東日本大震災3年目の福島-「白河・会津のみち」 (2014)


『街道をゆく』「33白河・会津のみち」に須田剋太が描いた地をたどって、白河を経て会津若松に行った。
東日本大震災のあと福島県に行くのは初めてなので、後半は太平洋岸を相馬からいわきにくだった。

第1日 白河 [境の明神 白河関跡 犬神ダム 白河市立図書館 白河駅 白河ハリストス正教会 関川寺 小峰城 昭和堂書店 Rire et Rire リール·エ·リール 白河(泊)]  
第2日 白河から会津若松 [白河市役所 大木家住宅 大内宿 松平家の歴世墓所 飯盛山・さざえ堂 福島県立博物館 鶴ケ城 七日町通り 会津若松(泊)] 
第3日 喜多方から福島 [会津若松市役所 興徳寺 まこと食堂 大森家店蔵・小原酒造・甲斐本家・若喜商店 慧日寺跡・恵日寺 福島(泊)] 
第4日 福島から広野 [片目清水公園 LVMH子どもアート・メゾン 国道6号線 広野(泊)] 
第5日 いわき [元いわき市立豊間中学校 塩屋崎灯台] 

第1日 白河 [境の明神 白河関跡 犬神ダム 白河市立図書館 白河駅 白河基督正教会聖堂 関川寺 小峰城 昭和堂書店 Rire et Rire リール·エ·リール 白河(泊)]

* 東北自動車道の白河I.C.でおりて、福島と栃木の県境にある境の明神に向かった。
白河の関あとという説もあるところだから、関東から東北へ行くには南の栃木県側からアプローチするのがふさわしそうだが、いったん福島に入ってから逆向きに着くことになってしまった。
栃木県側にある住吉明神横の駐車場に駐車する。


■ 境の明神
福島県白河市白坂明神

国道294号線の福島・栃木の県境にある。
山中にある峠道ではないが、(栃木県側から東北に向かう言いかたをすれば)ゆるい坂をのぼりきったところに境の明神がある。道の両側にこんもりした木々のかたまりがあり、峠越えのような印象になる。
道は片側1車線ずつで狭い。
大阪と奈良の境にある竹内峠と似たふうだなと思い出した。

「しずかですな」
須田画伯が、ため息をついた。大景観ではないが(中略)こんないい所へくるというのも、生涯で何度あるかわからない。(『街道をゆく 33』「白河・会津のみち」 司馬遼太郎。以下引文について同じ。)

司馬遼太郎がそう感嘆したのには、いくらか自分の故郷である竹内峠の記憶があるからかもしれない。(→[大阪から奈良へ竹内峠を越え、京都でコンサートを聴く])

須田剋太『二つの関のあと(A)』 境の明神
須田剋太『二つの関のあと(A)』

境の両側に神社がある。
「玉津島明神」は女神で内を守る、「住吉明神」は男神で外からの敵を防ぐ-という信仰があるので、福島、栃木の双方が「こちらにあるのが玉津島明神、あちらにあるのが住吉明神」という、なんだかおもしろいことになっている。

須田剋太『二つの関のあと(B)』 境の明神
須田剋太『二つの関のあと(B)』

* 境の明神は南北に走る国道294号線にあるが、やや東にあってそれとほぼ並行している県道に移動する。

■ 白河関の森公園
福島県白河市旗宿字関ノ森120

白河関は、古来歌に詠まれる地としても名高いのに、位置に2説あり、ひとつは先に行った境の明神。
発掘調査の結果などから、今、白河関の森公園になっているところが白河関だったということで確定しているらしい。
境の明神は小山の頂上を切り開いたところにかろうじて社殿2つを作ったふうなのに、こちらは起伏する地形のなかにゆったりとある。
空堀がめぐっていたりして、山城のよう。
境の明神のほうがいかにも街道にあるという印象が強いが、関所として機能するには狭すぎるかもしれない。境の明神を通る道は、秀吉が奥州への交通のために開いた道で、以後の旅人はそちらを主に通ったろうか。道中の無事を祈って多くのひとがおまいりした思いがこもったような、静かなよい所ではあった。

須田剋太『白河関跡(A)』 白河関の森公園
須田剋太『白河関跡(A)』

須田剋太は、白河関の森公園あたりの風景を「広大で婉(えん)なる所ですね」と気に入ったようだ。
 須田さんは写生に忙しく(中略)それほど地面の波立ちが、この造形家にとっておもしろいようだった。

* 司馬遼太郎一行は、栃木と茨城との境にある八溝山が見えるところに行きたいと犬神ダムに向かった。
白河関の森公園から犬神ダムまでは、ほぼ真東に直線距離では4キロほどだが、道は逆Uの字に遠回りしていて、10キロほど走る


■ 犬神ダム
福島県白河市表郷金山字犬神

ダム付近の道は、山中にあっても建設工事や完成後の維持管理の必要から、整備された舗装路であることが多い。
ところがここでは、ダム下からダムにいたるまでの道が、未舗装の悪路。
それなのにダムの先になにかの鉱物の採石場があるようで、かなりの頻度で大きなダンプカーが往き来する。
雨がしばらくないらしくトラックが通るたびに盛大に砂埃が舞い上がり、道の両脇にはえる草には、噴火で火山灰をあびたかのように厚くほこりがかぶっている。

ダム湖の管理施設のわきに車を駐める。
ダム湖にはわずかな水きりなくて、一部では底まで見えてしまっているほど。
とくに水不足のような話もきかないから、他にも水源があるのだろう。

須田剋太『犬神ダム』 犬神ダム
須田剋太『犬神ダム』

● ビーライフうおいち

このあたりでは田畑を走っていてたまに小さな集落があるくらいで、食事できるような店が見あたらない。通りかかった食品スーパーでパンなど買って車の中で昼をすませる。

*ようやく白河市街地に入る。駅のすぐ近くに図書館がある。
ふつう駅周辺は建物が密集して窮屈なのに、ここはゆったりしていて駐車場も広い。


■ 白河市立図書館
福島県白河市道場小路96-5 tel. 0248-23-3250

駅の近くにある図書館ということで、僕は「混み合った街並みの中にある、やや背の高いビル」を漠然と思い描いていたのだが、まったく違った。
駅付近は城跡で、一部に城の地形を残しながら芝生の広場になっている。
その広場の両端に図書館と白河駅がある。

白河市立図書館 右に線路とプラットホームがあり、白河駅は右手前になる。

駅のホームからもさえぎるものがなくてゆったりと駅前風景が広がっているのが見えるだろう。(それだけに冬の風が強い日はとても寒いらしい。)
図書館と反対側には、小峰城が見えるはず。
高層の駅ビルがあり、駅前の広場を囲むビルにはサラ金や予備校やファースト・フードの看板が並んでいるような、よくあるありきたりの駅とはまるで違う。
鉄道で来て、この駅に降りたら、ひとめでここはいい街だと感じられるだろう。

図書館は垂直に立つのではなく、横に伸び、屋根が大きい。
内部もすっきりしていて、気持ちがいい。

『街道をゆく』では、白河の関のことをいうなかで、もと白河市立図書館長の山本敏夫氏が書いた『白河物語』のことがでてくる。
とくに直接あたって調べたいことがあるわけではないが、この図書館ならとうぜん所蔵しているだろうから、どんな本か見てみようと検索すると、「郷土行政棚73-76」にあるらしい。
でも見つけられずにいると、図書館の人から声をかけられ位置を教えていただいたのだが、その方がたまたま山本氏と同じく、今この図書館長の田中伸哉館長だった。

       ◇       ◇

おかげで『白河物語』を見つけられて、ページを開いてみると、思いがけない名前がでてきた。
白河のことを書く前段として自伝的なことをまとめているのだが、冒頭に
「第1部 私の物語 自分が直接感じたものが尊い 山本鼎氏」
とある。
山本鼎は、僕がずいぶん前から関心をもっている井上房一郎と縁がある人。
井上房一郎(1898-1993)は群馬県高崎市の建設会社の経営者だったが、群馬の文化の振興に大きな役割を果たした。
その井上房一郎が文化に関わることに深い影響を与えたのが、軽井沢で隣あう別荘にいた山本鼎だった。
山本鼎は年下のいとこ村山槐多の才能を見いだし、支援した。須田剋太は村山槐多に憧れて、本名の「勝三郎」から「剋太(かくた)」としたから、須田剋太とも縁がつながっている。(ただし「剋太」という名については、人がみな「こくた」とよぶのでそのままにしたといわれる。)
山本敏夫氏は自伝的内容の冒頭に掲げているから、この言葉を、生きるうえでの座右の銘としてきたということなのだろうが、山本敏夫氏と山本鼎の関係がわからない。

白河ではゆっくり読んでいる時間がなかったので、旅から帰ってから『白河物語』を探して読んだ。
文中では(僕の見落としでなければ)山本鼎のことには全くふれていない。
山本鼎(1882-1946)は愛知県岡崎市生まれで、のちに長野県上田市を拠点として活動した。
『白河物語』によれば、山本敏夫氏はずっと白河に住んだ人のようだから、ふつうには接点がなさそうにみえる。
1920年生まれの山本敏夫氏が、何かの機会に山本鼎の考え方にふれ、同時代を生きる先輩の言葉として胸にとどめたということだろうか。

       ◇       ◇

この図書館は、東日本大震災からまもない2011年7月に開館した。
今の田中伸哉館長は他県の図書館勤務を経験されたあと、この図書館の立ち上げのために移ってこられたが、開館を間近にひかえた追い込みの忙しい時期に大きな地震に襲われた。
新しい建築は、さすがに耐震強度が考慮されていて無事だったが、大きなガラス窓から、線路の向こうにある城の石垣が崩れるのを目撃されたという。

田中館長にはいろいろお話しを伺ったのだが、あわせて須田剋太が描いた絵についても心当たりがあるか尋ねてみた。
白河で須田剋太が描いた挿絵のうち、城や教会などは場所の特定が簡単だが、むずかしそうなのが3点ある。

須田剋太『陸奥白河町印象』 須田剋太『陸奥白河町』 須田剋太『白河町並』
A『陸奥白河町印象』 B『陸奥白河町』 C『白河町並』

(須田剋太は、この3点では「白河」ではなく「白川」と絵にかいている。挿絵原画を所蔵する大阪府では「白河」とあらためて記録していて、それにしたがって「白河」とする。)

AとBは蔵。
Cはごくふつうの民家らしき2階建ての家。道の角にあるのが特徴とはいえる。
AとBは似たようなところが多くあって、はっきりどことは決められない。
Cは、今「リール・エ・リール」というレストランになっているところといわれる。(そしてそのとおりで、夕飯をここでとることになった。とりとめない街角風景で、田中館長の指摘がなければ見つけられなかったかもしれない。しかもそこに行って隣の空き地に車を置いたら、そこにBの『陸奥白川町』の蔵があり、まとめて2つ解決した。)

* 図書館に車を置いたまま、まちあるきに出る。

■ 白河駅
福島県白河市郭内222

須田剋太『陸奥白河駅』 白河駅
須田剋太『陸奥白河駅』

須田剋太が描いたままの小ぶりな木造駅舎が今もある。
プラットホームが駅前の芝生の広場よりいくらか高い位置にある。駅の外から眺めて象徴的だし、プラットホームからの眺めもいいだろう。
かつては東北線の特急が泊まる主要駅だったが、1982年に新幹線が開通したとき、新幹線の駅は隣の旧磐城西郷駅に設置され、新白河駅に改称された。
白河駅のほうは在来線の特急の本数が減り、相対的にさびれることになった。
新幹線が開通して6年後に来た司馬遼太郎一行も、新白河駅に近いホテルに泊まっている。
白河駅前が全国に満ちているような乱雑な景観にならずに静かで落ち着いた風情を保っているのは、いわば取り残されたおかげであるらしい。
それにしても駅と駅周辺の景色がいい。
しかも図書館ができて駅前がひきしまって、風景としては格が上がったのではと思う。

* 白河駅から南に歩いて旧陸羽街道をこえると市街中心部になる。『街道をゆく』の旅で司馬一行が訪れたところの多くがこのあたりに集中していて、僕が今夜予約したホテルもある。

■ 白河ハリストス正教会
福島県白河市愛宕町50 tel. 0248-23-4543

この教会を見学するには予約が必要で、予約した時間に着くと、案内の方が先に着いていて扉をあけ、聖歌を流してくださっていた。
ギリシャ正教では、楽器をつかわないで、人の声だけが歌っている。
ほぼ正方形の聖堂に入る。
ここでは、ほかの教会でよくあるように長椅子が並んでいなくて、礼拝の日には2時間ほど、立ったまま説教をきき、歌う。
ただし高齢者のために隅にいくつか椅子を置いてある。
正面はあれこれの装飾がない平面の壁で、そこに多数のイコンが並んでいる。
中央部に山下りんが描いたものが7点。

正面の壁の中央は扉で、むこうにもう1つ部屋がある。
そこは信者が特別なときに入るだけで、見学者は入れない。
(司馬遼太郎一行は特別に中に入ったようで須田剋太がそこを見て描いたかと思われる挿絵が数点あり、右はその1枚。)

須田剋太『イコン画』
須田剋太『イコン画』

入口の部屋、聖堂、奥の部屋と3つ縦に並んでいる。
本来は聖堂の両脇にも部屋があるべきもの(上から見れば十字になる)というが、小さなこの教会では省略されている。
『街道をゆく』に、教会には神父がいなくて、仙台から月1度説教にきてくれるとあるが、それは今も同じに続いている。
教会は1915年に建ち、来年100年になる。100周年の行事をしたいが、もともと信徒22軒で支えているくらいで、まだ算段が立っていないらしい。

その『街道をゆく』で教会を訪れたときの回のタイトルに司馬遼太郎が「野バラの教会」と名づけたように、今もバラが咲いていた。
道がずれながら交差している角にあり、教会も庭も大きなものではないが、広々した眺めになっていて、礼拝の日に教会に向かう気分はいいだろうと思った。

周囲の道は白河石をつかって舗装しなおされている。 白河基督(ハリストス)正教会

教会を案内していただいた方に、須田剋太が描いた地をたどっている話すと、向かいの書店ならそのときの様子がわかるはずという。
司馬一行が教会に来たとき、鍵がかかっていて中に入れずにいた。
それを見つけた筋向かいの昭和堂書店の鈴木完一氏が、「店で本棚の整理でもしていたらしく、西洋の彫金家のようなエプロンをつけていて、息をはずませて」やってきて、鍵をあずかっている平沢賢一さんに連絡をとってくれて、中にはいったことが記されている。
教会の案内の方が昭和堂書店まで同行されて、こんな人が須田剋太が白河に来たときのことをたずねていると書店の人に紹介していただいたのだが、あいにく書店主は不在で、夕方には戻るとのこと。
予約したホテルからすぐ近いので、あとでまた伺うことにして辞した。

■ 関川寺(かんせんじ)
福島県白河市字愛宕町94 tel. 0248-23-3538

教会から西へ歩くと、間もなく関川寺がある。
本堂を描いた絵はすぐにわかった。

須田剋太『関川寺』 関川寺
須田剋太『関川寺』

もう1枚の墓の場所がわからない。
落ち葉を掃いている若い女性にたずねると、庫裡に入って住職夫人を呼んでいただいた。
案内されて行くと、本堂のわきの廊下をくぐった先に墓地があり、そのいちばん奥にあった、
この寺を開いたとされる南北朝時代のひと、結城宗広の墓。

須田剋太『関川寺にて』 関川寺 結城宗広の墓
須田剋太『関川寺にて』

庭に十九夜塔2つ、二十三夜塔が1つある。
月待ちの塔がこんなに1か所にあるのは珍しいのではないだろうか。
なぜこのようにあるのか、今は寺でもいきさつがわからないとのことだった。

* 白河駅に戻る。
駅の右(東)側に線路をくぐる道があり、くぐった先に城山公園がある。


■ 小峰城
福島県白河市郭内1

城山公園はゆったりと起伏がある芝の広場で、ちらほらと散歩のひとがいて、のどか。
小峰城は1632年に江戸時代の初代藩主、丹羽長重が建てた。
1868年、幕府と東北が闘った戊辰戦争白河口の戦いで落城。
1991年に三重櫓、1994年に前御門が復元された。
今は東日本大震災で崩れた石垣を修理する工事中で、城は周囲をフェンスで囲まれていて入れなかった。

小峰城 工事の看板 須田剋太『白河小峰城』
須田剋太『白河小峰城』

* 図書館に戻って、館内をまたひとまわり。落ち着けて居心地がいい。
駐車場から車に乗って、旧市街地にある今夜のホテルにチェックイン。
夕方、ふたたび書店に行ってみた。


■ 昭和堂書店
福島県白河市愛宕町44  tel. 0248-23-2274

前述のように、司馬一行がハリストス教会に入れずにいるとき、筋向かいの昭和堂書店の鈴木完一氏が気がついて、鍵をあずかっているひとに連絡をとってくれたのだった。
司馬遼太郎の文章では全くたまたまの出会いのように読めるが、この取材には白河での司馬遼太郎の講演があわせて組まれていて、昭和堂書店の主人は招く側の人だった。
白河でずっとつききりで動いていたわけではないから、このときは司馬一行が街を歩いているうち教会にいきあたり、入れずにいるときに迎える側の書店主がちょうど見かけたということなのだろう。
教会では見学を予約制にしているが、予約なしで来て戸惑っている観光客もたまにあり、書店とか教会関係者が気がついて対応可能なときは案内しているとのことだった。
ふらっと来てしまった観光客ならあわてることはないが、お招きした相手がとまどっているので「これはいけない」と思ったことだろう。
僕が、須田剋太が白河で描いた地点をさがしていると知って、教会で案内していただいた方が昭和堂書店に連れていってくれたのも、「迎えた側の人だから、どこを見て歩いたか知っているかもしれない」と考えてのことだった。

書店主は夕方には店にいらしてお会いできた。
鈴木雅文さんといわれて、鈴木完一氏のご子息。
絵の場所をおききすると、夫人やそのまた息子さんも入って、どこだろうかと思案してくださる。

鈴木雅文さんの息子さんもしっかりした成人で、取材が26年前だったことからすると、司馬遼太郎が「昭和堂書店の若主人鈴木完一氏」と書いている人は、そのころ若主人という時期を過ぎていたのではないかと思えてきた。
現主人も若々しく活動的な人なので、父も同様で若く感じられたかもしれない。

1日の忙しい仕事が終えたあとなのに、店の車で、絵に描かれた蔵ではないかというところをいくつか案内していただいた。
暗くなりかけているうえ、雨も降り出している。
いちいち降りることはしないで、明日明るくなって確かめるように、それらしい場所をめぐっていく。
絵の場所ではないが、片野屋さんという呉服店も教えられた。
片野直紀氏が運転して司馬一行を大内宿から会津若松まで送ったと『街道をゆく』の文章にあるが、片野さんは呉服店を経営されていて、関川寺の住職も同行されたとおききした。『街道をゆく』の旅はふつうタクシーで移動しているが、ときにはこういうこともあったわけだ。

途中で1か所だけ車を降りた。
建築事務所のオフィスに「NPO 法人 しらかわ建築サポートセンター」があり、事務局長の斎藤正明さんにお会いした。
蔵の建築のリストがある。
『陸奥白川町印象』のようにシンプルな蔵は、かえって特定しにくい。
ここでも決定的にこれというものに至らなかった。
(ここにいるときに、明日泊まる予定の旅館「田事」から携帯に電話がかかった。
夕飯に刺身を用意するが、刺身か馬刺かどちらかということなので、刺身にしてもらった。)

夕飯を食べる予定にしていたリール·エ·リールまで送っていただいた。
駐車場で降りてみると、『陸奥白河町』と題した絵の蔵は、リール·エ·リールの裏手にあるものだった。(右の蔵の様子が違っているが、四半世紀たつうちにこういう変更はありうるだろうし、この隣の建物を描いていることでもあるから、ここと判断していいだろうと思う。)

須田剋太『陸奥白河町』 リール·エ·リールの蔵
須田剋太『陸奥白河町』

2つの絵を確認できたし、雨がやや強くなってきてもいて、ありがたいことだった。

● Rire et Rire リール·エ·リール
福島県白河市二番町46 tel. 0248-22-1985

店名の「リール·エ·リール」はフランス語。
英語だったらlaugh and laughで、笑ってばかりという感じだろうか。
民家を改修して、いくつかのテーブル席と調理場を作ってある。
4人がけの席にひとりですわって、ポークヒレのウイーン風カツレツ880円にご飯セット470円を注文。ご飯セットには、ご飯のほかに前菜、スープ、飲み物がつく(紅茶にした)。あとハウスワイン赤が370円。
旅先でひとりで食事するのに手ごろな店にいつもうまくあたるとは限らないが、今日は須田剋太が描いたところがそんな店で2重にあたり。
店主に話をうかがうと、蔵と、店にしている民家は同じ所有者。
民家のほうを10年ほど前から借りてレストランにしているという。
この家を須田剋太が描いて『街道をゆく』の挿絵になっていることを、ここで営業している人がご存知でなかった。

須田剋太『白河町並』 リール·エ·リール
須田剋太『白河町並』

雨のせいか客が少ない。新潟駅前の洋食屋に入ったとき、雨がふり、風が強くて、客がぼくひとりだったことがあり、今夜もそんなふうかと思っていたら、食べ終わるころになってテーブル席にほかに1組あらわれ、カウンターにも別な客がいた。
→([新潟で「水のあと」と「人のあと」をたどる-「潟のみち」]のRestaurant pic )

* 店を出てから違う方向に歩きだしてしまって方角がわからなくなり、雨でもあり、タクシーを拾ってホテルに戻った。

● 白河ビジネスホテル
福島県白河市大工町24 tel.0248-27-1231

新幹線駅の新白河駅付近には全国チェーンのも含めてビジネスホテルがいくつかあるようだが、白河駅付近には小さいホテルや旅館があるくらい。
この夜泊まったのは、名前はダイレクトにビジネスホテルだが、個人経営らしきこぢんまりしたホテル。
エレベータで2階に上がるとフロントがある。
おなじ階の部屋の鍵を渡される。
廊下を奥に進んだ先、道に面したところがロビーふうになっていて、テレビや新聞が置かれ、コーヒーを無料で飲める。
部屋は狭いがコンパクトにできていて、一夜を楽にすごした。

朝食を部屋に届けてくれる。パンケーキ2枚にクロワッサンとコーヒー。
パンケーキでなくて、歯切れのいいフランスパンだったら、パリの小ホテルのようだ。

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第2日 白河から会津若松 [白河市役所 大木家住宅 大内宿 松平家の歴世墓所 飯盛山・さざえ堂 福島県立博物館 鶴ケ城 七日町通り 会津若松(泊)]

* 2日目は朝、夕べのなごりのようにかすかな雨が降っている。
旧市街の南あたりを細い川が蛇行している。夕べ昭和堂書店の鈴木さんが『陸奥白川町印象』の絵の有力候補として示された蔵がその川べり、新橋という橋のそばにあり、ホテルを出てまず行ってみた。
道のそば、塀の向こうに小さな蔵があり、そばに電柱がある-ということでそれらしくはある。
塀が違うようだが、川が水害を起こしたときに様子が変わったということだから、塀はそのときの変化かもしれない。
それにしても、道と蔵の向き、位置関係が、絵と現地とでずれているようだ。
窓もそっくり同じとはいいがたい。
それで「たしかにここだ」というすっきりした確信がもてない。

白河市立図書館の田中館長が、蔵の建物のことなら市役所のまちづくり担当が詳しいからと話をとおしておいていただいていたので、市役所に向かった。


■ 白河市役所
福島県白河市八幡小路7-1  tel. 0248-22-1111

2階に上がって、「白河市建設部都市政策室まちづくり推進課歴史まちづくり係」という27字もある長い名前の係に行き、近藤恭係長と深谷一馬主事にお会いする。
田中館長から用向きを伝えていただいてあったので、資料が用意されていた。
市内にある歴史的建造物の一覧地図と一覧解説をいただく。
蔵を描いた2枚のうち1枚は解決して、あと1枚がどこか。
写真を見比べたりしているうち「大木家」ではないかということに絞られていった。絵のように車が通る道に面しているということだし、ハリストス教会とリール·エ·リールのほぼ間に位置しているから、司馬一行が歩いているうち通りかかった可能性が高い。
そこに行ってみることにして市役所を辞した。

■ 大木家/昭和堂書店

大木家:
セブン・イレブンに車をおいて、数軒先の大木家を見た。たしかに道のそば、塀の向こうに蔵があり、大きな構えとしてはそれらしくある。でもその蔵は塀にそって長く低く、絵では窓が1つきりないのに、ここでは2つあり、これも違うようだった。

須田剋太『陸奥白河町印象』 大木家
須田剋太『陸奥白河町印象』

昭和堂書店:
もう一度昭和堂書店に寄って、今朝、蔵を見た様子など報告する。
ちょうど『司馬遼太郎の街道3』があったので買い求める。

白川市役所で白川ラーメンをすすめられたのだが、昼には早い時間にここまで回り終えたので、先へ行くことにする。
蔵が全部はわからなかったり、おいしそうなものを食べそこねたり、未練を残すのも、また来るきっかけになるから悪いことではない。
白河駅周辺の旧市街は、街並み修景が進んでいて、道は白河石で舗装しなおされていた。
白河石は、なめらかな質感で、品のいい色合いをしている。
車道と歩道を、石のわずかな色の違いで区別して段差をなくしているので、道が広く、ゆったり感じられる。
街なかをいったりきたりしたが、石の上をすべるように移動していた気がする。

白河は人も景色もいい街だった。
結局、『陸奥白川町印象』を描いた場所は特定できなかった。それでもこうして探しているうちに、街のいろんなところを見たり、いろんな人に会ったりするのもこうした旅の楽しみのひとつ。
あちこちで親切な心づかいにふれられて、僕のほうでもやさしい気持ちになり、去りがたい思いを残しながら白河を出た。

* 白河から会津若松に行くのに、司馬遼太郎は猪苗代湖の北岸を経由していきたいと思ったが、でも遠回りになるので、もっと南の118号線で羽鳥湖を経由する道をとっている。とくに羽鳥湖に寄りたい理由があったわけではなく、司馬遼太郎の記述もさらっとしていて、須田剋太も挿絵に描いていない。
あえて羽鳥湖に寄るほどのことはなさそうだし、まだ雨もようでもあるから、僕はより距離が短かそうな、もっと南の289号線を走った。


■ 大内宿
福島県南会津郡下郷町 重要伝統的建造物群保存地区

茅ぶき屋根が並ぶ独特の景観はよく知られている。
ただこんなふうに残ったわけではなく、便利な生活を求める社会全般の流れにそって、ここでも道はコンクリートで舗装され、電柱が並んでいた。
やがて社会が伝統的なものを見直すようになり、ここに暮らす人たちもこの価値を守ろうとする動きがおきて、舗装をはがし、新しくできた並行する道に電柱を移設して、古い街並みの景観を取り戻すことになった。

「これは、すばらしい村です」 須田画伯が、肝をつぶしたような声をあげた。江戸時代そのままのたたずまいだった。(中略)たったいま会津若松城下から、松平侯の参勤交代の行列が入ってきても、すこしもおかしくはない。

須田剋太の絵からは、しばしば謎をかけられるのだが、ここで描いた絵にも気になるところがある。
家々が並ぶ絵は、今の景観そっくりに見える。
ところが須田剋太が来たのは1988年。
電柱の移設工事がおこなわれたのは1989年から1990年のことだった。
絵には電柱がまったくない。

須田剋太『大内宿(B)』 大内宿
須田剋太『大内宿(B)』

司馬遼太郎も前述の文章につづいて
 もっとも、よく見ればちがう。よくみると、茅ぶきの屋根がトタンぶきにかわっている家もたくさんあるのだが、旧観をたんねんに残しつつ修復されている家が多いために、ぜんたいの景観が死ぬことなしに息づいている。
と書いている。(今はトタンから茅ぶきにも戻されている。)
須田剋太もその息づいている景観を細部にこだわらずに描いたろうか。

須田剋太『大内宿(A)』 大内宿
須田剋太『大内宿(A)』

● 山本屋
福島県南会津郡下郷町大内字山本15 tel.0241-68-2912

大内宿 山本屋 司馬遼太郎の文章によれば、ここで山本屋という屋号の店に入り、ところてんを食べている。
ちょうど昼どきで、僕はその山本屋でくるみそばを食べた。
香りたかくおいしいそばだった。(みやげに買って帰り、それもよかった。)

集落の家々は軒並み店を開いている。
縁側でおじいちゃん、おばあちゃんが店番をしているところもあるが、山本屋では若い人が数人はたらいている。古い家に似つかわしい感じのいい人たちだった。
ところてんはなさそうなのできいてみると、もうその季節は終わって(僕が行ったのは9月下旬のこと)、これからはあたたまる甘酒にするのだということだった。

* 大内宿では、傘をもって歩いたが、降られずにすんだ。
121号線、118号線と北上する。
会津若松では行きたいところがいくつかあるが、南から入ったので、まず市街の南東にある松平家の墓所に行った。


■ 松平家の歴世墓所
福島県会津若松市東山町大字石山字院内 tel. 0242-39-1305

会津松平家の歴代藩主の墓が山中に置かれている。
東山温泉の駐車場からはいると、ちょっとした山道を歩いてのぼることになるが、僕は車で裏側の道を上がって、近道して楽に着いてしまった。

幕末の会津藩の過酷な歴史を背負った9代松平容保(まつだいらかたもり)の墓は、西のはずれのほうにあった。
他の藩主の石が黒ずんでいるのに、容保の石は白く新しくみえる。

須田剋太『松平容保墓』 松平容保墓
須田剋太『松平容保墓』

それぞれの墓は、鎮石(ちんせき)と表石(ひょうせき)と燈籠と亀趺坐(きふざ)にのった碑石(ひせき)のセットから成る。
鎮石には、藩主が亡くなって神になった、神としての名を刻む。
表石には、生前の名と官位などを刻む。
碑石には、故人の生い立ち、業績などを刻む。

須田剋太が描いた絵のうち、松平容保の墓は簡単・明白なのだが、もう1枚の絵がわかりにくい。

亀趺坐にのった碑石の絵を描いていて、碑石には「松平宗行碑」という文字がある。
ふつうには、絵にこんなふうに固有名詞がかいてあれば描いた場所を特定しやすい。
ところが「松平宗行碑」が見つからない。
山中に墓がやや離れて点在しているうえ、雨のあとなので足もとがぬかるんでいるし、石を敷いたところは滑りやすい。歩き回って確認する気になれない。
須田剋太「松平宗行碑」
須田剋太『松平宗行碑』

会津の松平家墓所で見る亀趺坐のカメは地面に頭をじっと押しつけている姿だが、絵のなかのカメは首を持ち上げている。 松平家墓所の亀趺坐(きふざ)

似たような名前の「松平宗衍碑」というものが島根県松江市にあるらしい。「行」と「衍」と、1文字違うだけ。
松江城の近くに月照寺(げっしょうじ)という寺があり、松江の松平家の歴代藩主の墓がそこにある。
松平宗衍(むねのぶ)は松江の松平家の6代藩主。
松江の「松平宗衍碑」を写真で見ると、カメは力強く首を上に突き上げている。
須田剋太は「行」とかいているが、正確には「衍」で、絵に描かれているのは松江のものの可能性が高い。
(翌日、会津若松市教育委員会の文化財担当を訪れ、会津の松平家に「宗行」の名はないことを確認した。
松江には後日確かめに行った。→[いつか行きたかった萩・津和野へ-「長州路」2])

* 北に走って飯盛山に行く。
いかにも会津若松の中心観光地らしく、広い駐車場があって、大型の観光バスが数台とまっている。
空が明るくなってきて、もう雨の心配はないようだ。


■ 飯盛山

坂道を上がる。
並行して有料のエスカレーターがある。
上がりきると白虎隊の墓。
修学旅行か社会科見学か、小学生の団体が幾組かいる。
学校では白虎隊の墓を訪れることにどういう教育的位置づけをしているだろう?

須田剋太『白虎隊』 白虎隊の墓
須田剋太『白虎隊』

須田剋太は実景ではなく、なにかの絵から写して白虎隊を描いている。

■ さざえ堂
福島県会津若松市一箕町八幡弁天下1404 tel. 0242-22-3163

飯盛山の中腹にさざえ堂がある。
栄螺堂(さざえどう)は、二重らせんの回廊の仏堂で、一方通行のまま回廊を上がり、下る。
上がる人と下る人がすれ違うことがない。
堂内に仏像が置かれて、堂内を進むだけで巡礼したことになる。
僕は今までに曹源寺本堂(群馬県太田市)と成身院百体観音堂(埼玉県児玉町)のさざえ堂に行ったことがある。
ただどちらも四角い建物の中に、垂直と水平の板を組み合わせたふつうの階段で二重らせんにしている。
会津のさざえ堂は、円形の建物に(すべりどめの桟はあるが)なだらなかスロープで上がり下りする、まさにさざえのスタイルで、ずいぶん前から行きたいと思っていた。
その思いがようやくかなった。

会津さざえ堂 会津さざえ堂ののぼりざか

* 市街地にゆるやかにくだって鶴ケ城の区域の一角にある福島県立博物館の駐車場に車を置く。


■ 福島県立博物館
福島県会津若松市城東町1-25 tel. 0242-28-6000

福島県立博物館 石の前庭の向こうに博物館が水平に構えている。
常設展示は、石器や土器の時代から始まって、現代まで時間軸に沿って構成されている。
展示はUの字形に並んでいて、さらっと見終えて、もとのエントランスホールに戻った。

展示室に「展示解説員」の名札をさげた人がいて、松平家墓所でわからなかった『松平宗行碑』のことを尋ねた。学芸員に確認しにいってくれたのだが、もどってきての回答は「墓所の管理は会津若松市だからそちらできけばわかるだろう」ということだった。

■ 鶴ケ城
福島県会津若松市追手町

明治になって1874年に石垣だけ残して壊された。
1965年に復元、2011年には幕末時の赤瓦屋根を再現した。

須田剋太『つるが城』 鶴ケ城
須田剋太『つるが城』

手塚治虫の初期の漫画に『スリル博士』というのがある。
のちの『鉄腕アトム』にでてくるヒゲオヤジの顔をしたスリル博士と息子のケン太が、次々と事件にまきこまれながら解決していく。
そのなかに会津若松を舞台にした話があって、鶴ケ城の石垣を指さして「会津戦争のときのタマのあとがありますよ」というコマがあるのだが、ほんとうに石垣に弾痕があるかどうかは見そこねた。

* 博物館の駐車場を出て、七日町駅に近い今夜の宿に移動し、チェックインする。夕飯までの時間、散歩する。

■ 七日町通り
福島県会津若松市七日町

七日町駅 七日町駅(左の写真)から野口英世青春館あたりまで歩く。
大内宿の統一的な眺めとちがって、こちらはいろいろな顔の建築が混じっている。元気なときに歩いたらおもしろくて昂揚するかもしれないが、疲れて着いた夕方にはとりとめない印象になってしまった。

● 料理旅館田事
福島県会津若松市城北町5-15 tel. 0242-24-7500

建物はかなり年数が経って味わいがある。それでいて風呂やトイレは現代の仕様にあわせてあるし、館内、室内のデザインもすっきりしている。料理旅館というから料理に重点があるのかと思っていたが、宿泊施設としても快適なところだった。

会津若松 田事

料理はいろりふうの別室でとった。
いろりといっても、これもつかいやすくあらためてあって、ほりごたつのように足をのばせるし、高い位置に卓があって、背を曲げずにゆったり食事を楽しめる。

いろりの向かいに座って一緒に食事をすることになったのは、富山から来られた親子だった。
飲食業でふだんは休みなしで働いているが、ときに固めて休んでしまって、老いた母を車に乗せて旅行に出るという。
今度は東北旅行で、青森まで行ってから三陸をくだり、朝ドラ『あまちゃん』の久慈の海岸にも行ったという。

家族の由来の話がとてもおもしろかった。
富山の家は、もと北前船をもっていた。この仕事は、航海から無事に帰れば大儲け、失敗したらつぶれるというカケのような面があり、うちはつぶれたほう。富山の古来の仕事である薬売りを始めて、北海道と樺太をテリトリーにして回ったという。
僕がこどものころ僕が住む埼玉にも富山の薬売りが来ていたのを覚えている。樺太まで行っていたなんて初めてきいた。
長男は家を出て仕事をしている、このひとは次男だけど、わたしによくしてくれる-とおかあさんが、とてもやさしそうなすてきな笑顔で言われる。
今夜がちょうど94歳の誕生日だという。
10日間ほどのつもりで回っているが、天気や気分しだいで延びてもいいように予備日を2日くらいとってある。行程も宿も気分しだいで、今夜の宿も、今日の午後、どんなところかもわからないけれど電話して空いていたので決めたという。
94歳でこんな旅行ができるのかと感嘆する。
息子さんは船酔いが苦手なのに、母は平気で、高齢な母のほうがタフな場面もあるらしい。
別なところで宴会が開かれているらしい気配があるが、泊まりは僕らだけらしい。この方たちがいなければ、ひとりでポツンとすませるところだった。
思いがけない楽しい食事になった。

もちろんさすがに食事もおいしい。
会津名物のこづゆもあったし、翌朝の食事は、名物のしらすめっぱめしで、満ちたりた。

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第3日 喜多方から福島 [会津若松市役所 興徳寺 まこと食堂 大森家店蔵・小原酒造・甲斐本家・若喜商店 慧日寺跡・恵日寺 福島(泊)]

* きのう行った福島県立博物館で、松平家墓所は会津若松市が管理しているときいたので、まず会津若松市役所に向かった。
通りのつきあたりに、1937年に建った建築が構えていて、風格がある。
1階の受付で尋ねると、松平家墓所はすぐ近くにある別棟の第2庁舎の文化課で管理しているという。
(そちらに行く前に、受付の女性が笑顔ですすめてくれた本庁舎のステンドグラスを見ていく。各階の階段の踊り場にあり、最近修復されたばかり。地味な庁舎内を明るくしている。階段の広い手摺りに、生花が活けてあった。ひとを迎える心づかいが感じられる。)


会津若松市役所 会津若松市役所の中の花

■ 会津若松市教育委員会文化課文化財グループ

須田剋太が『街道をゆく』の挿絵を描いたところをたどっていることを話して、松平家墓所の碑のことをたずねた。
会津若松の墓所に「松平宗行」はないとのことだった。
『国史跡 会津藩主松平家墓所』というパンフレットをいただいた。
そのなかに「会津松平家系譜」がでている。
藩主の名は「正○」か「容○」であり、「宗○」はみあたらない。

須田剋太が描いた絵は、会津のものではないことは確実といっていいようだ。
松江の可能性が高いが、100%そうかといえば、絵では碑石のうえに傘がかかっているように見えるのだが、松江の写真を見ると傘がない。
なぜ松江のものらしいイメージがまじりこんだかのいきさつを含め、ナゾは解けきらなかった。
(後日、松江に確かめに行った→[いつか行きたかった萩・津和野へ-「長州路」2]

須田剋太『会津街頭(A)』 須田剋太『会津街頭(B)』
A『会津街頭(A)』  .   B『会津街頭(B)』

須田剋太が『会津街頭』と題した絵を2点描いているのを旅に出る前に調べた。
Aはなにかの店のようで「老麺会」とかいたのれんがかかっている。インターネットで調べると、喜多方にあるラーメン店の会らしい。
『会津街頭』と絵に記してはいるが、須田剋太は広く会津地域ととらえているようだ。
確認のため、喜多方老麺会に須田剋太の絵の画像をそえてメールで照会した。
「老麺(ラーメン)会」は喜多方だけの組織で、会津若松の店が入っていることはない。絵の店はまこと食堂である」と回答がきた。
のれんと店の様子でAの絵は確実に特定できたといっていいようだ。
Bの『会津街頭』は『若喜屋』だろうとのことで、こちらには推量がはいる。
若喜屋をインターネットでみると、須田剋太の絵にあるような蔵ではなく、近代的スタイルの画像がでてきて、すっきりこれだというふうに思えない。

Bの絵は喜多方ではなく会津若松の建物である可能性もありそうなので、会津若松市文化課であわせてその絵についても尋ねた。
こうしたことには隣の係の男性が詳しいとのことで、声をかけていただき、助言をえられた。
やはり喜多方の蔵だろうとのことで、インターネットで表示した喜多方の地図を印刷したうえ、地図上にこのあたりと印してくれた。
喜多方市役所の北東、印刷してもらった地図では、米沢街道と459号線が交差する南側になる。

突然たずねたのに親切に教えてもらえて、『松平宗行碑』が少なくとも会津若松ではないことが確定できた。
もう1枚の絵についても有力な手がかりをえられて市役所を辞した。

* 市役所第2庁舎の近くに市立図書館があるが、臨時休館日で入れなくて惜しい。
繁華な商業地区の細い道にはいりこんでいくと興徳寺がある。


■ 興徳寺
福島県会津若松市栄町2-12 tel. 0242-22-2993

寺に蒲生氏郷の墓がある。
墓の手前に句碑があり、辞世の句が刻まれている。
 限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風

須田剋太『蒲生氏郷墓(A)』 蒲生氏郷墓
須田剋太『蒲生氏郷墓(A)』

蒲生氏郷は京都で亡くなり、ここには遺髪がおさめられているという。
氏郷は秀吉に任ぜられて伊勢にいき、城と城下町をつくって松坂とした。
その後、会津のもとは黒川という地に移され、また城と城下町をつくって、若松と地名をかえた。
故郷の近江日野にある「若松の森」からとったといわれているが、司馬遼太郎は氏郷が松を好んでもいたのだろうという。

須田剋太『蒲生氏郷墓(B)』 蒲生氏郷墓
須田剋太『蒲生氏郷墓(B)』

司馬遼太郎は、『白河・会津のみち』を、平安朝の貴族・文人がいだいた東北への憧れから書き出している。
大阪に住む自身の気持ちも重ねてもいるだろう。
そして、なかでも会津への思い入れが深い。
会津藩について書きたい。
なにから書きはじめていいかわからないほどに、この藩についての思いが、私の中で深い

ところが興徳寺をさがして歩いているとき、編集部の浅井氏が「会津若松市というのは、商都なんですね」とつぶやく。
司馬遼太郎も、松平家の歴世墓所にのぼる道のやや荒れた様子や、白虎隊の墓のある飯盛山に有料のエスカレーターまでついて観光地化していることに、とまどいの気持ちを記している。

僕は白河を通って会津若松にやってきた。
会津若松に入ると、白河に比べて雑然としている印象をまずうけた。
でも、白河は歴史がのこる区域が狭い範囲にまとまっているからやりやすいということがありそうで、会津若松の規模になると街づくりに困難が大きいだろうと思い直した。
それでも古い建築美はあるにしても機能的には使いにくそうな市役所を、整備しながら使いつづけようとしているのを見たおかげで、街づくりへの強い意志を感じた。
廊下に生花を飾ってあったのも、小さなことだけれど、忘れがたい。

* 『街道をゆく』では喜多方についての記述はないから、僕もはじめは行くつもりはなかった。
ところが、須田剋太の『会津街頭A』の絵に、喜多方の老麺会ののぼりが描いてある。「会津」とは会津若松に限らず、会津地方のことのようだから、会津若松市から北上して喜多方に向かう。

喜多方市に入って、市役所のやや北の住宅街にまこと食堂がある。店の前の道は広いが、幹線ではなくて通過交通がないので、ゆったりしている。
道の向かい側にある駐車場に車を置く。


● まこと食堂
福島県喜多方市小田付道下7116 tel. 0241-22-0232

11時少し前に着いたが、店はもうあいている。
ラーメンで知られる喜多方のなかでも有名店で、行列にもなるらしい。昼には早い時間だが、並ばずにすむうちに着いたのをさいわい、ラーメンを食べに入る。
喜多方では朝もラーメンを食べるのがふつうのことといい、この店も朝の7時半からあいている。
今は老麺会に加わっていなくて、須田剋太の絵にあったような垂れ幕らしきものはでていない。

須田剋太『会津街頭(A)』 喜多方 まこと食堂 
須田剋太『会津街頭(A)』

奥のテーブルつくと、正面に家の居間がむきだしに見えている。
といってもほとんど営業空間になっていて、真正面に置かれた大型テレビは客に見せるためのようだし、持ち帰り用のおみやげラーメンの黒い箱が積み上がっている。
注文して待っているあいだに、地元の人らしい女性2人が来店して、おみやげラーメンを買っていった。味にうるさいだろう地元の女性がこのように買っていくくらいだからおいしいのだろう。

ラーメンができあがってきて食べてみると、確かにおいしかった。
旅の終わり近くならおみやげラーメンを買って帰りたいところだった。

『街道をゆく』の文章では、会津若松で旅が終わっていて、喜多方のことは書かれていないい。文章にはしなかったが、喜多方にもまわって司馬遼太郎一行もラーメンを食べたろうか?

* まこと食堂の近くの月見橋を東へ越えると、米沢街道が南北に走っている。
まこと食堂から500メートルほどのところが、会津若松市文化課のひとから『会津街頭(B)』はここではないかと教えられた地点になる。



この蔵をさがして、ここからさまようことになった。
須田剋太『会津街頭(B)』
須田剋太『会津街頭(B)』

■ 大森家店蔵

地図にマークされたところに着いてみると、ほとんど須田剋太の絵のように見える蔵があった。
「大森家店蔵」という案内板があり、「乾物商・山林地主として知られた村松屋の店蔵」で、建ったのは江戸時代(推定)とある。
シンプルな蔵なので、ほかに同じ形の蔵がないとも限らない。確証がえられるといいが、閉まっていて入れないので、店を開いている隣の小原酒造に入る。
大森家店蔵

■ 小原酒造(おはらしゅぞう)
福島県喜多方市字南町2846 tel. 0241-22-0074


こちらは現役の造り酒屋で、中に入るとそそられる瓶が並んでいる。車でもあるし、先が長いので、酒瓶に向かう気持ちは抑えて、絵のことを尋ねる。
ところが絵を見てすぐに「この黒漆喰の蔵はここではない。これは甲斐本家だ」と断言された。
こうきっぱりと別だといわれれば、未練が残るが、ここではないのだろう。そちらに行くしかない。
小原酒造

車を置いた小原酒造の駐車場に戻ると、広い敷地に小さな蔵があるのが目についた。実用には使っていなそうな朽ちかけた蔵で、開いた扉に絵が描いてある。
中に入ると女性アーティストが蔵の内側の壁にも絵を描いている。佐藤恵さんで、10月11日から始まる「福島現代美術ビエンナーレ 2014」にむけて制作しているところだった。完成したのを見たいが、すぐもう一度は来られないか。

* 歩いても10分もかからないだろうかという位置にある甲斐本家に行った。
車で行くと、かえって駐車場をさがすのに手間取ったが、店の裏手にあった。


■ 甲斐本家
福島県喜多方市字一丁目4611番地 tel. 0241-22-0001

もとは味噌や醤油の醸造業で、財をなしてつくった蔵座敷が有料で公開されている。
蔵は、似てはいるが、決定的に違うのは須田剋太の絵では窓が3つ、ここは4つあること。
細部を省略することがあるとしても、こういう変えかたはしないと思える。
受付にいる人にきいても、こんなふうに白いのれんを下げていたことはないだろうとのこと。
すっきりしないことになってしまった。
甲斐本家

まこと食堂のことを回答いただいた喜多方老麺会からのメールには、もう1枚の『会津街頭(B)』は若喜商店ではとあったから、そこに向かった。

■ 若喜商店
福島県喜多方市字三丁目4786 tel. 0241-22-0010

喜多方の観光案内などでもよく紹介されていて、代表的な店のようだ。
通りの角にあって店の顔になっている建築は1933年築。
奥に1905年築のレンガ蔵があるのだが、須田剋太が描いた蔵とはあきらかに違う。
(ちょっとくたびれてきて、この写真は車で近づいたとき、車の中から撮ったもの。)
若喜商店

店に入ると、ファイルをかかえた建築見学らしいグループに、この蔵座敷は今では得がたい柿材を多用した珍しいものだと、ここの主らしき女性が説明している。
グループへの説明がすんだところで須田剋太の絵を示して尋ねると、思いがけない言葉がかえってきた。
「これは若松の福西という綿屋さん。左は渡辺という医者だった。わたしは若松生まれで、この家の前を通って女学校に通った」といわれる。
『会津街頭(B)』の場所さがしは、会津若松の市役所で喜多方の大森家店蔵への示唆を受けてはじめたのだったが、あちこち回ったすえ、すごろくの「振りだしにもどる」ようなことになってしまった。

『会津街頭』の絵については、似たような蔵がいくつかあったが、決定的にこれと断定できるものはなかった。白いのれんに文字が並んでいるのが大きな特徴で、こうした写真があるとか、記憶にある人が現れるとかいうことでもないと決めるのは難しそう。
それでも、たくさんある蔵を漠然と見て回るより、それぞれの蔵の人から話をうかがい、おもしろいことではあった。

* 今夜の宿がある福島市に向かいながら、磐梯町で恵日寺に行く。

■ 慧日寺跡・恵日寺(えにちじ)
■ 磐梯山慧日寺資料館
福島県耶麻郡磐梯町磐梯字寺西38 tel. 0242-73-3000

慧日寺は、平安時代初期の807年に法相宗の僧・徳一が開いた寺。
徳一は、遠い東北の寺にいながら、当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と大論争をしたことが、『街道をゆく』に長い記述になっている。
慧日寺は明治の廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、1904年に復興された。
平安時代初期からの寺院の遺構は、慧日寺跡(えにちじあと)として国の史跡に指定されている。
今、宗教活動をしている寺は恵日寺と称して、文字を使いわけている。

慧日寺跡は史跡公園として整備され、2008年には石敷きの広場に金堂が復元され、磐梯山慧日寺資料館とあわせて有料で公開されている。
1988年の『街道をゆく』の取材時には、資料館にも立ち寄ったことが短く記されている。
史跡公園は石を敷いた広場に朱塗りの新しい建築の金堂が建って明るい眺めになっているが、取材時にはまだなくて、今よりひなびた景色だったかと思える。

ここで須田剋太が描いた2点が『街道をゆく』に掲載されている。
『慧日寺仁王門』は、江戸時代後期の山門を描いている。

須田剋太『慧日寺仁王門』 『慧日寺仁王門』
須田剋太『慧日寺仁王門』

『慧日寺山門』は、明治時代に復興された恵日寺にある山門だが、その山門の建築は江戸・元禄時代とされる。

須田剋太『慧日寺山門』 恵日寺山門
須田剋太『慧日寺山門』

* 『街道をゆく』をたどる旅は恵日寺で終わる。
2011年に起きた東日本大震災後に福島県に入るのは初めてなので、福島市に寄ってから、太平洋岸にでてずっと南下する。

阿武隈川 恵日寺を出たあとは、磐越道、東北道を走って福島市内にはいった。
今夜のホテルに向かう途中で阿武隈川の土手に上がってみる。ときたまジョギングのひとが通る。夕暮れの川景色はものさびしい。
福島駅に近いホテルに泊まった。福島駅に近いホテルに泊まった。

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第4日 福島から広野 [片目清水公園 LVMH子どもアート・メゾン 国道6号線 広野(泊)]

* 福島市内に、原発事故による浪江町からの避難者の仮設住宅がいくつかあり、その1つが福島交通飯坂線笹谷駅の東にある。
新しい住宅が多いなかに、イオンとかケーズデンキとかの大型店舗が点在して、あらたに市街地になってきた地域のようだ。

■ 片目清水公園・福島市東部応急仮設住宅
福島市笹谷字片目清水

小さな公園が見えるので、ぷらぷら歩いていった。
大きな柳の木があり、根のあたりから清水が湧いている。
ふつう山深くにでもありそうなものが、住宅地に唐突にあって驚かされる。
片目を矢で射られた武将がここで目を洗ったら治ったという物語が、そばの解説板に記してある。
片目清水公園

犬と散歩する女性がいらして、泉や柳やの話をしていたら、仮設住宅に暮らす人だった。話しながら仮設住宅のほうに歩いていくと、そのひとの住まいの前には花や木がたくさん育てられている。
いちばん背が高いのはミモザの木で、淡い緑の葉がいきいきしている。
2011年3月の震災後に仮設に入り、5月ころに植えた小さな木が、3年経って屋根より高くなってしまった。こんなに長くなるとは思わなかったといわれる。
福島市 仮設住宅

復興住宅には抽選ではずれて、まだ入れない。こういう状況に陥っているのに、クジで落とされるという不運をあらためて味わうのはつらい。
それでも、この女性は、花木を育て、犬と暮らして、生活を楽しむ気持ちがあるが、ひとりで沈んでいく人も少なくないといわれる。

* 内陸の福島から、海辺の相馬へ、山を越える。
幾台もの大型トラックとすれ違った。復興工事にかかわることを示す四角いオレンジ色のステッカーを車の前面につけている。「相馬福島道路」という新しい道を作る工事が進行中だが、、全線開通には10年もかかる計画のよう。福島市と相馬市を結び、その間はほとんど山中というところに2車線の自動車専用道が作られている。


相馬市内に入る。
常磐線の相馬駅は小さい。
小ぶりの駅前広場を囲むのも、ほとんど低層の商店や住宅ばかり。昼近いのだが、広場に面してある蕎麦屋はのれんがさがっていなくて休みらしくて、あまり活気がない。


■ LVMH子どもアート・メゾン
福島県相馬市中村2-2-15 tel. 0244-35-6200

モエヘネシー・ルイヴィトン(LVMH)と福島県相馬市が2014年7月2日にオープンしたばかりの施設。
相馬市が所有する1,500㎡の敷地に、LVMHの支援で坂茂氏の設計による建築が建った。坂茂氏は阪神淡路大震災でも紙管による教会を建てるなど、災害時の緊急建築を多く手がけてきた。ここでも柱は紙管で、椅子も紙製。
東日本大震災で被災したこどもへのフォローをするところで、絵本や書籍がある図書室や、作曲教室などが開かれる研修室や、心のケアのための相談室がある。図書室の本は株式会社図書館流通センターが出版社に協力を呼びかけて集めて寄贈された。

中庭をガラス壁が囲んでいて、中はとても明るい。
両親と、きれいな着物を着た女の子の家族がいた。女の子は本を読んだり、ときたま中を歩き回ったり。とてもなごんでいるふうで、きいてみると今日管理についている女性のお孫さんだった。
七五三のお参りにでかけるところで、本当はまだ早いが、単身赴任している父が帰ってきた機会にすませることにしたという。
LVMH子どもアート・メゾン 中庭

* 国道6号線を南下して、南相馬市から浪江町に入る。

■ 双葉ギフト浪江店
福島県双葉郡浪江町高瀬字牛渡川原217

もとはギフトショップだった建物が、廃棄物の収集作業のための作業所になっている。
かつてギフト用品が並んでいたろうガラスケースなどに、被災者が所有していたカメラや帽子やアルバムなど、いろんなものが置かれてある。
それぞれに人生がこもっているはずで、いたたまれない思いになってくる。
双葉ギフト浪江店

外に出て見まわすと、ファッションセンターしまむらの赤い看板。
上にボーリングのピンをのせたナミエボウル。
FLORAメモリアルホール浪江。
いずれも建物が残っているが、いたんで無人で荒涼とした眺めになっている。
しまむら

■ 国道6号線

そこから南に行くと、福島第一原発に近づき、通行禁止だった地点になる。
許可証がない車は進入できなかったが、10日ほど前(2014.9.15)から一般車も走れるようになった。
ただし駐停車禁止だし、横にそれる道へは入れない。
ひたすらまっすぐ走り抜けることになっている。
第一原発からいちばん近いところでは直線距離で2.5キロの地点を通る。

走っていくと、結婚式場やコンビニやガソリンスタンドがあり、もちろん無人。
交差する道のいちいちにフェンスや障害物があって曲がれないようになっていて、ガードマンが立って見張っているところもある。
国道6号線 信号

右へ進めば双葉駅にいたるらしい道に、通りを横断する看板が見えた。
「原子力あかるい未来のエネルギー」
現実は明るい未来ではなかった。
第一原発が近づくと、原発に向かう左折レーンがあって分岐している。

国道の両側に家が並ぶ集落の間を通過する。
家々の門ごとに金属の柵で立入禁止にしている異様な景色。
国道6号線 家を封鎖している

* 双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町を走り抜け、広野町にはいる。
今夜の宿は、ぎりぎり原発20キロ圏のすぐ外にある広野町にある。
国道6号線を南下してきて、右折してホテルに向かおうという交差点で赤信号で停車した。
サーフボードをかかえた男が自転車で左から右へ-海から内陸方向へ-横切っていった。まだ原発の影響圏内と思っていたからビックリした。
交差点の左には、海辺に東京電力広野火力発電所がある。その北側には岩沢海水浴場があり、南側には広野海浜公園がある。
地図上で直線距離を測ると、第一原発の中心地点から岩沢海水浴場までは20.2km。
こういう距離で水に入って大丈夫だろうか。


● バリュー・ザ・ホテル広野
福島県双葉郡広野町大字上北迫字岩沢29-130 tel.0240-28-0567

バリュー・ザ・ホテル広野 福島第一原発から直線で20kmほどの位置にあり、ホテルでもあり、復興事業従事者の宿舎でもあるような宿泊施設。
長いコンテナが平行に数棟ならんでいる。
ホテルの部屋はふつうのシングルルーム。
共用部分には、長期滞在者用にコインランドリーがあり、ごみを分別して捨てるように大きな容器が置いてある。

夕食のレストランに、自販機で缶ビールを買って入り、バイキング方式で食べる。すむと細い水が流れっぱなしになっている台で食器を軽く洗って水槽に返すから、学生食堂のようだった。
部屋でテレビを見ていると、NHKの天気情報のあとに放射線量の画面がでる。

朝の食券には、時間が3:30~8:00とある。
僕は6時ちょっと前にいった。
夕食のときは、ラフなTシャツやジャージが定番ふうだったが、朝はこれからすぐ仕事に向かう緑色の作業服の人が多かった。
バリュー・ザ・ホテル広野の朝食券

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第5日 いわき [元いわき市立豊間中学校 塩屋崎灯台]

* 広野町は、東西に長いが南北方向は短い。北端にあるホテルから数キロ南下すると、いわき市に入る。
いわき市は大きな市で、最北端から最南端まで直線距離でおよそ50キロもある。
原発近くの太平洋岸には、浪江町から広野町まで6つの小さな町がある。
その北と南に、広域合併でできた大きな南相馬市といわき市があり、原発と地域経済の関係が地図にあからさまに見えている。


■ (元)いわき市立豊間中学校
福島県いわき市

いわき市平薄磯(たいらうすいそ)地区は、いわき市のなかでも東日本大震災の被害が大きかったところ。
海岸に沿った道を南に走っていくと中学校があった。
周囲にあった家はほとんど流され、茫洋とした景色が広がっているが、中学校は耐えて残り、生徒は避難して中学校での犠牲者はなかった。

「祝 第40回東北中学校バレーボール大会出場 会場秋田市立体育館 いわき市立豊間中学校男子バレーボール部」という垂れ幕がかかっている。
地震の前の年の8月に開催された大会だが、垂れ幕は津波に流されずに残り、その後もあえて撤去されないままになっているようだ。
被災したいわき市立豊間中学校

中学校は内陸部に移転するが、被災した校舎を残すかどうか、住民の意見が分かれた。
いわき市は、津波の脅威を後世に伝えるため、校舎の一部をについて国の復興交付金を活用して保存する震災遺構の候補に選んだ。
しかし、「保存すべき」という市民もあるが、「見るのがつらい」という意見も強く、市は解体方針を決めた。
(追記:校舎は2015年に解体され、跡地は2018年に薄磯防砂緑地となった。)

* 海岸沿いに南に走ると、すぐ灯台がある。灯台の下には、見学者用の駐車場があり、土産物店も営業していて、けっこうな人出でにぎわっている。

■ 塩屋崎灯台 
福島県いわき市平薄磯宿崎34

灯台は地震で壊れたが、2012年12月に復光した。
真っ白な灯台は、塗装したばかりでくっきりして、日射しを反射してまぶしい。
灯台の上に上がると猛烈な風が吹きつけてきて、ほほがひきつる。
(左上方の白い建物が、もと豊間中学校)
塩屋崎灯台からの眺め

* 小名浜港の西側に、イベント施設と水族館「アクアマリンふくしま」がある。
日曜日のことでイベントがあって混雑していて、広い駐車場の端のほうにようやく車を置けた。

常磐自動車道、東北自動車道を走って帰った。

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参考:

  • 『街道をゆく 33』「白河・会津のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1989
    『司馬遼太郎の街道3』 朝日新聞出版 2014
  • 『白河物語 ある回想と模索の記録』 山本敏夫 1988
  • 『スリル博士』 手塚治虫 ポプラ社 2008(あかしや書房1959の復刻版)
  • 『津波被災前・後の記録 2011.3.11東日本大震災 宮城・岩手・福島航空写真集』 社団法人東北建設協会編 河北新報出版センター 2012
  • 記載内容は2014年に行った当時のことが基本で、その後の変化については確認できた一部だけ追記した。
  • 4泊5日の行程 (2014.9/24-28)(-車 …徒歩 =タクシー)
    第1日 (東北自動車道)-境の明神・白河神社-犬神ダム-ビーライフうおいち-白河市立図書館…白河駅…白河ハリストス正教会…昭和堂書店…関川寺…小峰城…白河市立図書館-白河ビジネスホテル…昭和堂書店-Rire et Rire リール·エ·リール=白河ビジネスホテル(泊)
    第2日 -白河市役所-Rire et Rire リール·エ·リール-大木家住宅-関山寺-昭和堂書店-大内宿・山本屋-松平家の歴世墓所-飯盛山・さざえ堂-福島県立博物館・鶴ケ城-料理旅館田事(泊)…七日町通り
    第3日 -会津若松市役所…興徳寺-まこと食堂-大森家店蔵・小原酒造-甲斐本家-若喜商店-会津村-慧日寺跡・磐梯山慧日寺資料館・恵日寺-福島県教育会館-東横イン福島駅東口2(泊)
    第4日 -片目清水公園・福島市東部応急仮設住宅-浪江in福島ライブラリー-福島県立図書館・福島県立美術館-相馬市図書館-LVMH子どもアート・メゾン-丁子屋書店-フレスコキクチ相馬店-南相馬市立図書館-(国道9号線)-バリュー・ザ・ホテル広野(泊)
    第5日 -浜風商店街-道の駅四ツ倉港-いわき回廊美術館-平薄磯・(元)いわき市立豊間中学校-塩屋崎灯台-アクアマリンふくしま-(常磐自動車道・東北自動車道)