2012夏文学の集い 窪島誠一郎+坂本哲男

(2012.8.5)
埼玉県のアーティストの業績をまとめた本などを発表されてきた坂本哲男さんが、埼玉県文化団体連合会から文化選奨を贈られ、さいたま文学館で受賞講演があった。
あわせて信濃デッサン館・無言館の館主の窪島誠一郎氏の記念講演もあった。

[2012夏文学の集い]
開催日 2012.8.5(日) 
主 催 埼玉県文化団体連合会文学部+さいたま文学館
会 場 さいたま文学館


窪島さんは、22歳の若さで亡くなった村山槐多(1896-1919)にほれんこんで、1979年に信濃デッサン館を開館した。
須田剋太(1906-1990)も村山槐多に憧れた人だった。
本名は勝三郎だが、槐多(かいた)にあやかろうと剋太(かつた)と名乗った。
ところが、多くの人が「こくた」とよぶうち、「すだこくた」になってしまったという。

須田剋太は1930年代ころ、浦和の別所沼畔に暮らした。
そのころ、別所沼付近には画家や文学者がおおぜい暮らしていたが、そのうちのひとり、詩人の神保光太郎が須田剋太のことを詩にしている。

 湖畔の人  神保光太郎 

あの沼の畔(ほとり)に
ひとりの画家が棲んでいる

蜥蜴(とかげ)のように
いつも黙り込んで
暗の画ばかり描いている
(中略)
あの人が
なにか神聖なもののやうに
愛しい憶ひ出のやうに
もちいているわづかなグリーン
この色が
あの暗さの救ひなのだろうか

過ぎ去ったかなしみを深く沈めて
ひっそりと灯る
伝説のやうなグリーン
あのひとは
今宵もひとり
この色と語りあっていたらしい

どうだ 南の海に行って見ないか
僕のこの問ひに
あの画家は
やはり
蜥蜴のように黙っていた


同じ頃、立原道造(1914-1939)も神保光太郎ら別所沼に暮らす文化人と親しい交際をしていた。立原道造は建築家でもあって、自分もそこに暮らすことを夢見て「ヒアシンスハウス」と名づけた小さな小屋のデッサンを描いている。
でも実現しないまま若くして亡くなってしまった。

坂本哲男さんたちの努力により、立原のスケッチをもとに別所沼畔にヒアシンスハウスが建ったのは2004年。
(→[別所沼のひとたち-須田剋太、神保光太郎、立原道造、秋谷豊])

窪島誠一郎さんは立原道造のパステル画のファンであり、長野県上田市の信濃デッサン館に立原道造記念展示室をつくり展示している。
須田剋太の郷里の埼玉県鴻巣市では、毎年秋に須田剋太の作品展が開催されている。
80年前のアーティストのつながりが今も生きているのを、浦和や上田や鴻巣で見ることができる。

       ◇       ◇

窪島さんの講演は、これまで関わってこられたアートについて、自身の生涯とかさねながら話された。
夭折の画家や詩人・建築家。
戦争に兵士として行って帰らなかった画家。
父・水上勉との関係。
どれも涙を誘うようなことがあるのだが、どっぷりとひたる方向に進んでしまわずに、クライマックスの直前でふっとユーモアをまじえる。聴いているほうは涙ぐみそうになったり、おかしくて笑ったり。
絶妙な講演だった。

       ◇       ◇

坂本哲男さんは埼玉の画家3人-斎藤与里、古川弘、須田剋太-をとりあげて紹介した。
坂本さんの話も、美術評論的難解さとは無縁で、江戸っ子の世間話ってこんなかと思わせるほどに簡潔で歯切れがいい。
「須田剋太は書も書いた。イキオイがあるってば、ある。やきものにも手を染めた。キヨーってば、器用。」といった具合。

須田剋太の短歌を1つ紹介された。

行く雲の帰らぬ如く吾も亦
  大和路越えて消えも入りなむ

須田剋太は、埼玉県鴻巣市で生まれ、浦和へ、奈良へと移動し、後半生は兵庫県西宮に住んでそこで亡くなった。
がむしゃらに芸術ひとすじに生きた画家といっていいが、坂本さんは和歌に目をとめ、須田剋太の叙情性も読みとっている。

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参考:

  • 『鼎と槐多 わが生命の焔 信濃の天にとどけ』 窪島誠一郎 信濃毎日新聞社 1999
    『異彩を放つ画家たち 埼玉ゆかりの画家を中心として』 坂本哲男 中央公論事業出版 2010
    『神保光太郎全詩集』 神保光太郎 審美社 1965
  • 信濃デッサン館は2018年3月から休館している。