東日本大震災後の石巻と仙台 (東北 2011-2)


2011年3月の東日本大震災のあと秋田に行った。
秋田では他にまだ行きたいところもあるけれど、最後の1日は太平洋岸に回って被災地に寄ってみようと考えた。でも、何かしら役に立つことをするわけでもないのに、ただ見物に行くようなのもうしろめたい気がする。おそるおそるという感じで、大震災からおよそ4か月後、7月初めの太平洋岸に向かった。
(旅の前半は[秋田・象潟・八郎潟(東北2011-1)−「秋田県散歩」1])

5年前に気仙沼−登米−石巻−仙台と回ったことがある。そのうち、まだ交通事情が悪いなかでは行きやすい仙台から石巻に行くことにした。
『街道をゆく』の「26仙台・石巻」の旅で司馬遼太郎と須田剋太が歩いた行程とも重なる。

* 仙台駅前のバス停から石巻駅に向かう高速バスに乗った。
所要80分で800円。
ほぼ座席が埋まり、中には撮影機材を持って取材に行くらしい人たちもいた。
途中にいくつか瓦礫の堆積場所を見かけた。
石巻駅周辺は、外観としてはところどころ傷んでいるくらいで、街並みはあり、ひどいほうではないように見えた


■ 石ノ森萬画館
http://www.man-bow.com/manga/index.html

石ノ森萬画館は、北上川の河口に近い中州にある。この中州は18世紀に人工的に作られたもので、「中瀬」という。
石巻市は石ノ森章太郎(1938-1998)のマンガによる街おこしをしている。駅から石ノ森萬画館にいたる「いしのまきマンガロード」には、サイボーグ009や仮面ライダーなどの大きなフィギュアが並んでいる。津波で被害を受けたという報道があったが、壊れたり汚れたりしていなくて、きれいだった。街のシンボルとして早く改修したのかもしれない。(でも足下の地面がひび割れて近づけなくなっていたりする。)

中瀬に橋を渡る。たもとの家がひしゃげている。
石ノ森萬画館は元のように立っていて、遠目には大丈夫。
でも近づいてみると外装材が部分的に剥げていたり、荒れた跡がはっきり残っている。
本体の構造そのものの安全もまだ確認されていないようで、休館している。
入口手前の壁に漫画家の手形が並んでいて、これは平面のことだから無事。

その隣に、石ノ森章太郎の手をかたどったブロンズ製の手が、来た人を出迎える握手の形で突き出している。小さな部分のことだけれど、この手がなんだか気になっていた。無事でよかった。 石ノ森萬画館

■ 石巻ハリストス教会
細い道を隔てた反対側に、明治時代に建ったギリシャ正教の教会がある。
もとは市街地にあったが、1980年に中瀬に移築されている。
ここを『街道をゆく』の取材で司馬遼太郎と須田剋太が1985年に訪れている。

簡素な木造の建築だが、骨格は壊れず、流されず、立っていた。
近づいてみると、凶暴な水に貫かれて、内部は、すかすかになっている。
それにしても、ほかの被害に比べて、この簡素な教会が立って残っているのは不思議に思う。
明治の技術ではなく、移築の時の技術によるだろうか。

すぐ脇に、陸に運び上げられた船がまだ放置されたままになっていて、所有者は申し出るようにという趣旨の貼り紙がしてあった。

須田剋太「石巻ハリストス正教会」 石巻ハリストス教会
須田剋太「石巻ハリストス正教会」 右に教会。左に船。その向こうに石ノ森萬画館の半球状の屋根が見える。
(教会が歪んでいるのは広角で撮ったためで、垂直に立ってはいる。)

● 水澤屋旅館
石巻市中央1-10-12

中瀬から橋を駅側に戻り、5年前に来たとき泊まった宿に行ってみた。
南へ、海岸方向に向かいながら宿の場所を探していると、ほかにも街なかに船が転がっていた。
ビルとビルの間に自動車がはさまって浮いている。
ニューヨークのツイン・タワーに飛行機が突っ込んだ9.11のときは、現実が映画を超えてしまったと思った。
3.11のあとの街では現実がシュール・レアリスムの絵画を超えている。

旅館に着いた。
かつて泊まったとき、2食つき10,500円で予約したのだが、すごいごちそうだった。
刺身の盛り合わせは、サンマだのアワビだのウニだの、さまざま。石巻は鯨の水揚げ港でもあって、鯨まである。
それにまるごと1匹の鯛や蟹。
名だたる漁港のそばの宿だから、海の幸の豊富なのはありとして、さらに牛も豚も鶏もある。
予約したときに料金について行きちがいがあったのではないかと不安になるほどだった。

旅館の建物は、壁も屋根も、一見しっかり立っている。
でも横に回ると、調理場のドアが外れている。中をのぞくと、調理用の大きな重そうなテーブルが斜めにずれている。黒ずんだ泥のようなものが、部屋の床も、壁も、置かれたものも、すっかり覆っている。
水澤屋旅館

短時間水が激しく流れ去ったというより、ずいぶん長い期間放置されたかのような印象を受ける荒れ方だった。
あのように豪華な食事は、ここで用意されていたのかと想像する。
たった1晩泊まった者にも、思い出があるところが圧倒的な力で破壊されている眺めは無惨に感じられる。ここを生活の場にしていた人の喪失感はどれほどのものだろうかと思う。

■ 日和山河口ウォッチング−北上川

水澤屋旅館からさらに南へ海岸方向に向かうと、日和山(ひよりやま)への上り坂になる。
暑い。
石巻駅に着いてすぐ歩き始めてしまって、飲み物を用意しなかった。
駅付近にはいちおう元通り建物が並んでいるので、つい油断した。
かなりの距離を歩いていても、飲み物を売る店がないし、自販機がまったくない。
司馬遼太郎の一行は日和山にタクシーで向かっている。
「石巻についたら、日和山にのぼってください」
 と、運転手の武田さんにたのんでおいて、すこし眠った。
わが身の汗だく、カラカラの苦労に比べ、その安らかな涼しさがうらやましい。

日和山の高台にある家々は、一見平穏に暮らしているようだ。内部で地震の被害はそれぞれあったろうけれど、津波はここまでは上がらなかった。庭で洗車している人をみかけたりする。

古い港には必ず日和山がある。天候や波を見て、船を出せるか判断する。
石巻では北上川右岸(西)にあり、今は公園になっている。
この日和山には宮沢賢治(1896-1933)も訪れたことがある。1912年、盛岡中学4年だったとき、北上川を川蒸気船で下ってきて、ここから初めて海を見て感動している。
眺めのよい観光名所で、かなりの人でにぎわっている。(でも歩いて上がってくる人はあまりないようだ。)
石巻の観光ボランティアの人たちがテントをだして、冷たいお茶のサービスがあった。暑くて汗だくだったので、しみじみありがたい。

高台の端に行き、下を見おろしてショックを受けた。北上川の河口付近はすっかり平面になっていた。ここまでもひどい被害を見てはきたが、まだしも建物はあり、道と家並みの区別があった。
河口では、寺や病院など、いくつかの建物がポツポツと立体で残っているだけ。
日和山から石巻市街

家ごと根こそぎもぎとられた人にしてみれば、直接の財産的被害も大きいが、これまで積み重ねてきた人生のすべてを失ったという思いだろうか。
今はモノが失われた風景が残って眼前にある。でも、もう見えなくはなっているが、たくさんの人の命も失われている。
河口ウォッチングをしていると、寂寞とした風景に出会うことがある。
川の終わりで海の始まりであるという、生と死の比喩ともいえるし、もともとかなりシンとした気分になることが多い。
それにしてもこの河口の風景の厳しさは格別だ。

建築家・磯崎新は、第2次大戦の焼け跡を思想の根拠にしていることを文章に書いている。それは磯崎固有の特異な視点のように思っていた。でも日本の小さな国土は、しばしば洪水や噴火や津波に襲われた。それだけで足りずに、人為による戦争や原発も廃墟を増やした。廃墟は、ある個人の考えに根拠を与えるような特殊なものではなく、日本では一般的・普遍的といっていいのかと思えてきた。

僕はしばらく高崎の実業家の井上房一郎と、建築家アントニン・レーモンド、ブルーノ・タウトのことをたどっている。
アントニン・レーモンドは、フランク・ロイド・ライトが帝国ホテルを建てるためのスタッフとして来日した。1923年の帝国ホテルの開業の日に、関東大震災が起きている。
そうした直接的関連だけでなく、井上やレーモンドの時代のことをみていくと、関東大震災の影響がこんなところの、こんな人にまで、と広範に及んでいることに、いくどもはっとするような思いを味わってきた。
今年の大震災はさらに原発の事故も加わっているから、どれほど広範囲に、どれほの年月、影響を残すことになるか。

ボランティアの方が地図とてらしあわせながら、地理や歴史に加えて、津波の被害の様子も説明してくれる。それぞれにつらいことがおありだろうけれど、その明るさにすくわれる思いがする。
その明るさの向こうのことを思うと、またいっそうせつなくもなる。

       ◇       ◇

日和山で須田剋太は2点描いている。
1点は、山頂にある鹿島御児(かしまみこ)神社の鳥居。
ボランティアのひとりと話していて、持参していた絵のコピーを示し、「この絵はどこでしょうかね?」と尋ねてみた。
すぐそば、海と街を見下ろす位置に鳥居が立っているが、絵にあるような注連縄がない。
須田剋太がどこか他にある鳥居の風景と合成でもしたろうか?と考えていると、見回していたボランティアの方が「あった!」と言われる。
振り返ってみると、神社の本殿の前にもう1つ鳥居があり、そちらには絵と同じように注連縄が垂れ下がっていた。
でも、絵にある鳥居は海を背景にしている。
このときは海側の鳥居にも注連縄があったと考えるのが自然かもしれない。

須田剋太「石巻日和山」 鹿島御児(かしまみこ)神社
須田剋太「石巻日和山」

もう1点の絵は、河口より少し上流を見下ろして、石巻市街と、中瀬を挟む北上川の流れを描いている。

須田剋太「石巻港」 日和山から石巻港
須田剋太「石巻港」

今、中瀬には、2001年に建った石ノ森萬画館のクラゲのような屋根が目立っているが、1985年の須田剋太の絵にはもちろんその屋根はない。

司馬遼太郎は、北上川を見下ろして、
丘上から河川の蛇行をながめるというのは、思いの遠近がさまざまに重なるものである。
と書いている。
思想家でジャーナリストだった司馬遼太郎なら、今の北上川の河口の風景にどんな感想を記したろうか。
関東大震災のときに軽井沢で療養中で、大根畑を転げ回った須田剋太は、どんな感想をもったろうか。
と思ってみる。

* 仙台にまたバスで戻り、地下鉄に乗り、勾当台公園駅で降りて、せんだいメディアテークに行った。

■ せんだいメディアテーク
仙台市青葉区春日町2-1 http://www.smt.city.sendai.jp/

開館したのは2001年1月。
3.11の東日本大震災は、翌12日に10周年の記念イベントが予定されていた前日のことだった。
伊東豊雄設計による斬新な建築は竣工前から話題になっていて、僕は開館の年の3月に、待ちかねて来たことがある。それ以来、僕にとっても10年ぶりで、その間にもいろいろ来てみたいイベントがあったが、まさか大震災が契機になって来ることになるとは思わなかった。

大きな樹木が並ぶ定禅寺通りに、かわらない存在感でメディアテークがあって、まずほっとする。
せんだいメディアテークは美術や音楽や映画や本など、文化の複合体。そのなかで仙台市民図書館がいちばん大きな体積を占めていて、2,3,4階に入っている。
2階が児童書。
4階が参考図書やレファレンス。
3階が通常の閲覧室。

3階には、地震に関する情報が集められた一画があった。
今の段階で震災をふりかえれるように3.11以来の新聞やグラフ誌をまとめてある。
新聞は朝日新聞と河北新報。見やすく、大勢の人が繰り返し見てもいためないように、ページごとに大きい透明ファイルに入れてある。
それに、大きな写真がのるアサヒグラフ。
市の情報も用意してあり、「仙台市震災復興計画素案」「避難所通信」「被災者支援に関する各種制度の概要」などが置かれている。
1階の広いロビーには、仙台市内や、せんだいメディアテークの被害状況の写真が大きなパネルにして並べられていた。
もともと都市のなかの市民活動の中心という意識があっての資料の揃え方かと思う。
仙台の外から訪れる人も多いから、そうした人たちがどんな情報を求めているかも想定されている。

せんだいメディアテーク せんだいメディアテーク
5・6階展示室のロビー 1階に市内被災状況の写真展示

(6月に都内代官山で伊東豊雄さんの講演があった。
毎日せんだいメディアテークに寄るという学生がいる。そこに行けば仙台で何が起きているかわかる(行かないとわからなくなる)からだという。
そういう人がいる、せんだいメディアテークはそういう存在である。それで伊東さんは、せんだいメディアテークを地震後できるだけ早く復興させようと、躍起になって取り組んだと話されていた。
→[墨田区立緑図書館とヒルサイドライブラリー「目利きが語る"私の10冊"」伊東豊雄

1階では、フラダンスのショーをやっていた。いくつものグループが次々に出演して、にぎわっていた。
5階では、美術の団体展。
6階では、東北生活文化大学生活美術学科卒業生有志によるグループ展『T家の恐るべき子どもたち展』を開催中。
7階は、天井が落ち、いちばん被害が大きかったところ。地震のとき、天井がメリメリとはがれて降ってくるのを、テーブルの下に伏せた状態で手持ちのカメラで撮影した動画がYouTubeで流れていた。この大震災では、構造は壊れなくても天井が落ちるケースがいくつもあった。ここもまだ改修中だった。

□ 大崎八幡宮
http://www.okos.co.jp/oosaki/index.html

あとわずかな時間、国宝の大崎八幡宮を見に行った。
司馬遼太郎は、秀吉の桃山風を見るなら、京都の北野天満宮か、この大崎八幡宮でしのぶしかないという。
須田剋太は、鳥居とその先の長い階段を正面から、重厚な拝殿を斜めから描いている。
拝殿は黒地に金の装飾具が映えている。横に回ると、奥に本殿がつながっていて、側面も鮮やかだった。

須田剋太「大崎八幡」
須田剋太「大崎八幡」 この日は七夕祭りのための飾り付けなどを並べたテントがでていた。

仙台駅に戻る。
須田剋太の絵と同じ構図で駅を眺める位置は見つけられなかった。
駅の階段で工事が行われていたのは大震災の被害の復旧工事かどうかわからないが、その工事のために様子が変わっていたかもしれない。

須田剋太「仙台駅」 仙台駅
須田剋太「仙台駅」

新幹線で帰る。
今、仙台と石巻を自分の目で見ておいてよかったと思う。

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参考:

  • 『街道をゆく 26』「仙台・石巻」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1985
  • この旅の前半は[秋田・象潟・八郎潟(東北2011-1−「秋田県散歩」1)]
  • 3泊4日の行程 (2011.6/30-7/3)
    (→電車 −レンタカー =バス 〜自転車 …徒歩)
    第1日 東北新幹線盛岡経由→秋田駅…秋田ビューホテル
    第2日 −かんまん寺−いちえ−国際教養大学−秋田市立新屋図書館(旧国立新屋倉庫)−秋田公立美術工芸短大−雄物川河口−秋田市体育館−秋田市立土崎図書館−ホテルルートイン秋田土崎…秋田市ポートタワーセリオン…旧・雄物川河口…すごえもん
    第3日 −八郎潟−赤神神社五社堂−寒風山−男鹿市立鵜木小学校−大潟村干拓博物館−大潟観光パレス−道の駅大潟−秋田県立博物館・奈良家住宅−平野政吉美術館〜秋田市立中央図書館・明徳館〜千秋美術館…岩手県立図書館…明明家…秋田駅→盛岡駅…ホテル ルイズ

    第4日 盛岡駅→仙台駅=石巻駅…石の森漫画館…石巻ハリストス教会…水澤屋旅館…日和山…石巻市図書館…庄屋…石巻駅=仙台駅…せんだいメディアテーク=大崎八幡宮=仙台駅から東北新幹線
  • 日和山で、亡くなった人たちのことを思っていたが、2か月ほどあとに広島に行って現代美術館で出会うことになった。→[今日は遠くの図書館 広島の図書館(福山・呉・広島)]