島原と天草のあかるい海


島原半島と天草に行った。
長崎空港から島原半島へ行き、フェリーで天草にわたり、天草五橋を経て熊本空港から帰るコースをめぐった。
雲仙岳の噴火や、キリシタンへの弾圧など、過酷な歴史があるところだが、南の海はあかるく、人はあたたかく、いい旅になった。
『街道をゆく 17』「島原・天草の諸道」 (1982)の行程と重なる。

第1日 長崎空港から 諫早水門をこえて島原へ
第2日 南島原から 口之津港-鬼池港 牛深に泊まる
第3日 牛深から 崎津-大江-富岡と北上して 本渡に泊まる
第4日 本渡から 天草五橋・三角経由 熊本空港から帰る

 第1日 長崎空港から 諫早水門をこえて島原へ

* 羽田から長崎に向かう飛行機は瀬戸内海を飛ぶ。

宇部上空から かつて山口方面を旅したとき、宇部市で厚東川(ことうがわ)の河口に行った。両端を結ぶ興産大橋という長い橋が架かっているが、河口付近の両側が宇部興産の私有地で近づけない。ゆるい勾配の橋を遠くから眺めただけだった。
飛行機で上空からすっかり橋や河口や宇部興産を眺められて、いつかの無念がいくらか晴れた。
→[はじめてのおいしい山口

九州の北岸を飛び、ハウステンボスをかすめて、大村湾にある長崎空港に降りた。
長崎空港でレンタカーを借りる。空港のレンタカーでは、空港内の受付から送迎車に乗って営業所に向かうことが多いが、ここでは歩いてすぐ近くにある。
大村湾から半島を横切って東へ、有明海に向かって走り、諫早水門の北側に着く。


■ 諫早水門

水門を内側から斜めに眺める位置に車を置く。
内水面の向こうに普賢岳、手前に草原が広がっている。
3月半ばにしては寒い日が続いていたが、今日は急にあたたかくなり、まして九州だからいちだんとほわほわしている。
諫早水門

低い堤防に、赤いジャンパーと青いジャンパーの女性がふたりこしかけて話している。
「暖かいのでツーリングに行こうよ」と出てきたのだという。ツーリングといってもシュッシュッととばすふうではなくて、そばに自転車とバイクがあるが、どちらものどかに走るタイプ。お弁当と大きなイチゴをはさんで座って楽しそう。
有明海の海の幸の話をきく。タイラギという貝があり、ホタテよりおいしいという。両手の指で示す貝の大きさはホタテより大きい。
小さなカニは生きたままつぶして貝味噌を作る。赤ジャンの人が「わたしは食べないけど、このおばちゃんは好き」と青ジャンを指さしていう。
冬はカキ。
尋ねたわけでもないのに諫早水門の話になって「水門を開けてはいけない」という。おいしい貝やカキがとれた頃は懐かしい、でも今あけたら、内側にたまっていた水が海に流れてかき混ぜられて、ひどいことになる。
水門ができる前、このあたりは海の水が寄せる潟で、田畑が水に浸かることがあった。諫早(市街に)向かう道も水につかることがあって苦労したが、今はそんなこともない。
諫早水門は、つくる前なら正解があったかもしれないが、今は議論も利害も裁判も複雑に絡んで正解が見つけにくくなっている。

諫早水門については、完成後に閉めきるとき、ギロチンとあだ名された水門がつぎつぎに落ちる映像が印象に強く残っている。それで僕は、
・両岸をずっと水門が占めて水を閉鎖している
・諫早水門は、水をさえぎる装置としての水門が並ぶだけの施設である
というように思いこんでいた。
ところが来てみると、両岸をつなぐ長い長い堤防があり、上には片側1車線ずつのりっぱな車道があり、水門はそのごく一部の区画にすぎなかった。ギロチンは工事途中の工作物で、今はないものらしい。


水門の上の道を南から北に走った。7キロもある。
途中に公園があり、歩道橋を渡って海側を見る。閉じた側から勢いよく水が流れていた。
諫早水門の道路

* 諫早水門の堤防道路を南に越えると雲仙市。
島原半島の海岸沿いを東へ走ると島原市に入る。
海岸線を国道251号の島原鉄道が並行している。
駅のひとつに寄ってみた。


■ 大三東(おおみさき)駅


プラットホームのすぐ向こうに海がある。
とてものどか。
大三東駅

須田剋太が『島原の海』を描いているが、このあたりの海辺も、海苔の養殖らしい風景が見える。

島原の海 須田剋太『島原の海』
須田剋太『島原の海』

■ 河口ウォッチング:中尾川

島原鉄道の三会(みえ)駅の南、前浜町で、中尾川が海に注いでいる。
『街道をゆく』の取材で司馬遼太郎と須田剋太が訪れた1980年よりあと、1990年から数年にわたって雲仙普賢岳の噴火があった。
普賢岳から東北東に流れた土石流は、中尾川に沿ってくだり、川の両岸の田畑にまであふれ、埋めた。
今は川も田畑も整備されているが、川は階段状に流れをはさんでいて、いかにも人工的に整備した河口になっている。 

河口ウォッチング:中尾川

* さらに南に走って島原市街にはいる。

■ 島原市立図書館
長崎県島原市城内1-1202 tel. 0957-64-4115
http://www.shimabara-city-libraries.jp/shimabara/

島原城を囲む堀の外側にあり、この駐車場に車を置く。
城にあわせた和風の建築。
郷土資料の棚があるが、さらった眺めてみたところでは目を引かれるものはなかった。

■ 島原城址

島原城址に入る。
半島内の城にしては広く、石垣も高くりっぱに組まれている。
当時の人たちはそれだけ苦労させられたわけだ。

島原城

右の絵:須田剋太『島原城』
須田剋太『島原城』

島原城

右の絵:須田剋太『島原城』
階段が、車が走れる道にかわっている。

須田剋太『島原城』

■ 天守閣(島原城資料館)
長崎県島原市城内1-1183-1 tel. 0957-62-4766
http://shimabarajou.com/

1964年に天守閣が復元されて、内部は資料館になっている。
須田剋太はその入口付近から外を見る位置で1枚描いている。
西の櫓が見えている。

島原城 須田剋太『島原城』
須田剋太『島原城』

展示物を描いた絵があるが見つけられなかった。
そろいのジャンパーを着た解説ボランティアに尋ねると、名刺に「島原城資料館専門員 島原市文化財保護委員会会長」とある松尾卓次さんを紹介された。
櫨(はぜ)の実をしぼってロウを作る道具は1階の入口を入ってすぐのところにあった。さっき気がつかないまま中に進んでしまっていた。

聖母子を描いた絵を模写したらしき絵もあるが、ここの所蔵品にはないとのことだった。
あと、画像つき挿絵リストを持参していったのを見ていただき、須田剋太が絵を描いたほかの地点についてもアドバイスをいただいた。松尾さんは、とうぜん『街道をゆく』の文章も須田剋太の挿絵も承知だったが、全リストを見て「そんなにありましたかねえ」といわれた。
「島原・天草の諸道」は、単行本でそれだけで1冊になるほどに長い。行程や訪れた地点が長く多くはないから、文章にあわせて1か所あたりの絵の点数も多くなっている。

島原城の展示、蝋船

右の絵:須田剋太『黄櫨の実を圧搾器でしぼる蝋船』
須田剋太『黄櫨の実を圧搾器でしぼる蝋船』

* 城の区画を出て、島原の街を歩く。
島原城外の西には武家屋敷があった。


■ 武家屋敷鉄砲町

島原城の西に、地図で見るとすっきりと碁盤目状になっている一画があり、そこがもとの武家屋敷群。城下町では敵軍に攻めこまれにくいように、道をすっと通さないで入り組んでつくるのがふつうだと思うが、ここは珍しい。
通りの中央に水路があり、水がいきおいよく流れている。
石を組んだ塀ごしに、夏みかんがみかん色の実をつけているのが見える。食糧の補助に藩が奨励したという。

島原武家屋敷跡 須田剋太『島原鉄砲町』
須田剋太『島原鉄砲町』

見学用に開放されている山本家の庭を須田剋太が描いているが、あいにく修復工事中で入れなかった。

● 寒ざらし

古い家の1つが休憩所・売店になっていて、「島原名物 かんざらし」というものがある。
小さな団子が、島原の名水に糖分を加えて甘くしたミツにひたしてある。
素朴な味わいでひとやすみ。
島原名物 かんざらし

* 島原城外、東には森岳商店街という商業地域がある。

■ 森岳酒蔵

今は酒を作ってはいなくて、まちづくりの拠点になっている。
須田剋太が「石花売り」の絵を描いている。「石花」は海のカキのことで、かつては天秤でかついで売り歩いていた。
森岳酒造にいた人にたずねると、今はそんなふうに売り歩くことはないとのこと。
まあそうだろうな。
ピークの季節には、店先で焼いて売る露天がでることはあるという。

島原武家屋敷

右の絵:須田剋太『島原にて 石花売り』
須田剋太『島原にて 石花売り』

■ 青い理髪館吉四六(きっちょむ)書房

おしゃれな洋館のもと理髪館があり、今はカフェになっている。(写真左)

そこからすぐ先の角を曲がると本屋がある。(写真右)
司馬遼太郎は島原で泊まったとき、朝の散歩に出て、床屋で髪を刈ってから、本屋で地図を探している。
「青い理髪館」と「吉四六書房」のことだろうか?
吉四六書房に入ってきくと、開店したのは『街道をゆく』の取材旅行よりあとだった。床屋についても「古風な構えの床屋に入る」とあるから、見当違いだった。

青い理髪館 吉四六書房

吉四六書房は新刊書と古本を扱っている。戸1枚の狭い入口だが、奥が深く、相当な量の蔵書がある。
本を大量に読む人がいて余剰を古本屋に売り、それをまた買う人がある。かなりな文化的厚みがなくては成り立たないはずだから、僕は「古本屋があればその町は文化的レベルが高い」と思っている。
司馬遼太郎が歩いたのはここではないとしても、おしゃれな元・床屋と、古本屋と、城下町に似つかわしいと思う。

■ サンワ理髪館・まちの寄り処森岳

駅通りにでると、瓦屋根に白壁の長屋ふう建物の1つが理髪館になっている。(写真左)
司馬遼太郎が入った「古風な構えの床屋」はここのようだ。
すぐ先の角を曲がると、数軒先に「まちの寄り処森岳」とあり、「登録有形文化財・鵜殿家住宅」という標識がつけられている。(写真右)
「まちの寄り処森岳」ではあいにく人がいなかったが、近くの店でたずねると、そこは一時期、本屋だったことがあり、学校に通っているころは毎年そこに教科書を買いに行ったという。
司馬遼太郎が朝の散歩で寄った床屋と本屋はこちらだったようだ。

サンワ理髪館 鵜殿家住宅

* さらに南にいくと、島原市役所のわきからアーケードの商店街がある。

■ 国光屋あと

1980年の『街道をゆく』の取材の旅で、島原では国光屋に泊まっている。

南へゆくうちに、堀町という旧城下町以来の町方の一等地に入った。寺院や大小の古い商家で本瓦ぶきの建物が多く、町に古格がある。私どもの宿の国光屋もそのなかにある。
 宿の主人の鐘ヶ江管一氏はまだ壮齢で、県の教育委員長をつとめている。
(『街道をゆく 17』「島原・天草の諸道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1982。以下、とくに表示のない引用は同書から。)

その年の選挙で鐘ヶ江管一(かねがえかんいち)氏は市長に選ばれ、1992年まで3期つとめた。1990年から始まった普賢岳の噴火に際して対策に奔走して「ヒゲの市長さん」として全国に知られた。
国光館は西鉄ライオンズの島原キャンプでの常宿でもあったが、その後、廃業し、建物も解体された。

もと国光屋があったところに行ってみると「ゆとろぎの湯」という日帰り入浴施設になっていた。宿の記憶が生き残っているといえなくはない。
前の通りにはアーケードがかぶせられ、司馬遼太郎がいうように「町に古格がある」という印象はうすかった。
国光屋あとの「ゆとろぎの湯」

* 島原市立図書館に戻って車に乗り、島原鉄道の島鉄本社前駅の近く、海岸沿いにある宿に向かった。

● 南風楼
長崎県島原市弁天町2-7331-1 tel. 0957-62-5111

気楽そうな中高年旅行者のほかに、学生たちが卓球やらゲームやら興じていたのは春休みの合宿旅行だろうか。老舗の宿だが、いろんなアトラクションがあって、平日なのに、にぎわっていた。

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 第2日 南島原から 口之津港-鬼池港 牛深に泊まる

* 朝、テレビで天気情報を見る。長崎県は雨で、とくに島原地域だけに大雨注意報がでている。僕はこのところ旅行中の天気は幸運つづきで、雨の予報がでていてもたいしたことはないとか、晴れてきてしまったりとかいうことが多かった。今日は当地限定の大雨注意報まで出ては、さすがにダメかと気が重くなる。
食事して部屋に戻ると、空が明るくなり、いくらか小降りにはなっている。
これくらいなら何とか動けるかと気をとりなおして宿を出る。
今日は島原半島の右下1/4を南に走り、天草にフェリーで渡り、南端の牛深にある宿に入る予定で、行程が長い。


■ 南島原駅・島原外港駅


南風楼を出て、家並みのあいだの細い道を南に走っていると、木造の洋風建築があり、目をひかれた。車をとめてみると島原鉄道の南島原駅だった。
南島原駅

1つ先の駅が終点の島原外港駅なので、そちらにも寄ってみた。
すっきりした近代的な駅舎で、レールはまだ先まで延びているが、すぐ先で途絶えるのだろう。
『街道をゆく』では、これより先で「島原鉄道の単線のレールが横たわっている。それをまたいで」行ったというような文章がでてくるが、1980年の取材旅行後、2008年に島原外港 - 加津佐間が廃止されている。

* 国道291号を南下する。海沿い、噴火後の土砂によって作られた埋立地に大きな建築物が2つあり、1つは島原復興アリーナ。
その先の雲仙岳災害記念館に入る。


■ 雲仙岳災害記念館がまだすドーム長崎
長崎県島原市平成町1-1  tel. 0957-65-5555
http://www.udmh.or.jp/

火砕流がとおったあとの惨状がガラスの床下に再現されていたり、噴火シーンにあわせて床が震動するシアターなどがある。映像でみても溶岩ドームが盛り上がり、崩れるようすは、不気味で迫力がある。

1991年6月3日の火砕流では43名の犠牲者がでた。報道関係者が避難勧告区域内に入りこんでいて、それに道連れになるようにして報道陣を運んだタクシー運転手、警察官、消防団員などまで亡くなった。
2005年になり、そのとき撮影された日本テレビのカメラマンのテレビカメラが発見され、映像が復元された。
そのカメラが展示され、映像が流れていた。
映像には、あわせてそのときの関係者の証言もあった。違う判断をしていれば亡くならずにすんだはずという事情があるから、どの証言にも苦い悔いがある。

溶岩ドームカレー そんな映像をジンとしながら見終えて部屋から出ると、すぐ先にあるレストランで、「溶岩ドームカレー」とか「溶岩げんこつ天 ざるそば 名物セット」なんていうのがある。ハデな文字と写真で目をひいて、前の部屋の印象との落差にちょっととまどう。

『街道をゆく』の取材はこのときの噴火より10年ほど前だったが、司馬遼太郎は1792年の噴火災害にふれてこう書いている。

(眉山の)谷が泥砂を噴きあげ、九日には溶けた岩があかあかと流れ、谷をつたって東へながれた。
 それでも市民は避難しなかった。
 むしろおもしろがって、流れてゆく溶岩を見物する者が日に日にふえ、ついには茶店が出来、そこで酒をのむ者もあり、ついでに三味線をひかせておおさわぎする者もいたという。こういう精神がなければ日本のような火山列島には住んでいられないともいえる。

* 傘がなくてもすむほどの、かすかな雨が降っている。すぐ南に水無川河口がある。

■ 河口ウォッチング:水無川

普賢岳の噴火が続いたころ、水無川には水ではなくて土石流が流れて、河口から先まで大量の土砂が扇状に押し出していた。
今は土砂は除かれ(それも雲仙岳災害記念館付近の土地になったろうか)、護岸も整備され、細く濁った水が流れている。
まだ1990年代の噴火による堆積物は山腹にあるし、次の噴火があるかもしれない。
河口ウォッチング:水無川

* そこからすぐ南島原市に入り、内陸部に向かった。

■ 旧大野木場小学校被災校舎+大野木場砂防みらい館
長崎県南島原市深江町大野木場 tel. 0957-72-2499


1991年9月15日の火砕流で、校舎内が焼かれてしまった。
枠組みは残っていて、校舎の向こうの空が透けてみえる。
(後ろにのぞいているのは学校の裏山。そのさらに後ろに大きな普賢岳があるが、霧に隠れている。)
旧大野木場小学校被災校舎

近づいてみると、木の床が焼失して、コンクリートの基礎だけむき出しに並んでいる。
テレビカメラを支えていた鉄枠が残っているのも見える。完全に焼失したのではなく痕跡が残っているだけ、かえっていたましい印象がある。
隣に砂防みらい館があり、噴火に関わる展示があり、火山の状況の監視もしている。

* ふたたび東へ、海岸方向に坂道をくだった。
須田剋太の挿絵に『雲仙岳と眉山』がある。
島原城で松尾卓次さんが、山々の南側で、今はないが島原鉄道の線路の先に山が見える位置から描いたのだろうと言われていた。
その南側に来ているから、海岸方向に向かえば横切るはずの島原鉄道の廃線跡に気をつけて慎重に走ったつもりだった。
でもそれらしいところがないまま、海に沿う国道まで降りきってしまった。
廃線跡が公園とか遊歩道にでもなっていれば見つけやすいが、レールをはがしたままになっていると、単線で幅が狭いことだし、わかりにくい。
カーナビの地図で見ると海岸近くに市役所の深江庁舎がある。そこで教えてもらおうかと着いてみると、すぐ隣に図書館があって、ならこちらの方がいいと図書館に入った。

■ 南島原市深江図書館
南島原市深江町丁2260 tel.050-3381-5125
http://www.lib-minamishimabara.jp/

事情を話し、須田剋太の絵のコピーを示して尋ねると、古い道路地図を探してきてくれた。島原鉄道が記されている時期のもので、たしかにこれならわかりやすい。
僕は、絵の場所は、図書館があるあたりで島原鉄道が通っていたところという見当をつけていたのだが、絵を見ていた司書のひとりが「高い視点からレールも見おろしているから、もっと南で国道251号線が鉄道を越えていたところがある、そちらではないか」といわれる。
そのころの地図では、旧深江町から旧布津町に入る境界あたりで、国道より内陸側を走っていた線路が、国道をくぐって海側にでている。

国道からそれた細い道に駐車して、道が線路を越えている地点に歩いた。
北側をみおろすと、線路があったとおぼしき細い低い土手道がある。教えられていなければ、ただの畑のなかの小道で、その視線の先に雲仙岳と眉山がある。(ただこのときは雲が垂れていて、すっかり絵のようには見えなかった。)
反対の側を見おろすと、線路跡は一転してへこんでいて、笹にうもれている。
こちらも、歩いて通りかかったとしても知らずにきたのなら線路があったとは思いもよらないような眺めだった。
図書館でたずねてよかったとあらためて思い直す。

国道251号が、旧島原鉄道の線路跡を越える 須田剋太『雲仙岳と眉山』
須田剋太『雲仙岳と眉山』

* もう1枚『眉山と雲仙岳』という絵がある。弓状の砂浜の先に山が2つある。地図上で見当をつけて、国道からそれて布津町乙、大崎鼻あたりの海岸沿いの道で降りてみた。
やはり雲が山頂部を隠しているが、海岸の形からしてこのあたりで描いたのだろう


大崎鼻あたりから北、雲仙岳方面の眺め

右の絵:須田剋太『眉山と雲仙岳』
須田剋太『眉山と雲仙岳』

* この先の有家にあるセミナリヨ跡の絵もある。
旅行前にこの位置をインターネットで調べてみたが、旅行社と観光協会とで違う位置を表示していて釈然としなかった。
近くに有家図書館があるので、そこできいてみようと、深江図書館にはたまたまだったが、こちらには初めから目指した。
すぐそばにイオン有家店があるので、入って昼食をとった。


■ 南島原市有家図書館
南島原市有家町山川131番地1 tel.050-3381-5046
http://www.lib-minamishimabara.jp/

ここで有家セミナリヨ跡の確定的な位置を教えてもらえた。
須田剋太が絵を描いた地点を歩いていることや有家のことなど数人の司書と話しているうち、ひとりが「セミナリヨ跡はなんとかタクシーの前」といわれたのが耳に残った。
セミナリヨ跡は国道251号線に面した小さな史跡で、うっかりすると通り過ぎかねない。このあと車で走っていて、「・・・タクシー」という看板がまず目に入ったおかげで行き過ぎずに探しあてられた。
深江図書館で国道が旧線路を越える地点を教えられたこともそうだが、文献的なことだけでなく、こうした司書の生きた知識、こんな手がかりは有効だろうというちょっとした心配りにも助けられる。

■ 有家「史跡 セミナリヨ跡」
長崎県南島原市有家町中須川下町

司馬遼太郎の一行が訪れたときは、「史跡 セミナリヨ跡」という白い標柱が1本立っていただけのようだ。
「もとは庭木だったのが放置されたような印象の木があり、その木の下の暗がりにカマボコ型の加工石がごろごろしていた、型からして切支丹墓の墓石のようだ」と司馬遼太郎は推測している。
今は、その墓石と思われるものが覆いの中におさめられ、解説の文章も作られている。

有家の『史跡セミナリヨ跡』

右の絵:須田剋太『史跡セミナリヨ跡』
須田剋太『史跡セミナリヨ跡』

* 国道を西に向かうと、おだやかな砂浜がつづくなかに、そこだけコブのようにとびだした小さな岩山がある。

■ 琴平神社

小山に上がる階段のわきに「島原半島世界ジオパーク」の説明板がある。
海での堆積物のうえに雲仙の噴火による堆積物がのっていることが、この小山の断面で観察できる。
崩落注意の表示もあるが、立入禁止ではなく、小山に上がってみる。
鳥居があり、祠がある。

琴平神社 須田剋太『琴平大神ヨリ原城跡を見る』
須田剋太『琴平大神ヨリ原城跡を見る』

司馬遼太郎は、ここから原城を眺めて「まことに気の晴れるような景色である」と書いている。
須田剋太の絵でも、鳥居などの人工物以外はなにもない、あっさりして眺めがいい場所だったようだ。
今は盛大に葉をつけた灌木が成長していて、「気の晴れるような景色」は望めないし、原城の丘も見えなくなっているのが惜しい。

* 海に沿って堤防があり、その内側に道路がある。
司馬遼太郎は堤防が作られたことを惜しんでいる。


 浜にさえゆけば朝夕のおかずがらくらくととれた。縄文時代からつづいている人の暮らしの基本的なものは、浜が提供してくれたのである。
 ただし、何年かに一度は海岸ぞいの床を潮が浸(ひた)してしまうということがあるが、それでもひとびとは渚ちかくに住むという古代的形態をすてなかった。
 が、いまは何年かに一度の来襲をふせぐというただ一つの目的のために、他の多くの益(えき)をすててしまった。

このあたりの堤防は、車で走っている視点からでも海が見えているほど低い。それでもこういうことがある。東日本大震災のあと、10mもの高さの防潮堤が作られようとしている。そこに暮らす人にとって、防潮堤の高さ、強度だけが対策ではないだろうと思う。

* 海岸沿いを走って原城跡に着く。

■ 原城跡

島原の乱では3万に近いといわれる人たちが原城に籠もったという。それほど原城は広い。戦いが終わると内通者以外はすべて殺されるという悲惨な歴史があるが、南の地の海辺の丘は光がやわらかくあかるい。
午前中はかすかな雨にもあったが、午後は空が明るくなり、雲はあるが、青空ものぞいている。雨でないときに来られてよかった。

原城跡、本丸 須田剋太『原城跡』
須田剋太『原城跡』

本丸があった高い位置の平坦地には、いくつかの人造物があり、十字架をのせたモニュメント、天草四郎時貞の墓石、幕府軍にいて戦死した佐分利九之丞の碑などを、須田剋太が描いている。
ほかに、駐車場近くには、反乱のあと、ここにきた僧が多くの死体が白骨化したままあるのを見かねて1か所に集めて地蔵を建てたという骨かみ地蔵があり、城の地形として、空堀のあとがあり、須田剋太はそれらも描いている。

原城、骨かみ地蔵

右の絵:須田剋太『ホネカミ地蔵 原城ヨリ』。後ろの堂が今はなくなっている。
須田剋太『ホネカミ地蔵 原城ヨリ』

この付近の浅瀬に、リソサムニュームという珍しい植物が繁殖していて、年2回の最干潮時だけ姿をあらわすという、その海の風景も描いている。
須田剋太が絵心をそそられたということもあるだろうし、司馬遼太郎が長い時間ここにひたろうとしたということもあるだろう。

■ 南島原市原城図書館
南島原市南有馬町乙1314番地1 tel.050-3381-5078

原城跡では、須田剋太の絵と照らし合わせながら歩いたのだが、『板倉内膳正重昌の碑の前石仏』とある絵の場所がわからなかった。
市街地に戻って、また図書館に寄ってたずねた。
原城のパンフレットのような資料があり、碑のことが示してある。僕は本丸近く、骨かみ地蔵がすぐという位置にある駐車場まで車に乗ったまま行ってしまったのだが、もっと手前にあったようだ。

司馬遼太郎一行は、ずっと手前から歩いたらしい。
 国道から、農道のような道を降りて、やがて丘陵のなかに入った。(中略)
 途中、道路のわきにいくつか「名所」がる。
「板倉内膳正(ないぜんのしょう)重昌の碑」
 という石碑もそのひとつで、碑面に苔の枯れあとが青さびている。
こういうものを見たあと、
 城の中心部にむかって坂をのぼってゆくと、路傍の右手に「骨かみ地蔵」という一宇がある。
この文章に気をつけていれば見逃さないところだった。
惜しいが、もう一度城趾のほうに戻るのはパスして、先に向かうことにした。

南島原市では3つの図書館に寄った。
どこでも有益な情報を得られたということに加えて、司書の人たちがそろって明るく好感な人ばかりだった。
ただの職業的対応というのではなく、こちらがたずねることに、「それはおもしろい」「自分もそれを知りたい」という適度な好奇心が発動して、たずねる者の好奇心にシンクロしてくれているふうだった。
そういう共感があるから、ただきかれたことを調べてこたえるというだけでなく、それなら該当地は国道が線路跡を越えるところだろうとか、「・・・タクシー」の前とか、プラスアルファのことに思いが届いて、それにとても助けられた。

南島原市の図書館の一覧資料をみると、人口47,000人の市に、図書館が6館に図書室が2室ある。人口に対する図書館の比率でいったら、全国屈指ではないだろうか。
しかも司書の人たちがいろいろな意味でレベルが高い。
司馬遼太郎は自然の景観にひかれて
 -晩年は島原半島の有家あたりで住もうかな。
 と、本気でおもった。
と書いている。
僕も、明るい海に加えて、図書館にひかれて、ここに住めたらすてきだろうと思った。住む街として僕が理想とするのは、「美しい風景と、軽く登れて市街地を見おろせる山と、いい図書館と、美術館がある」というもので、南島原はほとんど理想どおりになる。

ここは、長崎の平和祈念像を作った北村西望の生地でもあり、その記念の美術館があって行ってみたいが、ここまで想定より大幅に時間をかけてしまっているので諦める。

島原の海

* 口之津港から天草に渡る船に乗るのだが、その前に口之津港を囲む丘陵の先端にある口之津歴史民俗資料館に寄る。
丘陵の先っぽにある資料館へ近道する赤い橋がかかっている。
車がすれ違えないほどに狭い。
レンタカーでゆるい勾配の橋に上がりかけたところで、向こうからマイクロバスが降りてきて、橋の手前まで戻った。もし橋の中央の最上部で対向車と出会ったら、狭い下り坂をバックしなくてはならない。下り坂をバックするとなると視界にあるのは空だけで、ちょっとしたスリルがありそう。


■ 口之津歴史民俗資料館·海の資料館
長崎県南島原市口之津町甲16-7 tel. 050-3381-5089

 船が口之津港を出てゆくとき、岬の突端にある旧税関の茶色っぽい建物が風景によく適(あ)っていた。朽ちくずれるままに放置するよりも、大蔵省から町に払いさげてもらって、こんにちまでの口之津のすべてを語る博物館にすればどうだろうと思ったりした。

司馬遼太郎のこのときの旅は1980年のことだったが、ちょうどその年に当時の口之津町は国から払い下げを受け、室内を改修して資料館にした。司馬遼太郎が思ったことが、いわば予言のように実現したことになる。
口之津港に出入りする船からは、1899年に建ったもと口之津町唯一の明治洋風建物を眺めることになる。

展示を見ていると、資料館の人が団体見学者に説明をしているところで、便乗して聞かせてもらった。港が栄えていた時期、とうぜんの付属物として遊郭もできる。残っている遊郭の記録から、そこで何を食べていたか、いくらだったか、今の物価と比較して、実感的でとてもわかりやすい話だった。

説明されていたのは原田建夫館長で、あとで話をうかがうと司馬遼太郎家と懇意にされている方だった。
司馬遼太郎が暮らした大阪からこれほど離れたところで意外な印象を受けたのだが、司馬家にはずいぶん前から島原の女性が何人も手伝いに行っているのだという。司馬遼太郎が責任をもち、しかるべき人と結婚させ、その後も司馬家の近くに住むようにしているという。
司馬遼太郎が亡くなったあともその習慣は続いていて、最近、夫が転勤で大阪を離れるにつき、また新たな人をと司馬夫人から依頼があり、さがして紹介したところだという。
あとで読み直していて気がついてみれば、『街道をゆく』に、島原の女性が「手伝いにきてくれた」という文章がある。司馬遼太郎の手伝いということになれば、家事に限らず、秘書のような内容も関わってきそう。
今日、図書館3つに寄った経験から、なるほどそれはおおいにありだと納得する思いになった。明るく、有能で、ただ指示されたことに淡々と対応するというだけでなく、自分自身も適度に好奇心のバネをはずませている感じ。司馬遼太郎と島原からいった人たちとの楽しく知的なやりとりを想像した。

口之津では須田剋太は『臨時の煮麺屋』を描いている。
タクシーの運転手さんが気をきかせて、店ではなく、懇意にしている家で名物の煮麺を食べさせてくれたことが、司馬遼太郎の文章にもある。
資料館の原田館長は、この家がどこか、尋ねられるかぎりのところにあたったが、ついにわからなかったといわれる。
あと、口之津よりさらに西の加津佐に、切支丹コレジヨ跡の史跡があり、須田剋太が「加津佐古城跡」を描いているのだが、それもパスしてフェリーに乗った。

口之津港、旧税関と橋

口之津港を出るところで旧税関が見える。須田剋太が右の絵を描いたときには、赤い橋はまだなかった。
須田剋太『口之津風景』
須田剋太『口之津風景』

* フェリーは30分で、天草下島の鬼池港に着く。
今日は下島の北端の鬼池から、富岡城、大江天主堂などを見ながら西岸づたいに走って、南端の牛深に泊まる予定だった。
ところが島原半島でゆったりと景色を見たり話を聞いたりしていて、ほとんど1日を費やしてしまった。
今日は南端の宿に直行して、明日、大江天守堂、富岡と戻るように北上して、右回りに回って本渡(天草市街)に向かうことにする。行程が一筆書きでなくなって走る距離が長くなるがしかたがない。

今夜の宿は牛深の日本旅館で、1泊2食で予約してある。
宿には6時着と伝えてあるが、5時を過ぎたところで、いくらか遅れそうと連絡しようと車をとめると、宿のほうから携帯にかかってきた。
女将が急に血圧が上がり、病院にいってきた、今夜はとても客を泊められる状態ではない、近くにかわりの宿を予約したから、そちらに泊まるということで了解いただきたいとのこと。
当日の夕方5時に宿のほうから断られるというのは初めてで、とまどう。
行程がダブることだから、もっと早くわかっていれば、より近い下田とか本渡に泊まることにすれば、急な変更にもメリットはある。
でもさすがに5時だし、ホテルがいくらもある都会でもない。
手配してもらったホテルに泊まることにした。


● ビジネスホテルクボタ
熊本県天草市牛深町163-1 tel. 0969-73-4315

2階にフロントと居酒屋、3、4階が宿泊室になっている。
フロントでおばちゃん2人に迎えられる。親密な感じでいい。
こういう個人営業的ホテルはけっこう好きで、あと思いつくのは、埼玉県熊谷市の熊谷ロイヤルホテルすずきとか、大阪府泉佐野市のエアポートイン プリンスとか。
部屋も設備もやや古いが、ツイン・ルームで広い。
居酒屋でおばちゃんと話しながら手料理をいただくのもわるくなさそうだが、あいにく今日はお休みで、外に出る。

『街道をゆく』の取材は牛深には来ていない。
僕が心当てにしているのは、建築的には、レンゾ・ピアノ設計による牛深ハイヤ大橋と、内藤廣設計によるうしぶか海彩館。
映画的には、『女たちの都』。主演の大竹しのぶをはじめ、松田美由紀、杉田かおるなど、女優がいきいきと輝いていた。

うろうろ夜の町を歩く。
人通りが少ない。
たまに飲み屋さんの中だけ人混みになっていたりする。
映画のロケ中、大竹しのぶが気に入っていたという刺身がおいしい魚正の前を通ったが、あいにくここも休業日。

牛深ハイヤ大橋 港にそって歩いていくと、牛深ハイヤ大橋を見あげる遊歩道にでた。
ライトアップされて、夜空を背景にシャープな存在感がある。

● うしぶか海彩館
熊本県天草市牛深町2286-116 tel. 0969-73-3818

遊歩道の先のうしぶか海彩館の2階にレストランがあって、そこで夕飯にした。
窓際の席にすわると、下から照明を受けたハイヤ大橋が龍のようにうねっているのを間近から見あげる。
今が旬で季節限定の鰆(サワラ)の定食をとる。
フライとカルパッチョに調理されている。
それに焼酎。
サワラはうまいし、眺めはここでなくては味わえない特産の一級品だし、宿をキャンセルされて、かえって楽しめるということにもなった。
はじめの宿だったら着いてまもなく食事だったろうから、ハイヤ大橋の夜景を眺めることもなかったかもしれない。
おまけに、[もとの宿の1泊2食の料金]>[ホテル+海彩館の食事+焼酎代]だった。

* うろうろ歩き回ってきたのでホテルに戻る道がわからない。通りの壁にかかった商店街図を見て悩んでいると、シャッターをしめてこれから車で家に帰るところという様子の人が建物から出てきた。
道をたずねると「その案内図わかりにくいよね」と言って、説明するより送ってしまったほうが早いからと車に乗るようにうながされ、ササっと走るとたちまちホテルのわきにでた。
島原につづいて天草のひともやさしい。


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 第3日 牛深から 崎津-大江-富岡と北上して 本渡に泊まる

* ホテルでは朝食のみついている。畳敷きの座敷でとる。こういう風情も個人経営ホテルの味わい。
きのうは雨にほとんど降られないですんだが、まだ雨は終わりではなくて、ときどき霧が流れるくらいの雨がやってくる。


■ 牛深ハイヤ大橋

橋を車で渡ってみた。
そもそも遠くから来た者には、この橋がなぜあるのかが不思議だった。
地図でみると港の2つの突起をショートカットして結んでいるにすぎない。
歩道もあって、このあと歩いてみもして、海を見おろす高い橋は気分がよかったが、日常的に近道できて便利というようなものではない。

うしぶか海彩館側から橋を走っていくと、途中に信号があって驚いた。天草下島の南にあるもっと小さな下須島に渡る橋が分岐している。なるほどこのあたりの交通を整理するジャンクションの役割もあるようだ。
でもそれにしても下須島に渡る橋はほかにもあり、たいした距離はないし、渋滞があるほどの交通量でもないから、なくてすんでしまいそうではある。
信号から先、西に向かうと、橋は下り勾配で、海面に滑り込んでいくような感じがディズニーランドのアトラクションのようでワクワクした。

いくつかの地点で車から降りて眺めてみた。数本の橋桁があるほかは、1本すーっと弧を引いただけというすっきりした形をして、どこから見ても美しい。どこにでもありそうな港の風景を、この橋が特別な場所にしているということはある。


片側に歩道がある。歩いてみると海からはかなりの高さで気分がいい。
牛深ハイヤ大橋

■ うしぶか海彩館
熊本県天草市牛深町2286-116 tel. 0969-73-3818

橋を両側からはさむようにして、うしぶか海彩館がある。
大屋根の下に、観光案内所や、海産物の物産店や、魚が泳ぐ大きな水槽や、フェリー乗り場や、レストランなどがある。
いくつか昔の木造漁船が展示してあり、同じ内藤廣が設計した伊勢の「海の博物館」を思い出させる。

牛深ハイヤ大橋と、うしぶか海彩館 うしぶか海彩館の水槽と船

ハイヤ大橋も、海彩館も、細川護煕が熊本県知事時代にはじめた「くまもとアートポリス」事業として建てられた。こういう離れた地域にまですぐれた建築を作ろうとする計画はたいしたものと思う。

映画『女たちの都』では、僕が気がついた限りでは、ハイヤ大橋も海彩館も画面に現れなかった。三浦屋という木造料亭が主要な舞台で、映画制作者は古い街のほうにだけ関心があったようだ。映画がとてもよくできていただけなお新しい建築にも目を向けて画面に登場させてほしかった気がする。

* 牛深を出て266号線を北に走り、389号線にそれて西へ向かって、崎津に入る。羊角湾に面した小さな入江に集落がある。教会の近くの狭い駐車場に車を置く。

■ 崎津カトリック教会
熊本県天草市河浦町崎津574 tel. 0969-79-0015

明治になってキリシタンの禁令がとかれてやってきたハルブ神父が、この教会を完成させたのは1934年のこと。かなりな年月を要している。
崎津は、海と、海近くまで迫る崖にはさまれていて、土地も狭ければ人口も少ない集落だから、そこに教会を建てるのはたいへんなことだったろう。
教会に着くと、101歳で亡くなった女性の葬儀がまもなく始まるところだった。準備がすすみ、参列する人がぽつりぽつりとやってきて中に入っていく。
亡くなったのは海付という全国的にみれば珍しい姓のひとだが、通りにその姓の看板のある店もみかけた。あとで海付姓のひとはクリスチャンが多いときいた。

通りから教会に入る細い道の角にある店で、墓地への道をたずねた。
「福」という食堂のわきの道をあがるとあるという。
行ってみると、崖の急斜面に苦労して墓地を設けてある。
仏教式の墓とキリスト教の墓がまじっている。
須田剋太が描いたような大きな十字がのる墓は見つからなかった。
下に降りてから数人の人が立ち話しているのできくと、しばらく前に墓の整理をして、十字架は家に持ち帰ったという。

崎津カトリック教会

墓地から見おろした崎津カトリック教会
須田剋太『崎津』
須田剋太『崎津』

■ 紋付屋

「トーヤ」という細い生活道路があり、国の重要景観に指定されている。
教会の正面からの「トーヤ」を歩いていくと空き地があり、もと紋付屋という旅館があったところ。
今は建物は解体されて、草が生え、釣りをする人が車をとめている。

須田剋太が紋付屋を描いている。
海から描いたふうになっている。
司馬遼太郎の文章では海に出たとは書かれていない。
遊覧船があるようでもない。
写真を参考にして描いたろうか。

紋付屋跡 須田剋太『崎津紋付屋』
紋付屋の跡。「トーヤ」という道からの眺めで、向こうに海がある。 須田剋太『崎津紋付屋』。海側から描いていて、背後に教会の尖塔がみえる。

『天草風景』と題した絵もある。こちら側に船がとまっていて、狭い海面をはさんで、向こう側の集落と背後の山がある。これは紋付屋あたりから対岸を描いたように思えるが、週刊朝日に掲載されたのは、本渡あたりを歩いている時期の回だった。こういう風景で、『天草風景』というような広いタイトルだと、たしかにどことは決めにくい。

崎津 須田剋太『天草風景』
須田剋太『天草風景』

■ 南風屋(はいや)

紋付屋跡のすぐ近くに郷土文化伝承館「南風屋」がある。
店の人が「寄ってお茶でものんでらっしゃい」とすすめてくれる。
名物という「杉ようかん」があるので、注文して食べながらお茶にした。
ふつうの民家を観光客のための案内所兼休憩所のようにしていて、ここを訪れた著名人がサインした色紙がたくさん壁にかかっている。
南風屋(はいや)

須田剋太が描いた紋付屋の絵のコピーを見てもらうと、「左にあった新館がなくなっていて、そこは塀だけになっている」という。
新館というくらいだから中央の本館よりあとに作られたのだが、本館ほどしっかりした材料をつかわなかったので、いたみが早かったようだ。

* 昼近くになっていて、墓の上がり口にあった食堂「福」をのぞいてみたが、まだ早いのか、ひとけがないので諦める。
389号線を北上する。
大江バイパスから左にそれて、旧道にはいる。


■ 大江天主堂
熊本県天草市天草町大江1782 tel. 0969-22-2243

丘を上がると大江天守堂がある。
中に入ると高齢の尼さんが祈っていらしたが、立ち上がって「いらっしゃい」というふうに礼をして迎えてくれる。
広い堂内にステンドグラスの明るい光りが充ちている。
堂から出ようとすると、尼さんがまた立ち上がって礼をして見送ってくれる。

絵はがき的には正面からがいかにも天主堂という感じだが、須田剋太は右後方から描いている。

右の絵:須田剋太『大江天主堂』 須田剋太『大江天主堂』
大江天主堂、正面 大江天主堂、側面

● メーンの盛(めーんのもり)
熊本県天草市天草町大江1873-1  tel. 0969-42-5912

メーンの盛
丘からくだったところに変わった名前の店があり、昼食に入る。
ちゃんぽん600円を注文すると、たっぷり具がのってうまかった。

須田剋太の絵に「野中」というバス停が描かれたのがある。
30年以上前のことだから、バス路線そのものが今もあるかどうかというところから不安がある。
店の人に絵を見せて尋ねてみた。
店主はすぐに思いつかないらしく、ちょうどいあわせた3人連れのなじみ客らしい人たちも加わってくれる。
名前がわからないので記号にすると、
Aさん(店主)は、絵をじっくり見て、絵に描かれた風景から判断できないか考え、
Bさんは、「のうえ(野上?)というところがあったなあ」と呟いて推理しているが、
Cさんが、「あるわよ、・・・鍼灸院のそば!」と宣言する。
自信たっぷりなので、そこが「野中」バス停ということになり、Aさんがそこまでの道を教えてくれた。

■ 野中バス停

教えられたとおり、旧道に戻って北に向かうと、まもなく「森口鍼灸治療院」が見えた。
おおあれだと、すぐ前のバス停に近づいてみると、「下黒勘根」とある。4文字もあるし、読み方さえわからないほど変わった地名。これを「野中」と勘違いするか?...
しかたなく、もう少し先へいってみようと走っていくと、「野下」という地名を示す標識があった。
店でBさんが「のうえ(野上)」という地名を言っていた。道はやや上り坂になっている。このまま進めば「野中」を経て「野上」になるのだろうと見通しがたって、行ってみるとそのとおり「野中」のバス停があった。

野中バス停 須田剋太『天草風景』
須田剋太『天草風景』

旧道は、細く、曲がりくねっている。
橋やトンネルを作ってほぼ一直線に南北をつなぐ大江バイパスが2004年に通じたが、旧道の集落を結ぶバス路線は今も運行されている。
『街道をゆく』の取材一行は、旧道を通ったわけだ。ここに限らないだろうが、『街道をゆく』の旅は今より苦労が多かったろうと思いいたる。

* 天草下島の西岸を北上する。左にずっと海を眺めていく。
このあたりを走っているとき、須田剋太が受けた印象が司馬遼太郎の文章に記録されている。


 どうも、日本海や太平洋の水平線とはちがっている。(中略)水平線そのものが、はるかな未知の境いから文明の響きをひびかせてくるような気がする。
「天草というのは、山も海も、ものを言っているみたいですね」
 右側の水平線をみていた須田画伯が、いった。

このあと司馬遼太郎の文章は、その山のことになり、斜面に大きな努力により平面を幾枚にも刻んで作った棚田に注目する。

私どもの先祖が、古代中国の大土木工事(万里の長城や大運河など)よりもはるかに大きな努力と長い時間をかけて築いた遺跡であるかのように思うのだが、いまのところ、歴史的遺跡というにはまだ生々(なまなま)しく、当然ながら珍重されるに至っていない。

今は各地の観光パンフレットにしばしば棚田の写真が掲載されるほどに世間で認知されている。
『街道をゆく』の取材は1980年のことだった。
その後、たとえば1996年には全国棚田(千枚田)連絡協議会というのが結成され、以後、毎年棚田サミットが開催されている。
1999年には観光地化の狙いもふくめて農林水産省が棚田百選を選定している。
そんなことから、棚田の価値がひろく認められるのは1990年代後半のことといっていいようで、司馬遼太郎の目が時代を先行していた一例になる。
口之津の旧・税関のことといい、棚田といい、この旅行では司馬遼太郎の予言が実現した場をみることになった。

* 須田剋太は右に水平線を見て走ったのだが、僕は一度南に行きすぎてから戻っているので、水平線を左に見て走った。
下津深江川の河口に下田温泉がある。


■ 下田温泉

須田剋太が『下田温泉天草落日』という絵を描いている。
この絵にはナゾをかけられる。
司馬遼太郎の文章には下田温泉についての記述はない。
天草下島での行程は、鬼池-本渡(泊)-富岡-大江-崎津と移動し、崎津でこの旅が終わっている。
崎津のあと、どういう経路で帰ったかはわからない。
下田温泉は、富岡と大江のあいだにある。落日を実際に見て描いたとすれば、下田温泉に泊まった可能性が高いし、ここには泊まったけれどとくに司馬遼太郎が文章でふれなかったこともありうる。
下田温泉に泊まったとすれば、崎津まで行ったあと戻って1泊したかもしれない。
そのあと、長崎まで戻って長崎空港からか、天草空港-熊本空港と乗り継いで帰ったろうか。
『街道をゆく』の文章と挿絵からでは、確定的なことはわからない。
昼走っても気分がいい道だが、夕日もきれいなことだろう。

下田温泉付近の天草灘

右の絵:須田剋太『下田温泉天草落日』
須田剋太『下田温泉天草落日』

* 次に、須田剋太が描いた『天草上田家』に向かおうとカーナビを設定しようとして、大江からここに来るまでに、もう通りすぎていたことに気がついた。
7キロほどで、たいした距離ではないが、そもそもいったん南にくだりきってから、北に戻って走っているので、さらに往復を繰り返す気にはなれない。ここは諦める。


* 天草下島の西北端、砂州でつながる島状の富岡に行く。
つけ根のあたりに港があり、集落が囲み、そこから望む高台に城がある。


■ 三文字屋旅館(開業1914年)
熊本県天草郡苓北町富岡2653 tel. 0969-35-0030

港近くの集落のなかに古い旅館があり、小川国夫の天草紀行『天草灘』(1977)に、三文字屋旅館に泊まったことが書かれていた。
ほかにも歴史に名を残すような人が何人も泊まっている。

三文字屋旅館
路地のつきあたりに旅館の建物はあったが、今は営業していないらしく、ひっそりしている。
崎津の紋付屋のように跡形もなくなって空き地になっているより、まだしもと思う。

* そこから港にでると、須田剋太が描いた地点らしい風景になり、高みにある城を望む。

富岡港から富岡城の展望 須田剋太『富岡港ヨリ富岡城』
須田剋太『富岡港ヨリ富岡城』

■ 富岡城

2005年に石垣と櫓が復元され、周囲も公園に整備されている。
須田剋太は城跡じたいの風景を描いていないが、『街道をゆく』の取材のときには、城は復元されていないし、これほど人手をかけた様子ではなく、もっと渺々とした風景ではなかったろうか。今は、すみずみまできれいに整備され、最近つくられた公園のようになっている。長い時間を経ていることを感じさせない。こういうことは市役所の担当者や、土木業者ではなく、空間感覚にすぐれたアーティストにまかせるのがいいのではと思う。

富岡城から富岡港をみおろす 須田剋太『天草富岡港から 苓北町風景』
須田剋太『天草富岡港から 苓北町風景』

城から降りると、ため池がある。
まだ櫓が復元される前のことで、須田剋太の絵では山上に人工物はない。

ため池から見あげる富岡城

右の絵:須田剋太『天草富岡城』
須田剋太『天草富岡城』

■ 鎮道寺(ちんどうじ)
熊本県天草郡 苓北町富岡2-2452  tel. 0969-35-0045

集落に戻って鎮道寺に入る。
須田剋太はここでも数点描いている。
描いた点数で滞在時間が推定できる。

天草 鎮道寺

右の絵:須田剋太『天草 鎮道寺』
須田剋太『天草 鎮道寺』

* また鶴の首のような砂州をとおって、島の本土部に戻る。僕は車で走りすぎたが、司馬遼太郎一行は(少なくとも一部は)歩いたようだ。

 富岡城趾への長州(ながす)は、まことにながながとのびている。長州の西は天草灘であり、東は富岡湾である。二つの海の波の音を聴きつつ歩いていた。
 ときに渚の沙が鳴るという。月光のさかんな夜、この橋立(はしだて)めいた長州を往来して、もし瞬時でも沙の声を聴くことができればどれだけいいかとも思われた。
 天草は、旅人を詩人にするらしい。

今過ぎる僕はそれほどな詩情を感じなかった。
30年前はもっとほったらかしの景色ではなかったろうか。
今は車が走りやすく舗装されているし、渚の内側はコンクリートの護岸とカラフルな舗装の遊歩道がつけられている。
通行の便とか、砂州の景観を維持するとかで必要なことかもしれないが、手をかけて失ったものもあるような気がする。

* 天草下島の北端の海岸沿いの324号線を東へ、鬼池港方面に向かって走る。
途中、わずかな距離の海面を隔てて、ポツンと島がある。


■ 通詞島

通詞島とは歴史的いわくを思わせる名だが、『街道をゆく』の一行はここには寄っていない。
小川国夫の天草紀行『天草灘』では、通詞島に渡っている。

小川国夫は島に連絡船で渡る。
坂になっている路地をいくと、家並みを抜けて、高台の畑地に出る。
四方に海を見わたせる。

 そこは青一色にひたされ、すばらしい場所だった。(中略)
 私は思いきり体を伸ばした。それがつかの間の喜びであるにせよ、気に懸ることは何一つなかった。
(『天草灘』 小川国夫 潮出版社 1977)

こんな気分になれたら最高だろうと思う。
船で渡り、自動車も観光施設もないと書いているから、そんな隔絶した感覚が、なお島のよい印象を強めたかもしれない。

今は橋が架かっている。車ですっと入りこんでしまう。
島内にも車が走り、観光施設もある。
そのぶん小川国夫ほどには感興をそそられなかったが、のどかな眺めはたしかに気分がいい。
雨の気配もすっかりなくなり、空も海も明るい。
傾斜地で道が狭いことは、たぶん車がなかったころそのままで、抜けられるだろうかと不安になるほどだった。
通詞島

通詞島にわたる橋が架かったのは1975年、小川国夫の『天草灘』の旅はそれより前の1973年、『街道をゆく』の取材は完成後の1980年だった。

* きのうフェリーで島原から着いた鬼池港を通りすぎて、東岸を南下、天草市街にはいる前に今夜の宿に着く。

● ホテルアレグリアガーデンズ天草
熊本県天草市本渡町広瀬996 tel. 0969-22-3161
http://www.hotel-alegria.jp/

静かな入江を囲む先端の崖の上にホテルが建っている。
ホテルの下から、入江をまもる防波堤がのびているが、ただのコンクリートではなく、ヤシが繁り、ベンチがおかれ、風景に美しさを加えている。
今日は自然に手を加えすぎて元の風情をそこねている気がするところも見てきたが、ここでは人工が美しい。手をかけるならこのようにするといいのにと思えるほどに、1日の最後によい所にきた。

ホテルアレグリアガーデンズ天草

レストランでは海を眺める席で夕食をとった。ひとり客にも落ち着く位置の席が用意されていた。食事もいいタイミングで運ばれてくる。料理もサービスも上質で、ゆったりと満ちたりる。

おいしかった記憶を反芻できるように御品書を写しておく。

先 付:烏賊の青さ海苔和え
御造り:天草海のあれこれ 鯛 カンパチ きびなご タコ
台の物:白魚鍋
焼 物:鰺葱味噌焼き
煮 物:新玉葱のスープ煮 チキンロール
蒸し物:ジャガイモの器に擂り流し居込み鮑洋風餡かけ
強 肴:天草ハイヤポークのコンフィー
留 椀:白サバ河豚味噌汁
食 事:香の物と御飯
デザート:ライチジュレ

まだ明るさが残る時間に、まず生ビールから食事をはじめたのだが、ほろ酔いするうちにすっかり暗くなった。ひとりで過ごすにも居心地がいいホテルだった。そう思っても、それで終わって、もう一度来たいと思わせる宿は少ないが、次は2人旅で来たいと思った。

『街道をゆく』の一行もこのホテルに泊まっている。
司馬遼太郎の文中にホテル名はないのだが、「茂木根の宿」と、このあたりの地名が記されているし、そのほかのいくつかの記述も、このホテルであることを裏づけている。
ホテルの人に尋ねると、『街道をゆく』で司馬遼太郎が天草を訪れたことは承知しているが、下田に泊まったと思っていたという。
でも、茂木根の宿というならここのことだろうといわれるが、当時とは経営者がかわり、以前の宿泊者の記録などはないとのことだった。

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 第4日 本渡から 天草五橋・三角経由 熊本空港から帰る

● ホテルアレグリアガーデンズ天草

今日は朝から晴れている。
空気はさわやかで、海と空が青い。
ホテル内を散歩する。
朝食もおいしかった。

■ 河口ウォッチング:広瀬川
『街道をゆく』では、早い時間にホテルに着いた一行は、タクシーで外に出る。

 山坂を降りきって平場(ひらば)に出ると、そこが広瀬川だった。河口近くながら、想像していたよりも、川幅が広かった。


朝、その河口に行ってみると、両岸に緑地公園がある。右岸ではゲートボールをしていた。
河口ウォッチング:広瀬川

* つづいて『街道をゆく』にしたがって丘の上にある殉教公園に行った。

■ 殉教公園
熊本県天草市船之尾町12 tel. 0969-22-3845

丘の上から須田剋太が市街と海を見おろして描いている。

天草キリシタン館から本渡市街の展望 須田剋太『天草切支丹館ヨリ本渡市風景』
須田剋太『天草切支丹館ヨリ本渡市風景』

■ 天草市立天草キリシタン館
熊本県天草市船之尾町19-52 tel.0969-22-3845

丘の上にキリシタン関係の資料を展示する資料館がある。
ここで須田剋太が展示品を描いている。
聖水入れなど小さな展示物が並び、キャプションまで写している。
須田剋太が訪れた当時の館は解体され、2010年に新しい建物が新築された。
展示も一新して、今は須田剋太が描いた資料は展示してなかった。

北八代「天草四郎」から作った看板 須田剋太『天草四郎像 天草切支丹館蔵 北八代筆ヨリ写ス』
須田剋太『天草四郎像 天草切支丹館蔵 北八代筆ヨリ写ス』

もう1枚、天草四郎像を模写している。
北八代(きたやよ1908-1996)が描いた天草四郎像で、北の代表作であり、この館にとってもよく知られる所蔵品だが、今は展示されていなかった。
右手を挙げている姿なので、入口前で来館者を迎えるような看板にしてあった。

* 少し先に行くと明徳寺がある。駐車場に車を置く。

■ 明徳寺(みょうとくじ)
天草市本渡町本戸馬場1148

島原の乱のあと、まだ潜んでいるかもしれないキリスト教の影響を除くために政策的に建立された仏教の寺。
殉教公園からつづく丘にあり、市街地へは階段が下っていて、須田剋太はここで数枚描いている。
司馬遼太郎一行がきたのは日が暮れかけた時間だったが、今は明るい午前で、「天草工高」のトレーニングウエアを着た高校生が、石段を直登直降したり、遠回りの坂を走ったりしている。

明徳寺 須田剋太『本渡市明徳寺』
須田剋太『本渡市明徳寺』

司馬遼太郎はここの階段のことを書いている。

石段のところどころに、「十」といった形の十字架が刻まれていることに気づいた。十字架の縦の線が一五センチほどあるもので、よく見なければ気づかぬほどにまで摩耗している。気づいてみると、石段のあちこちに、散乱させたようにして刻まれている。(中略)
「この十字架を踏んで、明徳寺へのぼってゆくのですね」
 と、須田画伯は、やや怖れのまじった表情でつぶやいた。

僕もこの十字を探してみたのだが、見つからない。
トレーニング中の高校生たちに声をかけて十字について尋ねたが、そんなことはきいたこともないし、したがって見たこともないという。
司馬遼太郎が来たときに摩耗していて、それからさらに30年ほど経っている。参拝の人も歩くし、高校生が階段をトレーニングで上がり降りもして、摩耗しつくしたかもしれない。

* 階段を降りた先に次に行く予定の延慶寺がある。車は階段上の駐車場に置いたまま、次の寺まで歩いた。

■ 延慶寺(えんけいじ)
天草市浜崎町9-32 tel. 0969-22-3365

『街道をゆく』の旅で、明徳寺を出たあと、タクシーの運転手が延慶寺に兜梅という名木があるとすすめたが、司馬遼太郎はあえて見るまでもないと思って「宿に帰りましょう」とこたえる。

 ところが、横にすわっていた須田画伯は、梅の花のほうに魅かれたらしく、司馬さん、といつもとはちがった沈んだ調子でいった。
「梅の花というのは、どの土地へ行っても、なかなか良いンが無いものなんです」
 そこは良い梅にちがいない、とまでは言われなかったが、それを言いたいらしかった。諸事ひかめなこの人がこういうことを言うのはめずらしく、私はあわてて運転手さんに、その延慶寺とやらに行ってくれるように頼んだ。

司馬遼太郎の須田剋太への敬意と思いやりの深さがうかがわれる文章で、このようにして2人は旅の時間を重ね、信頼を重ねてきたのだという感慨を覚える。

すずやかに思われたのは、この寺には、観覧料をとって梅を見せようというよう気分がすこしも無いことだった。
 しかも矢印を描いた紙が本堂の左端に貼ってあり、それをたどってゆくと、裏庭に出た。柴折戸(しおりど)がある。(中略)しかも断らずに本堂裏の庭園に入ることを黙許するがのように、また矢印がある。

30年以上たった今もこのとおりで、矢印に導かれて僕も裏庭に入った。
寺の包容力があたたかいし、いくつも失われたものを見てきたあとで、このように変わらずにあるものに出会って、ほっとした思いにもなった。
兜梅に導く矢印

裏庭には須田剋太の期待に違わない梅の木があった。

雀色の夕闇いっぱいに、無数のクリーム色の点がうかんでいた。三千世界に梅の香が満ちるということばがあるが、香よりもなによりもこの場の情景は、花の美しさだった。
 幹や枝などは、夕闇に溶けてしまって、よく見えなくなっている。無数の花だけが、宙に、地面に、浮かんでいるのである。(中略)
 須田画伯はすっかりとりこになり、夕闇のなかをはねまわるようにして、あちこちから見たり、すかしたり、よろめいたりしている。

僕が訪れたのは、花が散ったあとの3月だし、明るい昼間だった。
細い枝先が、地面から湧きおこった雲のようにひろがっている。目を近づけてみれば繊細な細工のようだ。どんな丹精をしたらこんな姿になって長い年月咲き続けているのか、気が遠くなるような思いがする。
花は1つ2つがかろうじて残っているだけだったが、須田剋太が眺めた情景を想像した。

延慶寺兜梅 須田剋太『延慶寺兜梅』
須田剋太『延慶寺兜梅』

* 明徳寺に車を置いたまま、さらに市街地を南に歩いて、橋を見に行った。

■ 本渡祇園橋
天草市船之尾町

本渡祇園橋 市街を西から東に流れる町山口川という細い川に石の橋が架かっている。
45脚の砂岩の柱で支えられ、歩くところのアーチも石で作られ、めずらしい構成の橋として重要文化財になっている。

1832年に架かり、歩行者は今も渡れる。
さすがに表面は欠けたり、風化したりしているが、ゆるいアーチを歩いてみると石の安定感は変わらずに足下をささえてくれる。

■ ふたたび明徳寺

車を置いた明徳寺まで戻る。
高校生がまだ階段を上下するトレーニングをつづけている。
ひとりの高校生が近づいてきて、「十字はこれではないか」と指さすところを見ると、たしかに十字が刻まれているのが見えた。

下から数段ほどのところの、中央よりやや左側。
段の奥のほう、人が歩いても足を置かない位置にあって、それで摩耗しないで残ったようだ。
明徳寺の石段に刻まれた十字

高校生に尋ねたとき、もし知らなくても一緒に探してみようと加わってくれることに淡い期待があったのだが、その期待どおりになった。
僕としては遠い距離をきて、意味あるものを探しあてられてよかったし、高校生にしてもささやかながら地元の歴史を知ることになったわけで、その点でもよかったとおせっかい心が満足する。

* これから熊本空港に向かって東に行かなくてはなのだが、天草空港がわずか数キロのところにあるので、西に向かった。
去年、佐渡空港を見て、小さな空港の風情にひかれた。
佐渡空港では管制室や待合室があるビルがとても小さくて、港にある遊覧船の小さな待合所のようだった。それでも滑走路があって、飛行機が大空に飛び立っていく。
とくに天草空港から飛行機に乗るわけではないのだが、空港を眺めに行った


■ 天草空港
天草市五和町城河原1丁目2080-5 tel. 0969-57-6111


着いてみると佐渡空港より規模が大きい。
駐車場にはかなりの数の車が駐まっている。(佐渡空港では「わ」ナンバーのレンタカーが数台あるきりだった。)
天草空港

天草空港からは熊本と福岡に便がある。(佐渡では新潟間のみ。)
午前中、10時の熊本行きが出たあとは、15:10着の熊本からの便が着くまで発着はない。僕が着いたのは11時ころだったが、それでも売店は開いていて、店員さんがいた。駐車場にはたくさんの車があったが、あと見かけたのは、掲示物を入れ替えている職員ひとりだけだった。
2階に展望所がある。飛行機の姿は見えなかったが、遠くにつながっている滑走路を眺めると、はるかな気分になっていい。

* 市街地に戻る。
鬼池港からここまでずっと天草下島を回ってきた。
これから天草上島、大矢野島を経て、三角半島に渡り、熊本空港に向かう。


■ 本渡瀬戸歩道橋
熊本県天草市志柿町・亀場町

天草上島との間は、川のような細い海峡を橋で越えるが、すぐ隣に歩行者専用の橋がある。
車道の橋は、下を通る船に支障がないように高い位置に架かっている。ただそれだと歩行者は長い距離を歩かなくてはならない。
隣の歩道橋は低い位置にあり、川の両岸を最短距離で結んでいる。
船が通るときは中央部が上がって船を通す。
いつ船が通るかわからないので昼食を食べながら待ってみようと、コンビニでサンドイッチを買って、橋のたもとの空き地に駐車した。

ちょうど着いたときに可動部が上がっていた。
橋は125m、昇開部は 58m。
はねあげ式ではなく、水平のまま上下する。
船が過ぎる。
過ぎるとすぐ下がりはじめて、両岸がつながり、歩行者が渡れるようになる。
本渡瀬戸歩道橋

車の中でサンドイッチを食べながら、また上がるだろうかと眺めている。
自転車に乗った高校生がときたま通る。
数人の女子高生がやってくる。自転車のない子が、自転車に乗った子に「乗せてよ!」というのが聞こえてくる。乗せてあげたら、ゆるい上り坂だからきつくてフラフラする。それでまたにぎやかな笑い声が聞こえてくる。
橋の向こう側は天草工業高校がある。さっき明徳寺で十字を教えてくれた高校生たちが通う学校だ。朝夕の通学時間にはおおぜいの高校生が通るのだろう。
向こうから好きな子が歩いてきてドキドキしたり、落ちこんで海を眺めながら渡ったり。
大林宣彦の青春映画のよう。

昼を食べ終えてから、歩いて橋を往復した。海を渡る橋というのに生活感があっておもしろい。

* 天草上島の北の海沿いの道を東へ走る。島のほぼ半ば、海沿いの道から松島有明道路が分岐するあたりにいたる。

■ 天草四郎上陸の地


『街道をゆく』「島原・天草のみち」に『天草四郎上陸の地』という挿絵があるが、この絵のことは確かめそこねた。

天草四郎が天草に反乱が起きていることを知り、島原から支援に向かったときの上陸地は、天草上島の上津浦あたりの海岸とされている。
僕は帰りの飛行機に乗る熊本空港に行く途中で寄ろうとして、上島の上陸地を目指してしまった。
須田剋太『天草四郎上陸の地』

ところが司馬遼太郎が上陸地にふれているのは、下島の本渡から富岡に向かっているときのことだったことに、帰ってから気づいた。
たしか、私が富岡をめざし、下島のこの海浜の道路を通っているときに、ここに切支丹軍が上陸したという旨の標柱が立っていたように記憶する。
須田剋太の絵は、このとき描かれたものだろう。
天草四郎は、はじめ上島に上陸したあと、下島の富岡城の攻撃に向かったのだが、このとき海から下島に入り、その上陸地のことをいっているようだ。
僕はこの文章を見落としていて、富岡と本渡のあいだを通ったとき、この上陸地のことはまったく気にとめないまま素通りしてしまった。
今も上島に須田剋太の絵にあるような標柱が立っているかどうか。

■ 2枚の橋の絵のなぞ

『街道をゆく』では、出発点が示されても、最後はどこか特徴的なところでポツンと終わって、そこからの帰り道はわからないことがしばしばある。
『島原・天草の諸道』の文章は崎津で終わっている。
崎津のあと、どういう経路で帰ったろうか。

須田剋太『天草風景』 『天草風景』と題した絵には、天草上島と、九州本土の三角を結ぶ天草五橋が描かれている。
天草上島側の5号橋が手前にあり、向こうに4、3,2号橋が見える風景だろう。
高い位置から見おろしているが、地上ではこんな場所はおそらくなくて、空から撮った写真をもとにしているように思える。

大阪府が所蔵する『街道をゆく』の挿絵原画を編集した『須田剋太挿絵原画集』という本がでていて、この絵が掲載されているのだが、この絵は週刊朝日の連載から編集された単行本には掲載されていない。

逆に、単行本に掲載されているのに『原画集』にない絵があって、これも『天草風景』と題されている。
橋の下を、ちょうど船がくぐっていくところが描かれている。「鬼池」の回にあるのだが、口之津港と鬼池港のあいだはフェリーがあるだけで、橋は架かっていない。
橋の形からすると天草五橋のうちの5号の松島橋のように見える。
そこには定期航路はないが、天草五橋をめぐる遊覧船が下をくぐることはありそう。

前述のように、『街道をゆく』の文章ではふれてないのに、須田剋太の絵に下田からの夕日を描いたものがある。下田は崎津の北にあって、有名な温泉地だから、崎津のあと、下田に泊まり、さらに北上して長崎空港から帰ったか?
崎津から東に走り、天草五橋を越えて、熊本空港から帰ったか。
これ以上は旅に加わった人にきかないとわからない。

* 天草五橋を走り抜けて、九州本土に入る。
宇土半島を横断する三角線の終点の三角駅、2009年に開館してまもない宇城市立三角図書館、明治期に三池炭坑の石炭を輸出する港として栄えた三角西港などを回って熊本空港に向かった。


● 熊本空港 VERDE

空港内のレストランに入り、熊本名物の太平燕(たいぴーえん)を注文した。
前に熊本に来たとき市内の老舗といわれる店で初めて太平燕を食べ、こういうおいしいものがあるのかと、かなり感激した。
そのときの帰り道、空港のレストランに太平燕があり、こういうところでは老舗ほどではないかもと思いながら食べてみたら、十分においしかった。
それで、今度の旅も、「最後に熊本空港で太平燕」というのがひそかな楽しみだった。
長崎空港からずっとレンタカーで走ってきて無事に着き、生ビールを飲みながら堪能した。

* ANAでためたマイルを使って予約したのだが、乗るのはソラシドエアのコードシェア便。このごろよくこういうのがある。
機体にくまモンがかいてある。
飛んでいるうちにすっかり暗くなるが、空気が澄んでいて、羽田に着陸する直前に見えた葛西臨海公園の観覧車がカラフルできれいだった。


ソラシドエア

参考:

  • 『街道をゆく 17』「島原・天草の諸道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1982
  • 「須田剋太『街道をゆく』挿絵原画全作品集」(社)近畿建設協会・大阪府生活文化部文化課学芸班/編 (社)近畿建設協会/刊 2000 
  • 『動乱原城史 まんがで見る島原の乱』笠原一男/監修 古城武司/漫画 南有馬町 1990
  • 『司馬さんは夢の中』福田みどり 中央公論社 2004
    『司馬さんは夢の中2』福田みどり 中央公論社 2006
    『司馬さんは夢の中3』福田みどり 中央公論社 2007
    『最晩年の司馬先生との三カ月』南野泉 「週刊司馬遼太郎6「坂の上の雲」の世界」朝日新聞出版 2010 所収
    『マルガリータ』村木嵐 文藝春秋 2010
  • 『天草灘』 小川国夫 潮出版社 1977
  • 4泊5日の行程 (2014.3/12-15) (-レンタカー …徒歩 ~フェリー)
    第1日 長崎空港-諫早水門-大三東駅-中尾川河口-島原市立図書館…島原城(島原城資料館)…武家屋敷鉄砲町…森岳酒蔵…青い理髪館…吉四六書房…国光屋あと…サンワ理髪館・まちの寄り処森岳…島原市立図書館-南風楼(泊)
    第2日 -南島原駅-島原外港駅-雲仙岳災害記念館がまだすドーム長崎-水無川河口-旧大野木場小学校被災校舎・大野木場砂防みらい館-南島原市深江図書館-島原鉄道廃線跡-南島原市有家図書館-有家セミナリヨ跡-琴平神社-原城跡-南島原市原城図書館-口之津歴史民俗資料館·海の資料館-口之津港~鬼池港-ビジネスホテルクボタ(泊)…うしぶか海彩館
    第3日 -牛深ハイヤ大橋-うしぶか海彩館…みなと屋-一町田川河口-崎津カトリック教会・紋付屋-大江天主堂-メーンの盛-野中バス停-下田温泉-三文字屋旅館-富岡城-鎮道寺-通詞島-ホテルアレグリアガーデンズ天草(泊)
    第4日 -広瀬川河口-殉教公園・天草市立天草キリシタン館-明徳寺…延慶寺…本渡祇園橋…明徳寺-天草空港-本渡瀬戸歩道橋-天草四郎上陸の地-三角駅-宇城市立三角図書館-三角西港-熊本空港