「横浜散歩」-旧正月に中華街へ
『街道をゆく』の「21横浜散歩」をたどる。
司馬遼太郎一行が歩いたのは1982年だった。
みなとみらい21の再開発が始まる直前のことで、今では横浜駅から桜木町駅あたりの湾岸風景は大きく変わっている。
僕はみなとみらい21の再開発より前に横浜に住んでいたことがあり、その後もしばしば訪れていて、『街道をゆく』のほかの回より直接関わりがあって、思い入れが深い。
中華街の旧正月にあわせて出かけた。
第1日 吉田橋関門跡碑 第三管区海上保安本部 赤レンガ倉庫 象の鼻テラス 大桟橋 山下公園 ホテルモントレ横浜 元町 媽祖廟 関帝廟 スターホテル横浜 マリンタワー 横浜中華学院(春節) | |
第2日 氷川丸 | |
別な日 野島崎灯台 |
第1日 吉田橋関門跡碑 第三管区海上保安本部 赤レンガ倉庫 象の鼻テラス 大桟橋 山下公園 ホテルモントレ横浜 元町 媽祖廟 関帝廟 スターホテル横浜 マリンタワー 横浜中華学院(春節) |
* 湘南新宿ラインで横浜駅まで行き、根岸線に乗り換える。
電車は海岸沿いに走って、桜木町駅、次が関内駅。
桜木町駅を出ると「次は関内駅」と車内放送があった。
「駅」をつけるのは丁寧な人で、それがないと「次わかんない(次はわからない)」ときこえてしまう。
関内駅で降りて北口の改札口を出る。
西方向にのびている伊勢佐木町の商店街に向かう橋が吉田橋。
■ 吉田橋関門跡碑
明治維新で開港したとき、小さな横浜村に税関など貿易上の施設をつくり、外国人居留地をおいた。
その一帯に入っていくところに吉田川を越える橋がある。
橋のそばに関所を設けたので、橋の先は関内とよばれた。
今の大横浜にいたる発祥の地で、関内の土地、関内ということばが、独特の重みをもつことになった。
関内駅から伊勢佐木町の商店街に向かうには、かつての吉田川が高速道路になっているのを越える。
吉田橋に行ってみると、橋の下に水がなく、高速道路が走っている。まわりは都市計画的に気分よく仕立てかえられており、市がこの橋付近をいわば臍として敬意をはらっていることがわかる。(『街道をゆく 21』「横浜散歩」 司馬遼太郎。以下引用文について同じ。) |
司馬遼太郎はさらっと書いているが、戦後、横浜の主要地が占領から返還されたあと、今の横浜が「都市計画的に気分よく仕立てかえられ」るまでを、先端的構想と大胆な実行力でリ-ドした田村明が『都市ヨコハマをつくる 実践的まちづくり手法』という著書に記している。
東京日本橋のように上に高速道路を通さず、赤レンガ倉庫を解体しないでファッショナブルな施設に衣替えして残すなど、歴史的遺産を生かしながら現代の都市に再生していった様子がよくわかる。
須田剋太『横浜馬車道吉田橋』 | まっすぐ行くと伊勢佐木町通り |
上の右の写真の欄干から。 下を川ではなく(防護用の網があって見えにくいが)車が走っている。 左に関内の高架駅がある。 |
● グリル桃山
神奈川県横浜市中区伊勢佐木町2-9-3 tel.045-261-6955
伊勢佐木町の通りからわずかに横に入ったところにある老舗の洋食の店に入る。
僕はカニクリームコロッケ。 かつて麦田町でひとり暮らしをしていたことがあり、麦田町は石川町駅(元町の最寄り駅)と根岸駅の中間くらいにあった。 根岸駅の近くに洋食の店があり、そこでカニクリームコロッケを食べるのは、そのころの僕の暮らしのなかではたまのぜいたくだった。 妻は牡蠣フライランチで、大粒のカキがおいしかったという。 |
* 伊勢佐木町の通りを関内駅方向に戻る。
かつて左側に三越があったが、今はほかの店にかわっている。
右側に書店の有隣堂は変わらずにあって、軽く店内をとおりぬけて懐かしい。
吉田橋を渡り、根岸線のガードをくぐる。
海に向かう道は馬車道で、その名に文明開化の残り香がある。
日本大通りを左に曲がると、角に横浜第2合同庁舎のビルがある。
法務省や財務省などの地方局が入っていて、国土交通省の機関として第三管区海上保安本部もある。
■ 第三管区海上保安本部
神奈川県横浜市中区北仲通5-57 tel.045-211-1118
https://www.kaiho.mlit.go.jp/03kanku/
司馬遼太郎は以前にも『胡蝶の夢』を書くのにあたってここに来たことがあるが、『街道をゆく』の旅でも訪れた。
こんども、古なじみの家でもたずねるように、門を入り、建物の前の芝生に、 「灯台局発祥の地」 という木柱がたっていることに気づいた。以前ここにきたときには無かったような気がする。 |
須田剋太『横浜市燈台局発祥の地』 |
須田剋太が描いた絵に、その木柱がある。 |
司馬遼太郎一行が『街道をゆく』の取材で訪れたころには、第三管区海上保安本部は今よりわずかに北西の位置に独立した庁舎をもっていた。
現在の第三管区海上保安本部。 元あったのと同じ街区にある合同庁舎のビル内に移転している。 |
かつての独立庁舎は解体され、駐車場になっている。 「灯台局発祥の地」という木柱は、今はなくなっている。 |
須田剋太『横浜市燈台局発祥の地』の絵では、木柱の右にもうひとつ記念物らしきものがあって、「燈台補給船若草の錨」という文字がかきこまれている。
「灯台補給船」というのは、ききなれない言葉だ。
灯台は、海を航行する船に位置を知らせるものだから、岬の先端など陸地のへりにある。しかも高いほうが遠くから視認されやすいから、できるだけ高い位置が選ばれる。したがって灯台への交通は不便で、まだ道路が整備されていなかった時代には、灯台への物資の補給は海路、船で近づいて行われた。その役をになうのが灯台補給船で、全国の灯台を回っていた。
やがて陸路が整備されて補給船は役目を終え、灯台局発祥の地に錨が置かれた。
木柱と同様、錨も今はない。
この錨が今どこかにあるものか、後日、第三管区海上保安本部に照会すると、調べたうえ、関連資料も添えて、丁寧な回答をいただいた。
錨は野島崎灯台に置かれているとのことだった。
(その後、房総半島の南端にある野島崎灯台に錨を見に行った→[別な日 野島崎灯台])
須田剋太『横浜市中区北仲通 第三管区海上保安部跡』 |
須田剋太が第三管区海上保安本部で描いたもう1枚の挿絵では、ビルが建っていて、手前の門か塀らしきものの上に「北仲通宿舎」と施設名の標示がある。 |
司馬遼太郎が前に訪れたときのこととして
おもしろかったのは、旧役宅であるこの敷地内に、いまも海上保安本部の職員住宅-鉄筋の団地式の建物-の列がならんでいることだった。 |
「北仲通」は、第三管区海上保安本部の所在地だから、司馬の文章にある「職員住宅」が、須田の絵にある「北仲通宿舎」のことだろう。
ただ不思議なのは、須田剋太が最後に「跡」の1文字を加えていること。
この職員住宅についてのことも、錨のこととあわせて第三管区海上保安本部におたずねした。
庁舎が移転して職員住宅が解体されたのは、司馬遼太郎と須田剋太が訪れたのよりずっとあととのことだった。
つまり須田剋太が行ったときは職員住宅は存在していたわけで、なぜ須田剋太が「跡」という文字を記したかはわからない。
須田剋太が描いた絵をたどっていると、謎をかけられることはこれまでもいくつもあったが、また新たな謎が加わった。
敷地のなかを横切って海ぎわまでゆくと、草などが茂り、護岸工事のぐあいも、旧幕のころとまでは思えないが、年代は経っている。須田画伯が空を見あげて、淡青なガラス板に綿くずを散らしたようなうろこ雲を見つめていたが、やがて、 「あの雲が出ると、秋ですね」 と、つぶやいた。(中略)不意に、天は変らず、地の人だけが変ってゆくという平凡な情念が、敷地を歩きつつしきりに去来した。ただ、人は果てることなく何事かを継承してゆく。 |
* 第三管区海上保安本部が入っている横浜第2合同庁舎のビルが建つ交差点から北西へ桜木町駅に向かう道を行く。
右側が、もと第三管区海上保安本部があったところで、今は駐車場になっている。
左に広い工事現場があって、横浜市役所がここに新築されている。
大岡川の河口にかかる橋を渡る。
今日はみなとみらいの観光的中心部へは向かわずに、汽車道に折り返す。 |
■ 赤レンガ倉庫
須田剋太が赤レンガの建物と引き込み線を描いている。
建物は1911年と1913年に建った保税倉庫で、港と駅を結ぶ部引き込み線も作られていた。
保税倉庫は1989年まで、引き込み線は1986年までつかわれていた。
司馬遼太郎一行が訪れた1982年には、まだどちらも機能していた。
前述のとおり横浜市の事業として田村明らの構想が実現して、2002年に赤レンガ倉庫は文化・商業施設として再生し、そこに至る鉄道線路跡は「汽車道」として遊歩道になり、横浜の歴史を伝える横浜を代表する景観の1つになっている。
右の写真が今(2017年)の赤レンガ倉庫。
4階部分は建物の中央部にあるが、須田剋太の絵では建物の端の側面にあるように描かれている。
* 横浜税関のほうに向かう遊歩道を歩く。
■ 象の鼻テラス
幕末、横浜港が開港したときに作られた波止場の1つが、直線ではなく、ゆるく湾曲していて、象の鼻とよばれた。
1923年の関東大震災で被災したあと、直線に近い形状で復旧した。
2009年に横浜開港150周年を記念して、元の湾曲した形に復元された。
小さな港の対岸のような位置に象の鼻パークという公園が整備され、象の鼻テラスという休憩施設が作られている。
ガラス張りで明るく、開放感がある。
水面を隔てた向こう側に象の鼻波止場跡があり、水と空が広々と展開する景色を眺めていると気持ちがいい。
売店に先端が象の形に作られたソフトクリームを売っていて、一休みがてら食べてみた。
■ 大さん橋
須田剋太『横浜港(B)』 |
外国航路の大型客船も発着する、横浜港の顔のような桟橋。 須田剋太のこの絵は、港のうちのどこと特定はしにくいが、船を見送って手を振る人が描かれていて、大桟橋あたりだろう。 |
大桟橋では1989年からの改修事業で国際コンペがおこなわれ、660件の応募からアレハンドロ・ザエラ・ポロ とファッシド・ムサヴィの設計が選定され、2002年に完成した。 桟橋といえば、ふつうにはコンクリートの平面に箱状のビルがあって、乗降場になっているが、ここでは自然の丘のように起伏が連続するウッドデッキが作られ、その下に船客ターミナルがくみこまれている。 桟橋の通念を破るような斬新さが心地いい。 |
ウッドデッキからはランドマークタワーや赤レンガ倉庫が並ぶ、みなとみらいの景観が一望できる。 |
大さん橋の根元にクイーンの塔とよばれる横浜税関の庁舎がある。 大さん橋から訪れる人を腕を広げて迎え入れているふうで、海を正面として建築されたことがわかる。 |
■ 山下公園
1923年の関東大震災ででた瓦礫で海を埋め立て、造成されてできた公園。
道の向かい側にはホテルニューグランドや横浜マリンタワーなどがゆったりと並んでいて、みなとみらい21ができた今になっても横浜には欠かせない景色をつくっている。
みなとみらい21の都市づくりは大したものだと思うが、そんな発想がいきなり現れたわけではなく、「都市は創っていくもの」という精神風土があったのだろう。
そもそもひなびた横浜村が国際的な港としてデビューしていくこととなった誕生じたいに都市づくりの伝統の発端があるように思える。
司馬遼太郎は横浜についてこういう。
たしかに、このまちは日本の他の都鄙(とひ)と異っている。都市に含有されている「成分」というべきものが多様で、こういうまちに育って成人したひとびとは、倫理的な骨ぐみや美的な皮膚感覚、さらには自己のなかの世界像が、どこかちがってくるにちがいない。(中略) 横浜が神戸と異るのは、多くの文学作品の舞台になったということである。さらには、作家そのものをこのまちは幾人も生んだ。横浜の都市成分に、そういうものも、あるいは含まれているのではないか。 |
須田剋太『横浜港 山下公園』 |
山下公園には氷川丸が繋留されているが、僕らが行ったちょうどその日までの予定で改修工事中で、中に入れなかった。
氷川丸への桟橋の先端に白い灯台があり、『横浜港(C)』には、その灯台が描かれていた。
須田剋太『横浜港(C)』 |
● ホテルモントレ横浜
山下公園から道を隔てた向かい側にホテルモントレ横浜がある。
司馬遼太郎一行はここに泊まった。
当時はザ・ホテル・ヨコハマといい、1979年に開業したホテルに1982年に来たのだったから、公園前に新しく現れたばかりの時期のことだった。
司馬遼太郎は直前に神戸に行っていて、やはり当時建ったばかりのポートタワーホテルに泊まり、2つのホテルを比べてこういう。
横浜のホテルの場合、おなじ新築ながら、できたてのホテルに感ずる浮きたつような印象がすくなく、むしろ五十年も経つと、古色を帯びて重厚な風格が出てくるのではないかとおもったりした。横浜が風土としてもつ歴史意識がよく作用しているようで、両都の好趣という土壌が、こうもホテルに影響するものかと考えこんでしまった。 |
僕は1979年か1980年、やはり真新しかったころに来て泊まったことがある。
具体的なイメージは思い浮かばないのだが、ロビーあたりで見回すと、ほかでみたこと経験したことのない空間で、「こんなところがあるんだ」と目を見張るような思いで見回した記憶がある。
それから30数年の間に、もう一度だけ寄ってみたことがある。
時代が移り、僕もほかにいろいろなところを見てきて-ということか、やや古くさく、色あせてみえて、こんなに印象が変わってしまうことがあるものかと驚いた。
今来てみると、ホテルモントレ横浜にかわっていて、モントレのホテルによくあるヨーロッパのどこかの国の伝統的室内というふう。
以前どんなだったか映像的にはっきり思い浮かぶほどの記憶はないのだが、今は新鮮でもなく、色あせてもいなくて、モントレらしく改装されたという印象を受けた。
* ホテルモントレの西には神奈川県民ホールがある。
ここでキース・ジャレットのジャズ・ピアノのコンサートを聴いたり、マルセル・マルソーのパントマイムの公演を見たことがあるが、もうずいぶん前のことになった。
東へ歩いていくと、創価学会神奈川文化会館があり、ホテルニューグランドがあり、その次に僕らが今夜泊まるスターホテル横浜がある。
チェックインしておいて散歩に出た。
中央がスターホテル横浜。 その右がホテルニューグランド。 左にはすぐ横浜マリンタワーがあるが、それはあとで行くことにして、元町に向かった。 |
■ 元町
元町の商店街を歩く。
商店街は山手の丘を背にしている。
その丘をトンネルで抜けた先の麦田町に、僕は学生のころ住んで、都心の大学に通い、横須賀の病院にアルバイトに通っていた。
祖母の友人の女性が一人暮らししていて、その古い家の広い2階を間借りしていた。
階段を上がった踊り場の窓から見あげると、丘の上にフェリス女学院が見えた。
元町に中古の家具を売る店があり、広い部屋で余裕があるから、大きな木の机と椅子を買った。
その後いく度か転居したが、そのつど大きな机を運んで、今も気に入って使っている。
今、元町の商店街に古い家具を売る店はない。
新しい家具を売る店はあるが、古い家具の店がかわったのか、まったく別の店か、わからない。
ユニオンというスーパーマーケットに入る。 おしゃれな店で、学生のころ、たまにここに買いに来たときは、スーパーマーケットとはいいながら、ふだんよりちょっと高めの、ちょっと贅沢をする感じだった。 かつては道路側のガラスの壁際に、道路に並行してエスカレーターがあったように思うのだけど、今は道とは直角方向にある。 ホテルでは朝食がないので、ここで明日の朝食を買った。 |
* 元町の商店街の中ほどから橋を渡って中華街に入る。
まもなく媽祖廟(まそびょう)がある。
■ 媽祖廟(まそびょう)
媽祖は、もともとは航海の安全を守る神だが、ほかにも苦難を越え願いを叶えるとして信仰されている。
500円で長い線香を買って、廟内に記された番号順に線香を供えてお参りしていく。 ふつう日本のお寺や神社ではないスタイルでおもしろい。 願いごとをするときは神に誰かわかるように、まず住所氏名をとなえることと指示されている。 |
宅配便か郵便配達みたいに幸運を届けてくれるのかとなんだか愉快な気がする。
■ 関帝廟
西暦100年ころの武将、関羽が祀られている。
ここも媽祖廟と同じスタイルで線香をもってお参りする。
今夜はホテルと中華街での夕食がセットになっているのを予約してある。
僕らが選んだ店に行ってみると、こじんまりした手ごろなところだった。
旧正月ということで街が混雑していることを予想していたのにふつうな感じだったし、この店も僕らのあとにぽつぽつ入ってくる人たちがあったくらいで、いくらか拍子抜けするくらいに静かだった。
* 海岸のほうに戻ってマリンタワーに上がった。
■ 横浜マリンタワー
子どものころ父に連れられてきたことがある。
その後、わりと近くに住んでいたことがあり、離れたあともしばしば山下公園あたりまで遊びにきたことがあるのに、タワーには一度も上がらなかった。
今夜は旧正月だから零時にはにぎやかになるはずで、それまでの時間つぶしをかねて上がった。
夜10時半まで営業している。
エレベーターまで案内してくれた女性に
「子どものとき以来なのだけど、タワーができたのはいつですか?」
ときくと、1961年だという。
前はできてまもなくに来たのだった。
展望階に着いて高い位置から見おろすと、港の夜景がみごとだった。
マリンタワーから山下公園を見おろして撮った昔の写真。 裏をみたら「1962年8月」と父の字でメモしてあった。 |
* 新年を迎える零時までまだ間があるのでホテルに戻って一休みする。
● スターホテル横浜
神奈川県横浜市 中区山下町11 tel. 045-651-3111
部屋は最上階で、港を見おろすバルコニーつき。
照明のおかげで氷川丸の形がくっきり見えている。 |
須田剋太『横浜(B)』。 ザ・ホテル・ヨコハマからの眺めだろう。 下のほうに白い光が並んでいるのが、たぶん山下公園。左上の光は大桟橋で、右に氷川丸がある。 |
* 真夜中に近くなってまた中華街に歩いていく。
横浜中華学院の校庭が新年を迎えるカウントダウンの会場になっている。
零時ちょっと前には、中に入ろうとする人の長い行列ができている。
今から列に並んで入れるものだろうかと思ったが、するすると列が進んで入れた。
■ 横浜中華学院での春節カウントダウン
校庭の中央に椅子が並んでいる。
僕らは中には入れたが椅子席はもうなくて、脇に立った。
前方には数本の柱が立っている。
カウントダウンのゼロのあと中国語で新年のあいさつをするので、進行の人のリードで何度か練習をした。
2月の深夜だが、寒さはゆるいほうで、たいした苦もなくしばらく待つうちに零時が近づいた。
カウントダウンが始まり、ゼロになったところで「新年快乐(シンニィェンクァィラ)!」と一斉に声が上がる。
そのあと獅子舞のショーがあった。 獅子は2人の人が前後に入って舞う。 数本の柱を飛びうつったり、えいっと向きを変えたりするので、スリリング。 |
獅子に噛まれると幸運が訪れるとされていて、柱を降りてきた獅子が前方の何人かの頭を咥えた。
* ホテルに戻る。
道は、すっかり寝静まっているというほどではないが、いくつか店が開き、まばらに人が歩いているくらいで、静かだった。
ずいぶん前にやはり春節の夜、何人かで中華料理を食べる集まりがあった。
道のあちこちで爆竹を鳴らしてにぎやかだったように思う。
40年ほども前のことだから、街の様子がかわったのかもしれないし、僕の記憶ちがいかもしれない。
. | ページ先頭へ▲ |
第2日 氷川丸 |
翌朝、ホテルの部屋で山下公園やみなとみらい21を眺めながら、きのう元町のユニオンで買ってきた朝食をとる。
ホテルを出て、きのうは入れなかった氷川丸に入った。
■ 氷川丸
太平洋を238回も横断して引退した船が、山下公園前の水面に浮かんで公開されている。
須田剋太『横浜港風景』 |
1932年にはチャップリンが乗り、1939年にはアメリカ公演の宝塚少女歌劇団が乗り、戦争中は病院船になり、戦後まもなくは引き揚げ者を運んだこともある。 2016年に、戦前で作られた貨客船の文化的価値が評価され、国の重要文化財に指定された。 |
僕が子どものころ父に連れられて横浜に来てマリンタワーに上がったとき、氷川丸も見物した。 氷川丸の太平洋横断の最終航海は1960年、解体予定もあったが惜しまれて観光船として山下公園に係留されたのが1961年だった。 マリンタワーの開業と同じ年で、どちらも公開されて間もないころだったことになる。 |
世の中全体がまだ余裕のない時期だったということもあるだろうが、父はあちこち子を連れて出かけるようなことは少なかった。
それでも出かけようという気にさせるほど当時人気があったのかもしれない。
横浜駅で。 駅名標示がとてもシンプル。 |
横浜ではビル街を歩いていても、少し歩いて抜ければ海があって、潮風が吹き抜けている。
砂浜の海岸でなく、都会の市街地から港の岸壁に出る。
市街地にいても海の予感があって開放的気分がある。
港から海外に通じているし、独創的なまちづくりのセンスが際だっているが、一方で港町には気楽なふうもある。
司馬遼太郎の言い方では
気風にいなせなところがあって、東京の下町に似通っている。 |
僕が住んでいた麦田町も、元町から歩いて数分で、横浜らしい中心地にごく近いところだったが、道の向かい側に銭湯があり、大衆食堂があり、学生の間借り生活でも暮らしやすかった。
前にも書いたとおり、そのころ横須賀の病院でアルバイトをしていた。
病院は京浜急行の追浜駅前にあった。
ふつうに電車で行くには、JR根岸線で石川町-関内-桜木町-横浜と行き、横浜で京浜急行に乗り換えて、戸部-日ノ出町-黄金町を通って追浜に行った。
ときどき関内駅で降り、伊勢佐木町をぶらぶら歩いて、黄金町駅から京浜急行に乗ったものだった。
横浜駅経由だと3角形の2辺を電車で行くが、伊勢佐木町経由で歩くと、関内駅→黄金町駅と近道できる。
ちょっとした距離を歩くから時間の短縮にはならないが、伊勢佐木町の散歩はのびやかで気持ちがよかったし、ときには黄金町駅の近くにクレオというロック喫茶に寄るのも楽しみだった。
今もこんなマッチを持っていて、見るたび懐かしい。
横浜にはちぐさとかダウンビートとか、ジャズの名店があり、ジャズ系は広く認知されていて今も場所がわかる。
ロックの店は、いつのまにかなくなり、僕にはどこにあったか定かではなくなっていた。
ところが最近書棚からあふれた蔵書や展覧会のちらしや図録を整理しているうち、思いがけないものがでてきた。
ガリ版印刷のミニコミ紙で、ただしまいこんであっただけなのに、年月を経て、黄ばんで紙のふちがポロポロ欠けている。 その記事のなかにクレオの地図がのっていた。 のびやかなところにあったという印象があり、大岡川に沿った道だったかと思っていたのだが、国道16号の広い通りにあったようだ。 |
. | ページ先頭へ▲ |
別な日 野島崎灯台 |
横浜を歩いたあと、別な日に、野島崎灯台に廃船の錨(いかり)が置かれているのを見に行った。
須田剋太が第三管区海上保安本部で描いた『横浜市燈台局発祥の地』には、その発祥の地を示す木柱のとなりに、船の錨がある。
「燈台補給船若草の錨」という説明の文字もかきこまれている。
灯台補給船というのは、前述のとおり、陸上交通が不便だった時期、灯台へ海から物資を補給する役をはたしていた。やがて陸路が整備されて補給船は役目を終え、灯台局発祥の地に錨が置かれた。
僕が「横浜散歩」をめぐったときには(2017年1月)、木柱も錨もなかった。
第三管区海上保安本部に照会すると、錨は野島崎灯台に移されて公開されていると教えられた。
それから1年半ほど経ってしまったが、「横浜散歩」にも同行した妻と連れだって、ようやく見に行った。
まず木更津に行き、矢那川の河口と橋を眺めて1泊。
翌朝レンタカーで、7:20ころ木更津を出て、8:30ころ野島崎灯台に着いた。
公開は9時からなので、その前に灯台をUの字に囲む海岸沿いの遊歩道を散歩した。
半島の南端の岩の上に2人掛けの白いベンチが海を向けて置いてある。
大自然のなかにちゃちな人工物を置いて、作り過ぎな気がするが、座ってみればいい気分ではあった。
青い海、青い空、白い灯台、かすかな海風が潮の香をとどけてくる。
半島の南端の海岸からふりかえって見た野島崎灯台。 右は霧などで視界がわるいときに音で位置を知らせる霧笛の施設。レーダーやGPSにより役割を終えて数年前に閉鎖された。建物は近く解体されるという。 |
■ 野島崎灯台
千葉県南房総市白浜町白浜630 tel.0470-38-3231
9時の開館時間になって灯台に向かう。
灯台についての資料展示をしてある別棟があって、その窓口で見学料を支払う。
若草丸の錨がどこにあるか、窓口の女性にたずねると、その窓口のすぐ前にあったが、今は改修のために倉庫にしまわれているという。
しばらく屋外にあったのでサビがでていたが、倉庫内でサビを落とし塗装し直してきれいになっているらしい。
しまったのはつい最近で、来年にはこの別棟の資料展示室に移して公開されるとのこと。
その後は屋内にあるから、さびることはなくなるだろう。
錨を倉庫にしまうとき、台車に載せて運んだが、重いので引きずった跡が残っていると教えられて地面を見ると、たしかにU字形の線が見える。 船には緊急事態にそなえて予備の錨があって、記念に残されたのはその予備の錨だということも教ええられた。 |
屋外展示を終え、屋内展示が始まる前のあいにくのときに来てしまったともいえるが、そういう変転が見える時期に来たことは、錨の移動の歴史がわかって、幸運だったともいえる。
また公開後にくるのを楽しみにしておこう。
. | ページ先頭へ▲ |
参考:
- 『街道をゆく 21』「横浜散歩」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1983
- 「横浜散歩」畠山哲明 『司馬遼太郎記念館会誌』第46号 2013
- 『都市ヨコハマをつくる 実践的まちづくり手法』 田村明 中公新書 1983
- 『80年目の記録-関東大震災といま-』 神奈川県立歴史博物館/編集・発行 2003
- 『愁弾』第4号 横浜みなまた集団編集 しゅうだん社 1973.1.14号
- 1泊2日の行程/横浜 (2017.1/27-28)(→電車 =バス …徒歩)
第1日 関内駅…吉田橋…横浜弁天社(厳島神社)…グリル桃山…馬車道…第三管区海上保安本部跡…汽車道…赤レンガ倉庫…象の鼻テラス…大桟橋…山下公園…ホテルモントレ横浜(ザ・ホテル・ヨコハマ)…元町…媽祖廟…関帝廟…スターホテル横浜…慶福楼…マリンタワー…横浜中華学院(春節)
第2日 氷川丸=横浜駅 - 1泊2日の行程/野島崎 (2018.6/1-2)(→電車 =バス -レンタカー)
第1日 東京駅→木更津駅-木更津(泊)
第2日 -野島崎灯台-青木繁「海の幸」記念館・小谷家住宅-市原湖畔美術館-笠森寺-木更津駅=東京駅