はじめの旅-「檮原街道」


10年ほど関わっていたことが文化庁から賞を受け、副賞がついていて、4万円分の「ANA旅行券」をもらった。
「ANAの券を使おうよ。どこにする?」と妻に相談したら、「今年は龍馬でしょ」という。2010年のNHKの大河ドラマは坂本龍馬。まっさかりの時期に行くのは、ちょっと気恥ずかしい。でも梅雨どきなら飛行機も宿もとれそうなので、高知に行く便を予約した。
そんなふうにふらっと出かけたのだが、これがそのあと7年間、50をこえる『街道をゆく』の挿絵の地をたどる旅の最初になった。

第1日 高知空港 前浜掩体壕群 アンパンマンミュ-ジアム・図書館 沢田マンション 高知県立牧野植物園 菜香家・とまりぎ セブンデイズホテルプラス(泊) 
第2日 高知駅 桂浜 高知県立坂本龍馬記念館 高知県立図書館・高知市民図書館 得月楼 千枚田・茶堂 檮原町総合庁舎 三島神社 雲の上のホテル(泊) 
第3日 越知町立横倉山自然の森博物館 牧野富太郎生誕地 青山文庫 高知県立美術館 高知空港 


第1日 高知空港 前浜掩体壕群 アンパンマンミュ-ジアム・図書館 沢田マンション 高知県立牧野植物園 菜香家・とまりぎ セブンデイズホテルプラス(泊)

* 羽田から高知空港に着く。
空港は高知市ではなく南国市にある。愛称は高知龍馬空港。
1944年に 海軍航空隊基地として建設された空港で、この基地からは特別攻撃隊も出撃したという。
レンタカーを借りて、空港からすぐ南、大湊小学校付近にある掩体壕(えんたいごう)に向かった。


■ 前浜掩体壕群(まえはまえんたいごうぐん)
高知県南国市前浜

掩体壕は、戦争中につくられた人や物を敵の攻撃から守るための施設で、前に掩体壕の写真を見たとき、巨大な建造物と思い込んでしまっていた。

実際に着いてみると、田んぼの中に、小さなアーチ状のコンクリートの塊が、チンマリとあった。7基あるが、どれも同じくらいに小さい。
今は農作業の道具などを置く小屋がわりに使われたりしている。戦闘機の格納庫というより耕耘機置き場。
屋根部分は、空からの爆撃をかわすために土で覆い、草を植えてあったという。
前浜掩体壕群(まえはまえんたいごうぐん)

ウイーンで、やはり第2次大戦中の対空攻撃のために作られた高層ビルほどに巨大なコンクリート建築を見たことがある。あまりに大きく堅固で、壊せずに残っている。(中には水族館に転用されているのもあって、けっこうおもしろい仕掛けになっていた。)
日本製の施設を見ると、農耕民族がした無謀で貧しい戦争だったという感じがあらためてした。

* 車で高知市街とは逆の東に向かう。途中、土佐くろしお鉄道の起点の御免駅を通りかかる。いかにも現代的な新しい駅になっている。ずいぶん前、まだ学生だったころ、この駅で乗り換えて安芸市に向かったことがある。当時どんな駅だったか覚えがないが、とてもローカルな駅だったはず。年月の経過を思ってシミジミする。

■ アンパンマンミュ-ジアム
高知県香美市香北町美良布 1224-2 tel. 0887-59-2300
http://www.anpanman-museum.net/

合併前の香北町で、総合文化会館を建て、その一角に「やなせたかしコーナー」を設けるつもりでやなせたかし氏に相談に行ったら、作品や資金を提供すると申し出があり、1996年にアンパンマンミュージアムができた。
ミュージアムは単純な大きな立方体。
中に入ると、大きな階段があり、脇の小書棚の本を階段に腰掛けて読める。
導線は、ちょっと迷路じみていて、動く仕掛け、さわれる仕掛けがいろいろあって、子ども連れで来たら楽しい。

大勢の入館者があり、2年後には「詩とメルヘン絵本館」も完成した。
そこで『山田かまち~17歳の青い棘~展』を開催中だった。
山田かまちは群馬県の高崎高校に在学中にエレキギターの練習をしていて感電死した。絵の才能を井上房一郎に認められ、高崎市にはかまちの美術館がある。
井上房一郎は、高崎にある建設会社の経営者で、高崎と群馬の文化振興に大きな事績をのこしたひとで、ぼくは10年ほど前からその足跡をたどっている。そのことで文化庁の表彰を得て、ANAの旅行券をもらい、四国に来たのだった。
そこで井上房一郎に大きな関わりがある山田かまちに会うちょっとした偶然に驚いた。
かまちの絵は熱く、見ていて、ヒリヒリしてくる。

■ アンパンマン図書館
高知県香美市香北町美良布1103-4 tel. 0887-59-4550

香美市には図書館が3館あるが、そのうちの香北分館はアンパンマン図書館。
ミュージアムから歩いて5分ほどのところにある。
一般書のほかに、アンパンマンミュージアムの名誉館長であるやなせたかし氏から、所蔵の図書を寄贈されている。
1930年築の、もと美良布信用販売購買組合の建物を転用している。黒い金庫の扉をそっとあけて見せてもらうと、中は書庫!


アンパンマンミュージアムの入口に立ってたのは、なぜか巨大バイキンマンだったが、図書館では正面玄関の庇の上にアンパンマンがすっくと立っている。
アンパンマン図書館の正面にアンパンマン像が立つ

* 西に走って高知市に入る。
市の中心部に入る前に、市街地の北部にあるマンションを見に行く。


■ 沢田マンション
高知市薊野北町1-10-3 tel.088-845-0528

今度の旅行で、ふつうのガイドブックにはなさそうだけどぜひ見たかったのが、掩体壕と、この沢田マンション。

故・沢田嘉農・裕江さん夫妻による自作増殖建築。100世帯を目指して建ててきて、今も子どもたちが引き継ぎ、変貌しながら息づいている。
自在な感覚にあふれている。これを見ると、世の大半の建築が、窮屈でありきたりで退屈に見えてしまうというほどのもの。
沢田マンション

あとで古庄弘枝著『沢田マンション物語』を読むと、2人のとても厳しい生き方から成り立ってきたことがわかる。あっけらかんを完成し、維持するには、たいへんな非・あっけらかんの積み重ねがあった。

■ 高知県立牧野植物園・牧野富太郎記念館
高知市五台山4200-6 tel. 088-882-2601
http://www.makino.or.jp/

牧野富太郎は(このあと行く予定の)高岡郡佐川町の生まれ。
高知市街の南に牧野の名を冠した植物園と記念館がある。
記念館に展示してある牧野富太郎の植物画を見ると、とても魅せられる。研究の記録のための図だから、正確に描いてあれば目的は達するのだろうけれど、牧野が描いた線は生きていて、目でたどると脳が快楽を感じる。
牧野文庫は牧野の植物画など58,000点を収蔵している。
収蔵庫の一部がガラス張りになっていて、書架、収納棚が並ぶ内部を一部だけ見られるようにしてある。こんなところにこもって、毎日眺め暮らして、快楽にひたっている-なんていうのを想像すると、村上春樹の登場人物みたいだ。

高知県立牧野植物園は内藤廣の設計で作られた。
内藤廣は、建築には自然から学ぶことがたくさんあると考えている。だから学生にも「魚料理を食べたらじっと骨を観察しなさい。変人扱いされますが(笑)」と勧めている。
牧野富太郎記念館の展示室は屋根を支える構造が肋骨を思わせ、なるほど動物・自然に学ぶ人の仕事かと納得させられる。
牧野富太郎記念館

* 今夜の宿は、はりまや橋の近くにある。
チェックインしてから食事に出る。


● いざかや菜香家
高知市追手筋1-3-28 tel. 088-824-6584

夜、はりまや橋近くで、風情にひかれて入った。2階の座敷に上がり、細い路地を見おろしながら、妻と一杯。
高知といえばサカナだろうけれど、自社農園の無農薬有機野菜がウリの店だった。
野菜の串焼き、山芋のお好み焼きなんて、さすが。
サカナ系も、うつぼの唐揚げを食べ、やはりカツオのたたきも欠かせない。
酒は高知の酒の司牡丹。牧野富太郎の生地の佐川町に蔵がある。
学生のころ四谷に「司」という飲み屋があって、しばしば通ったが、そこでこの酒の名に初めて出会った。ずいぶん年月を経て高知に来て、その酒がこちらのものだと知った。(こんなボンヤリしたことが僕にはよくある)

● とまりぎ
高知市追手筋1-4 tel.088-823-6404‎

司馬遼太郎と須田剋太は『街道をゆく』の檮原街道の取材で1985年に高知を訪れた。檮原は長く司馬が憧れていた土地で、高知に泊まった夜、翌日には檮原に向かうというのに、檮原の人が経営する飲み屋を探しだして行った。

とまりぎ
それが「とまりぎ」で、店は今もある。
文章から気楽な居酒屋ふうの店を想像していたが、バーだったので、いざかやで食事をしてから、再度行った。

司馬を迎えた女性の息子である高橋正行さんが、店を継いでいる。もう70代になる母は、今も店に毎日ではないがこられるということだが、今日はあいにく不在で、残念だった。
息子さんも司馬のことは話にきいていて、「速記をする人」がいたが、須田剋太は来なかったという。須田はまったく酒を飲まないし、司馬と違って、土地の人と会って話を聞き風土を知ろうというような気持ちはなかったのかもしれない。
司馬遼太郎がここに座ったという席で記念写真をとる。

● セブンデイズホテルプラス
高知市はりまや町2-13-6 tel. 088-884-7111
https://7dayshotel.com/7plus.html

セブンデイズホテルプラス
歩いて5分ほどのところのホテルに戻る。
スタイリッシュで快適で朝食付きで2人で8,000円ほど。

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第2日 高知駅 桂浜 高知県立坂本龍馬記念館 高知県立図書館・高知市民図書館 得月楼 千枚田・茶堂 檮原町総合庁舎・三島神社 雲の上のホテル(泊)

■ 高知駅


朝、高知駅まで散歩。牧野植物園と同じ内藤廣が設計して、昨年(2009年)できた。ここも、地面から立ち上がって屋根で結び合わさる柱が、動物の肋骨のようだった。
高知駅

高知駅から市内電車に乗って南に走り、はりまや橋をながめてからホテルに戻る。

* 車に乗って南に走ると太平洋岸にでる。

桂浜 坂本龍馬像
■ 桂浜
海を向いて大きな龍馬像が立っている。台座も高いので、ひときわ龍馬が高い位置にある。
浜辺は暑かった。

■ 高知県立坂本龍馬記念館
高知市浦戸城山830 tel. 088-841-0001
http://www.ryoma-kinenkan.jp/

龍馬の手紙がいくつも展示してあった。
カタカナを多用した手紙とか、わが国初の新婚旅行といわれる霧島山登山の挿絵入りの手紙とか。
とても幕末に世の中を変えようとキリキリ生きていた人とは思えない。もってまわった言い方をしないで、あけすけに磊落にくだけた言葉を使う。
そんな柔らかい発想だから、変動期に大きな役割を果たせたろうかと思う。

コンペで選ばれた建築は、立方体が2つ、海に突き出している。
設計者の高橋晶子は、坂本龍馬のロマンをキーワードに設計したという。
展示を見ていくと、最後に、海に突き出す立方体の最先端に至る。正面と左右の3面が透明なガラスで、海を見おろしながら、海に向かって浮いているような感覚になる。
高知県立坂本龍馬記念館

* ふたたび市の中心部に戻る。

■ 高知県立図書館と高知市立図書館(2018年2月の付記)

高知城の一帯が高知公園になっていて、城の東に県立図書館、南に市立図書館があった。
2010年に高知を旅したとき、その2つの図書館を訪れた。
老朽化と収容能力の問題から、2007年に県知事と市長が会談し、県市が連携する図書館という方向性がでてきていたが、僕が行った2010年には、市内に2箇所の候補地があがってはいても、まだ明確な結論がでていない時期だった。

『街道をゆく』の地を挿絵の地をめぐる最初の旅がこの高知方面への旅だった。そのときはまだ、たまたま旅の途中で挿絵の地に寄ってみたというだけで、レポートをまとめていなかった。2017年に国内を回り終えたあと、最初の高知の旅のレポートを作っておこうと高知の図書館の状況を見直してみると、県市の一体化が完成寸前になっていた。
旧高知市立追手前小学校の跡地(追手筋2-1-1)に複合施設「オーテピア」がつくられ、高知県立図書館と高知市民図書館本館の合築による『オーテピア高知図書館』、『オーテピア高知声と点字の図書館』、『高知みらい科学館』の3つが入り、2018年7月24日に開館するという。
追手前小学校というのは、いかにも伝統校を思わせる名称で、141年の歴史があるが、新堀小学校と統合して2013年から「はりまや橋小学校」(高知市はりまや町2−14−8)にかわっている。
複合施設「オーテピア」の名は、建設地の「追手」に由来してつけられている。

高知県立図書館 高知市立図書館
合築前の県立図書館(左)と市立図書館(右)

県立図書館と市立図書館の合築は日本初。(僕は「合築」という言葉を高知の図書館のことで初めて知った。)
県市の連携施設ということでは、2005年に開館した長崎歴史文化博物館の先例がある。異なる設立主体の施設がひとつになるのは、双方に歴史があり、経費負担のこともあり、なかなか簡単ではなさそうだが、長崎では県側で担当したのは教育委員会ではなく、首長部局の企画担当で、観光政策、まちづくりの重要拠点という位置づけで推進され、誕生した。
高知でも合意、決定にかなり時間を要したようだ。

 高知県には、高知市ただひとつが大きな町である。そこに公共投資などで、現金が落ちる。このため県下の人口がこの市に蝟集(いしゅう)した。そのぶんだけ農村(とくに山村)の人口が減った。(『街道をゆく 27』「檮原街道(脱藩のみち)」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1986。以下ことわりのない引用について同じ。)

実際、高知市の人口は、1970年に266千人だったのが、およそ半世紀後の2015年には337千人で、71千人増えている。
この間、高知県全体の人口は、1970年787千人から、2015年728千人に、59千人減っているのだから、人が高知市へ集中していく(吸収されていく)度合いはすさまじい。
高知市の人口が30万人を超えているのに、これにつづくのは、南国市5万人、四万十市4万人、香南市3万人というぐあいで、司馬遼太郎がいうように「高知市ただひとつが大きな町」という状況にある。

別な指標として、都道府県庁所在地が全県等に占める人口割合がある。2017年の上位は
1 東京都(特別区) 68.9%
2 京都府(京都市) 56.6%
3 宮城県(仙台市) 46.8%
4 高知県(高知市) 46.6%
東京、京都は特異な歴史背景があるから別格として、宮城県/仙台市とほとんど同率の首位といえるくらい。
こういう都市に県と市の図書館が重なってある必要はなさそうに思える。

● 得月楼
高知市南はりまや町1-17-3 tel.088-882-0101
http://www.tokugetsu.co.jp/index.html

月をテーマにしている友人から、高知に行ったらここにと勧められていたので、昼食に行った。妻は旬のお弁当2,625円。僕は鮎屋膳2,940円。
谷干城が西南戦争のあと月見の宴をして「得月楼」と名づけたが、もとは宮尾登美子の小説にもあるように「陽暉楼(ようきろう)」。
話し上手な店の人にきくと、そういういきさつはあるが、月に関する催しなどがあるわけではなく、200鉢もある盆梅が名物で、梅が咲く時期はとてもみごとだという。


谷干城は坂本龍馬をあつく尊敬し、龍馬が暗殺されたときに駆けつけた人。
離れの広間には、ジョン万次郎からきいた海外事情を坂本龍馬に伝えた河田小龍が描いた鍾馗の絵があった。
河田小龍が描いた鍾馗の絵

* 高知市を出て、西へ、山中の檮原(ゆすはら)に向かう。
国道197号を西へ走るのだが、檮原より手前、津野町に布施ケ坂峠がある。

須田剋太が描いたこの峠の風景が3枚、『街道をゆく』に掲載されている。司馬の文中には(僕の見落としがなければ)布施ケ坂峠はふれられていない。これらの挿絵の近くの文章は、津野あたりが坂本龍馬ら脱藩者が通った道であることなどがかなりの分量で書かれている。文中の景色が動かないので、須田剋太が気に入ったらしき峠の絵が3枚もつかわれたようだ。
須田剋太『布施ケ坂峠(A)』
     須田剋太『布施ケ坂峠(A)』

僕のこのときの高知旅は、挿絵の地をめぐることを重視していなかった。布施ケ坂峠には道の駅もあり、眺めがいいらしかったが、寄らずに過ぎてしまった。

■ 吉村虎太郎銅像
高知県高岡郡津野町新田

『街道をゆく』には、何度か吉村虎太郎の名がでてくる。

檮原は、ほとんど桃源郷ともいっていいような僻地でありながら、教養の伝統がある。幕末、そういう小さな地域から何人もの志士を出し、ほとんどが非業(ひごう)にたおれた。著名な者をあげれば、天誅組(てんちゅうぐみ)の首領格だった吉村虎(寅)太郎がいる。虎太郎はこの僻地の鄕士の出ながら、水準以上の漢詩をつくり、和歌もよくした。

吉村虎太郎は、檮原で庄屋をし、檮原の人から大きな影響を受けたが、生まれは高岡郡津野町。
国道197号を西に走ってきて、右へ、津野町役場西庁舎に向かう細い道にそれると、まもなく右の高台に銅像がある。
高い台座にのって、胸を張り、着物のすそを風にひるがえし、高い志を感じさせる。
『街道をゆく』の挿絵にあるところだからと寄ってみる気になってきたのだが、このとき、なんとなし、これから『街道をゆく』の挿絵の地をめぐることになりそうな予感がうっすらとした。そしてそのとおりになって、以後、国内だけでも7年を越える『街道をゆく』の挿絵地めぐりになった。
それで僕にはこの絵と銅像がとくべつに感慨深い。

吉村虎太郎銅像 須田剋太『脱藩志士吉村虎太郎銅像』
須田剋太『脱藩志士吉村虎太郎銅像』

■ 千枚田 坂本龍馬脱藩の道 茶堂

当別峠のトンネルをくぐってから細い道を上がるとちょっとした展望所にでる。
みおろすと千枚田。
「須田さん、千枚田です」
 私に言われたとき、須田剋太画伯は背を反らせてしまった。こんな雄大な造形は見たことがない、と大声をあげ、やがて画板をかかえこんで、黒鉛を走らせはじめた。

檮原の千枚田 須田剋太『檮原千枚田』
須田剋太『檮原千枚田』

展望所では、通りがかる旅人をもてなしたという茶堂が復元され、山に入っていく小道には「坂本龍馬脱藩の道」という標識が置かれている。

檮原の茶堂


須田剋太『茶堂』  
須田剋太『茶堂』

『街道をゆく』の文章からすると、東津野村の高野という在所あたりで茶堂を見ているから、須田剋太が描いたのはそちらかもしれない。(茶堂はほかにも何カ所かあるから、ほかのだった可能性もある。)

■ 檮原(ゆすはら)

檮原の町は新しく意欲的につくられている。
南の檮原町総合庁舎から、北の三島神社まで、檮原川に並行して町の中心の道がある。
道も両側の家々も新しく、歩道が広くとられ、すっきりしている。
風力発電で得た収入を森の維持経費に使い、その木を地元の建築にできるだけいかす取り組みがされている。

メインストリートの南端にある檮原町総合庁舎は、2007年に隈研吾の設計により建った。
その向かい側には、地域活力センターゆすはら・夢・未来館という長い名前の複合施設がある。
三島神社に向かう中ほどには、やはり隈研吾設計による新しいホテルを建設中で、外壁に草をブロックにしたものを貼りつけていた。(数年後に「南伊予・西土佐の道」 をたどったき再び檮原を訪れた。マルシェ・ユスハラとしてオープンしていて、1階で物産品販売、2階からは「雲の上のホテル」別館になっていた。)

檮原のメインストリート 檮原町総合庁舎
檮原のメインストリート 檮原町総合庁舎
 ゆすはら・夢・未来館    建設中だったマルシェ・ユスハラ
ゆすはら・夢・未来館    建設中だったマルシェ・ユスハラ 

その道から少しそれたところには、ゆすはら座がある。

ゆすはら座
1948年に建ったもと「檮原公民館」で、芝居や歌舞伎、映画などで親しまれた。一時は取壊しの決議がされたが1995年に移転復元された。高知県下では唯一の木造りの芝居小屋で、花道のついた舞台に2階の桟敷席と、風情がある。

『街道をゆく』の旅で1985年に訪れた司馬遼太郎が「檮原町も、公共事業を活発にやっている。」と書いている。
前述の
 高知県には、高知市ただひとつが大きな町である。そこに公共投資などで、現金が落ちる。このため県下の人口がこの市に蝟集(いしゅう)した。そのぶんだけ農村(とくに山村)の人口が減った。
という文章のあとに、こういう文章がつづいている。
 檮原町も、公共事業を活発にやっている。いわば小高知市である。このためまわりの山間に点在する山村のひとびとの幾割かが、不便な山住まいをやめてこの町に集まってきている。

(また2018年の付記:
『街道をゆく』の挿絵の地をめぐってきたが、当初は人口のことは意識になかった。たぶん丹波篠山からだったと思うが、行く先々の人口が気にかかるようになった。司馬遼太郎が『街道をゆく』の旅をしていた頃は、まだ国土開発の勢いが目立っていて、土木事業が自然を壊していくことへの批判がいくどかあった。
高知のことでも開発による人口集中に関心の重点があって、それで周辺地域の人口減があるとしても、総体としての人口減という課題はまだなかった。
あらためて檮原町の人口をみると、1970年に7,011人だったが、2015年には 3,608人になっている。割合では51%で、およそ半世紀で半減したことになる。周辺町村とよくて同じか、むしろ減少が激しいくらい。独特の歴史や文化があり、公共事業により新しい景観形成にも意欲的な町でさえ、人口減をとめられないのかと悲観的な気分になる。)

■ 三島神社
高知県高岡郡檮原町檮原

北の町はずれに三島神社がある。
地元産の杉を使った屋根つきの橋を歩いて檮原川を越えた先にある。

三島神社


須田剋太『檮原三島神社』  
須田剋太『檮原三島神社』

この神社で、司馬遼太郎と須田剋太は夕食をふるまわれ、神楽が舞われるのを見た。檮原町長が町はずれのトンネルまで司馬一行を出迎えたほどだから、この夜の宴と神楽は、定例の催しではなく、特別に用意されたものだったろう。

須田剋太『檮原神楽』 須田剋太『檮原神楽』


 この神楽は戦後ほとんどすたれていた。昭和二十三年、有志の手で津野山神楽保存会がうまれ、当時、神楽の唯ひとりの伝承者だった掛橋富松翁を師とし、各地区から推された青年十数人が教授をうけた。

以下に教授をうけた人たちの氏名が列挙されるなかに「上田和弘」という方がおられる。僕が数年後に檮原を訪れたとき、たまたま選んで泊まった宿は上田和弘氏が営む民宿で、しかも三島神社定例の神楽が催される日で、神楽を見ることができた。(→[幸運のえひめ])

* 国道197号を東へ戻り、町の中心部からやや離れたホテルに泊まる。

● 雲の上のホテル
高知県高岡郡檮原町太郎川3799-3 tel. 0889-65-1100
http://kumono-ue.jp/

雲の上のホテル
ここも役場の庁舎と同じ隈研吾による建築で、ガラスと木と紙をいかして、すっきりとして明快。
夕立があがって、また明るくなった外の景色を眺めながら夕食をとる。
つゆどきに来て、たまに雨があったが、ちょうど車で移動中だったりして、まったく傘を使わずにすんでいる。

翌朝も、レストランにはガラス越しに日が射してくる。
いい建築に、いい料理に、いい天気。
満ち足りる。

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第3日 越知町立横倉山自然の森博物館 牧野富太郎生誕地 青山文庫 高知県立美術館 高知空港

* また檮原の中心部にいったん戻って通り過ぎ、北へ向かう。
上がりきったところが地芳峠。


■ 地芳峠・四国カルスト

地芳峠は県境になっていて、土佐・高知県から、峠の北は伊予・愛媛県になる。
ここで司馬遼太郎一行は檮原と高知の人たちと別れて、松山に向かった。
(司馬遼太郎が『街道をゆく』で高知、愛媛の県境を越えたことは、ほかにもある。1978年に旅した「南伊予・西土佐の道」では、愛媛県の松野町から高知県の四万十市に入った。地芳峠より40キロほど南西にある。)

地芳峠
地芳峠。
この写真は愛媛県側から高知県を向いて撮っている。(写真手前が愛媛県)
僕らは右の道を檮原から走ってきた。
このあと左の道を行った。
高原を東に走る道で、姫鶴平に向かう。

四国カルストという石灰岩地形の尾根をゆく道で、眺めがいいはずだが、霧が濃い。
霧のなかから、ときおり緑の草原に白い石灰岩がまじる風景が現れ、ぶるんぶるんと回転する風力発電の翼が現れる。

 そのまま、石灰岩の台上を尾根づたいに東へゆくと、姫鶴平(めづるだいら)という広闊な高原に出た。
 石灰岩の露頭が無数に点在するなかに、牛が放牧されていた。
「四国カルストです」
町長さんがいったが、私には愛媛県(伊予国)にいる牛がぜんぶ黒牛で、高知県(土佐国)にいる牛がすべて赤牛であることがおかしかった。
須田剋太『赤牛と黒牛の高原』

須田剋太『赤牛と黒牛の高原』


僕らが見かけたのは黒牛ばかりだった。
四国カルストの牛

檮原への旅で四国の道を走っていて、司馬遼太郎はあらためて四国が山国であることに感嘆しながら、こう書いている。
 本来、山こそが日本なのである。低地に住むようになったのは、せいぜい二千年前からのことで、この国に弥生式といわれる水稲農業が入ってからのことにすぎない。
僕も日本アルプスの山に登ったときなど、そう思ったことがある。
えんえんと深い山が連なっていて、田畑や都市は、山の間か海べにわずかだけある。そこに圧倒的多数の人が住んで、人生のできごとはほとんどそこで起きるから、何となし平地がふつうのように思いこんでいるが、日本列島は山の繰り返しでできている。
四国では、2番目に標高が高い剣山に登ったことがある。そこでも四国の山の圧倒的なボリュームというものを感じたものだった。

須田剋太『四国土佐山並み』

* 姫鶴平からは、檮原に向かったときより北に位置して東西に走る道を行って、越智町に出た。

■ 越知町立横倉山自然の森博物館
高知県高岡郡越知町越知丙737-12 tel.0889-26-1060

横倉山は、地質的に特異な地域だし、牧野富太郎のフィールドだったし、安徳天皇がいた伝説があるし、博物館は安藤忠雄の建築だし、いつか来てみたいところだった。
でも、そんなことをひととおり展示してあるといった、あっさりした印象だった。
3階の展望ロビーはいい眺めで、仁淀川にかかる沈下橋も見えた。

越知町立横倉山自然の森博物館から仁淀川と沈下橋

写真上:博物館から仁淀川と沈下橋
写真下:沈下橋から博物館と横倉山
沈下橋から越知町立横倉山自然の森博物館と横倉山

* 国道33号線を南東に走って佐川(さかわ)町に入る。


■ 牧野富太郎生誕地
高岡郡佐川町甲1485

牧野富太郎は酒造業「岸屋」のひとり息子として生れた。
生家はないが、碑が建っている。
牧野富太郎生誕地

■ 青山文庫(せいざんぶんこ)
高知県高岡郡佐川町甲1453-1奥の土居 tel. 0889-22-0348

土佐での脱藩者に、田中光顕(みつあき)という人がいた。
佐川の人で、明治後は警視総監、宮内大臣などを歴任した。
長生きして、忘れられかけていた幕末・維新期の志士の書状や画などを集めたが、そのコレクションをおさめた佐川町立の施設がある。
田中光顕が「青山」と号したので「青山文庫」という。
龍馬の手紙など、おもしろい資料があった。

青山文庫 須田剋太『青山文庫』
須田剋太『青山文庫』

■ 司牡丹
高知県高岡郡佐川町甲1299 tel.0889-22-1211
http://www.tsukasabotan.co.jp/

土佐の銘酒、司牡丹の蔵は佐川町にある。
佐川の古い町並みのなかで司牡丹が広い面積を占めているが、須田剋太が描いたのは、「酒ギャラリーほてい」という直売所のようなところ。
もとは「ほてい」という名の料亭だったが、1978年に閉じ、1996年に「酒ギャラリー・ほてい」が再スタートしている。
『街道をゆく』で須田剋太が描いたのは1985年のことで、公開されている状態ではなかったかもしれない。

司牡丹 酒ギャラリーほてい 須田剋太『司牡丹酒店 青山文庫附近』
須田剋太『司牡丹酒店 青山文庫附近』

司馬遼太郎は、佐川の町についてこう書いている。
いまも町並の規模が大きくなく、古い家々の建て方が上品で、軒下ぞいに歩いていると、雪寂(ゆきさ)びした翳(かげ)さえ感じられる。
須田剋太が司牡丹を描いたあたりがそんな佐川らしいところで、味わい深い町並みがつづいている。

須田剋太『佐川町附近風景』

須田剋太『佐川夜話』

佐川文庫庫舎

左上は、須田剋太が描いた司牡丹から道を隔てた角になる。旧浜口家住宅という古い邸宅で、これも2013年から観光施設として公開されるようになった。
(須田剋太『佐川町附近風景』)

左中は、もう少し歩いていって、同じ家を正面玄関近くから描いている。
(須田剋太『佐川夜話』)

左下は、さらに行って、浜口家住宅の向こうにある建物。
明治期の洋風木造建築で、かつてはここに青山文庫があり、今はその書庫として使われているらしい。

● 大正軒(うなぎ)
高知県高岡郡佐川町甲1543 tel.0889-22-0031

司馬一行は佐川の町を歩いているうち、うなぎ屋を見かけている。
古風なうなぎ屋があった。屋号が大正軒で、なにやら井伏鱒二の作品に登場してきそうな店がまえだった。

大正軒 うなぎ
僕らが行ったのはちょうど昼どきだったのだが、完全予約制らしく入れなかった。
司馬遼太郎の文章でも、店がまえのことだけさらっと書いていて、ここでうなぎを食べたかどうかわからない。

* 高知市に戻り、称名寺、高知県立美術館に寄ってから空港に。

高知県立美術館
高知県立美術館

高知空港17:15発。
左の席に座ったので、離陸してまもなくに、鳥羽から知多半島が見えてきた。
あとは高空から本州の南の線を見おろしながら移動していった。
渥美半島、浜名湖、御前崎、広い天竜川、細い太田川。
宇宙飛行の視点にかなり近かったかもしれない。
富士山がシルエットになり、伊豆半島があり、伊豆大島の滑走路がある。
房総半島の上空に来ると、西からの逆光を受けて、銀幕のような海面につや消しの陸のコントラストが広がる。
木更津から道が東京湾に伸び、海ほたるで途切れる。
羽田の新しいD滑走路を見下ろしながら、左に旋回して、着陸する。
これまでの飛行機に乗ったなかで最高の眺めだった。
羽田空港18:35着。


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参考:

  • 『街道をゆく 27』「檮原街道(脱藩のみち)」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1986
    『街道をゆく 14』「南伊予・西土佐の道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1981
  • 『しらべる戦争遺跡の事典』 十菱駿武・菊池実/編 柏書房 2002
    『沢田マンション物語』 古庄弘枝 情報センター出版局 2002
    『ROADSIDE JAPAN!珍日本紀行 西日本編』 都築響一 ちくま文庫 2000
  • 『構造デザイン講義』 内藤廣 王国社 2008
    『龍馬の手紙』 宮地佐一郎 講談社学術文庫 2003
  • その後に檮原を訪ねた旅(2014年)については[幸運のえひめ] 
  • 2泊3日の行程 (2010.7/15-17)(-レンタカー …徒歩)
    第1日 高知空港-前浜掩体壕群-アンパンマンミュ-ジアム・図書館-沢田マンション-高知県立牧野植物園-菜香家・とまりぎ…セブンデイズホテルプラス(泊)
    第2日 高知駅-桂浜-高知県立坂本龍馬記念館-高知県立図書館・高知市民図書館-得月楼-千枚田・茶堂-檮原町総合庁舎・三島神社-雲の上のホテル(泊)
    第3日 越知町立横倉山自然の森博物館-牧野富太郎生誕地-青山文庫-称名寺-高知県立美術館-高知空港