春の奈良めぐり-「奈良散歩」ほか


元興寺(がんごうじ)、で常時公開ではない国宝の禅室が公開され、あわせて所蔵の須田剋太の作品も展示された。
ちょうど東大寺では修二会(お水取り)のころ。
奈良に出かけて、『街道をゆく』でいうと、「1竹内街道」「1葛城みち」「7大和・壷坂みち」「24奈良散歩」をつまみ食いするような旅をした。
先月、大分に行ったとき、宇佐神宮で須田剋太が絵を描いた地点が見つからなかった。どうも実は京都の石清水八幡宮のようなので、奈良に向かう前に京都にも寄り道した。

第1日 京都・石清水八幡宮から奈良・東大寺へ [岩清水八幡宮 3川合流点 飛行神社 東大寺] 
第2日 東大寺周辺を歩く [「奈良散歩」東大寺大仏殿 雑司町 二月堂 絵馬堂茶屋 元興寺]
第3日 奈良の4街道を行く [「竹内街道」石上神宮 大神神社  「奈良散歩」多武峰 談山神社  「葛城みち」高鴨神社 葛城一言主神社 葛木坐火雷神社  「竹内街道」竹内峠]
第4日 古い町にひたる [「大和・壺坂みち」今井町] 

* 「竹内街道」のうち竹内街道と、「大和・壺坂みち」のうち今井町以外のところについては→[大阪から奈良へ竹内峠を越え、京都でコンサートを聴く]

第1日 京都・石清水八幡宮から奈良・東大寺へ [岩清水八幡宮 3川合流点 飛行神社 東大寺]

* 先月、大分に行った。『街道をゆく』の「中津・宇佐のみち」で、須田剋太が宇佐神宮で数点の絵を描いている。その中のひとつ『宇佐八幡神矢』と題された絵が、どこに立って、どの方向を描いたのか、宇佐神宮の広い境内を歩いて探し、神社の人に尋ねもしたが、とうとうわからなかった。(→[大分のふしぎな宿、ふしぎな神社-「豊後・日田街道」と「中津・宇佐のみち」])
帰ってからまた思い悩むうち、絵の場所は大分県の宇佐神宮ではなく、京都の石清水八幡宮ではないかと見当がついた。
それで京都から奈良に向かう前に寄ってみることにした。
京都駅からJR奈良線に乗り、東福寺で京阪電車に乗り換えて八幡市駅で降りる。
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)のある都市は、「やわたし」(八幡市)で、駅名も「やわたしえき」(八幡市駅)という。
駅前すぐにケーブルの乗り場があり、数分で男山山上駅に着く。


■ 石清水八幡宮
京都府八幡市八幡高坊30  tel. 075-981-3001
http://www.iwashimizu.or.jp/

木立のなかの道をのぼっていって山門を入る。

石清水八幡宮 境内を眺めて、須田剋太が描いたのはやはりここだったことがすぐ確かめられた。
左に能舞台がある。正面に特長がある形をした赤い本殿があり、その前に石灯籠が並んでいる。

能舞台の軒下から本殿を眺めると須田剋太の絵のとおりになる。

石清水八幡宮 須田剋太『宇佐八幡神矢』
須田剋太『宇佐八幡神矢』

大分から帰って思案していて、須田剋太の絵に「宇佐神宮神矢」という文字が書いてあるので、「神矢」をネットで検索すると、石清水八幡宮がでてきた。そちらのほうの名物(という言い方は違うのかもしれないが)であるらしい。
もしやと思って宇佐神宮に電話して尋ねると「本宮では神矢はありません」とのことだった。


石清水八幡宮に来てみるとたしかに神矢を売っていた(売る-という言い方も違うのかもしれないが)。
3000円する。
境内には(右の写真のように)大きな案内看板もでていた。
石清水八幡宮の神矢

「中津・宇佐のみち」の文章では、司馬遼太郎は宇佐神宮の社殿の華やかさに心ひかれて、同行したカメラマンに「石清水八幡宮の社殿と比べてみると、おもしろいかもしれませんね」といい、帰ったらさっそく石清水へのぼりましょうとも話している。
実際にこの取材から帰ったあとに司馬遼太郎と須田剋太が石清水を訪ね、そのとき描いた絵が宇佐神宮の絵として紛れこんだかもしれない。
あるいは、実際に行かないまでも、須田剋太が岩清水八幡宮の写真でもとりだして比較して眺めているうち、その社殿の様子が気に入って描いてみたりして、宇佐神宮の挿絵として入ってしまったかもしれない。
週刊朝日に連載された当時、大分で描かれたはずの絵が京都であることに気づく人はなかったろうか、と不思議な思いがした。

● カフェ・ペパン
京都府八幡市八幡高坊8-15  tel. 075-983-6015

ケーブルを下って駅前の食堂でランチ。てごろでおいしい。客と店の人が親しそうに声をかけあっていてなごやか。

* 駅前の観光案内所で申し込んでレンタサイクルを借りた。
無料なのがありがたい。(保証金1000円を納めるが、あとで返される)


■ 合流点ビューイング・3川合流点

八幡市と、その北側の大山崎町との境で、桂川、宇治川、木津川が合流している。合流点から下流は大阪府にはいって淀川になり、やがて大阪湾に注ぐ。川の名としてはビッグネームがならぶスター級の合流点になる。

石清水八幡宮 ケーブル ケーブルからも合流点あたりを遠くに見おろせた。
八幡市側は京阪電車が走り、北の対岸はJR東海道線、阪急京都線、東海道新幹線が走っている。
名神高速と京滋バイパスが交わる山崎ジャンクションもある。
かつては水運の要所だったところが、今は鉄道と自動車の要所になっている。

谷崎潤一郎がこのあたりを舞台にした小説『蘆刈』を書いていて、その一節がケーブル男山山上駅近くの碑に刻まれている。

八幡市駅近くで借りたレンタサイクルで、木津川の左岸を走った。

まず木津川と宇治川が合流する。
細長い中州状の地形がしばらく2つの流れを隔てているが、やがて途切れて合流する。
写真からははずれているが、対岸の丘のもう少し右の中腹に赤い三角の屋根があって、アサヒビール大山崎山荘美術館。坂道を下ったところには(国宝の茶室、待庵がある)妙喜庵がある。
大山崎山荘美術館には幾度か来たことがあり、そのたびすぐそばにある合流点が気になっていたが、どう近づいたらいいか見当がつかなかった。
石清水八幡宮に来て、駅の近くにレンタサイクルがあったおかげで、ようやく来られた。
木津川と宇治川の合流点

少し下流に行くと桂川と合流する。
ここでも細長い地形がある。
かつては3つの川が一気に合流して洪水を起こすことがあったので、人工的に中州が作られたらしい。
木津川、宇治川、桂川の合流点

河口ビューイングとか合流点ビューイングとかしていても、そういう名称じたいが僕が勝手に名づけているだけ。「趣味は何?」ときかれて「河口ビューイング」なんていって、「ああそうですか」とすんなり納得してくれるようなものではない。
どこの河口や合流点でも、まず人に会うことはない。
河口が港になっていて、港で働く人がいるとか、合流点に堰があって管理系の人がいるとかいうことは、もちろんある。ただ、河口そのもの、合流点そのものを見るためにそこに来たという人には会ったことがない。
ところがここでは、川岸にベンチを置き、竹を四阿ふうに組んで飾り付けをしている人に出会った。
古い時代の山崎の合戦の絵図とか、合流点の航空写真とか、資料を運び込んであるのだが、屋外にむきだしだから、日に焼けたり、ひびが入ったりしている。
悠然と流れる水を眺めながら、川のこと、この土地のことなど、長く話しこんでしまった。
3月半ばにしては暖かい日で、水と空と空気がぬくぬくして気持ちいい。

■ 飛行神社
京都府八幡市八幡土井44 tel. 075-982-2329

自転車を借りるときに観光案内所でもらった地図に、八幡市駅の近くに気になる名の神社があって寄ってみた。
人が乗って空を飛べる飛行器を作ろうとした二宮忠八(1866-1936)が興した神社。
開発途中の1903年にライト兄妹に先行されて断念し、のちに飛行機による犠牲者の慰霊と航空安全の祈願のために神社を建てた。

神社には資料館が併設され、ダビンチみたいなアイデア・スケッチや、宮崎駿みたいな模型があって、おもしろかった。 飛行神社

■ ふたたび石清水八幡宮

八幡市駅のすぐそばにも石清水八幡宮がある。
徒然草にでてくる仁和寺のある法師が下の宮だけお参りして帰ってしまったことを述べて「先達はあらまほしきことなり」で結んでいるが、ここがその早とちりの宮。
徒然草がたぶん教科書にあって石清水八幡宮の名を記憶していたと思うのだが、これまで来たことがなかった。
須田剋太の絵のおかげで訪れることになった。

● 走井餅老舗(はしりいもちろうほ)
京都府八幡市八幡高坊19  tel. 075-981-0154

下の八幡宮の門前に、古い構えの菓子屋がある。自転車でちょっとした時間走ってきたので、一休みに入る。
走井餅と桜餅と煎茶のセットが390円。
走井餅老舗(はしりいもちろうほ)

桜餅がとてもおいしかった。餅のつぶつぶ感、あんこの手頃な甘さ、そしてなにより桜の葉の甘渋い味わいが絶妙。
やや汗ばむほどの運動をしてきたから余計においしく感じたのかもしれない。「スポーツのあとに桜餅!」というのは、けっこうあいそうな気がする。

* 京阪本線の出町柳行に乗り、丹波橋で近鉄に乗り換えて近鉄奈良駅に着いた。猿沢の池の近くのホテルに4時半ころ着いて、荷物を置き、東大寺へ向かう。

■ 東大寺
奈良市雑司町406-1 tel. 0742-22-5511
http://www.todaiji.or.jp/

東大寺内の子院の観音院にいた上司海雲氏に守られて、須田剋太は東大寺に長く滞在して絵を描いていた。

 私どもが東大寺境内を訪ねたのが、この年の修二会がはじまる三月一日だったことは、すでにふれた。ひろい境内の一角に入ると、須田画伯が池にもどった魚のように、いきいきと歩きはじめた。(『街道をゆく24』「奈良散歩」司馬遼太郎。以下、東大寺での引用について同じ。) 

東大寺では僕にとってもいろいろなことがあった。
220世別当の北河原公敬氏にお目にかかったこと。(別当になられる前のことだった)
大仏殿の庭で松本幸四郎の『勧進帳』弁慶1000回公演を見たこと。
日本画家、小泉淳作氏による襖絵が完成し、大仏の足下で開催された奉納式に参列したことなど。
北河原公敬氏や小泉淳作氏との縁は、東京日本橋にある一番星画廊の星忠伸さんにひきあわされてのことだった。
小泉画伯は聖武天皇とその皇后の肖像画も描き、いまいろいろな場面で聖武天皇に言及されるとき、画伯が描いた肖像画がそえられることが多い。1000年前の天皇がどんな服装をしていたか定かではない。その姿を検討するための下図の段階のスケッチを、一番星画廊を訪れたときに見たこともあった。
その星さんからお水取りに行くことを前から勧められていたのだったが、情けないことに寒そうでためらっていた。元興寺の須田剋太作品公開にあわせて思い立ってきて、ようやく松明を眺めることになった。

東大寺二月堂 須田剋太『二月堂界隈』
須田剋太『二月堂界隈』

*夜更けまではいずにホテルに戻る。

● ホテルサンルート奈良
奈良市高畑町1110 tel. 0742-22-51

二月堂まで歩いて20分ほどに近いし、修二会についての紙や映像や実物の資料がロビーに置かれていて便利だった。修二会の機会に泊まるにはとてもいい。
でも驚いたのは、そんなホテルに2日前に2連泊の予約がとれたことだった。(はじめはJR奈良駅近くに予約をしていて、直前で東大寺に近いところを探し直した。)

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第2日 東大寺周辺を歩く [「奈良散歩」東大寺大仏殿 雑司町 二月堂 絵馬堂茶屋 元興寺]

■ 東大寺大仏殿

朝早い時間に東大寺に向かった。
大仏殿に入ると人が少なくて静か。
観光客が多いとざわざわと追い立てられるような感じがあるが、今朝は深くしみた。

須田剋太『東大寺』 東大寺大仏殿
須田剋太『東大寺』

■ 空海寺と雑司町
空海寺:奈良市雑司町167 tel. 0742-23-0031

広い東大寺の境内を正倉院の北に抜けると雑司町の家並みがつづいている。
そのなかに静かなたたずまいで空海寺がある。東大寺には墓はなくて、東大寺の僧が亡くなると外にあるこの寺に納骨される。
東大寺で夢中になって絵を描いている須田剋太を庇護した上司海雲氏もここに眠っていて、『街道をゆく』の取材で訪れたとき、須田剋太が墓に駆け寄ったという。

雑司町を歩いて須田剋太が描いた絵が2点ある。
1つは奈良県指定文化財の旧細田家住宅。17世紀に建ったと推定される農家で、このへんが旧奈良町と農村の境界だったという。

須田剋太『雑司町』 雑司町の家
須田剋太『雑司町』

もう一枚の絵は、同じ通りにあった。
入口の戸のわきに看板がかかっていて、「繰物匠」とある。
表に置いてあるのはその材料らしいが、絵に描かれているのと今もほとんど同じ状態にある。
1984年に絵が描かれてからもう30年近い。東大寺は1000年をこえる歴史があるが、そのすぐ外の町でも、時がとてもゆるやかに流れていいるようだ。

須田剋太『雑司町奈良』 雑司町の家
須田剋太『雑司町奈良』

■ 東大寺ミュージアム
奈良市水門町100 tel. 0742-20-5511

東大寺の境内に戻ってくると、ミュージアムが開館する時間になっていた。
『国宝・東大寺金堂鎮壇具のすべて』展を開催中で、この旅で楽しみにしていたことの1つ。
1907年ころ、大仏の足もとから発掘されて国宝に指定されている「東大寺金堂鎮壇具」のうち、2本の大刀に「陽剣」「陰剣」の象嵌銘があることが、保存修理のためのX線写真でわかった。光明皇后が亡き聖武天皇をしのんで正倉院から出して埋めたものと考えられる。
埋められたのが759年以後とされる。それから1150年ほどして発掘され、それから100年ほどして象嵌が発見された。さすがに東大寺で起きることは時間の幅が大きい。
別の大刀では刀身に北斗七星の象嵌があることも発見された。

こうしたことを僕は2011年春、東京文化財研究所で開催された日本考古学会できいていた。
発表者は元興寺文化財研究所の橋本英将(ひでまさ)氏と、日本考古学会長の奥村秀雄氏で、静かな興奮を誘う内容だった。
ミュージアムでは保存修理が終わったそれらの刀が展示されていて、画像で説明されたことの現物を目にして、あらためて遠い思いをそそられた。

■ 二月堂

修二会の期間でも昼間の二月堂はふだんとかわらない穏やかさ。
須田剋太の東大寺椿が描かれた絵馬を買う。
東大寺椿の絵馬
 須田画伯がまれに色紙などにこれを描く。
「東大寺椿」
 と、画伯はいつも画讃のように余白に文字を入れる。私などは画伯の絵によってこの椿を知ったのだが、はじめのころは、東大寺に植わっている珍種の椿なのかとおもっていた。
「いいえ、もとは紙なんです」
 と、画伯はさりげなく言ったことがある。そのときの遠くを見るような表情までおぼえている。画伯は、かつて、質素な内陣を荘厳(しょうごん)しているこの花を見た。そのときの感動が、天平への幻想とかさなって、「東大寺椿」ということばが出るたびに、視線が遠くなる。

● 絵馬堂茶屋 
奈良市雑司町407 tel. 0742-26-3326

『街道をゆく』の「奈良散歩」の回で、お水取りの日に二月堂を訪れた一行は「下(しも)ノ茶屋」に寄っている。
司馬遼太郎の文章によると、屋根の上に瓦焼きに焼いた小さな鍾馗さんが立っていて、鬼瓦が鬼ではなく桃になっているという。
須田剋太の絵にもあって、主人の笹田さんが、屋根に鍾馗さんのいる茶店の前で記念写真のようにほほえんでいる。

須田剋太『下の茶屋の笹田おっちゃん』 左が絵馬堂茶屋、右奥が四月堂
須田剋太『下の茶屋の笹田おっちゃん』 左が絵馬堂茶屋、右奥が四月堂

二月堂の周辺ではいくつかの小さな店が営業しているが、いま、鍾馗さんが乗っている屋根は見あたらない。
二月堂で須田剋太筆の絵馬を買って降りてきて、ちょうど昼どきなので、すぐ下にある「絵馬堂茶屋」で昼食にした。
二月堂を見あげる窓際の席で親子丼と小そばのセットを食べた。
すんでから「下の茶屋」のことを尋ねると、はじめにきいた人はわからなくて、質問がリレーされて3人目の女性が「それはここのこと」と教えてくれた。
「東大寺で平成2年だったかに建て替えた」とのことで、そのとき経営者もかわったようだ。平成2年(1990年)は、須田剋太が亡くなった年だ。

司馬遼太郎が、東大寺は「古文化財のよう」なのに「どの東大寺資料にも、この茶屋にかぎっては書かれていない」と書いている。店の歴史は、東大寺の外でなら際立つほどに長いが、はるかに長い歴史がある東大寺の中ではとるにたらないものになってしまうようだ。
司馬遼太郎の文と、須田剋太の絵が、茶屋の歴史の一部を残したといっていいかもしれない。

主人の笹田さんは、
「屋号は何度も変っておりますな。門屋(もんや)というのは何百年前だっしゃろ。甘酒屋というたころもあります。それから肉桂(にっけ)屋……」
と語ったと「奈良散歩」にある。

今はまた屋号がかわって「絵馬堂茶屋」になって、榊莫山が揮毫した看板がかかっている。 絵馬堂茶屋 榊莫山が揮毫した看板

* 東大寺を出て、ぷらぷら歩いて元興寺(がんごうじ)に行く。

■ 元興寺
奈良市中院町11 tel. 0742-23-1377
http://www.gangoji.or.jp/

春季特別展『須田剋太と元興寺を愛した芸術家たち(杉本健吉・棟方志功)』を開催中。
元興寺も東大寺観音院の上司海雲の文化サロンの一環で、須田剋太や杉本健吉が出入りしていた。
元興寺

須田剋太の作品が国宝の禅室に並んでいる。
『我れに狂器を与へよ さらば我が八十年の生涯を破棄せよ WBイエイツ詩文』と書いた大きな屏風がある。須田剋太が、道元をはじめ、宗教書、哲学書、古典などに親しかったのは承知していたが、イエイツも読んでいたか。
『五感礼賛』の屏風絵。五感は甘辛酸苦渋で、その味のもととなるカボチャ、パイン、栗、ぶどう、なす、ふきのとう、カニ、ヒラメなど、たくさんの水の幸、土の幸が描かれている。
『赤とんぼの歌』の屏風絵。「赤とんぼ」のほか「桜」「砂山」「誰れか故郷を思わざる」などの歌詞が書かれている。赤や黒やグレーや紺色や水色や、とりどりの色をつかっているので、画面がにぎやか。
『摩訶止観』『現成可仏』など力強い書。
小さな屏風も並んでいて『柿栗画賛』『ひらめカニ画賛』『四蛙画賛』『鯛画賛』『果菜画賛』など。
全体にここの須田剋太作品を見ていると、「生きていることはすばらしいこと、楽しいこと」という思いがわいてくる。

* 古い奈良町を歩く。このあたりを歩くとなんとなし気持ちがのんびりしてくる。
奈良町全体がもともとは元興寺の境内だったという。


■ 元興寺文化財研究所
奈良市中院町11 tel. 0742-23-1376

住宅にはさまれて元興寺文化財研究所(の入口)があった。東大寺の出土品が陰剣・陽剣であることもこの研究所が明らかにした。

* 空が暗くなってきていたが、とうとうポツリポツリと降り始めた。
日暮れ近くなり、奈良市立図書館にちょっとだけ寄り道してから、ホテルに戻った。


● 紅絲(こうし)
奈良市西寺林町23-2  tel. 0742-26-0617

雨が本降りになってきた。今夜も二月堂の松明を見に行こうと思っていたが諦める。
ホテルからもいちどのセンター街に向かう途中の細い道に、豆腐料理の店があって、夕飯に入った。
生ビールを飲みながら、湯葉さし、湯豆腐、あぶらげ焼きなど、豆腐づくしを味わう。窓から通りを眺めると雨が路面を流れていく。とりとめない気分でほろ酔いする。

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第3日 奈良の4街道を駆ける [「竹内街道」石上神宮 大神神社  「奈良散歩」多武峰 談山神社  「葛城みち」高鴨神社 葛城一言主神社 葛木坐火雷神社  [竹内街道]竹内峠]

* JR奈良-王子-高田と乗り継いで、大和高田市でレンタカーを借りた。
そこから東(「竹内街道」のうち山の辺の道)-南(「葛城みち」)-西(「竹内街道」のうち竹内峠)と、時計回りに回ってもとに戻る予定。
まず「竹内街道」にある石上神宮に向かった。


■ 石上神宮 (いそのかみじんぐう)
奈良県天理市布留町384 tel. 0743-62-0900 

石上神宮は、山の辺の道のほぼ北の端にある。
冷たい空気のなかの参道を上がると、古びた門があり、門をくぐると寂びた拝殿がある。
いったん門をでて、向かい側に数段の石段を上がると摂社拝殿があり、ここも古びている。
密な樹林が神宮ぜんたいをうす暗くするほどに囲んでいる。
神的で霊的な特別なところという感じが濃厚にある。

「布留」というのが、このあたりの古い地名である。古代人にとって神霊の宿るかのような景色だったのであろう。神にかかる枕ことばである「ちはやふる」の「ふる」がそうであり、神霊が山谷にいきいきと息づいておそろしくもあるという感じが「振る」という言葉にあるようにおもわれる。(「ふる」と「振る」は原文では傍点。『街道をゆく1』「竹内街道」司馬遼太郎。)

拝殿の奥には「高庭」が存在しているという。
そここそが古代人が神のやどる場所と畏敬していたところなのに、白河天皇が人工物の拝殿をつくり、拝殿はまだしも高庭を拝むための施設だったのに、明治期に官僚神道が本殿をつくってしまったと司馬遼太郎は憤る。


これは鎌倉時代につくられた楼門で、重要文化財。
須田剋太がこの前に司馬遼太郎が立つ挿絵を描いている。
石上神宮の楼門

* 山の辺の道は歩くのがいいのだろうけれど、車で一気に南のはしあたりまで走る。

■ 大神神社(おおみわじんじゃ)
奈良県桜井市三輪1422 tel. 0744-42-6633

石上神宮の古寂びた雰囲気に比べると、現世のご利益をあてにする大衆的匂いがつよい。
かなり遠くから大きくて黒ずんだコンクリート製の大鳥居が見えてくるし、鳥居から神社前まで、大駐車場がいくつかある。
大神神社(おおみわじんじゃ)

このあたりでは三社参りという風習があるときいた。「春日大社」「三輪大社(大神神社)」「橿原神宮」を回る。
でもそのうち1つを自宅の近くの神社にかえてもいいとか、3社が厳密に決まっているのではないようだ。
ただし正月の3が日で回るのが基本のようだから、人が集中して、たしかに大駐車場が必要なのかもしれない。

須田剋太『三輪神社の森に古代の巫女(シャーマン)の姿を見た』 三輪神社
須田剋太『三輪神社の森に古代の巫女(シャーマン)の姿を見た』

須田剋太『三輪神社の巨大な〆縄』 三輪神社
須田剋太『三輪神社の巨大な〆縄』

* さらに南に走って多武峰(とうのみね)の山中に入る。山道の途中にある駐車場に車を置いて談山神社(たんざんじんじゃ)に行く。

■ 多武峰・談山神社(とうのみね・たんざんじんじゃ)
奈良県桜井市多武峰319 tel. 0744-49-0001

「奈良散歩」は、週刊朝日の連載では13回で、東大寺を中心に奈良市街の狭い範囲を歩いている。ただ連載の第1回だけは、市街から離れた多武峰に行ったことが記されている。
多武峰は、山の辺の道よりさらに南にあり、少し西に行けば石舞台古墳とか高松塚古墳とかがあるほどの位置になる。
『街道をゆく』の旅は、1984年3月1日、お水取りがはじまる日に奈良市に入り、「池畔の宿」(というのは奈良ホテルだろうか)に泊まり、翌日、多武峰に行った。
司馬遼太郎は「こどものころ、遠足で多武峰に登った」ことがあり、懐かしい思いがあるところ。
でも「そのあたりは奈良盆地のなかでも孤立していて、わざわざゆく以外、ついでの用事ができるような場所ではない。」のでなかなか行く機会がなくて、『街道をゆく』の旅で思いたって出かけたのが3度目とのこと。

傾斜地にいくつかの建物が配置されている。
本殿と楼門が中庭を囲む構成とか、高い位置の壁画に囲まれた神廟拝所とか、目に新鮮な独特の建築や装飾がある。
そのうち須田剋太は十三重塔を描いている。屋根のたての重なりがみごとだ。

須田剋太『多武峰』 多武峰・談山神社(とうのみね・たんざんじんじゃ)
須田剋太『多武峰』

談山神社には、藤原氏の祖、鎌足が祀られている。
藤原鎌足(とのちに名乗る人)と中大兄皇子(のちの天智天皇)が政敵を討つ談合をし、大化の改新に至ったということが神社の起源という。
今、談合というと、企業がずるい協定をむすぶという悪事の印象がある。神社の起源の説明に使われていることからすると、もともとは悪事に限らない言葉だったようだ。

いくらかでも山に上がっただけ空気が冷たい気がする。
境内は訪れる人も少なくて静かだった。
道の反対側には多武峰観光ホテルとみやげもの屋が、神域に並行して長く延びている。こちらも営業していないふうで、ひっそりしていて、よけいさむざむしてくる。
これから桜の季節にはにぎわうらしい。

● ふくや
奈良県桜井市多武峰427 tel. 0744-46-1830

ふくやで、めはりずしを食べる 駐車場にある食堂で昼にした。
うどんと、めはりずしの定食。
めはりずしというのは高菜の浅漬けの葉でくるんだ丸っこいおむすびで、簡素でおいしかった。

食べている間、他にまったく客がない。
ほかに食べる店は見つけにくそうな所だったから、ここが開いていてくれてよかった。

* 西へ走ると明日香村の石舞台古墳など飛鳥の見どころがいくつも点在している。ひかれるが、前に来たことではあるし、先に寄るべきところがまだいくつもあるのでパスする。
葛城山から金剛山へと南北にのびる山系の東のへり(奈良盆地側)に、『街道をゆく』「葛城みち」の神社が連なっている。
御所市の高鴨神社、一言主神社、葛城市の葛木坐火雷神社(かつらぎにいますほのいかずちじんじゃ)と、『街道をゆく』の順序とは逆に南から北へ向かった。


■ 高鴨神社
奈良県御所市鴨神1110 tel. 0745-66-0609

全国の賀茂神社(鴨神社)の総社とされる神社だが、池のそばにひっそりとあった。
数段の階段を上がった先に2棟の社殿がある。
手前に黒い瓦の拝殿、奥に檜皮葺の本殿がある。
須田剋太がここで描いた絵は、右手の石段の下から見あげて、2棟を並べている。
今は木の葉が繁って、その位置からでは絵のように社殿を見通すことはできなくなっている。絵では草が生えている斜面上部が、今は石垣に変えられているようだ。

そのあたりまでは推測できるが、不思議なのは本殿の屋根に千木(ちぎ)が描かれているように見えることで、今、目前にある本殿にはない。
尋ねてみようと社務所の呼び鈴を押すと女性が現れて、須田剋太の絵を見てもらうと、こういわれる。
「(絵が描かれたあとの)最近、改修工事があった。それにしても重要文化財だから、前と変えることはありえない。絵をかいた人が勝手に加えたのでは。」
まったくもっともなことで、個人の住宅のように、ちょっと気分をかえてみたなんてふうに変更することはありえない。

須田剋太『高鴨神社』 高鴨神社
須田剋太『高鴨神社』

(上の絵と写真とでは、左右が反対になっている。須田剋太が描いた右側からは木が繁って建物がよく見えないので、写真は左側から撮ったもの。
絵の本殿(右の建物)には千木があるが、写真の本殿(左の建物)には千木がない。)

どういうことだろうと池のまわりを歩きながら考えていて、もしかすると保存・修理の工事が何度か行われていて、あるときから千木がつけられていた。今回の工事にあたり、もとは千木がなかったことが確認できたから原形に戻した-ということはありうるかもしれないと思った。
帰ってからこのときの工事報告書を調べてみた。
『重要文化財高鴨神社本殿 保存修理工事報告書』(奈良県教育委員会 2010)というものが作られている。
修理前と竣工後の写真が対比しておさめてあるが、やはり千木はない。
明治や大正のころに撮られた写真も掲載されているが、どの時代にもない。
社務所の女性がいわれたとおりで、画家が造形的気分で加えたのかもしれない。

■ 葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)
奈良県御所市森脇字角田432

田園地帯にあるが、社殿はいくらか高いところにある。葛城山系の高みに踏みこみつつある位置になる。
階段を数段上がる。
本殿の前にいちょうの大木がある。神社のパンフレットに、秋には庭が一面黄色になる写真があったが、みごとなことだろう。

須田剋太がここでも描いているが、そっくりそのとおりに見えるところはなくて、また謎をかけられた。
はじめに上がった階段あたりから描いているのは確かなようだ。

須田剋太『一言主神社』 一言主神社
須田剋太『一言主神社』

左の絵の画面では、左から、
[手水舎(ちょうずや)、小さな祠の連なり、木の太い幹]
と並んでいる。それらの間はすっきりとたいらな地面になっている。
今、実際にある眺めは、右の写真のように
[手水舎、赤い鳥居と小さな木々(小さな祠の連なりはその向こうに隠れていて見えない)、木の太い幹]
になる。
須田剋太が描いたあと、何もなかったところに鳥居を立てたり、木を植えたりしたろうか。
鳥居と木々の向こうに小さな祠が並んではいる。

須田剋太『一言主神社本殿』 一言主神社
須田剋太『一言主神社本殿』

剋太の絵の右にある木は、本殿の前にある木に似ている。

一言主神社

庭の様子が変えられたのか、剋太が目についたものを組み合わせて画面に再構成したのか、どちらの可能性もある。
手にこよりを持ってお百度参りをしている男性がいたのだが、そういう途中で声をかけていいものかわからなくて、きくことをためらって、わからないままになった。

もともとここの神は「ひとことで言い放つ神」だという。ぐさっと突き刺すようなことをいう怖い神のようだ。
ところが「願いを一言だけ聞いてくれる」神として、現世のご利益を保証する神になって慕われているらしい。

■ 葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかずちじんじゃ)
奈良県葛城市笛吹448 tel. 0745-62-5024

ここで須田剋太が描いた絵には「火雷神社奥殿石窟」と文字が記してある。
社殿のわきを上がると、それらしい石窟の古墳があったが、細部が違う。
石窟の手前に石の板が数枚あるようだが、片付けられたろうか。

須田剋太『火雷神社奥殿石窟』 葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかずちじんじゃ)
須田剋太
『火雷神社奥殿石窟』

ここではもう1枚「火雷神社付近」と記した絵がある。
なにげない道を描いたような絵は場所を特定するのが難しい。
神社の社務所があって、なんとなし予感がしてその脇の坂を降りると、道の風景を描いた場所にでた。
石垣のあいだの階段を上がってみると、信行寺という寺で、小さな庭をきれいに手入れしてあった。

須田剋太『火雷神社付近』 葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかずちじんじゃ)の近く
須田剋太『火雷神社付近』

司馬遼太郎は、その後に大和盆地に成立する天皇家より古くにさかえた地方勢力がここらにあったことから、その時代をしのびに葛城山系の東のへりの小さな神社をたどったのだった。
そんな歴史があったとしても、奈良・京都にはよく知られた寺社がいくつもあるのに比べ、このあたりはとてもひっそりしている。
『街道をゆく』のおかげでこんなところに来てしまった!と目を洗われる思いがすることがいくつもあったが、ここもそうで、僕にも忘れがたい行程になった。

* 葛城山ロープウェイで山上の駅まで上がれば眺めがよさそうだと考えて、ロープウェイ乗り場まで行ってみた。
ところが駐車場にはほかに車がない。
平日は動いていないのか、もう夕方で運転を終えたのかわからないが引き返す。


* 『街道をゆく』の「竹内街道」にでてくる竹内峠までは10キロもない。
国道166号にはいって竹内峠に向かった。
車道をするすると上がって行くと、峠には見晴台とか休憩所とががあるわけではなく、スルっと峠をこえて大阪側に入ってしまった。
旧道は、ところどころこの車道と重なりながら並行しているらしい。
司馬遼太郎は「長尾-竹内間は国宝に指定さるべき道」というし、須田剋太も絵を描き残しているのだが、今日はもうだいぶ日が傾いているし、ここまでこまごまといくつもの地点に寄ってきたので、少し疲れてもいる。旧道を歩くのは別の機会にしようと考えて、いったん峠を越えてから引き返した。
(→ [大阪から奈良へ竹内峠を越え、京都でコンサートを聴く])

* 大和高田でレンタカーを返した。
大和高田駅から近鉄大阪線に乗り、大和八木で乗り換えて、近鉄橿原(かしはら)線の八木西口駅で降りた。
飛鳥川にかかる蘇武橋(そぶばし)を渡って古い町並みが残る今井町に入る。


● 町家民宿 嘉雲亭
奈良県橿原市今井町2-8-25 tel. 0744-23-0016

「大和・壺坂みち」は、壺坂山と高取山が司馬遼太郎がまずはじめに思いたった目的地なのだが、その前に今井町にも寄っている。
僕も近鉄線で吉野の往復したときなど、今井町の脇を電車で過ぎて、前から気になっていたところで、初めて町のなかに入った。
古い家が点のようにあるとか、通り1本の街並みに残っているとかではなく、みごとに面で残っている。

町家民宿 嘉雲亭 そのなかのひとつの家が宿に転用されているのを予約しておいた。
宿主の杉村嘉國さんによると、もとは呉服屋だったという。
古い家が、現代的センスと機能をもった宿によみがえっている。

帳場があったところには井戸と花のディスプレイ。
箱階段を上がると寝室がある。
1晩に2組の予約きり受けないという。
今夜は僕のほかに別の組の予約は入っていないので、結局この広い2階建ての旧家を僕ひとりで過ごすことになる。すごい贅沢で、しかも高くない。

2階の天井の一部が高く抜けている。
かつてかまどの煙を抜くための煙出しだったところで、外から見ると屋根の一部が飛び出して見えている。奈良の雑司町あたりでも古い家が残っていて、この屋根を見かけた。
上は傘のようになっているが、脇は抜けているので、かつては雨や雪がふりこんだという。
今は実用的に使われることはないが、屋根を修理などするときに補助金がでて、煙出しの形だけは復元して、ガラスでふさいであるという。

食事はつかないので、外に出て、橋のそばのレストランで食事した。
夜歩く街並みもしっとりとしていい。

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第4日 古い町にひたる [「大和・壺坂みち」今井町]

■ 今井町

朝食を終えてから町を散策した。
出かける人が「いってきますう~」と家に残る人に声をかけている。
関西の言葉の柔らかいトーンがここちよい。

今井町はもともと堀に囲まれた環濠集落だった。現代では堀はすっかり道路にかわっていたが、南西の隅だけ環濠が復元されていた。
夕べと今朝と、嘉雲亭の主の杉村さんにいろいろ話をうかがった。
町を歩いていても今は商いをしている家をあまり見かけないが、かつては町の中で嫁入り道具がそろったという。
「今井町は豊かで貯えが豊富だったから明智光秀による兵糧攻めにも耐えられた」と杉村さんがいわれる。
「でも川の流れを止められたらすぐにギブアップでは」というと、
「ここは水も豊かだから全然こまらない。今でも飲用にはしないが、庭の水やりなんかには地下水を使っている」とのことだった。

旧米谷家が公開されているのを見に入ると、建物を通りり抜けた先の庭に井戸があった。のぞいてみると、すぐそこに水面がある。なるほど地下水の水位が高くて、簡単に汲み上げられる。
庭に石を組んで排水路を作ってある。その先は細い排水溝に流れこんでいる。
排水溝はすべて西に向かっている。今井町全体が東に高く、西に低い土地なので、水の流れがすべて東から西に向かうよう条理に区画して、家を建てている。
今井町 旧米谷家

ついでに水のことをいえば、水道は早くに通ったが、下水道が整備されたのはようやく10年ほど前のことと杉村さんがいわれていた。
かつてどの家にも風呂がなくて、銭湯が4つあったが、今は1つきりになっている。

蓮妙寺という寺があって、「東側の堂は妙見大菩薩を祀る」と説明がある。
奈良町の鎮宅霊符神社につづき、この旅では現地にきてみて北斗七星に関わるところにまた行き当たった。
門の正面に本堂、門を入って右にその東側の堂。
植木鉢に水を与えていた女性にたずねると、堂をあけていただけたので参拝する。

祥念寺では屋根の工事をしていた。大きな寺なのでたいへんな足場を組んであり、背の高いクレーン車が部材を運び上げている。脇の道を抜けると、隣の家の軒すれすれまで覆うように足場が迫っている。

今井町で須田剋太が通りの風景を描いているが、また謎をかけられてしまった。
視点が2階建ての家の屋根くらいの高さにある。
「道がつきあたりになっているところで、3階くらいの位置に立てる」という建物を探しながら町を歩いていたのだが、それらしいところはなかった。

須田剋太『今井町街頭』 今井町
須田剋太『今井町街頭』

嘉雲亭の杉村さんにもその絵の場所のことをたずねたのだが、今井町の外側からでもそのように見おろせる場所は思いあたらないふうだった。
絵の右奥に塔のようなものがある。祥念寺の鐘楼かもしれないが、お寺は工事中で近づけない。

* 『街道をゆく』4つぶんを1度の旅でめぐった。
東大寺のほかは、ふつうの観光ではまず行かないところばかりで、それぞれに味わい深かった。
八木西口駅から大和八木-鶴橋-天王寺と乗り換えて関西空港に着いた。


■ 関西空港~成田

関西空港から成田までJETSTARで飛ぶ。
前にJETSTARに乗ったのは、去年(2012年)7月半ばだった。7月はじめに国内での運行を始めてまもないころで、先行していた国際線のシステムを国内線用に置き換えただけというふうで、WEBでの予約やその結果の印刷物に妙に英語表記がまじって面倒だし、ほかにちょっとした不手際もあって、2度とはのらないかなと思っていた。
でもやはり安さにひかれるし、新幹線で走るより高いところを飛ぶのが好きで、また乗ってしまった。今回は予約にも搭乗にも前のようなひっかかりはなく、なめらかにいった。(新幹線より安くすんだ分で今井町に1泊よけいに泊まれた計算になる。)

座席指定のために400円の別料金を払って窓際の席を予約した。
離陸して左に旋回して、ふたたび関空の真上を通過してから東に向かう。
とくに寺社めぐりを趣味にしているつもりはないのだが、この旅は神社仏閣がほとんどになってしまった。最後にレンソ・ピアノの未来的な空港から飛んで、いくらか気持ちのバランスを回復した。

(写真で海の向こうにぼんやり見えるのは神戸付近。)
関西空港から成田

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参考:

  • 『街道をゆく1』「竹内街道」「葛城みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1971
    『街道をゆく7』「大和・壺坂みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976
    『街道をゆく24』「奈良散歩」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1984
    『街道をゆく34』「中津・宇佐のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1989
  • 『吉野葛・蘆刈』 谷崎潤一郎 岩波文庫 1986
    『淀川下り日本百景』 樋口覚 朝日新聞社 2004 
  • 『重要文化財高鴨神社本殿 保存修理工事報告書』 奈良県教育委員会 2010
  • 3泊4日の行程 (2013.3/12-15)
    (→電車 -レンタカー ~自転車 …徒歩 >飛行機)
    第1日 京都駅→京阪八幡市駅(ケーブル)石清水八幡宮(ケーブル)京阪八幡市駅~合流点ウォッチング「桂川・宇治川・木津川・淀川」~飛行神社~八幡市駅→近鉄奈良駅…ホテルサンルート奈良(泊)…東大寺
    第2日 ホテルサンルート奈良…東大寺大仏殿…空海寺…転害門…東大寺ミュージアム…二月堂…絵馬堂茶屋…興福寺…元興寺…鎮宅霊符神社…御霊神社…奈良市立図書館…ホテルサンルート奈良(泊)
    第3日 JR奈良駅→JR高田駅-石上神宮-大神神社-多武峰・談山神社-高鴨神社-葛城一言主神社-葛木坐火雷神社-竹内峠-近鉄大和高田駅→近鉄八木西口駅…町家民宿嘉雲亭(泊)
    第4日 今井町散歩…八木西口駅→関西空港>成田空港