岸沿いに走って、桜木町駅、次が関内駅。
桜木町駅を出ると「次は関内駅」と車内放送があった。
「駅」をつけるのは丁寧な人で、それがないと「次わかんない(次はわからない)」ときこえてしまう。
関内駅で降りて北口の改札口を出る。
西方向にのびている伊勢佐木町の商店街に向かう橋が吉田橋。


■ 吉田橋関門跡碑

明治維新で開港したとき、小さな横浜村に税関など貿易上の施設をつくり、外国人居留地をおいた。
その一帯に入っていくところに吉田川を越える橋がある。
橋のそばに関所を設けたので、橋の先は関内とよばれた。
今の大横浜にいたる発祥の地で、関内の土地、関内ということばが、独特の重みをもつことになった。

関内駅から伊勢佐木町の商店街に向かうには、かつての吉田川が高速道路になっているのを越える。

吉田橋に行ってみると、橋の下に水がなく、高速道路が走っている。まわりは都市計画的に気分よく仕立てかえられており、市がこの橋付近をいわば臍として敬意をはらっていることがわかる。(『街道をゆく 21』「横浜散歩」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1983。以下、引用文について同じ。)

司馬遼太郎はさらっと書いているが、戦後、横浜の主要地が占領から返還されたあと、今の横浜が「都市計画的に気分よく仕立てかえられ」るまでを、先端的構想と大胆な実行力でリ-ドした田村明が『都市ヨコハマをつくる 実践的まちづくり手法』という著書に記している。
東京日本橋のように上に高速道路を通さず、赤レンガ倉庫を解体しないでファッショナブルな施設に衣替えして残すなど、歴史的遺産を生かしながら現代の都市に再生していった様子がよくわかる。

須田剋太『横浜馬車道吉田橋』 吉田橋
須田剋太『横浜馬車道吉田橋』 まっすぐ行くと伊勢佐木町通り。


上の右の写真の欄干から。
下を川ではなく(防護用の網があって見えにくいが)車が流れている。
左に関内の高架駅がある。
吉田橋

● グリル桃山
横浜市中区伊勢佐木町2-9-3 tel.045-261-6955

伊勢佐木町の通りからわずかに横に入ったところにある老舗の洋食の店に入る。


僕はカニクリームコロッケ。
かつて麦田町でひとり暮らしをしていたことがあり、麦田町は石川町(元町の最寄り駅)と根岸駅の中間くらいにあった。
根岸駅の近くに洋食の店があり、そこでカニクリームコロッケを食べるのは、そのころの僕の暮らしのなかではたまのぜいたくだった。
妻は牡蠣フライランチで、大粒のカキがおいしかったという。
グリル桃山

* 伊勢佐木町の通りを関内駅方向に戻る。
かつて左側に三越があったが、今はほかの店にかわっている。
右側に有隣堂は変わらずにあって、軽く店内をとおりぬけて懐かしい。
吉田橋を渡り、根岸線のガードをくぐる。
海に向かう道は馬車道で、その名に文明開化の残り香がある。
日本大通りを左に曲がると、角に横浜第2合同庁舎のビルがある。
法務省や財務省などの地方局が入っていて、国土交通省の機関として第三管区海上保安本部もある。


■ 第三管区海上保安本部
神奈川県横浜市中区北仲通5-57 tel.045-211-1118
http://www.kaiho.mlit.go.jp/03kanku/

司馬遼太郎一行が『街道をゆく』の取材で訪れたころには、第三管区海上保安本部は今よりわずかに北西の位置に独立した庁舎をもっていた。

 このとき、すでに退庁時刻に近かったが、ともかくも受付に来意を告げ、係のひとに会わせてもらい、この敷地の過去についておよそのことを知った。

「この敷地の過去」というのは、旧幕府が造成した土地ということで、司馬遼太郎は以下のようなことにも注目している。
 おもしろかったのは、旧役宅であるこの敷地内に、いまも海上保安本部の職員住宅-鉄筋の団地式の建物-の列がならんでいることだった。

須田剋太『横浜市燈台局発祥の地』
須田剋太はここで2枚の絵を描いている。
1枚は『横浜市燈台局発祥の地』。

司馬遼太郎の文章に、
 こんども、古なじみの家でもたずねるように、門を入り、建物の前の芝生に、
「灯台局発祥の地」
 という木柱がたっていることに気づいた。以前ここにきたときには無かったような気がする。
とあるのに対応する木柱が描かれている。
絵では、その右にもうひとつ記念物らしきものがあって、「燈台補給船若草の錨」という文字もかきこまれている。
灯台補給船というのは、僕には耳慣れない言葉だ。
灯台は、海を航行する船に位置を知らせるものだから、岬の先端など陸地のへりにある。
しかも高いほうが遠くから視認されやすいから、できるだけ高い位置が選ばれる。
したがって灯台への交通は不便で、まだ道路が整備されていなかった時代には、灯台への物資の補給は海路、船で近づいて行われた。
その役をになうのが灯台補給船で、全国の灯台を回っていた。
やがて陸路が整備されて補給船は役目を終え、灯台局発祥の地に錨が置かれた。


第三管区海上保安本部は、元あったのと同じ街区にある合同庁舎のビル内に移転している。
第三管区海上保安本部


かつての庁舎は解体され、駐車場になっている。
「灯台局発祥の地」という木柱も、錨も、今はなくなっている。
第三管区海上保安本部の跡の駐車場

第三管区海上保安本部に照会すると、調べたうえ、錨は今は野島崎灯台に置かれていると回答が送られてきた。
関連資料も添えられていて、ありがたいことだった。
(その後、房総半島の南端にある野島崎灯台に錨を見に行った→[若草丸の錨を追って野島崎灯台へ-「横浜散歩」つづき])

須田剋太『横浜市中区北仲通り 第三管区海上保安部跡』
須田剋太が描いたもう1枚の挿絵は『横浜市中区北仲通り 第三管区海上保安部跡』。
ビルが建っていて、手前の門か塀らしきものの上に「北仲通宿舎」と施設名の標示がある。

「北仲通」は、第三管区海上保安本部の所在地だから、上記の司馬遼太郎の文章にある「いまも海上保安本部の職員住宅-鉄筋の団地式の建物-の列がならんでいる」ところを描いたのだろう。
不思議なのは、須田剋太が最後に「跡」の1文字を加えていること。
須田剋太が描いた絵をたどっていると、謎をかけられることはこれまでもいくつもあったが、また新たな謎をかけられた。

絵と文章をめぐる時間のことを考えると、もともと司馬遼太郎の文章にもやや読みにくいところがある。
司馬遼太郎は前にも『胡蝶の夢』を書いているとき、このあたりに来たことがある。
退庁時刻に近かったが敷地の過去について教えてもらったというのは-さらっと読んで僕は『街道をゆく』の取材のときのことと思ってしまったのだったが、読み直してみると-前のときのことになる。
それで「こんども、古なじみの家でもたずねるように、門を入り」となり、このとき「灯台局発祥の地」という木柱がたっていることに気づいたのだった。

須田剋太は、『街道をゆく』の挿絵を描くにあたって、現地では手早くスケッチして、帰ってからあらためて仕上げていた。
1つの可能性としては、『街道をゆく』の取材で訪れたときは、第三管区海上保安本部はもとの位置にあり、帰ってから絵を仕上げるまでのあいだに新庁舎に移り、それを知った須田剋太が「跡」の1文字を加えた-ということがありうる。
ただ、これも第三管区海上保安本部に若草の錨のこととあわせておたずねしたのだが、移転はずっとあととのことだった。
「跡」の謎はこれ以上ときようがない。

 敷地のなかを横切って海ぎわまでゆくと、草などが茂り、護岸工事のぐあいも、旧幕のころとまでは思えないが、年代は経っている。須田画伯が空を見あげて、淡青なガラス板に綿くずを散らしたようなうろこ雲を見つめていたが、やがて、
「あの雲が出ると、秋ですね」
 と、つぶやいた。(中略)不意に、天は変らず、地の人だけが変ってゆくという平凡な情念が、敷地を歩きつつしきりに去来した。ただ、人は果てることなく何事かを継承してゆく。

* 第三管区海上保安本部が入っている横浜第2合同庁舎のビルが建つ交差点から北西へ桜木町駅に向かう道を行く。
右側が、もと第三管区海上保安本部があったところで、今は駐車場になっている。
左に広い工事現場があって、横浜市役所がここに新築されている。
大岡川の河口にかかる橋を渡る。


今日はみなとみらいの観光的中心部へは向かわずに、汽車道に折り返す。
汽車道

■ 赤レンガ倉庫

須田剋太が赤レンガの建物と引き込み線を描いている。
建物は1911年と1913年に建った保税倉庫で、港と駅を結ぶ部引き込み線も作られていた。
保税倉庫は1989年まで、引き込み線は1986年までつかわれていた。
司馬遼太郎一行が訪れた1982年には、まだどちらも機能していた。
前述のとおり田村明らの構想が実現して、2002年に赤レンガ倉庫は文化・商業施設として再生し、そこに至る鉄道線路跡は「汽車道」として遊歩道になり、横浜の歴史を伝える横浜を代表する景観の1つになっている。

須田剋太『横浜(A)』須田剋太『横浜(A)』 赤レンガ倉庫

右の写真が今(2017年)の赤レンガ倉庫。
4階部分は建物の中央部にあるが、須田剋太の絵では建物の端の断面にあるように描かれている。


1996年工事中の写真。
時系列としては、「上左の須田剋太の絵-下右の写真-上右の写真」の順になる。
赤レンガ倉庫 1996年工事中の写真

* 横浜税関のほうに向かう遊歩道を歩く。

■ 象の鼻テラス

幕末、横浜港が開港したときに作られた波止場の1つが、直線ではなく、ゆるく湾曲していて、象の鼻とよばれた。
1923年の関東大震災で被災したあと、直線に近い形状で復旧した。
2009年に横浜開港150周年を記念して、元の湾曲した形に復元された。
小さな港の対岸のような位置に象の鼻パークという公園が整備され、象の鼻テラスという休憩施設が作られている。
ガラス張りで明るく、開放感がある。
水面を隔てた向こう側に象の鼻波止場跡があり、水と空が広々と展開する景色を眺めていると気持ちがいい。
先端が象の形に作られたソフトクリームを楽しむ。

■ 大さん橋

須田剋太『横浜港(B)』
外国航路の大型客船も発着する、横浜港の顔のような桟橋。
須田剋太『横浜港(B)』の絵は、港のうちのどこと特定はしにくいが、船を見送って手を振る人が描かれていて、大桟橋あたりだろう。 

横浜港大桟橋 大桟橋では1989年からの改修事業で国際コンペがおこなわれ、660件の応募からアレハンドロ・ザエラ・ポロ とファッシド・ムサヴィの設計が選定され、2002年に完成した。
桟橋といえば、ふつうにはコンクリートの平面に箱状のビルがあって、乗降場になっているが、ここでは自然の丘のように起伏が連続するウッドデッキが作られ、その下に船客ターミナルがくみこまれている。
桟橋の通念を破るような斬新さが心地いい。

横浜港大桟橋からのみなとみらい
ウッドデッキからはランドマークタワーや赤レンガ倉庫が並ぶ、みなとみらいの景観が一望できる。

クイーンの塔とよばれる横浜税関
大さん橋の根元にクイーンの塔とよばれる横浜税関の庁舎がある。
大さん橋からは腕を広げて訪れる迎え入れているふうで、海を正面として建築されたことがわかる。

■ 山下公園


1923年の関東大震災ででた瓦礫で埋め立て、造成されてできた公園。
道の向かい側にはホテルニューグランドや横浜マリンタワーなどがゆったりと並んでいて、みなとみらい21ができた今になっても横浜には欠かせない景色をつくっている。
みなとみらい21の都市づくりは大したものだと思うが、そんな発想がいきなり現れたわけではなく、「都市は創っていくもの」という精神風土があったのだろう。
そもそもひなびた横浜村が国際的な港としてデビューしていくこととなった誕生じたいに都市づくりの伝統の発端があるように思える。

司馬遼太郎は横浜についてこういう。

 たしかに、このまちは日本の他の都鄙(とひ)と異っている。都市に含有されている「成分」というべきものが多様で、こういうまちに育って成人したひとびとは、倫理的な骨ぐみや美的な皮膚感覚、さらには自己のなかの世界像が、どこかちがってくるにちがいない。(中略)
 横浜が神戸と異るのは、多くの文学作品の舞台になったということである。さらには、作家そのものをこのまちは幾人も生んだ。横浜の都市成分に、そういうものも、あるいは含まれているのではないか。

横浜という都市が、人が生き住んでいるところについて意識的にさせることがその理由だろうかと思う。

須田剋太『横浜港 山下公園』
須田剋太『横浜港 山下公園』
山下公園と氷川丸

須田剋太『横浜港(C)』 氷川丸の右にある灯台
須田剋太『横浜港(C)』

* 山下公園には氷川丸が繋留されているが、今日までの予定で改修工事中で、中に入れなかった。
氷川丸への桟橋の先端に白い灯台があり、『横浜港(C)』はその灯台が描かれていた。


● ホテルモントレ横浜

山下公園から道を隔てた向かい側にホテルモントレ横浜がある。
司馬遼太郎一行はここに泊まった。
当時はザ・ホテル・ヨコハマといい、1979年に開業したホテルに1982年に来たから、公園前に新しく現れたばかりの時期のことだった。
司馬遼太郎は直前に神戸に行っていて、やはり当時建ったばかりのポートタワーホテルに泊まり、2つのホテルを比べてこういう。

 横浜のホテルの場合、おなじ新築ながら、できたてのホテルに感ずる浮きたつような印象がすくなく、むしろ五十年も経つと、古色を帯びて重厚な風格が出てくるのではないかとおもったりした。横浜が風土としてもつ歴史意識がよく作用しているようで、両都の好趣という土壌が、こうもホテルに影響するものかと考えこんでしまった。

僕は1979年か1980年、やはり真新しかったころに来て泊まったことがある。
具体的なイメージは思い浮かばないのだが、ロビーあたりで見回すと、ほかでみたこと経験したことのない空間で、「こんなところがあるんだ」と目を見張るような思いで見回した記憶がある。
それから30数年の間に、もう一度だけ寄ってみたことがある。
時代が移り、僕もほかにいろいろなところを見てきて-ということか、やや古くさく、色あせてみえて、こんなに印象が変わってしまうことがあるものかと驚いた。

今はホテルモントレ横浜にかわっている。
中に入ってみると、モントレのホテルによくあるヨーロッパのどこかの国の伝統的室内というふう。
以前どんなだったかビジュアルな記憶はないのだが、今は新鮮でもなく、色あせてもいなくて、モントレらしく改装されたということなのだろう。

* ホテルモントレの西には神奈川県民ホールがある。
ここでキース・ジャレットのジャズ・ピアノのコンサートを聴いたり、マルセル・マルソーのパントマイムの公演を見たことがあるが、もうずいぶん前のことになった。
東へ歩いていくと、創価学会神奈川文化会館があり、ホテルニューグランドがあり、その次に僕らが今夜泊まるスターホテル横浜がある。
チェックインしておいて散歩に出た。


中央がスターホテル横浜。
その右がホテルニューグランド。
左にはすぐ横浜マリンタワーがあるが、それはあとで行くことにして、元町に向かった。
スターホテル横浜

■ 元町

元町の商店街を歩く。
商店街は山手の丘を背にしている。
その丘をトンネルで抜けた先の麦田町に、僕は学生のころ住んで、都心の大学に通い、横須賀の病院にアルバイトに通っていた。(→ [横須賀の聖ヨゼフ病院産婦人科と湘南病院精神科-立原道造/須田剋太]
祖母の友人の女性が一人暮らししていて、その古い家の広い2階を間借りしていた。
階段を上がった踊り場の窓から見あげると、丘の上にフェリス女学院が見えた。
元町に中古の家具を売る店があり、広い部屋で余裕があるから、大きな木の机と椅子を買った。
その後いく度か転居したが、そのつど大きな机を運んで、今も気に入って使っている。
今、元町の商店街に古い家具を売る店はない。
新しい家具を売る店はあるが、古い家具の店がかわったのか、まったく別の店か、わからない。

ユニオンというスーパーマーケットに入る。
おしゃれな店で、学生のころ、たまにここに買いに来たときは、スーパーマーケットとはいいながら、ふだんよりちょっと高めの、ちょっと贅沢をする感じだった。
かつては道路側のガラスの壁際に、道路に並行してエスカレーターがあったように思うのだけど、今は道とは直角方向にある。
ホテルでは朝食がないので、ここで明日の朝食を買った。
元町ユニオン

* 元町の商店街の中ほどから橋を渡って中華街に入る。
まもなく媽祖廟(まそびょう)がある。


■ 媽祖廟(まそびょう)

媽祖は、もともとは航海の安全を守る神だが、ほかにも苦難を越え願いを叶えるとして信仰されている。

媽祖廟
500円で長い線香を買って、廟内に記された番号順に線香を供えてお参りしていく。
ふつう日本のお寺や神社ではないスタイルでおもしろい。
さらに願いごとをするときは神に誰かわかるように、まず住所氏名をとなえることと指示されている。

名前はまあなるほどと思うが、住所のほうは宅配便か郵便配達みたいに幸運を届けてくれるのかとなんだか愉快な気がする。

■ 関帝廟

西暦100年ころの武将、関羽が祀られている。
ここも媽祖廟と同じスタイルで線香をもってお参りする。

● 慶福楼市場通り店
神奈川県横浜市中区山下町190 tel.050-5592-5037
http://www.keifukurou.com/

慶福楼市場通り店
今夜はホテルと中華街での夕食がセットになっているのを予約してある。
店はいくつかから選べるうち、慶福楼市場通り店にした。

料理はこんなふう。
 什景冷菜の盛り合わせ
 フカヒレの姿煮
 慶福海鮮鉄板焼き
 釜焼き北京ダック
 アワビのオイスターソース煮
 2種海鮮XO醤炒め
 車エビのマヨネーズ和え
 五目おこげ
 特製レタス海鮮チャーハン
 フカヒレスープ
 デザート

すごく豪華そうにみえるが、セット料金はたいした高額ではなかったから、本当だろうかとうっすら不安になるほだった。
店はこじんまりしている。
旧正月ということで街が混雑していることを予想していたのにふつうな感じだったし、この店も僕らのあとにぽつぽつ入ってくる人たちがあったくらいで、落ち着いている。
料理は、たしかに予告されたとおりのものがでてきたが、庶民的な中華料理という感じだった。
街の混雑も料理の豪華さも思ったほどではなかった。

* 海岸のほうに戻ってマリンタワーに上がった。

■ 横浜マリンタワー
http://marinetower.jp/

子どものころ父に連れられてきたことがある。
その後、わりと近くに住んでいたことがあり、離れたあともしばしば山下公園あたりまで遊びにきたことがあるのに、タワーには一度も上がらなかった。
今夜は旧正月だから零時にはにぎやかになるはずで、それまでの時間つぶしをかねて上がった。
夜10時半まで営業している。
エレベーターまで案内してくれた女性に
「子どものとき以来なのだけど、タワーができたのはいつですか?」
ときくと、1961年だという。
前はできてまもなくに来たのだった。
夜景がみごとだった。


マリンタワーから山下公園を見おろして撮った昔の写真。
裏をみたら1962年8月と父の字でメモしてあった。
横浜マリンタワーから山下公園

* 新年を迎える零時までまだ間があるのでホテルに戻って一休みする。

● スターホテル横浜
神奈川県横浜市 中区山下町11 tel. 045-651-3111
http://www.star-yokohama.com/

部屋は最上階で、港を見おろすバルコニーつき。


照明のおかげで氷川丸の形がくっきり見えている。
氷川丸 夜

須田剋太『横浜(B)』
須田剋太『横浜(B)』。
ザ・ホテル・ヨコハマからの眺めだろう。
たぶん下のほうに白い光が並んでいるのが山下公園、左上の光は大桟橋、右に氷川丸がある。

* 真夜中が近くなってまた中華街に歩いていく。
横浜中華学院の校庭がカウントダウンの会場になっている。
零時ちょっと前には、中に入ろうとする人の長い行列ができている。
今から列に並んで入れるものだろうかと思ったが、するすると列が進んで入れた。


■ 横浜中華学院での春節カウントダウン

校庭の中央に椅子が並んでいる。
僕らは中には入れたが椅子席はもうなくて、脇に立った。
前方には数本の柱が立っている。
カウントダウンのゼロのあと中国語で新年のあいさつをするので、進行の人のリードで何度か練習をした。
2月の深夜だが、寒さはゆるいほうで、たいした苦もなくしばらく待つうちに零時が近づいた。
カウントダウンが始まり、ゼロになったところで「新年快乐(シンニィェンクァィラ)!」と一斉に声が上がる。


そのあと獅子舞のショーがあった。
獅子は2人の人が前後に入って舞う。
数本の柱を飛びうつったり、えいっと向きを変えたりするので、スリリング。
横浜中華学院での春節の獅子舞

獅子に噛まれると幸運が訪れるとされていて、柱を降りてきた獅子が前方の何人かの頭を咥えた。

* ホテルに戻る。
道は、すっかり寝静まっているというほどではないが、いくつか店が開き、まばらに人が歩いているくらいで、静かだった。
ずいぶん前にやはり春節の夜、何人かで中華料理を食べる集まりがあった。
道のあちこちで爆竹を鳴らしてにぎやかだったように思う。
40年ほども前のことだから、街の様子がかわったのかもしれないし、僕の記憶ちがいかもしれない。


翌朝、ホテルの部屋で山下公園やみなとみらい21を眺めながら、きのう元町のユニオンで買ってきた朝食をとる。
ホテルを出て、きのうは入れなかった氷川丸に入った。


■ 氷川丸
http://www.nyk.com/rekishi/

太平洋を238回も横断して引退した船が、山下公園前の水面に浮かんで公開されている。

須田剋太『横浜港風景』

須田剋太『横浜港風景』

1932年にはチャップリンが乗り、1939年にはアメリカ公演の宝塚少女歌劇団が乗り、戦争中は病院船になり、戦後まもなくは引き揚げ者を運んだこともある。
2016年に、戦前で作られた貨客船の文化的価値が評価され、国の重要文化財に指定された。

僕が子どものころ父に連れられて横浜に来てマリンタワーに上がったとき、氷川丸も見物した。
氷川丸の太平洋横断の最終航海は1960年、解体予定もあったが惜しまれて観光船として山下公園に係留されたのが1961年だった。
マリンタワーの開業と同じ年で、どちらも公開されて間もないころだったことになる。
氷川丸

世の中全体がまだ余裕のない時期だったということもあるだろうが、父はあちこち子を連れて出かけるようなことは少なかった。
それでも出かけようという気にさせるほど当時人気があったのかもしれない。


横浜駅で。
駅名標示がとてもシンプル。
横浜駅 1962年

横浜ではビル街を歩いていても、少し歩いて抜ければ海があって、潮風が吹き抜けている。
砂浜の海岸でなく、都会の市街地からいきなり港の岸壁に出るので、市街地にいても海の予感があって開放的気分がある。
港から海外に通じているし、独創的なまちづくりのセンスが際だっているが、一方で港町には気楽なふうもある。
司馬遼太郎の言い方では
気風にいなせなところがあって、東京の下町に似通っている。
とある。
僕が住んでいた麦田町も、元町から歩いて数分で、横浜らしい中心地にごく近いところだったが、道の向かい側に銭湯があり、大衆食堂があり、学生の間借り生活でも暮らしやすかった。

前にも書いたとおり、そのころ横須賀の病院でアルバイトをしていた。
病院は京浜急行の追浜駅前にあった。
ふつうに電車で行くには、JR根岸線で石川町-関内-桜木町-横浜と行き、横浜で京浜急行に乗り換えて、戸部-日ノ出町-黄金町を通って追浜に行った。
ときどき関内で降り、伊勢佐木町をぶらぶら歩いて、黄金町から京浜急行に乗ったものだった。
横浜駅経由だと3角形の2辺を電車で行くが、伊勢佐木町経由で歩くと、関内→黄金町と近道できる。
ちょっとした距離を歩くから時間の短縮にはならないが、伊勢佐木町の散歩はのびやかで気持ちがよかったし、ときには黄金町駅の近くにクレオというロック喫茶に寄るのも楽しみだった。
今もこんなマッチを持っていて、見るたび懐かしい。

CLEOのマッチ 横浜 CLEOのマッチ 横浜

横浜にはちぐさとかダウンビートとか、ジャズの名店もあり、ジャズ系は広く認知されていて場所もわかる。
ロックの店は社会的認知度が低くて、いつのまにかなくなり、僕にはどこにあったか定かではなくなっていた。
ところが最近書棚からあふれた蔵書や展覧会のちらしや図録を整理しているうち、思いがけないものがでてきた。


ガリ版印刷のミニコミ紙で、ただしまいこんであっただけなのに、年月を経て、黄ばんで紙のふちがポロポロ欠けている。
その記事のなかにクレオの地図がのっていた。
のびやかなところにあったという印象があり、大岡川に沿った道だったかと思っていたのだが、国道16号の広い通りにあったようだ。
CLEOの地図 横浜橋

クレオはなくなっているし、道を錯誤しているくらいだから面影も見つけられそうにないにしても、次に横浜に行くときは地図をたよりにクレオ跡に行ってみようと思う。

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参考:

  • 『街道をゆく 21』「横浜散歩」  司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1983
  • 『横浜散歩』 畠山哲明 司馬遼太郎記念館会誌46号 2013
  • 『都市ヨコハマをつくる 実践的まちづくり手法』 田村明 中公新書 1983
  • 『80年目の記録-関東大震災といま-』 神奈川県立歴史博物館/編集・発行 2003
  • 『愁弾』第4号 横浜みなまた集団編集 しゅうだん社 1973.1.14号
  • 1泊2日の行程 (2017.1/27-28)(→電車 =バス …徒歩)
    第1日 関内駅…吉田橋…横浜弁天社(厳島神社)…グリル桃山…馬車道…第三管区海上保安本部跡…汽車道…赤レンガ倉庫…象の鼻テラス…大桟橋…山下公園…ホテルモントレ横浜(ザ・ホテル・ヨコハマ)…元町…媽祖廟…関帝廟…スターホテル横浜…慶福楼…マリンタワー…横浜中華学院(春節)
    第2日 氷川丸=横浜駅