鳥取を東から西へ


秋が深まる頃、鳥取空港から出発して東から西へ移動し、米子空港から帰る旅をした。
久しい前から行きたいと思っていた美術館や国宝をようやく訪れることができた。
司馬遼太郎と須田剋太の『街道をゆく』では、『7 砂鉄のみち』1976と、『27 因幡・伯耆のみち』1985と重なる。
コースは一部、岡山県と島根県にもはみだす。

 第1日 岡山県の山中へ(岡山県奈義町・津山市) 
 第2日 岡山から鳥取に戻る(岡山県津山市から鳥取市)
 第3日 鳥取市から日本海岸を西へ(鳥取市から倉吉市)
 第4日 三徳山と大山 
 第5日 島根半島を往復して皆生温泉に泊まる 
 第6日 米子・安来・松江経由、米子鬼太郎空港から帰る 

* 羽田空港から鳥取空港:
きっぱりと空気が澄んでいて、すばらしい眺めを味わった。
離陸するとまもなく、荒川河口、東京スカイツリー、後楽園球場のドーム、皇居の堀と展開する。
それから多摩川に沿って西に飛んで、新宿のビル群から、味の素スタジアム、東京競馬場と多摩川競艇場。
山地に入って、相模湖、富士山、雪を最上部にだけまぶした日本アルプス。
合流部に長い洲が伸びる川が見えたのはたぶん長良川と木曽川で、そこからまもなく琵琶湖を横切る。
日本海に出て、鳥取砂丘を見おろしながら旋回して鳥取空港に着陸した。
1時間10分のビッグ・ショーだった。

.
 第1日 岡山県の山中へ(岡山県奈義町・津山市)  

* 空港でレンタカーを借りた。今回の行程は米子空港まで借りっぱなしで移動する。今日と明日の前半は中国山地に南下して、岡山県の北部を回る。
(その後はほぼ日本海に沿って西へ移動する。)
鳥取i.c.から鳥取自動車道の無料区間を走って智頭i.c.で降りた。
時おり雨がぱらついたが、美術館に着いた頃にはやんだ。


■ 奈義町現代美術館
岡山県勝田郡奈義町豊沢441 tel. 0868-36-5811 

1994年に磯崎新の設計による美術館ができてから、ずっと行きたいと思っていたのが、ようやく来られた。18年も経っている。開館の年に生まれた子どもが高校生になるほどの時間がかかってしまった。 奈義町現代美術館

宮脇愛子「大地」は、屋外の池から屋内の石ころの庭につながる。弧をを描くロープが水に映り、ガラスに映る。
荒川修作「太陽」は、黒いらせん階段を上がった先にある円筒形の展示室がすっかり作品になっている。両端の円形は白と黒の太陽になっている。白いほうは外光を受けて明るい。
筒の壁には、塀と石庭が左右で対称に作られている。上から石庭を眺め降ろしているような、しかもそれがグワっと湾曲しているので、クラクラしてくる。上下にはベンチと滑り台が、やはり対照するように置かれている。
モノだけでなく、色も、黒と白の円、赤い床に緑の天井というように対照的に作られている。
作品を鑑賞するというより、ここに身を置く経験。
岡崎和郎の彫刻「月」は、薄く欠けた月の形の展示室にかかっている。 直線の壁は、中秋の名月の22時の方向軸にあわせてある。


宮脇愛子の庭を眺めながらカフェでコーヒー・ブレイク。1杯は無料で、次から300円。2杯味わう。
奈義町現代美術館のカフェ

■ 奈義町立図書館
岡山県勝田郡奈義町豊沢441 tel. 0868-36-5811
http://www.town.nagi.okayama.jp/library/index.html

美術館に図書館が接続している。

シンプルな立方体で、2階の閲覧室で壁際の席に座ると、窓から美術館が見える。
その窓と、中央の大きな天窓から、自然光が適度に入る。
奈義町立図書館

図書館では、一般的にビジュアルな美しさに無関心なところが多いが、ここでは館内のレイアウトや表示がすっきりしている。「利用のごあんない」の デザイン感覚も紙もいい。18年経っても建築家の思いが生きている気がする。

* 国道53号を西に行き、途中で右折。因美線に沿って北上すると旧・加茂町(今は津山市の一部)に着く。
加茂町福祉センターと百々(どうどう)温泉めぐみ荘に囲まれた駐車場に車を置く。


■ 万灯山古墳 (まんどうやまこふん)

駐車場から見える小山に登る。
6世紀末ころの古墳で、小山を巻くように上がっていく細い道を進む。石室があるはずなのだが、わからない。犬を散歩させる女性に行きあって場所を教えてもらった。
小山の山頂に、さらにコブのように土が盛り上がったところがあり、その脇に横穴式の石室があった。
崩落の危険があって柵でふさいであり中には入れない。
暗くて中の様子がわからないが、フラッシュをたいて写真をとると、中はからだった。

須田剋太『加茂町万灯山古墳』 万灯山古墳
須田剋太『加茂町万燈山古墳』

『街道をゆく』の「砂鉄のみち」の取材で訪れた須田剋太がここの絵を描いている。
中に石棺があるように描かれている。
石棺は加茂町歴史民俗資料館に展示されているらしいのだが、加茂町福祉センターの2階にあり、福祉センターの職員が管理する都合上、僕が行った日曜日は開いていない。
明日行ってみることにする。

■ 津山市立加茂町図書館
岡山県津山市加茂町塔中113-6 tel. 0868-42-7032

旧・加茂町の中心部にある図書館に寄る。
郷土資料の棚に『作州のみち 鉄(たたら)のみち』(津山朝日新聞社編・刊 1978)があった。
9世紀の編とされる日本霊異記の話が紹介されている。美作の国で、鉄を掘る穴が崩れて閉じこめられた男が「法華経を写す願をかけたがまだ写し終わっていない。助かったら必ず写し終える。」と祈ったところ、光がさしてきて、外につながる裂け目が現れ、助かった。鉱山災害の日本最初の記録でもあるという。

● 八木旅館
岡山県津山市加茂町小中原65-1 tel. 0868-42-2872

百々温泉と図書館のあいだあたり、細い街道沿いの宿に泊まる。
にこやかなおかみに部屋に案内される。
智頭農林高校に体操留学の高校生が9人暮らしていて、9時に戻るから、風呂は混む前に入るといいといわれる。まかないつき下宿を兼ねているわけだ。
僕が泊まった部屋も、旅館というより、何だか懐かしい下宿部屋のような雰囲気がある。こたつが置かれ、柱に洗濯紐が3本もかかっている。

体操部の高校生が暮らしているということから予想されたとおりに、僕の夕食もかなりのボリュームだった。心づくしのおいしい料理ばかりだったが、数日前まで入院して粥を食べていたほどなので、食べ残してしまった。

そもそもこういう所になんのための宿なのだろうと不思議に思っていたが、おかみが高校生だった頃、学校の先生のまかないつき下宿を始めたのだという。その後、発電所ができるとき、頼まれて工事の人を泊めるうち、旅館として営業を始めた。結婚し、子育てをし、学校や町の役職もこなしながら宿を続けてきた。
食堂の壁には大きな写真がぐるりと貼られている。毎年元旦に撮った家族写真で、子供が増え、孫が増え、ほとんど毎年構成が変わっているようだ。
ここに暮らす体操競技の高校生の活躍を報じる新聞も貼られている。
ここに生きる人のぬくもりが感じられるいい宿だった。

ページ先頭へ▲
.
 第2日 岡山から鳥取に戻る(岡山県津山市から鳥取市) 

* 車で倉見川に沿って数キロさかのぼると黒木ダムがある。

■ 黒木ダム
岡山県津山市加茂町黒木

『街道をゆく』の「砂鉄のみち」は、中国地方の製鉄の跡地をめぐる旅なのだが、岡山県の山中では加茂町タタラの跡を訪れている。
途中にある黒木ダムを須田剋太は描いている。

須田剋太『加茂町タタラの山に行く途上の黒木ダム』 黒木ダム
須田剋太『加茂町タタラの山に行く途上の黒木ダム』

剋太の挿絵は、ときたま謎かけをされているようなことになるのだが、ここも不思議だった。絵のように見える視点を探して右岸、左岸と往復し、ダムの上流側、下流側と見比べてみても、ピッタリした場所がない。
ダムから離れた崖から突き出した岩に飛び移って描いたとすれば絵のように見えそうだ。
頭の中で角度を補正して描くというようなことをしていたのだろうか。

■ 加茂町歴史民俗資料館
岡山県津山市加茂町小中原143
(加茂町福祉センターtel0868-42-3311の2階)

また百々温泉の駐車場に戻る。福祉センターで管理しているので、きのうの日曜日は休みで資料館にも入れなかった。
福祉センターの窓口で資料館を見たいと告げると、きのう万灯山古墳で犬を散歩させていた女性で、きのうは石室、今日は展示室に案内してもらった。

須田剋太『万燈山古墳』 万灯山古墳の石室内の石棺
須田剋太『万燈山古墳』

万灯山古墳から出土したものが展示されている。
大きな陶棺があるが、剋太の絵では石室の中にある状態で描かれていた。
その後、資料館の中に移されたようだ。

* 山道を走り、物見峠を越えて、ふたたび鳥取県に戻った。

■ 杉神社
鳥取県八頭郡智頭町(ちづちょう)智頭

智頭の町はずれにある神社。
智頭は林業の盛んな町で、きのう智頭i.c.を降りたとき、一般道につながるループをくるくる回りながら目に入った山の斜面が整然と美しいのが印象に残った。

ここで杉の植林に活躍した人が建立した神社で、鳥居も本殿も、杉を模して上をとがらせた形で珍しい。
鳥居から神社への細い参道の脇を鮮烈な水が流れている。
杉神社

* 八木旅館に暮らしていた高校生たちが通う智頭農林高校の前を走って、観光用駐車場に車を置いた。
そこで案内地図など見ると、須田剋太が描いて『智頭町』と記した絵は板井原集落のものとしか考えられない。これから鳥取市街に向かう道からはそれるのでちょっとためらったが、行ってみることにした。(それは大正解だった)。
北東に細い道を上がる。


■ 板井原集落
鳥取県八頭郡智頭町(ちづちょう)

細い板井原川に沿って農家の集落がある。古い城下町や宿場町の風情が残る街はいくつかあるが、こんなふうにふつうの農村風景がそっくり残るところは珍しいだろうと思う。
家にも小屋にも新建材を使っていなくて、土壁に暖かい日が射している。
家々の間の道は舗装されないまま、細くゆるやかに曲がって先に延びている。
江戸時代とかまでいわなくても、明治か大正の農村がそっくりタイムスリップしてあるかのようだ。
須田剋太が描いた家はすぐわかった。明治期に建った藤原家住宅で、町の文化財に指定されている。

須田剋太『智頭町』 板井原集落の家
須田剋太『智頭町』

『街道をゆく』で、司馬遼太郎の文章はここにはふれていない。
須田剋太の絵をたどると、司馬遼太郎と須田剋太が『街道をゆく』に書かれていないところまでもずいぶんな距離を見て歩いたらしいことがわかる。

● 野土香(のどか)
鳥取県八頭郡智頭町市瀬1947  tel. 0858-75-3017

野土香(のどか) なんだか気分がゆったりしてきて、一軒の家が喫茶店兼ギャラリーになっていて入る。
囲炉裏端でコーヒー。
障子越しに入る光がいい。

● 火間土(かまど)
鳥取県八頭郡智頭町市板井原 tel. 0858-75-2555円

ついでに「自然乾燥米かまどめし」とある家に入ってみる。
「平日は予約のお客さんだけなんです」と、おばあちゃんが申し訳なさそうに断りかけているところに、うしろからおじいちゃんが「用意しよう」と声をかけてくれる。
席には団体用のセットができているが、そのはずれに1つ席を用意された。
15人の八頭郡の社会福祉協議会のツアーと、9人のカメラ愛好者のツアーらしい。

火間土(かまど)でランチ 料理は、大根、ふき、さといも、栗、しいたけ、にんじんなど、地場の野菜。
大根おろしがあるのは何だろうと思っていると、あとからあげたての天ぷらが3品、さつまいもと、むかごと、ほどといったか、小ぶりだが美味だった。
ご飯のおかわりをすすめられて、ほとんどもう十分なのだが、せっかくだからと思ってお願いする。

おじいちゃんに「どこから」ときかれて「埼玉から」というと、得心したように「遠くからだと思った(から予約なしでも引き受けた)」と、やさしい笑顔で言われる。
集落も食べ物も人もみんなほんわりとして、いいところに来たと思った。

* 鳥取道をきのうと逆に智頭i.c.から鳥取i.c.まで戻る。
市街へ入る前に、東へ、国府に向かった。


■ 国府・大伴家持の歌碑・宇倍神社
宇部神社:鳥取市国府町宮下651 tel. 0857-22-5025

因幡国庁跡は、広く見晴らしのいい原に位置している。
本殿と後殿と門の礎石の跡が示されている。
因幡国庁跡

すぐ近くに大伴家持の歌碑があり、万葉集の最後の歌が刻まれている。
「新年之始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家余其騰(新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)」
因幡の国守に赴任した明くる年の元旦に、祝いの宴で詠んだもので、「新しい年のはじめにきれいな雪が降っている。今年このようによいことが続きますように」という祈りの気持ちをこめている。

須田剋太『大伴家持歌碑』 大伴家持歌碑
須田剋太『大伴家持歌碑』

後ろに大きな木が2本あるが、剋太の絵では大きな木に見えない。30年ほど経つから大きく育ったろうか。
 
宇倍神社は因幡一の宮で、小さいが形がいい。しばらく見とれた。

須田剋太『国府町宇倍神社』 宇倍神社
須田剋太『国府町宇倍神社』

左奥の階段を上がった先に「御神体」がある。

須田剋太『御神体』 宇倍神社の石
須田剋太『御神体』

* 鳥取市内にようやく戻って、まず図書館に行った。

■ 鳥取県立図書館
鳥取市尚徳町101 tel. 0857-26-8155 
http://www.library.pref.tottori.jp/

1999年から2007年まで県知事だった片山善博氏は図書館に力を入れたことで知られた。県内の全高校と9割以上の小中学校にも専任の司書を置いた。
片山知事が退任したあとも図書館を大事にする姿勢は引き継がれ、県立図書館の図書購入予算は2010年度の統計でも1億円を超えている。鳥取県は人口60万人弱で、全国でいちばん少ないが、図書購入費は東京都、岡山県、大阪府、千葉県に次いで5番目になる。
鳥取県立図書館

今も図書館が誇りを持って運営されている印象を受けた。
こちらに来て知ったのは「環日本海交流室」というものが設置されていること。
日本海を囲む国々の理解を深める趣旨で、ロシアや中国や韓国の図書・資料が集められていた。マンガまである。ロシアの人が大勢鳥取に住んでいるわけでもないようだが、ロシアの書を置くところが他にないので、遠くから訪れる利用者があるという。

* 仁風閣を眺め、鳥取県立博物館に寄ってから、鳥取駅のすぐ前にあるホテルにチェックインした。

● スーパーホテル鳥取駅前
鳥取市扇町5 tel. 0857-22-9000
http://www.superhotel.co.jp/s_hotels/tottori/tottori.html

今までもスーパーホテルにはいくつか泊まったことがある。
効率化して人手を省くことと、宿泊者の快適さの両立を、よく考えてシステムが作ってある。宿泊料に対する満足度が高い。

● たくみ割烹店
鳥取市栄町653  tel. 0857-26-6355

医師でもあった吉田璋也(よしだ しょうや 1898 - 1972)は1949年に鳥取民藝美術館を開設。1962年にはその隣に郷土料理を民芸の陶器に盛りつけて提供する割烹店を始めた。
司馬遼太郎一行は『街道をゆく』の「因幡・伯耆のみち」の旅で鳥取に泊まった。
このときの夜の食事のことを、司馬遼太郎は「私どもは気分のいい店で夕食をとった。」と書き出してかなりの文字数を費やして記しているが、店名や、店を直接に特定できるような説明はない。
須田剋太が描いた絵には、「民芸料理」と文字が記されているが、やはり店名はない。

たくみ割烹店 ガイドブックにここが民藝美術館の延長として開かれた店とあるので、見当をつけて行って見た。
店内に入ると、須田剋太の絵のようにテーブルが並んでいる。
店の女性に話を伺うと、やはりこことのこと。

店には和紙を綴じたゲスト・ブックが何冊もあるのを見せていただいた。
司馬遼太郎はさりげなくいい店にあたったかのような書きぶりなのだが、文化、芸能、スポーツなど各界の著名人が訪れている店だった。
有名店に行くと、壁に有名人がサインした色紙が並んでいることがよくある。ゲスト・ブックにサインしてあるのでは、ただ食事をしているだけではたいそうな客がきていることがわからない。
でもゲスト・ブックにするか、色紙にするかは、一流と二流の分岐点のように僕は思う。色紙はやがて色あせ薄汚れて捨てられる。ゲスト・ブックは長く残って歴史になる。
しかるべき人が訪れたことをきちんとゲスト・ブックに記しているところに、民藝美術館の延長として作られた店のさすがの歴史意識を感じた。
地酒でほろ酔いになり、鳥取牛を味わって、僕にも気分のいい夕食になった。

* ホテルに歩いて戻る。三日月がでているが、雨もぱらつく。
夜の鳥取の街を歩いているとき、須田画伯が「信号が輝いてます」と言ったと『街道をゆく』にある。今も県庁所在地の都市とは思えない小規模な都市のふぜい。
駅前の大丸の地下で袋入りのみかんを買った。以後の旅のあいだのビタミン補給になった。


ページ先頭へ▲
.
 第3日 鳥取市から日本海岸を西へ(鳥取市から倉吉市) 

■ 鳥取砂丘

砂丘見物用の駐車場に車を置き、階段を上がると、砂丘のへりに立つ。
砂丘は、いったん下って、海岸寄りでまた高く盛り上がっている。

目が焦点を結ぶものがなくて、距離感が茫漠としてしまう。
さらさらした砂を踏んで傾斜を降りて上がって高い山のてっぺんに立つと、日本海 の波の音が大きく迫ってきた。
鳥取砂丘

鳥取空港に着陸するときに飛行機から見てしまったし、地質や歴史に関することは博物館で勉強してしまったが、実際に歩いてみる感じはまた格別だった。

* 砂丘見物用の駐車場は砂丘の東側にあるが、車でぐるっと西にまわりこむと千代川(せんだいがわ)の河口がある。

■ 河口ウォッチング:千代川

千代川は、智頭町に源流があり、鳥取砂丘で日本海に注ぐ、鳥取砂丘を作った川。

河口の先端に向かって堰堤が延びているが、両側を柵ではさまれている。一見、柵の外にも砂地が続いているようだが、堰堤を保護するテトラポットに砂が積もっているらしい。子ども用には「あぶない 砂の中に落ちて出られなくなることがあるのでここで遊んではいけません」、おとな用には写真のような、注意看板が立っている。雪山の裂け目を雪が覆っているのと同じ状態のようだ。 千代川河口

ここから見る砂丘は、草木が生えているところが多い。
砂地に適した作物を探してらっきょうを作るなど、砂丘を苦労して開拓した歴史がある。川や港の整備で砂の蓄積が減り、今では砂丘の景観を守ることに苦心があるらしい。
波が、河口をさかのぼって、ある線まで押し寄せている。その先の水面は静かで、動きが見えない。海と川とがこんなにきっぱり区分している眺めは珍しい。

■ 伝説の白兎海岸

いなばのしろうさぎの伝説の地。
海岸沿いの国道に大きな駐車場があって、観光バスが数台並んでいる。バスから降りた人たちは神社への参道を上がっていく。伝説の現場とされていることにどれだけ根拠があるかわからないが、観光名所としてにぎわっている。

須田剋太『白兎神社』 白兎神社
須田剋太『白兎神社』

歩道橋を渡って海岸側の歩道に降りたところに石碑があって、ここを須田剋太が描いている。

須田剋太『神話の地 白兎海岸』 「大黒さま」の石碑
須田剋太『神話の地 白兎海岸』

石碑には「おおきなふくろをかたにかけ」という大黒さまの歌が、楽譜つきで刻んである。よく見れば剋太の絵にも、きちんと五線譜が描かれていた。

* 石碑を眺めているうちに、傘がいりようなほどに雨が降り出した。今日、三徳山に行きたかったのだが、明日に変更することにした。できるだけ一筆書きで動きたいのに、いくらか同じ道を往復することになるが、三徳山の道は険しそうなので雨は避けたい。
左に湖山池、右に鳥取空港という間の道を西に進む。
宝木で左(南)に折れると、旧・鹿野町(しかのちょう。今は鳥取市の一部)に着き、鹿野往来交流館に駐車した。
雨はあがっている。


■ 静かな城下町・鹿野

ここで須田剋太は数点の挿絵を描いている。

須田剋太『山中鹿之助墓所』 幸盛寺
須田剋太『山中鹿之助墓所』

『山中鹿之助の墓所』は幸盛寺(こうせいじ)にあり、車を置いた鹿野往来交流館のすぐ近くにあった。
山門を中から外に向かって描いている。

須田剋太『鹿野町』 鹿野町の幸盛寺近くの道
須田剋太『鹿野町』

『鹿野町』の絵は、交流館から幸盛寺に向かう道を描いている。

鹿野城趾では、堀の水の風景を2枚残している。

須田剋太『鹿野城』 鹿野城趾の給食センター
須田剋太『鹿野城』

城趾に建つ中学校のプール脇に、瓦屋根の大きな和風建築がある。武道館のような施設かと思ったが、散歩する人にきいてみたら給食センターだというので驚いた。1階が町内の学校給食の共同の調理場で、2階が中学校の食堂になっている。
近くにある小学校は、統合で廃校されたが、もと体育館に「鳥の劇場」という横断幕がかかっている。こちらのこともきいてみると、現代演劇の劇団がふだん練習に使っていて、ときに公演もここであるとのこと。公演には全国から人が来るが、「私らにはチャンバラみたいのでないとわからない」 といわれる。
あとで調べると、この劇団は夏には越後妻有アートトリエンナーレに招かれて公演もしていた。

鹿野の町を歩いていると、静かで落ち着いて気分がいい。
司馬遼太郎は「通りは水の底のように静かで(中略)ぜんたいに、えもいわれぬ気品をもった集落なのである。」(『街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち』と書いている。
司馬遼太郎と須田剋太の一行が訪れてから30年近く経っているが、そのよさは失われていない。

* また北上して海岸の道に戻り、西に行く。
まもなく国道9号(山陰道)は、長尾鼻という、日本海に三角形の突起につきだした地形の根元を通る。途中で右折してその先端に向かう道に入る。
道は上り坂になる。
このとき雨は降っていないのに、道が盛大に濡れている。道路の中央の溝から融雪のための水が噴き出している。坂を登りきったあたりに数人の作業服の人がいた。雪の季節を前に、道の中央に埋め込まれている融雪装置の点検をしている。
かつて夏泊の海岸に行くには歩いて山を越えたものと『街道をゆく』の記述にある。今は融雪装置つきの道ができて、ずいぶん行き届いて便利になっている。


■ 小さな夏泊港

海ベリに降りると小さな港があった。 夏泊港

ここで須田剋太は司馬遼太郎など3人が並ぶ絵を描いている。その中央に立つ人は、おかっぱ頭で画板を持って、あきらかに須田剋太本人。
2人描いて中央をあけておいて、あとから自分を加えたのだろうか。
その場でスケッチしているときに、自分もそこに立つものとして描いたのだろうか。
不思議な絵だ。

須田剋太『鳥取夏泊港』

須田剋太『鳥取夏泊港』
夏泊港の集落の坂道

細い坂道を上がって集落に入ってみる。
坂道は分岐しながら上にのびていて、港は小さかったのに、人家は意外に多い。
いちばん上まであがると遠くの海岸まで見通すゆるやかな風景が眺められた。

『街道をゆく』の取材では、この上部で車を降りて、歩いて港に下っている。途中で3人の海女が追い越して海に向かって行ったことが司馬遼太郎の文章にある。今も海女による漁が行われているのかどうか。
港近くの海ベリに海女漁について説明する絵入りの大きな看板が立っているが、ところどころ剥げている。港や集落を歩いている間、人に出会わなくて、きいてみることもできなかった。

* 東郷池の東岸にある神社に向かった。
池からそれてやや高くにある森の中に神社がひっそりとあった。


■ 倭文神社(しとりじんじゃ)
鳥取県東伯郡湯梨浜町大字宮内

伯耆国一宮だから大きな神社を予想していたのだが、木々に囲まれて静かで、社殿にも、手前の社務所にも、神社の人の気配がない。
たまたま僕の先を広島ナンバーのマイクロバスから降りた10人ほどのグループが行く。
閉じていた社殿の扉を開き、参拝を始めた。
まずリーダーが祝詞をあげ、そのあと、こんどは全員が手を前で組み、声をそろえて祝詞をとなえる。僕があたりをウロウロ眺めている間、10分ほども続いたろうか。
神主が参拝者を前にして祝詞をとなえる様子はしばしば見かけたことがあるが、こんなふうに、神主がいないところで参拝者が独自に熱心に祈るところは初めて見た。

須田剋太はここで山門の絵を描いている。

須田剋太『伯耆一ノ宮倭文神社』 倭文神社(しとりじんじゃ)の山門
須田剋太『伯耆一ノ宮倭文神社』

ちょっと変わった山門で、鳥が頭を突き出している。龍とか象とかはよくあるが、鳥の頭は初めて見た。
出雲の国譲りの神話に雉が登場するから、この鳥は雉かもしれない。

* また海岸を離れて南に向かい、倉吉市に入った。東郷池付近では食事できる店が見つからなかったので、倉吉パークスクエアで遅い昼食をとった。

■ 倉吉パークスクエア

市の中心部にあるまちづくりの拠点となる複合文化施設で、紡績工場の跡地に2001年にできた。
赤い鉄骨のアトリウムを囲むように、鳥取県立倉吉未来中心(コンサートホール)や、鳥取県立鳥取二十世紀梨記念館や、倉吉交流プラザ(倉吉市立図書館+生涯学習センター)などが集まっている。
倉吉パークスクエア

□ 鳥取二十世紀梨記念館 http://1174.sanin.jp/

鳥取二十世紀梨記念館は、ビジュアルな展示がきれいで、じっさいに数種の梨の食べ比べなんかもできて楽しいところだった。
館内の解説文の1つに尾崎翠が引用されていて、そうだ、鳥取は尾崎翠の故郷だったと思い出した。
尾崎翠は1931年という早い時期に『第七官界彷徨』という日本の幻想文学の先駆けとなるような作品を書いた人。
故郷には文学への志向を果たせずに戻ったから、名をなした文化人が求められて故郷の名産品のために一文を書いたといった類の文章を残しているようなのが意外に感じられた。
あとで帰ってから尾崎翠全集で、解説文に一部を引用されていた『新秋名果』の全文を読んでみた。
こんな詩から始まっていた。

ふるさとは
映画もなく
友もあらず
秋はさびしきところ。
母ありて
ざるにひとやま
はだ青きありのみのむれ
われにむけよとすすめたまふ
「二十世紀」
ふるさとの秋ゆたかなり。
澄みて聖きふるさと。はつあきのかぜ
わが胸を吹き
わが母も
ありのみの吹きおくりたる
さやかなる秋かぜの中。
(『新秋名果』尾崎翠 「定本 尾崎翠全集 下巻」所収 稲垣眞美編 筑摩書房 1998)

このあと、梨を「蛮食」−大胆なしかたで数個丸かじりに食べる−したことが書かれていて、文章がとてもさわやかでみずみずしい。
年譜を見ると1935年、39歳のときに鳥取で刊行されている文芸誌『曠野』に寄稿したものとある。これ以後1971年に75歳で、文学への思いを遂げられなかったという失意のうちに亡くなるまで創作作品の発表はない。若く文学に集中していた時期の最後の文章といっていいようだ。
そう知って読み直してみると、なお言葉のきらめきがきわだち、しみてくるようだった。

□ 倉吉市立図書館
鳥取県倉吉市関金町大鳥居193-1 tel. 0858-45-2523
 http://www.lib.city.kurayoshi.lg.jp/

図書館に入ると、涙かしずくを連想させるかたちのトップライトが目に入った。その内側は淡いモスグリーンで、多様な形の窓があけられている。入口を入ってひとめ見たとき、美しさに息を呑んだ。
設計したのはシーザー・ペリ+大建設計で、パークスクエアの中心の赤い鉄骨といい、外国人建築家は建築における色の楽しさも味わせてくれる。

倉吉市立図書館

司馬遼太郎は倉吉の街が国道179号と313号ができて分断され、かつてあった「古格なたたずまい」が失われたことを嘆いている。
倉吉には、パークスクエアの新しい区画と、打吹山とそのふもとの博物館や市役所が集まる区画、玉川の細い流れに沿って赤瓦の古い家並みが集まる区画の3つの核がある。それぞれに魅力があり、またそうしたものが複合することで、いい街だと僕には思えた。

■ 鍛冶町

そういう地域から少し離れたところにある鍛冶町に行ってみた。
細い道はかつての街道だろうか、小さい家が並んであじわいがある。
司馬遼太郎は、ここを訪れたことは書き残していない。
須田剋太の絵があるおかげで、こういう道、こういう暮らしの場があるこことを知ることができるし、司馬遼太郎と須田剋太の一行がこういうところまで歩いたことを知ることができる。(司馬遼太郎と須田剋太は別行動をするときもあり、司馬遼太郎はここには来なかった可能性がなくはない。ただしここには須田剋太があえて別行動にして訪れたいところがあったようには思えない。)

須田剋太『倉吉市鍛冶町』 倉吉市鍛冶町の通り
田剋太『倉吉市鍛冶町』。2階から見おろしているように描いている。 通りにふつうに立って撮った写真

上の須田剋太の絵と、僕が撮った写真とは、厳密に同じ場所とは限らないが、ほぼ近いところのはず。行ってみて不思議なのは、須田剋太はかなり高い視点で描いているが、現地では通りをそのように高い視点から見おろせる場所はなさそうだったことで、また須田剋太に謎をかけられてしまった。

● まきた旅館 
倉吉市西仲町2666 tel.0858-22-2056

間口が狭くて大きな旅館には見えなかったのだが、奥へ奥へとズンズン行って、2階に上がったどんづまりの部屋に案内された。部屋の窓を開けると、表玄関とは反対側の通りが見おろせた。1ブロック分にもわたる長い町屋づくりだった。
その反対側の通りは細い玉川に沿う道で、伝統的な赤瓦の家並みが続いている。

窓から飛び降りれば近いのだが、また玄関まで戻って外に出て、玉川に沿う道を散歩した。
日が沈んで空にいくらか明るみが残っている時間で、いくつか開いている店の灯りが人恋しいような気分にさせる。
倉吉市の赤瓦の通り

古い町の昔ながらにある宿に泊まるとよく眠れる。

ページ先頭へ▲
.
 第4日 三徳山と大山 

* この旅は主に東から西に移動しているのだが、雨を避けて投入堂に登るのは今日にしようと予定を変えたので、今朝はまず東に戻る。

■ 三徳山三佛寺投入堂(みとくさん さんぶつじ なげいれどう)
http://www.mitokusan.jp/

駐車場に車を置いて山門の受付で三佛寺の拝観料400円をおさめる。
ところがそこで「投入堂まで行くには、山道で滑落事故があって以来、2人以上でないと禁止している」と言い渡された。「また仲間と組んで出直していらっしゃい」というのだが、そう簡単に出直せる距離ではない。このあたりの見どころを今回おおむね見てしまっているから、再度となるとここだけを目指してくることになるが、それはなかなか難しい。投入堂には久しく前から行ってみたいと思っていたのだが、諦めるしかないかと落胆する。
ところが宝物殿をひとまわり見て出てくると、ひとり旅の女性が現れ、どちらにも好都合で一緒に入山できた。

投入堂への山道に入るには、また小屋があって、入山料200円を払う。
僕の靴では滑りやすいのでダメということで、わらじ200円を買って、はきかえる。
わらじなんて初めて。前日の雨で道が濡れていて、歩き出すとすぐ、わらじと靴下を透して水がしみてくる。足裏がグジュグジュして、あまりいい感じではない。
ところが岩の多い道になると、足裏が岩にフィットするのでたしかに歩きやすい。
パンフレットに「木の根や岩やクサリをよじ登る等、場所によっては険しい箇所がございます」とあり、まして雨のあとの滑りやすいときなので不安だったが、難所にはたいてい巻き道があるし、どんな危険箇所があるかと思って歩いているうちに着いてしまった。

垂直の崖の大きな窪みに、お堂がアクロバチックに建っている。役行者が法力で岩窟に投げ入れたという伝説にも、現実にあんなところに建てたということと同じくらい説得力があると感じられる。
周囲の岩にすがっている草の葉が黄葉しているのも眺めがいい。
三徳山三佛寺投入堂(みとくさん さんぶつじ なげいれどう)

長く気にかかっていた所に至ったという満足感にひたる。
「ひとりでは入山できない」という落胆も、わらじ歩きも、いい結果に至ってよかった。
同行してくれた女性は、銀座の好日山荘に勤める山のプロだった。岩場でも冬山でも、厳しいほどOKと勇んで登るらしい。マンツーマンのガイドつき登山をしたようなもので、ぜいたくなことだった。

■ 皆成院(かいじょういん)
鳥取県東伯郡三朝町三徳 tel. 0858-43-2882

『街道をゆく』の一行は、投入堂までは上がっていない。

 三仏寺への石段をのぼった。
 息が切れてしばしば休んだが、相変らず須田画伯は健脚で、すらすらと登ってゆく。
 途中、一宇があったのを幸い、
「須田さん、これ以上は怠けましょう」
 と、画伯のそでをひいて、床几に腰をおろした。(中略)
「豆腐」
という文字がぶらさがっている。
 空腹ではなかったが、石段登りを怠ける好日として、それを注文した。店番の老婦人が、座敷にあがってもよい、という。ここは茶店ではなく、子院(しいん)の一つがたまたま物を売っているのである

(『街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち』司馬遼太郎 朝日新聞社 1985)

このあと『街道をゆく』の文章に、ここは皆成院という名だとでてくる。
宿泊も可能なようなので、はじめ僕は倉吉ではなくて、ここに泊まろうと思って旅に出る前に電話してみた。ところが宿泊は10月までで、11月にはもう寒くなるのでうけつけていないとのことで諦めたのだった。

投入堂から降りて、皆成院に寄った。
精進料理の看板がでているので、「物を売っている」ところの女性に尋ねると予約のみとのこと。
豆腐はどうかきくと、今年の3月でやめたといわれる。作ってくれていたおばあちゃんが高齢で豆腐を作らなくなったという。もう1年早く来るのだった。
須田剋太が『街道をゆく』で絵を描いたところを訪ねていると話すと、その女性は、結婚してここに来る前のことで直接は知らないが、おばあちゃんにきいたことがあるとのこと。司馬遼太郎とわからなかったが、座敷に上げて食べさせたという。
その部屋を見せていただけるというので、わらじで歩いて濡れてグズグズの足を、持っていたタオルでごしごし拭いて、あげてもらった。

部屋の奥の障子をあけると、谷を隔てた向こうの山がみごとに黄葉している大展望が開けた。 皆成院

須田剋太『三徳山』 剋太はここで正面の階段を描いている。
(階段を上がった右に皆成院がある。)
中央にすすきの穂のようなものがあるのは何だろうかとたずねてみると、登山者用の杖だという。
持って帰ってしまう人が多く、今は置かなくなったという。
(須田剋太『三徳山』)

* 同じ道を戻ってふたたび倉吉市街を抜ける。
いちど海岸沿いの道に出て、北側から大山への道を上がった。


■ 大山の大山寺

大山については志賀直哉の『暗夜行路』の記憶がある。
読んだのは中学か高校のころだったか。
葛藤をかかえた主人公が、最後に体調が悪いなか大山に登り、カタルシスにいたる場面が印象に残っている。

大山情報館に駐車して、夏山登山道を上がる。

かつて大山寺には100以上の僧房があった。まっすぐのぼっていく登山道のひとつの角に、僧房のひとつだった蓮乗院跡がある。志賀直哉が滞在して『暗夜行路』の描写の参考にしたといわれるところで、そう記した案内板が立っている。
柵の向こうに、建物がつぶれて屋根の形に塊が盛り上がっているのだけが見えた。
大山寺・蓮乗院跡

須田剋太は大山寺で1枚挿絵を描いている。
山門のすぐ先、右に「大山寺」と刻んだ石柱が立っていて、これが絵にあるもののようだ。

須田剋太『大山寺』 大山寺
須田剋太『大山寺』

ところが絵では石柱のうしろは平坦な道のようだが、目の前にあるものは石段の脇にある。
ここでも須田剋太の絵に謎をかけられた。

● 大山ホワイトパレス 
鳥取県西伯郡大山町大山144-2 tel. 0859-52-2721
http://dwpalace.biz/index.html

大山では中の原スキー場のすぐ下にあるホテルに泊まった。
スキーリフトの乗り場から見あげると、雪をまとった大山の夕げしきが見晴らせた。

須田剋太『伯耆大山』 大山ホワイトパレスからの大山
須田剋太『伯耆大山』

大山は見る角度によっては富士山型の独立峰のようだが、いくつかの峰が連なっていて、ここからは壁のよう。どちらからにしても1729mという標高のわりに風格がある。

スキー場の休憩所もかねるから、ホテルのロビーとそこからつづく食堂はとても広い。
宿泊棟には風呂が5つもある大きなホテルだった。 
でも、紅葉が終わり、スキーシーズンには早く、こんな半端な時期にくる客は圧倒的少数派で、この日の泊まり客は僕ひとりのようだった。
大山ホワイトパレス

夕飯は地場の野菜やきのこや豚肉を使った懐石料理を、経営者夫婦の奥さんに話をうかがいながらいただいた。
鳥取市から嫁にきたそうなのだが、鳥取では小学校5年生だったかの遠足で投入堂に行ったという。今のように危険を強調もしていないし、たいそうな国宝というイメージもなかったようだ。

夕飯は外が暗いときに食べたのだが、翌朝の朝食では、外の眺めがみえた。
スキー場と反対の斜面にある小屋は、国体を開催した時のジャンプ台の施設だという。このあたりではジャンプ競技をするほどにはスキー人口が多くないので、リフトは撤去されている。
その小屋の近くまで山菜採りにいくが、ジャンプ台を上から見下ろすとすごい角度だという。
窓からは美保湾と島根半島の広い眺めも見渡せる。

また経営者の奥さんと話しながら朝食しているとき、須田剋太が描いた大山寺の石柱についての疑問をきいてみると、大山寺の住職と親しくしていらして、気軽に携帯で電話をかけられ、話を伺えた。
「12年前(2000年)に参道に新しい山門を作り、そのとき手水鉢を移したりして様子が変わった」とのことだった。
「『街道をゆく』の49巻に文章を書いた」ともいわれる。あとでみたら『週間司馬遼太郎 街道をゆく 49』に、その藤谷実道(ふじたにじつどう)氏が書かれた「修験者への畏敬と天狗信仰」が掲載されていた。

ページ先頭へ▲
.
 第5日 島根半島を往復して皆生温泉に泊まる 


* よく晴れた朝、大山から車で西に下る。弓ヶ浜あたりの海を見おろしながら、ゆるいジグザグの道をゆったりした気分で走りおりていく。おりきってしまうのが惜しいほど、のびやかでいい道だった。

■ 植田正治写真美術館
鳥取県西伯郡伯耆町須村353-3 tel. 0859-39-8000
http://www.japro.com/ueda/

植田正治(うえだしょうじ1913-2000)の美術館に入る。
高松伸さんの設計で建ったのは1994年。いつか行きたいと思ったまま、実現するまでに世紀もかわり、20年近い年月が経ってしまった。その間に写真家本人も亡くなられた。
植田正治さんには、1993年の東京ステーションギャラリーの展覧会の開会レセプションで一度だけお目にかかったことがある。大柄でゆったりした植田さんと、小柄で早口の荒木経惟さんが作品を眺めながら話していた。

コンクリートの壁をいつくも使っている。
壁の間に水を張ってあり、正面に大山が映る位置に、ゆっくり眺められるように椅子が置かれている。
建築総面積に比べて展示室は小さい。大きな作品ではないので、展示点数としては手頃になる。
植田正治写真美術館

「無邪気なオブジェ」と題して、子どもたちを撮った写真をそろえた企画展を開催していた。鳥取砂丘や海辺の風景を背景にして子どもたちがいる。1点1点、ピシっときまった画面になっている。

* 北に走って日本海に向かう。
米子市街を抜けて弓ヶ浜半島を北上する。
行く先には島根半島と海があるだけの、いわば行き止まりの道なのに、交通量が意外に多い。
高い位置にある境水道大橋を渡ると島根県になる。
島根半島の海岸線を東へ先端に向かう。


■ 美保関灯台
島根県松江市美保関町美保関 tel. 0852-72-2811

島根半島の東端にいたると、明治時代にフランス人技師によって建てられた灯台がある。
『街道をゆく』ではこんなふうに書かれている。

「ふしぎなところにきましたね」
 須田さんが、ふりむいた。
ここだけに十九世紀の西洋が小天地として存在している感じなのである。
(
『街道をゆく 27 因幡・伯耆のみち』司馬遼太郎 朝日新聞社 1985)

登録有形文化財に指定されている付属の官舎はレストランになっている。
司馬遼太郎は「カレーライス、できますか」「できます」ということで食事をしている。
僕も昼どきにあわせてきたのだが、あいにく「本日の営業は終了しました」という表示がでて、しまっている。12時前だから今日の営業が終わったのではないだろうが、今日は休みだろうか。
空は晴れているが空気がかすんでいて、大山も隠岐の島も見えなかった。

須田剋太『美保関灯台』 美保関灯台
須田剋太『美保関灯台』

■ 青石畳通

美保関港に戻る。
美保神社の鳥居の右から入っていく細い路地がある。
天然石を敷き詰めてあり、雨に濡れると石が青く光るため青石畳通りと呼ばれている。

須田剋太『青石畳通』 青石畳通
須田剋太『青石畳通』

須田剋太が描いた絵では、すぐ左に「青砥館」とある。今も看板はかかっているが営業はしていないようだった。
絵では奥に「えびす館」という横断幕がかかっているが、これも廃業したふう。
美保館という旅館があり、登録有形文化財の古い建築のほかに鉄筋5,6階のビルもあって、ここだけは勢いがあるようだった。
青石畳通や港あたりには、魚の干物を売る店が多い。
いくつか屋台がでて、イカ焼きを売っている。

灯台で食事をしそこね、青石畳通にも食事の店がない。昼をだいぶ過ぎて空腹で困ったが、港に面した家並みのひとつにようやく食堂があって、刺身定食を食べた。

須田剋太『美保関からの大山』 美保関からの大山
須田剋太『美保関からの大山』

* 境水道大橋を渡って、弓ヶ浜半島に戻る。

■ みずきしげるロード・みなとさかい交流館

半島の先端の境港市は、水木しげるの出身地で、まちじゅうがゲゲゲの鬼太郎づくしになっている。
みずきロードには、鬼太郎のキャラクターの彫刻がいくつも置かれ、鬼太郎グッズを売る店が並んでいる。
ここには数年前にも来たことがある。当時も同様で、ねずみ男や猫娘の着ぐるみを着た人が観光客へのサービスで歩いたりもしていたが、もうひとつ盛り上がらなくてうら寂しい感じだった。
今日は平日なのに人通りが多く、活気がある。若い女性も多く見かける。NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』効果だろうか。

境港駅にはねこ娘が大きく描かれた車両がとまっているし、郵便局は「水木ロード郵便局」、交番までが「鬼太郎交番」になっている。 鬼太郎交番


みなとさかい交流館


隠岐の島に向かうフェリー
駅に接続してみなとさかい交流館がある。空に伸びる塔をいくつものせた、いかにも高松伸らしい建築だが、大きな平面には、みずきしげるのマンガの登場人物が大きな壁画になっている。
交流館にはレストランや展望サウナ風呂が入っているほか、隠岐の島へのフェリー乗り場にもなっている。ちょうどフェリーが出港するところだったが、そこにも一反木綿にまたがって隠岐の島に飛んでいく鬼太郎と、水上スキーをするねずみ男が描かれていた

隠岐の島にもいつか行ってみたいが、あの船に乗ることになるだろうか。

■ 境港市民図書館
鳥取県境港市上道町3000 0859-47-1099

市役所近くにある図書館に寄ってみた。市の図書館にしては小さいようだが、人口3万人台ではこれくらいかもしれない。
当然のこととして水木しげるコーナーがあった。
『街道をゆく』は「因幡・伯耆のみち」が掲載された単行本27巻のみあった。
日本海新聞を見ると、慶應大学糸賀研究室の図書館のプロ対象のアンケートで、鳥取県立図書館がトップになったという記事がでていた。

■ 大根島

以前来た時も、このあたりを車で走った。松江から出て、大根島、江島を経て、境港に向かった。陸地と島をつなぐのは橋ではなく、中海に土を盛って作ったかと思える道路が通っている。不思議な風景だと思いながら、時間がないので走り抜けたが、いつか地形を確かめてみたいと思った。

ことしの10月、埼玉県鴻巣市で開催した須田剋太展のおり、作家の高橋玄洋さんが須田剋太のファンということで見に来られた。
その著書にこういう文章があった。

 我が家も裏は掘割で、大根島から舟でやってくる汲み取りの小母さんにも必ず薄茶を点ててもてなしていた。小母さんは幼い私を厚い膝に乗せ安木節を歌ってくれる。少し匂ったがへんに嬉しかったのを懐かしく覚えている。
(『私の昭和 出会った人々』高橋玄洋 ユー企画印刷 2009)

そんなこともあるので大根島に渡ってみた。ゆるやかに起伏する土地はほとんど農地で、人家が点在していた。 大根島

高橋玄洋さんの松江の生家は、同書に掲載されている略歴によれば、内中原町とある。堀に囲まれた松江城に近く、もっとも松江らしいあたりになる。
地図でおよそ見当をつけると、大根島から松江城の堀につながる大橋川の河口まで中海部分が5キロ、そこから大橋川を経て堀に入り内中原町まで市街地部分も5キロほどありそうだ。
舟のほうが陸地の運搬より労が少なくてすむのかもしれないが、それでも畑の肥料を得るのに片道10キロほどもかけていたのかと、かつての苦労に思いがいった。

* 弓ヶ浜半島を南に戻って、皆生(かいけ)温泉の宿に入る。

● 東光園
鳥取県米子市皆生温泉3-17-7 tel.0859-34-1111

7階建て、コンクリートを組み合わせて、和風を感じさせる骨組のガチっとした建築で、4階にあたるところは空中のすき間になっている。
菊竹清訓の設計によるもので、自邸や、江戸東京博物館の構成を連想させる。
東光園

その4階にいってみると、枯山水の庭園のように作ってある。あちこちの建築を見てまわっていると、屋上庭園など目の届きにくい位置にあると通行禁止になっていて残念な思いをすることがしばしばあるのだが、ここでは足下を照らす照明や休憩用の椅子が置かれ、しっかり見せてくれている。
エレベータの案内図には「7階 ラフォンテーヌ」とあるが、レストランは営業してなくて、展望室になっていた。ガラス張りで眺めがいい。

暗くなりかけている時間に海岸を散歩した。
地図を眺めてこのあたりの海岸線を不思議に思っていた。天気図の寒冷前線のように、三角形がいくつも海に突き出している。
来てみると、テトラポットが破線状に断続して置かれていて、そこだけ砂浜が浸食されずにあるのだった。
皆生温泉の海岸

この旅にでる直前、持病が悪化して半月ほど入院した。ANAの往復便をたまったマイルで予約してあったのをキャンセルするのは惜しい。日をあらためて飛行機やホテルのを予約しなおすのも手間になる。それで退院から3日あけただけで出てきたので、体調が不安だったが、なんとか最終前夜の宿まできた。
いくらか食事制限があるので、ここまで来るあいだに泊まった旅館でも、せっかくのごちそうがあっても抑え気味に食べてきた。
このホテルの夕食はバイキングで、夕食つきにするとかなりな高額にもなるので、ローソンで買ってきてすませた。

翌朝の朝食は、レストランの海の見える席でゆったりとる。
菊竹清訓のホテルに泊まって満足して、5500円ほどだった。

『街道をゆく』「砂鉄のみち」の取材一行は、皆生温泉で幸楽園に泊まっている。

この宿には十五、六年ぶりかもしれなかったが、おかみが、よく憶えていてくれて、
「ご縁がありまして」
 と、短いが、気持のいいあいさつをしてくれた。
(『街道をゆく 7 砂鉄のみち』司馬遼太郎 朝日新聞社 1975)

今はそのホテルは廃業している。翌朝、泊まった東光園をチェックアウトしてから、その跡地に行ってみると、すっかり更地になっていた。 皆生温泉の幸楽園跡

ページ先頭へ▲
.
 第6日 米子・安来・松江経由、米子鬼太郎空港から帰る  

* 第4日にきいた天気情報で、第5日は晴れ、第6日は雨模様だった。美保関灯台に晴れた日に行きたいので、きのうからまた回る順をかえている。
今日は皆生温泉のホテルからまた西へ西へと走ってから、北上して、きのう行った大根島をまた通り抜けて米子鬼太郎空港に向かうことにする。
まず米子市内を西に行って米子城趾に上がる。


■ 米子城趾
駐車場に車を置いて、城趾への坂を上がった。
ほかに散歩する人がちらりほらりいる。

須田剋太『米子城』 米子城趾
須田剋太『米子城』

大山はかすんで見えない。
島根半島もおぼろに海に浮かんでいる。

車を置いた湊山公園は加茂川の河口に近い。
河口といっても外海ではなく、陸地に囲まれた中海のはずれになる。
穏やかな水面では、高校生か、ボートの練習船が滑るように移っていった。

■ 和鋼博物館・安来市立図書館
島根県安来市安来町1058 tel. 0854-23-2500  

『街道をゆく』の「砂鉄のみち」で、取材の一行は和鋼記念館を訪れている。
建物は「ゆったりとした勾配の屋根に、雪につよい山陰特有の石見瓦がふかれている」し、案内してくれた館長が「寒うございますから、どうぞ」と、昼間から正月の残りの酒をふるまってくれたりする。まだまだのどかなこともあった時代の雰囲気がうかがわれる。
和鋼記念館についての記述は(直接この博物館のことではない記述に回り道することも含めてだが)週刊朝日の連載の3回にわたっている。司馬遼太郎にとって訪れたかいのある博物館だったろう。

その連載は1975年のことだったが、その後1993年に、和鋼記念館は場所を移して改築されている。僕はそれから10年経った2003年に見にきたことがある。
宮脇檀が設計して、石見瓦のかわりに愛らしい屋根飾りがつく屋根がのっていた。

須田剋太『島根県安来市和鋼記念館』
須田剋太『島根県安来市和鋼記念館』

展示では、「たたらシアター」というのがあり、ロボットが説明して、たたらが実際に炎を上げ、そばで見ていて熱さを感じるほどで、とても迫力があった。

今回きてみると、「たたらシアター」の部屋の周囲を囲んでいた黒い迫力のある−『エイリアン』の世界を連想させるほどだった−壁面は、薄っぺらい仮設ボードで隠されていた。その内側は、前の迫力あるたたら装置に比べると凡庸でありきたりの標本展示に置き換わっていた。

博物館を順路に沿ってまわっていくと、前には覚えがなかった図書館に接続している。
博物館棟のはずれが児童図書の部屋になっていて、その先に渡り廊下があり、増築された図書館につながっている。
児童図書のカウンターの司書にうかがうと、図書館は、もとは市役所の近くにあったが、手狭になり移転したという。その際、博物館にリピーターが少ないこともあり、博物館に接続する形で建てられた。
博物館の「たたらシアター」は、本来は博物館にとってタブーである火を扱うために苦労して実現したのだが、今では、そんな展示があったことを知る人のほうが少ないのではといわれる。
僕にとって和鋼記念館は熱い魅力のある博物館だったのだが、少し色あせてしまった。

* 司書さんに出雲そばの店をいくつか教えてもらった。
市街地の小さな市営駐車場に車を置いて行ってみる。


● 志ばらく
島根県安来市西灘町1887 tel. 0854-22-2311

そばの店「しばらく」 2階建て大正建築に古民具を置いた店に入る。
しばらく名物とある「割子いもかけそば」は、1杯270円で好きな枚数だけ注文できる。3枚とったが、4枚でもよかったかな。しっかりした歯ごたえと香りでおいしかった。

* 松江方向に国道9号線を走る。ときおり小雨が降る。

■ 黄泉比良坂(よもつひらさか)

揖屋神社の手前で国道からそれたところにある。
黄泉比良坂の伝説の地であることを記した石碑が立っている。
ふつうの山里の風景で。さすがにこの世とあの世の境界と感じさせるような雰囲気はなかった。
黄泉比良坂(よもつひらさか)

■ 揖夜(いや)神社
島根県松江市東出雲町揖屋2229

『街道をゆく』の「砂鉄のみち」には、「9号線に飽きてしまい、疲れた気を癒やすために、運転手さんにそう言って旧街道に」はいり、たまたま車をとめた場所が揖屋神社の鳥居の前だったこと書かれている。
(『街道をゆく』では「そこのあたりはふるくは揖屋といった」というところに「いふや」とふりがながつけられている。古くはそのとおりだが、今、神社も近くの駅も「揖屋」は「いや」とよんでいるようだ。)

ここで須田剋太が目をひかれたものがある。

「あれはいいですね」
 須田画伯が、見つめていた対象から目を離して、つぶやいた。ホコラの前に、二個のワラ細工がある。野球のボールほどの大きさのまるいもので、よく見ると、狛犬を半具象的に表している。出雲独特の神事につながる神聖細工なのかもしれない。
(『街道をゆく 7 砂鉄のみち』司馬遼太郎 朝日新聞社 1975)

『街道をゆく』で須田剋太は疲れをしらない人のように幾度か書かれているが、ここではさすがに疲れていたのか、この対象を描き残していない。
しばらく見とれるほど気に入ったのに須田剋太が描かなかったのはどんなものか?

ホコラの前の2個のワラ細工はすぐ見つかったが、どちらも角があり、うしろの木に巻きつけているほどに長い尾があって、龍のようだ。 揖屋神社のワラ細工

司馬遼太郎は、ほこらの前に対でいる動物として(いわば広義の)狛犬といったのかもしれないし、そのときは実際に狛犬そのものの細工が置かれていたのかもしれない。(このときも隣のホコラには、龍でも狛犬でもなく、目がとびだしてカエルを思わせる姿の細工が置かれていたから、いろいろなバリエーションがありそう)

僕はとくに神社のつくりに関心が深いわけではないが、山門と参道と拝殿とホコラとが、僕にはこれまで出会った経験のない珍しい配置になっている。
あとから参拝にきた女性が、拝殿の前に立ち、黒いかさと黒いかばんを足下に置き、長い参拝を始めた。手を組んで上げ下げしたり、片手を上、片手を横にしたり、ラジオ体操のように(といっては失礼だが)大きく体を動かして祈っている。
倭文神社でも熱心に祈る人たちを見かけた。山陰では信仰心があついだろうか。
すんでからワラ細工について尋ねると、「私もここは初めてで、そのことはわからない。でもこの神社はとてもおごそこかな、いい神社でした」と感激した表情でいわれた。
黄泉比良坂にはあまり感じるものがなかったのだが、ここはいかにも何かしら神に関わりがあるところのように僕も感じていた。

* 米子の空港に向かうのに、きのう通った大根島を経由した。中海と島を結ぶ細い道を走っているとき、どしゃ降りの雨になった。道はもともと水面すれすれの位置にあり、波がすぐそこに見える。水の中を走っているような気分だった。

■ 境港マリーナホテル
鳥取県境港市新屋町3268 tel. 0859-45-3111

夕べ泊まった東光園と同じ菊竹清訓設計によるホテルが空港の近くにある。ガイドブックかパンフレットに、海の眺めがいいレストランでコーヒーを楽しめるとあったので、帰りの飛行機に乗る前の最後の休憩地にいいかと思って寄ってみた。

境港マリーナホテル 残念ながらカフェは営業をやめていて、いかにも菊竹清訓らしい建築の外観だけ眺めて、空港に向かった。

■ 米子鬼太郎空港

羽田に向かう飛行機が離陸するとすぐ雲に入り、着陸時も直前まで雲のなかだった。
6日間、天気が安定しないままだったが、長く歩くときに傘がいるほどのことはなくて幸運だった。
鳥取から米子まで、いろいろなものを見て、たっぷり長い旅をした思いになった。

ページ先頭へ▲

参考:

  • 『街道をゆく 7 』「砂鉄のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976
    『街道をゆく 27』「因幡・伯耆のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1985
    『週間司馬遼太郎 街道をゆく 49』所収「修験者への畏敬と天狗信仰」藤谷実道 朝日新聞社 2006
  • 『作州のみち 鉄(たたら)のみち』(津山朝日新聞社編・刊 1978)
  • 『図書館雑誌』2010年8月号
  • 『全国一宮祭礼記』 落合偉洲他編 おうふう 2002
  • 『新秋名果』尾崎翠 「定本 尾崎翠全集 下巻」所収 稲垣眞美編 筑摩書房 1998
  • 『私の昭和 出会った人々』高橋玄洋 ユー企画印刷 2009
  • 5泊6日の行程 (2012/11/18-23)
    (−レンタカー …徒歩)
    第1日 鳥取AP−奈義町現代美術館…万灯山古墳−津山市加茂町・泊 85km
    第2日 黒木ダム−加茂町歴史民俗資料館−智頭町・杉神社−板井原集落−国府跡−宇倍神社−鳥取県立図書館…鳥取県立博物館−鳥取泊 100km
    第3日 鳥取砂丘・千代川河口−白兎海岸−幸盛寺…鹿野城趾−夏泊−倭文神社−倉吉パークスクエア−鍛冶町−倉吉・泊 85km
    第4日 三徳山投入堂…皆成院−三朝温泉−倉吉市立博物館−大山寺−大山・泊 85km
    第5日 植田正治美術館−美保関灯台−美保神社…青石畳通−みなとさかい交流館…水木しげるロード−境港市民図書館−大根島−皆生温泉・泊 100km
    第6日 米子城趾−和鋼博物館・安来市立図書館−暫−揖屋神社−境港マリーナホテル−米子AP 55km
    全走行距離 510km

    *鳥取空港に降り、米子空港から帰った。
    第1日から第2日にかけて、南下して岡山県に入り、奈義町の美術館と、津山市の遺跡を見たほかは、おおむね東から西に、レンタカーで移動した。
    一筆書きに移動したかったのだが、第3日に三徳山投入堂、第5日に美保関灯台を予定していたが、雨が降りそうなので、当初のコースから変えた。そのため一部行程を重複して走って距離が伸びた。当初の予定で移動できればたぶん500kmを越えなかった。