沖縄の西の果てまで(石垣島・竹富島・与那国島)


3月半ば、関東地方ではまだコートや暖房がいる寒さだが、初夏の陽気の沖縄に行った。
『街道をゆく6 沖縄・先島への道』をたどったが、司馬遼太郎・須田剋太らの一行が旅したのは、沖縄が本土復帰してからわずか2年後の1974年のこと。すでに40年以上経っていて、40年は長く、変化は大きい。


 1 沖縄本島(那覇・・糸満) 
 2 石垣島
 3 竹富島
 4 与那国島

この旅では体調に波があった。行程に影響したので途中どんな具合だったか点線枠内に書いたが、行った所、見た所に直接関係はない。適当にとばしてください。

 1 沖縄本島(那覇・・糸満)

* 高崎線と東海道線が乗り入れる上野東京ラインが2015年3月14日に開通。沖縄に発つのは、その2日目のこと。
羽田発8:40のANA便を予約してあり、早朝の上野東京ラインに乗った。
今までは上野駅で降りて、山手線でいく駅か先の浜松町駅まで行き、モノレールに乗った。
今度は新橋まで行って、あとひと駅だけ山手線に乗ればいいので、いくらか時間が短縮した。
それはいいが、乗り入れが始まって2日目、順調に動いているか気がかりでもあったが、無事に空港に着いた。

那覇空港

那覇空港に降りて、飛行機のドアから出て連絡通路にはいると、空気がむわっとしている。大勢の乗客から「暑い!」という思いのざわめきが起きている。

空港ビルを出ると、レンタカーの営業所に向かう連絡バスの乗り場がある。いくつもの会社があり、のぼりが立ち、案内の人がいて、客もとても多い。春の沖縄はこんなに混んでいるのかと圧倒されるほど。

レンタカーで空港から南に10キロ、20分ほど走って糸満市にはいる。


● 道の駅いとまん
糸満市西崎町 4-19-1 tel. 098-840-3100(糸満市観光協会)

道の駅いとまんに車を置く。
ここに「JAファーマーズマーケットいとまん」という農産物直売所や、「遊食楽(ゆくら)」というみやげものと食事の店が入った施設がある。
食事どころはけっこう混んでいる。
「糸満漁業協同組合お魚センター」という海産物をあつかうところもあり、パックに詰めた寿司を買って昼にした。

『街道をゆく』の糸満の回では、須田剋太の2点の絵が掲載されている。
・那覇糸満爬龍競漕ハーリー
・沖縄糸満港
「ハーリー」については、その時期に来たわけではないから、資料をもとにしたろうと思う。
「糸満港」は、そのとおり港を描いたように見える。

ところが司馬遼太郎の文章では、こうある。

 埠頭にも、港で休止中の大小の漁船にも人影がない。
 雨が降ってきた。
 須田さんはコウモリ傘の柄を頸(くび)でおさえこみ、さかんにスケッチしていた。糸満という、日本でもっとも個性的な漁港に来ながら、港や船よりも陸の家屋群に気をとられているようだった。例の赤レンガ色の瓦を太いシックイでとめた屋根が、小路をのぞくと、ずっとむこうまでならんでいる。その赤い琉球屋根が、沖縄本島のどの村や町のそれよりも、ここでは海の青さのせいか、ずっと美しくみえる。(『街道をゆく 6』「沖縄・先島への道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1975 以下ことわりのない引用文は同じ)

雨の中で描いたスケッチは、『街道をゆく』の挿絵にはつかわれなかった。糸満港で描いた絵は、どこかの画廊かコレクターが持っているかもしれない。

須田剋太がひかれた港のそばの美しい街並みが気になる。
観光協会にいくと、若くて頼りになりそうな男性が受付にいて、わけを話すと、それならと青い冊子をいただいた。
冊子は2012年10月発行の『糸満市観光ガイドブック』。
1960年代撮影と、2012年撮影の、港付近の家並みの写真を、並べて掲載してある。
小高いところから港に向けて9本の小路があり、その小路ごとに船着き場がある。だから小路ごとに独特の共同体があるという。
1960年代の写真では、司馬遼太郎の文章のように、赤い琉球屋根が小路のずっとむこうまでならんでいる。(もっとも掲載写真はモノクロだが)
2012年撮影の写真では、ほとんどがコンクリートの住宅に建て替わっている。

■ 糸満港

道の駅に車を置いたまま、港に歩いて行った。
沖縄電力那覇支社や、沖縄水産高校の脇をとおる。
港にでると、視界が開けて明るい。

須田剋太『沖縄糸満港』
沖縄糸満港

須田剋太『沖縄糸満港』

ハーリーが行われる港で、左(東)の岸から道一本隔てて住宅街がある。
情報館の人に教えられたところだ。
コンクリートづくりの比較的新しい家に囲まれたなかに、赤い瓦に白い漆喰の屋根がまじっている。
古い家がそのまま残っているのには、人は住んでいないようだ。戸が破れて、庭には雑草が茂っている。
屋根は残して、下を新しく作り替えて住んでいるらしい家がある。
まったく新築でも、赤い瓦に白い漆喰の屋根にしている家もある。
ただそうした屋根では、瓦の継ぎ目にだけ白い漆喰があるのではなく、瓦をほとんど覆うくらいになっている。

そうした家を見て路地を行くうち、はまってしまった。細い路地を、右へ左へ、行きつ戻りつしていると、わくわくしてくる。
道の角や突き当たりに、魔除けの「石敢當」(いしがんとう)の文字が残っているところもある。
『街道をゆく』をたどらなければ行かなかったところ、気づかないままだったところに来られてよかった−という地に幾度か行き当たっているけれど、ここもよかった。古い姿をそのまま残す家は少なくなっていても、小路を歩いていると独特の地域感があった。

* 那覇市街に戻る。
首里城に行ってから、ゆいレールおもろまち駅近くでレンタカーを返し、美術館に寄り、美栄橋近くのホテルに行くつもりでいた。
市街に近づくと、交通量が多く、何度も信号に止められ、するすると走れない。
40年ほど前にきた司馬遼太郎は、こう記している。

首里の旧王府への坂を登ることを楽しみにしていた。坂を登りすすむにつれて展けてゆく眺望のなかで、かつての琉球の美を想像する楽しみは代えがたいものだが、しかしこの思惑はあてがはずれてしまった。坂は車のラッシュの名所になっていて、うしろから車に追われ、前から排気ガスを吐きかけられて、しかも車の行列は一寸きざみなのである。

今は状況が改善しているかもしれないと思ったのだが、市街に近づいてからの道の混みぐあいからすると相変わらずかもしれない。
司馬一行の取材よりあと、1992年は首里城が復元されているから、むしろ混雑はましているかもしれない。
僕は復元後の首里城には前に来ているから今回は諦め、混んだ道を避けて先にレンタカーを返してしまうことにした。

おもろまち駅近くには大型商業施設がいくつも集中している。
司馬遼太郎の文章にあるような「車の行列は一寸きざみ」をしばらく耐えて、ガソリンスタンドで給油し、レンタカーの営業所にたどりついた。
給油量は1.06リットルで149円。これまであちこちでレンタカーを借りたが、最少記録。走行距離は20数キロだったか。
糸満までバスで行くと時間がかかりそうなのでレンタカーを借りたのだが、こんなふうに大渋滞に巻きこまれるくらいならバスがよかったかもしれない。


■ 沖縄県立博物館・美術館
那覇市おもろまち3-1-1 tel. 098-941-8200
http://www.museums.pref.okinawa.jp/art/index.jsp

このミュージアムが開館したのは2007年11月。
美術館をどのようにつくるか基本構想を考えていたころの1993年に、僕がいた埼玉県立近代美術館に視察団が来られたことがある。
そのときのメンバーは以下のようだった。
 大城立裕 作家
 國吉眞榮 アイオニクス沖縄(株) アイオニクスネット 社長
 西村貞雄 琉球大学教授 彫刻家
 屋宜盛昌 沖縄県観光文化局文化振興課主幹
その後、経済状況が悪化して美術館建設計画は一時とまってしまい、ようやく着工したのが2004年。
僕が前回沖縄に来たのは2005年で、まだ工事中のときだった。

完成後に初めてきてみると、沖縄特有のグスクのような、白い塊がある。
最近の建築には透明な印象のものが多いが、ここは厚い壁でこんもりした立体感があり、独特でインパクトが強い。
沖縄県立博物館・美術館

常設展「沖縄美術の流れ」は藤田嗣治『辻美人』『海辺の墓地』からはじまっていた。『辻美人』は、新収蔵で初公開。
藤田は1938年に沖縄に来て1か月ほど滞在し、風土にひかれた。
『随筆集 地を泳ぐ』におさめられた「夢の国 琉球」には、
 なるほど琉球、沖縄は龍宮であり夢の国である。
とある。
でも時代は戦争に急傾斜で向かっていた時期で、「夢の国である」と書いた数行あとには、映画を見にいったときの記述があって、この文章で一編が閉じられる。
芭蕉樹の蔭の、藁屋根の上に長い留守を守る主婦連は、勇ましく島を残して大陸に戦う吾が夫の姿を、せめてもニュース映画の銀幕上に、ただ無言の中に見守るのであった。

藤田の沖縄滞在は1938年4月から5月にかけてのこと。
9月には戦争画を描くために戦場に向かっている。
沖縄もその後まもなくに悲惨な戦場になる。
藤田が沖縄で描いた絵にある女性は、遠くをキリッと見はるかす目をしている。
このとき見た『辻美人』も同じに、凜とした目をしているが、その後の藤田と沖縄の運命を知っていて見るからか、悲しみをおびているように見えてしまう。

藤田は波上宮に近い辻町に滞在した。
辻町は貸座敷に女性がいる歓楽街だが、「世界に無比の遊里であり、社交場であり私宅であり不思議な存在である」と、藤田が敬意あふれる文章をのこすような独特の文化をもったところだったようだ。
やはり藤田の文章では、辻町は「波上通りから海岸の豪壮なトーチカ然とした墓地に」面していたとある。
沖縄特有の亀甲墓のことだろうが、今、地図などみると辻町近くの海岸に墓はないようだ。
(この旅の最終前夜には波上宮近くの海岸にあるホテルに泊まるつもりで予約してあった。波上宮や、かつて「辻町」があったあたりを歩いてみるつもりだったが、予定を早めて帰ることになり、行きそこねた。)

* 「ゆいレール」というモノレールに、おもろまち駅から乗り、牧志駅で降りる。
ゆいレールは2003年に開業した。
『街道をゆく』の取材のときにはなかったし、須田剋太は1990年、司馬遼太郎は1996年に亡くなったから、2人とも取材以後に沖縄に来ることがあったとしても、ゆいレールには乗ることはなかった。
牧志駅から国際通りを歩く。
人が多くて、活気がある。
沖映大通りにそれて、大東そばに入った。


● 大東そば
那覇市牧志1-4-59 tel. 098-867-3889

こぢんまりした店だが、奥に座敷、入口側にテーブル席とカウンターがある。
先客は、男女ペアが座敷にいて、男ひとりがカウンターにいる。
入口に近いテーブル席に座る。
大東そば

とうふちゃんぷるそば定食を注文する。
小ご飯と、大東そばがついている。
あと生ビールを加えて1,150円。

あとから中国人グループが入ってきた。
年長男女2人が夫婦で、その子である夫婦と孫たちだろうか、8人ほど。
年長の女性が僕が食べているものに目をつけ、そばにやってきて、皿とどんぶりを無遠慮に指さして、それは何かと中国語で尋ねる。
僕は壁にあるサンプル写真とメニューを示して説明する。
店の人が気づかって席に戻るようにいうのだが、女性はいっこうにかまわずに納得するまで確かめようとする。
あとで注文の品がでてきたのを見ると、年長の男は僕と同じのを注文したようだ。

* 沖映大通りを、国際通りからさらに離れる方に歩き、美栄橋駅を過ぎると、今夜のホテルがある。

● チューンホテル那覇
那覇市前島3-1-4 tel.098-943-0770
http://www.tunehotels.com/jp/jp/

チューンホテル那覇 外資系のホテルらしい。
アジアにいくつもあるほか、イギリスにも数店。
日本では那覇のここだけ。
赤をきかせたデザインがスタイリッシュで、気持ちをシャキっとしてくれる。

壁にツアーや免税店の広告があるが、中国本土の簡体字のみ。

* 翌朝、まだ通勤時間帯のゆいレールに乗る。
美栄橋では満員。
県庁前でどっと降りて、あとはすいて、最前列で景色を眺めて那覇空港駅に着いた。
石垣島行きの飛行機に乗る。


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 2 石垣島

新石垣空港

* 空港からレンタカーを借りる。
那覇ではスカイレンタカー、今度はパラダイスレンタカーで、いかにも南のくにらしい。
まず景勝の地、川平(かびら)湾をめざした。


■ 仲間商店
石垣市川平918 tel. 0980-88-2218

石垣島は南北に長くて、石垣市の中心市街地は、島の南端にある。
そこから北に20キロほどのところに川平湾がある。
『街道をゆく』の取材のとき、一行は司馬遼太郎の文章によれば「宿は川平という入江の村の一軒家のような所」に泊まっている。

川平は景勝地で、遊覧船があり、軽食やみやげものを売る店がいくつもある。
その共同駐車場と正対する角に位置する仲間商店の前に車を置いた。

須田剋太が描いた『石垣島川平』には、画面中央、琉球瓦の屋根の下に「仲間商店」の文字が見える。
須田剋太『石垣島川平』

今の仲間商店はコンクリート建てになっているが、ここでたずねれば様子がわかるだろうと考えた。
仲間商店は、地元の人のための生活雑貨や食料品もあり、観光客むけの特産品もあるという店。
仲間商店

ところが店番をするおばあちゃんに絵を見せてたずねると、
「絵の場所は川平ではないし、どこかわからない」
との返事。
「今の店は新しく建てたが、その前も、絵のような瓦屋根ではなかった」という。
おじが経営する「仲間商店」もあり、そちらかもしれないが、とにかく絵から思いあたるところはないとのことだった。
この絵には「仲間商店」と有力な手がかりになる文字があり、その商店は今もあるのだから、場所の特定は簡単にできるだろうと考えていたが、予想外のことになった。

『川平ホテル』の絵のこともきいてみると、すぐ前の浜にあったが、数年前に解体されたとのことだった。

■ 川平ホテル跡

浜におりてみた。
青く透明な水と白い砂に明るい日射しが降ってくる。
かなりの人がでているが、3月半ばでは、さすがに水に入っている人はいない。
散歩したり、グラスボートに乗ったりしてすごしている。

グラスボートに乗る人を案内するテントがあって、川平ホテルのことをきいてみると、ひとりの青年が、ホテルが営業している頃に入ったことがあるという。
2階建てで大きくはなかったが、高級で、1泊数万したのではという。
場所はまさにそのテントがあるところで、そう教えられて見れば、木や道に囲まれた特別な一画に見える。

須田剋太『川平ホテル』
川平ホテルの跡地


須田剋太『川平ホテル』

この写真はホテル跡地とは別なところから撮っているが、ホテルからもこんな景色が見えていたはず。 川平湾

川平と題されたほかの絵はどこかわからなかった。

須田剋太『石垣島川平村』 幾人かのひとにきいてみたが、「1974年ころには、ふだんの生活でこういう(琉球独特の)服を着ている人はいなかったのでは」という感想を複数きいた。
(須田剋太『石垣島川平村』)

● おいシーサー偶
川平906-1 tel. 0980-88-2233

仲間商店の向かいの店に入ってそばを食べた。

■ 川平小中学校


市街地へ向かう途中、川平小中学校の前を通る。
明るい建築が南のくにらしい。
石垣島 川平小中学校

卒業式が近く、「祝 平成26年度卒業生」として、小学校4人、中学校9人の名前が正門脇の塀に掲げてあった。
「海」のつく名前が3人。海友、海月、海。
あと「航詩」というのもあり、スケールが大きいのでは「宙夢」もあった。(いい文字をつかっているが、どれもきいてみないと何とよむのかわからない。)
仲間商店で、今の子はみんな地元の子ではなくて、よそから来た人の子だと話していた。

*南に走って、島の南端の石垣市街へはいる。

■ 上間歯科・とのしろ薬局
夕べからの歯痛が気になって、歯医者に行った。
ここで治療を始められないので、化膿止めと痛み止めを処方される。

上間歯科 上間歯科の建築は、琉球的意匠を現代のセンスでいかしている。

1本裏の通りの薬局に行くと、混んでいるので、その間に歩いてすぐの宮良殿内へ行った。

■ 宮良殿内(みやらどぅんち)
石垣市大川178 tel. 0980-82-2767

入口にデンと構える人がいて、見学料200円をわたす。
「どこから来た?」と、旅人に難問をかけるスフィンクスみたいな威厳できかれる。

ここで須田剋太が描いて掲載された挿絵は2点。
『石垣島宮良殿内の庭』は、まっとうに描かれている。

須田剋太『石垣島宮良殿内の庭』 宮良殿内
須田剋太『石垣島宮良殿内の庭』

『石垣島宮良殿内』の絵からはナゾをかけられる。
屋敷の正面から、門と、門の内側の家を描いている。
このように見えるには、高い視点が必要なはず。
須田剋太『石垣島宮良殿内』

実際に門の前に立つとこんなふう。こうして斜めの位置に立たないと、中の家の屋根は見えない。 宮良殿内

今、宮良殿内の前には、駐車場があり、その先に3階建ての共同住宅らしい建物がある。
スフィンクスの人がいわれるには、1974年にはそういう高い建物はなかった。
斜めの位置に、かつて4階建ての病院があり(今は解体されてしまってない)、高さはいいが、角度が違う。
須田剋太が、自分の頭の中で景色を補正して組み立てて描いたか、足場を組むとかして撮影された資料を参考にして描いたか。

■ 宮鳥御嶽(みやとりおん)

石垣小学校の南側に御岳がある。
司馬遼太郎の文章にはこうある。

石垣家を出て、なおも石垣の町を歩くうちに、やがて町のなかながら、御岳(うたき)があった。(中略)この宮島御岳までつれてきてくれたのは、土地のタクシーだった。

「歩くうちに御岳があった」というのに、「つれてきてくれたのはタクシーだった」というのが、よくわからない。
タクシーの運転手さんも一緒に散歩していて、案内してくれたろうか?

もうひとつわからないのは、文章では「宮島御岳」とあるが、石垣家の近くにあるのは「宮鳥御岳」で、僕が調べたり、ここで何人かの人にたずねた限りでは「宮島御岳」はない。
司馬遼太郎の文章では、土地の人も運転手さんも御岳をたいせつに思う気持ちがうすく、「森はいかにも捨てられた町の片隅といった感じ」になっているとつづく。
とくに関心のない運転手さんが、うろ覚えの文字の記憶から「鳥」を「島」と誤って伝えたろうか。
今は案内板が立っていて、「宮鳥御嶽」には「みやとりおん」とよみがふられている。

須田剋太『石垣市内宮島御獄』
須田剋太『石垣市内宮島御獄』

須田剋太の絵にも「宮島御獄」という文字がかきこまれている。
絵と見比べると、やはり宮鳥御獄のようだが、絵で正面にある木が現地にはない。(あるいは、似たような木が右にある)

域内はきれいに掃かれていて、捨てられた町の片隅というふうではないし、通りかかった人が道でたちどまり、御岳のほうに一礼して過ぎて行くのを見かけた。
時がうつって、御岳をたいせつにする気持ちが回復してきているということかもしれない。

* 石垣港の近くまでくると、市役所や図書館や市民会館といった公共建築が集中している。

■ 石垣市民会館 
石垣市浜崎町1-1-2 tel. 0980-82-1515・1516

前川國男の設計によるホール。
れんが色の打込タイルと、鉄枠にはめたガラスによる外壁が立方体を構成している。
開館は1976年。
僕は前川設計による埼玉県立自然の博物館に数年勤務したことがある。
それと似た表情があって懐かしい。
1981年開館の自然の博物館よりこちらが早く建っている。


中庭の木々が南のくにのさかんな生命力をあらわしていて、敷地内の空気がいきいき感じられる。
月曜日は保守点検日で中に入れなかったのが惜しいが、いいものを見たと気持ちがすっきりする。
石垣市民会館

■ 石垣市役所
石垣市美崎町14番地 tel. 0980-82-9911

正面に大きく市章がデザインされているのがめずらしい。
中に入ると、ロビーの中央にスナック菓子や飲み物を売る小さな売店があるのも珍しい。
沖縄生まれの国場幸房が率いる沖縄の建築会社、国建により、1972年に建った。
石垣市役所

街で「新市役所建設は現在地の美崎町で」という貼り紙を見かけたから、新築計画があるらしい。

われわれは、市役所のまわりを所在なく歩いた。市役所の構内だけは、幾本かの樹がある。この建物の設計者が、玄関前の空間を多少庭園化するつもりだったのであろう、デイゴの大きな樹が植わっている。樹の好きな須田さんが吸い寄せられるようにしてその樹下に立った。見あげると、大枝や小枝が、真青な空を背景にして美しい模様をつくりあげている。須田さんは、それを描いた。

『街道をゆく』の連載では、このとき描いた絵は掲載されなかった。

* 市役所から近いホテルに寄って荷物を預けてから、レンタカーを返し、歩いてホテルに戻った。
まだ明るい時間で、散歩に出た。


■ 石垣港離島ターミナル
石垣市美崎1番地

明日朝、ここから船に乗って竹富島に行くので、乗り場と時間を確かめる。
あさっては、朝、船で竹富島から戻り、バスで石垣空港に行って、与那国島に行く便に乗る。
船はかなりひんぱんにでているが、バスと飛行機は、ひとつ間違えると、すぐ次があるというところではない。
石垣空港行きのバス乗り場と時間も確認する。

■ 平田観光
tel. 0980-82-6711 http://www.hirata-group.co.jp/

平田観光
離島ターミナルのビル内には船便のチケットを扱う店、みやげものを売る店などいくつか並んでいるなかに、平田観光のカウンターもある。

『街道をゆく』の取材のとき、竹富島に行く便が欠航していた。
港の近くで釣具店を経営する平田さんという人がたまたま港にいて、自分の船をだしてもいいといってくれて、その平田丸に乗った。
特注でつくられた船で、快速でとばして竹富島に渡っている。
(竹富島から戻るときも、嵐で定期便が動かず、竹富島の宿で手持ちぶさたで待機しているうち、平田さんから「船が出せる」という電話があって、石垣島に戻っている。
われわれは竹富島に閉じこめられることからまぬがれた。離島から離島へゆくという旅は、ゲームに似ているようだった。)

釣具店の経営者、平田哲三氏は、ちょうど『街道をゆく』の一行がおとずれたころ、沖縄が日本に復帰して沖縄と島々の観光化が進んだ勢いにのった。
ほかの島の事業者と組んで水牛車観光を始め、それとセットの島めぐりの船を就航させた。
かつての釣具店は平田観光になっていて、石垣港離島ターミナル内にオフィスと観光コースの販売窓口があり、さかんな様子だった。

● 石垣島ホテルククル
沖縄県石垣市美崎町8−1 tel. 0980-82-3380
http://www.cucule.jp/index.html

部屋は広いし、床が木で、椅子やベッドも簡潔なデザインで、すっきりして居心地がいい。

テレビを見ていると、『琉球放送60周年記念アーカイブス特選 糸満幸地腹門中の人々の暮らしを描いた「門中墓」』を放送していた。
1969年製作のもので、糸満港の近くに赤い瓦の家々が並んでいる様子が映っていた。
須田剋太が石垣島で描いた「石垣島川平村」「石垣島川平にて」の絵には、琉球独特の服を着た人がかきこまれている。
当時ふつうにこういう服を着ている人はいなかったのではという感想をいう人がいたが、1969年の映像を見ると、高齢の人は琉球独特の服を着ている人も少なくないようだった。

* 風邪をひいたのか、朝、気分が悪い。
いい宿なので、竹富島に行かずにここでもう1泊して、回復を待ち、明日は予定どおり与那国島に行こうかと考える。
ところが満室で、出ざるをえない。
別なホテルを探すくらいなら、竹富島は遠くないし、向かうことにした。

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 3 竹富島

* ココストアに寄ってヤマトのメール便をだす。
メール便は旅行途中でたまった紙類を82円で自宅に送ってしまい、荷物を軽くするのに便利だったが、この3月でこのサービスはなくなるという。惜しい。

竹富島に渡る10時の船に乗る。
桟橋に長い行列ができているのに、近づいてきた船は小さい。 
乗りきれるか?と思っていると、2艘目の船がやってきて、僕は2艘目に乗った。
港をでるとスピードを上げて、15分ほどで着く。

港に着くと、降りた人はそれぞれに、水牛観光、レンタサイクルとか並んでいる案内札のほうに行ってしまった。
コンクリートづくりの待合室があるが、そこに入ったのは僕だけのようだった。
竹富港待合室

『街道をゆく』の取材のころには、桟橋があるだけで待合室はなかった。
一行は島の中央部にある旅館に向かって歩いた。
須田剋太は厚着していて蒸し風呂のようになっているが、脱ぐと荷物になるからとそのまま歩きつづけ、
「シベリアもこうでしたから」
とつぶやく。
シベリアと竹富島を同じに並べてしまうのがおかしい。


須田剋太『竹富島 凡ては亜熱帯の植物ばかりおとぎの国竹富島に上陸する』 竹富港からの道
須田剋太『竹富島 凡ては亜熱帯の植物ばかりおとぎの国竹富島に上陸する』

■ 竹富島のタクシー

『街道をゆく』の取材があった1974年ころ、竹富島にはタクシーはなかったようだ。
かわりに何台かのオート三輪が観光客を運んでいた。
宿のおかみさんに司馬遼太郎が都会でのタクシーのような感覚で「オート三輪をよぶ方法はないでしょうか」とたずねてビックリされている。

都会で暮らしていればハイヤーを電話でよぶという習慣はあたり前のことである。よぶという言葉には、その習慣やシステムが裏打ちになって成立しているのだが、そういう習慣のないこの桃源郷のような竹富島にきてこんなコトバを使えば、よぶというのは村の道路を駆けまわって叫ぶのか、それとも呪術的にオート三輪の持ち主の名を口の中でつぶやきつづけるのか、とっさにことばにともなうイメージが浮かばないらしい。

今は港の待合室の黒板にタクシーの案内が貼ってあった。
小さな島だから自転車でもいいのだが、炎天下を走れる体調ではない。
その番号に携帯で電話してみる。
今でてしまっているが20分ほどで港に行けるとのことでお願いする。
貸切だと1時間4000円とのこと。
星砂の浜に寄って、あとは高那旅館に行きたいというと、「ではメーターで」ということになった。
予告どおり20分ほどしてミニバンが現れた。

『街道をゆく』の取材とのき、司馬遼太郎は島の道を歩いているうち、島仲家の前をとおる。島でだしているパンフレットに、島で最初に舟を作った家という伝説があると記されていることから、それはいつの時代だったろうと考えて舟についての記述がつづく。
タクシーに乗って、『街道をゆく』で須田剋太が描いた場所をたどって竹富島に来たと話すと、運転手の吉沢信一さんはその島仲家に縁のある人だった。
吉沢さんの会社では3台の車があるが、連休のときなどは3台ではこなしきれないほどになるという。

* 島の(地図上でいって)右上にある港から、左下にある浜に向かった。
須田剋太が星砂の浜と蔵元の絵を描いていて、観光用の地図では左下にあるカイジ浜というところに、星砂の浜と蔵元跡が近い距離でかかれている。


■ 星砂の浜

竹富島 星砂の浜 空と海は青く、砂は白く、木は緑で、日射しが明るい。
かがんで星砂を探す人たちがいる。
テントを架けた売店がある。

■ 蔵元跡
浜から陸のほうにはいってすぐのところに蔵元跡がある。
蔵元といっても酒ではなくて、むかしの役所の跡。
石組みが残っていて、案内板が立っている。

須田剋太『竹富島蔵元跡』
竹富島蔵元跡

須田剋太『竹富島蔵元跡』

星砂の浜と蔵元跡が近いからここ、と判断したのだが、あとで『街道をゆく』の文章を読み直していて、違ったろうかと迷った。
司馬遼太郎の文章では、砂を拾って五稜の星の形をたしかめたあと、沖をながめると2つの島があり、右が石垣島、左が西表島だという。
僕が行ったカイジ浜は、島の西岸にある。
地図で確認すると、西表島は沖合正面にあるが、石垣島は右手後方に隠れてしまいそう。
現地で浜に立ったとき、沖の景色をよく見てこなかった。

* 車で走っていて、吉沢さんに「ここが島仲家」と教えられてから、高那旅館に着いた。
1時間の貸切料金の半額ほどだった。


● 高那旅館
八重山郡竹富町字竹富499 tel. 0980-85-2151
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/hayasaka-my/

宿はひっそりしている。
おかみに迎えられる。
まだチェックインには早いが、荷物を置かせてもらえればと話すと、あがるようにすすめられた。
高那旅館

ソファに腰かける。
冷たい果物のジュースをいただく。
もともと旅館として建てられたのではなく、屋敷を転用している。
目の前に仏壇があって、高いところに先祖の写真が並んでいる。
高那旅館

『街道をゆく』の挿絵の地をたどっていると話すと、仏壇がある間のすぐ右手にあるのが司馬遼太郎が泊まった部屋だという。
ほかの客室より格が高い。
高那旅館 司馬遼太郎が泊まった部屋

司馬遼太郎の文章には
私どもは、床ノ間に北海道のアイヌの木彫りの熊を置いた部屋に入った。
とある。
宿では北海道のみやげものを置くのはヘンなので、しまってしまったこともあるが、司馬遼太郎の文章を知ってくる人から熊のことをきかれるので、だしたまま、もうしまえなくなったという。

徳傳家(とくでんけ) 仏壇のある間の床の間には、「徳傳家(とくでんけ)」の文字が掛かっている。
表彰状にあたるものだが、紙ではなく木の板で、風格がある。
幼いころに母を亡くし、父は高齢だったが、よく働き、家の囲いを石垣でしっかりつくり、親に孝養をつくし、税をきちんと納め、人々から信頼があり、殊勝なことなので米を褒美に与えると、裏面に由緒が記されている。

高那家ではかつて船をもっていたが、人をのせてくると泊まるところがないので宿をはじめたという。

* 須田剋太が描いた挿絵の場所はどこか、想定されるところを教えてもらい、リュックを部屋に置いて外に出た。

■ こぼし文庫

こぼし文庫 なごみの塔に向かって歩きだすとすぐにこぼし文庫があった。
随筆家の岡部伊都子氏が1972年に空き家を買い取り、多数の蔵書とともに寄贈した児童向け図書館。
今は竹富小中学校PTAが管理運営している。
静かで閉まっているが、子どもが学校から帰る時間になると開くだろうか。

* なごみの塔を見あげる庭で八重山そばをゆっくり食べた。

■ 竹富島喜宝院民具蒐集館

竹富島喜宝院民具蒐集館

館長さんが先客3人の男性と楽しそうに話しながら案内している。
『街道をゆく』で須田剋太がここで描いた挿絵を大きく拡大コピーして壁にかけてあった。
上勢頭亨、司馬遼太郎、須田剋太の3人が立って話している。
向こうに展示品があって、屏風の前に壺が並んでいる。
その上にクジラの骨格があるのを、ここの拡大コピーのおかげで気がついた。
挿絵では骨片を正しい関係に並べて吊るしてあるように見える。
今も館内に鯨の骨があったが、とくに正確な形態を復元しようとこだわってはいないふうに無造作に棚の上に置かれていた。

館長から他の来館者といっしょにひも算の話などきいているうち、寒気がしてきて、まだききたいこともあるが外にでた。
白い砂に強い日射しがさしている。その日射しを受けて歩いていても体が冷たいまま、あたたまらない。

■ 西塘様の廟

須田剋太『西塘碑』
竹富島 西塘碑


須田剋太『西塘碑』

歩いているうち、気がつくと靴の先が白くなっている。
司馬遼太郎が歩いたときは、雨に降られているが、道が白いので雨が降っても明るいと記している。
雨が降って砂が流れだすので、住む人たちが砂浜で白砂を集めてきて道を補修しているという。
靴先が白い

『街道をゆく』の一行は軽トラックで島をめぐった。
須田剋太は絵に「ジープ」とかいている。
今は水牛がひく車と、ときたま行きあう。

須田剋太『竹富島ジープのバスで島内見物』
牛車観光


須田剋太『竹富島ジープのバスで島内見物』


■ なごみの塔


竹富島には、石垣島に泊まっていて日帰りで来る人も多いだろうから、夕方になれば行列がなくなるだろうと思ったのだが、まだ人が並んでいた。
急な階段を上がると、海も見える。
なごみの塔

須田剋太『竹富島』 なごみの塔から見おろした眺め
須田剋太『竹富島』

■ 床屋

須田剋太が床屋を描いている。
こちらに来る前に、今も床屋があるかどうか電話帳で調べたが、竹富島にはない。
石垣島にはたくさんある。
波照間島には桃盛理容所、与那国島には光陽館理容と、1つずつある。
高那旅館に着いて話したとき、床屋さんは川上さんという人だが、もう廃業したときいた。
電話帳になかったとおり、今は床屋はなく、髪を刈るには石垣島まで行くのだという。

川上さんが床屋をしていた場所に行ってみた。

島では毎日、住む人が道を掃いているが、ちょうどその前の道を掃く人がいらした。
ここはもと床屋さんだったか尋ねると、そうだとのこと。
竹富島 道を掃くひと

絵では、家がスカスカで空気がとおり抜けているが、今は壁に囲われている。
壁を作り、ガラスをはめるのは、島の家全般にそうなっているとのこと。

須田剋太『竹富島の床屋さん』
竹富島のもと床屋さん

須田剋太『竹富島の床屋さん』

(壁があるから絵とは外観が違って当然とそのときは思ったのだが、あとで見比べてみると屋根の形が違うようだ。壁を作るとき、屋根の形をかえるほどの改修をしたろうか。そのとき気がつかなかったので、これも確かめるのが難しくなってしまった。)

■ 与那国家

須田剋太が島で民家を描いた1枚。
高那旅館できいたとき、絵の民家には玄関があるのに目をとめられた。
島で玄関があるのはうち(高那旅館)と与那国家くらい、絵は与那国家だろうとのことだった。
玄関はふだんは使わなくて、賓客を迎えるとか、特別なときだけのものという。
玄関があるのは格式が高い家ということになるのだろう。

与那国家の前に立つと、なるほど玄関がある。
絵のころより枝が繁っているが、絵はここのようだ。

須田剋太『竹富島民家』 竹富島 与那国家
須田剋太『竹富島民家』

歩いているうち、井戸を見かけた。
この島のものか特定できないが、須田剋太が『沖縄の井戸』を描いている。

須田剋太『沖縄の井戸』
竹富島の井戸


■ 竹富小学校・中学校

学校の前をすぎる。
いかにも南の島の学校という風情がいい。

□ 星のや竹富島
2012年6月に 星野リゾートによる星のや竹富島が開業した。
竹富島には外部資本の観光施設はつくられないものと思ってきたので驚いた。
星野リゾート発祥の地である軽井沢星野温泉は、山本鼎の別荘があったところとして僕は長く関心を持っていたところで、その関係で星野佳路氏にお会いしたことがある。
(→[井上房一郎と山本鼎の出会い−軽井沢・星野温泉の別荘−])
竹富島の星野リゾートがどんなものか見てみたい気もしたが、近づく余裕もないままになった。

● 高那旅館

体調が不安定で、昼間も歩いている途中で気分が悪くなり、いったん宿に戻って休んだ。
夜も低調。

翌朝は気分が回復した。
夕べ体調が悪いことを話したら、朝食にかゆを用意していただいてあり、しみじみありがたかった。おかずも、水気たっぷりのパイナップルもおいしくて、しっかり栄養補給ができた。

* 朝、宿の車で港まで送られる。
宿の塀ぎわに、赤いブーゲンビリヤと、薄青紫のベンガルヤハズカヅラが咲いていた。
藤田嗣治が沖縄を去るときのこした詩に「赤く又青く咲き茂る名も知らぬ木草」とあったのを思い出す。


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 4 与那国島

* 竹富島発8:15の船に乗り、石垣港8:30ころ着。
石垣バスターミナル8:45発のバスに乗り、石垣空港9:23着。
石垣空港10:35発の飛行機に乗る。

陸でもこんなふうに乗り継ぐことはあるが、離島では、もしどれかに乗り損ねたとき、「次のに」乗るとか「代わりに」バスやタクシーに乗るとかいうことが難しい。司馬遼太郎が「離島から離島へゆくという旅は、ゲームに似ているようだった。 」と書いているとおりだ。

須田剋太『与那国島行き飛行機 二十人乗りDHC−6型』 与那国空港行きDHC−8型機

プロペラ機なんて、前に乗ったことがあるかどうか思い出せない。
上の左の絵は、須田剋太『与那国島行き飛行機 二十人乗りDHC−6型』。
僕が乗ったのは2000年に就航したDHC−8型機。
RAC=琉球エアーコミューターは日本航空系列で、乗務員の服にJALマークがついている。
座席は翼の位置。ジェット機だと翼がじゃまして下が見えないが、この飛行機では座席が翼より下にあるので、下の風景が見えていい。
着陸が近づくとぬうーっと車輪が出てくるのが見えてビックリ。

与那国空港に11:10着。

■ 与那国空港

与那国空港

空港ビルには小ぶりながら4つ5つの売店が並んでいる。
みやげものも売る店が米浜レンタカーの窓口になっている。
僕はインターネットで11:30から明日の11:30までと予約してあった。
明日発つ飛行機の時間をきかれるので13:40発というと、「じゃ1時頃までに戻ってね」とおおらか。
「車は空港ビルを出て、右に行くと、水色の車がある」と、キーを渡される。
係員が車まで案内して、キズの有無を確認してサイン、なんてしなくて、これもおおらか。
車はマーチで、そうとう古い。あちこちこすれてたり、塗装が薄くなってるところがあったり。
カーナビもあるが、とても古い型のようだ。地図に表示される地名や目標物が少ない。
でも走ってみれば、これくらいのカーナビですむくらいに地理的には簡素な島だった。

■ 映画『海燕ジョーの奇跡』

与那国島といえば僕には忘れがたい映画で、原作・佐木隆三、脚本・神波史男、内田栄一、藤田敏八、監督・藤田敏八。1984年公開。
沖縄市(映画のころはコザ市)で、暴力団員の海燕ジョー(時任三郎)が敵対する組のトップを殺して逃亡する。
ベトナム戦争を忌避するアメリカ兵の脱走の手引きをしているもと革命運動家・上勢頭(田中邦衛)のルートで、ジョーは漁船に乗って本島から離れる。
宮古島でひと休みしてから、恋人・陽子(藤谷美和子)の出身地で、そのお婆が住む与那国島に行く。
さらに台湾の船、フィリピンの船と乗り継いで、フィリピンに渡り、あぶない仕事もしているらしい日本人実業家(原田芳雄)のもとで働きはじめる。
ヤクザの話ではあるけれど、小さな船で島づたいに国境を越えてしまうのを見て、こういうのもありうるんだと自由な動き方にひかれた。
主役の時任三郎が、青春の誇り、傲慢、不安、憧れをキラキラ発散しているのも強く記憶に残った。

沖縄本島から船で出るとき、海燕が飛び回っている。

ジョー:いいね こいつら どこでも海の上を生きていける
上勢頭:同じさ 今のジョーと
    国境や国籍なんて あってないようなもんさ そう思いこめ
陽子 :そうよ ジョー
上勢頭:早くしろ!海燕ジョー!

与那国島の家ではお婆がこういう。

 なにもかも ひとよの夢でございます
 西へ行けば台湾 南へ下ればフィリピン
 ゼニしだい 風しだい 心しだい すぐでございます
 南へ行きなさるか...
 人はみな南から来たと申します
 地のはて、海のはてには 楽園もありましょう

海をみおろす庭で洗濯物を干しながらこうもいう。

 台湾です あっちこっち台湾の船もでております
 どぅなんの船も 台湾の船も
 入り混じって 仲ようやっております
 昔なら平気で港に入って いっしょに酒を飲んだり 買い物したり
 したもんですが
 やまとぅ世になって ややこしくなりました
 くにざかいなど もともとあってはならないもんでございますよ

(どぅなんは与那国島の別称。せりふはよく聞き取れないところがあって、一部推量で書いている)

「人はみな南から来た」というのは、柳田国男が南方のヤシの実が流れ着いているのを見て着想し、『海上の道』で提起した、コメ栽培の技術をもった人が南から海づたいに日本に来たという起源説が念頭にあるだろう。
ジョーはそれを逆にさかのぼって南に行こうとしている。
その言葉は佐木隆三の原作にはない。
「くにざかいなど もともとあってはならないもんでございますよ」というセリフも原作にはなく、脚本で加えられている。

* 映画で、三船敏郎が操る船が与那国島に着くのは、岩と木々に囲まれた小さな入江で、海燕ジョーが船をおりてから歩いていくと、沖縄特有の亀甲墓がいくつも並ぶ墓地にでる。
映画のことだから、現実には入江と墓は連続していないかもしれないが、一応映画のとおりとしてみると、与那国島の最大の墓地として、北岸に浦野墓地ある。
Googleの航空写真でそのあたりを見ると、それらしき小さい浜もある。
空港から東に走って行ってみた。


■ 浦野墓地

海に面して起伏する土地に墓がいくつもある。
大きいの小さいのがあり、新しいの古いのがあり、掘りこんで低いのもあれば盛り上がっているのもある。
古い墓で亀の甲部分が破損して骨が見えているところがあった。

『海燕ジョーの奇跡』の上陸地の浜と見当をつけたところに行ってみると、似たふうだが、岩の様子が違って、ここではないようだった。 与那国島の海岸

『街道をゆく』の一行もここに来て、須田剋太が描いている。

須田剋太『与那国海岸墓地』
浦野墓地


須田剋太『与那国海岸墓地』

● 崎原商店

与那国民俗資料館に行きたいが見つからないので、資料館に近いはずの店に寄り、飲み物を補充しがてら資料館の場所をたずねた。
若い女性が店番をしていらして、場所を教えてもらった。
でも、池間苗さんが足をいためて休館している、息子さんがときたまあけることはあるが、今日はどうか...とのこと。

池間苗さんは『与那国の歴史』を書いた池間栄三氏の夫人で、栄三氏が亡くなったあともその収集品をおさめた資料館を運営されている。
ご自身も『与那国ことば辞典』をまとめている。
司馬遼太郎一行は与那国空港の着いたときタクシーがなくて困った。
売店で『与那国の歴史』を買うと、店番をしていたのが池間苗さんで、市街まで池間さんの車で送ってもらっている。

■ 与那国民俗資料館
八重山郡与那国町与那国島49-2

与那国民俗資料館
崎原商店でいわれたとおり、資料館は閉まっていた。
ガラス戸をとおして館内の展示品が見えるが、人はいなくて、戸には鍵がかかっている。

『街道をゆく』の取材のときのようすや、須田画伯が絵を描いた場所について教えてもらえたらとあてにしていたのだが、残念。

■ 与那国町役場

与那国町役場
教えてもらおうという心づもりでいた人をあてにできなくなったので、役場に行った。
天井から係名を示す札がさがっているが、「観光課」のようなものはない。観光担当は?とたずねて案内されたのは、総務財政課だった。小さな役場のことだから、広範囲の仕事をうけもつのだろう。

総務財政課交流推進班の稲蔵杉作さんに、『街道をゆく』と『海燕ジョーの奇跡』を訪ねてきたと訳をはなした。
『街道をゆく』は1974年、『海燕ジョーの奇跡』は1984年だが、稲蔵さんはまだ生まれていなかったか、生まれてまもないかと思われる若さで、自分の記憶として語れることはないのだが、いろいろ教えていただいた。

・須田剋太の絵にある「月見台」は、ティンダバナという崖で、ここからすぐ近いと、観光地図で場所を示された。
・同じく「太平洋岸部落」とあるのは、南岸の比川(ひがわ)の集落だろう。
・司馬遼太郎の文中に泊まったとあるホテル入船は今もあり、「その頃あったんだ。できたばかりの頃か...」
・公民館のなかの食堂で食事したとあることについては、公民館は今もすぐ先にあるが、食堂はいくつもかわってきたとのこと。
・村の劇場で芝居を見たことについては「今はそういうのはない」

・須田剋太の絵に、家並みの風景を描いたのがいくつかある。
  与那国祖納入口のかやぶき民家
  与那国月夜風景
  民謡唱の人々
  与那国民家
  与那国、沖縄
  与那国海岸通り
伝統的な琉球瓦の家は、ほとんど建てかわっていて、特定は難しそう。

『記録写真集与那国 町史別巻1』という本を見せていただいた。
過ぎた時期の与那国の風景が写っている。
たまたま同じ角度から写した写真でもあれば大当たりだが、ページをくって見ていったなかには見つけられなかった。
時間をかけてのんびり見ていければ、ここだという場所に行き当たるかもしれないが、今回はそれほどの時間はないし、体調もよくない。
これらの絵は見つけられないだろう(と予想して、実際そのとおりになった。)
・『海燕ジョーの奇跡』の上陸地は、北岸にあるダンヌ浜だろうとのこと。

* かなりの手がかりをえられて役場を出て、まず須田剋太らが泊まったホテルに行った。
着いてみれば、資料館の場所をたずねた崎原商店の隣だった。
役場やホテルある祖納(そない)集落を、観光地図を見てもっと大きな集落とおもいこんでいた。


■ ホテル入船

ホテル入船 男性がひとり、ホテルから出てきた。
60代か、手持ちぶさたふう。
やがて女性が中から現れた。
化粧に時間がかかっていたろうか。
観光にきて、これから午後の散歩にでもでかけるところらしい。
(左がホテル入船。右の青い建物が崎原商店。)

■ ティンダバナ

切り立った崖の一部がえぐられたようにくぼんでいて、遊歩道になっている。
先端あたりにベンチがあり、ヘッドフォンで音楽を聴いて憩う青年がいた。
見おろすと眼下に祖納集落があり、その向こうにナンタの浜がのびている。

須田剋太『与那国祖納月見台』 ティンダバナ

須田剋太『与那国祖納月見台』

須田剋太は、視点を実際より高い位置におきかえて描いているらしきことがしばしばある。
ここでも展望台と下の集落を、須田剋太の絵のようにみおろせる場所はなかった。

祖納集落を見おろす

* 西へ走って、島の西端にいたる。

■ 日本最西端の地碑・西崎灯台

与那国島は日本の西の端で台湾に近い。沖縄本島より台湾のほうが近く、ここまでの飛行機が発った石垣島までとほぼ同じくらいの距離にある。
岬の突端に灯台があり、日本最西端の地碑がある。
島の西に日が沈むので西崎(いりざき)といい、日がのぼる東は東崎(あがりざき)という。
晴れているが台湾は見えない。近いといっても、台湾が見えるのはよほど空気がすんだときだけらしい。
西崎灯台

* 久部良(クブラ)という、島の西の集落に宿を予約してある。

● 民宿てぃだん(太陽)
八重山郡与那国町与那国4022-21 tel. 0980-87-2550


1階が居酒屋で、2階が民宿になっている。
まだ営業時間前の1階の居酒屋に入ると人がいない。
電話すると女将がでて、「昼寝してしまってた」といって奥の部屋から出てきてくれる。
民宿てぃだん(太陽)

2階201号室の鍵を渡される。
ベッドが2つあり、ベッドの間を抜けた先にトイレ・シャワー室がある。
南の海の簡素な宿−という感じがいい。

部屋の前に、椅子が置かれ、水やコーヒーを勝手に飲めるロビーふうのところがある。
飲みきってカラになったペットボトルに水を補充していると、202号室の女性がでてきてちょっと話をした。
50代だろうか。
東京の人で、与那国島が気に入って、何度も来ている。
今度は子馬が生まれそうと連絡をうけて、いそいでやってきたという。
話しているうち、携帯に牧場の人から連絡が入り、これから馬を見に行くとのこと。

日は高いが、僕はもう外に出る気がしない。
さいわいよく眠れるので、夕方もひとねむり。

もう1泊、那覇で泊まる予定でいた。
あす夜の那覇のホテルと、あさってのANA便を予約してあるが、1日早めてあす帰ることにする。
与那国−石垣−那覇と乗り継いだあと羽田に向かうには、JALにいい時間の便がある。
タブレットで那覇−羽田便の運賃比較サイトを検索してみる。
こういうのはただ比較表示するだけかと思っていたが、自社で手配する割引価格のチケットも扱っているのだった。
JALのサイトで見る正規料金より安い。
帰りを予約してあったバニラ・エアは12,000円ほど。
往路ANAは早割で21,000円だった。
帰りのJALは、運賃比較サイトで32,000円。
それでも40,000円ほどする正規料金より安く、バニラ・エアの払い戻しもあるから、前夜に予定を変更したわりには軽い負担で帰れそう。

翌朝、気分は悪くない。シャワーを浴びてさっぱりする。
今日も朝食はおいしく食べられた。自家製という小さなバナナもうまい。
朝食の時間に客は僕ひとりで、オバチャンはこちらに背をむけてテレビを見ている。

ゆっくりのペースで支度してホテルを出る。
1階に降りるとまた誰もいない。
また電話すると「鍵をカウンターに置いといて。気をつけてな」。
支払いはチェックアウト後にクレジット・カードで決済されることになっている。
空港のレンタカーのひとといい、のどかでおおらか。

* 車で北岸に向かう。

■ クブラバリ

海岸に近いところに岩の裂け目がある。
過酷な人頭税があったころ、人をふやさないために妊婦を飛ばせたという伝説がある。
気持ちいいもんじゃない。
クブラバリ

■ ダンヌ浜

市役所で教えられたとおり、ここが『海燕ジョーの奇跡』上陸地点のようだ。
浜から上がってすぐには映画のように墓地はない。
映画では浦野墓地で撮影して、シーンをつないだと思う。
ダンヌ浜 海燕ジョーの与那国島への上陸地

* クブラの集落にいったん戻って通りすぎ、南岸に向かった。

■ 南牧場

与那国島の海岸の道 島の南側の海岸線に沿って牧場がある。
その海沿いを車が走れる道があって、走っていくと爽快そのもの。
全国に海岸沿いの道はいくらもあるが、たいてい通行量が多く、景色がよくても車をとめて眺めていられようなところはなかなかない。
この島では車が通ることが圧倒的に少ないので、のんびり走れるし、馬のいるところでとめて眺めてもいられる。

与那国島の海辺 牧場内なので、道のわきや、ときには道の中まで、馬がゆったり歩いていたり、牛が草を食べてたりする。
道に糞がいくつも落ちている。

牧場の西端と東端にテキサスゲートといって、路面に溝をつくってあり、それだけで馬も牛も越えて出ないのだという。 テキサスゲート

■ 比川(ひがわ)の集落

比川集落内に「地図ばかり見て運転しないように」という注意書きがあった。
車が少なくてもあぶないことはあるようだ。

与那国島に軍隊はいらない ここまでに「自衛隊基地誘致に絶対反対」といった幕を見かけてきたが、ここでも「神高い島 軍隊はいらない!」の幕があった。

自衛隊の施設をつくる工事が始まっているが、ことし(2015年)3月に賛否をとう住民投票が行われた。
中学生以上に投票権があり、自衛隊配備に賛成(632票)が反対(445票)を上回った。
それでも反対する人たちの意志表示は続いているようだ。

与那国島は沖縄本島まで500キロ。本州南端の鹿児島はそのずっと先で、首都東京はさらに遠い。
台湾までは110キロ。
中心から遠く、人も車も少なく、美しい海岸があり、馬や牛がのどかに草をかんでいる島に、むしろ国家の存在が身近に迫っている。
司馬遼太郎も沖縄の旅では、いくども国家のことを書いている。
与那国島の項では、「国家は本来、軽ければ軽いほどよく」と書くのだが、現実は国の中心からこんなに離れても重い。

● 比川共同売店
与那国町字与那国3056-1 tel. 0980-87-2888

車で走っていくと小さな店を通りかかって入った。
人口100人余の比川集落にあって共同で運営されているコンビニのような存在らしい。
トイレもあり、救急用のAEDも置かれ、沖縄県立図書館から本を借りる窓口にもなっている。
無休で9時から20時まで営業。
わきの小部屋では小さな子数人が遊んでいる。
たいしたところだと思う。

飲み物を補充する。

■ Dr.コトー診療所

比川の集落を抜けて海岸にでると、10年ほど前のテレビ番組『Dr.コトー診療所』の撮影につかわれた建物がある。(放送は2003,2004,2006年の3期)
屋上に数人の若者がいて、女性が手摺りに上がって、文字が読めるように旗を広げて持ち、記念写真を撮っている。
Dr.コトー診療所

「ここから有料区画 維持のために協力金を」とある。
中に入ると、無人だが、病院の受付窓口に皿があり、300円置く。
話では架空の「志木那村」が舞台。
離島の医療に尽くしたということで志木那村長からの表彰状が額に入れてあったり、志木那村から配られたらしい寒暖計が柱にかかっていたり、小物がおもしろい。
ベッド2つの病室からは浜が見えて眺めがいい。
深刻でない病気で何日か入院したり、あるいはここで息をひきとるのもわるくないと思う。

『Dr.コトー診療所』には時任三郎が島の漁師役で出演していた。
映画『海燕ジョーの奇跡』では、ジョーは与那国島からフィリピンに逃れる。
あとを追いかけてきた陽子と、フィリピンの海岸で「いつか一緒におだやかに暮らせたら」と語るのだが、2人は追ってきた敵対する組員に殺されて終わる。
この話にはモデルがあったが、もともとフィリピンに渡るのは小説と映画でのフィクションだし、小説と映画ではフィリピンに渡ったあとの結末が異なっている。与那国に戻って陽子と暮らすというストーリーもありえたわけで、すると『Dr.コトー診療所』の漁師は海燕ジョーのその後にもみえる。

診療所の屋上からの浜の眺めは絶景で、去りがたい思いだった。 Dr.コトー診療所の屋上からの海

* 東へ走る。
立神岩という奇岩がある。道路脇の小さな駐車場から歩いて写真を撮る。
サンニヌ台という断崖は、役場できいたとおり工事中で、近づけない。

須田剋太『与那国サンニヌ台』
サンニヌ台へは工事中


須田剋太『与那国サンニヌ台』

比川から島の東端までの道は、海岸線ではなく、木々にはさまれたところが多い。
その道を走っていると、白い小さな蝶が車の前にヒラヒラと次々に現れる。
東の端には東崎(あがりざき)灯台がある。
折り返して西に向かうと、もう白い蝶は現れなくなった。
島の南岸の東半分にだけいたようなのだが、なぜそんなことになるのか不思議な気がする。
浦野墓地を通って、祖納の集落に入った。


■ 公民館

公民館が役場の近くにあるが、きのう寄らなかったので、今日行ってみた。
司馬遼太郎の文章に、小さな公民館があり、その軒先のような一隅に南国食堂があり食事した−とあるところだ。
1階が農協で、中に入ってたずねると「公民館は外に出て、外の階段で2階へ」とのこと。
2階に上がると鍵がかかっていて入れない。使う人がいるときだけ開けるのかもしれない。

■ 祖納港

公民館の向かいのふくやまスーパーでヨーグルトと牛乳を買った。
祖納港旅客ターミナルそばの岸壁に車をとめて、手持ちの食料で昼食。
港からは石垣島−与那国島を結ぶ船が週2便ずつでている。
片道4時間の航路。
船がいない時間は人けがなくて静か。

祖納港

* 祖納集落を抜けて、空港の手前、コスモ石油で給油した。
終えると、何リットルでいくらという領収書ではなくて、レンタカー専用の満タン票みたいな紙きれを渡される。

空港に着いてレンタカーを返す。
借りたときと同じように、車の状況を確認することもなく、あっさり鍵を受け取って「おかえりなさい」という感じ。
この島でこんなふうに暮らせたらと、ふっと思う。


■ 与那国空港

空港にいくつか売店があるなかに、本や新聞を置いている店がある。
八重山毎日新聞80円と、池間栄三著『与那国の歴史』1500円を買う。
新聞では、与那国町議会が混乱しているというのがトップ記事だった。
住民投票で自衛隊配備賛成が反対を越えたが、議会では多数派の野党が配備に反対していて、議長がいやになり辞表を提出したという。
『与那国の歴史』は、1959年11月に初版発行で、僕が買ったのは2013年7月の第10版。ロングセラーになっている。

■ 与那国空港13:40−石垣空港14:15 RAC744便
左の窓際。また翼のところだが、翼の下に座席があるので下の風景が見える。
珊瑚礁に囲まれた島の上を過ぎる。
石垣空港で2時間ほど、のんびり待つ。

■ 石垣空港16:30−那覇空港17:25 ANA1776便

那覇空港では1時間だけ。
前夜、携帯で予約した便は、空港のカウンターで確認番号と予約番号をつげて航空券を受け取ることになっている。
あわただしく携帯で手配したチケットをすんなり受け取れて、今日のうちに帰れるか?
JALの窓口は若くて笑顔がきれいな人だった。
窓側と通路側があいているという。
直前の手配だから、その間の狭い席を覚悟していたので、ひと安心。
暗くて外は見えないだろうし、通路側にした。
このところ飛行機に乗るには、自宅のパソコンで操作してA4の普通紙にバーコードを印刷したのばかりだったが、ひさしぶりにパリっと固い航空券を受け取る。

須田剋太『那覇空港カウンター』
那覇空港


須田剋太『那覇空港カウンター』

■ 那覇空港18:40-羽田空港20:50 JLA922便

* 空港から浜松町駅までモノレール、新橋で上野東京ラインに乗りかえる。
新橋駅の階段で酔ったサラリーマンの会話がきこえる。
グリーン車の2階席に座る。
高架を走る電車は、有楽町駅や秋葉原駅を見おろしながら通過し、人工的な照明がいくつもあるビル街を抜けていく。
昼ころまでは与那国島にいて、青い海べや、与那国馬を眺めていた。
台湾まで100kmの島から、直線距離で2000km離れている東京まで、一気に移動してきた。
風景の落差がとても大きくて、とまどい感がある。


     ◇       ◇

旅から帰ってからの後日談を1つ。

『街道をゆく』の連載では、沖縄本島での記述のところに須田剋太の『グランドカッセルホテル』が掲載された。
ホテルのやや高い階にあるテラスらしきところから、ゆったりと外の景色を眺めている。
須田剋太『グランドカッセルホテル』
須田剋太『グランドカッセルホテル』

カッセルという名の都市はドイツにあり、ドクメンタという5年ごとの美術の祭典が開催されるところとして知られる。
須田剋太が沖縄の旅で描いた絵は、琉球瓦の民家とか、民俗衣装を着た人とか、いかにも沖縄らしい風景が多いが、この絵はタイトルどおり外国らしく見える。
なぜここに外国のホテルの絵をいれたのか−と、気にかかったまま、手がかりがないままでいた。
須田剋太はドイツには行ってないし、ドクメンタに作品を出したこともないはず。

旅から帰って、また絵を見直していて、絵の中央あたりに電柱と電線があることに気がついた。
この絵は外国の風景ではなく、素直に日本かもと思い直した。
もしかすると「カッセル」は「キャッスル」だろうか。
那覇で「キャッスル」という名のホテルを探すとホテル日航那覇グランドキャッスルがある。
那覇では司馬・須田の一行は首里城に行っているが、その首里城から近い。
このホテルの可能性が高い。

ホテルに照会すると、以下のような回答をいただいた。
・ホテルは(須田剋太らが訪れた前年の)1973年に開業している。
・当時のホテル名は「沖縄グランド・キャッスル」といった。
僕はテラスかと思ったが、コーヒーショップSERENA(当時の店名)からだろうと、写真まで添付していただいた。
絵には正面に円形の塔をのせた建物が見えるが、写真にも同じように写っている。
それは1974年3月に開業した沖縄都ホテルだろうとのこと。(須田剋太らが訪れたのはその年の4月だった。)

『グランドカッセルホテル』は「沖縄グランド・キャッスル」(現・ホテル日航那覇グランドキャッスル)と判断していいようだ。(→ホテル日航那覇グランドキャッスル
ただしホテルには当時の宿泊記録は保存されていないそうで、泊まったのか、コーヒーブレイクに寄ったのかまでは確認できない。
それにしても、しばらくもやがかかっていたのが、すっきり晴れた思いがする。

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参考:

  • 『街道をゆく 6』「沖縄・先島への道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1975
  • 『糸満市観光ガイドブック』糸満市役所/刊 2012年10月
  • 『随筆集 地を泳ぐ』藤田嗣治 講談社 1984
    『南へ 楽園を描いた日本人画家』窪田直子 日本経済新聞 2009.10.18
  • 『日本列島を往く4 孤島の挑戦』鎌田慧 岩波現代文庫 2003
      海どう宝・石垣島
  • 『竹富島誌 民話・民俗篇』上勢頭亨 法政大学出版局 1976
    『沖縄文化研究9』法政大学沖縄文化研究所 1982
      竹富島の鍛冶伝承 上勢頭亨
    『大塚勝久写真集 うつぐみの心 竹富島』大塚勝久 葦書房 1992
      竹富島種子取祭 上勢頭芳徳
      祭りと沖縄文化 大城立裕
      沖縄・マブイを想う 岡部伊都子
    『前原基男写真集 竹富島』前原基男 2005
  • 『記録写真集与那国 町史別巻1』与那国町史編集委員会編 与那国町役場刊 1997
    『与那国島の歴史』池間栄三/著 池間苗/刊 1959
    2013年に第10版
    『海燕ジョーの奇跡』佐木隆三 新潮社 1980
    『海燕ジョーの奇跡』藤田敏八/監督 時任三郎ほか/出演 松竹富士 1984
    『Dr.コトー診療所』フジテレビ 2003,2004,2006
    『海上の道』柳田国男 角川ソフィア文庫 2013
  • 4泊5日の行程 (2015.3/15-19)
    (<飛行機 −レンタカー →モノレール =タクシー・送迎車・バス 〜船 …徒歩)
    第1日 羽田空港<那覇空港−道の駅いとまん…糸満港−チューンホテル那覇−スカイレンタカーDFS沖縄営業所…沖縄県立美術館…ゆいレール おもろまち駅→牧志駅…大東そば…チューンホテル那覇
    第2日 …美栄橋駅→那覇空港駅…那覇空港<新石垣空港−仲間商店…おいシーサー偶−マックスバリュー−上間歯科・とのしろ薬局…宮良殿内−宮鳥御嶽−石垣市民会館−石垣市役所−石垣島ホテルククル−石垣ターミナル前登野城店…石垣島ホテルククル
    第3日 …石垣港離島ターミナル〜竹富港=(タクシー)星砂の浜・蔵元跡=(タクシー)高那旅館…こぼし文庫…喜宝院民具蒐集館…西塘様の廟…床屋…与那国家…竹富小学校・中学校…高那旅館
    第4日 =(送迎車)竹富港8:15〜8:30石垣港…石垣バスターミナル8:45=9:23新石垣空港10:35<11:10与那国空港−浦野墓地−崎原商店−与那国民俗資料館−与那国町役場−ホテル入船−ティンダバナ+サンアイ・イソバ碑−西崎灯台・日本最西端の地碑−民宿てぃだん
    第5日 −クブラバリ−ダンヌ浜−南牧場−比川共同売店−Dr.コトー診療所−立神岩−サンニヌ台−東牧場−公民館・ふくやまスーパー−祖納港−与那国空港13:40<14:15新石垣空港16:30<17:25那覇空港18:40<20:50羽田空港