なつかしい龍野から揖保川をくだって室津みなとへ


『街道をゆく 9』の「播州揖保川・室津みち」をたどってたつの市と周辺を旅した。
今度もいくつかの幸運に恵まれたが、最大のものは室津港にある浄運寺でだった。
庭で草取りをしている人に声をかけられた。
須田剋太が描いた地をたどっていると話すと、須田剋太がここに来たとき会われていて、室津で描かれたほかの絵の場所なども教えていただいた。
そのとき草取りをされていなければ、絵の場所を探しあてるのに時間がかかるか、時間をかけても見つけられなかったかもしれない。

もうひとつは、旅行前のこと、古民家ギャラリーかぐやを主宰する井上正さんに、今度、龍野に行くと言ったら、それは僕が青春時代をすごした故郷だという。井上さんから有益な情報をえられたし、話をきいていると龍野はとてもふるさととしてよさそうな街で、僕まで懐かしい土地に向かうような気持ちになってきた。
今まで旅行前に井上さんにこれからどこへ行くなんて話したことはない。たまたま直前に会う機会があって話したら、その行き先が故郷だったという、不思議で幸運なことだった。

 相生    アトリエをたずねる 
 伊和神社  播州一宮 
 山崎小学校 なぞの校門  
 龍野    なつかしいひとのふるさと 
 室津    立体的な港をめぐる 
 姫路    竜門寺に寄る

(旅の後半は淡路島をまわった。→[淡路島の港のいちじろう])

[第1日]

 相生:アトリエをたずねる 

* 相生駅に降りる。山陽本線で新幹線も停車する駅にしてはのどかで人も少ない。
駅から出て、のんびり見まわして、レンタカーを予約してあるトヨタの看板を見つける。
国道2号線を西へ走り、細い道にそれる。


■ 新谷アトリエ
兵庫県相生市若狭野町

かつて埼玉県にアトリエがあった石の彫刻家、新谷一郎さんが、数年前に相生に移られた。
遠くへ行ってしまわれたなあと思ったまま、定かな住所を確かめていなかったのだが、この旅に出るのにあたり思い立ってよくみると、予定の走行路からわずかにそれたくらいの所なので、寄らせてもらった。
マピオンの地図には「新谷アトリエ」と表示してあり、迷わずに着いた。

相生駅まで車で数分、歩いても行けるというくらいの距離だが、田園地帯にある。
住居とアトリエのすぐ裏は田んぼで、その向こうに山陽本線と国道2号線が走っている。
新谷アトリエ

ヤギを飼っていて、夜は小屋に入れるのだが、その小さな窓から車や電車のライトが動いていくのを眺めるのが好きだという。
まぶしそうな細い目で見て、光がきれいなのか、あんなふうに走って遠くへ行きたいと思っているのか、なんとなしヤギにシンクロする。

石彫には大きな音がするが、かつて住宅街で制作していた頃とちがって、ここではほぼ問題ない。
西に移られたが、今も都内でしばしば展示があり、この旅から戻ったあとも銀座に見に行った。

 伊和神社:播州一宮  

* 揖保川に沿って北上して、宍粟市(しそうし)に入る。この市名を見るたび、そんなふうにどうして読めるものか?と目がとまどう。
中心部の山崎をいったん北に通り抜ける。
山崎が中盆地とすると、小盆地の伊和に播磨国一宮の伊和神社がある。

『街道をゆく』の一行は、京都に住む編集部のHさんが「摂津夙川という高燥閑雅な住宅地」に住む須田画伯を迎えにいき中国縦貫自動車道に入り、「中河内の猥雑な低湿地」に住む司馬遼太郎も同じ道路にのって、宝塚で落ち合い、やはりまずこの神社に来た。


● 道の駅播磨いちのみや

伊和神社から道の向かい側に道の駅がある。
ちょうど昼どき。
レストランに行列ができているので諦め、海苔巻きを買ってあっさりと昼にする。
意外においしかった。

■ 伊和神社
兵庫県宍粟市一宮町須行名407

須田剋太『播州一宮神社』 伊和神社
須田剋太『播州一宮神社』

播磨国の一宮とはいえ、大きくなく、ひっそりしずか。
ここに神社をつくるよう神託があったとき、大きな白鶴2羽が石の上で北向きに眠っていたので、社殿を北向きに造営したといわれる。
その石はI石といって、本殿の裏に祀られている。

須田剋太『播州一宮神社鶴石』 伊和神社I石
須田剋太『播州一宮神社鶴石』

須田剋太の絵では、I石の向こうに木の解説板があるが、今は右に石に刻んである。
I石の真正面には賽銭箱がある。肝心の石が隠れてしまうような位置で、神秘とかありがたいとかいうより、えげつない印象を受ける。

ページ先頭へ▲
 山崎小学校:なぞの校門 

* ここで折り返して、山崎の中心部に向かう。
広い駐車場があって入っていくと、ふだんは無料らしい駐車場が最上山紅葉祭り協力金500円が必要だという。紅葉祭をではなく図書館に来たというと、専用の駐車場が隣にあると教えてくれる。
図書館は、歴史がある町にしてはあまり魅力があるものではなかった。
すぐ隣に小学校がある。


■ 山崎小学校
県宍粟市山崎町鹿沢82 tel. 0790-62-1131

この『街道をゆく』の旅に同行していた歌人の安田章生氏の母校。
山崎城があったところで、明治以後、藩邸が小学校になった。

須田剋太がここで山崎小学校を描いているが、この絵はかなり悩ましい。
古い門の向こうに、木造校舎と、小ぶりな木造の講堂らしきものがある。
須田剋太『播州山崎町安田章生氏小学校母校』
須田剋太『播州山崎町安田章生氏小学校母校』

今、正門は石積みの塀に鉄製の門扉があり、その向こうに最近に改築されたらしい校舎がある。
ところが司馬遼太郎の文章では、安田氏のことばとして、
「こういうコンクリートのものでなく、お城の大手門の城門だった」とある。
木製城門をほかに移築したうえコンクリートにかえ、さらにその後また歴史的遺構にあるからと石積みに変えたろうか。
山崎小学校 正門

校地の東にもうひとつ校門がある。
近くに城の時期の絵図が掲げられているのだが、それによると、これは「柵御門」というものになる。(正門のほうは「表御門」とある)
須田剋太が描いた門は、こちらの門らしく見える。
ところが、絵ではグラウンドをへだてて、かなり先に建物があるのに、今この門からは建物が間近にある。
山崎小学校 柵御門

須田剋太の絵と、司馬遼太郎の文章と、現在の様子とが、すんなりつながらない。さらに可能性としては、須田剋太の絵は、『街道をゆく』の取材で訪れたときの見えたままを描いたのではなく、安田氏が母校を懐かしむ気持ちにあわせて、かつての写真をもとに描いたこともありうる。
校地の東は公園になっていてる。
『街道をゆく』の旅の時点ですでに
ごく記念館的に山崎陣屋−というより旧校舎−が、大手門の内部にまとめて保存されている。(『街道をゆく 9』「播州揖保川・室津みち」 司馬遼太郎文・須田剋太画 朝日新聞社 1977。以下ことわりのない引用は同じ。)
状態だった。
絵と文と現在をつきあわせるには、校舎の改築と配置の変遷もたどる必要がありそうで、そこまで細部をたどるのはパスする。

ページ先頭へ▲
 龍野:なつかしいひとのふるさと

* 揖保川と並行する道をさらに南下する。
たつの市街にはいる手前で、脇道にそれて土手に上がった。
写真は、鶏篭山より北の揖保川右岸から撮った。
絵は左岸から描いたろうか。


須田剋太『播州揖保川より 鶏篭山』 揖保川から 鶏篭山
須田剋太
『播州揖保川より 鶏篭山』

* 2005年に龍野市と周辺の町が合併してたつの市になっている。
龍野の歴史的旧市街の狭い道を、右に曲がり、左に曲がり、窮屈な思いで走っているうち、龍野小学校の近くに観光用の駐車場があり、車を置けて、あとは歩く。


■ たつの市立龍野歴史文化資料館
たつの市龍野町上霞城128-3 tel. 0791-63-0907

龍野城趾からつづくところにある。
ふだんは歴史資料を展示するところなのだろうが、たつの市出身のアーティストを紹介する企画で、「とびだす/うつわ 桝本佳子の世界」を開催中だった。
壺や皿が、本来の「うつわ」の機能を捨てて、城を盛っていたり、数羽の雁が壺を突き抜けて舞い上がっていたりする。
そんなことするか!と痛快なほどに大胆でユーモアがある。
受付で「今は企画展だけで、歴史資料は展示してないですよ」とすまなそうに念を押されたのだが、僕にはむしろそのほうがおもしろい。

桝本佳子の扇子の壺 といっても、まったく歴史資料がないわけではなくて、館蔵の山水画の前に、山並みが壺に重なっている作品があり、館蔵の扇子が散るなかに、壺に扇子がとけこんでいる作品が置かれていたりする。
こういう古い街で、こういう新しいものを見るとは思いがけなかった。

思いがけなかったことはまだあって、鹿島建設の「中興の祖」といわれた鹿島守之助はたつの市の生まれで、この資料館はその縁でできたものだった。
鹿島建設が本社を赤坂へ移転したとき、鹿島守之助はその跡地に八重洲ブックセンターを開設した。
1978年の開店当初から僕もしばしば利用してきたが、そんないきさつの書店とは知らずにいた。
龍野の資料館は、その八重洲ブックセンターが建物を寄贈してできたとのことで、そんなことがあったのもこちらに来て知った。

■ うすくち龍野醤油資料館別館

山をわずかに上がったところにある資料館から、古い家が並ぶ街におりてくる。
うすくち龍野醤油資料館別館があり、醤油屋のゲストハウスだったもので、ギャラリーにつかわれている。
このあたりの眺めが
須田剋太『播州龍野市風景』に似ている。

須田剋太『播州龍野市風景』 うすくち龍野醤油資料館別館前からの眺め
須田剋太『播州龍野市風景』

左に曲がっていく道と水路と、水路にかかる橋。左にツートンカラーの塀。
全体の構図からいったら、「この絵はここ」といってしまいたいところだが、塀の内側の建物が違うし、絵では右に山の斜面が迫っているが、実景は如来寺がある。
アレンジして絵にすることがありうるとしても、こう細部のあちこちに手を加えることはなさそうに思う。
この絵の場所はとうとうわからなかった。

■ 如来寺
たつの市龍野町大手65 tel. 0791-62-0422
http://nyoraiji.net/

ここに来たとき、司馬遼太郎は同行しているたつの出身の歌人、安田章生氏に「いい寺ですね」と声をかけている。
でも本堂の前にある三木露風の筆塚と歌碑が、本堂に比して不釣り合いに大きすぎて目ざわりであったと書く。
今来てみても、たしかに大きいし、本堂の真正面に寺の由来などを記した解説板がでんと置いてあったり、ディスプレー感覚のズレはいまだにかわりがないようだ。
庫裡が新築工事中でもあり、境内ぜんたいが落ちつかない。

須田剋太『播州龍野市』 如来寺
須田剋太『播州龍野市』

『播州龍野市』の絵は、如来寺の外で、鶏篭山に向かって描いている。

■ 旅館いろは跡
龍野町下川原

須田剋太が描いた『龍野市』には、「旅館いろは」の看板が見える。
冒頭にかいたように、たつの市は、埼玉県で古民家ギャラリーかぐやを主宰する井上正さんが、中学、高校に通った青春時代のふるさとになる。
その井上さんが龍野の知人にたずねてくれて、旅館いろはは如来寺よりわずかに南にあったと教えられていた。しばらく前から営業をやめていたが、3年前に解体されたという。

須田剋太『龍野市』。
古い家並みが道の両側にならぶ。
向こうに鶏篭山が見えているから、南から北を向いて描いている。この絵では見えないが、この先の左側に如来寺がある。
須田剋太『龍野市』


右手前に新しい家がある先の空き地が旅館いろは跡。(如来寺第2駐車場になっている)
左にも空き地があり、新しく建て替わった家も多い。
このあたりではかつての情緒は失われている。
たつの市 旅館いろは跡付近

龍野は、相撲の祖とされている野見宿禰が亡くなった地といわれ、龍野公園に野見宿禰神社がある。
そんな由緒があるため、「昔はけっこう相撲の巡業があり、そのとき旅館いろはにもお相撲さんが泊まられたそうだ」と、井上さんからきいた。

■ 伏見屋商店
たつの市龍野町上川原79 tel. 0791-62-0091

本屋さんぽくない店名の本屋さんがあって入る。
伏見屋商店(書店)

週刊朝日を買った。
司馬遼太郎夫人福田みどりさんが先週亡くなられて(2014年11月12日)、その追悼記事「司馬さんといっしょに夢の中」が掲載されている。
須田剋太が『街道をゆく』の挿絵に描いた地をたどっていると、どこで描いたかわからないところや、どういう行程で動いたのかナゾのところがあり、いつかお会いできてうかがえたらと思っていたが、間に合わなかった。
最近アルバムをだしたピンク・フロイドの独占インタビューもある。
まさか今ごろピンク・フロイドの新譜をきけることになるとはと驚いていたが、まだ聴いていない。帰ったら買って聴こう。

伏見屋商店の吹き抜け 伏見屋商店 石畳の通路

書店は中央が吹き抜けになっている。
2階部分は回廊で、そこにも書棚が見える。今は教科書の時期の仕分けに使うくらいとかで、棚に本はなく、照明が消えていて暗い。
右には石畳があって裏に抜ける。水運の川に近道するようにあったという。
見学する人が多いらしく『伏見屋あれこれ』という、手書きをコピーして作った紹介資料が用意されていているのをいただいた。

日が暮れかけてきている。
ここまで観光客に数人すれ違ったが、もう見かけなくなった
街のひとにもあまり出会わない。
龍野は三木露風の出身地で、夕焼け小焼けではじまる「赤とんぼ」が有名。
しっとりと静かな時間が流れていて、いかにもこの街に似つかわしい歌だと納得する思いになる。
竜野という町は、幼年期の夢のような、あるいは詩情の原形をなす記憶を形成するのにみごとなほどの町であるのかとも思えた。
と、司馬遼太郎は書いている。
ただでさえ日暮れはもの寂しいのに、この街の静けさにひとり旅のたよりなさが加わって、しんみりしてくる。

* 駐車場に戻る。古い街の趣のある店で夕飯をとろうというつもりで、宿には食事なしで予約してあった。ところがここまで歩いてきた限りでは、食事をできるような店はなかった。川の東にある新市街地にはあるだろうが、すると車で出なくてはならない。宿に電話して夕飯を追加してもらった。

● 赤とんぼ荘の夕食
兵庫県たつの市龍野町日山463−2 tel. 0791-62-1266

坂をあがりきった高台に宿がある。
『街道をゆく』の取材では、一行は室津に宿をとり、龍野には泊まっていない。
旅にでるまえ、須田剋太の都合をきこうと編集部のHさんが連絡して
「須田さんは、室津も竜野も行ったことがある、竜野では赤とんぼという宿にとまった」
という返事を司馬遼太郎に伝えている。
僕はその赤とんぼ(荘)に予約してきた。

高台にあるので、部屋からも眺めがいい。
窓の正面に鶏篭山があり、下に古い街が広がっている。灯りが少ない。
揖保川の西に旧市街があり、東が発展して西は寂れているという。
寂れているのもわるくないと思う。

龍野旧市街から赤とんぼ荘を見あげる 旧市街から赤とんぼ荘を見あげた写真(左方の森の上)

夕飯には地域色にとんだ食事もあるらしいが、急な追加でまにあわせてくれたのは、思いっきりふつうの旅館の夕食で、刺身、天ぷら、茶碗蒸し、寄せ鍋など。
ひとりでも部屋食なので、のんびり食事できて、まあよかった。

[第2日]

* 朝食前に散歩に出る。
赤とんぼ荘のすぐ前の小ピークの白鷺山が「童謡の小径」になっている。
野口雨情『七つの子』、サトウハチロー『ちいさい秋みつけた』などが石碑に刻んである。
ジョギングの女性が「おはおうございます」と声をかけて追い抜いていく。
白鷺山をおりきったあたりに、小さな動物園があり、紅葉がみごと。
「文学の小径」を歩いて、龍野神社にお参りして、その先に庭園がある。


■ 聚遠亭(しゅうえんてい)
たつの市龍野町中霞城

龍野藩主脇坂氏の屋敷跡と庭園。
老中松平定信が訪れたとき、城下町越しに淡路島や瀬戸内海の島々を望める眺めの素晴らしさから、ここを「聚遠の門」と呼んだ。
その故事から、心字池にある浮堂が「聚遠亭」と命名された。

聚遠亭 紅葉に囲まれて聚遠亭、茶室「楽庵」、藩主脇坂氏の別邸「御涼所」があるが、公開時間前なので、遠望しただけで戻る。

● 赤とんぼ荘の朝食


宿に戻って展望レストランで朝食。
窓際の席で眺めがいい。

赤とんぼ荘がある丘、鶏篭山、揖保川に囲まれて旧市街があることが、立体模型のように一望に見てとれる。
旧市街には、城跡、醤油工場、行政機関などが、手ごろな面積におさまっている。
丘に上がれば揖保川がゆったり流れ、空気が澄んでいれば海まで見える。
いいまちだと思う。
赤とんぼ荘から龍野旧市街

赤とんぼ荘の斜面を下った先に、井上正さんが住んでいた家が見えている。
僕が泊まった部屋は6階で、木々にさえぎられて見えなかったが、レストランは8階にある。
半ば井上さんになって懐かしいような気分で食事をした。
赤とんぼ荘から龍野旧市街 拡大

* 宿をチェックアウトして、龍野公園の駐車場に車を置いて、また歩く。

■ 旧・井上正邸

旧市街地中心部に向かう道が、水路に沿った道と交差する角に、井上正さんが中学から高校にかけて暮らした家がある。
ちょっとおしゃれで控えめな洋館といった風情で、今は別な方が住まわれている。
脇の道を上がれば赤とんぼ荘がある丘になり、ゆるやかに下れば醤油工場が並ぶ旧市街にはいる。(井上さんのふるさとへの思い出には醤油の匂いがともなっているという。)
ロケーションといい、家のスタイルといい、そのまま大林宣彦の青春映画の舞台になりそうだ。

『街道をゆく』の取材で訪れたとき、同行した歌人の安田章生氏がかつて住んでいた借家も残っていた。
舞台の書割(かきわり)の城下町のように、小さいながらも城下町でありすぎるほどの霞城の狭い道路を通ってゆくと、不意に氏は一軒の借家ふうの家を見あげたまま立ちどまってしまった。
「どうかしたの」
 三十年、旅行というものをしない幸子夫人が、心配そうに声をかけたほどだった。凝然としていた安田氏はやがて夫人をふりかえって、
「僕の家だ」
 と、いった。厳父が竜野中学の先生時代に借りておられた家で、章生氏が四歳の秋から八歳の春まですごした家である。
寺とか城とかならともかく、ふつうの家がこんなふうに残っているのは珍しい。
旅館いろはの周辺のように、変わったところもあるが、こういうところもある。

■ 真浄山 常照寺
たつの市龍野町福の神18 
http://tatsuno-joshoji.jp/

水路に沿った道をいくと 常照寺。
住職は井上正さんと同窓だときいた。
国木田独歩の先祖の墓がある。

● 梅玉(うめたま)
たつの市龍野町本町1?1 tel. 0791-62-1101

水路沿いの道をさらにくだると旅館がある。
『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』にでてくる。
龍野が大画家・宇野重吉の生地で、市から招かれてきて、この宿に泊まる。
たまたま龍野にきていた寅次郎・渥美清も、画家に誘われていっしょに泊まる。
夜の宴会に芸者・太地喜和子が現れ、寅次郎と意気が合う。
古い風情のある宿だが、今は現代建築の新館が加わっている。

梅玉 映画に映った旧館では、門の内側に映画の撮影時の写真が掲示されている。
『街道をゆく』の取材が1976年の3月、映画の公開が同じ年の7月だから、映画には司馬遼太郎と須田剋太が見た風景が映っていることになる。

● 吾妻屋
たつの市龍野町下川原52 tel. 0791-63-0140

龍野 羊羹の吾妻屋 ちょっとそそられる様子の菓子屋があって入る。
栗蒸し羊羹が並んでいる。
ふつうの栗蒸し羊羹と、抹茶栗蒸し羊羹が1棹756円。
これは上に栗片がのっているのだが、中までごつごつ入っている栗蒸し羊羹(錦)は918円。
みやげに錦を買う。

歩いていると軒下にこんな注意書きを置く家があった。 「とゆに注意」

■ うすくち龍野醤油資料館
たつの市龍野町大手54-1 tel. 0791-63-4573
http://www.higashimaru.co.jp/enjoy/museum/

ヒガシマル醤油の資料館で、入館料が驚異の10円なのに、見応えのある展示だった。

うすくち龍野醤油資料館の窓 内から うすくち龍野醤油資料館の窓 外から

龍野は、これという目的地なしでも、ただプラプラ歩いていたくなる。
いくつかカフェがあったから、ときたまコーヒーブレイクなんかしながら、とりとめなくうろつきたくなる。
去りがたいが先の予定がある。
さあ龍野公園の駐車場に戻ろうとしたとき、龍野小学校のあたりで醤油の匂いがした気がした。ほんのわずかな時間だけで、どこからきたのだろうとくるくる体の向きを変えてみたが、あとはしなかった。

ページ先頭へ▲
 室津:立体的な港をめぐる 

* 南へ、室津港に向かう。
かつては御津町室津だったが、2005年の合併で、たつの市の一部になっている。
442号線を南下して、海に突き当たるところで西へ向かう250号線になる。
海岸に沿って曲がりくねった道で、七曲りというところがある。
岩見港を過ぎた高い崖を通るあたりに「櫓(やぐら)」というレストランがある。
まだ開店前だが駐車場にはいって海を見おろすと、須田剋太が描いた絵のようだ。
(ところがあとで疑問符がつけられる)


須田剋太『室津の七曲り道』 七曲り
須田剋太『室津の七曲り道』


● 割烹旅館きむらや
たつの市御津町室津1032-1 tel. 079-324-0007

『街道をゆく』の取材で、司馬遼太郎、須田剋太らの一行は、室津に泊まっている。

七曲からの道路は、じょう峨山(じょうは「女」偏に「常」)の崖の中腹を通っている。道路上から入江の景観が見おろせる。宿は、その道路上に、崖に背をもたせるように建っている。(中略)
 部屋に入ると、この宿に感謝する気持になった。
 アルミ枠のガラスいっぱいに室津港が見おろせるし、地図ではよほど沖合かと思っていた中ノ唐荷(からに)島と沖ノ唐荷島が、ちかぢかと見えるのである。

この司馬遼太郎の文章には旅館名はでてこない。
地図上で探すと、室津港を見おろせる位置にあるのは「きむらや」という宿一軒のようだ。
レストランがあって昼も営業しているので、昼食に入った。

司馬遼太郎は、入口付近の落ちつかない風情に閉口している。
着いてみると、崖を背にして道路に面しているから窮屈になりそうなのに、1階は玄関だけにして2階に階段をあがっていくあたり、ゆったりして、いい風情になっている。
(写真は対岸の賀茂神社下から)
割烹旅館きむらや

レストランでは、窓際にほりごたつ式の座敷がいくつか並んでいる。
開店間近で、僕がこの日最初の客。
窓辺に座ると室津港が見おろせる。
司馬一行の宿は、やはりここだったようだ。
島は見えない。
室津港

日射しがまぶしく暖かい。
今朝、龍野を歩いているときは空気が冷たかった。
室津港は、室津千軒といわれたほどに栄えたところで、狭い入江の奥にある小さな港にしては屋根が密集している。

1300円の穴子丼を注文した。
穴子の1片の片側が三角形に尖っている。食べると先端は固く、そこから骨が貫いている。頭のようだ。あとでひとにきいても、頭がついた穴子丼は経験がないという人ばかりで、珍しいものをたべた。

きむらやの穴子丼 いちばん上が頭がついた部分。左が三角にとがっている。

食事がすんでたずねると、やはりここが司馬一行が泊まった宿だった。
経営するのは木村治雄さんと陽子さん夫妻。
陽子さんにおききしたのだが、すっきりと明快な話しぶりで気持ちがいい。
3階が宿になっている。
入江の向こう側に賀茂神社がある小さな岬があり、その木が大きくなって、今は3階からでも唐荷島は見えないとのこと。

司馬遼太郎が残していった色紙が柱にかけてあった。
太い筆で「室津千軒」とある。
おとうさんがもう1枚あると奥からもってこられて、細い筆で「竜馬がゆく」とあった。

この宿での夕食の情景は、『街道をゆく』のなかでも印象的なところ。

 夜になると、この歴史のみが重い漁港にも、集落(まち)らしい灯火の群れが、暗い湾をかこみはじめた。
 それらの灯を崖の中腹から見おろしながら、私どもは夕食をとった。

同行している歌人の安田章生氏の父が、須田剋太に花や木のことを教えた人という縁があり、ふだんは寡黙な須田剋太が、この夜はしきりに話す。
そのうち、ポケットからいきなりツバキの花を三個ほどとり出して、みんなを驚かす。

花片の赤が、ふちまで来るとすこしちがった色で縁どられているでしょう、自然だから平気でこんなことをしているのですが、絵でこういう色調を出すというのは大変ことです、といった。

話が京都の常照皇寺のしだれ桜のことになる。
安田氏は何度も、今日こそが、と狙いさだめて出かけているが、なかなか当たらない。
ある年、1日早かったというような日にでかけてしまったとき、永年しだれ柵の下を掃いている掃除のおばさんが、花のいちばん素晴らしい時というのは「ほんの4時間ですね」といったという。
いい日は1日きりで、それも「午後になれば花が人の目や陽にくたびれる」前の朝のうちの4時間なのだろうと、司馬遼太郎が補足する。

花の話をしているうち、安田幸子夫人の膳の料理が空になっている。
司馬遼太郎が「天人」という言葉をもちだすほどに少食のひとなのに、この宿でそんな奇蹟のようなことがあった。

→[桜の洛北、漱石の嵐山−「洛北諸道」と「嵯峨散歩」

* 室津港は斜面に囲まれた入り江に家が密集している。車を置けるだろうかと、きむらやの窓から見まわしているうち、入り江の対岸、賀茂神社がある小さな岬の下が港になっていて、その背後に空間がありそうだと見当をつけた。
きむらやの前からループ橋を下り、港を半周して賀茂神社下につくと、どんぴしゃり、数台分の観光客用無料駐車場があった。


■ 賀茂神社
たつの市御津町室津74

駐車場に車を置き、坂を上がると神社がある。

道にやぶ椿のぼってりした花が、いくつもころがっていた。花のすきな須田画伯が、それをひろってはいったん嗅ぎ、嗅ぎおわるとポケットに入れた。ポケットに入れてもあとでどうするわけでもないのだが、すぐ捨てるに忍びないからに相違ない。

参道の左右に変わった配置で並ぶ8棟の建造物が国の重要文化財に指定されている。

参道を抜けた先にソテツが生命力を感じさせる勢いで繁茂していて、野生のものでは日本列島の北限という。

* 司馬遼太郎の文章では、「加茂神社」としているが、ここでは現行の地図の表記など一般的につかわれている「賀茂神社」とする。(司馬遼太郎の文章の引用については「加茂神社」)
賀茂神社のソテツ

* 斜面にまで建てこんだ家並みのあいだの細い石段をあがっていくと浄運寺にでる。

■ 浄運寺
たつの市御津町室津16 tel. 079-324-0030

脇の門から境内に入ると、左に本殿、右に庭がある。海辺の限られた土地にたつ寺だから広めの人家ほどの境内だが、かえって親しみやすい落ち着きがある。
本堂につづく石の道に刈りとったばかりの庭の草が散っている。

本殿の正面の門の下は小学校のグラウンドで、その向こうに海がある。
もとはグラウンドも海だったが、埋め立てられた。
地図を見ると埋め立て地はきれいなカマボコ形をしていて、すぐわかる。
浄運寺

眺めていると、門のそばで草取りをしている女性に声をかけられた。
須田剋太が絵を描いた地をたどっていると話すと、須田剋太が来たとき会っていた方だった。
その大林教子さんが「そのときもわたしは草いじりをしているときだった」と笑う。

室津で須田剋太は数点の挿絵を描いている。
山門の石段に絵のコピーと地図を広げて場所を教えてもらった。
室津港は小さな港だから歩いていれば見つかるかと思っていたが、甘かった。
家が多いし、坂もあって立体的だから、かなり複雑で、教えてもらわなければ、とても時間がかかるか、時間をかけても見つけられなかったかもしれない。

そもそも『室津風景』の絵。
僕はもっと低い位置で海に面しているところと思いこんでいたのだが、「これはうち」と、最初に入ってきた門のあたりに行くと、なるほどそこからの風景だった。
ここから出てしまっていたら見つからなかったろう。

須田剋太『室津風景』 浄運寺から海
須田剋太『室津風景』

すでに通ってきた室津の七曲り道の絵は、「櫓」というレストランあたりからではないかと話すと、絵には海岸にゴツゴツした黒い岩がある、「櫓」からではこういう岩はないといわれる。
半島の向こう(ここまで走ってきたより西の先)なら岩があるが、こういうふうに見えるところは陸にはなくて、空からになってしまう...と思案される。
正確に見る人だと感嘆する。
半島の先まで確かめに行く気にはなれなくて、この絵はナゾのままになった。

あとの絵の見当をつけられたので、室津で早いうちにでここに来てよかった。 いいときに外で草取りをされていたと感謝する。
司馬遼太郎はここで老婦人が孫をさとすところとにいきあたっている。祖父が植えた草花を抜いてしまったらしいのだが、この寺ではしきりに草をとることが関わるのがちょっとおかしくなる。

* 徳乗寺わきの道を上がって、半島の高い位置にでる。

■ 室津唐荷島

須田剋太の『室津唐荷島』と題した絵には、岬の先端の賀茂神社に上がる階段と、その先の鳥居と、その奥に続く黒い穴が描かれている。
その向こうには海があり、小さく2つ島があるのが、タイトルにある唐荷島だろう。
須田剋太『室津唐荷島』

ところが実際にこの位置に立つと、神社のある岬とこちら側は、ほぼ同じくらいの高さで、その向こうにある海面や島は隠れている。
こちら側はまだピークではなく、もう少し高く上がれるが、家並みに隠れて展望はきかなくなりそうだし、海面が見えるほどには高くなさそう。
絵では近いところの家々の屋根を、ほとんど真上から見おろしている。そう見えるためには、よほど高くて急な崖がなくてはならないが、ゆるい坂があとわずか上がっているだけ。
賀茂神社を見おろす

なによりおかしいのは、この位置からは唐荷島は左の方向にあって、絵のように賀茂神社の向こうにはありえない。
賀茂神社の向こうに唐荷島が見えるのは、昼を食べたきむらやからの方角になるが、そこからだと鳥居と階段は見えないし、入江を隔てていて、視点の位置に家並みがつづいていることはない。

これまで須田剋太が風景を描いた絵をみてきての仮定だが、実際に見えているより視点を高く設定して、見えようを補正して描くことがあったように思える。
たとえば、通りと両側の家並み2階の窓から描いているふうなのに、その位置にはなにも高い建物はないとか。
この絵では、高さを補正して描いて、さらに向こうにある(と思いこんだ)唐荷島も描きこんだように思える。

* 賀茂神社を見おろしたところからはまだ上に坂がつづいている。
坂の上に雲はないが、歩いていって上がりきってみると、半島上の尾根道があり、先へ進んでいくと半島の先端の藻振鼻にでた。


藻振鼻から唐荷島 ■ 藻振鼻

僕はここにきてようやく唐荷島を木の間ごしに見ることができた。
唐荷島は無人島だが、かつては室津港の入り口をしめす大切な島だった。

* 海沿いの道を下っていくと、浄運寺の下、小学校のわきにでた。
港に向かう。


■ 室津港

室津港のある入江を、おおざっぱにUの字とすれば、左上に賀茂神社、右上にきむらやがある。
Uの字の底辺にある岸壁が『室津港』の絵の場所。

須田剋太『室津港』 室津港
須田剋太『室津港』

Uの字の底辺から坂道を上がっていくと250号線にでて、きむらやの前になる。

ガードレールの右が250号線で、その道の右側、木々にはさまれている建物がきむらや。
司馬の文章に、宿から下っていくことが書かれているから、ここから降りたのだろう。
きむらやの前、250号線

 翌朝、やや陽が高くなってから、町にむかって、細い道を降りてみた。降りるにつれていらかの無数の重なりが変化する。(中略)
 須田画伯が、先導してくれた。(中略)私が朝寝しているうちにもう一巡して写生してきたために、足どりが自信に満ちている。
「こちらへおいでなさい」
 と、家の軒下を通らされた。軒下みちといっても、崖道である。もし足を踏みはずせば、崖下の家の屋根の上に落ちる。
 細い道をたどって崖の角−といってもその家にとっては物干し場−まできたとき、ここがいいんです、と須田画伯はいった。(中略)
 なるほど、足もとのいらかの波と入江と、入江を外海からさえぎる加茂明神の岬などが、みごとな造形をつくりあげている。

このとき描いたと思われる絵が2枚ある。
きむらやの前から、もう一度港のほうに戻ることにして、下りながら見ていくと、1枚はぴったり風景に重なった。

須田剋太『室津港』 室津港 坂上からの眺め
須田剋太『室津港』

もう1枚『室津』と題した絵がある。

須田剋太『室津』 司馬遼太郎の文章にある「足もとのいらかの波と入江と、入江を外海からさえぎる加茂明神の岬」は、この絵のことのようだ。
でも、いったりきたりして探してみたが、このように風景が見える地点には行き着けなかった。
木が育って家並みを見えなくしたか、家が建て替わったかもしれない。

晴れていて、空が青い。
11月半ばで、暑くもなく、寒くもない。
風もないし、心配事もない。
こういう日に海辺をうろうろするのはいい。

* またUの字の底、室津港の集落の中心部に戻る。

■ 海駅館と室津民俗館

『室津民家』という絵があり、ここまでに尋ねた人から、海駅館と室津民俗館が候補になっている。
どちらも古い建築が展示施設としてつかわわれている。
そしてどちらも屋根が一直線で、絵とは違った。

須田剋太『室津民家』 室津民俗館
須田剋太『室津民家』 室津民俗館

海駅館で中に入ってたずねた。
受付の女性が奥にいって相談してくれている。
何人かの声がして、思いつく候補をあげて複数の人が議論する声がうっすら聞こえる。
戻ってこられて、判決は「特定できない」ということだった。ちょうど文化財関係者が集まっていたらしい。
手がかりになる文字などがなく、こういうなにげないような姿の家というのは、特定が難しい。

* 午前の龍野はいいまちだったし、午後の室津はいい港だった。
駐車地に戻って車に乗り、東に向かう。


 姫路:竜門寺に寄る 

■ 中川河口−河口ウォッチング

揖保川は河口近くで中川と揖保川に分かれて、播磨灘にそそいでいる。
分かれるのは直前なので、中川と揖保川に挟まれた土地は、大きめの砂州か中の島のよう。
西を流れる中川はたつの市と姫路市の境界になっている。
250号線を東へ走り、中川の橋を越えて姫路市にはいってすぐ右に折れると、竜門寺がある。

門のそばの橋から河口方面を眺めると、西に傾きかけている日が水面にキラキラ輝いている。 中川河口

■ 竜門寺(りょうもんじ)
姫路市網干区浜田812 tel. 079-272-1383
http://www.ryomonji.jp/

『街道をゆく14』「南伊予・西土佐の道」に、竜門寺のことがでてくる。
大洲で盤珪禅師ゆかりの如法寺に行ったが、どしゃ降りになり、タクシーから降りないで引き返す。
須田画伯は盤珪禅師が好きで、この旅が終わったあと、住山であった播州網干の竜門寺をたずねたとある。
→[幸運のえひめ 4大洲市]

僕も大洲に行ったとき如法寺は行かなかったかわりに竜門寺に寄った。
広い境内に禅堂や道場がゆったり配されている。
盤珪禅師に思い入れのない者には、どうということのない寺だった。
竜門寺

* さらに東へ走って明石市にはいる。
この先は、旅の後半の[淡路島の港のいちじろう]になる。


ページ先頭へ▲

参考:

  • 『街道をゆく 9』「播州揖保川・室津みち」 司馬遼太郎文・須田剋太画 朝日新聞社 1977
    『街道をゆく7』「明石海峡と淡路みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976
    『司馬遼太郎の街道 「播州揖保川・室津みち」の世界』村井重俊 守田直樹 週間朝日2014.4/18 4/25 5/2号
  • 『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』渥美清 1976年7月公開
  • 『食卓の情景』 池波正太郎 朝日新聞社 1973
  • 古民家ギャラリーかぐや 埼玉県比企郡嵐山町川島1880−6 tel.0493-63-0012 http://g-kaguya.com/
  • 旅の後半→[淡路島の港のいちじろう]
  • 3泊4日の行程(2014/11/19-22) (→電車 −レンタカー …徒歩)
    [播州揖保川・室津みち]
    第1日 東京→相生−新谷スタジオ−道の駅播磨いちのみや…伊和神社(播州一宮神社)−たつの観光駐車場…山崎小学校−たつの市立龍野歴史文化資料館…うすくち龍野醤油資料館別館…如来寺…旅館いろは跡…伏見屋商店…たつの観光駐車場−赤とんぼ荘(泊)
    第2日 …童謡の小径…龍野公園・聚遠亭…龍野城…赤とんぼ荘−龍野公園駐車場…常照寺…梅玉旅館…うすくち龍野醤油資料館…龍野公園駐車場−岩見港・七曲り−割烹旅館きむらや千年茶屋−室津港観光駐車場…賀茂(加茂)神社…浄運寺…藻振鼻…室津港…海駅館…室津港観光駐車場−中川河口−龍門寺−
    以下[明石海峡と淡路みち]
    林崎漁業共同組合−明石キャッスルホテル…明石港旅客ターミナル…魚の棚商店街・山陽亭…明石キャッスルホテル(泊)
    第3日−岩屋ポートパーキング…岩屋商店街・国万商店…岩屋ポートパーキング−石屋神社−御食の国・洲本市立洲本図書館−ホテルニューアワジ−国道28号(マツ並木跡)−国分寺−淡路人形座〜鳴門観潮船−南あわじ市国民宿舎 慶野松原荘(泊)
    第4日 …慶野松原−志知城跡−国分寺−五色浜−船瀬港付近−いちじろう・富島旧商店街−北淡震災記念公園 野島断層保存館−西宮駅→新大阪→東京