東日本大震災後の宮城・岩手の海岸-「仙台・石巻」2 (2013)
東日本大震災のあとの海べがどんなふうになっているのか気になる。
ボランティアをするわけでもなく、ただ見に行くというのは気がひけるけれど、『街道をゆく』「26仙台・石巻」に須田剋太が描いた風景をたどりながらあわせてめぐってみることにした。
第1日 仙台と周辺 [阿武隈川河口・荒浜小学校 貞山堀 竹駒神社 仙台空港 名取市図書館 名取川河口 仙台(泊)] | |
第2日 西へ、松島・石巻・女川 [多賀城趾 塩竃神社 御釜神社 菅野美術館 塩釜港 石巻ハリストス教会 女川(泊)] | |
第3日 北へ、気仙沼・岩手県大船渡 [女川町町民野球場仮設住宅 女川河口 雄勝湾 北上川河口 南三陸町防災対策庁舎 気仙川河口・奇跡の一本松 リアスホール岩手 盛川河口 大船渡(泊)] | |
第4日 内陸へ入り仙台に戻る [中尊寺 毛越寺 魯迅の下宿] |
* 東日本大震災から半年ほどあとにも石巻と仙台に行ったことがある→[東日本大震災後の石巻と仙台-「仙台・石巻」1 (2011)]
第1日 仙台と周辺 [阿武隈川河口・荒浜小学校 貞山堀 竹駒神社 仙台空港 名取市図書館 名取川河口 仙台(泊)] |
* 新幹線で仙台駅に着く。6月末というのに、うっすら肌寒い。
仙台駅の近くでレンタカーを借りて、南へ向かう。
『街道をゆく』「26仙台・石巻」では、司馬遼太郎一行は、仙台空港からまず阿武隈川の河口に向かっている。
僕のこの旅も、阿武隈川の河口から始めて、じょじょに北上することにした。
■ [河口ビューイング/阿武隈川]
宮城県岩沼市・亘理町
1時間ほどかかって阿武隈川の河口右岸に着いた。
こまかい霧のような雨が降っている。
河口の先端を見てみたいが、堤防を工事中でなかなか近づけなかった。
須田剋太『阿武隈川』 |
ここらが元はどんな風景だったか、初めてきた者にははわからない。
旅から帰ってから手に入れた『津波被災前・後の記録 2011.3.11東日本大震災 宮城・岩手・福島航空写真集』を見ると、阿武隈川の河口付近の写真ものっている。
右岸は半島状の地形だが、被災前の写真では、中央に緑色に田があり、それを取り囲むように人家がある。人家は狭い区域なりに密集している。
被災後の4月に撮られた写真では、中央の田には作物はなくて、一面の土の色に写っている。その周囲の人家は、海岸に近いあたりは全滅で、やや離れたところでもポツポツと残っているくらい。
今は堤防とその内側の土地をまず整備するための工事が進められていて、ダンプカーやショベルカーが動いている。
大震災の半年ほどあと石巻に行ったとき、暑い時季なのに水を十分に用意しないまま歩き出してしまったら、のどが渇いて困ったことがある。店もないし、自販機もない。 ここでは2年経って、店はなくても道に自販機が置かれるくらいには回復していた。復旧工事の人たちには心強いだろう。 |
『街道をゆく』の「仙台・石巻」の取材で、仙台空港で降りた司馬遼太郎は、タクシーに乗ってまず、
「阿武隈川の河口の荒浜(地名)まで行ってください」
と、南に向かっている。
河口あたりを走っていて、その地名の荒浜小学校を通りかかった。
このあたりには高台はないし、高いビルもない。東日本大震災ではこの学校が大勢の人を救った。地震が起きたとき、低学年の児童が帰りかけているところだったのを呼び戻し、上の階に行かせた。地域の人たちも避難してきた。すっかり水に囲まれたが、この校舎の屋上までは水がこなくて助かった。
校庭で少年たちがサッカーをしている。校舎の陰でおとうさんやおかあさんが見守っている。元気な子どもの姿を見ると、なんとなしほっとする。 校地のかどに「津波襲来の地」の碑が立っていた。 |
* 亘理(わたり)大橋を越えて阿武隈川の左岸にいく。
■ 貞山堀(ていざんぼり)
貞山堀は伊達政宗が仙台の米を運ぶために掘らせた運河で、海岸線に並行してここから北に長くのびている。
ここを訪れた司馬遼太郎は、亘理大橋の上で景色を眺めて、運河に気づく。
ゆったりと水をたたえ、片側が防風林で飾られている。幅は、存外ひろい。 「これは、もしかすると、貞山堀じゃないですか」 運転手さんにきくと、そうだという。 私はひと目、貞山堀をみたいとおもっていたが、おそらく開発などのため消滅しているのではないかと思っていた。ともかくもこれほどの美しさでいまなお保たれていることに、この県への畏敬を持った。(『街道をゆく 26』「仙台・石巻」 司馬遼太郎。以下引用文について同じ。) |
司馬遼太郎は開発などで運河がなくなっているかもしれないと予想していたのだが、僕は地震と津波に襲われたあとでも元のようにあるだろうかと危惧して来た。
岸を支える杭や、運河を渡る橋など、部分的にいたんだところはあるが、運河はしっかりと残って、水をたたえていた。
須田剋太『貞山堀』 |
* 海から離れて内陸に向かい、岩沼市街に入る。
■ 竹駒神社 瑞鳳殿
宮城県岩沼市稲荷町1-1 tel.0223-22-2101
ここで須田剋太は竹駒神社の山門を描いている。
須田剋太『竹駒神社岩沼市』 |
司馬遼太郎はこんなふうに描写している。
まちのなかに竹駒神社という古社があって、その鳥居の前の街道が古街道である。同時に、目抜き通りでもある。しかも今様(いまよう)のナントカ銀座といった商店街ではなく、両側に土蔵造り、ナマコ塀の商家が何軒かのこっている街並で-むろん全体としてはただの近郊商店街ながら-古格な印象を与えている。 |
それから30年近く経つが、今もほぼこの文章のとおりに落ち着いた風情がただよってはいる。でも惜しいことに、表通りには土蔵やナマコ塀は見あたらなくなっていた。
それでも道をそれると、ときたま蔵を見かける。
須田剋太は蔵が連結したような家を描いている。かなり特徴がある蔵だから見つけられそうに思ったのだが、通りを行ったり来たりして探しても、似たような蔵はあってもどうも違う。何人かの人にきいたが、はっきりこれと思いあたってくれる人はなかった。
須田剋太『岩沼市民家』 |
■ 岩沼市民図書館
宮城県岩沼市二木2-8−1 tel.0223-24-3131
竹駒神社の近くに新しい図書館がある。 地震があったのは、開館前の準備のときだったという。 建物は無事だったし、本はもとの図書館から運びこまれたところで箱詰めになっていて、書架から崩れ落ちるような被害もなかったという。 |
東日本大震災のとき、僕は埼玉県北部の図書館にいた。それだけ離れたところにいても、大量の本が書架から落ちた。
ここは地震にあたっていちばん運がよかった図書館といっていいかもしれない。
* ふたたび北の海側に走る。
■ 仙台空港
宮城県名取市・岩沼市
地震のときには、空港が水に囲まれて孤立している様子を空から撮った映像がしばしば流れた。 今はすっかり復旧している。 このレストランで仙台名物の牛タン定食を食べる。 |
屋上には展望デッキがあり、のんびりひと休み。
小さなこどもを連れたおかあさんやおじいちゃん、おばあちゃんが幾組かいた。
こどもを遊ばせるのにいい所ともいえるが、もしかするとほかに適当な遊ばせ場所がなくなっているのかもしれない。
展望デッキからは右に海が見えた。近い。
その手前に水の流れがあり、貞山堀のようなので見に行った。
■ 貞山堀-2
飛行場では、滑走路の延長上に、飛行機を滑走路に導く誘導標識が並んでいる。
仙台空港のそばの貞山堀を見に行くと、堀と誘導標識の列とが、ほぼ90度に交差していた。
貞山堀は、堀自体は大丈夫だが、堀を越える橋や街路灯が歪んだり倒れたりしていた。そんな写真を撮っているときに轟音がするので見あげると、さおを伸ばせば届きそうな高さで飛行機が降りてきた。 こんな場所にいていいのだろうか!!と一瞬とまどうほど。 |
でも、まわりにも数人の人がいる。
こんなところでプラプラと何をしてるのだろうといぶかしかったのだが、すぐ上を飛行機が飛ぶ姿を眺めにきている人たちだった。
* また内陸部の名取市街に向かう。
途中で「閖上さいかい市場」という復興商店街に寄る。「閖上=ゆりあげ」という地名はこちらに来て初めて知った。むずかしい。
■ 名取市文化会館/HAUS DER HOFFNUNG 希望の家
宮城県名取市増田柳田520
名取市文化会館に着くと「しまじろうコンサート おとぎのくにのだいぼうけん」の昼の部が終わったところで、子ども連れの家族が次々と出てくる。
この敷地内に、槇総合計画事務所の設計による「HAUS DER HOFFNUNG 希望の家」がある。東日本大震災の被害にたいして、ドイツの財団から寄贈された。
木を多用した室内には数組の机や椅子が置かれ、親子連れのひとやすみどころといった使い方をされているようだ。
■ 名取市の図書館
宮城県名取市増田1-7-37 tel.022-382-5437
名取市立図書館は、東日本大震災で被害を受けて解体された。
今は「どんぐり・アンみんなの図書室」と「どんぐり子ども図書室」という木造2棟がつながって、市の図書館になっている。
日本ユニセフ協会やカナダ政府からの資金援助、東海大学の震災復興住宅建設のノウハウ、作家からの本の寄贈など、いろんな力が結集してできた。
館内に入ると木の香がする。
書架や椅子は登米市の林業関係者の協力で作られたという。
簡素だがあたたかい感じがする。
名取市立図書館は、東日本大震災で被害を受けて解体された。
今は「どんぐり・アンみんなの図書室」と「どんぐり子ども図書室」という木造2棟がつながって、市の図書館になっている。
日本ユニセフ協会やカナダ政府からの資金援助、東海大学の震災復興住宅建設のノウハウ、作家からの本の寄贈など、いろんな力が結集してできた。
館内に入ると木の香がする。
書架や椅子は登米市の林業関係者の協力で作られたという。
簡素だがあたたかい感じがする。
仙台空港は名取市に位置していて、空や飛行機に関わる本を集めた書棚があるのもいかにもこの地域らしくていい。
* ジグザグに北上していて、また海に向かい、名取川の右岸の河口に着いた。
■ [河口ビューイング/名取川]
レンタカーのカーナビの地図は震災前のデータで表示されている。
ナビ画面では、河口に向かう道の右側に寺が表示されている。その寺の前を通ると、外形は残っているが、中は壊れている。
寺の周囲にはがらんとした平らな地面が広がっているが、『津波被災前・後の記録』の写真を見ると、このあたりも震災前は家が満ちていた。
岸壁では改修工事が行われていた。
名取川の右岸河口。 岸壁のうえに釣り人が点々といる。 どんより曇っていて、空も海も物憂い。 |
対岸(左岸)の眺め。 貞山堀が先(北)に延びている。 |
右岸から内陸方面を振りかえる。 どこにでもありそうな石の川原に見えるが、震災前は住宅地だった。 小さな石を積んで、亡くなった人を悼む花が供えられている。 向こうの水の流れは右岸側の貞山堀で、その先にポツンとあるのは、さっき通ってきた寺の廃墟。その周囲も住宅地だった。 |
* ようやく仙台市内に戻った。
宮城野区福田町南1丁目公園の仮設住宅団地内にみんなの家がある。
■ みんなの家
宮城県仙台市宮城野区福田町南1丁目
建築家、伊東豊雄氏が提案した集会施設で、熊本アートポリスの1事業として実施された。ほかに、くまもとアートポリスアドバイザーの桂英昭、末廣香織、曽我部昌史の各氏が加わり、分担して共同設計にあたった。
現代日本の先端をいく建築家が切妻屋根の家を建てたということも話題になった。
この仮設住宅は市街地の公園のなかにある。花壇など公園部分を残しているから気持ちのうえでも余裕があるように感じられる。 |
● ホテル シーラックパル仙台
宮城県仙台市若林区六丁の目東町5-12 tel. 022-288-8639
みんなの家から車で数分、仙台東I.C.の近くにあるホテルに泊まった。
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第2日 西へ、松島・石巻・女川 [多賀城趾 塩竃神社 御釜神社 菅野美術館 塩釜港 石巻ハリストス教会 女川(泊)] |
* 曇ってはいるが、雨の気配はない。
まず多賀城趾に向かった。
多賀城市街の北、丘の上にあり、坂道を上がって駐車場に車を置く。
■ 多賀城趾
宮城県多賀城市市川
駐車場からは丘のなかの遊歩道のような具合に道がいくつかある。
犬と散歩する女性が通りかかったので、ここで須田剋太が描いた2点の絵(『多賀城』と『多賀城跡』)のコピーを見てもらって場所をたずねた。
さあ?と困惑している。
「よく歩いているところなのに、思い当たるところがない。」
須田剋太が描く風景からは、これまでもしばしば謎をかけられてきた。
年月を経て風景が変わっていることもある。
須田剋太自身の創作上の操作でわかりにくくなっていることもある。正面に見える景色と左に見える景色をまとめて1つの画面におさめたり、遠近法を無視して遠くのものが大きかったりとか。
今日の謎は解けるだろうかと、なかば不安になり、なかば楽しみになって、ひとまず多賀城碑への案内表示がでているほうに向かった。
須田剋太『壷の碑』 |
細い道を横切った先に、こんもり高くなった土地があり、木の囲いでおおわれた石碑がある。格子のあいだからのぞいてみると、すっきりして近代的な印象のある文字が並んでいる。
城趾の中心の国庁あとへの大階段を上がる。修復工事中だが、部分的に囲われているだけで、入れる。丘の最上部の国庁だけでなく、丘全体が歴史的遺構として保存されていて、広々した眺めにはるかな気分を誘われる。
須田剋太がここで描いた絵には、「北西門へ」という案内板が描かれている。
須田剋太『多賀城』 |
国庁の北西は大階段の左奥だろうと見当をつけて、大階段をもう一度降りて(その降りたところが右の写真)、左にそれる細い道に行ってみる。
でもそれらしい景色は見つからなかった。
こちらの絵でも『多賀城跡』としっかり文字がかきこんである。駐車場で出会った散歩の人にこの絵も見てもらったのだが、見当がつかないとのことだった。 | ||
須田剋太『多賀城跡』 |
これほど特徴があるところをいつも散歩している人が見逃すはずはないし、これほど大きな史跡がすっかり様子をかえてしまうとも思えない。
この2点の絵に須田剋太がかけた謎はとけなかった。
* 多賀城市の市街地に、古今集に読まれた和歌にある歌枕の地が2つある。「沖の石」と「末の松山」で、道路にはそこに導く案内標識があり、町なかにしてはかなり広い観光用の駐車場もあった。
■ 沖の石
宮城県多賀城市八幡
駐車場から住宅街を歩いていくとまもなく「沖の石」にでた。 池があり、そのなかに石組がある。 |
二条院讃岐の歌「わが袖はしほひに見えぬおきの石の人こそしらねかわくまぞなき」(千載和歌集)から、ここが歌枕の地とされた。
芭蕉が歌枕の地をめぐった『奥の細道』の旅で訪れてもいる。
大震災ではここまで水がきたという。
■ 末の松山
宮城県多賀城市八幡
坂を上がると末の松山がある。短い距離だが、ちょっとした高低差がある。
古今和歌集に「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波もこえなむ」とあって、「そんなことはない」という意味のたとえにされている。
都で詠まれた歌のなかで比喩に使われるほど、当時から遠い東北の小さな松山に津波のイメージが重なっていたことになる。
3.11の大震災では、さすがにここまでは水が上がらなかったという。
芭蕉が旅したころ、多賀城趾からこの末の松山が見えたと随行した曽良の記録にあるそうだが、今は市街地に埋もれている。 今の末の松山からは、(紳士服の)青山とか、タイヤ館とか、全国チェーンの店の看板が目立って見える。 |
* 多賀城市と塩竈市は面積が小さい。多賀城から塩竃へは車だと短時間で着いた。
■ 塩竃神社・塩釜神社博物館
宮城県塩竈市一森山1-1 tel. 022-367-1611
塩竃神社は陸奥国一宮で格式高い神社。 あいにく本殿は白く覆われて改修工事中だった。
須田剋太『塩釜神社本殿』 |
博物館で須田剋太が鋳銭釜(いせんがま)の絵を描いている。
館内にあるのかと思っていたが、外にあって、屋根が架けられている。
須田剋太『塩竃神社博物館』 |
塩竃神社は市街地より一段高い位置にある。僕は駐車場のある東のほうから段々に上がって行ったのだが、戻るときは、本殿の正面からいっきに下る階段を降りた。
上がる人は、いくどか立ち止まったりして息をつぎながらすれ違っていく。
須田剋太『塩釜神社陸奥一宮』 |
■ 御釜神社
宮城県塩竈市本町6-1 tel.022-367-1611
塩竃神社を降りて数分歩いた先、細い商店街に小さな神社がある。
塩を焼く神事につかう釜がまつられている。
手前の社務所の呼び鈴を押すと、女性が現れて、錠をあけてくれる。
地面に釜が4つ設置されている。地面に接するところを石で囲ったうえに、鉄さびの色の釜がはまっている。
鉄さびをとかしたかのような赤っぽい土色をした水がたまっている。「まわりの樹木の手入れをして葉が落ちたのですくって水が濁ったが、ふつうは澄んでいる」という。
右の写真の中央、木の扉を開くと左の須田剋太の絵のように釜がある。(御神体なので撮影は禁止だった。)
須田剋太『お釜神社』 |
『街道をゆく』の取材で司馬遼太郎一行もここを訪れて案内してもらっている。
格子戸をあけると、中年の陽気な奥さんがとびだしてきた-としか言いようのない活発さだった。 |
その方は大震災のときはまだここにいなかったのだが、「このあたりまで水が来たが、釜をおおうほどではなかったときいた」とのこと。
別なことで震災の数日後に塩釜に来たことがあり、近くの一番館というビルの1階の背丈くらいのところまで水の跡があったという。
その一番館に寄ってみた。 塩釜市立図書館などが入っている。 中を歩いて、背丈ほど水があったという情景を想像した。 |
* 神社の駐車場に戻って車にのり、こんどは塩釜駅前のエスプ塩釜の駐車場に車を置いた。
■ エスプ塩竃
宮城県塩竈市東玉川町9-1 tel.022-367-1020
塩釜駅のすぐ向かい側にある生涯学習施設。 『月刊漫画ガロ』の初代編集長から寄贈された資料による長井勝一漫画美術館がある。 長谷川逸子設計の建築ということにもひかれる。 月の末日で休館日で入れなかった。 |
* エスプ塩釜の駐車場に車を置いたまま、駅の反対側にある美術館に向かう。また休館日ではがっかりするから電話してみると「開館している」とのこと。
地図で見れば駅から西へ、遠くなさそうに思えた。
ところが地図ではわからないことだが、かなりな坂道。
晴れてきていて汗をかいた。
■ 菅野美術館
宮城県塩竈市玉川3-4-15 tel. 022-361-1222
塩釜市街をみおろす斜面にコールテン鋼でできた立方体の建築物があった。 |
グレコ、デスピオ、ファッツィーニなど、8人の作家の彫刻を展示するために、8つの小空間がある。それらが明確な何階というふうではなく、小さな高低差ずつめぐるようにムニュムニュと積層している。
白く塗られた内部を、階段を上がり降りしながら進んでいくと、平衡感覚が狂って、たまにクラっとする。
細長い台座に彫刻が置かれていて、ふつうでもうっかりふれて倒してしまいかねないようなあやうい感じに見える。
大震災のときどうだったかきいてみると、台座ごと床を滑って無事だったという。
美術館は古い歴史がある小さな市にあって、ユニークで現代的で、きらっと小粒で輝いている。
* ひるどきになったので、塩釜港にある商業施設に向かった。
いつくつか駐車場があるが、近いところは「満」で、じょじょに遠くにいって、ようやく駐められた。
● マリンゲート塩釜
宮城県塩竃市港町1-4-1 tel.022-361-1500
港ぎわのにぎわい施設で、レストランや海産物の店がいくつも入っている。まぐろの解体ショーなんかもあって、家族連れでにぎわっている。
いちばん近くて広い駐車場の一部に「しおがまみなと復興市場」があり、おもに海産物を売っていた。
須田剋太『塩釜港』 |
* 名勝の地の松島に向かう。
海岸沿いの道を行くと、観光地松島の中心部よりずいぶん手前から道が渋滞している。
■ 瑞巌寺
宮城県宮城郡松島町松島町内91 tel.022-354-2023
司馬遼太郎は『街道をゆく』のなかで、松島町での芭蕉への薄っぺらな態度について、かなりのページを費やして厳しい意見を記している。
このように述べつづけているのは、べつに松島をおとしめているわけではなく、むしろ、 「古きよき松島よ、たじろぐな」 と言おうとしている。 さらには、観光というのは、本来高い精神でとらえるべきだということも、共に感じたい。 松島の美は古典文学によって成立している以上、観光案内や設備も、そのことに徹せねば、あられもないことになってしまう。 |
たしかに古い歴史や美しい景色があっても、「観光地」となると、えげつない看板やみやげもののレベルにおちこんでいて興ざめになるところは全国にいくつもある。
大震災でここも被害を受けたが、もとの活気を取り戻しているようだ。
歩く人も多いし、店もにぎわっている。
このあと三陸海岸を大船渡まで北上したが、以後はこんな人出には出会わなかった。日曜日だったとはいえ、マリンゲート塩釜と松島だけにぎやかに混んでいて、どうしたことだろうと不思議な気がするほどだった。
須田剋太『松島』 |
* 東に走って石巻市に入り、石ノ漫画館の駐車場に車を置いた。
■ [河口ビューイング/旧北上川]
このあたりには大震災前の2006年と、大震災後まもなくの2011年7月に来たことがある。
須田剋太『石巻ハリストス正教会』 |
石ノ森漫画館が旧北上川河口の中瀬にある。
被災後にしばらく閉まっていたが、復旧して開館していた。(右の写真の左の円盤状の建築)
となりの石巻ハリストス教会は津波にあっても外形は残ったが、中がすっかりさらわれていた。所有者は復旧する意向で、今は工事のためにシートでおおわれている。
すぐ横に波で運ばれた船があったが、撤去されていた。
(→[東日本大震災後の石巻と仙台-「仙台・石巻」1 (2011)])
(追記:2018年に同じ場所に復元工事が完了し、2019年から公開された。)
中瀬では、破壊された建物や、一部が欠けた自由の女神像は、まだそのままだった。 左の写真は中瀬の先端。まだ津波で破壊されたままの状態だった。 対岸に日和山があるが、今日はそこまでは行かないことにする。 |
中瀬から橋を渡って市街地に入ると、津波直後のようななまなましい傷跡は目立たなくなったが、空き地が多くなっている。
1階で営業する店がチラホラ現れてきている。
「ピースボートセンターいしのまき」というのがあって、ボランティアの手配などもしている。
「石巻まちなか復興マルシェ」で、コーヒーを飲んでひと休み。 |
* 女川に近づくと、道ばたに横倒しに倒れたビルがある。
前は市街だったらしき所が、新造成地のような具合で、道と、そうでないところとの境界があいまいになっている。ロープで区切られていたり、それさえなくて舗装されているのでかろうじて道とわかるようなところもある。
工事用の車やショベルカーがあちこちに見える。
夕暮れが近いし、またときおり霧雨もふりだした。どんより重苦しい時間に通りかかったので、なおさらむごいような強烈な印象を受けた。
● エル・ファロ EL FARO
宮城県牡鹿郡女川町清水町* tel. 0225-98-8703
航空写真で見ると、三陸海岸では陸地が歯車の先端のようにギザギザに海に迫り出している。海ぎわまで山地が迫っていて、人が住めるところは少ない。海岸近くの狭い平地と、狭い谷沿いの低地に人が集中している。
津波が襲ったら、波は谷に沿って高みを増してさかのぼることになり、被害が大きくなる。
エル・ファロも女川の谷をさかのぼった位置にある。 山の斜面に囲まれた谷間の造成地に、いろとりどりのトレーラハウスが並んでいる。 周囲の人家はすっかりなくなっていて、土地の造成工事が行われているところだった。まだ固定した建築物は建てられないので、トレーラーハウスをいくつも並べてホテルに作られた。 |
近くに作業員宿舎が数棟並んでいる。宿の人の話では「初めは測量の人が来て、今は土木の人。このあとがようやく建設になる。」
震災後2年経つが、まだこういう状態なのかと、先の遠さが思いやられる。
地域によっては高台に移るか、海の近くに住み続けるか、基本の方針が決まらないところもあるらしい。こうして作業が進んでいるのはまだしもなのかもしれない。
トレーラハウスの中にはツインベッドがあり、バス、トイレにソファにテーブルもある。じゅうぶんにゆったりしたツイン・ルームにできている。
事前に予約しておいた夕食をレストランでとる。
「家庭料理みたいな簡単なものです」ということであまり期待していなかったのだが、温かく、おいしく、貧弱でなく、豪華すぎず、ひとり旅には理想的といっていいくらいの食事だった。
同じ時間のレストランで見かけたのは、中年男性3人組(きこえてくる話の様子では、しばしばあちこちに揃って旅行しているらしい)、中年女性3人組、中年夫婦1組(かなりの頻度で酒を追加注文している)だった。過酷なロケーションにあるのに、ふつうの観光客っぽい人がふつうに楽しそうに食事しているのが意外でもあり、ほっとする感じでもあった。
(追記:このホテルは2017年に女川駅近くに移転した。)
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第3日 北へ、気仙沼・岩手県大船渡 [女川町町民野球場仮設住宅 女川河口 雄勝湾 北上川河口 南三陸町防災対策庁舎 気仙川河口・奇跡の一本松 リアスホール岩手 盛川河口 大船渡(泊)] |
* 今朝も雲が多いが、雨はなさそう。
エル・ファロの近くの丘にあがると、町の運動公園があり、そのなかに仮設住宅がつくられてあった。
■ 女川町町民野球場仮設住宅
宮城県牡鹿郡女川町女川浜
リアス地形で平地が少ないので、女川町では運動公園にも仮設住宅がある。
そのうち野球場のグランドには、坂茂氏によるコンテナを重ねた仮設住宅が作られた。
2層3層に積み重ねることで土地を有効利用できるし、隣の物音や結露に悩まされることもないという。
左の青い壁はスコアボード。手前の緑色は外野の芝生席。 仮設住宅はグランドにある。 |
ちょっと見には、仮設住宅には見えないし、なまはんかなアパートより住み心地がよさそう。仮設でなくてもいいのではと思えるほどだった。
運動公園では永住のための住宅も建設中で、工事用のフェンスに女川原発の広告が描かれている。
「明日のエネルギーを担う 原子の灯りのふるさと女川町 陸上競技場は昭和63~平成元年に電源立地促進対策交付金で整備された施設です。」と書いてある。 仮設に住む人はこの前を毎日通ることになるが、どう受けとめているだろう。 |
* 海岸近くまで戻る。
きのうは夕方だったので通り過ぎた女川港ふきんを歩いてみた。
■ 女川港 [河口ビューイング/女川]
宮城県牡鹿郡女川町宮ケ崎
コンクリート造りの4階建てのビルが2棟、横倒しになっている。
1棟は倒れたうえに、元の位置から10メートルほども移動しているという。
津波は容赦なく圧倒的に強い力で陸に襲いかかり、またすさまじい力で引いていく。
すぐそばにビルについて説明した案内板が立っていた。今後もこのビルを保存すべきかどうか、意見を求めているとあった。
保存してほしいと思う。
女川町地域医療センターがある高台から港方面をのぞむ。 |
* 面積の大きい石巻市が、小さい女川町をつつみこんでいる。それで女川から北に向かうと、ふたたび石巻市(旧・雄勝町)に入る。
雄勝湾の南岸を西へ(海からすれば一番奥に)向かって車を走らせる。
■ 雄勝硯伝統産業会館 [河口ビューイング/大原川]
宮城県石巻市雄勝町雄勝
雄勝湾の最奥部に(陸からすれば大原川の河口に)三角形のシャープな印象の建物が建っている。遠くからはふつうに見えたが、近づいてみると外壁が剥がれているし、内部も破壊されている。 三角の建物は、もと雄勝硯伝統産業会館。 周囲にあった街並みは壊滅しているなかで、背の高い建物なのに外形だけでもよく残った。 |
■ 新山神社・雄勝小学校
宮城県石巻市雄勝町雄勝
すぐそばのやや小高いところに新山神社がある。最近再建されたと新聞記事で見た。 小さな社殿で、近づくとまだ木の香がする。 |
神社から大原川の河口方面をみおろす。
被災前の写真によれば、すぐ右に小学校、その先に中学校があり、人家が取り囲んでいた。
左の写真の中央から右にかけて、半円形に地面が白くなっているあたりがおそらく小学校があった所。小学校の校舎は津波でも大枠は残ったが、その後すっかり解体された。
左下に体育館があり、右の写真はそのへんの拡大版。たぶん体育館の外の屋外手洗い場で、かつてここで子どもたちが小さな手を洗っていたのだろうと思う。津波のときは、裏の山に避難し、水に追われるように上に上にと上がって無事だった。今は別の学校に間借りしている。
地図で見ると雄勝湾は「へ」の字をしている。津波は右にある海から左上方向に押し寄せ、いったん上で突き当たってから、「へ」の字の左はし、今僕が立っているところに向かった。波はいちどカーブして襲ったことになるが、まっすぐ直撃でなくても、人が作った町を壊滅させるほどの力がある。
今は土がむきだしの一面の造成地で、ダンプカーやブルドーザーが行き来している。
雄勝小学校は1873年に開校。
1896年、明治三陸地震。
1933年、三陸大津波。
1960年、チリ地震津波。
2011年、東日本大震災。
いくども被害を受け、校舎の破壊と新築を繰り返している。
三陸の厳しさを思う。
(追記:2017年に別の学校と統合し、別の位置に移動している。)
* 数キロ北上すると北上川がある。
■ [河口ビューイング/北上川]
右岸のちかくに、多くの子どもが津波にさらわれて亡くなった大川小学校があった。
北上川の橋を右岸から左岸に渡る。
橋を越えてから、川沿いに右折し、岸の道を河口方向に向かって走る。
カーナビの地図で判断して、このへんが河口だろうというところで車をとめて、堤防に上がった。川の向こう側では木々におおわれた舌状の陸地が水際にいくつかある。
これまでかなりの河口を見てきて、大きなのや小さいの、人工的なのや自然らしいの、いろいろあった。河口が港になっていて、先端がきっちりコンクリートの岸壁になっているところもちろんあるが、また砂州がのびて水面にとけこむように埋もれていく河口もあった。そんなところでも、左岸の先端と右岸の先端とは一応明瞭で、河口であることが見てとれた。
ところがここでは左岸の岸ははっきりしているが、右岸は、向こうのほうに陸地があるというくらいの何だか曖昧なふうになっている。河口の写真を撮ろうとしても、どこをどう撮ったらいいのかわからない。
あとで『津波被災前・後の記録』を見ると、右岸では、河口付近の土地がかなりの広さですっかり水中に没していた。大部分は田畑だったようだが、人家もあった。それがすっかり水に隠れて、川と、海と、もとは陸地で今は水に覆われたところとが、あいまいにつながっている。
住んでいた家が流されたり壊れたりしただけでなく、暮らしていた地面そのものがなくなってしまった人たちがいる。
左岸から川に迫りだしている砂の浜は不思議なことに残っている。 |
* 398号線で半島を1つ、ぐるっと回りこむと、南三陸町に入る。
■ 南三陸町防災対策庁舎
宮城県本吉郡南三陸町
見晴らしが開けてしまったなかに骨組だけがポツンと残っている。 周囲は市街地だったのに、やや離れたところに病院だった建物がみえるくらい。 |
前に置かれたテーブルに花や千羽鶴が供えられている。
となりに役場の本庁舎があったそうで、こちらは防災対策のための庁舎だったようだ。残った鉄骨の正面に「防災対策庁舎」という文字がくっきり残っている。
自然の力の大きさ、人間の無力さを感じる。
ここの防災無線で避難を呼びかけ続けて自分も津波にさらわれ亡くなった若い女性職員のことが、しばしば報じられた。
* さらに北上する。
気仙沼線の歌津駅は高いところにあり、その下に「伊里前福幸商店街」がある。昼をここで食べようかと思って寄ってみたが、生活品を売る店ばかりなので、少し先で見かけた道沿いの店で食事にした。
(追記:歌津駅はバス専用道BRTの駅になっている。)
海岸線を走ると、道は起伏が続く。 過去の津波浸水区間を示す標識があって、ひんぱんに「ここから」と「ここまで」が繰り返し現れる。 こんな高さ、こんな距離まできたのか!と思うことが幾度もあった。 |
岩手県に入る。
気仙川にかかる橋を渡ると陸前高田市になる。
■ 奇跡の一本松 [河口ビューイング/気仙川]
岩手県陸前高田市気仙町砂盛
橋を渡ると、右に「奇跡の一本松」への案内標識があり、専用の駐車場も用意されている。駐車場には、陸前高田のまちおこしのグループらしい人たちがライトバンでみやげを売っている。のぞいてみると、絵はがきや、一本松クッキーなどが並んでいる。
荒れた土地を整備するらしい工事が進行中だが、その間にロープで一本松までの道を示してある。 水路をまたぐ橋の先に、復元された松がひょろりと立っている。 |
また『津波被災前・後の記録』に掲載された震災後の航空写真によれば、陸地から水路を隔てた海側に、高田松原という広い松原があった。震災後の写真では、松はすっかりなくなり、地面そのものさえあらかたは水に没している。
たった1本残った松をさらに保存するには億単位の経費がかかって賛否がある。現地の様子を見、航空写真で震災前後の松原を比較してみれば、たしかに奇跡というのにふさわしいし、これを復興の象徴とする気持ちもわかる気がする。
■ 陸前高田 みんなの家
岩手県陸前高田市高田町大石31
いちめんにたいらな造成地(もと陸前高田の中心市街地)から山中に入りかけたところに、みんなの家がある。
伊東豊雄、乾久美子、藤本荘介、平田晃久といった建築家が組んで設計し、第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で「金獅子賞」を受賞した。
僕がいった月曜は定休日で、誰もいなくて、閉まっていた。
奇跡の一本松やもと市街地をみおろして、砦のような風情がある。
圧倒的な無力感、非力感に対して、それでも1歩踏み出してなにか作っていこうとする意志がこもっている。
* みんなの家からさらに坂を上がったところにある「りくカフェ」でひと休みしたあと、今日の宿泊地の大船渡に向かう。
■ 大船渡市立図書館/リアスホール岩手
岩手県大船渡市盛町下舘下18-1 tel. 0192-26-4478
大船渡では、まず市立図書館に向かった。
リアスホール岩手というコンサート・ホールと同じ建物にある。
2009年に新居千秋氏の設計で建ち、僕は2010年に来たことがある。
リアス地形を参照したデザインをしていて、岩や地層が積層するイメージに満ちている。
大震災で被害は受けなかったが、一時期、被災者の避難所になっていた。
今はふつうに図書館として運営されている。
前に来たとき案内していただいた人のことが気になっていた。
図書館のカウンターでたずねると、無事だが、図書館からは異動されたとのことだった。無事でよかった。
図書館に地震と津波の資料を集めた書架があり、そこで『津波被災前・後の記録』を見つけて、あとで購入した。震災の前後の状況を航空写真で比較して見ることができるので、(とくの元の状況を知らない者にとっては)震災に関するいちばんの基礎資料になる。
* ホテルに車を置いて夕飯をとりに出る。
歩いているとき通りかかった大船渡駅。鉄道のレールをはずして舗装し、BRT(バス高速輸送)のバスが走っている。 |
おおふなと夢商店街とか、屋台村とか、プレハブ横丁とか歩いて、結局ホテルにいちばん近いふつうの店に入った。
● うら嶋
岩手県大船渡市大船渡町茶屋前5-2 tel.0192-27-0118
夕飯なのにランチみたいに焼き魚定食をとる。
でもしっかり作った料理でうまい。
それに生ビール。
1日つらいものを見続けたのが、いくらか溶ける。
木村拓哉がBISTOROSMAPのロケで来店したとき、料理用の法被にサインしたのが、ガラスをはめた箱におさめて壁に飾ってある。
● 大船渡プラザホテル [河口ビューイング/盛川]
岩手県大船渡市大船渡町字茶屋前34-5 tel. 0192-26-3131
今夜の宿はJR大船渡線(今はBRTとしてバスが走っている)と大船渡港の間にある。
盛川(さかりがわ)の河口であり、大船渡湾の最奥部にあたる。
このホテルは結婚式場もあり、市にしかるべき来客があれば宿泊地に選ばれる格式高いホテルらしい。
震災のときのことをフロントできくと、3階まで水につかったという。
支配人が客を最上階の5階まで避難させ、そこも危なそうと梯子で屋上へ上がって、客もホテルの人も助かった。
柱だけ残して内部がすっかり破壊されたが、前にショッピング・センターの大きな建物があったので、ホテルには緩衝の役をしてくれたようだとのこと。
今は現代的センスできれいに改修されいる。
かつて海に向かう側が正面入口だったが、直撃を避けるように向きを変えたという。(右の写真のガラス壁の向こうが海)
岸辺まで100メートルほどあるのに、わりと最近まで満潮時には水がすぐそばまで来たが、今は来なくなったという。
ホテルの部屋からの大船渡港(盛川河口)の眺め。右方向が海(大船渡湾)。 |
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第4日 内陸へ入り仙台に戻る [中尊寺 毛越寺 魯迅の下宿] |
* 海岸の大船渡から、内陸の平泉に向かう。80kmほどあり、カーナビでは所要3時間になっていた。走ってみると、信号がないし、混雑する市街地がないし、とくにとばしたわけでもなくふつうに走って2時間で着いた。
■ 中尊寺
岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関 tel. 0191-46-2211
被災地を移動しているうちに気持ちがふさいできた。
バランスをとりに古くからあるものにひたりたくもあった。
長い参道を歩いて、最奥部の金色堂に入る。 手頃なスケールのお堂がみごとな金色におおわれている。 仏像配置のバランスがいい。 瓦が木製! |
人の入り具合を見て説明の放送が流れる。機械的にいくども繰り返さないのでわずらわしくない。ディスプレーも上質。
有名な寺院などで、ごてごてぎょうぎょうしい説明書きなどがあって興ざめすることがあるが、ここはとても落ち着けてよかった。
■ 毛越寺(もうつうじ)
岩手県西磐井郡平泉町平泉大沢58 tel. 0191-46-2331
この庭園に初めて来たときの印象はとても深い。 久しぶりに来た。 広い池に淡い緑の州浜がのびている。 |
* 一関から仙台まで高速道路をつかって戻る。
レンタカーを返し、また牛たんの昼食。
■ 魯迅の下宿
宮城県仙台市青葉区米ケ袋1丁目
仙台駅から歩いて、東北大学正門近くの魯迅が住んだ家に着く。
『街道をゆく』の「仙台・石巻」でも司馬遼太郎一行が訪れたところだ。
歩道で写真を撮っているときに自転車にぶつけられた。
歩道なのにかなりのスピードで走ってきて当たったようで、気がついたら尻餅をついていた。何が起きたかすぐにわからなかった。
カメラが壊れて魯迅旧居の写真は取り損ねたが、ここまでに撮った写真のデータは無事だった。
◇ ◇
仙台空港、南三陸町防災対策庁舎、奇跡の一本松など、東日本大震災に関してしばしば写真や映像で見た地点がある。それぞれの所在地、地形、海や川との位置関係など、実際に来てみてようやく把握できた。
地震と津波の被災の現地に立つことは、文字や写真や映像にない現実感があり、切実さも(当事者のものにはほど遠いにしても)感じられる。
一方、ただ現場に立っただけでは見えないことがある。記録し説明する文字や写真や映像がなければ、どこも同じ被災地に見えてしまう。あるいは被災地と気づかないことさえある(もともとここはただの川原だったのではないかと勘違いするような)。
現地に立つこと、裏付けの資料を確認すること、どちらも必要だと思う。
もともと僕は川にひかれていて、とくに川が海に流れこむ河口にひかれている。景色が大きく変わるところであり、また生と死の比喩でもある。しばらく前から勝手に「河口ビューイング」と名づけて、旅先に河口があればできるだけ寄ることにしている。(→[河口を見に])
三陸海岸をたどって移動することは、河口を次々と眺めていくことでもある。
司馬遼太郎は「仙台・石巻」の旅の終わり近く、石巻の旧北上川の河口を日和山から眺めてこう記した。
丘上から河川の蛇行をながめるというのは、思いの遠近がさまざまに重なるものである。 |
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参考:
- 『街道をゆく 26』「仙台・石巻」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1985
- 『津波被災前・後の記録 2011.3.11東日本大震災 宮城・岩手・福島航空写真集』社団法人東北建設協会編 河北新報出版センター 2012
- 記載内容は2013年に行った当時のことが基本で、その後の変化については確認できた一部だけ追記した。
- 3泊4日の行程(2013.06/29-7/2) (→電車 -レンタカー …徒歩)
第1日
[仙台市] 仙台駅-
[宮城県亘理町] 阿武隈川河口-荒浜小学校-貞山堀-
[岩沼市] 竹駒神社-岩沼市民図書館-
[名取市] 仙台空港-閖上さいかい市場-名取市文化会館-名取市図書館-名取川河口-
[仙台市] ホテルシーラックパル仙台(泊)
第2日
[多賀城市] -多賀城趾-沖の石…末の松山-
[塩竃市] 塩竃神社…塩釜神社博物館…御釜神社-エスプ塩釜…菅野美術館-塩釜港-
[松島町] 瑞巌寺-
[東松島市] 東松島こどものみんなの家-
[石巻市] 石の森漫画館…石巻ハリストス教会…旧北上川河口…石巻まちなか復興マルシェ-
[女川町] エル・ファロ(泊)
第3日
[女川町] -女川町町民野球場仮設住宅-女川河口-
[石巻市] 新山神社・雄勝小学校跡-復興応援おがつ店こ屋街-北上川河口-
[南三陸町] 町庁舎-伊里前福幸商店街-
[気仙沼市] リアス·アーク美術館-
[岩手県陸前高田市] 気仙川河口・奇跡の一本松-陸前高田みんなの家-りくカフェ
[大船渡市] 大船渡市立図書館/リアスホール岩手-大船渡プラザホテル(泊)…盛川河口…おおふなと夢商店街…うら嶋
第4日
[平泉町] -中尊寺-毛越寺-
[仙台市] 仙台駅…魯迅の下宿…仙台駅