須田剋太のルーツへ-「信州佐久平みち」


須田剋太(1906-1990)は、10年先に生まれていた画家、村山槐多(むらやまかいた 1896-1919)に憧れをもっていた。それで-本名を勝三郎というのだが-剋太(かつた)と名のるほどだった。(ところが人がみな「こくた」というまま「すだこくた」になってしまったのだった。)
村山槐多は愛知県の生まれで、長野県上田市を拠点に活動した叔父の画家・版画家の山本鼎に才能を認められて、しばしば上田を訪れていた。
また須田剋太は熊谷中学校に在学したころ、病いをいやすため軽井沢に転地療養していたことがある。
それで上田から軽井沢あたりをめぐった『街道をゆく』の「9信州佐久平みち」は、須田剋太の個人史に関わりが深く、司馬遼太郎もしばしば剋太の人生について記している。

第1日 長野市信州新町美術館 長楽寺・姨捨駅 上田市立信濃国分寺資料館・山辺糀店 上田(泊)  
第2日 上田城・上田市立美術館・柳町通り 前山寺・信濃デッサン館・槐多庵 常楽寺・安楽寺・北向観音 別所温泉(泊)
第3日 海野宿 梅野記念絵画館 望月宿 佐久総合病院

第1日 長野市信州新町美術館 長楽寺・姨捨駅 上田市立信濃国分寺資料館・山辺糀店 上田(泊) 

* まず長野市信州新町にある美術館に向かった。
初めに予定していた日程だと雨になりそうなので2日あとにずらした。
結果としてはそれが正解だった。
信州に向かう道は山中にはいり、ちょうど新緑のころ。
山すそのほうは緑が濃く、中ほどが新緑の淡い緑。
上のほうはけむったような茶色みをおびて、冬のなごりを残している。
山の斜面の季節のグラデーションを味わいながら走った。
僕が住む埼玉県鴻巣市からは主目的地の上田市より40キロほど先になるが、山本鼎についての特別展を開催中の遠方の美術館にまず行ってみた。


■ 長野市信州新町美術館
長野市信州新町上条88-3 tel.026-262-3500

特別展「山本鼎 青春の絵はがき」展を開催している。
山本鼎の父、山本一郎が経営する医院が上田にあった。
山本鼎の仲間たちは、「方寸」という美術文芸雑誌を刊行して、作品の発表の場にしていた。その制作資金をかせぐために上田で作品の頒布会を開き、山本医院に世話になった。
その縁で、その同人の画家たちがその後しばしば山本一郎あてに絵はがきを送ったし、山本鼎ももちろん上田の父や母にあてて、絵を添えたはがきをだした。
当時の若い画家たちには、そうした通信に描く絵もほとんど画業の一部で、アイディア、画法、レイアウトなど、どれも見応えがある。

須田剋太が憧れた村山槐多が、パリに留学中の山本鼎にだした手紙も展示されていた。
僕は西洋へ行きたくて耐りません。もう四五年の内にはきつと羅馬辺へ移住してもう日本なぞへは帰らん覚悟で大にこれから努力するつもりです。 1913年4月6日
そんなふうに未来にたいして意欲的だったのだが、1919年に22歳でスペイン風邪で亡くなる。

長野市信州新町美術館

* 20kmほど南の姨捨に寄る。

■ 長楽寺(姨捨山放光院長楽寺)
長野県千曲市 八幡4984 tel.026-273-3578

「信州佐久平みち」の連載第1回には、須田剋太が描いた姨捨の絵が2枚掲載された。

須田剋太『信濃国姨捨から見た段々田』

 左:『信濃国姨捨から見た段々田』
 右:『姨捨から見た千曲川遠望』
須田剋太『姨捨から見た千曲川遠望』

ところが司馬遼太郎の文章によると、司馬一行は長野駅にもう日暮れが近いころに着いて、上田に急いでタクシーで向かった。
往路では姨捨に寄る時間はなかったろう。
上田で1泊したあと、司馬一行は、小諸、臼田と東へ行き、軽井沢で2泊目。
3日目は西に戻るように移動して、望月宿で文章は終わる。
そのあとさらに西に進み、また長野駅に戻って帰ったとすれば、その途中で姨捨に寄って、須田剋太がスケッチしたかもしれない。
もう1つの可能性としては、須田剋太が写真資料を参考にして姨捨を描いたということがありうる。
司馬遼太郎の文章に比べて現地で描いた絵の枚数が足りなかったようなとき、文章に関わりがある写真資料をつかって挿絵を描くということはしばしばあったようだ。
でも姨捨については司馬の文中に登場していない。あえて写真を用意してまで描く理由はないから、帰路に姨捨に寄り、そこで描いた絵をつかったように思える。

長楽寺は千曲川を見おろす斜面にある。
松尾芭蕉、小林一茶、伊能忠敬など、多くの文人が訪れた名刹だが、田每の月が名勝に指定されているほどに、段々に耕された田と、そこにかかる月の眺めが古くから愛されてきた。
傾斜地にかろうじて確保された狭い境内に、観月殿と月見堂と、月見に関わる建築が小さいながら2つもある。(右の写真は観月殿)
長楽寺観月殿

寺を出て、棚田のあいだの散策路を歩く。
足もとに棚田、その先に千曲川、その向こうには長野あたりの市街を望む、雄大な景色が広がっている。
さわやかに晴れた日で、気持ちも晴れ晴れしてくる。

姨捨の棚田 長楽寺から千曲川

ただ、須田剋太の「段々田」の絵の中央にある三角形をした山のようなものが何かわからない。
そばに家があるのと比べると、田に何か収穫したものでも積み上げたにしては大きいし、山にしては小さい。
景色を見わたしたところでは、これがその三角だろうと思えるようなものはなかった。

■ 姨捨駅 

長楽寺からの散策路をさらにすすんで、JR東日本篠ノ井線の姨捨駅に行った。
「訪ねる価値のある駅」とか「日本三大車窓」とか、鉄道についての評価ランキングにでてくる駅で、どんなところだろうとそそられた。

着いてみると、木造駅舎が風情があるし、山の斜面にプラットフォームがあり、その向こうに、先ほど見晴らしたのと同じ信濃の開けた絶景が展開している。

姨捨駅

スイッチバックの駅というのもおもしろい。
線路は駅の下を抜けていて、電車が駅に停車するためにはスイッチバックして上がってくる。
駅の風景を眺めているうちに14:09発の長野行きと14:11発の松本行きの発車時刻になった。線路は単線なので、姨捨駅では停車にあわせて両方向の列車の行き違いもすることになるので、長野行きと松本行きの電車が順にいったん姨捨駅にスイッチバックして入り、また順にスイッチバックして出て行った。

* さらに20キロほど南西に走り、主目的地の上田市に入った。
はじめに市街を東へわずかに抜けて、しなの鉄道の信濃国分寺駅に近い国分寺あとに行った。


■ 上田市立信濃国分寺資料館
長野県上田市国分1125 tel. 0268-27-8706

 私のこの旅は、あたらしい土地へゆくとかならず国府のあとか、それが明瞭でなければ国分寺あとを訪ねることにしている。そのあたりは上代におけるその国の中心だったから、山河を見わたすだけでも、感慨が深まるような気がする。(『街道をゆく 9』 「信州佐久平みち」 司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)

司馬遼太郎は信濃でも「国分寺跡へ行ってみましょう」と須田剋太を誘った。
ところが着いてみると落胆するようなところだった。

河原に、
 信濃国分寺跡阯
という大きな石碑が立っている。
 史跡公園などと仰々しく銘うたれているが、地面と簡単なコンクリート製の腰掛け台がある程度で、樹木といえるほど樹木はなく、その場に立っているだけで心が荒涼としてくる。
「これは、公園ですか」
 と、須田画伯が、どう写生していいか途方に暮れた表情で、ふりむいた。
須田剋太『信濃国分寺跡より千曲川と山々』
須田剋太『信濃国分寺跡より千曲川と山々』

司馬一行が訪れたのは1976年のことだった。
絵にある左の標示には「史蹟公園信濃国分寺跡 資料館建設予定地」とあり、右の石碑には「国分寺史跡公園」とある。
史跡公園はまだ整備中か、本格的な整備が始まる前だったかで、景色が荒涼としていたのはやむをえないことだったように思える。
資料館は1980年に開館した。
僕が訪れたのは40年ほどのちの4月末だったが、整備された公園では樹木が緑の葉をつけ、ちょうど花の時季のフジ棚からはいい香りがしていた。

今、資料館の正面に入る手前右に「国分寺史跡公園」とかかれた石碑がある。
上の絵の右に描かれていた石碑だろう。
絵に描かれたときと、今置かれているのとが、同じ位置か、移されたかはわからない。
「国分寺史跡公園の石碑

* 資料館の駐車場に車を置いたまま、千曲川に向かって歩き、山辺糀店に行った。

■ 山辺糀店
長野県上田市国分1-3-79 tel. 0268-22-3388

旧北国街道の一部を通ると、昔の宿駅らしい面影の村があった。
「極製 白かうじ」などという時代劇の映画に出てきそうな木製看板をつりさげた麹屋(こうじや)さんがある。そこからは、千曲川はすぐだった。

ここは100年をこえる店で、糀と味噌を製造、販売している。
熟成した味噌もあるけれど、上田では今でも家庭で味噌をつくるふうが残っていて、ここで仕込み味噌を買って自宅で熟成させる人もあるのだという。
6代目になるという山辺哲雄さんが当主として仕切り、5代目の山辺正次さんはいくらかひいて見守っておられる。

山辺糀店

須田剋太『上田市旧北国街道民家糀家』
須田剋太『上田市旧北国街道民家糀家』

ここには7年前にも来て、なかを案内していただいたことがある。
入口から入ってすぐ左手の作業場には、薪で焚く大きな釜がある。ふたをあけると盛大に湯気があがる。
大豆がたっぷり入っていて、ひしゃくに何粒かのせて試食させてもらう。あたたかでゆたかな感じがする。
庭にはクリンソウが咲き、大きな柿の木がある。
釜のなかのふっくらした大量の大豆とか、それにコウジ菌がはたらいて味噌になっていくこととか、繊細でゆたかな印象を受けた。
作業場は清潔ですがすがしいし、作業場を囲む庭にも心配りが行き届いていて、須田剋太が描いた門構えのなかにすてきな小宇宙があった。

5代目の奥さんにうかがうと、須田剋太が絵を描いたのは知らなかったとのこと。とくに店の中まで入って話したりしたのではなく、通りかかったときに外観だけスケッチしたようだ。
このときの文章と挿絵が掲載された『週間朝日』を見た知り合いが電話してくれて、買いに行ったし、あとで単行本も買ったといわれる。
『街道をゆく』の挿絵の地をめぐっていると、自分のいることころが挿絵に描かれているのを知らなかった人にしばしば行き会った。山辺糀店では、今も店の紹介をするときに『街道をゆく』の挿絵のことにふれている。長い伝統がある店には、自分も歴史の流れの一部だという歴史意識があるのだろうし、『街道をゆく』の挿絵もそのなかに含まれている。

■ 『一遍上人絵伝』

「信州佐久平みち」の連載第3回は、旅の行程としては上田に入ったあたりで、一遍上人のことが書かれている。
 この信州佐久平へ発つ前、なにげなく『一遍上人絵伝』(鎌倉末に成立)をながめていると、一遍が信州へ出かけている。
実際に上田で一遍の絵伝を見たということではないから、須田剋太はなにかしらの印刷物の『一遍上人絵伝』を参考にして描いたのだろう。

一遍上人絵伝 空也上人の遺跡

左:『一遍上人絵伝』から
右:須田剋太『踊念仏 一遍上人絵伝』
須田剋太『踊念仏 一遍上人絵伝』

須田剋太が選んだのは「空也上人の遺跡 市屋の道場」の場面の絵。
京都、いまの西本願寺あたりに、空也の遺徳をしのぶ一遍は道場を建て、48日間のおどり念仏を催した。
道場のまわりには小さな小屋が並び、牛車もたくさん集まっていて、僧たちが踊りながら念仏をとなえるのをおおぜいの人たちが見あげている。
絵伝のなかでも華やかな、ちょっとしたクライマックスといえるような場面で、須田剋太はさらにその中心の、僧たちが踊る舞台をクローズアップして描いている。

『一遍上人絵伝』は、四国の伊予に生まれた一遍が、修行と布教に東北から九州まで長い距離を旅して兵庫で亡くなるまでを、絵と詞書きで物語っている。
僕はここ数年『街道をゆく』の挿絵の地をめぐってきた。
『一遍上人絵伝』を眺めていると、その挿絵の地と重なるところがいくつもあった。
高野山、熊野新宮、白河関など、ああ、ここにも『街道をゆく』のおかげで行ったことがあると懐かしい思いになった。

● ユーイン上田
長野県上田市中央3-7-33 tel.0268-22-4531

ユーイン上田
上田駅から北にのびる道をまっすぐ行った先にあるホテルに泊まった。
すぐ隣に池波正太郎真田太平記館がある。
駅から便利なのに駐車場が広いし、朝食つきで高くなくて、いいホテルを選んだ。

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第2日 上田城・上田市立美術館・柳町通り 前山寺・信濃デッサン館・槐多庵 常楽寺・安楽寺・北向観音 別所温泉(泊)

* ホテルの駐車場に車を置いたまま、上田市街を歩く。

■ 上田城
長野県上田市二の丸4-6

上田城あとは公園になっている。
創建当初のまま残る建造物は西櫓だけだが、明治以降に城の外に移築されていた櫓2棟、北櫓と南櫓が、昭和になってふたたび城内に戻された。
須田剋太がその1つの北櫓を描いている。

須田剋太『上田城北櫓』 上田城
須田剋太『上田城北櫓』

絵は、堀ごしに見あげるような構図だが、今、同じ位置に立つと、木が繁っていて、櫓はかろうじて屋根の上端がのぞけるくらいだった。
写真の右に写っている木々の向こう側が、絵に描かれた堀になる。

上田市立博物館の分館 もと山本鼎記念館 かつてこの城あとの公園内には山本鼎記念館があり、たしか2度来たことがある。
山本鼎記念館をベースにして2014年に上田市立美術館が開館した。
記念館はすぐ隣にある上田市立博物館の分館になっていた。

* 南へ歩いて、しなの鉄道と北陸新幹線の南にでる。

■ 上田市立美術館
長野県上田市天神3-15-15 tel. 0268-27-2300

北陸新幹線としなの鉄道の高架線と、千曲川とのあいだは、新しく開発された地域ということだろうか、広い敷地に大きな建物が立地している。
「アリオ上田」は、映画館やスーパーマーケットが入る大型商業施設。
「サントミューゼ」(右の写真)には、市立美術館と劇場があり、2014年に開館した。
となりの「上田警察署」も新しそうだった。
上田市立美術館

上田市立美術館では篠田桃紅の書を展示する特別展があり、見応えがあった。
それはよかったのだが、美術館は山本鼎(記念館)を中核として受け継いで誕生したものだから、山本鼎の紹介が常設展示としてあるものと思いこんでいたが、常設展示室が見つからない。美術館の案内のひとにたずねると、特別展のときは常設展示はないとのことだった。山本鼎(記念館)を引き継ぐという役割は、おおいに後退してしまった。山本鼎に思い入れがあった者には、残念なことで、へこむ気分になった。

千曲川 上田市立美術館の近く

南へ歩いて土手に上がると千曲川が流れていた。

* 上田駅を通り抜けて、駅の北の市街地に戻る。
車を置いてあるホテルを通り過ぎて、柳町通りに。
旧北国街道のおもかげが残る道で、岡崎酒造とか、武田味噌醸造とか、古くからの店があり、元からの家で営む新しいパン屋もあって、上田の魅力の1つになっている。


● 手打百芸 おお西
長野県上田市中央4-9-8 tel. 0268-24-5381

手打百芸 おお西 ここも古い建築で始めた、わりと新しいそば屋さん。
きのうの夕方も来たのだが、あいにく閉店後だった。
今日は開店を待って一番乗り。
発芽そばというものを食べた。
そばの実を発芽させてからひくという。
独特の味わいで、食べ終えてしまうのが惜しいようだった。

* ホテルの駐車場に戻って、車で塩田平に。
塩田平というのは、上田市街から10キロほど南に走ったところにあり、市街を見おろす高台になる。


■ 前山寺
長野県上田市前山300 tel.0268-38-2855

山門を修理中だった。

■ 信濃デッサン館・槐多庵
長野県上田市前山

1979年に、館主・窪島誠一郎が、村山槐多、関根正二、松本俊介など、若くして亡くなった画家たちの作品を展示する施設として開館した。
1985年には、とくに村山槐多の作品を展示する槐多庵をつくった。
1997年には、分館として戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開館した。
窪島が画家・野見山暁治とともに、全国の画学生の遺族のもとをたずねて、戦争に行くために絵を描けなくなった画学生の生前の作品を集めた。
2012年には、東京都内にあった立原道造記念館の閉館にともない、所蔵資料が移され、信濃デッサン館のなかに立原道造記念展示室を新設した。
信州の景色のいい高原に、若くて亡くなった芸術家の作品が集まっていたわけで、村山槐多も立原道造も須田剋太に関わりがある人でもあり、僕は何度か来たことがあり、そのたび深い思いになった。(→ [別所沼のひとたち-須田剋太、神保光太郎、立原道造、秋谷豊] )

ところが、窪島館主の病気と、来館者減少による営業上の事情から、無言館のみ続けることとして、信濃デッサン館・槐多庵は2018年3月15日から無期限休館となった。休館としているが、再開の見通しはなさそうで、貴重な所蔵品が今後どうなるかも不安な状態にある。

信濃デッサン館 信濃デッサン館



僕にとっても山本鼎と村山槐多にはつよい思い入れがある。
僕は長く井上房一郎というひとに関心をもってきた。
井上房一郎は、群馬県高崎市にある建設会社の経営者だったが、群馬県立近代美術館や群馬音楽センター・群馬交響楽団の設立などに関わったほか、若いアーティストを育てることもした。群馬の文化の発展に尽くしたということにとどまらず、井上房一郎がいなければ日本の文化状況はかなり違った様子になっていたのではないかと思えるほどに大きな役割を果たした。
実業家の井上房一郎が文化への関心をいだいたきっかけは、軽井沢に井上家の別荘があり、隣に山本鼎がアトリエにしていた別荘があって、親しくするうちに山本鼎の影響を受けたのだった。
井上房一郎の文化支援は、たとえば美術の領域のことでいえば、自分で作品を購入して美術館も建ててしまうというのではなかった。高崎では大きな実績のある建設会社だったが、すべて自前ですませられるほどの財力はなかった。自社の一部にギャラリーを開き、次々に展覧会を開催することで美術館をもちたいという機運を高めていき、県立美術館の設立に至っている。
僕が埼玉県立近代美術館に勤務していたころ、財源のとぼしいことに悩まされていた。そんなときに群馬県立近代美術館と高崎市立美術館の共催で「パトロンと芸術家-井上房一郎の世界-」という展覧会が開催され、井上房一郎の文化振興スタイルに興味をもち、それから井上房一郎の足跡をたどってきた。

僕の家は須田剋太の生家に近く、須田剋太研究会に加えてもらい、毎年郷里の埼玉県鴻巣市で開催される須田剋太展に関わったりしてきた。
熊谷高等学校の後輩でもあり、須田剋太の作品を多数所蔵する埼玉県立近代美術館に勤務していた縁もある。
その須田剋太が敬愛していたのが、山本鼎の甥の村山槐多だった。
別な理由で関わった2つのこと-井上房一郎と須田剋太-に、山本鼎・村山槐多を接点にして、つながりができてしまった。
人生の偶然ということを思う。

また別のつながりをいうと、信濃デッサン館には、村山槐多の『田端の崖』(1914)という絵を展示してあった。田端は東京の上野台地の北端にあり、崖上に住宅があり、崖の下を山手線や東北線の電車が走り、操車場があり、たくさんの線路がある。
山本鼎と村山槐多は、田端に住んでいたことがある。
1910年代、芥川龍之介や板谷波山を中心に、画家や文学者が集まり、田端文士村と称されたころのことだ。
時期的にはそれよりあとになるが、僕の父と母が結婚して新しい生活を始めたのも田端だった。
『田端の崖』では、左に崖があり、線路が右にカーブしていく。
僕は子どものころ、崖の上に立って、いく本も線路が並んでいるのを見おろした記憶がある。
『小杉未醒氏庭園にて』(1914)という絵があって、これも田端にあった小杉宅の庭だろう。

信濃デッサン館では、エゴン・シーレ(Egon Schiele、1890-1918)の作品を集めた小部屋もあった。
シーレもまた僕には思い入れの深い画家で、日本でシーレの作品が展示される機会があると一度ならず見に行ったこともあるし、ウィーンに行ってシーレの作品がある美術館を集中的にめぐったこともある。
シーレは1918年、槐多は1919年に、世界的に流行したスペイン風邪でなくなったのだった。

槐多庵 槐多庵



いくつもの重なりがあって、信濃デッサン館にも槐多庵にも思い入れがあるのだが、どちらにも休館を知らせる紙が貼りだされていた。
上田市立美術館では山本鼎の展示がなくて落胆したし、今度の旅では僕の個人的思いからすると寂しいこともあった。

* 5キロほど西に走ると別所温泉がある。
今夜の宿に車を置かせてもらってから、ゆるい坂を歩いて下って別所温泉駅に行った。


■ 別所温泉駅-『街道をゆく』と『男はつらいよ』 

別所温泉駅
上田駅からくる上田電鉄別所線の終点駅。
1921年にできた駅舎が風情がある。
12キロほどに(両端を含めて)15の駅があり、電車は田園のなかをのどかに走る。

映画『男はつらいよ』の第18作「寅次郎純情詩集」では、電車が走る風景があらわれ、別所温泉駅もしばしば画面に登場する。
別所温泉で商売をしていた車寅次郎が、旅の一座と再会する。
「車先生」と敬意をもたれているのに気をよくして、一座を宿に招いてにぎやかな宴になる。
ところがそんなことをする金は持っていないので、翌日、警察に収容され、連絡を受けた倍賞千恵子の妹さくらが支払いのために葛飾柴又からやってきて、この駅で降りる。

映画『男はつらいよ』シリーズは、1969年から1995年までに全48作が作られた。(渥美清が1996年に亡くなったあと1997年に特別編1本が加えられた)。
『街道をゆく』は1971年から、司馬遼太郎が亡くなる1996年まで、「週刊朝日」に連載された。
時代的にほとんど並行していた。
寅次郎はテキヤ商売で全国を旅するのだが、山田洋次監督は失われゆく日本の風景を映像にとどめる意志をもっていたようだった。
『男はつらいよ』のロケ地めぐりをした川本三郎は、その著書のなかでこんなふうにいう。

・「男はつらいよ」は第五作の「望郷篇」(70年、長山藍子主演)あたりから渥美清の寅が本格的に地方へ旅をするようになった。
・山田洋次監督は、失われてゆく日本の良き風景を、カメラでとらえておきたいという思いが強かったのだろう。
「男はつらいよ」は、喜劇映画としてだけでなく、懐かしい風景を記録したシリーズとして長く残るに違いない。
・日本各地でロケされた「男はつらいよ」はいまではその町の歴史になっている。(『「男はつらいよ」を旅する』川本三郎 新潮社 2017)

司馬遼太郎は『街道をゆく』の旅で日本の根源のかけらでも拾えればという志向をもっていた。
それで『街道をゆく』と『男はつらいよ』は、いくつも同じところに旅している。
とくに信州では、『街道をゆく』の司馬一行の「信州佐久平みち」取材旅行が1976年7月、『男はつらいよ』の「寅次郎純情詩集」の公開は1976年12月だから、ほとんど同じ時期の上田や別所温泉を旅したことになる。
『街道をゆく』では、司馬遼太郎の文章があり、須田剋太の挿絵があるのだが、車はどんなのが走っていたとか、道の舗装はどんなふうだったかとか、その時代、その土地の細部までの再現という点では、映画の映像はとてもリアルで、司馬一行が旅したときの風景を見せてくれている。

「信州佐久平みち」に須田剋太が描いた挿絵と、「寅次郎純情詩集」の映像のなかの風景とでは、すっかり重なるところはないが、別の寅さんシリーズではいくつかちょうど重なるところがあった。
たとえば第13作、津和野で吉永小百合が勤務する図書館が、コイが泳ぐ水路に面している。(須田剋太『津和野 鯉の居る養老館前通』)
第20作「寅次郎頑張れ!」では、長崎県平戸の寺と教会のある特徴ある道を寅次郎と藤村志保が歩く。(須田剋太『平戸風景(C)』)
第31作「旅と女と寅次郎」では、都はるみが小木港からフェリーに乗って佐渡から去って行く。(須田剋太『小木港』)
『男はつらいよ』は、各地をめぐっていきのいい啖呵でモノを売り、また恋をする寅次郎の旅にしたがって、風景を映像に記録した。
『街道をゆく』も、司馬遼太郎の文章と須田剋太の絵により、言葉とビジュアルで同時代を記録するものの歴史に連なっている。

* 別所温泉駅の観光案内所で電動自転車を借りる。(細い坂道が多い温泉街では車より便利だった。)

■ 常楽寺
長野県上田市別所温泉2347 tel.0268-37-1234

常楽寺 須田剋太『別所常楽寺本堂』
須田剋太『別所常楽寺本堂』

 常楽寺は、丘陵の中腹の台上にある。台上までは、石段を登る。のぼりつめると、本坊がある。きれいなわらぶきの屋根をかぶっていた。(中略)
 この寺は本坊だけである。本坊は坊さんの住まいだから、参詣者は来ない。参詣者はこの寺が持っている観音堂(北向観音)のほうへゆく。観音堂は、本坊からすこし離れている。
 境内を去ろうとしたとき、本坊のきざはしにいつのまにか住職が立っていて、手まねきしてくれた。本坊へ上げてもらうと、広い畳敷の片隅に、イスとテーブルがある。住職は五十代のひどく活気のある人で、浴衣にきちっとした角帯を締め、風貌、話し方は、いかにも天台僧の感じである。

この人は半田孝淳氏で、本坊で司馬遼太郎と話し、付属の美術館にも案内した。

また吉原の三浦屋の店頭をえがいた浮世絵の絵馬もある。岩絵具や漆が濃厚に固着していて、みごとな美しさを保っている。絵は、格子のなかに遊女が二人おり、「三浦や」というのれんが掛かり、道路上を、ぞめき客や、禿(かむろ)を従えた遊女が歩いているというもので、享保十五(一七三〇)年という年号が入っている。北斎の絵馬も三浦屋の絵馬も、当人もしくはたれかが北向観音に寄進したもので、これだけの絵馬が寄進されるということからみても、北向観音の江戸期における盛大さがほぼ察せられる。

須田剋太 
『絵馬(三浦屋店頭)』 

須田剋太『絵馬(三浦屋店頭)』

本坊のわらぶきの屋根といい、三浦屋の絵馬といい、司馬遼太郎の文章がほとんど須田剋太の絵の説明になるほどに一致しているのは珍しい。

僕はここに2011年に来たことがある。
司馬遼太郎を案内した半田孝淳氏がどうされているか寺務所の受付にいらした方に尋ねたら、「2007年に、天台宗の最高位にあたる第256世天台座主に89歳で就任され、比叡山延暦寺におられる」とのこと。
それを報じた新聞記事が壁にいくつか貼ってあり、もちろん大きな名誉だったことだろう。
2015年に亡くなられたが、座主に在世中にしばしばバチカンを訪問し、ヨハネ・パウロII世ローマ教皇と親交を深めたという。
高齢で天台座主につきながらバチカン訪問まで果たし、司馬遼太郎が「ひどく活気のある人」と評したのがなるほどと思う。

■ 安楽寺
長野県上田市別所温泉2361 tel.0268-38-2062

 境内は禅寺らしく清雅で、檜皮(ひわだ)ぶきの本堂がとくに美しい。本堂の横手から裏山への道をのぼると、有名な八角の屋根をもつ塔がある。

安楽寺三重塔 須田剋太『安楽寺三重塔』
須田剋太『安楽寺三重塔』

木造の八角塔は全国で1つしかない建築で、長野県では一番早く国宝に指定されたという。

■ 北向観音

北向観音
常楽寺と安楽寺は温泉街の北のはずれにあるが、温泉街の中心部に北向観音がある。
このあたりも『男はつらいよ』の舞台になった。
寅次郎は、部屋から北向観音の鳥居がすぐ前に見える宿に泊まり、その部屋の窓から、旅の一座が次の興業地へ去って行くのを見送っている。

* 別所温泉駅に戻って自転車を返し、ゆるい坂を上がって宿に戻った。

● 別所温泉 旅の宿 南條
長野県上田市別所温泉212 tel.0268-38-2800


宿には朝食のみで予約してあるので、夕飯は外に出た。
北向観音のほうに歩いて、三友軒(さんゆうけん)という店で食事した。
『男はつらいよ』にこの店の看板が映っていたのだった。
三友軒 別所温泉

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第3日 海野宿 梅野記念絵画館 望月宿 佐久総合病院

* 最終3日目は、南東に、軽井沢に向かって行く。
はじめに30分ほど走って海野宿(うんのじゅく)に着いた。


■ 海野宿
長野県東御市本海野 tel. 0268-62-1111


海野宿は北国街道の宿駅。
北国街道は、中山道と北陸道を結んでいて、佐渡の金、北陸の諸大名の参勤交代、善光寺への参詣客など、人とものが盛んにいきかった。
明治に入ると宿場機能は失われるが、養蚕で栄えた。
用水をはさんでそれぞれの時代の歴史を物語る建築がずらりと並んで、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
こうした家並みが残ると、軒並みみやげ物店やカフェになってしまうところもあるが、ここは案内所や古本屋がまじるくらいで、静かな暮らしがそのまま続いている印象がある。
上田には何度か往復しているが、近くにあるこんないい風景を見のがしていたのを惜しい気がした。
須田剋太『北国街道本海野宿』
須田剋太『北国街道本海野宿』

海野宿

千曲川 海野宿の近く
海野宿は千曲川に並行している。
川の土手にでると4月の日の光と風がさわやか。

■ 東御市梅野記念絵画館・ふれあい館
長野県東御市八重原935-1 tel. 0268-61-6161

梅野隆氏のコレクションをもとに、北御牧村(きたみまきむら)の美術館として開館し、合併によりいまは東御市(とうみし)の施設になっている。
梅野隆氏がアーティストに注目する選定基準は独特のもので、「忘れられ埋没した画家や十分な評価が得られなかった画家」を自分の目で探しだし、収集してきた。
父は梅野満雄で、青木繁の支援者だった。
青木の死後、その作品の多くを買い取ったが、個人が所有しては災害などで失うことがありうるのをおそれ、石橋財団に譲渡した。
いまは青木繁作品は、石橋財団ブリヂストン美術館の重要な核になっている。
梅野隆氏は、父が所有していた青木繁の作品に囲まれた部屋で育った人だった。

青木繁は、東京美術学校に在学していた1902年、坂本繁二郎らと妙義山から小諸方面に写生旅行をした。
1904年には、東京美術学校を卒業したあとの夏、房総半島の米良に写生旅行をした。坂本繁二郎、森田恒友、福田たねが同行した。
このとき描いた『海の幸』は好評で、今はブリジストン美術館にある。

須田剋太をたどっていると、ときたま青木繁にかすってきた。
・ 「肥前の道」をたどって佐賀で泊まった宿(旅館あけぼの)は、青木繁が中央画壇で認められずに故郷周辺の北九州を放浪していたころに滞在していたことがある宿だった。→[佐賀・長崎のフクザツな海岸線をたどる-「肥前の諸街道」] 
・ 青木繁の妙義山行から40年ほどのと、須田剋太は35歳のとき、パリへ行く費用をだそうという人があったのに断って妙義山にこもって絵を描いていたことがある。
・ 「横浜散歩」で第三管区海上保安本部の絵を描いたとき、「燈台補給船若草の錨」という記念物が描きこまれていた。
僕が横浜に行ったときにはなくて、その海上保安本部に照会したところ、房総の野島崎灯台に移設されたと教えられた。
梅野記念絵画館が所蔵する梅野満雄あての青木繁の手紙にその灯台がでてくる。(野島崎灯台へは「横浜散歩」をめぐったあとに行ってみた→[「横浜散歩」-旧正月に中華街へ])

東御市梅野記念絵画館・ふれあい館
入口を入ってすぐのロビーからは正面に浅間山が見える。

* 『街道をゆく』の旅では司馬一行は海野宿から小諸に向かった。ところが懐古園に近づくと、騒がしく音楽がかかっているし、昼食をとりに入った食堂での店員の対応も不愉快だった。それで懐古園までは入らなかったし、須田剋太も絵を描いていない。
そんなふうだったし、時間の都合もあり、僕は小諸に行かないことにして、小諸より南にある望月宿に向かった。

宿場のはずれにある食堂に昼を食べに入った。
雁喰(がんくい)味噌のかつ丼を食べた。望月には雁喰豆という珍しい品種の豆があり、その豆から味噌をつくる。ご飯にキャベツとカツだけをのせたどんぶりのほかに、雁喰味噌をといたソースが別の皿にあり、その味噌をつけて食べる。望月の名物としていくつかの店で供されているらしい。


■ 望月宿

望月宿は中山道六十九次のうち江戸から数えて25五番目の宿場。
みごとに古い家並みが並んだ海野宿を見たあとにくると、こちらは新しい建物がまじっていて、感興がうすくなる。しかもただまじっているだけでなく、風景の調和を壊すような無神経なスタイルの家や、人目をひくことだけを狙った大きくてはでな看板が道にはみだしていたりして、期待して来た気持ちが冷めてしまった。

望月宿 須田剋太『中山道 望月宿』
須田剋太『中山道 望月宿』

須田剋太が描いた町並は、ひっそりと静かな様子をしている。
40年ほどのあいだに変わったろうか。


望月ではもう一枚、川を見おろす絵が描かれている。
司馬一行は、軽井沢に1泊したあと、西に走り、岩村田で昼食をとり、浅科を通って望月にはいった。

 やがて登り坂になり、山につきあたった。隧道がうがたれている。隧道をぬけると、眼下に野と町があった。望月平ともいうべき小平野であった。
 望月の町に達した。町の中央を、大地ごと大きくうがって鹿曲(かくま)川という小さな川がながれている。
須田剋太『望月 鹿曲川を見下す風景』
須田剋太『望月 鹿曲川を見下す風景』

浅科からトンネルをくぐって望月に入る道は、国道142号と旧中山道の2つある。トンネルを抜けて眼下に野と町を見下ろすことになるのは旧中山道だろう。
望月の町から旧中山道を歩いていき、トンネルに向かう坂道を上がってみた。

ふりかえって町を見おろす。(上の写真のように)木が茂って枝がながめをかなりさえぎってはいるが、ゆるやかに曲がっていく鹿曲川と、そこに架かる橋は、ほぼ須田剋太の絵のように見える。
下の写真は、上の写真の位置から坂を降り、木々にさえぎられない位置から撮ったもの。やはり須田剋太の絵に似ている。
ただ、絵では、川の斜面に山が迫っていて、家並みは川沿いに細く帯状にだけある。
でも目の前に見えている風景は、山の斜面が川からもっと離れていて、家々がずっと多い。
『中山道 望月宿』の絵のように、街道の両側の家が新しくなることはあっても、信州の山あいで、山を切り崩して市街地が広がることはありえないように思う。
この絵については謎の気分のままになった。
鹿曲川と望月宿

鹿曲川と橋

■ 佐久総合病院
長野県佐久市臼田197 tel.0267-82-3131

佐久市街の南、JR小海線の臼田駅からは千曲川を越えた西側に佐久総合病院がある。
 臼田町にある佐久総合病院は農村医療で世界的に有名な病院で、院長さんが朝日賞をもらったり、最近ではマグサイサイ賞をもらったりして、世間に知られはじめている。

佐久総合病院では、その後も、勤務する医師、霜田哲夫氏が1989年に芥川賞を受賞したり、医師も病院も多方面に存在感を示している病院なのだった。
(臼田町は2005年に合併して佐久市になっている。)
ここに司馬遼太郎の友人が入院していて、見舞いに寄った。
この友人というのは西沢隆二(にしざわたかじ 1903-1976)氏で、詩人であり、社会運動家。
正岡子規の妹・律の養子の正岡忠三郎と親しいつきあいがあり、司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』(1981)は、その2人を主人公にしている。
須田剋太が病院の様子を描いていて、西沢氏のおそらく最後の肖像画になった。(須田剋太『臼田町の病院に知人を見舞う』)

司馬遼太郎が見舞ったのは1976年7月26日だった。
『ひとびとの跫音』には、2人の最期の様子が記されていて、同じ1976年の9月10日に、正岡忠三郎が亡くなった。
その知らせをきいた西沢隆二は、病床で忠三郎をおくる詩を書いて遺族に送り、その後まもなくの18日に西沢も亡くなった。
司馬遼太郎が見舞ってから2か月も経っていなかった。

「病院の屋上にのぼったかい」
 と、病人がいう。その気になってのぼってみると、なるほどみごとな景観で、千曲川が森や丘を縫って悠々と蛇行し、佐久平(さくだいら)そのものが一個の完結した小宇宙であることを思わせる。


須田剋太『千曲川岸風景』
須田剋太『千曲川岸風景』は、このとき屋上から眺めた川かもしれない。

僕が訪れたとき、1つの病棟を改築するための解体工事が進んでいるところだった。「7階病棟解体工事」という案内がでていて、もしかすると司馬遼太郎らが屋上に上がった病棟かもしれない。
工事中でもあるし、もともと病院には入りにくい。
裏に回って千曲川の川岸に出た。

左に佐久総合病院、中央に千曲川、遠景に浅間山
千曲川の土手を歩いて 橋から眺めた風景。
左に佐久総合病院、中央に千曲川、遠景に浅間山が望める。


このあと軽井沢を過ぎて家に帰ったのだが、とちゅう、あちこちから浅間山を長めならのドライブになった。
須田剋太は、若い頃、転地療養で軽井沢にいき、毎日、浅間山を眺めていた。
『街道をゆく』でも、軽井沢は須田剋太の人生に関わりの深いことだから、かなり長い文章でそのころの事情にふれている。

須田剋太『私に画家になることを決定させた浅間山』
須田剋太『私に画家になることを決定させた浅間山』

司馬一行は軽井沢に1泊した。
このとき泊まったホテルが、旧来のホテルのイメージとは違った新しさをそなえたもので、司馬は気に入ったふうだった。


須田剋太の挿絵はそのホテルで描いたもののように思える。
「林の中に平屋建ての電車の客車のようなものが二棟ころがされているだけ」と文章にあるが、絵では林の木々が描かれ、左にその建物らしき軒あたりが見えていて、前に立つのはホテルの料理人だろう。
須田剋太『南軽井沢』
須田剋太『南軽井沢』

国会図書館に行って当時の住宅地図をあたり、旅の図書館に行って当時のガイドブックなどを探してみたが、それらしいホテルは見つけられなかった。

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参考:

  • 『街道をゆく 9』 「信州佐久平みち」 司馬遼太郎/文 須田剋太/絵 朝日新聞社 1977
  • 『山本鼎 青春の絵はがき』 サントミューゼ 編/刊 2017
    『山本鼎の手紙 渡航日記ほか』 山本鼎/著 山越脩蔵/編 上田市教育委員会 1971
    『青木繁のデッサン 梅野コレクション・藤井コレクション』 東御市梅野記念絵画館 編/刊 2015
  • 『「男はつらいよ」を旅する』 川本三郎 新潮社 2017
    『都市をつくる風景 「場所」と「身体」をつなぐもの』 中村良夫 藤原書店 2010
  • 『ひとびとの跫音』司馬遼太郎 中央公論社 19817
    『政治記者の手帖から』長島又男 河出書房 1953 
  • 2泊3日の行程 (2018.4/26-28)(-車 ▷自転車 …徒歩)
    第1日  更埴I.C.-長野市信州新町美術館-長楽寺・姨捨駅-上田市立信濃国分寺資料館・山辺糀店-上田(泊)
    第2日  …上田城…上田市立美術館…柳町通り-前山寺・信濃デッサン館・槐多庵・夢の庭画廊-別所温泉駅▷常楽寺▷安楽寺▷北向観音▷別所温泉駅…別所温泉(泊)
    第3日 -海野宿-梅野記念絵画館-望月宿-佐久総合病院-佐久I.C.