種子島へ−丸木舟と宇宙船−


『街道をゆく』に須田剋太が描いた地をたどって「種子島みち」の種子島に行った。
ここは妻のルーツの地でもあって、100年ほど前に、祖父が種子島から上京し、東京都府中市に住んだ。祖父は50年近く前に亡くなり、それから種子島との接触はなくなっていた。
この旅には妻も同行し、戸籍から確認した種子島の住所をたずねてみると、親族が健在で歓迎された。
その親族から、妻の祖父は単身上京したのだが、さらに1つ上の世代は徳之島の人で、丸木舟で種子島に渡ってきたのだときかされた。これは妻も、今関東に住む祖父の子どもたち(妻にとっては叔母たち)も知らなかったことだった。
米の技術をもった人たちが南方から日本に来たという柳田国男の『海上の道』を裏づけるような移動が、近代にもあったのかと驚かされた。
種子島にはロケットの打ち上げ基地があり、『2001年宇宙の旅』で猿が投げ上げた骨片が漆黒の宇宙空間を進む宇宙船に一瞬で転換するように、丸木舟と宇宙船のアナロジーも思った。

「種子島みち」の取材は1975年、僕らが行ったのは40年後の2015年だった。

第1日 種子島空港 M家 千座(ちくら)の岩屋 種子島宇宙センター 鉄砲伝来の地 南種子町(泊)
第2日 喜志鹿崎灯台 鉄砲館 月窓亭 味処井元 西之表市(泊)
第3日 種子島港〜鹿児島港へ

3日目と4日目は、「肥薩のみち」の鹿児島部分をまわった。→[薩摩へ]

第1日 種子島空港 M家 千座(ちくら)の岩屋 種子島宇宙センター 鉄砲伝来の地 南種子町(泊)

* 羽田空港を離陸すると、右前方の窓際の席からは、江ノ島や湘南海岸を見おろす。
やがて芦ノ湖があり、このところ活発な活動が続いている大湧谷あたりにわずかに白煙が上がっていたようだ。
そして富士山。
雲にさえぎられるところもあるが、中部空港と、宮崎付近では 航空自衛隊新田原基地の滑走路が見えた。


● 鹿児島空港 エアポート山形屋

種子島に向かう便を待つあいだに昼を食べた。
妻が「茶がおいしい」という。
店のひとにきいてみると、空港近くの茶畑からとれる茶で、溝辺茶とのこと。
知覧茶ほどのブランドではないということか、空港では売ってないという。


* 種子島に向かう飛行機はSAAB340B。
プロペラ機で、機内は通路をはさんで左に1人、右に2人。
40分ほどの飛行で、アメが配られるだけで着く。
種子島行きSAAB340B

■ 種子島空港
鹿児島県熊毛郡中種子町増田2692-64

種子島は南北に細長く、空港はそのほぼ中央にある。
1975年に司馬遼太郎一行が『街道をゆく』の取材で訪れたのは、この空港ではなかった。
今の空港はもとあったところから8キロほど北東に移動し、2006年に開港した。

* レンタカーを借りる。
空港内の事務所で受付をすませると、車は駐車場にあるとキーを渡される。
いっしょに行って、車の傷を確認して、なんてことはしない。
駐車場に行ってみると、前のほうに、はっきりわかるかなり大きなヘコミがある。
レンタカーの貸し借りの大らかさは、南の島特有とでもいうか、沖縄の与那国島でも同じようだった。

妻のルーツのM家を訪ねるのに、実家のある府中市で戸籍をとって住所を調べた。
祖父は空港と同じ字の中種子町増田から府中に戸籍を移している。
空港北側にある駐車場から車に乗り、空港を南にくぐるトンネルを抜けて、3キロほど走った。
マピオンの住所検索で地図上の位置は見当がついている。
GOOGLEの航空写真で、田園地帯に数棟の建物があることがわかっている。
ストリートビューで、高い生け垣に囲まれた家であることもわかっている。
入口に札がかかっていて、「関係者以外 無断立入禁止 防疫に御協力を! 入場時の消毒徹底」とある。農協で作って配布したもののようで、畜産をしているらしい。
ゼンリンの住宅地図をみれば、そこに今どういう名前の人が住んでいるかわかるはずだが、近くの図書館には他県の住宅地図はない。国会図書館で調べてみようと思っているうち、行きそこねて、そこまでは確かめられずに来た。


■ M家
鹿児島県熊毛郡中種子町増田XXXX

該当の地点に着くと、たしかに高い生け垣があった。
庭にいた女性に、妻が、東京都府中市からおじいちゃんの実家をさがしに来たと話すと、「それならあの人に」といいながら指さすほうを見ると、夫らしき人がトラクターに乗ってどこか作業に出かけようとしているようだった。


あらためてわけを話すと、ブルブルとエンジンがかかったままだったのを、それは一大事というふうにキーを回して止め、運転台から降りて、家の中へ入るようにとすすめられる。
M家の入口

家の主はM・建蔵さんという。
妻の祖父、M・慶良は長男だが、建蔵さんはそのいちばん下の弟であるM・良吉の子。
妻の父と建蔵さんとが、いとこにあたる。
はじめに奥座敷に案内されると、壁に4枚の肖像写真が掲げてあった。
慶良と良吉の父である為啓と、その妻。
良吉と、その妻。
床の間のあたりには、額にはいった感謝状や表彰状がある。地域の農業団体からのものもあり、農林大臣からのもあり、成功した農業者のようだ。
妻の府中の実家は神道だが、そのルーツの家もとうぜん神道で、神棚に一礼してから居間にうつって話を伺った。

床の間

建蔵さんは70歳に近いが、話していてそんな年を忘れるほどにキリっとして、古いことの記憶も細部まで確かだし、声が力強く明るい。
妻の祖父の慶良が長男で、建蔵さんの父の良吉が6男。
ほかに女性もいるが、男の子のなかではいちばん上(長男)の慶良が家を出て、東京に行ってしまった。
その後も男の兄弟が次々に家を出て、M家を継いだのは末っ子の良吉ということになった。
良吉の子の世代では、長男が大阪に出て、次男の建蔵さんが家を継いでいる。
日本の家族制度では、ふつう長男が家を継ぎ、次男以下はなにかしら手立てをみつけて家を出る。まして少し前の時代の地方のことだから、なおのことその制約は強いのではと思うのだが、M家では、上から順に出てしまって、末っ子が継ぎ、次の世代では次男が継いでいる。
あまり立ち入ってはききにくくもあり、M家の特殊事情なのか、このあたりではよくあるのかはわからない。

妻の祖父の慶良は警察官だった。
退職後、何度か種子島を訪れ、建蔵さんも会ったことがある。
府中では怖い人と思われていたし、建蔵さんも、目つきや口調が怖かったという。
ところが最初の孫である(僕の)妻が生まれると、孫にはやさしくて、「あの人でも孫にはやさしい」といわれていた。
あぐらをかいたおじいちゃんのヒザのなかが妻の指定席で、それは妹が生まれてもかわらなかった。3人目に男の子が生まれると、男の子への期待はべつもので、おじいちゃんのヒザの主がいれかわることになった。

慶良は警察に勤務し、勲章もえたし、府中では由緒ある大国魂神社のすぐわきの古い中心市街に家を持った。
遠くの島からでてきた人としては、しっかり一生を成し遂げたといっていいのだろう。
それで種子島から東京に出るのにあたっては、たよれる人があるとか、しかるべき学校に進学が決まっているとか、なにかしら目算があり、将来へのレールが想定されいたのだろう−妻はそんなふうに思っていたし、関東にいる親類縁者も漠然とながら同様に思っていたはず。

ところが種子島に戻ったときに慶良が昔の苦労ばなしをしたのを建蔵さんはきいていて、そんなものではなかったようだ。
あてなどなくて、そもそもよく東京までたどり着けたものというふうだったし、その後もたいへんな思いの苦労もし、幸運に恵まれることもあって、よく安定をかちえたという人生だったらしい。

建蔵さんの話でもうひとつ驚かされたのは、慶良、良吉らの父の為啓は、もともとは徳之島の人で、丸木船で種子島にわたってきたという。
はじめに東岸に上陸したが、言葉が通じなくて追い払われた。
いったん海にでて、次に西岸に上陸すると、言葉をわかってくれる人がいて上陸できたという。
M・為啓は1872年生まれ、1949年没。
船で渡ったのは19世紀末か20世紀はじめだろうか。
柳田国男は『海上の道』で、米栽培の技術をもった人たちが、南から黒潮にのってやってきて、日本に米をつたえたという説をとなえた。
時代はまったく違うが、南から北への人の移動という点で、『海上の道』をしのばせ、その説の裏付け材料にもなりえそう。
妻やその子には、海の向こうに丸木舟でのりだした冒険者の血が流れているのかと、ちょっとうらやましいような気になる。
(このあと鹿児島本土で陶工の沈寿官さんにお会いした。
奄美大島で講演したとき、島の方言でこんにちわとあいさつしたいからと世話係の人に教えてもらおうとしたら、紙に5つも書かれた。島ごとに方言が違うのだという。言葉が通じなくて追い返されるということも、なるほど起こりうることなのだと納得した。)

建蔵さんは今は牛を飼っているが、畑で茶を栽培していたこともあるという。
妻が幼なかったころ、府中の家では茶の木を生け垣にしていた。
祖父が葉を摘んで、新聞紙を広げたうえで茶を干す。
家族は「まずい」といっていたが、祖父にはふるさとの香りだったろう。
祖母が先に亡くなったが、祖父は毎日その茶を供えていたという。
庭にはソテツも植えてあったが、それも南のくにをしのんでいたかもしれない。
祖父は妻が小学校5年生ころに亡くなった。
その後まもなく家を建て替えて、茶の木もソテツもなくなった。
建蔵さんと話しているうち、妻は茶やソテツのことを思い出していた。

祖父が健在だったころ、種子島のひとたちが府中の家に訪ねてくることがあった。
酒盛りになり、夜遅くまでおおいに飲む。
種子島の人が東京で学校に通うとか働くとかで上京したとき、しっかり落ち着く先が見つかるまでのあいだ、府中の家に居候することもあった。
妻も覚えているそのうちのひとりの女性は、建蔵さんの妹だった。
妻と建蔵さんが共通して実際に知る人は、妻の祖父の慶良と、建蔵さんの妹の2人ということになる。

はとこ同志

建蔵さんと妻が懐かしそうに話しているのを見ると、なんとなし顔が似ている。
目がくりっと大きく、鼻がまるっこい。
若いころ妻が海に行って日に灼けると、人形やイラストにあるような南の島の少女みたいだった。今も日に灼けたらもっと建蔵さんとそっくりだろう。
建蔵さんの父の良吉さんは相撲が好きだったという。
相撲大会があってさそわれると出て行く。もちろんあとの酒盛りも楽しみ。
妻の父、M・栄治も、相撲が好きだった。
酒も好きで、毎晩長い時間飲みつづけた。
それで体を壊したが医者嫌いで、60歳をすこし越えたばかりで亡くなった。
その父も南方系の顔をしていた。
妻は3人きょうだいだが、父からいちばん南方的特徴を継いだようだ。

思いがけず長く楽しく話しこんだ。
家を辞してから、道を教えてもらって近くにあるM家の墓に墓参りした。
まだ新しく見える立派な墓があり、裏に
「平成四年十二月吉日
  M・良吉
  〃 建蔵 建立」
と刻まれている。
父の代では、上から順に家を出てしまい、父が継いだ。
次の代も、長男の兄は家を出て大阪に行った。
当然ではないはずの自分たちが家を継ぐ役割を背負うことになったが、力を合わせてよくM家を守ってきたという自負が、父子2人並んだ文字にこめられているかもしれない。
良吉氏は、それから6年後に87歳で亡くなったことが、別の面の墓誌にあった。

* 南に向かう。
方言をつかった交通安全の看板を見かけた。
「交通事故で ばきぃ けなぁを 泣かすんな!」
「ばきぃ」は妻、「けなぁ」は親戚・家族のことという。
中種子町に熊野神社、すこしくだって町の境を越えて、南種子町に千座の岩屋がある。


■ 熊野神社
鹿児島県熊毛郡中種子町熊野

司馬遼太郎は、種子島では紀州とひんぱんな往き来があったという。
種子島に鉄砲をもったポルトガル船が漂着したとき、領主の種子島家は鉄砲を2挺手に入れた。
そのとき紀州根来寺の津田監物という人が種子島に滞在していて、1挺を紀州に持ち帰った。それによりその後に鉄砲が早く国内で広まったという。
熊野神社があることも、種子島と紀州の親しい関係の1例かもしれないというのだが、司馬遼太郎一行は熊野神社までは行かなかった。
75号線を走っていると、熊野神社の入口を通りかかった。
道端に鳥居があり、細い道に赤い小柱が列をなして立ち、その先に森がある。
僕も神前までは行かずに先へ進んだ。

■ 千座(ちくら)の岩屋

千座の岩屋 種子島に奇岩の景勝地がいくつかあるうちの1つ。
細かな砂の広い浜の先に大きな岩がある。
空洞があって、その中は千人座れるほどにも広い、というのが名前の由来。

そこには砂浜づたいに右からまわりこむ。
空洞の中からは、なるほど向こうに海が見えるが、立ったままでも千人は入れなそう。
ちょうど干潮時だったので空洞に行けたが、須田剋太が来たときは満潮で、しかも荒れていた。

 須田画伯は波のよせるそばで写生をしていたが、やがて逃げるように山際の岩の上に這いのぼってきた。どうかしましたか、ときくと、表情をすこしこわばらせて
「私は、泳げないんです」
 と言い。ふたたび海に向かって画用紙をひろげた。この海鳴りのすさまじさをきいていると、画伯の恐怖が素直に伝わってくるような感じもした。(『街道をゆく 8』「種子島みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1977。以下同じ。)

『街道をゆく』の「種子島みち」は、これが結びの文章なのだが、僕らの種子島を見る旅はまだほとんど始まったばかり。

* 南下していくと広田遺跡がある。
広田遺跡は弥生時代の終わりころから7世紀にかけての集団墓地。
今年(2015年)の3月に開館したばかりのミュージアムがあり、寄ってみたかったが、種子島宇宙センターの見学を予約してある。
M家で長居したので余裕がなくて、ミュージアムには寄らずに通過する。


■ 種子島宇宙センター
鹿児島県熊毛郡南種子町大字茎永字麻津 tel. 0997-26-2111

宇宙科学技術館という宇宙開発の案内施設には開館中いつでも入れるが、そのほかに日に3回の施設見学ツアーがあり、予約しておいた15:30の回に参加した。
見学者はいずれも2人連れ3組で、宇宙科学技術館前からマイクロバスで出発する。
若い女性が解説をしてくれて、広い敷地内に点在する施設をめぐる。

いちばんの圧巻は、大崎第一事務所。
打ち上げが中止されて地上に残ったままになったH−2ロケット7号機が保管されていて、本物は迫力がある。

H−2ロケット7号機

遠目にオレンジ色に見える部分は、金属面がツルツルピカピカと光を反射しているのではなくて、断熱材が吹きつけられていて、ザラっと光を吸収する感じ。近くで見ないとわからないことだった。

大型ロケット組立棟では、ちょうど作業中のため扉が開いていて、中を見ることができた。大型ロケットをおさめる高さがあるのに、扉は上から下まで1枚扉で、開閉に片道10分かかるという。

そこから海岸方向に道がのびた先に第2射点がある。両脇に立つ2本の塔は、ロケットを支えるのではなく、避雷針なのだった。
このあたりはバスから降りずに遠望するだけで、大型ロケット組立棟は写真撮影禁止。
種子島 第2射点

種子島というと、まずふつうに思い浮かぶのは鉄砲とロケットだろう。
『街道をゆく』の旅は鉄砲には手厚いが、1969年開設で旅のときにはすでにあった宇宙センターのことには文章でもふれられず、須田剋太の絵にもない。

* 島の最南端に着く。

■ 門倉岬 種子島鉄砲漂着の地

「鉄砲伝来紀功碑」という碑が立ち、展望公園になっている。
須田剋太の絵に比べ、今の眺めはすっきりしている。
その後整備されたのかもしれない。

須田剋太『種子島鉄砲漂着の地』 種子島鉄砲漂着の地
須田剋太『種子島鉄砲漂着の地』

車を降りたとき、雨が降りだしていたが、歩いているうちに激しくなってきた。
雷まで鳴る。
車に急いで戻って宿に向かった。

* 島の東岸を南下してきたのだが、最南端で折り返し、西岸をすこし北にいったところに今夜の宿がある。

● 種子島民宿はぴすま
鹿児島県熊毛郡南種子町西之6516 tel. 0997-26-0333
http://hapisuma-tanegashima.com/

若い夫婦が経営する民宿で、小さい子がふたりいて、部屋に案内されると子どもたちまでドドドと入ってくる。
主の坂尾安彦さんはサーファーで、もとは横浜の人。若くてやれるうちに宿を始めたいとあちこち見てまわったという。
沖縄は独自性がありすぎる、宮崎もいいと思ったが、島がいいと、種子島に決め、かなりを手作りで建てた。

宿の食事で、夕飯に力をいれるのは、まあ当然として、朝食に宿の心持ちが現れるように僕は思っているが、ここはよかった。
卵焼きをはじめみんな温かいし、鉄釜で焚いた穀物の入ったご飯がおいしい。
過剰でなく、不足でなく、あとでコーヒーのサービスもつく。

『街道をゆく』「種子島みち」では、ここから少し北にある牛野浜に丸木舟を見つけて司馬遼太郎が驚いている

道路から浜へ降りてみると、砂の上に二隻、丸木舟が引きあげられており、最初、眼を疑った。近づいてみるとたしかに丸木舟であり、一本の巨材をくりぬいただけのものであった。(中略)丸木舟がいまなお漁業の現役につかわれているのは、種子島くらいであるかもしれない。

サーファーなら浜の様子にくわしいと思って、丸木舟を見たことがあるか坂尾さんにたずねると、ないとのことだった。
でも鉄砲館に(展示が)あったかもという。

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第2日 島間港 喜志鹿崎灯台 鉄砲館 月窓亭 味処井元 西之表市(泊)


* 夜中にバチバチと激しい雨音がしていたが、夜が明けても雨。
北に向かって走る。
丸木舟があったという牛野浜のあたりを通るが、夕べの坂尾さんの話もあり、雨の中を降りて確かめるまでもないだろうと通過する。


須田剋太『牛野浜丸木船』
須田剋太『牛野浜丸木船』

■ 島間港
鹿児島県熊毛郡南種子町島間

大粒の雨がどしゃ降り。
車で島間港に向かうと、前をタクシーが走っていて、どうやらタクシーも港を目指しているらしい。
港に着くと、雨で景色がけむって、全景が見えない。
司馬遼太郎は、島間港はひどくさびしい港だと書いている。

 島間は、ひどくさびしい港だった。
 コンクリートの防波堤が白く骨のように晒(さら)されていて、風があらあらしく人影もなく売店ひとつ無く、港である証拠に無人の小汽船が一隻繋留されているだけで、港ごと盗まれはしないかと思われるほどだった。

小さな待合室の建物がある。
ここには屋久島との間にフェリーが運航しているから、今はそこそこの大きさの建物があり、売店とかトイレとかあるのかと思っていたのだが、目の前にあるのはローカル線の駅の待合室ていど。

島間港 ひどい降りなので、車の中から写真だけ撮った。

種子島宇宙センターで打ち上げるロケットや機材もこの港から上陸するというのだが、ひとけの少ない景色であることは今も変わりがないようだ。
岸壁の先のほうまで行ったらしいタクシーが戻ってきて、そばを通り抜けていった。フェリーの発着時間でもないこんな雨とのきに、港のどこに来て、人を降ろしたのか、乗せたのか、ミステリーじみている。

* 北上して中種子島町を越えて西之表市にはいる。
また方言の交通警告標識がある。
「スピード落とせ よめじょうおおし」
「よめじょう」とは美人のこと。
スピードを落としても美人を眺めてよそ見したら危ない気がする。


■ 住吉神社
鹿児島県西之表市住吉

住吉神社 熊野神社と同じように道に沿って鳥居があり、細い道が森に向かっている。
雨は小降りになっている。
降りて、通りすぎる車が水をはねかけるのに注意しながら写真を撮る。
参道を歩きかけたが、すぐに越えがたい水たまりがあって引き返した。

■ 能野(よきの)焼の窯跡
鹿児島県西之表市能野

案内標識にしたがって人家と畑のあいだの細い道を行く。
ちょうど雨はやんでいたのだが、ここでも、道も畑も水びたしなっているところがあり、窯跡まで行き着けなかった。

須田剋太『能野里 窯跡』 能野焼の窯跡への道

写真ではわかりにくいが、たっぷり水を含んでいる。
須田剋太『能野里 窯跡』

* 北に走り、西之表市の中心部をいったん通りこして、島の最北端に向かった。

■ 喜志鹿崎灯台
鹿児島県西之表市国上

灯台のほぼ真下まで車で行けた。
それでも車を降りるのにためらうほどの雨が降っている。
ここまで来たから灯台の海側を見ておこうと外に出る。
海側には四阿があり、柵の向こうに海が見おろせた。

 崖の上からはるかに潮をながめると、潮は東から西へ激しく流れているようであり、その潮流を避けつつ小さな漁船が動いていた。なるほどこの潮を突切って大隅半島へゆくより、沖合を北上する黒潮に乗って熊野へゆくほうが、櫓(ろ)と帆の時代にはあるいは楽かもしれないと思えた。

司馬遼太郎はこう書いたが、今は雨で遠望がきかない。

須田剋太『種子島最北端喜志鹿崎灯台』 喜志ケ崎灯台
須田剋太『種子島最北端喜志鹿崎灯台』

* 市の中心部に戻り、まず鉄砲館に行く。

■ 鉄砲館(西之表市立種子島開発総合センター もと種子島博物館)
西之表市西之表7585 tel.0997-23-3215
http://www.city.nishinoomote.lg.jp/center/top.html

司馬遼太郎一行は種子島家の種子島時哲氏らと市立種子島博物館に行って、鉄砲などを見ている。
その博物館は1983年に西之表市立種子島開発総合センター(鉄砲館)にかわっている。

鉄砲館の丸木舟の展示
館内に入ると、民宿の坂尾さんがいっていたとおり、丸木舟が展示されていた。
実物があり、ジオラマもある。

解説によると、1967年には80隻ほどあり、トビウオ漁や一本釣り漁などの沿岸漁業につかわれていたが、1996年に最後の1隻が現役をひいて、実際に漁につかわれるものはなくなったという。
1975年にきた司馬遼太郎が驚いたとおり、その頃はふつうに現役だったわけだ。

安城小学校の児童が漂流びん流しをした実験記録がおもしろかった。
北に向かう流れにのって北海道、アメリカ、硫黄島などに着いたのは予想された結果だが、台湾、沖縄、奄美大島、五島にも漂着したという。

* 車を置ける店を探して昼食をすませる。

■ 赤尾木城文化伝承館 月窓亭(げっそうてい)
西之表市西之表7528 tel. 0997-22-2101
http://gessoutei.blogspot.jp/

江戸時代中期に種子島家の家老・羽生道潔が建てた家。
月窓亭の名称は、この羽生慎翁の号「梅陰亭月窓」に由来する。
1886年に種子島家27代当主守時をこの家に迎えてから、種子島家の住まいとしてつかわれてきた。
2000年に種子島家が島外に転居してから、建物は荒廃していたが、
2010年に西之表市に譲渡され、市の文化財指定を受け、種子島の文化伝承の施設として公開された。

1975年の『街道をゆく』の旅のとき、鹿児島に住む陶芸家、沈寿官さんが同行していた。
司馬遼太郎はそのころ世界各地をめぐってせわしく活動していた沈寿官さんを慰労する心づもりで種子島に招き、一夕、ゆっくり飲みたいと思っていた。ところが小さな島のことだからいい会場が見つからず、沈寿官さんの知己の井元市長が手配して、種子島家で宴を催すことになった。
沈寿官さんが悲壮に歌い、舞い、種子島家の時哲(ときあき)氏は剽軽に歌い、舞い、このときの宴はとても楽しく盛り上がったことが「種子島みち」に書かれている。
若いころ浦和に住んでいたとき以来、酒を飲んだことがないという須田剋太までが、半世紀の禁をやぶって酒を飲んだ。
といっても、1杯の猪口の酒を1時間ほどかけて飲んだ。
それでも場の盛り上がりと、じつに久しぶりに酒を体内にいれたということで舞い上がったか、沈寿官さんにつられて浴衣姿のまま通りにまかり出た、というようなことまで起きた。
(このあと、その沈寿官さんに思いがけずお目にかかることになった。→[薩摩へ])

しかるべきひとの屋敷内のことだから、ふつうならそんな現場を見られることはないはずのものだが、種子島氏が島外に出て、家が公開施設になったおかげで、今は中に入ることができる。入館料を払って玄関を上がると、拍子抜けするほどにするっとその座敷に立ち会うことになった。

須田剋太『種子島時哲家の正門』 月窓亭 もと種子島家
須田剋太『種子島時哲家の正門』

小雨が降るなかを歩いて、須田剋太が描いた門を入る。
座敷に上がると、茶と菓子をだしてくれる。
そうしたもてなしや案内を「月窓亭ひとつ葉の会」が引き受けていて、その会長の鮫嶋安豊さんにお会いした。
鮫嶋さんは、種子島博物館に勤務されていた。
博物館を訪れた司馬遼太郎に島の製鉄の歴史について説明したことが『街道をゆく』に名を記して書きのこされている。

鮫嶋さんの話でも、宴の夜の盛り上がりは並はずれたもので、『街道をゆく』の文章にはあらわされなかったはじけぶりもあったらしい。
月窓亭には当夜の写真も展示してある。
司馬遼太郎、沈寿官、井元市長、種子島時哲ほか、かなりの人数になる。
玄関から入ると、小さい間、広い間、床の間とつづくのだが、宴は意外にも小さいほうの間だったという。

奥の広い間の右のほうに、戸と柱に区切られて庭が見える。ヘゴ、クワズイモ、マキなど、いろいろな種類の草木の、いろいろな形の葉が、いろいろな緑の濃さで息づいている。
区切られた四角をキャンバスに見立てれば、画面を埋め尽くすオールオーバーの画面とでもいうか、密度と鮮やかさとに圧倒される。
雨でふだんより葉が輝きをましているかもしれない。
雨にもいいことがあると思いたい。

月窓亭の庭

* ホテルにチェックインして荷物を部屋に置いてから、また車に乗って、港の駐車場に車を戻しにいく。
レンタカー用の駐車場があるが、ホテルからちょっと遠い。
といってもたいした距離ではないが、雨の中を歩いて戻るにはできるだけ近い方がいい。
ホテル寄りに港の第2駐車場があったので、そこに車を入れた。
日よけの裏にキーを置き、したがってドアには鍵をかけないまま、レンタカー営業所に電話して車を離れた。
なんというゆるさ。

ホテルのとなりのたかさきストアで、明日の朝食にパンやヨーグルトなど買う。
向かいの高崎酒造で焼酎を買う。


● 味処井元 (いのもと)
鹿児島県西之表市西町189-1 tel.0997-22-1218
http://aji-inomoto.jp/


今日、昼ころ、妻の携帯にM・建蔵さんから連絡があり、西之表でいっしょに夕食をしようということになった。
ホテルのロビーに建蔵さん夫妻が来られて、歩いて向かった先はホテルから近い井元だった。
雨はやんでいる。
店は『街道をゆく』の旅のとき市長だった井元氏とは遠い姻戚関係があるらしい。
味処井元

建蔵さんの話しぶりは明るく快活で楽しい。
自信にあふれてもいる。
家を継ぐ役割を背負い、対抗心をもって生きてきたという。
そのがんばりようが独特で、人が休んでいるあいだも働きつづけて、生活を維持するのではない。
サラリーマンが5時に帰るなら、自分もその時間には仕事を終えて休んでいるようにする。もちろんそのためには働いているあいだ智恵も体も使うということだろう。
「意地もとおさんば」という。
その結果は、M家にあったいくつもの表彰状や感謝状でうかがうことができる。
牛を関東甲信越地方に売り込みに行く代表団のメンバーに選ばれたこともあり、羽田空港に行ったのはそのとき1度だけ。
あと親族の誰だったかが亡くなったときの葬儀で上京したことがあるという。
自分も大阪で働いた時期があり、そこまでは行きやすい。あとは大阪に住む兄とおちあって新幹線に乗った。
そのとき、東京にいる親族が二重橋などへ案内してくれたという。
(このあたりの話にでてくる親族を、妻はああ、あの−−さん、という具合にきいているが、僕にはよくわからない)
東京へ行ったのは、その2回だけになる。

遠方からきて突然現れた初対面の親族をこれほど歓迎してくれたのには、故郷を守ってしっかりやっているという自負もあるだろう。
おみやげまでいただいてしまった。
きのう妻が、小さいころ、ときどき種子島から黒糖が送られてきたという話をした。
文庫本くらいのブロックで、おじいちゃんがアイスピックのようなもので打ち欠いて小さく食べやすくしてくれた。
その黒糖と(今どきそんな素朴な菓子がありうるだろうかといぶかしくなるほどだが、今もある)、やはり種子島名物の「りんかけ」(ピーナツに砂糖をまぶしてあり、砂糖は黒糖と白糖と2種類ある)をいただいた。

鉄砲館の丸木舟の話がでたとき、それは建蔵夫人のおじさんという人が作ったのだときかされた。
おじさんは舟を専門に作る人ではなく、大工。
小さな島のことだから舟だけ作って食べていけるほどの需要はないということだろう、何でも作ったという。

建蔵さんの馬の話も印象に残った。
牛を飼う前、耕作用に馬を飼っていた。
外に出かけて大いに酔ったとき、乗れば家に連れ帰ってくるような賢い馬だった。
今でも夢に、最後に飼ったその馬がでてくるという。

建蔵さん夫妻は夫人が車を運転して中種子町に帰られた。
僕らはいい気分に酔ってホテルに戻った。

● 種子島あらきホテル
鹿児島県西之表市西町78 tel. 0997-22-1555
http://araki-hotel.co.jp/

1848年創業という老舗のホテル。
M・建蔵さんと話していて、2日目はあらきホテルに泊まるといったのだが、建蔵さん夫妻間での話になると「あらき旅館」といっていた。
古い時代を知る人には、その名がなじみがあるのだろう。

『街道をゆく』の取材の一行が泊まったのはこの宿ではなかった。
種子島観光ホテルといって、種子島家での宴にも加わっていた井元市長が経営する井元医院の隣にあったが、解体されて今は空き地になっている。(井元医院は今もある)

部屋の窓から港が見える。
月窓亭で、須田剋太が描いたところを鮫嶋さんに見てもらった。
港を描いた絵に思いあたるところがあるというので、持っていた市街図に場所を示してもらった。
フェリーや高速船が発着する主要な波止場に向かって、北側から迫りだしている突堤があり、その先端とのこと。
ホテルの窓からその先端が見えた...のだが、ピッタリそうとはいいにくい。

須田剋太『種子島西之表市港』 西之表港の突堤
須田剋太『種子島西之表市港』

絵に似て石垣の上に塔のようなものあるのだが、石垣と塔の大きさの比率が、絵と実景とで、あまりにも違う。
もしかしたらの推測だが、主要な桟橋も1975年ころは石垣の上にあり、須田剋太はそこの様子を描き、その後の拡張工事などで眺めがかわったかもしれない。
港の朝の魚市の様子も描いているが、明日は市は休みの日ということで、その景色も見ることはなかった。

第3日 種子島港〜鹿児島港へ

■ 西之表港

朝、雨はあがっていて空が明るい。
8時発の2番目の船に乗るので、時間の余裕をみて、部屋できのう買っておいた朝食をとった。

港まで歩く。
8時の船は満席の表示がでている。予約しておいてよかった。
待合室で腰かけて待っていると、建蔵さん夫妻がまた見送りに来られた。
あとでたべるようにと、大きなおにぎりを2つ、持たせてくれる。
乗りこむところまで来て、手を振って見送られた
4日間の旅行のうち、3日間お会いしたことになる。

鹿児島港までのジェットフォイルは座席指定で、決まった席に座ったまま。
潮風に吹かれることもなく90分で鹿児島港に着いた。

種子島から鹿児島行きロケット号

このあと3日目と4日目は、「肥薩のみち」の鹿児島部分をまわった。→[薩摩へ]

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参考:

  • 『街道をゆく 8』「種子島みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1977
  • 『種子島人列伝』井元正流(いのもとまさる) 南方新社 2003
  • 3泊4日の行程 (2015.5/14-17)
    (>飛行機 −レンタカー 〜船 =タクシー …徒歩)
    第1日 羽田空港>鹿児島空港>種子島空港−M家−千座(ちくら)の岩屋−種子島宇宙センター−門倉岬−種子島民宿はぴすま
    第2日 −島間港−住吉神社−能野焼窯跡−喜志鹿崎灯台−鉄砲館−善元(昼食−赤尾木城文化伝承館月窓亭−栖林神社−種子島あらきホテル…井元(夕食)
    第3日 種子島港〜鹿児島港=天文館−蒲生ふるさと交流館…蒲生八幡神社…蒲生町武家屋敷跡−竜ケ城山磨崖梵字−沈寿官陶苑−バラゴン−えぐち家
    第4日 川内原子力発電所展示館−河口ウォッチング・川内川−薩摩川内市川内歴史資料館−黒豚とんかつ壱番館(昼食)−曽木ノ滝−海音寺潮五郎生誕の地−伊佐市立大口図書館・伊佐市大口歴史民俗鉄道資料館−鹿児島空港>羽田空港

    *この旅の後半(第3日と第4日)は[薩摩へ]