5月のパリ


高齢者劇団「さいたまゴールド・シアター」の初の海外公演がパリであり、見に行こうと思い立った。
それに『街道をゆく』の「南蛮のみち」では、主目的はスペインとポルトガルにあるのだが、司馬遼太郎はパリを出発点に選んでいて、須田剋太もパリの風景を描いている。
パリまでは直行便でも12時間ほどかかる。これほど遠くへ行く機会がこの先またあるかどうかわからないので、まだパリに行ったことがない妻も同行することにした。

* 6日間のパリ滞在中に、ユーロスターに乗って1泊2日でロンドンに往復した。→[6月のロンドン]



 第1日 東京-パリ ギャルリ・ラファイエット 

* 成田空港からANAの直行便でシャルルドゴール空港に着く。
観光インフォメーションでチケット2種を買う。
ルーブルほかの主要な美術館に入館できる「パリ・ミュージアム・パス」2日有効券39e(ユーロ)。
パリ市内のメトロなどに乗れる パリ・ビジットParis Visite、これも2日券が17eくらい。
タクシーに乗って、東駅Gare de L'estのすぐ前にあるホテルに向かい、チェックインする。

前に予約してあったホテルが、ホテル側のシステムエラーということで、出発の前日にキャンセルするとメールが届いた。ホテルから代替ホテルを紹介された。
ロンドンにユーロスターで往復する予定でいて、ユーロスターに乗る北駅も近い。

* 飛行機にえんえん12時間乗ってきたのだが、5月のパリの夕方はまだ日が高い。
日が沈むのが8時ころ。6時ころではまだ日がかなり高いところにあって、すぐ夕食にして寝てしまう感じではない。
着いた水曜日にルーブルは9時すぎまであいているが、さすがにそれほど気力はない。
8時まであいている百貨店に行った。


■ ギャルリ・ラファイエット Galeries Lafayette
http://www2.galerieslafayette.com/index.do


中央の吹き抜けの華麗さに息をのんだ。円天井から光が降り、金や赤で装飾された華やかな空間にひたされる。
ガルリ・ラファイエット

そのドームを眺めながら階段を上がっていくと屋上に出る。
屋上はドームの最上部と同じ高さにある。つまり外からはドームは見えなくて、四角い建物に見える。
すぐ前にオペラ・ガルニエがあり、あとパリ市街が広がっている。着いた日にいきなり、これから歩く街の全景を見わたしてしまった。
オペラ・ガルニエとパリ風景

* 東駅Gare de L'estに戻って、駅前のレストランで食事した。



 第2日 ルーブルほかシテ島周辺の美術館 

* 今日はシテ島あたりの美術館を見てあるく。

■ ルーブル美術館


朝の開館まもない時間に入ったのに、もう人がおおぜいいる。
館内図をもらって、めぼしい作品をピンポイントで回った。
ルーブル美術館

『サモトラケのニケ』:階段の先にどうどうと立っている。ただの台座ではなくて、船に乗っている。映画タイタニックで、豪華船の先頭に立って飛んでいるような快感を味わう名シーンがあるが、気分はそっくり。
『モナリザ』:いちだんとひとだかり。絵の前に横板がある。ここにToshibaのLEDがしこまれたようだ。
人がずいぶん入っていても、さすがに大きな美術館だから、ひっそりしたところもある。また突然人だかりがして、先を見ると、ミロのヴィーナスが立っている。
デューラーの自画像やら、アングルばかり並べた小部屋とか見て出る。

* チュルリー公園を抜けていく。

■ オランジュリー美術館

モネのはすの連作に囲まれる部屋が2室。
その下の階にも印象派の名品がたくさん並んでいた。
モネのはすの連作が展示されている(だけの)美術館と思いこんでいたので、その他の名画には得したような感じだった。
オランジュリー美術館

* セーヌ川を左岸に渡ってオルセーに向かう。
着いたころ、雨が激しくなってきた。チケットを買う人の長い行列ができているが、きのう空港で手にいれておいた「パリ・ミュージアム・パス」のおかげで別の入口から入り、雨の中で長時間待たずにすんだ。
ルーブルやオランジュリーでも同様で、「パリ・ミュージアム・パス」は、いくつか回れば割安になることのほかに、時間の節約効果は絶大で、これがなければ今日このあと行ったミュージアムも含めて、こんなに1日では回れなかった。


● カフェカンパナ CAFECAMPANA

ひるどきになっていて、まず美術館内のカフェに入る。
最近できたばかりで5階にある。

カフェカンパナ 奥の壁にあたるところに、オルセーの特徴の大時計の丸い文字盤。
内部は金色の釣り鐘型のランプが目立つ。
展示を見ていく動線から壁を隔てていないので、通り過ぎていく人たちがカフェ内を眺めたり写真を撮ったりしていく。
デザインは、えんじ色の曲線が主要モチーフで、テーブル間の仕切りや、皿や、ナプキンに使われている。

■ オルセー美術館

マネ『草上の昼食』、モネ『日傘の女』など、きわめつきの名画をため息しながら見る。

オルセー美術館 美術館は、もと駅舎の大空間。
大時計あたりから全景を見おろすと、大きな空間に区切りを作って展示室にしてある構成が見てとれる。閉じて囲ってしまうのではなく、大きな空間と小さな区切られた空間の関係がわかるように作られているのを、とてもいいと思った。

十数年前、自宅を新築するのにあたってどんな建築家に設計をお願いしようかといろんな本や資料を眺めていて、オルセーふうに住宅をデザインしたのを見つけた。
界工作舎の難波和彦氏で、「体育館か倉庫のようなところに仮に住んでるようなのがいい」と依頼した。難波さんの「箱の家」の考え方に近くて、設計を引き受けていただいた。すでに100軒をこえた「箱の家」のシリーズのうち、わが家はno.10になっている。わがやは小さいが、もとをたどるとこのオルセーの大空間になる。

* 美術館のすぐ前の入口を下ると、パリ市内と近郊を結ぶRERのMusée d'Orsay駅がある。ノートルダム大聖堂に行くために1つ東隣のSaint Michelで降りたかったのだが、乗った電車が着いてみると西隣のInvalidだった。方向を間違えて乗ってしまった。
反対方向に行く電車に乗って引き返し、Saint Michelで降りてセーヌ川を渡る。


■ ノートルダム大聖堂



バラ窓がみごと。
塔に上がるには長い行列ができていて諦める。
(翌日、エッフェル塔も混んでいて諦めた。みんな高い所が好き?)
ノートルダム寺院のバラ窓

* 歩いているうちに足がいたくなってきている。左足の膝上裏側あたり。今までこんなところがいたくなったことはない。妻は右足がいたいという。今日かなり歩きはしたが、僕も妻も歩くことにはけっこうタフで、今日の距離くらいはふつうなら大丈夫。
妻が「石畳だからかも」という。へんなふうに力が入るのではと。
なるほどそうかと思う。


■ ポンピドー・センター
 Centre national d'art et de culture Georges-Pompidou

初めてここにきたとき、壁の外にとびだしている透明なエスカレーターを上がりながら「これはいったいなんだろう?」と半ばとまどいながら、今までにない、何かとても新しいものができたと感じていた。
美術館や図書館や映像施設が複合している。
ポンピドー・センター

その新しさを象徴するように赤や青の配管がむき出しになっている。
設計したのはレンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースで、 1977年にオープンした。
僕が初めてきたのは翌1978年だった。

日本では2001年にせんだいメディアテークができた。同じように複合的機能をもち、建築的にも斬新なものだった。
今ではポンピドー・センターにとまどいを覚えることはなくなった。
それでもギャルリ・ラファイエットやサクレ・クールからパリ市街を眺めると、一面に古い石造りの建物が並ぶなかに、鮮やかな色の配管をまとったポンピドー・センターは今もとても目立つ。パリの中に異質な建築をはさみこむという点では、エッフェル塔以来のできごとだったろうかと思う。

■ 国立近代美術館

ポンピドー・センターの中の美術館。
今日は大きな美術館を回ってきて、さすがに疲れ気味。さらさらと流すように眺めて出た。

* ホテルに戻る途中で激しい夕立にあった。通りかかったビルの狭い玄関口で雨宿りした。鼻の大きい、長身のフランス人があとから駆けこんできた。まだ夕方なのに酔っているのか、やけに陽気で、日本は景気はいいか、フランスよりもうかっているかと、大阪弁のようなノリで話しかけてくる。

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 第3日 カルチェ・ラタン エッフェル塔
     さいたまゴール・ドシアターのパリ公演

* 今日は、前半は『街道をゆく』の足跡をたどってカルチェ・ラタンに。
後半は、夜、さいたまゴールド・シアターの公演を見るので、それまでその近くのエッフェル塔周辺を歩く。
東駅Gare de L'estからメトロに乗って、セーヌ左岸のSaint Michel駅に降りる。


須田剋太『カルチェ・ラタン』 わかれみちのカフェ

* 左の絵は、須田剋太がカルチェ・ラタンで描いた挿絵のひとつ。
右の写真は、サン・ミシェル駅近くで見かけたカフェ。
パリでは、なぜか分かれ道(逆からいえば合流点)にカフェやレストランがよくある。


■ サン・ジュリアン・ル・ポーブル教会
   L'église Saint-Julien-Le-Pauvre

『街道をゆく』の『南蛮のみち』で、司馬遼太郎はスペインとポルトガルに向かう前にパリから旅を始める。フランシスコ・ザヴィエルの足跡をたどろうとしていて、カルチェ・ラタンにはザヴィエルが若いころ学んでいた学校がある。
僕らは道順の都合で、まずザヴィエルが期末テストを受けた試験場として、司馬遼太郎、須田剋太の一行が案内されたという、小さな教会を訪れた。

パリで最古の教会で、ザヴィエルの当時、聖バルブ学院と契約があり、試験場につかわれていたという。
囲いの門が閉じていて中には入れなかった。
サン・ジュリアン・ル・ポーブル教会  L'église Saint-Julien-Le-Pauvre

柵にコンサートの案内がでている。
Junko OKAZAKIによる「ショパンのもっとも美しい作品 Les plus belles oeuvres de CHOPIN」。
ちょうどコンサートは今夜で、内部を見られるチャンスでもあるが、あいにくその今夜はさいたまゴールド・シアターの公演に重なっていて、諦めざるをえない。

となりに小さな公園がある。
公園の先はすぐセーヌ川で、その向こうにノートルダム大聖堂が見えている。
公園


■ シェークスピア・アンド・カンパニー書店
  Shakespeare and Company Bookstore

シェークスピア・アンド・カンパニー書店 Shakespeare and Company Bookstore
公園のすぐそば、川沿いの道に、シェークスピア・アンド・カンパニー書店がある。

『ビフォア・サンセット』(Before Sunset, 2004)という映画に、この書店がでてきた。
前作の『恋人までの距離』(Before Sunrise, 1995)で、イーサン・ホークが演じる男が、ジュリー・デルピーが演じる女と、ウィーンで出会い、恋する。その後ふたりは離れていたが、その恋のことをイーサン・ホークが書いた本がヒットし、世界各地で講演するうち、この映画のパリではこの書店が会場になる。
そこにジュリー・デルピーが現れて再会して、パリの街を歩きながらえんえんと2人の会話ばかりの映画が進行することになる。

この書店はフランスにおける英語文学の拠点で、別のところにあった初代の書店では、ヘミングウェイやジェイムズ・ジョイス、現在地に移った2代目書店では、アレン・ギンスバーグやヘンリー・ミラーなどが関わっている。
映画にあったように、実際に作家の講演がしばしば開催されているらしい。
映画の中で、講演した作家イーサン・ホークは「ここに泊まっているよ」と語るのだが、これも実際に宿泊施設があって、無名の作家がここに暮らすことも伝統的に続いているらしい。

早い時間に行ったので、店はまだ閉まっている。正面にシェークスピアの似顔絵が描かれている。見上げると、なるほど上の階は共同住宅のように見える。

正面のドアにすりに注意の貼り紙がある。監視カメラが撮影しているという警告もある。
こういう老舗の店でもなかなか物騒なようだ。
シェークスピア・アンド・カンパニー書店 Shakespeare and Company Bookstore

* 坂道を上がる。右側にソルボンヌ。塀があって、キャンパスが広がっていて、奥に校舎がある-というのではなくて、歩道に接していきなり校舎のがっしりした高い壁がある。すぐ下を歩いていると威圧されるよう。
左に曲がるとパンテオン。


■ パンテオン


この高いドームからフーコーが振り子を吊して公開実験を行い、地球が自転しているところを人々に目にみえる形で示した。
今は残念ながら改修工事で中に入れない。
かわりに巨大クレーンが工事用物資を吊して実験を見せている...
パンテオン

■ 聖ジュヌヴィエーヴ図書館と聖バルブ学院
  La bibliothèque Sainte-Geneviève Collège Sainte-Barbe

『街道をゆく』の『南蛮のみちⅠ』で、司馬遼太郎はザヴィエル(1506-1552)とイグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)の関わりを長く説明している。
ロヨラはモンテーギュ学院で、15歳年下のザヴィエルは隣接する聖バルブ学院で学んでいた。ロヨラはザヴィエルを仲間にしようと目をつけるが、ザヴィエルはロヨラを避けていた。
ロヨラは聖バルブ学院に移ってまで接近をはかる。
やがて1534年のある日、ロヨラ、ザヴィエルほか数人でモンマルトルの丘に出かけて、イエズス会結成の誓いをたてることになる。
司馬遼太郎はカルチェ・ラタンの細い小路まではいりこんで、若いザヴィエルが歩いたであろう場所と時代をしのんでいる。

僕はまた司馬遼太郎と須田剋太が歩いたあとをたずねようとしている。関連地をよく見つけられるだろうかといくらか不安があったが、パンテオンの北側に、モンテーギュ学院あと、今は聖ジュヌヴィエーヴ図書館があって、すぐにわかった。

聖ジュヌヴィエーヴ図書館La bibliothèque Sainte-Genevièv パリの歴史案内板

パリでは歴史的ゆかりのある所には、右の写真のように案内標識が立っている。
聖ジュヌヴィエーヴ図書館の前には「パリの歴史-聖ジュヌヴィエーヴ図書館」として説明があって、今さら驚いたのは、ここがアンリ・ラブルーストが1834年に設計した図書館であることだった。

『街道をゆく』の文章を読んでここに来たから、ロヨラだのザヴィエルだのが頭にあって、うかつなことに建築史的観点をそっくり忘れていた。
案内標識には、「厳しい外観の内側には、鉄骨でささえられた2つの大空間があり、国立図書館の先駆けになる」とある。(その国立図書館には最終日に通りかかることになる)。
窓とその上のアーチ形が規則的に並んで、プロポーションが美しい。

       ◇       ◇

聖ジュヌヴィエーヌ図書館に沿って細い道に回りむと、聖バルブ学院になる。
聖バルブ学院は1430年設立の名門校。白鳥洋子『アンリ・ラブルーストの青年期と師匠たち-18世紀の革新性の継承-』によると、ザヴィエルが学んだ時からずっと時代を下ると、エッフェル塔のギュスターブ・エッフェルだの、ドレフュス事件のアルフレッド・ドレフュスだの、『男と女』や『白い恋人たち』のクロード・ルルーシュなんていう人たちもでている。
聖ジュヌヴィエーヴ図書館の隣に、アンリ・ラブルーストは、兄のやはり建築家のテオドール・ラブルーストとともに聖バルブ学院の校舎を設計した。
その校舎は1881年に解体されたあと、ラブルーストの弟子により新校舎が建ち、2009年からは改築工事を経てパリ大学附属図書館になっている。

聖バルブ学院  Collège Sainte-Barbe 中央の扉の上に「Collège Sainte-Barbe」(聖バルブ学院)の文字。右上にある円形はラブルーストの胸像。

『街道をゆく』にしたがって、ロヨラとザヴィエルに関わる宗教的ゆかりの地に来たつもりだったが、建築的名地を訪ねることでもあった。

* 12時にレストランを予約してあるが、まだ早い。
大きな植物園のはしにある建築に向かった。
カルチェ・ラタンの東に広い植物園があって、東の端はセーヌに届き、西の端に進化大陳列館がある。
進化大陳列館・外観

■ 国立自然史博物館・進化大陳列館
  Grande Galerie de l'évolution

このあたりに国立自然史博物館の建築群が点在しているが、進化大陳列館は動物部門のギャラリーが1994年に大改造されて開館した。
第2次大戦の爆撃でいたんでいたガラス屋根を亜鉛材でおおって1966年に閉じていたから、30年近い年月を眠っていたことになる。
オルセー美術館も、[1871-1900年の29年]+[1939-1986年の47年]、あわせて76年も放置されていた。大都市のなかの巨大建築をこんなに長い年数放置しているということが、日本的感覚では信じられないことに感じる。

僕は大改造から8年後の2002年に来たことがある。ほかに人が少なくてひっそりとしたなかを移動しながら、僕が経験したかぎりで至上の空間だと、静かに大興奮した。フランス国内を回ってきて、旅の最後の時間だったが、去りがたく、さあ出ようと決断するのがとてもつらかった思い出がある。
また来られるとは思わなかった。

大きな吹き抜け空間の内部は暗い。
全体には天井から青白い光があるほか、展示物にあてられるのは点光源で、闇のなかに光の点がポツリポツリと浮かんでみえる。
吹き抜けの底に、ほ乳類の剥製がゆるい曲線を描いて、行進しているように置かれている。

進化大陳列館・内部 進化大陳列館・ほ乳類の大行進

松葉一清は「もし、わたしが年端もいかないこどもであったなら、今夜、暗い森のなかで迷子になる夢を見てうなされるのではと案じられるほどだ。」(『パリの奇跡』朝日新聞社 1998)と書いている。

僕が美術館に勤務していたころ、しばしば「暗い」ことへのクレームがあった。白く明るい蛍光灯が基準になっているかのようだった。日本ではここまで暗いミュージアムは成り立たないだろうと思う。

松浦寿輝はこう書いている。

ガラスを多用した空間構成や照明のデザインにおいてもコレクション展示のコンセプトにおいても、フランス的と形容するほかない美的なエレガンスが漂う(中略)
コンピューターの情報検索システムだのホログラフィーだのといった高度な技術を十分取り入れたうえで、往時の博物学に漲っていたあの夢見るような郷愁を漂わせることに成功した画期的な施設(後略)
(『知の庭園-19世紀パリの空間装置』 筑摩書房 1998)

初めてここに来たとき、そうした魅力を僕は改装者の独創的センスだと理解していた。
今度の旅行で、ギャルリ・ラファイエットの吹き抜けとか、ノートルダム大聖堂の薔薇窓とか、パサージュの光をおびたガラス天井とかを見ているうち、いくらか考えが変わった。大きな空間に光と色彩の魅力的な空間を作って、目の快楽を誘う伝統があり、それが松浦寿輝のいう「フランス的と形容するほかない美的なエレガンス」ということだろうかと思った。

前に来たときは人が少なくて内部を独占するようだったが、今日は、日本でいえば小学生とか高校生とかの団体だの、夫婦だの、日本人の若い女性2人連れだの、金曜日の昼間というのに来館者が多かった。
妻も感嘆してひたっていて、2度来たかいがあった。

* パンテオンに戻る。
聖バルブ学院の前の道を通り、左に曲がって、12時に予約しておいたレストランに入った。
聖ジュヌヴィエーヴ図書館からすると、左へ、左へと曲がった角にあり、聖ジュヌヴィエーヴ図書館とは同じブロック内の裏側にあたる。


● ル・クープ・シュ Le Coupe-chou
  http://www.lecoupechou.com/

「この路地を入りましょう」
 と、行進中の須田画伯の袖をとると、画伯は馬車のようにゆっくりと左折し、路地に入りこんだ。
(『街道をゆく 22』「南蛮のみちⅠ」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1984)

須田剋太『キャベツ型の箱レストラン』 ル・クプシュ Le Coupe-chou
須田剋太『キャベツ型の箱レストラン』

こんなふうに、ザヴィエルが歩いたであろうあたりを歩いているうちに、司馬遼太郎一行は角にある蔦におおわれた民家がレストランであることに気がついて中に入る。

第一室をすぎて、わずかに床高(ゆかだか)になった第二室に入ると、壁も柱もいちだんと古くなる。板の床は、歩くたびにわずかに撓(たわ)んだ。なにか探検家になったように、そこを通りすぎて第三の部屋まで踏み入れてしまった。
 第三の部屋は、壁をくりぬいたような小口(こぐち)から入るのだが、石段を二段踏んで降りねばならなかった。(中略)
 店を出てから植野さんにきくと、いちばん奥-私どもがいた部屋かと思われる-が、十四世紀に建てられたものだという。

せっかくパリまで来て、このレストランに予約したからには、その第三の部屋で食事したい。
古い建築物内のレストランだが、ITを取り入れてあって、予約は日本にいるうちにインターネットでした。

店に入って名前を告げると、対応した女性がパソコンを見て予約が入っていることを確認する。そこで須田剋太が描いた絵を見せると、すぐに了解して、部屋2つを通り過ぎて奥の部屋に案内してくれた。 須田剋太『パリのレストラン』 ル・クプシュ Le Coupe-chou 
須田剋太『パリのレストラン』

窓際の席で、ガラス越しに、細かな石で舗装された通りが見える。

レストランのウェブページによると、この店は1962年に3人のコメディアンが始めたとある。芝居がはねたあと、役者や観客が集えるところを作りたかったという。
(オペラ座はちょっと離れているが、僕が知るくらいでは近くにユシェット座がある。
イヨネスコの『授業』をロングランしていて、初めてパリに来たとき見ておもしろかった。渋谷の小劇場ジァン・ジァンでの中村伸郎の『授業』公演は11年続いて終わったが、パリではいまだに連日上演されている。どちらの『授業』も懐かしい。)

『街道をゆく』の文章によると、司馬遼太郎は案内してくれていた人を介して店主の名刺を受け取っている。その後、司馬は名刺をなくしてしまうのだが(したがって文中では店の名前も「キャベツ型の箱」だったように記憶している-とある)、名刺には3人の俳優の名が記されていたのだろう。

ル・クープ・シュ Le Coupe-chouという奇妙な店名は、かつてここが理髪店だったことに由来している。シュchouはキャベツのことで、キャベツ・カッターといった意味になる。理髪店で使うカミソリの職業的ニックネームのようなものだろう。
ウェブページには、金持ちののどをクープ・シュで切って、向かいの肉屋が挽肉にしたとか、ぶっそうなことが書いてある。そんな場面がでてくる芝居でもあるのか、歴史上の事件でもあったのか。
そんなのをレストランの店名にしなくてもよさそうなものだが、役者が始めたとすればなるほどいかにもな選択に思えてくる。

ウェブページに店の歴史が記されているなかにおもしろい話があった。
創業者のうちのひとりの子が、父に創業以来の思い出を聞いた話を書いている。
ビートルズが来たときのこと、夜遅い時間に食事にあわせてミルクを注文されたという。店にないので、近所にわけてくれる人がないか、たずねて回った。
ところが父にさらに細かなことを尋ねようとすると、「あれはローリング・ストーンズだったかな?」と言い出す。聞いていた子のほうは、ロックの悪ガキのストーンズが真夜中にミルクなんて、ビートルズよりありえなそうだと困惑する。
父は「とにかくどちらも店に来たんだよ」というくらいで、結局どちらかはっきりしない。

ザヴィエルが学んだあたりに、ラブルーストの図書館が建ち、その街区でビートルズかストーンズが真夜中にミルクを飲み、アジアからやってきた司馬遼太郎と須田剋太が食事をした。
はるかに歴史が重なっている。

雰囲気も可愛い店員さんもすてき。
料理もワインもおいしかった。
デザートに僕はIle Flottante (Floating Island)(手前)、妻はCrème brûlée(向こう)。「浮島」の大きさにたじろぐが、島はふわふわのメレンゲで意外に軽く、完食した。
Ile Flottante

* いったんホテルに戻る。今日も前半はちょっとした距離を歩きそうなので歩きやすい服と靴でいたのだが、観劇にそのままでいいものかと妻が気にかける。蜷川さんの芝居だから、盛装してオペラ座に行くようなことはないだろうと思うのだが、はずしたら居心地がわるいという心配ももっともなので、ホテルに戻って着替える。といって、たいしたドレスアップではないが。
RERのポン・ド・ラルマPont de l'Alma駅で降りる。


■ ケ・ブランリー美術館 Musée du quai Branly
  http://www.quaibranly.fr/

アメリカでは、歴代大統領は退任後、それぞれの図書館を建てるのが慣例のようになっている。
『巨大建築という欲望 権力者と建築家の20世紀』という本が、富と権力をもつ者の巨大建築志向を扱っていて、第10章はアメリカの大統領の図書館について書いている。
たとえば業績を回顧する映画から始まり、執務室のレプリカがあり、外国の賓客からの贈りものが飾られる。図書館を名乗ってるけど、ホワイトハウスのテーマパークのようらしい。

フランスでは、ジョルジュ・ポンピドゥ大統領がポンピドゥ・センターを作り、ミッテランがルーブル改造などのグラン・プロジェを推進した。
それらにならってシラクが強力にすすめて2006年に開館したのがこの美術館。

ケ・ブランリー美術館 設計はジャン・ヌーヴェルで、パリにはほかにアラブ世界研究所やカルティエ現代美術財団がある。いずれも前回行ったので今回はパスした。
金属板を貼り合わせたような建築が、庭園に浮かぶ船のようにある。

所蔵品はヨーロッパ以外の世界の伝統的な美術品・民具・衣服・装飾品など。
アフリカ・アジア・オセアニア・アメリカと地域を4区分して展示されている。
よくこれほどの造形を思いつくと圧倒されるような仮面や、カラフルな衣服など、写真を撮っていたらキリがないほどにおもしろい。

■ エッフェル塔

ケ・ブランリー美術館を出るとすぐにエッフェル塔区域に入る。

エッフェル塔 塔の足もとに自然なつくりの小さな庭があって、ちょっと驚いた。
展望台に上がるには長い行列ができていて諦めた。
パリには3度目だが、これほど有名なところに初めて間近にきた。上にものぼりたかったのだが、残念。

* 目当ての公演があるパリ日本文化会館は、エッフェル塔から近い。
日本で公演日程を見ているとき、夜8時開演というから真っ暗な道を劇場に向かうことを思い浮かべていた。
でも5月のパリは日没が遅い。まだ夕方というのにも早いくらいに感じる。


■ パリ日本文化会館 Maison de la culture du Japon à Paris
101 bis, quai Branly 75015 Paris
http://www.mcjp.fr/

さいたまゴールド・シアター公演『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』
Corbeaux ! Nos fusils sont chargés !
パリ日本文化会館

若い男2人がコンサートで爆弾を投げた容疑で裁判にかけられている。その青年2人の祖母を含む老女たちが法廷を占拠する。老女たちは、裁判官も検事も弁護士も青年もなまぬるいと批判し、自分たちで判決を下し、死刑を宣告し、執行する。
清水邦夫が書いた戯曲で、初演は1971年だった。
1968年のパリでは、カルチェ・ラタンを拠点にして、学生たちが革命を起こそうとしていた。その熱は世界各地にひろまって、日本でも学生運動が盛んだった。「神田をカルチェ・ラタンに」というスローガンもあって、パリはいわば革命の聖地だった。
そのころ、「敷石の下には砂浜Sous les pavés,la plage.」というスローガンもあった。
舗道の石を剥がして権力に向かって投げる、あるいは解放区をつくるバリケードにする。
敷石を剥がすことが広い自由な海につながる。
とても想像的でそそるスローガンだった。
(余談だが、須田剋太は若い頃、マチエールに強い関心をもった時期があり、夜中に舗装のアスファルトを剥がして警官につかまったことがある。)

『鴉よ..』が初演された1971 年は、革命的熱気が高揚期を過ぎて、閉塞的な袋小路に向かっていたころだった。
ヨーロッパに由来する法制度に安住している体制内の男たちにも、カルチェ・ラタンの運動に刺激されて空虚な言葉を繰り返す青年たちにも苛立って、老女は古い情念をもちだす。

 数百年、数千年前から憎悪で狂っているんだよ、……あたしたちゃ、人間の恥で黒く染まった鴉なんだよ。あたしたちのこころんなかにゃ、人間の骨でけずり、人間の骨でつくった一本の笛が、いつも絹をつんざくように鳴りひびいてるんだよ。それがためにあたしたちゃ死ねないんだよ。その笛の正体を知るまではくたばれないんだよ。その笛が一体なにを叫んでいるのか、血なのか、眠りなのか、それともつかみきれない愛なのか……

ゴールド・シアターの役者が扮する老女と裁判官たちが機動隊の銃撃で倒れると、若いネクスト・シアターの役者たちが扮する若者となって一瞬よみがえる美しい幻を見せて劇は終わる。

僕はどうしても1960年代末期、日本から思うパリの存在の大きさということにこだわりを感じてしまう。この戯曲をパリで上演するからには、当時の時代状況にも関わってパリでどういう反応があるのか知りたいと思っていた。
知り得た範囲で、フィガロと2つのブログで劇評があった。評者はとても高く評価してはいるが、時代状況と絡めた視点がないのがものたりなかった。いずれも初演が1971年であることを承知しているし、青年2人が政治的意図を動機にした事件で裁判にかかっていることもせりふからわかるはずだが、影響を受ける側には影響をもたらしたものへの意識は大きいが、影響を与えた側はさほどに感じていないのはふつうなことで、こういう点で過度な期待をするのはむりかもしれない。

3日間に4回の公演があるうち、僕らは2日目に行った。
この夜も終演時に大きな拍手があったが、初日の興奮はとても激しいもので、拍手に何度も舞台に呼び戻されたということだった。

重本惠津子さんの声は独特で、個人的に知っているからという事情を差し引いても、セリフをしゃべると声だけで「あ、重本さんだ」とすぐわかるほどに特徴がある。
重本さんは虎婆の役だった。被告の青年のひとりの祖母で、のんべえで、前半は一升瓶と茶碗を持って陽気にしゃべる。
長旅の疲れも、初の海外公演ということの気負いも感じさせず、とてもリラックスした動き、セリフの語りようで、驚かされた。
終盤になると調子が変わって孫との切迫して緊張したやりとりがあるのだが、それを見てから前半の場面を思い返すと、また自然な演技にあらためて感じ入った。

       ◇       ◇


僕らが見に行った2日目には終演後にトークーショーがあった。左から司会者、徳永京子さん(ゴールド・シアターをずっと取材されている)、劇団員の重本恵津子さん、遠山陽一さん。
『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』トークショ0

最初の1年の訓練はどういうものかという司会者の質問に対して重本さんがこたえた。
「発声や、体をきたえることや、あらゆるダンスの練習があった。社交ダンス、タップ、琉球の踊りまであり、私は日本舞踊をしたことがなかったので、それがとくに楽しかった。蜷川さんのダンスは、ただ型をまねしていてはいけない。体を動かして表現することが目標だった。」
この夜の芝居でスローモーションで演じられる場面があったが、蜷川さんはスローモーションを重視していて、それ専門の講師がこられたこともあるという。
日本の演劇界での蜷川幸雄とさいたまゴールド・シアターの位置づけなど、簡潔に整理されていてフランス人観客にも有益だったろうし、なごやかで楽しいトークショーだった。

* 外に出ると、まだ空がうっすら明るい。とおりかかった人がエッフェル塔を見あげている。光の点が移動しながら点滅している。ちょうど夜10時で、正時に数分のショーになるようだ。
メトロで、すぐ近くの Bir-Hakeimから乗り、Montparnasse Bienvenueで乗り換えてGare de L'estに戻った。
モンパルナス駅の乗り換え通路がとても長かった。




 第4.5日 1泊2日でロンドンに行く 

6日間のパリ滞在中に、ユーロスターに乗って1泊2日でロンドンに往復した。
→[6月のロンドン]

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 第6日 モンマルトルほか~帰国 

* 朝、東駅の前のホテルをチェックアウトした。帰国の飛行機は夜発なので、それまでもうしばらくパリを歩けるから、トランクを預ける。

* メトロで、東駅Gare de L'estから乗り、Barbès Rochechouart駅で降りる。


■ サクレ・クール寺院

モンマルトルの丘に上がる。ここでみやげものの腕輪を売る男たちはかなり強硬で、立ちふさがるようにして勧めている。
階段を上がって寺院内を見学する。
寺院は高い位置にあり、パリ市街を見渡せる。
サクレ・クール寺院

* 寺院の階段を降りたところで、イボンヌ・ル・タック通りrue Yvonne Le Tacを右にいく。

■ 殉教者サン・ドニ礼拝堂 

通りの左側に、十字架を掲げた礼拝堂が現れる。
1534年8月15日に、ザヴィエル、ロヨラらがイエズス会をたちあげる誓いをたてたところ。
礼拝堂とつながった建物にはイボンヌ・ル・タック校Collège Yvonne Le Tacと標示があって、学校に付属する礼拝堂らしい。

イボンヌ・ル・タック校Collège Yvonne Le Tac 殉教者サン・ドニ礼拝堂

「殉教者サン・ドニと、イグナティウス・デ・ロヨラをしのぶ地下室を、金曜日の15時から18時まで一般公開」と書いた紙が、壁に貼りだしてある。

また別な銘板があって、
「1942年から1944年の間に、残虐なナチとヴィシー政権によって、ユダヤ人であるために犠牲となった、この学校の生徒の記憶のために。」
と始まって簡潔な説明があり、
「決してそのことを忘れない」
と結んでいる。
ここにもパリの街の歴史の積み重なりが見えている。

このあたりを歩いているとき、須田画伯は
「これが、モンマルトルですか」
と困惑したという。ルノワールやゴッホやピカソが呼吸していたモンマルトルという思いがあるのに、司馬の表現では今はたんに「ざっぱくな歓楽街にすぎない」。
2013年に僕らが歩いた印象では、そんなすさんだ感じではなかった。僕らが歩いたのは午前中のまだ早い時間だったからかもしれないし、歩いた道が違うかもしれないし、時が流れて町の様子が変化したかもしれない。

■ アベス駅 Abbesse


アベス駅の出入り口には、いかにもパリの地下鉄という風情のアール・ヌヴォーの装飾がある。エクトール・ギマールのデザインは、こことPorte Dauphine駅だけに現存するという。
アベス駅

乗り場に向かうにはらせん階段を下っていく。左周りに回りながらおりていくのだが、なかなか終わりにならないで、降りても降りても、えんえんと先の階段が現れる。
あとで地下30m以下とパリでは最も低い位置にある駅の1つだったことがわかって、なるほどそうだったかと思った。

* メトロでAbbesse駅から乗り、Saint-Georges駅で降りる。

■ ギュスターブ・モロー美術館

ギュスターブ・モロー美術館 モローが暮らした邸宅が美術館になっている。
かきかけらしいのがかなりある。同時にいくつもの作品を手がけたのか、完成しないまま次へいってしまったのか。


* 南に歩いて、パリらしいパッサージュを2つ通った。
(パッサージュ・ジュフロワとパッサージュ・デ・パノラマ=右の写真)
パッサージュ・デ・パノラマ

■ 国立図書館リシュリュー館 Richelieu-Louvois Library

国立図書館リシュリュー館 パッサージュ・デ・パノラマから南に向かうと、リシュリュー通りにでて、この図書館の脇を通りかかった。
壁がシートで囲われ、大規模な改修工事が進んでいるようだった。
図書館の正面の側にでてもやはり工事中。

ラブルーストによる円形の閲覧室はかねてからの憧れのところ。
この図書館のウェブページに、木曜の午後に館内の見学ツアーがあるとでていた。僕らがパリに着いたのは水曜日で、翌日行ってみようかと思いもしたが、その日はルーブルから始めてミュージアムめぐりに集中して来そこねた。
この工事の様子では、見学も実施してなかったかもしれない。
このあと行ったロンドンの大英博物館の図書館も改修中だったし、久しく気になっていた2つの図書館の両方とも見ることができなかった。
もう次の機会はないかもしれない。

■ パレ・ロワイヤル

中央に直線の並木があり、両脇の建物にレストランや小物などの店が並んでいる。
そのうちのひとつのレストランで昼を食べる。

パレ・ロワイヤル

* 第2日に、ルーブルからオランジュリーに向かったチュイルリー公園をまた歩く。今度は先まで抜けて、オベリスクのあるコンコルド広場にでて、さらに先まで行く。

■ グラン・パレ

グラン・パレは1900年のパリ万博のために作られ、今も展示施設として使われている。
この日は「庭園の芸術-植物の新しい経験」というタイトルの催しが開かれていて、たくさんの木や花がもちこまれていた。
中に入ると鉄骨とガラスで大空間が作られている。天井は、はるかに見あげるほどに高い。

グラン・パレ 外観 グラン・パレ 内部

イギリスに留学した夏目漱石は、ロンドンに向かう途中、ちょうど開催中だった1900年の万博を見ている。
1925年の万博には、山本鼎から留学を勧められてパリにきた井上房一郎が訪れ、大きな衝撃を受けている。
100年前の建築そのものもみごとだが、漱石や房一郎にゆかりのところということにちょっとした感慨がある。

* シャンゼリゼや、ブランドショップが並ぶサン・トノレ通りを、カフェでひとやすみしながらぶらぶら

■ ギャルリ・ラファイエット

そして初日に来たギャルリ・ラファイエットにまた戻ってしまった。
この旅では、パリに来て最初の見物地だったこの百貨店の華やかな円形大空間が、その後あれこれ見たなかでも際立って強い印象として残っている。最後にもう一度訪れるのもわるくない。

屋上から市街を眺める。
旅の終わりに高いところに行って、とまどいながら歩き回った街をふりかえって眺めるというのもいいもの。

パリ風景 須田剋太『パリ街』
須田剋太『パリ街』

右の絵は須田剋太の『パリ街』。
『街道をゆく』の取材で、司馬遼太郎ら一行は、案内を依頼した若いフランス人女性からいきなり「こんなホテル」と嘆かれるようなホテルに泊まった。パリにはいくらも瀟洒なホテルがあるのに、アメリカふう機能主義そのままの高層ホテルを選ばなくても-という思いだったろう。
司馬は「パリを見たり感じたりすることが目的ではなく、不自由を我慢してまで、小粋なホテルに泊まってパリを感じたいというつもりはない。」といくぶん言い訳がましく反発している。
それでも「部屋の窓から見おろすと、エッフェル塔と凱旋門というのが、セットになって一ツ視野におさまっている」商業主義には閉口したと書いている。
須田剋太が描いたのは、まさにそのセットの風景のようだ。中央にエッフェル塔。左にやや突きだしているのが凱旋門。
須田剋太は、若いころ、パリに留学させてやろうという申し出を支援者から受けたことがある。当時、若い画家にとってパリは聖地だったが、剋太は断わって「かわりに妙義山に行きたい」と山にこもった。
それでも剋太にとっても、ゴッホやルノワールがいたパリに特別な思いはあったろう。『パリ街』を見ると、妙義山から長い年月を経てパリにやってきた剋太の思いがしのばれる。

* メトロの Chaussée d'Antin - La Fayette駅からGare de L'est駅まで乗る。
メトロの回数券carnetをちょうど使い切った。
ホテルに預けたトランクを受け取り、東駅からタクシーで空港へ。


■ パリ~成田

僕は飛行機が好きだが、狭い席にとじこめられるのが苦手で、愛憎どちらも深い。海外のどこかの国にいて、これから帰りの飛行機に乗ろうとしている、狭いところで長い時間耐えなくてはならない-というのが、悪夢のパターンになっているくらいで、年に1度か2度見る。
帰りの便であるところがいっそう恐怖で、行きの便ならやめることもできるが、帰りの便では避けることができない。
今回は2人席に妻と並んで席をとってあるので、とても気楽でいられた。

シャルル・ド・ゴール空港で、搭乗口に向かう。 シャルル・ド・ゴール空港

夜8時発で、パリはまだ明るい。
その後もほとんど明るいところを飛んでいた。
スカンジナビア半島の南の海を見おろし、モスクワの北を通る。
日本海を渡って、新潟のやや北あたりから本州に入る。
磐梯山の爆裂火口と猪苗代湖を見おろし、日立あたりの太平洋岸にでて、成田に降りた。

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参考:

  • 『街道をゆく 22』「南蛮のみちⅠ」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1984
    *文中、(Francisco de) Xavierの表記については、『街道をゆく』での司馬遼太郎の表記にしたがって「ザヴィエル」とした。
  • 『アンリ・ラブルーストの青年期と師匠たち-18世紀の革新性の継承-』白鳥洋子 名古屋造形大学紀要 18 2012
    http://www.nzu.ac.jp/~lib/wp-content/uploads/2012/05/50238e4f81ab87a011aa53b267f8e01e.pdf
  • 『新版 空間・時間・建築』ジークフリート・ギーディオン 太田實訳 丸善 1969
  • 『パリの奇跡』松葉一清 朝日新聞社 1998
  • 『知の庭園-19世紀パリの空間装置』 松浦寿輝 筑摩書房 1998
  • 『巨大建築という欲望 権力者と建築家の20世紀』 ディヤン・スジック 五十嵐太郎監修 東郷えりか訳 紀伊国屋書店 2007
  • 『ぼくらが非情の大河をくだる時』 清水邦夫 新潮社 1974
  • 『我らに光を-さいたまゴールド・シアター 蜷川幸雄と高齢者俳優41人の挑戦-』徳永京子編著 河出書房新社 2013
  • 『埼玉アーツシアター通信』no.46 2013.7-8 埼玉県芸術文化振興財団
  • 6泊7日の行程(2013.5/29-6/4)
    (→メトロ・ …徒歩 =タクシー ~飛行機)
    第1日 成田空港~パリCDG=ホテル→ギャルリ・ラファイエット→ホテル
    第2日 ホテル→ルーブル美術館…オランジュリー美術館…オルセー美術館…ノートルダム大聖堂…ポンピドー・センター・国立近代美術館→ホテル
    第3日 ホテル→サン・ジュリアン・ル・ポーブル教会…シェークスピア書店…パンテオン…聖ジュヌヴィエーヴ図書館・聖バルブ学院…国立自然史博物館・進化大陳列館…サンテティエンヌ・デュ・モン教会…レストラン Le Coupe-chou→ホテル→ケ・ブランリー美術館…エッフェル塔…パリ日本文化会館→ホテル
    第4.5日 (1泊2日でロンドン→[6月のロンドン] )
    第6日 ホテル→サクレ・クール寺院…殉教者サン・ドニ礼拝堂…アベス駅→ギュスターブ・モロー美術館…パッサージュ・ジュフロワ…パッサージュ・デ・パノラマ…国立図書館リシュリュー館…パレ・ロワイヤル…チュイルリー公園…コンコルド広場…プチ・パレ…ギャルリ・ラファイエット→ホテル=パリCDG~
    第7日 成田空港着