いつか行きたかった萩・津和野へ-「長州路」 2


司馬遼太郎の『街道をゆく』長州の取材は、1970年で、山口県の下関市、山口市、島根県の津和野町、益田市と移動している。
このとき須田剋太は司馬遼太郎とは別に旅している。
司馬遼太郎は萩には行かなかったのだが、文章ではふれていて、須田剋太は萩にも行ったようでそこの風景を描いている。
僕は山口市にはすでに行ったので、この旅では、北九州空港からスタートして、下関-防府-萩-津和野と移動した。
萩と津和野は、前から行きたいと思っていたところで、『街道をゆく』で須田剋太が描いた地をめぐることがいいキッカケになった。
あと、須田剋太が会津で描いた絵について気になることがあり、かなり長い移動になるが松江に確かめに寄り、米子空港から帰った。

第1日 下関から防府へ [平家の一杯水 赤間神宮 壇ノ浦 下関港国際ターミナル ビジネスホテルあけぼの(泊)]  
第2日 防府から萩へ [三田尻港 山頭火生家跡 周防国衛趾 毛利博物館 月の桂の庭 三輪窯 松陰神社 吉田稔丸誕生地 萩博物館 山口県立萩美術館 旅館芳和双(泊)] 
第3日 萩から津和野へ [津和野城跡 津和野町民俗資料館 森鴎外記念館 西周旧居 津和野町郷土館 安野光雅美術館 のれん宿名月(泊)]
第4日 津和野から松江へ [桑原史成写真美術館 月照寺 カラコロ工房] 

* 「長州路」のうち前に行った山口市については[ 初めてのおいしい山口-「長州路」1]

第1日 下関から防府へ [平家の一杯水 赤間神宮 壇ノ浦 下関港国際ターミナル ビジネスホテルあけぼの(泊)]

* 羽田から北九州まで初めてスターフライヤーに乗った。
羽田では羽田空港第1ビル、南ウイングの一番はじ、スターフライヤー専用の手荷物検査場から入った。
右の窓際に座る。
離陸してすぐ右旋回し滑走路を見おろすようになり、着陸していく飛行機が見える。
ベイブリッジ、横浜スタジアムが見えたが、冨士は左にあって見えない。
長浜、彦根城など、琵琶湖の東岸をたどる。
広島市は幾筋にも分かれる河口にあることが見てとれる。
海に突き出した山口宇部空港、宇部興産の橋が見えて(前に「長州路1」の旅で行ったところ)、まもなく北九州空港に降りる。
機内では飲み物サービスもあり、快適だった。
夕方には新下関駅近くで返す予定でレンタカーを借りる。
苅田北九州空港icから高速道路に入る。


● 関門自動車道めかりP.A.

関門海峡を越える直前にパーキングアリアがあり、11:50ころにさしかかった。
昼にしようと車を駐めた。


レストランには入らず、助六寿司の折とコーヒーを買って、休憩所の大きなガラス窓のカウンターに腰かけた。
目の前に関門海峡が横たわり、向こうに下関市街があり、関門橋が越えている。
関門自動車道めかりPA

橋を越えた先の左に、小さく赤い屋根が見える。
須田剋太が描いた『赤間神宮』らしい。
『街道をゆく』の挿絵の地をめぐっていて、最初の到着起点からこんなに早い時間にいきなり絵の場所が現れるのは珍しい。
展望台に出てみると、海峡のこちら側、左手視界の隅に門司港が見える。
10月初め、晴れていて、いい旅日和だ。
日射しが熱く感じる一歩手前くらいでちょうどいい。

* 橋を越えて、東へ、海岸に沿った道を走る。
海辺の目的地「平家の一杯水」らしきところを通りかかったが、駐車場がなさそう。
いったん行き過ぎてから引き返し、セブンイレブンに駐車した。
近くに歩いていくと「海響れすとらんしずか」という和食レストランが見えたので、店に入ってたずねた。親切に店から出て案内してくれて、店の入口とはすぐ反対側(西側)に降りたところにあると教えてもらった。
(海響れすとらんしずか:山口県下関市前田2-1-1 tel. 083-223-6251)


■ 平家の一杯水
山口県下関市前田

須田剋太『関門海峡早鞆の瀬戸』
須田剋太『関門海峡早鞆の瀬戸』

平家の一杯水

須田剋太の『関門海峡早鞆の瀬戸』には、海辺に「史跡平家の一杯水」と記した標柱が立っている。それで「平家の一杯水」という史跡に来たのだが、どうも様子が違う。
そこにいくつかの俳句を刻んだ石が並んでいるふうで、公園のような所らしい。

レストランのすぐ先の階段を降りると、浜に赤い鳥居と小さな井戸がある。
壇之浦の戦いで傷を負ってたどり着いた平家の武将が、ここで水を見つけて飲んでみると真水だったが、もう一口飲もうとしたら塩水になっていた-という伝説が残る。
眼前の風景は、いかにもその伝説に似つかわしいが、浜に井戸と鳥居があるだけ。須田剋太はどこか別の公園を描いたのだろうか。

剋太の絵にある句碑らしいものには、こんな文字が書かれている。
「渦を行く 船の軽さや 春の海」
「桃支(?) 散るさくら 意志ある 」
「海苔匂ひ 唐船竜(?)の 」
「吹く風の なを小寒 」

最初の句はきっちり一句として読みとれるのだが、インターネットで検索してもでてこない。
帰ってから観光関係や下関の俳句サークルなど、いくつか照会したが、どこでも不明で、絵の場所は謎のままになった。

(絵のタイトルについて、所蔵する大阪市では『関門海峡里鞆の瀬戸』としているが、ここは「早鞆の瀬戸」(はやとものせと)が正しく、画中にもそう描いてある。)

* 海沿いの道を西へ走る。関門橋をくぐって、わずか先に赤間神宮がある。

■ 赤間神宮
山口県下関市阿弥陀寺町4-1 tel. 083-231-4138

壇ノ浦の戦いで平氏とともに海に没した幼い安徳帝をまつる神社。
いまある赤間神宮の建物や楼門は1958年につくられた。

「浪の下にも都のさぶらふぞ」と二位尼が幼年の帝をなだめてともどもにしずんだことから、設計者は少年の霊をあざむくまいと思い、その宮を龍宮造りにしたにちがいない。こういう優しさというのはわるくない。(『街道をゆく 1』「長州路」司馬遼太郎。以下引用文について同じ。)

と司馬遼太郎は感想を記している。
前の道から見あげると、青空を背景に赤と白の水天門が凜としてある。
道で見あげている背中のほうにはすぐ海があり、なるほど龍宮城になっている。

須田剋太『赤間神宮』 赤間神宮
須田剋太『赤間神宮』

境内を左にいくと「平家一門之墓」がある。
案内板に、葬られている人の名が記してあり、平有盛以下13人の男性と、最後に女性がひとり、従二位尼平時子とある。

須田剋太『平家一門之墓』

須田剋太『平家一門之墓』
平家一門之墓

平家一門之墓

須田剋太が『平家一門之墓』を描いていて、実際の風景と見比べてみると、墓が並ぶ様子はほぼ風景どおり。
でも絵では向こうに海があるが、実際は右上の写真のように木が繁っている。
右下の写真のように塀が直角になっているところは、絵とは別の方角にあり、(木が繁ってしまって見えなくなっているが)向こうに海がある。
つまり、「並んでいる墓」と「向こうに海がある、直角に曲がっている塀」とを合成したと考えられる。

ちょうど数人のグループに説明している人がいらして、絵を見てもらっておききした。
墓は荒れていたのを明治期にここにまとめた、それ以後は変化はないはずといわれる。
須田剋太は平氏の墓の背後には木々より海がふさわしいと考えたのかもしれない。

海を画面にいれるために視点が高い位置に設定してある。
想像上で高い視点から見たかのように変形して画面におさめるということも、須田剋太の作品ではしばしばある。

■ 壇ノ浦町漁港

海岸沿いをはしる9号線を横切り海岸にでると、小さな港がある。
愛らしいとでもいいたくなるほどにこぢんまりしていて、堤で囲われたなかに小さな船が並んでいる。
コンクリートの高床の上に、住宅が長屋状にくっついている。
背後には背が高いマンションがいくつもあり、そこに住んで海峡を見おろしたら気分がいいだろう。

須田剋太が描いた『壇ノ浦町漁港』は、赤間神宮から近いここだろうか。
絵では対岸の門司に高い塔のようなものがある。
工場の施設だろうか。
今、門司にある高い建物といえば、門司港レトロハイマートという高層マンションがあるが、1999年にできたものだから、『街道をゆく』の取材のころにはなかった。
壇ノ浦町漁港

須田剋太『壇ノ浦町漁港』
須田剋太『壇ノ浦町漁港』

■ 下関市立中央図書館
山口県下関市細江町3-1-1 tel. 083-231-2226

「平家の一杯水」の絵にある公園のようなのがどこか、ナゾがとけるかもしれないと考えて図書館に寄ってみた。
司書の方が、自分でも思いあたるところがないということだし、資料をいくつかあたってみても見あたらなかった。

* 図書館は下関市生涯学習プラザという大きな複合施設内にある。
下関港まで近いので、車をおいたまま歩いて行ってみることにした。


■ 下関港国際ターミナル
山口県下関市東大和町1-10-50 tel.083-231-1390

下関をめぐっているうち、突然下関港に行ってみることを思い立ったのは、ブルーノ・タウトが日本を去るときそこからだったと思い出したからだった。
タウトは祖国ドイツがナチスの支配下にはいったので日本に逃れて、1933年から1936年まで滞在した。
ドイツ寄りだった当時の日本では、タウトは窮屈に過ごし、トルコに招かれて旅立った。
タウトが下関港を出たのは1936年10月15日。
僕が下関港に向かったのは2015年10月14日。
79年前の明日だったことになる。

下関港国際ターミナル 海峡ゆめタワーの下をすぎ、港にまっすぐ向かう位置にくると、下関港国際ターミナルから長い高架歩道がのびてきている。
近づいていくと、国際ターミナルのビルの向こうに最上部が見えているほどに大きなフェリーが泊まっている。

下関と釜山の間は、どちらからも1日1便、夜出て朝着く便が出ている。
僕がターミナルに行ったのは午後の早い時間で閑散としている。
今夜の便に乗るのを待つ様子の韓国人らしい数人のグループがいくつかあり、あちこちで大きな荷物を荷作りしている人がいる。買い物ツアーに来ているのだろうか。
タウトはここから発っていったのだと、ちょっとした感慨があるが、今はなにかしら具体的に偲ぶきっかけになるようなものはない。

* レンタカーを返す前に給油すると3.5リットル、434円だった。
60キロほど走ったろうが、軽自動車なのでガソリン代はわずかですんだ。
ニッサンレンタカーの営業所は新下関駅に近い。
改札口を入ると、新幹線のホームはすぐ近いのだが、在来線のホームまではちょっとした距離があり、途中に動く歩道まであるほど。
余裕のある時間に着いておいてよかった。
新下関駅15:59に乗る。
たしか4両編成で、途中、高校生が乗ったり降りたりした。
宇部、山口を過ぎて、防府駅に30分ほどで着く。

防府駅前は整備されているが、ホテルに向かって歩いていくと虫食い状態に空き地がある。
食事をする店も散在していて、ひかれる店がない。
駅に戻ってイオンにあるレストランのひとつで食事した。


● ビジネスホテルあけぼの
山口県防府市八王子1-24-29 tel. 0835-22-1267

旅に出る前、防府の宿をさがしていると個人経営らしい小ホテルがあって、予約した。
個人経営のホテルは、ちょっとしたところに細かな心づかいが行きとどいていたりしてアタリなことがあるが、ここは期待どおりの大アタリだった。
(ホテル名がストレートで、ありきたりのビジネスホテルふうなのが惜しい気がする。うっかりすると見逃してしまいそう。)

4階建ての4階の部屋に入る。
部屋はとても広いというほどではないが、ベッドがほとんどを占めて窮屈ということがなく、部屋とベッドのバランスが適度でゆったりしている。
1階に愛らしいレストランがある。
あいにく定休の水曜にあたっていて夕飯は食べそこねた。(それで駅前ですませてきた)

朝食はレストランで。
インテリアがさりげなく落ち着けていい。
和朝食は7時から、洋朝食はパンを焼く手間がかかるので遅くなり7時半から。
早く出たいので和食を選んで、それはおいしかったが、洋食に心が残った。
玉子を生にするか焼くか、きかれて、目玉焼きにしてもらった。
ビジネスホテルあけぼの

朝食後、ホテルの主人に須田剋太が描いた地をたどっていることを話し、絵の場所に心当たりがあるかたずねた。
『周防灘防府漁港』の絵には、漁港とはいいながら漁師には見えない人たちが大勢いて、渡し船らしい。

防府からの渡し船は向島(むこうしま)と野島の2つの可能性があるという。
向島は本土側から川1本隔てたくらいの近くにあり、1950年には橋が架かっている。
野島は15キロほど沖にあり、定期船が今も出ている。
高速船ができて速くなった。
島には、細い、味のある路地があったりして魅力的だが、若い人が減っている。
私も好きなところで、ときたま遊びに行く。

ということからすると、向島には早くに橋がかかっているから、野島行きの乗り場を描いたようだ。
あと、武家屋敷を描いた絵については、古い屋敷は防府天満宮の下あたりに残っていたが、2,3年前に火事でなくなったという。もう少し早く来れば間に合ったか。

こんなふうにあれこれ話をうかがえるのも個人経営のホテルのいいところ。
経営者のご夫妻がそろってやさしい笑顔をされている。
とても気持ちいいホテルだった。

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第2日 防府から萩へ [三田尻港 山頭火生家跡 周防国衛趾 毛利博物館 月の桂の庭 三輪窯 松陰神社 吉田稔丸誕生地 萩博物館 山口県立萩美術館 旅館芳和荘(泊)]

* 朝、レンタカーを借りる。
今回の旅は小刻みにレンタカーにしていて、昨日は北九州空港から下関、今日は防府から萩までを借りている。
今日のレンタカーの賃料はは5000円弱で、萩までは所要90分ほどの見込み。
JRだとそのおよそ半額ですむが、乗り継ぎしだいで3~6時間ほどもかかる。
それに防府市内と萩市内をまわる都合もあるから、レンタカーがずっと便利になる。

タイムズカーレンタルは、防府駅の近くに営業所がある。
走りだしてまず山陽本線を南に横切る。
防府でいま繁華なところは駅西部に移っていると、朝ホテルの主人からきいた。それらしい所を通りかかったが、歓楽街ふう。
ファッションの店とか、おしゃれなレストランがあるとかいうのではなさそうだった。


■ 三田尻港
山口県防府市新田

三田尻港は毛利水軍のころからの重要な港。
近くで製塩が盛んだった時期もあり、長州藩が特産とした「三白」米・塩・紙を運び出す港としても栄えた。
今は塩田だったところに工場が建って、工場地帯になっているようだ。
ホテルの主人が、かつては船上生活者がいたと話していたし、港をあがったあたりには遊郭街もあったらしい。
ふつうに車で行くと、住宅街を抜けてすっと港に近づいてしまい、そんな過去を思わせるところには行き当たらなかった。

三田尻港 野島航路
野島航路の港は、大きな船が出入りする岸壁からは離れたところにポツンとあった。コンクリートづくりの待合所があり、その前に出された時刻表の看板を見ると、1日4往復している。
近くに小さな漁船が泊まるふうではない。

須田剋太『周防路防府漁港』
須田剋太『周防路防府漁港』

須田剋太『周防路防府漁港』には、「漁港」とはあるけれど、旅客らしい人がおおぜいいる。ホテルの主人が言われていたとおり、たしかに渡し船だろう。
この港を描いたように思えるが、確証はない。

* 市街に戻る。

■ 防府天満宮
山口県防府市松崎町14-1 tel. 0835-23-7700

門前に「うめてらす」という道の駅がある。
そこに駐車しておまいりする。

■ 山頭火の生家跡
山口県防府市八王子2丁目


防府天満宮から細い路地をたどって山頭火の生家跡まで歩く。
観光的には「山頭火の小径」と名づけられている。
知らない街で家々のあいだの細い道を歩くのは楽しい。
生家跡には句碑があり、屋根が架かっている。
山頭火の生家跡

須田剋太『防府の街の武家屋敷』

天満宮まで戻るのに、その小径に並行する細い車道を行った。
そこに火事で焼けたという武家屋敷があったらしい。


須田剋太『防府の街の武家屋敷』

* 車で数分走ると、開けた風景のなかに「周防国衛趾の碑」がある。

■ 周防国衛跡
山口県防府市国衙

周防国衙跡(すおうこくがあと)は、かつて周防国の役所(国府)が置かれたところで、公園として整備されている。
道に駐車して写真を撮る。
石碑は絵のとおりだが、木が違っている。目の前にある木は幹がまっすぐだが、須田剋太の絵では曲がっている

須田剋太『周防国衛趾の碑』 周防国衛趾の碑



須田剋太『周防国衛趾の碑』

案内板をつかってかくれんぼのように遊んでいる母子がいる。
車に置き忘れた須田剋太の絵のコピーを取りに戻ったりしてウロウロしていたら、そのお母さんから「写真撮りましょうか?」と声をかけられる。
旅行中たくさん写真を撮るが、たまに日射しのつごうで影をいれて撮ることはあるが、自分が写ることはほとんどない。
たまにはいいかなと撮ってもらう。
須田剋太の絵を見てもらうと、そんなことがあったのかと軽く感心していた。

* すぐ北に毛利博物館がある。

■ 毛利博物館
山口県防府市多々良1-15-1 tel. 0835-22-0001

雪舟の『四季山水図』(国宝)など毛利家の至宝が、毛利家本邸と、増築された展示室におさめてある。

庭にも惹かれた。
多くの庭園が、傾斜に池や水の流れがあったり、築山があったりしても、わずかな高低差だが、ここは深くえぐられたような位置に池がある。深山の渓谷を感じさせるほどに立体的。
本邸が見えるところでは、建築としてのプロポーションがいいし、緑との対比が美しい。
散策路を歩いていくと、木々が密で閉じたところと、疎で開いたところがバランスよく配されていて、目が飽きることなく、新鮮な気持ちがずっと持続していく。
毛利博物館

* 北へ、萩へ向かって、防府市街を出る。
山陽道と山陽新幹線を越えたところで、細い道にはいりこんで寄り道する。


■ 月の桂の庭
山口県防府市右田1091-1

山を背にし、南に向いたゆるい斜面に昔の武家屋敷がある。
庭は桂運平忠晴が1712年に造ったと伝わる。
白砂と石を組み合わせた枯山水の庭園で、その簡素さと、小高い位置から見晴るかす借景がみごとなものらしい。
その庭で月待(つきまち)の行事が行われたことから、「月の桂の庭」とよばれる。
今は11月初めの月待ちのときだけ公開される。
行っても入れないのは承知のうえで、優雅な名前にひかれて門前まで行き、須田剋太の絵から中を想像してみた。

須田剋太『防府市塚原月の桂の庭』 月の桂の庭
須田剋太『防府市塚原月の桂の庭』 小道を行った正面に屋敷がある。

* 防府から萩へ、JRだとカタカナの「コ」を左右反転したふうな経路で、逆「コ」の字の右下から右上へ移動することになる。
乗り継ぎしだいで6時間ほどもかかることがある。
車だと北へほぼ一直線に行けて、僕はレンタカーで走った。

萩へは初めて行く。
地図を見ると、独特な地理をしている。
中心の城下町は、川の三角州にある。本土からは完全に川で切り離された島状になっていて、8本の橋でつながっている。
近代にできた鉄道は城下町に入れなくて、三角州の南に萩駅、東に東萩駅がある。


● 道の駅萩往還 うどん庵橙々亭
山口県萩市椿字鹿背ケ坂1258 tel.0838-22-9889

南から萩へ近づいていくと、まだ山中を抜けきらないうちに道の駅があった。
ここで、ざるうどん+長州鶏定食でランチにした。
安くてなかなかおいしい。
道の駅では、松陰記念館を併設しているが、パスして北へ向かう。

* 三角州の東の外側の狭い地域に、松陰神社や伊藤博文旧宅などの名所旧跡が集中しているところがある。
そこからわずかに北、椿東小学校のわきの細い道をはいっていくと三輪窯がある。


■ 三輪窯
山口県萩市椿東無田ヶ原2721 tel. 0838-22-0448

萩焼窯元・三輪窯では、代々の当主が三輪休雪(みわきゅうせつ)を襲名している。
僕が埼玉県立近代美術館に勤務していた頃に陶の展覧会があり、そのとき展示された第12代の作品を見て、すさまじい造形に圧倒されたことがある。
(その作品に、このあと山口県立萩美術館で再会した。)

三輪窯 それで三輪窯に行ってみようと思ったのだが、小学校脇を入っていくと、細い道の左に駐車場と石の庭がある。
右に住居があり、おそらく制作場もその奥にあるようだ。

どこを見てもたたずまいが美的ですがすがしく、絵にも写真にもなる。
極小だが、桃源郷とか小宇宙という言葉が思い浮かぶ。
鹿児島にある沈寿官窯と同様、特別な場所という印象を受けるが、沈寿官窯のように公開しているふうはなく、ひっそりしている。

* すぐ近くにある松蔭神社へ。
駐車場があり、観光バスだけ有料で、ふつうの車は無料で置ける。


■ 松陰神社・松下村塾
山口県萩市大字椿東1537 tel. 0838-25-3139

今年(2015年)のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のゆかりの地ということでか、観光のグループがいくつもあり、それぞれに案内する人がついて説明している。

神社内に吉田松陰が講義していた松下村塾がある。
「明治日本の産業革命遺産」が2015年に世界文化遺産の産業遺産として登録されたが、ここもその1つに含まれている。小さな日本家屋が産業遺産というのが不思議だが、松蔭が工業教育の必要性を唱え、伊藤博文らの人材を育てたからという。
松下村塾

■ 吉田稔丸誕生地

松陰神社の駐車場から参道にさしかかる手前で右に出てしまうと小道があり、「吉田稔丸誕生地」と刻んだ石柱が立っている。
吉田稔麿(よしだとしまろ1841-1864)は、高杉晋作らとともに松下村塾で学んだ。
京都の池田屋を新撰組が襲ったとき、吉田稔麿は中にいて、傷を負いながらいったん脱けだして長州藩邸に知らせている。そのあと戻らなくてもいいのに池田屋に駆けつけて斬られている。

『街道をゆく』の取材のときには司馬遼太郎は萩には行かなかった。
司馬は長州の特性を「怜悧」であることと見ているが、冷たくなってしまいそうな怜悧さへのすくいのように位置づけて「長州路」の結びにこの吉田稔麿のことを書いている。
『街道をゆく』の文章によると、司馬は
このたびの長州ゆきでは萩には寄らなかったが、数年前、萩へゆき、
ふと吉田稔麿の生地にいきあたっている。
 あたりは灌木やら萱(かや)やら松やらが生(お)いほうだいに生いて、そのわめくような緑の雑然としたなかに、小さな門があって、門には戸がなかったような記憶があり(中略)
須田画伯があとで萩へゆかれたから、デッサンの堅牢なスケッチになって、読者の目にははっきりするはずだが、私の文章ではたよりない。
 門のそばに御影石(みかげいし)で「吉田稔麿誕生地」と、いう石柱があったようにおもう。稔麿が稔丸になっていたかもしれない。門の両側は土塀ではなく門をうずめてしまいそうに伸びた生垣で(後略)
と記している。

須田剋太『吉田稔丸の家』 須田剋太『吉田稔丸の家 子供時代の松』
須田剋太『吉田稔丸の家 子供時代の松』
須田剋太『吉田稔丸の家』

現地に着いてみると、たしかに石柱があり、「稔麿」ではなく「稔丸」と刻んである。
でも生垣はきれいに刈り込んであるし、中の庭の木々もよく手入れされ、門はなくなっている。
40年以上の歳月が過ぎれば、とうぜんこういう変化はあるものだろう。

「吉田稔丸誕生地」の石柱 吉田稔丸誕生地

* 島状の三角州に入る。
市役所、高校、美術館、博物館など、主要な公共施設が集積している。
博物館にいくと、入館料510円のところに駐車場が有料で310円もする。


■ 萩博物館
山口県萩市堀内355 tel. 0838-25-6447

名称が単純で区別がわからないが、萩市立の博物館。
今の建築は2004年にできて、まだ新しい。
和風ですっきりしていて、小さな中庭をいくつか作ってあり、気持ちよく見てまわれる。
萩博物館

歴史系の博物館なのに天体観望室まである。
学芸員が解説する世界遺産の映像がわかりやすかった。
なぜ松下村塾が産業遺産なのか、製鉄の炉あと、造船所あと、松下村塾、萩の街と短い映像を組み合わせて構成してあった。

* たいして離れていないが、車で美術館に移動する。こちらの駐車場は無料で、こちらに置いて博物館まで歩けばよかった

■ 山口県立萩美術館・浦上記念館
山口県萩市平安古586-1 tel. 0838-24-2400

山口県立萩美術館・浦上記念館 1996年に丹下健三の設計による本館が建ち、その後2010年に陶芸館が増築されている。
美術館の発端は萩市出身の実業家、浦上敏朗氏が収集した浮世絵、東洋陶磁などが寄贈されたことで、館名に「浦上」をいれて敬意をあらわしている。

陶芸館で「陶-生命の讃歌」展を開催中だった。
かつて埼玉県立近代美術館で見て圧倒された三輪休雪『古代の人・王墓』『古代の人・王妃墓』が展示されていた。
それは1993年の展覧会だったから20年以上経っている。
その展覧会は「現代陶芸うつわ考-視線はいつも暮らしの角度で」というタイトルで、多くが皿や椀や湯呑みや猪口といった、日常づかいの小さなもの。
ところが三輪作品は、3.6m×1.6mの大きな黒い柩が2つ。
遺跡から発掘されたもののように、部分的に欠けてとぎれとぎれになっている。
中には王と王妃の骨格が横たわっていて、金色に荘厳されている。
体の中心あたりに男と女の性器が強調して造形され、生と死が強烈に匂っていた。
展覧会のなかではとても異色で、柩をうつわに見立てる発想もおもしろかった。
陶芸館はスロープで2階に上がるようになっていて、作品を上から見おろすようになる。大きな作品2つがすっと目に入る。前にはこんな立ち位置から見たことがなかったから、懐かしくもあったが新鮮でもあった。
ほかにもエロスが匂いたつような大型の作品が展示されていて魅惑された。

埼玉に出品した頃は三輪龍作という本名だった。
三輪窯では当主の時は「休雪」を名乗る伝統があり、三輪龍作は2003年から第12代の三輪休雪になっている。

* タイムズレンタカーの営業所は東萩駅の近くにある。
レンタカーを返す前にガソリンをいれると、4L×125円で=500円ほどだった。
朝8時に太平洋岸で借りて、日本海岸まで縦断し、夕方までほぼ車でめぐったのにわずかそれだけかと驚いた。軽自動車ではなくコンパクトカーだったが、ずいぶん燃費がいい。
橋を渡って島の外にある営業所にレンタカーを返すと、その車でそのまま宿まで送ってくれた。ちょっとした距離があるし、道がすぐわかるか不安でもあったので、たすかった。


● 旅館芳和荘
山口県萩市東浜崎二区ノ一 tel. 0838-25-3470

旅館芳和荘 正面入口 旅館芳和荘 階段
旅館芳和荘 中庭 旅館芳和荘 中庭の手摺り

元は遊郭だった建物が宿になっていて、萩市の景観重要建造物に指定されている。
部屋は中庭を囲んで□形に配置されている。(建物全体は単純な□形ではない)
回廊に屋根はあるが、風があるときに雨が降れば、廊下や、ときには壁まで濡れる。
中庭には自然な感じで木が育っている。元からそんなふうだったのかはわからないが、作りすぎない感じがいい。
回廊の欄干には文字を刻んだ細工がしてあり、右から左へひらがなで「ちょうしゅうらう」とある。
「長州楼」は遊郭だったころの隠し屋号とのこと。

回廊で庭を見おろしながら、にこやかな主人からきいた話:
ここは元は遊郭。
港に入る男たちのために、遊郭が細い水路にそって集められ、かつてはずらりと並んでいた。
ふつうの宿にしてから40年になる。
かつては同じように遊郭から宿にしたのがもう1軒あったが、廃業した。
水路に木の橋が架かっていて、渡った向こう側に銭湯があった。
館内には階段が4つあり、階段下は収納になっている。
もとは中庭にある井戸から水を汲んでいた。
建ってから長くなるが、歪んだところを部材で補正して使いつづけている。

トンビがピ~ヒュルルと鳴いていき、カラスのカーカーという声もした。
夜9時に街に『新世界』が流れた。
朝6時には『朝だ朝だよ』。
よく眠れた。

夕食はないが、朝食がついていて、1階の別室で食べる。
「新米だからたくさん食べて」と勧められる。
簡素でおいしい食事だった。

歴史がこもった建築、豪華ではないが現代の水準として不足のない設備、あたたかく迎えて話をきかせてくれる主人、それでいて安い。
こういう宿にあたるとしみじみうれしくなる。

● 季節料理いすず
山口県萩市今古萩町8 tel. 0838-22-5196

宿では夕飯がないので、外に出た。
宿ですすめられた「小倉」を見つけて2階に上がると、長身の老店主が、あいにく予約でいっぱいとすまなそうにいわれる。
脇の細い道にウニ丼と海鮮丼のノボリが見えたので行ってみた。
ちょっと年のいった女性2人がカウンターの向こうにいて、僕が今夜の最初の客。
刺身定食+生ビールをとる。
あとからひとり旅の女性が現れ、冷酒と刺身を注文する。
店の明るい店主と女性客と一緒の会話になった。
女性は東京から来たという鉄道ファンの女性。
新幹線で新山口まで来て、帰りも鉄道で帰る予定だが、まだ経路は決めていないといいながら、迷うのが楽しみなふう。
店主はここの育ちで、子どものころ、遊郭には近づかないように言われたという。
うちには風呂があり、銭湯に行く必要もなかった。
大河ドラマと世界遺産で、いま萩の宿はいっぱいでなかなか予約をとれない。
芳和荘のことは知っているが、中には一度も入ったことがないという。
かえって地元ではそんなものかもしれない。

季節料理いすず

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第3日 萩から津和野へ [津和野城跡 津和野町民俗資料館 森鴎外記念館 西周旧居 津和野町郷土館 安野光雅美術館 のれん宿名月(泊)]

* 山口県萩市から島根県津和野町へ、バスで移動した。
JRだと山陰本線に乗り、益田で山口線に乗りかえて行くことになるが、乗り継ぎがおそろしく不便で、3時間以上かかる。
地方の交通は本数が少ないのはしかたないとして、乗客の便宜を配慮して時刻表を組めないものかとよく思う。
前にやはり日本海に沿った地域で、とても本数の少ないバスで駅に着いた時、本数の少ないJRがちょうど発車したところだったことがある。もう数分でもバスの時刻を早めれば間に合うのに、意地悪しているのかと思えるほど。
ローカル線に乗っていて、乗客にはまったく必要性がわからない時間調整とかで20分ほども停車していたこともある。これでは車に勝てないし、のどかな旅情を楽しむつもりでいても、ただ停まっているのはおもしろくない。
萩から津和野へのバスは1日4往復あり、所要1時間30分で2,190円。
JR1,660円より高いが、時間を考えればバスがいい。

まだ萩で行ってみたいところもあるが、それはいいことにして、いちばん早い8:33発のバスに乗った。
(津和野でゆっくりできたので、早いのに乗って正解だった。)
萩-津和野という有名観光地を結ぶバスだが、ふつうの乗合ワンマンバスだった。
三角州内にある宿から歩いて数分のところにあるバスセンターから乗ったが、バスは三角州の外の東萩駅から回ってくる。
先にいたのは観光客の女性2人で、津和野までしゃべり通しで乗っていた。
途中で数人、地元の人の乗り降りがあった。

バスは松陰神社前、東光寺を通って、11号線を東へ走る。
吉部で南に向きをかえ、いったん山口市に入る。
生雲(いくも)の集落を越え、JR山口線三谷駅付近で国道9号線にぶつかる。
あとは山口線とほぼ並行して東北に向かう。
道は山にはさまれているがほとんど真っ直ぐ、ひたすら津和野方向を目指して走る。
開放感のある眺めで快い。
点在する家は、黄土色にツヤを加えたような色の石見瓦で、背景の緑色に映える。
山口県山口市から島根県にはいったところが津和野町。


■ 津和野城跡1
島根県鹿足郡津和野町


須田剋太が津和野城跡を描いている。
向こうの丘に城があり、手前に川と家々がある。
城跡のある丘とほぼ同じくらい高い位置から見ている。

須田剋太『津和野城跡の見える風景』
須田剋太『津和野城跡の見える風景』

津和野城跡あたりを地図で見ると、城跡-川と家々-国道9号線と並んでいる。
萩からのバスは、9号線を走ってきて、しばらく平坦な道が続いたあと、津和野の手前で山道になり、野坂峠を越えて、津和野に入る。
津和野に近づいたところで、バスから絵のように見えるところがあるかもしれないと見当をつけていた。

それで、バスでは左の席に座って窓から見ていた。
たしかに木々の間に津和野城跡の丘はときおりのぞき見えはした。
でもバスの左の斜面には木々が繁っていて、低いところにあるはずの川や街はまったく見えなかった。
それに右の写真では無理して拡大しているが、とても遠く小さく、絵に描こうというふうではなかった。
 津和野城趾

* 津和野駅でバスを降りる。
駅前にちょっとした広場があり、その先に低層の家並みがあり、ひろびろしている。
駅に着いたばかりで、なんかいいところだなと感じる。
駅からすぐにある'かまい商店'で自転車を借りた。
津和野駅

■ 津和野町民俗資料館 
島根県鹿足郡津和野町後田ロ66 tel. 0856-72-1854

津和野藩には養老館という学校があった。
武術教場と書庫が今もあり、武術教場は津和野町の民俗資料館になっている。
須田剋太がここを描いていて、今も絵のとおりの眺めで、水路を鯉が泳いでいる。

須田剋太『津和野 鯉の居る養老館前通』 津和野町民俗資料館
須田剋太『津和野 鯉の居る養老館前通』

資料館の展示に盤双六があった。
将棋盤のような盤のうえで、サイコロを振って駒を進めていくゲームで、日本にも古くから伝わっていた。何度か禁止令がでるほどに盛んだったこともあるが、今はあまり一般的ではない。
現代ではバックギャモンというゲームで、僕は一時期熱中していたことがある。
欧米などではずっと親しまれていて、ギリシャを旅行したとき日本の碁会所のようなところで大勢の人が対戦しているのをみかけたことがある。
資料館のガラスケース内の盤双六は、白線の上に駒を置いてある。
碁の連想からそうしたかもしれないが、盤双六は線の間に駒をおき、サイコロの目で進めていくものだから、こういう置き方は間違いで、受付の人にそう伝えた。

構内に津和野出身の森鴎外の遺言を刻んだ碑がある。
デザインしたのは建築家の谷口吉郎で、谷口は建築設計に限らず墓碑などもいくつもデザインしている。
中央に森鴎外の遺言が刻まれている。
森鴎外の遺言を刻んだ碑 谷口吉郎

森鴎外は軍医としての社会的地位も高く、文筆家としても知られる人だったったが、遺言には「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」とあり「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」と潔い。
この郷土愛が郷里で好まれたためもあるか、津和野では遺言が記された土産物ををあちこちで見かけた。

*駅から養老館(津和野町民俗資料館)にいたるメインストリートは、観光客が歩きやすいように特別な舗装をしてある。
その道からそれて小道を行くと津和野川がある。
暑くなく寒くなく、手ごろな日射しをあびて自転車で川に沿った道を走る。
とても気持ちがいい。


■ 津和野藩庁跡

津和野川と藩庁あと 川に堰があるあたり、左岸に津和野藩の藩庁跡がある。
明治期に解体され、津和野高校があった時期もあるが、校舎は移転して今はそのグランドになっている。

* ひるどきになる。富貴神社の近くにお稲荷さんを売る店が2軒並んでいる。お稲荷さんだけにしてはやや高いし、それだけでは寂しい感じもする。
コンビニでおむすびとパンを買い、河畔の木陰で川を眺めながら食べた。

右岸の川沿いの遊歩道を行くと森鴎外記念館がある。


■ 森鴎外記念館
島根県鹿足郡津和野町町田 tel.0856-72-3210

森鴎外記念館 1995年にできた森鴎外の記念館。
鴎外の旧宅もあって公開されている。

* 橋を渡って左岸にでて、市街地に戻る方向に走る。

■ 西周旧居

西周(にしあまね)の旧居
途中で津和野出身の哲学者、西周(にしあまね)の旧居がある。
司馬遼太郎は「鴎外宅にきておどろくことは、西周という、鴎外とどこか似たところのある人物の旧居が、森家と川一筋へだてて隣り同士になっていることである」と書いている。

* 丘の上にある津和野城跡へはリフトが運行している。
自転車を駐車場に置いてリフトに乗る。
ゆらゆら揺られて上がっていくうちに、空気がひんやりしてきて、自転車で走ってきてかいた汗がひいていく。


■ 津和野城跡2

リフトを降りたあとは、ほとんど山道のようなところを歩いていく。
「本丸」より手前の「出丸」で、数人の人が発掘作業をしていた。
そのうちの永田茂美さんに、須田剋太が描いた城跡の絵を見てもらって話を伺った。

須田剋太『津和野城跡の見える風景』 須田剋太
『津和野城跡の見える風景』(再掲)

絵では丘の上部に城の建造物が連なっているが、今は木が繁って隠れてしまったところが多く、離れたところからこのようには見通せないという。
絵のいちばん左はしに南門があった。
左1/4くらいに直角の石垣が見えているあたりに人質やぐら。
そこから右へ、やや高くなったところにあるのが三十間台という広い地面で、本丸などがあった。
人質やぐらと三十間台の間は隔絶していて、橋を渡らなくてはいけない、それで人質を収容したやぐらだろうと想定されている。

下の集落と川を見おろしてみる。
津和野川にかかる車道と鉄道の橋が接近しているのが見える。(下左の写真。下右は橋付近を拡大)
上の絵では、右下に橋が2つあり、遠いほうの橋が鉄道橋らしい。
城の対岸の山から、2つの橋を眼下におさめて遠くに城を見るとすれば、須田剋太の絵のようになりそうでもあるけれど、対岸の山のそれらしい位置に人が入れる道はない。
この絵は風景を合成して(あるいは想像して組み立てて)描いているだろうと永田さんが言われる。

津和野城趾からの眺め 津和野城趾から見おろす鉄道橋

永田さんがそう考えるのには、ちょうどもう1つ思いあたる絵があって、『津和野百景図』にも合成図があるとのこと。
『津和野百景図』は、幕末の津和野藩の風景や風物を、津和野藩士の栗本格齊(くりもとかくさい)描いたもの。
その88番の『徳丈の峠』という絵に、津和野のすぐ東にある青野山と日本海が小さな画面におさめてあるという。

永田さんによると、津和野城は、下から見あげるとか須田剋太の絵からすると横に長いように思えるが、実際は三角形をしていて、郷土館に行くと模型があるからよくわかるはずとのこと。
また養老館(津和野町民俗資料館)前の堀は古いもののようについ思ってしまうが、明治以後のものだということも教えられた。

出丸から離れて本丸に行った。
すばらしい展望がひらける。
このような景観の街を故郷にもつ人がうらやましいし、その景観をこのように一望に見渡せる城跡をもつこともうらやましい。
こんなところで育って、長く故郷を離れたりしたら、いたたまれない気持ちになるかもしれない。

* リフトに戻る。乗る人がいないので停止してあったのを係の人が動かしてくれる。ひとりきりで申し訳ないような気がしたが、上がっていくほうに人が乗っていて安心した。
また自転車に乗って、永田さんの話にあった郷土館に行った。


■ 津和野町郷土館
島根県鹿足郡津和野町森村650 tel. 0856-72-0300

津和野城の出丸の発掘現場で教えられたとおり、城の模型があった。
三角形ときいたが、こういう△ではなく、Yの字のように脚が3方に伸びていて、神経細胞みたいなのだった。

津和野出身の偉人を紹介するなかに小藤文次郎(ことうぶんじろう1856-1935)の名があった。
明治時代、ナウマンに学び、日本の地質学の草創期をリードした。
僕は埼玉県立自然の博物館にいたころ、しばしばこの名に接することがあったが、思いがけないところで再会した感じになった。

■ 津和野町日本遺産センター
島根県鹿足郡津和野町後田ロ256 

かつて葛飾北斎美術館があったが、2015年4月に閉館していた。
津和野出身の永田生慈氏のコレクションで、北斎の貴重な名品があったのだが、間に合わなくて惜しいことをした。
10月から津和野を案内する展示館にかわっている。

津和野城跡で永田さんがいわれていた『津和野百景図』を展示してあった。

『徳丈の峠』には、画面の中央右よりに青野山のまるい山容がある。
画面の左端には、日本海。
「徳丈の峠」(徳城峠)は、津和野と日本海岸・益田の間にあるから、その峠から日本海を眺めたら青野山は背中の方向にある。
徳城峠からは日本海も青野山も見えるということを示すために、1枚の画面におさめたようだ。
『津和野百景図』の「徳丈の峠」
画家がどのように風景を描くか、須田剋太の絵を見るうえでもおもしろい参考例を教えてもらった。

* 駅前まで戻って自転車を返した。
自転車のおかげで、歩いてはとても回りきれないところを見てこられた。


■ 津和野町立安野光雅美術館
島根県鹿足郡津和野町後田イ−60−1 tel. 0856-72-4155

この美術館は駅から近いので、自転車を返してから歩いて行った。
17時閉館のところに16:30ころ入って、ぎりぎりだった。
安野光雅は、須田剋太が亡くなったあとに『街道をゆく』の挿絵を担当したことがあり、司馬遼太郎と縁が深い。

安野光雅は津和野生まれ。
山に囲まれている町で、山の向こうに何があるのだろうと想像して育ったという。
見えるものを好奇心をもって見つめ、見えないものをおもしろがりながら想像する心が絵の背景にあるように思う。
津和野は人口比の偉人の出現率がとても高いが、この風景も一因かもしれない。

展示棟に接続して、古い木造教室がある。
安野が学んだ学校を移築したとかいうのではなく、新しい材料で建っているが、懐かしい、しっとりした気分になる。
山にはさまれて空を仰いだ記憶があったからか、プラネタリウムまでつくられているが、残念ながら上映時間にあわなかった。
津和野町立安野光雅美術館

* 夕暮れた通りを歩いて宿に入る。

● のれん宿 明月
島根県鹿足郡津和野町後田ロ665 tel. 0856-72-0685

のれん宿 明月 門を入ると、玄関わきに2畳ほどの座敷があり、そこは柱があるだけでふすまを開けはなっているから、沖縄の民家のような開放感がある。
独特で印象的でいい感じ。
僕がとおされた部屋は2階で、窓から青野山が見えた。

食事は部屋に仲居さんが運んできてくれる。
たったひとりなのに申し訳ないよう。

一品ごとの料理もおいしかったが、ご飯になって驚いたのが汁で、椀のふたをあけると、澄んだ汁の中に丸ごとのイモがゴロッとある。
え、もう充分おなかいっぱいなのに、こんな大きなイモをいくつもは...と思ったが、仲居さんが名物なのだという。
青野のサトイモの汁

青野のサトイモで、津和野のひとはよそでとれたものだと「違う」とすぐわかるという。
ひとくち食べてみるとなるほどのおいしさで、こうして書いていても明瞭に思いだして恋しくなるほど。
おなかいっぱいと思っていたのに、あっさりと食べてしまって、魔法にでもかかったようだった。

お茶もかわっていて、ハトムギの茶。「こどもの頃、ピーッと笛を吹きながら行きよったハッパ」だという。
デザートは果物で、リンゴはここから10分ほどのところでできるリンゴ。雪が深い所で、ここで30cmのとき、1mにもなるという。
イチジクもあって、うまいし、食感の組み合わせにう~んと感嘆する。

食事を部屋に運んでもらって、津和野の酒「華泉(かせん)」を飲みながらあれこれ土地の話をききながら料理をたんのうして、翌朝の支払いは1万円ちょっと越えただけ。
津和野はいい町でゆったりすごした。
宿もいいし、もう一度来たいものと思った。
この旅は3泊した。
防府の個人経営のホテル。
萩のもと遊郭の中庭つき旅館。
津和野のおいしい老舗旅館。
いずれも高額ではないのにそれぞれに特徴があり、いい宿ばかりだった。

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第4日 津和野から松江へ [桑原史成写真美術館 月照寺 カラコロ工房]

* 最終日は津和野から松江にJRで行き、米子空港から帰る。
朝、電車に乗る前に、津和野駅前にある美術館に寄る。


■ 桑原史成写真美術館
島根県鹿足郡津和野町後田イ−71−2 tel. 0856-72-3171

桑原史成(くわばらしせい)は、国内外でドキュメンタリー写真を撮ってきた。
津和野生まれで、安野光雅と同じように山の向こうには何があるだろうと思いながら育ったのかもしれない。
美術館は観光案内所と売店を併設している。
桑原史成写真美術館

* 津和野から関東に帰るには石見空港からがまっとうなルートだが、須田剋太が会津若松で描いた絵に気になるものがあり、確かめに松江に遠回りする。
津和野9:58発のスーパーおき2号は12:35に松江に着く。
2両編成で、前が自由席、後ろが指定席。
ホームに入ってくると、すいていると予想していたのだが、自由席はほぼ席がうまっているようだった。
2:40立ち通しになったらきつい。
指定席をとっておいてよかった。
益田から山陰本線にはいると、左にときおり日本海が現れる。
宍道駅を出ると宍道湖の眺めにかわり、湖を過ぎると松江駅に着く。

空港行きのバス停の場所を確かめておいてから、タイムズレンタカーで自転車を借りる。
北西に走る。
松江大橋を渡ってすぐの信号を左折すると、車は入れない京町商店街になる。


● 民芸茶房鷦(ささき)松江京店 
島根県松江市末次本町22 tel. 0852-21-2266

商店街を歩いていくと、郷土料理を食べられそうな看板を見かけた。
骨董品や民芸品を扱う「鷦(ささき)」という店があり、その軒下を抜けた先に古民家の古材を使った喫茶店があった。
割子そば2枚としじみごはんがセットになって750円。
手ごろでよかった。

* 松江市北郊の静かな住宅街に月照寺があった。

■ 月照寺
島根県松江市外中原町179-1  tel. 0852-21-6056

松江藩主松平家の菩堤寺で、初代直政(なおまさ)から9代斉貴(なりたけ)までの墓がある。
茶の湯に親しんだことで名高い治郷(不昧公)は7代藩主。
その墓への入口にある廟門は、名工・小林如泥の作で、細かなブドウの透かし彫りがある。

拝観料500円をおさめて渡されたパンフレットには月照寺のみどころの案内地図がある。
不昧公の墓と廟門などのほか、「寿蔵碑(大亀)」が記されている。
6代藩主宗衍(むねのぶ)のころに藩財政は窮乏していて、宗衍は苦心して改革を進め、次の7代治郷のころの復活への道筋を用意した
6代宗衍の墓の近くに、7代治郷が父の事績を顕彰するために寿蔵碑を建てた。
大亀にのっている。

福島県会津若松市には、会津の松平家の墓所がある。
須田剋太は『白河・会津のみち』で『松平宗行碑』を描いている。
亀にのった碑石に「松平宗行碑」という文字がある。
僕が会津若松の墓所を歩いた限りでは「松平宗行」の名はなかったし、あとで会津若松市の教育委員会で確認したが、会津の藩主に「松平宗行」はいないとのことだった。
『国史跡 会津藩主松平家墓所』というパンフレットをいただいた。
そのなかに「会津松平家系譜」がでている。
藩主の名は「正○」か「容○」であり、「宗○」はみあたらない。
会津の墓所では藩主ごとに亀にのった碑がつくられているが、どの亀も首を低く地面につけている。
須田剋太の絵に描かれた亀は首を高くかかげていて、「松平宗行碑」は会津ではないようだった。
(→[東日本大震災3年目の福島-「白河・会津のみち」(2014)])

調べているうち、須田剋太の絵の碑は松江のものではないかと見当をつけてきた。
6代藩主宗衍の碑の亀は首を高くかかげていて、須田剋太の絵はこちらを描いたもののようだ。
「宗行」は「宗衍」を写し違えたろう。

須田剋太『松平宗行碑』 松江市月照寺 松平宗衍(むねのぶ)寿蔵碑
須田剋太が『白河・会津のみち』で描いた『松平宗行碑』 松江市月照寺の6代藩主松平宗衍の寿蔵碑

拝観料をおさめた書院に戻る。
受付の女性に、『街道をゆく』の挿絵に描かれた会津若松の廟所の絵がもしかしたらこちらのものではとたずねると、唐突な質問を穏やかにうけとめられ、『雲州松江藩主菩提寺 月照寺』という冊子を拝見した。
見開きページに寿蔵碑をのせた大きな亀の写真がある。
碑そのものを動かすことはないだろうけれど、周囲は変化があり、うしろに燈籠が並ぶあたりに先代住職が花を植えたこともある。
須田剋太の絵で碑の上の笠のように見えるところは、後方(側方)の建物の屋根かもしれないといわれる。
須田剋太が会津で描いた絵は、実は月照寺の寿蔵碑と考えていいようだ
週刊朝日に『街道をゆく』の挿絵を描くのにあたり、ふつう須田剋太は現地でスケッチをし、取材から帰ってから仕上げていた。
仕上げの絵を描く段階で週刊朝日の担当者が参考資料を須田邸に届けていたという。司馬遼太郎の文章がどれほどになるか現地ではまだわからないことだから、文章ができてみてそれに見合う枚数のスケッチがなかったということがありうる。
そんなときに資料をもとにして挿絵を描いて、こうした錯誤が生じたのではないかと思う。

絵についての詮索は別として、ひっそりと落ち着いていい寺だった。
適度な案内表示があるが、過剰ではなく、藩主たちが眠る墓所を静かにしのびながら歩いた。
寺を出てくると、あまり静かだからか、観光に来たらしき西洋人夫妻からこの寺はopenかと尋ねられた。

* 駅に戻る途中で図書館と、もと銀行に寄り道する。

■ 島根県立図書館
島根県松江市袖師町1-5 tel. 0852-55-4700

1968年に菊竹清訓の設計で建った図書館。
鉄骨とガラスでダイナミックに構成している。
島根県立図書館

■ カラコロ工房
島根県松江市殿町43 tel. 0852-20-7000

旧日本銀行松江支店を利用した工芸館。
「カラコロ」というのは、松江で暮らしていた小泉八雲が、日本人が木橋を下駄を履いて渡るときの音をそう聞いたことによる。
カラコロ工房

* 駅に戻るには大橋川を越える。写真の向こうが宍道湖、手前(背中側)は中海を経て日本海。

大橋川

松江駅に戻ってレンタサイクルを返す。
米子空港行きのバスは45分で990円。
座席で揺られているうち、うっすら眠って、目をあけると、中海に浮かぶ大根島から、鳥取県の弓ヶ浜半島に越える細い高い橋にのぼりかけるところだった。
米子空港は簡素で、空弁が迷うほど並んでいるのでもなく、コンビニのおむすびやサンドイッチの棚もからになっている。
松江駅で弁当を買っておけばよかった。

機内では左の窓際に座る。
さっき通った大根島から弓ヶ浜半島への橋が見えた。
半島を縦断する道に、夕暮れてライトをつけた車が列をなしている。
飛行機は右へ旋回して島根半島の南岸沿いをいく。
美保関港を過ぎ、美保関灯台をすぎたところで、ちょうどすっかり暗くなった。
雲間からいくつか灯りが見えたのはイカ釣り船だろうか。
90分で羽田に降り、食事をして帰った。


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参考:

  • 『街道をゆく 1』「長州路」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1971
    『街道をゆく 33』「白河・会津のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1989
  • 『海峡』 伊集院静 新潮文庫 2002(1991)
  • 『現代陶芸うつわ考-視線はいつも暮らしの角度で』 平山都・金子百合子/編 埼玉県立近代美術館 1993
  • 『雲州松江藩主菩提寺 月照寺』 月照寺興隆会 1977
  • 3泊4日の行程 (2015.10/14-17) (→電車 =バス -レンタカー ▷自転車 …徒歩 ⇒リフト >飛行機)
    第1日 羽田空港>北九州空港-関門自動車道めかりP.A.-早鞆の瀬戸(平家の一杯水)-赤間神宮-壇ノ浦町漁港-下関市立中央図書館…下関港国際ターミナル-日産レンタカー新下関駅前店…新下関駅→防府駅…防府図書館…ビジネスホテルあけぼの(泊)
    第2日 …タイムズカーレンタル防府駅前店-三田尻港-防府天満宮…山頭火の生家跡-周防国衛趾-毛利博物館-月の桂の庭-道の駅萩往還-三輪窯-松陰神社…松下村塾…吉田稔丸誕生地-萩博物館-山口県立萩美術館・浦上記念館…萩市庁舎-タイムズ カーレンタル萩店-旅館芳和荘(泊)
    第3日 …萩バスセンター=津和野駅▷津和野町民俗資料館・養老館▷津和野藩庁跡▷森鴎外記念館▷西周旧居⇒津和野城跡▷津和野町郷土館▷津和野町日本遺産センター…津和野町立安野光雅美術館…のれん宿 明月(泊)
    第4日 …桑原史成写真美術館…津和野駅→松江駅▷民芸茶房鷦松江京店▷月照寺▷島根県立図書館▷カラコロ工房▷松江駅=米子空港>羽田空港