淡路島の港のいちじろう


『街道をゆく』「播州揖保川・室津みち」をたどってたつの市をめぐった旅の後半は、「明石海峡と淡路みち」に行った。

『街道をゆく』の旅で淡路島に行くとき、司馬遼太郎一行は明石港から岩屋港まで播但汽船に乗った。須田剋太がそのとき描いたらしき『明石播但渡し場』には、「一二楼」という文字が見える。
司馬遼太郎の文中にはこういう店名はない。今も営業中の店ならインターネットで検索すればひっかかりそうだが、でてこない。現地に着いて、明石できいても、淡路島がわの岩屋できいても、「一二楼」を知る人はなかった。
岩屋で細長い商店街をたずねながら歩きまわったあと、空振りのまま諦めて先に行くことにしたが、商店街から小径にそれた数軒先にある商店の風情が気になって、最後にどういう店だろうと寄ってみた。
そこに奇蹟があって、「一二楼」のことがわかり、たずねあて、存在が幻になりかけていたのにリアルなマッチをもらって帰ることになった。

須田剋太『明石播但渡し場』 一二楼のマッチ
須田剋太『明石播但渡し場』

この旅行記では、はじめに「一二楼」をめぐることをまとめ、そのあと行程にそっていく。
(旅の前半→[なつかしい龍野から揖保川をくだって室津みなとへ])

港のいちじろう
明石港 岩屋港・岩屋商店街 国万商店 洲本市立洲本図書館 慶野松原荘 いちじろう  
明石:林崎漁業共同組合 明石港旅客ターミナル 魚ノ棚商店街 山陽亭 明石キャッスルホテル 
岩屋
洲本:洲本市立洲本図書館 
福良:淡路人形座 鳴門観潮船
慶野松原・志知城跡・国分寺
西海岸:五色浜 船瀬港 



 港のいちじろう

司馬遼太郎一行は、淡路島に渡るのに明石港から岩屋港まで播但汽船に乗った。
明石海峡大橋は1998年開通で、『街道をゆく』の取材の1974年には、まだ工事も始まっていなかった。
須田剋太がこのとき描いたらしき『明石播但渡し場』には、「一二楼」という文字が見える。
旅にでる前には手がかりがなく、現地で探してみるしかない。
須田剋太『明石播但渡し場』

◇ 明石港旅客ターミナル

たつの市からレンタカーで走ってきて、ホテルの駐車場に車を置き、チェックインしたあと、夜の明石港に歩いていった。
今、本州と淡路島を結ぶ唯一の航路になった淡路ジェノバラインの乗り場だが、暗い壁面が大きな面積をしめていて、これが営業中の港だろうかと不安になるくらい。

明石港旅客ターミナル

『明石播但渡し場』の絵には、「一二楼」より下の看板に「ゆず狩」の文字がある。ゆずは淡路島の名物だが、そこはゆず狩の現地ではなく、港のそばにある案内所のようなものだろうから、だとすればこれから淡路島に向かう明石港にもありうるだろう。
絵の右のほうには「バス 船 連絡券発売所」とある。
明石港は駅に近いので、バスに乗る必要があるのは岩屋になる。岩屋に着いてしまえば、あといりようなのはバスの乗車券だけで、船とバスの連絡券を買うなら船に乗る前の明石港だろう。

明石港旅客ターミナルの事務所に行き、年配の人にきいてみた。
明石港を描いた絵については「よく見て描いている」と懐かしそうなのだが、「一二楼」の絵を見ると、あいまいな表情になって、「覚えがない」とのこと。
近くに「こうじや 京作」という古くからありそうな店があり、主人らしき人が店の脇の路地にでてたばこを吸っていた。
尋ねてみると、「うちの店もここで100年をこえるが、一二楼に覚えはない、岩屋にも商店街があるから向こうだろう」という。
どうも明石ではないようだ。

◇ 岩屋港・岩屋商店街

本州と淡路島が橋でつながったので、司馬遼太郎一行が乗った播但汽船は今はなく、フェリーもなくなり、高速船の淡路ジェノバラインだけが明石-岩屋間を運航している。
僕は島内をめぐる都合があるのでレンタカーを借りていて、船ではなく車で明石海峡大橋をこえた。
本州側の垂水から、橋を越えて島の最初のIC淡路まで、現金だと2370円するが、ETCカードをもってきていたので900円ですむ。
岩屋港に着いて、岩屋ポートパーキングという立体駐車場に車を置く。

岩屋商店街入口 岸壁に並行して、岩屋商店街がゆるく曲がりながらつづいている。
さびれたふうなのだが、異様に喫茶店が多い。
サイホンコーヒーモカ、COFFEE ROOM、渡辺珈琲店、バザールやまもとなどとある。
集落の人口密度に比しても、商店街の全店舗数に比しても、不可解に多い。

荷物のつみおろしをしている人がいて、「一二楼」のことを尋ねると、商店街を港から反対に出はずれたところにあるガソリンスタンドの人が昔のことにくわしいと教えられる。
ガソリンスタンドの人は、淡路信用金庫のあたりに船着き場があったから絵の場所もそのあたりだろうという。岸壁と商店街のあいだに新しい道ができ、すっかり街並みが変わっているが、信用金庫の脇の道が絵の場所になるのではないか、かつてはそんな感じだったとのこと。
「一二楼」は知らないという。
淡路信用金庫の脇の道を見にいき、前を掃除している人にきいても「一二楼」は知らない。
その裏にある八百屋の老主人にきいても「一二楼」のことはわからない。
絵の場所は岩屋港ではあるようだが、その風景はすでになくなってしまい、「一二楼」はなぞのままで迷宮入りのようだ。

◇ 国万商店
淡路市岩屋1110 tel. 0799-72-2012

国万商店 港の駐車場に戻ろうとして、商店街の端あたりくると、南にそれる小道があり、その先にちょっとそそられる表情の店がある。
さっき通ったときにも気になっていたのだが、戻ってきたときにまた目に入って、もういいような気もしたが、ここで寄るところはこれが最後になりそうだし、まあ眺めていってみるかと歩いていった。
気になった店の反対側には豆腐屋さんがあり、自転車できた女性が豆腐を買っていく。

当の店は万屋さんで、入口にたばこ売り場が開いていて、なかにはいろいろなものがありそう。女性の店主さんの姿が見えたので、一応は、というつもりで入って、絵を見てもらった。
すると「ああ、いちじろう!」といわれる。
えっ、ここでナゾがとける!?
僕はここまで明石でも岩屋でも、「"いちにろう"って知ってますか?」とたずねてきたのだが、「いちじろう」が正しいらしい。(絵を見てもらいながら尋ねていたから、この読み間違いのために覚えがある人がいなかったわけではない。)

店は富島(としま)にあるという。
今いる岩屋は淡路島の北部東岸だが、富島は北部西岸にある。
「いちじろう」を教えてくれた国本多美代さんは「ほくだんから嫁にきた」といわれる。「ほくだん」は旧・北淡町のことで、2005年に北淡町を含む5町が合併して淡路市になっている。
富島は北淡町の中心地で、かつて富島港からも明石への船便があった。
僕は店名から中華料理の店かと思っていたが、和食の割烹とのこと。

北淡は阪神淡路大震災の震源地で、すっかり平になるほどの被害だったという。
(岩屋の国万商店は100年を越える店で、被害はあったが骨組みは残った。)
今、一二楼がどんなふうか定かではないが、とにかく所在地はわかった。
今も営業しているならそこで食事をしたいが、ここから直行すると昼食には早い時間に着いてしまう。
このまま予定どおり東海岸を下って南端まで行き、西海岸を上がりかけた慶野松原で今夜は泊まる。明日、淡路島の中部を見てから、昼ころ富島に着くようにしようと思う。

岩屋で最後に脇道にそれた店で迷宮入りをまぬかれた。
ロスタイムの決勝ゴールというか、9回裏の逆転さよならサイムリーというか。
国本さんは、やさしく親切なひとで、話していても楽しく、ほんとうにありがたかった。

* 岩屋港の駐車場に戻る。かなりの時間が経っているが、料金は100円だった。

◇ 洲本市立洲本図書館
洲本市塩屋一丁目1-8 tel. 0799-22-0712

東海岸の半ばあたり、洲本市に名建築の図書館があって寄った。
電話帳で「一二楼」を探すが見つからない。
「割烹・料亭」「小料理店」「食堂」などに分類が分かれているが、大きいとはいえ島のことだから、食事関係がほぼ1ページにおさまっている。でもどの項目を見ても見つからない。
一二楼は今はなくなってしまったのか?

3度目に見わたしていて、「すし店」の項に「いちじろう」があるのに、ようやく気がついた。
店名を平仮名にかえたようだ。
住所と電話番号をひかえる。
電話帳 いちじろう

◇ 南あわじ市国民宿舎 慶野松原荘
南あわじ市松帆古津路970-67 tel. 0799-36-3391

南端までいったん下ってから、西海岸を北上する。
慶野松原という景勝地で泊。
インターネットで検索すると、いちじろうの情報が見つかって、明日は店を開いているようだ。

* 翌日、寄り道してから島の北部に向かう。
31号線を走っていると、道ばたに「いちじろう」の大きな案内看板があった。さかんに営業しているらしい。


◇ いちじろう
淡路市富島67-3 tel. 0799-82-2382
http://ichijirou.com/

いちじろう新店 11時少し過ぎに店に着く。
店は新しく見える。
軽のバンが駐まっていて、威勢のよさそうな若い男2人が店を出入りしている。男たちは漁師で、魚の納品にきているらしい。

椅子席に家族4人が先にいる。
僕はカウンターの席にすわって、海鮮丼を注文した。
店主は、納品された大きな魚を切り分けてケースにおさめている。
先の家族と僕の注文した料理をはじめるまでにちょっとした時間がかかったが、カウンター越しにあざやかな包丁さばきと手際のいい段取りを眺めているのは、おもしろいものだった。

食べ始めてから「いちじろうはもとは漢字でしたよね」と尋ねてみると「そうだけど、どうしてそれを」とききかえされ、『街道をゆく』で須田剋太が描いた挿絵に店名があることを、絵のコピーを見せて説明した。
店主はそういう絵に自分の店の名がでていることを初めて知り、驚かれた。

その店主の坂部行伸さんによると、江戸期のひとに「市次郎」がいて、宿をはじめるときに「一二楼」としたのが店名の由来で、もとは料理旅館だった。
今の店主が、寿司店を開業するときに平仮名にあらためて、もう30年になるという。

昼どきで店をあけられないのでと、そのおかあさん(幸子さん)が案内してあげようといわれるので、好意に甘えることにした。

細い路地をへだてただけのすぐ近くに、2階建ての四角いビルがある。
以前は寿司屋兼旅館だったが、今は倉庫にしている。
壁に古い看板があり、古いといっても、すでにひらがなになっている。
いちじろう旧店

幸子さんが中に入って、魚を入れるケースを出してきてくれる。
四角いプラスチックのケースのわきに、漢字で「一二楼」とある。
漢字の一二楼のケース


東に歩いていくと蛭子神社がある。前はこの際まで海だったそうで、今は町中にポツンとある感じになっている。
蛭子神社


こあたりではひときわ高い建物があって、淡路市役所北淡総合事務所。
合併前は北淡町役場で、役場は前からあった。
淡路市役所北淡総合事務所

そのわき(上の写真で建物の右側)を海岸にでたところに、かつて連絡船の船着き場があった。今は桟橋もなくなり、漁船がとまっている。あたりにタコ漁につかうタコつぼが積み上がっている。
船で着いた乗客の視点でいえば、役場を右に見ながら桟橋をわたり、まっすぐ進み、ちょっと右へ行ってから左に(内陸方向に)向くと、絵の景色が見えることなる。
富島港 もと連絡船の船着き場

絵の場所に立つ。
左の角の家は新しく建て加わっている。
2軒目に新建材をつかった家があり、以前のここの家に「一二楼」の看板をかけさせてもらっていた。
右の角(須田剋太の絵で「バス 船 連絡券発売所」とある所)には、バス停とバス待合所があった。
旅館はこの右奥にある。
かりに須田剋太が『明石播但渡し場』の絵に、そうではなく『富島港』とかきこんだとしても、ただ歩いていたらここが絵の場所とはとても気づかない。
一二楼の看板があったところ

そこから1つ奥にはいった街区に富島の商店街がある。
写真、右手前の家が、もと料理旅館だったところで、今は本宅として住まいになっている。
わずかの距離だが旅館が海岸から離ているため「海を見たい」という客の要望があり、1969年に海沿いに寿司屋兼別館を加えた。(それを今は倉庫として使っている)
富島の商店街

1995年の阪神・淡路大震災のとき、富島は震源が近いので大きな被害を受けた。旧北淡町全体で39人が亡くなったが、そのうち26人が富島地区の人だったし、建物の全半壊率は8割をこえた。

それでも一二楼の寿司屋兼別館は水槽が壊れた程度の被害ですんだ。
本宅は、柱が強いので骨組みは残ったが、「瓦がずるっと落ちて」屋根がなくなった。
「地質調査の人がずんずんくるから」と、役場の人などから早く旅館を再開するようすすめられ、1か月くらいで復旧した。屋根は瓦ではなく、軽い建材で作った。
震災に強い旅館と東京の新聞にのったし、(地震学者でのちに東日本大震災後に原子力規制委員会委員長代理をした)島崎邦彦氏も来たという。
本宅での旅館の営業は10年ほど前にやめ、本宅は専用住居として建て替えた。
さらにその後、数年前に今の店を建てた。
「一二楼」と「いちじろう」に歴史がある。

本宅がある道は静かな住宅街になっているが、「むかしの豊島(としま)の道や。にぎやかやったんやで。こんにさびれてな。」という。
道を歩きながら、幸子さんがもとあった店を説明していく。
ここはもと呉服屋さん、本屋さん、八百屋さん、百貨店、味噌屋さん、ここも呉服屋さん、飲食店、荒物屋さん、文房具屋さん、米屋さん、子どもに菓子を売る店、酒屋さん...
昭和3年(1928年)生まれで86歳、年があければすぐ87歳になるというが、よく憶えていられる。
商店街は、西ノ町(にしのちょう)、中ノ町、東ノ町とつづいていて 「ずっと道が長いのやで」といわれる。
須田剋太の絵にある港風景の先に進むと、この商店街にでたことになる。
絵には人が多く描かれ、にぎわった時代をしのばせる。
今はさびれているといっても、商店街があって店を閉じているのではない。1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、住宅に建て替わっている。かつて賑やかだった商店街を知る者にはひどくさびれているだろうが、知らずに訪れた目で見れば穏やかな住宅街にうつる。

店に戻るとコーヒーをいただいた。
須田剋太の絵にある「一二楼」のナゾがとけたうえに、絵の背後にある歴史の流れまでを、現地で、そこに生きた人からきくことができた。
主人から、こんなものがあったと、「一二楼」時代のマッチをいただいた。
「一二楼」はまぼろしになりかけていたのに、リアルなマッチまで手にするとは思いがけないことだった。


『街道をゆく』の一行の淡路島での行程は、岩屋から始めて時計まわりに動いている。東海岸をくだり、洲本、八木と通って西海岸の慶野松原や伊弉諾神宮あたりで終わっている。淡路島を時計に見立てれば、1時の岩屋から始まり(須田剋太の絵を根拠にすれば)10時の富島で終わっている。1時まで戻らずに富島から本州の明石に戻ったかもしれない。

◇ 北淡震災記念公園 野島断層保存館

いちじろうを出て、淡路島で最後にここに寄った。
阪神・淡路大震災で、断層が地表にむきだしになったそのままを覆って、展示物として見せている。

野島断層保存館

左の写真の向こう、歩いてもわずかな距離の先に富島の商店街がある。
須田剋太の絵を入口にして、富島港と、阪神・淡路大震災が、リアルに感じられてもきた。

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[第2日]

明石:林崎漁業共同組合 明石港旅客ターミナル 魚ノ棚商店街 山陽亭 明石キャッスルホテル 

* ここから時間が戻って「播州揖保川・室津みち」のつづきで、「明石海峡と淡路みち」になる。

明石と淡路島は須田剋太が住んでいた西宮から近い。
『街道をゆく』の旅は、大阪に住む司馬遼太郎が、西宮で須田剋太をひろっていくことから始まっている。
 須田画伯は西宮に住んでいる。堤防に松林のまだのこっている夙川べりが住まいである。夙川が六甲山系の花崗岩で濾過された水をはこんできて、海に入ろうとする堤防下がアトリエで、そこまで誘いに行った。堤防下には須田さんが十数年前に植えた桐の木が5本ばかり、大きく育っている。綿のような穂の出るススキをも、アトリエの屋根を越えるほどに大きくそだっている。ムクゲの葉が寒さのためにひからびてしまっていた。堤防上に立って大声をあげると、すっと須田さんが出てきた。須田さんのいう完全武装で、堤防をのぼってきた。背中に、雨傘を入れた黒カバンをかつぎ、電線をひもにした画板を斜めに掛け、堤防上にいる私にちょっと微笑んで、お元気でしたか、と小声でいった。
 車が西へ走りだした。
司馬遼太郎は、沿岸漁業のことを知るために明石市の林崎の海岸に行き、漁師と話し、林崎漁業共同組合の事務所に入って組合長にも会っている。
林崎は明石市中心部より西にある。
僕はたつの市を出て西から東に走ってきた。
明石市にはいると、まずその林崎の漁協に寄った。

■ 林崎漁業共同組合
兵庫県明石市林3-19-27 tel. 078-922-2510

須田剋太『明石海峡の見える林崎漁業協同組合』 林崎漁業協同組合
須田剋太
『明石海峡の見える林崎漁業協同組合』

コンクリートの堤防があり、内側には水産加工施設らしい建物が幾棟も並んでいる。
林崎漁業共同組合というのは事務部門だろうから、四角いビルに事務所がおさまっているのかと予想していたのだが、それは2階にあって、1階部分は水槽を中心に配管や器械が囲み、ここも作業現場でもあるようだった。

漁業地帯にとなりあった浜が海浜公園になっている。
ベンチや公衆トイレの先に砂浜がのびている。
砂浜の背後には高層マンションがあって、こんなところに暮らしたら毎日海を見おろして気分がいいだろうと思う。
海にさす光は夕暮れの光になっている。
林崎海岸

* 明石駅近いホテルに車を置き、チェックインしてから歩いて街に出る。
明石駅から南に400m、歩いて数分いくと、もう港がある。


■ 明石港旅客ターミナル

本州から淡路島へいく今唯一の船便が出るところ。
なかに入ると、かなり古いSF映画にでてくる未来の風景のような、幾何学的で殺風景なデザインになっている。
建物の天井に十字の切込みがあり、太陽が真上にくると床にも十字の光のラインができるというのだが、僕が着いたのは夕暮れで、そういう場面には会えなかった。
明石港旅客ターミナル

事務所に行って、年配の職員に絵について尋ねた。
この絵はここのことだ、よく見て描いてる、家はもうなくなっているという。
いい絵を見せてくれたという感じで、懐かしがってくれる。
でも、絵の場所はこのあたりかというところに立ってみると、家がなくなったにしても、その先のビルらしきものもなく、違和感がある。
『明石播淡渡し場』の絵の「一二楼」には覚えがないということだった。

須田剋太『明石播淡汽船渡し場』 明石港 淡路ジェノバライン乗り場
須田剋太『明石播淡汽船渡し場』

船が着いて人が降りてくる。
改札口には、これから乗る人が並んでいる。
若い通勤、通学者が多そう。
明石海峡大橋を越えるバス便は観光用で、本数が少ない。日常生活にはつかいにくいから連絡船にも需要はあるようだ。

駅に戻る途中の商店街に「こうじや 京作」という、古そうな構えの店があり、主らしき人が店の脇の路地にでて、たばこを吸っていた。
『明石播淡汽船渡し場』については、「木造3階の建物はなかったのでは」という。
『明石播淡渡し場』の絵の「一二楼」には覚えがなく、岩屋だろうとのことだった。

あと『明石海峡』とか『ポンポン汽船』とか、海と船を描いた絵があるが、僕はレンタカーで橋を越えた。

■ 魚の棚商店街
http://www.uonotana.or.jp/

駅に向かって戻っていくと、途中で右にはいっていく商店街がある。
すぐ入口にタコ料理の店があって、ガラスケースを眺めるとおもしろい。
たこ定食1400円は、刺身、酢の物など。
明石焼定食は、明石焼、たこ飯、小鉢、お新香で1100円。
ほかのも「各定食 100円UPでたこ飯に変える事が出来ます」とある。

水産関係の店が多く、店の前に売り台をせりだしている。
手書きの看板があちこちにあるが、ノリが関西的というか、大阪ふうというか、勢いがいい。
もっとも、明石海峡と関係のないものを売っている店もある。看板に「鯨安」とかかれている。クジラの専門店なのである。
(『街道をゆく7』「明石海峡と淡路みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976。以下、引用文は同じ。)
今も鯨安はあったが、木曜の定休日で閉まっていた。

● 山陽亭
明石市本町1-6-12 tel. 078-911-3153

天井の照明とか、沙漠のラクダをレリーフ状に浮きあがらせた半透明のガラス仕切りとか、レトロでおしゃれなインテリア。
魚の棚商店街にいるのだけど、夕べは旅館の会席料理、昼が穴子丼だったので、かわったものを食べたくなって 夕食はハンバーグにした。

● 明石キャッスルホテル
明石市大明石町1-8-4 tel. 078-913-1551

駅から近いホテルに泊まった。
「冷蔵庫がない」というワケアリの部屋の安さで選んだ。
朝食にはパン、ゆで卵、ポテトサラダ、コーヒーていどの軽いバイキングがついて、4,500円+駐車場1,000円。

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[第3日]

 岩屋

* 明石海峡大橋を越える。
高いところを飛んでいるふうだった。
岩屋港に着き、岩屋商店街を歩いて、国万商店で「一二楼」の所在地がわかった。
洲本をめざして東岸の28号線を南下する。


■ 石屋神社

淡路島に来たのは2度目で、前回は4年前の2010年秋だった。
ここに着いたとき、ちょうど女性の神主さんが祝詞をあげているところで、すむのを待って話を伺った。
3月の第2日曜日には、豊漁を祈願する船渡御(ふなとぎょ)の祭りがある。
5月と9月の第2日曜には、曳壇尻(ひきだんじり)という祭りもある。
だからそんな時期にまた来るようにと誘われたのだが、いずれにもはずれる季節にきてしまった。
ただ、前回は徳島をまわってから淡路島にはいり、神戸に抜けた。淡路島は遠いところという印象があったのだが、明石側からはいると遠くて行きにくいところではないことがわかった。また祭のときに来て、もう一度いちじろうに寄るのもいいかなと思う。
祭の時期をはずしてしまったが通り道なので神社に寄ってみたが、今回は神主さんは現れなかった。

須田剋太『淡路島石屋神社』 石屋神社
須田剋太『淡路島石屋神社』

■ 世界平和大観音
淡路市釜口

28号線の右側に大観音がある下を走り過ぎる。
不動産業で財をえた大阪の人が1977年に建てたが、死後2006年からは閉鎖され廃墟になっている。

高さ100mあり、首の下に展望台があるが、営業していた頃でも風が強いと揺れたという。
今はさらに年月を経て危険な状態だが、債権者の意向がまとまらずに撤去されずにある。
財をなした人が巨大でキッチュな宗教がかった施設をつくって、のちに廃虚になるという例が全国にチラホラある。もっといい金の使い方があるだろうにと惜しい気がする。
世界平和大観音

* 28号線を南に走ると、左に海があり、青くキラキラ輝いていて気持ちがいい。
洲本の広い駐車場に入ったが、混雑していて、立体駐車場の屋上に上がり、あいている最後の数台にようやく駐車できた。
ゲートに関係者らしき若い女性と老年男性がいて、たずねると弁天まつりがあるとのことで「寄ってらっしゃい」といわれる。
この旅の前半、山崎でも紅葉まつりで駐車場が混んでいた。
こちらでも祭を見物しているほどの余裕はない。


『街道をゆく』では、洲本に向かうところでこういう文章がはさみこまれている。
 ふりかえってみると、この稿-旅といってもいい-をながくつづけてきた。一つの旅がおわると、かならず須田画伯が、感情の透きとおった声で、
-つぎはどこへ行きます。
 といわれるので、その言葉にひきずられるようにしてつづいてきた。須田さんも、あてさきはどこでもいいらしい。私もどこでもよく、まったく行きあたりばったりに、体と気持を移動させてゆくだけの旅をつづけてきた。

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 洲本:洲本市立洲本図書館 

● 御食国(みけつくに)
兵庫県洲本市塩屋1-1-8 tel. 0799-26-1133

御食国 レンガ造りのもと工場がレストランになっている。
やわらか煮タコカレーが税抜き1280円。ビーフカレーが1080円。牛よりタコが高い。
ご当地だからタコにしたが、ビーフにしとくのだったと後悔した。

■ 洲本市立洲本図書館 
洲本市塩屋1-1-8 tel. 0799-22-0712

旧鐘紡洲本工場の赤レンガ建築群がリノベーションされた施設の一つ。
1998年、図書館建築に定評がある鬼頭梓の設計で図書館にかわった。
もとは横河工務所の設計、竹中工務店の施工により1909年に竣工した工場で、90年ほどを経た建築が新たな使途をえて再生したことになる。
図書館じたいのはじめの開館は1916年で、兵庫県で2番目に早い。
これも工場が近代化をもたらした波及効果だろう。

2010年に淡路島を回ったとき、ここに着いたら臨時休館日だった。僕も図書館に勤務していた頃だったから、わけを話すと入れてもらえて中を見た。
今日はふつうに開館日。前回はまた来られるとは思っていなかった。

洲本図書館 カーブを描くガラス面のむこうに庭とレンガの塀がある。
芝の淡い緑に、淡いレンガの色。
とても穏やかな眺めで、館内にはあたたかい日射しが入ってきて、うっとりするほど。
人が少なくてとてもひっそりと静かなのは、弁天祭の日のためだろう。

ここの電話帳でいちじろうの住所と電話番号がわかった。

* 須田剋太が洲本城で『三熊山狸の芝右衛門』と『淡路島洲本城』の2枚の挿絵を描いていて、それは前回の旅で確認した。
今日は城はパスする。
海岸に沿った道を、市街から南東に抜ける。


● ホテルニューアワジ
洲本市小路谷20 tel. 0799-23-2200

須田剋太『大阪の灯の見える夜景』 須田剋太『大阪の灯の見える夜景』。
『街道をゆく』の旅では洲本に泊まっていて、司馬の文章に「洲本市街を抜けて小路谷にある宿」とあり、その夜に描いたろう。

小路谷(おろだに)にあるホテルニューアワジに行ってみた。
駐車場にいた男性にわけを話すと、そういうことならフロントへと案内される。
フロントの女性は、古いことを知る者に確かめるといって、いったん奥に入り、戻ってくると「社長が、たしかにここに泊まった」とのこと。
ただゲストブックのようなものはないし、宿帳は法定年限で廃棄して、確認できるものはないという。
そうした記録は、宿にとっても、歴史にとっても貴重だと思うけれど、ないのは惜しい。

ホテルニューアワジ屋上から海の眺め よろしければ屋上へと、エレベーターまで案内してくれる。
エレベーター内は金色でシャンデリアみたいな照明がついている。秀吉の金の茶室に乗って運ばれているみたい。
高い屋上には足湯があり、数室の個室露天風呂も作られている。
今日は水平線あたりはかすんでいるが、澄んでいれば関空まで見えるとのことだった。

豪華な設備で、スタッフもさすがの対応だが、僕なぞはこういところに泊まってはかえって気がやすまらない、ここにしなくてよかったと思う。(とても高額でもあるし)

* 福良に向かうには市街地方向にやや戻る。
弁天祭の通行止め区間に近づいて迂回していく。


■ 淡路国道マツ並木

須田剋太『天念記念物八木の松並木』。
国道28号沿いに、樹齢300年から500年のクロマツが約6キロメートルにわたって国道の両側に並び、1926年に国の天然記念物に指定された。
その後1934年の室戸台風の被害を受け、1965年に国道の拡張工事による伐採があり、自動車の排気ガスにもいためられ、1973年からは、松くい虫の被害が拡大した。
須田剋太『天念記念物八木の松並木』

『街道をゆく』の取材は1974年だった。
 淡路は、松の島である。
「しかしこんどの旅は、マツクイムシの被害を見物してゆくようなはめになりそうですね」
 と、編集部のHさんがいったが、八木の松並木を見ても、国分寺の境内を見ても、まさにそういうはめになった。
須田剋太が訪れたとき、まだかろうじて松の並木があったが、1980年に最後の1本が伐採されたという。
八木のあたりを走ったが、もちろんマツ並木はなくて、比較する写真をのせる気もなくすほどに、ありきたりの地方の国道にすぎなくなっていた。

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 福良:淡路人形座 鳴門観潮船

* 岩屋から東海岸を南下してきた国道28号線は福良で海にぶつかる。
ところがここが終点ではなく、海を越えて徳島市までが28号線だし、そもそも出発点は神戸市なので、ひとつの国道が2度海を越えている。
福良港の最奥部に、道の駅や足湯や観潮船乗り場や人形座などの観光施設が集中している。


■ 淡路人形座
兵庫県南あわじ市福良甲1528-1地先 tel. 0799-52-0260

須田剋太『淡路人形』 須田剋太『淡路人形』

淡路は人形浄瑠璃が盛んだったところで、かつての小屋掛けではなく、2012年に専用の劇場が建っている。
外壁が布の幕のようで目をひくが、じつはコンクリート製。

日に数回上演されているが、15時からの最終公演に間に合った。
「玉藻前あさひの袂」と「狐七化けの段」の2本立て。

はじめに人形の動かしかたを説明してくれる。首と右手の人、足の人、左手の人と、3人で一体を動かす。
人形を操る人はいわば裏方だと思っていたが、よっという掛け声をして、人形師の衣装が何度も何度も早変わりして、人形師が注目を浴びる存在になっている。
客席は舞台にとても近いし、何度も早変わりがあるのに、どうやっているのかわからなかった。

淡路人形座 福良港津波防災ステーション
淡路人形座 福良港津波防災ステーション

淡路人形座のすぐ近く、港の岸壁ぎわに、福良港津波防災ステーションがある。
淡路人形座と同じ遠藤秀平氏による設計で、こちらは鋼板が幕のように巻いている。
入江のどんづまりにあるから、津波や台風の高波は大きなエネルギーで押し寄せるだろう。
淡路人形座も津波にそなえて1階はほとんどが駐車場になっている。

■ 鳴門観潮船

須田剋太『鳴戸の渦潮』 須田剋太『鳴戸の渦潮』

有名な鳴門海峡の渦潮(うずしお)は、前に高いところから見たことがある。
徳島-淡路島-神戸と抜けたときに、徳島側の先端から見おろした。
砂浜に波が繰り返し打ち寄せる海とも違い、船で沖に出たとき周囲に広がるべったりとした海とも違い、大量の水が勢いよく流れながら絡みあって渦になり、水面から遠い高所からでも迫力があった。

人形座の公演のあと、観潮船乗り場に行くと、この日の最終の16時10分に出る船がある。潮の具合で明瞭な渦に出会える見込みが時刻表に記してあるのだが、この時刻には◎=期待できる印がついていて、そそられてしまった。

中国の観光番組のらしい撮影団が人形座で撮影していたのだが、こちらにも乗ってきた。若い美形の男女ペアが旅する様子を、数人のスタッフと、日本人の世話役らしい女性が囲んでいる。

船は福浦湾を出て、鳴門海峡に架かる大鳴門橋の下を旋回する。
潮が渦を巻く周辺を船がまわって、目まいがするような感覚がおもしろかった。
鳴門海峡の渦潮

日が暮れて福浦湾に戻っていく。
右の岬の高いところに若人の広場があり、丹下健三がデザインした慰霊塔の尖った先端が船からも見えた。
丹下健三 若人の広場慰霊塔

『街道をゆく』の取材では、鳴門には行かなかったようだ。
旅のはじめのほうで須田剋太が尋ねている。
「鳴門に行きますか」
須田さんは、きいた。私は淡路ではなるべく名勝にはゆかず、漁村を見たり島内をぶらぶらしようと思っていたので-鳴門へは行かないつもりです、と答えると、
「私は行きました」
 落ち着いて答えた。助手台に編集部のHさんがいる。この人はこういう須田さんが好きでたまらないらしく、クスクス笑った。
このときの会話で、「福良で人形芝居を見ました」とも言っている。
『街道をゆく』の旅では人形浄瑠璃にも渦潮にも行かないで、須田剋太がかつて行ったときの記憶になにかしらの資料でおぎなうかして描いたかもしれない。

* 『街道をゆく』の一行は志知城跡から慶野松原に向かうが、司馬遼太郎はこのとき「うずしおスカイライン」という有料道路が田んぼのなかを貫いているに驚いている。
この道路は阿那賀港と国道28号を結ぶ有料道路として1966年に開設された。
まだ橋がなかった時代には、阿那賀港は徳島へ行く船がでる重要な港で、観潮船もでていたという。
橋ができ、島を貫く有料道路ができて阿那賀港は存在理由が薄れ、うずしおラインは1987年から無料開放されている。
僕は福良から、一部うずしおラインを走って、慶野松原に着いた。


● 南あわじ市国民宿舎 慶野松原荘
南あわじ市松帆古津路970-67 tel. 0799-36-3391

豪華な宿ではないが、設備や備品にこまかな配慮が行き届いていて、まったくストレスがなかった。
ふとんは自分で敷くのだけど、人件費を抑えて安く泊まれるようにしてあるのだから、これくらいのことはまったく気にならない。
夕飯は「楽しくにぎやか 中会席コース」という、中程度のにしたが、十分においしく量も足りる。
サーブしてくれる若い男性もやさしい笑顔の人で好感。
あたたまりたかったので、熱燗のあとに焼酎お湯割りにする。
最後に鯛釜飯。かなりの量があったのだが、つい完食してしまった。
これで酒代を別にして1万円しない。
やはり東海岸の高額なホテルにしないでよかった。

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[第4日]

 慶野松原・志知城跡・国分寺

■ 慶野松原

須田剋太『淡路島慶野松原風景』 慶野松原の朝
須田剋太『淡路島慶野松原風景』

朝、日がのぼりかけるころに散歩に出た。
波打ち際から松林までやや離れている。
たいした距離を歩かなかったが、あとで松林に並行する道を車で走ると、松原はまだ先に長く続いていた。

* 宿を出て、島の内陸方向に向かう。
神戸淡路鳴門道とうずしおラインが交わるあたりに城跡がある。


■ 志知城(しちじょう)跡
南あわじ市志知松本

石垣と天守閣と広い駐車場があるような城趾ではなくて、田んぼ地帯にひっそりうもれるようにしてあった。
まわりは細い道ばかりで車を置けるところがなかなかなくて、周囲を右往左往した。
川沿いの道のやや広いところにようやく置いて歩いていった。

須田剋太『史跡志知城跡』 志知城跡
須田剋太『史跡志知城跡』

鳥居が見える位置に立って、絵と実景を見比べてみるが、すっきり一致しない。
すぐそばの農家の人にたずねると、鳥居はここしかなく、その絵はこことのこと。
2014年のNHK大河ドラマの黒田官兵衛ゆかりの地だから、ときどき見に来る人があるという。官兵衛が豊臣秀吉の命を受けてこの志知城にはいって四国攻めを指揮したという歴史がある城だが、せまくて、低い。
いちおう堀に囲まれていて、小さな橋がかかっている。
農家の人が、通行禁止の表示があるけど大丈夫と話していたので、危ない橋を渡る。
柑橘類の木が数本あり、一部が畑になり、あとは雑木や草がしげって、やはりいわれのある城のようではない。
やぶに隠れるようにして10年ほど前に「三原町教育委員会」が立てた案内板がある。
(三原町は2005年に三原郡の他の3町と合併して南あわじ市になっている)
ほかに、外への見晴らしが開けたところに平べったい石があり、「太閤石」と記した木の札が立っている。秀吉が腰かけたという石だというのだが、伝説にするには小さく薄い石だし、ほかには城跡らしい石垣とか礎石とかは何もないので、信じていいものかどうか。
それにしても僕の好みとしては、石垣に圧倒されながらのぼっていくと復元された天守閣がそびえている城より、こういうふうがせつなくていい。

■ 国分寺
兵庫県南あわじ市八木国分331 tel. 0799-42-4773

須田剋太『淡路 国分寺跡 須田剋太『淡路 国分寺跡』

広い境内にいくつかの堂が配置されている。
絵にあるような建造物は見あたらない。
もうひとつ門がある先に庫裡があって、犬がしきりに吠えたてる。
庫裡に並ぶ建物が屋根の重なりのように似ているところがなくもないが、違いが多すぎる。
玄関をたずねると若い僧があらわれた。
絵を見てもらったが、この寺に暮らすその久保孝学さんが、こういうのはないといわれる。
そうなると、この絵については、あとまったく手がかりがない。

本尊の阿弥陀仏は重要文化財に指定されていて、鍵のかかったコンクリートの堂にある。
せっかくだから拝んでいかれますかとすすめられて拝観した。
全国に国分寺が建ったころの共通する大きさのものという。
まわりを12神が囲んでいて、そのうち黒い木像がよかった。立て膝のポーズをしていて、踊るか、失われているが楽器を演奏していたかもしれない。

 西海岸:五色浜 船瀬港 

* 西海岸に沿った道に戻る。

■ 五色浜

(慶野松原から)北へゆけば五色浜といわれる海岸で、私は昭和十年ごろ、小学校の修学旅行できたことがある。(中略)
 浜に降りると、そのあたりにさまざまな色の小石が落ちていて、ウソくさいほどに美しい浜だった。当時、浜には人家も見あたらないほどさびしい所だったが、いまは海水浴場になっていて夏は大変だという。
美しい砂浜がゆったり広がっている景色を予想してきたのだが、そのあたりを走っていると、左の海、右の崖にはさまれた窮屈な道がつづいている。
そういう名所なら当然ありそうな案内表示とか駐車場とかがいっこうにない。
ようやくあった小さなドライブインに車をとめた。
道の下にはかろうじで狭い砂浜があるだけ。
須田剋太の絵も、海と崖の間を車がいくだけ。
司馬遼太郎が夢をみたわけでもないだろうけど...

須田剋太『淡路島西海岸五色浜海岸』 五色浜
須田剋太『淡路島西海岸五色浜海岸

■ 船瀬港

須田剋太『淡路島西海岸風景』。
高いところから港を見おろしている。
防波堤が角張ったCの字形にあるのを目印にして地図を見て、船瀬港かと見当をつけた。
ところが西海岸を走る31号線から港へ降りる道はとても狭そうなので、通り越して先で停車した。

見えようがぴったり同じではない。
左の崖上に廃屋があって、草に包まれている。
あそこならどうか?

絵と実景が素直に重ならないところが続いたが、このあたりの高台から海を見おろす眺めはとても気持ちがよかった。
船瀬港

このあと司馬一行は伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)に寄っている。
僕は前回の淡路島旅行で寄ったので、今日はパス。
富島のいちじろうと北淡震災記念公園・野島断層保存館に寄って淡路島の旅を終えた。

1974年の『街道をゆく』の取材旅行では、マツクイムシの被害を見て帰ったあと、倉敷市の石油工場の重油が海にながれこみ、慶野松原の海岸に重油がボール状になって打ちあげられ、漁業組合のひとたちが重油をヒシャクで汲みあげるという事態が起きた。司馬遼太郎は「日本の社会は、資本主義さえうまくやれない病患をもっている」と考え、淡路島の紀行を「旅の終わりの感想がこのようになってしまうとは、まことに思いもよらぬことであった。」という悲痛な文章で結んでいる。
『街道をゆく』の旅から20年ほどあとに起きた阪神・淡路大震災の震源地を、僕はさらにそれから20年ほど後に訪れることになった。
地震の被害は大きかったが、須田剋太の絵によっていちじろうに行き着き、その母子の元気な姿のおかげで、僕の淡路島の旅の印象は明るいものになった。

* 明石海峡大橋を超えて本州に戻った。
あと、須田剋太が後半生を暮らした西宮に寄ろうと思ったのだが、須磨icから湊川あたりの数キロに事故が4箇所もあって2時間近くかかってしまった。
寄り道するのは断念して、西宮の営業所にレンタカーを返し、電車を乗り継いで新大阪から新幹線に乗った。 
おむすびとサンドイッチを買い、車内でビールを買い、夕食。
淡路島を発つときは快適な青空だったが、家にはすっかり夜になって着いた。


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参考:

  • 『街道をゆく7』「明石海峡と淡路みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976
  • 『北淡町誌』 北淡町誌編纂委員会 1975
    『北淡町 町制施行40周年記念要覧』 北淡町企画開発課 1995
    『北淡町50周年記念誌』北淡町役場総務課 2005
    『復興誌 北淡町都市計画事業 富島震災復興土地区画整理事業~生まれ変わった富島のまち~』淡路市 2010
    『北淡町富島住民の避難と再建』辻勝次 「阪神・淡路大震災の社会学 第2巻 避難生活の社会学」 岩崎信彦ほか編 昭和堂 1999
    『震災復興事業後の農漁村の空間構成とコミュニティの継承・変容-兵庫県淡路市北淡町富島地区と東浦町仮屋地区を事例として-』山崎寿一 「日本建築学会計画系論文集」第75巻 第649号 2010
    『ゼンリン住宅地図 兵庫県津名郡西部 五色町・一宮町・北淡町』1994
  • 旅の前半→[なつかしい龍野から揖保川をくだって室津みなとへ]
  • 3泊4日の行程(2014/11/19-22) (→電車 -レンタカー …徒歩)
    [播州揖保川・室津みち]
    第1日 東京→相生-新谷スタジオ-道の駅播磨いちのみや…伊和神社(播州一宮神社)-たつの観光駐車場…山崎小学校-たつの市立龍野歴史文化資料館…うすくち龍野醤油資料館別館…如来寺…旅館いろは跡…伏見屋商店…たつの観光駐車場-赤とんぼ荘(泊)
    第2日 …童謡の小径…龍野公園・聚遠亭…龍野城…赤とんぼ荘-龍野公園駐車場…常照寺…梅玉旅館…うすくち龍野醤油資料館…龍野公園駐車場-岩見港・七曲り-割烹旅館きむらや千年茶屋-室津港観光駐車場…賀茂(加茂)神社…浄運寺…藻振鼻…室津港…海駅館…室津港観光駐車場-中川河口-龍門寺-
    以下[明石海峡と淡路みち]
    林崎漁業共同組合-明石キャッスルホテル…明石港旅客ターミナル…魚の棚商店街・山陽亭…明石キャッスルホテル(泊)
    第3日-岩屋ポートパーキング…岩屋商店街・国万商店…岩屋ポートパーキング-石屋神社-御食の国・洲本市立洲本図書館-ホテルニューアワジ-国道28号(マツ並木跡)-国分寺-淡路人形座~鳴門観潮船-南あわじ市国民宿舎 慶野松原荘(泊)
    第4日 …慶野松原-志知城跡-国分寺-五色浜-船瀬港付近-いちじろう・富島旧商店街-北淡震災記念公園 野島断層保存館-西宮駅→新大阪→東京