緑の丹波篠山、青い瀬戸内海


『街道をゆく』の第4巻、「丹波篠山街道」のあとをたどった。
京都から篠山の山中に向かい、1泊したあと神戸方面に南下する。
「丹波篠山街道」は短い旅だったから、神戸から新幹線に乗って家に帰ってしまえるくらいなのだが、あまりにせわしい気もする。
もう1泊して、第7巻『明石海峡と淡路みち』にちょっとからめて、ゆったりした瀬戸内を味わってきた。

第1日 京都駅 大原野神社 老ノ坂 亀山城 能勢妙見山 篠山(泊)  
第2日 篠山 立杭 三田 三木 舞子(泊) 
第3日 淡路島岩屋港 国万商店 石屋神社 孫文記念館 芦屋市立図書館打出分室 新大阪駅


第1日 京都駅 大原野神社 老ノ坂 亀山城 能勢妙見山 篠山(泊)

* [余談-朝の予期せぬトラブルのこと]:
この旅のコース近くに、『街道をゆく』にはないところだが、能勢妙見山というのがある。
高松伸という建築家による礼拝堂があり、毎月1回だけ15日の午後1時に、信徒でなくても参加できる一般公開の法要がある。
それに間に合うように、3月15日、JR高崎線の始発電車に乗り、東京駅乗換、東海道新幹線で京都で降り、レンタカーで向かうという予定をたてた。
早朝5時すぎ、吹上駅に着くと、籠原駅で火災があり、復旧する時間はわからないという。
東京駅に向かうには遠くなってしまうが、高崎方向に2駅行くと熊谷駅があり、そこは新幹線が発着する。
駅員さんにたずねると、熊谷駅から上り上越新幹線の始発は6:36だという。
いったん家に帰り、妻に熊谷駅まで車で送ってもらった。
熊谷駅に着くと、新幹線に振替処置をするというので(つまり通勤、通学の定期券でも新幹線に乗れる)、おおぜいの通勤の人が始発の新幹線が来るのをまっている。
確実に乗りたいから指定席券を買おうと思ったら、全席自由席で、グリーン車だけが指定席だった。
乗り損ねてはいけないのでグリーン車にした。
3,080円の余計な出費をしたが、ほかの車両が乗りきれない人がでるほどの混雑だったのにゆったり快適に座って東京駅に着いた。
東京駅からは7:20発ののぞみ号に乗った。
はじめの予定では6:30発に乗るつもりだったから、50分遅れた。
それにしても、トラブルがあったにしてはこれくらいの遅れですんでよかった。


* 1970年代はじめの『街道をゆく』の丹波への旅は、突然に始まっている。
京都南郊の長岡京跡に行ってみると、かつて田園風景だったところがすっかり都市化してしまっていた。司馬遼太郎は気が滅入って、丹波高原に上がり、篠山城下に行ってみようと急に思い立った。
編集部のHさんほか、同行できる人もいたが、須田剋太は友人の個展が東京であり、行ってあげたいというので別れた。(挿絵は後日、司馬遼太郎が歩いたところをたどったか、写真や資料から描いたかもしれない。)
同行者でも、いったん京都の宿に荷物を置いてあるのを引き取ってから行くという人もあって、大野原神社で待ち合わせた。

僕は新幹線を京都駅で降り、南に出て、レンタカーを借りた。
桂川を越えて、京都縦貫道の大原野i.c.の近くの大原野神社に着いた。


■ 大原野神社
京都市西京区大原野南春日町 tel. 075-331-0014

庭や古い井戸を眺めながら、ゆったりとした境内を奥にいくと本殿にいたる。
須田剋太の絵に『大原野神社』がある。
参拝してから社務所の神主さんと、絵と本殿を見比べながら話した。

大原野神社 須田剋太『大原野神社』
須田剋太『大原野神社』

本殿の手前、左右に、狛犬のように雌雄の鹿がある。
絵には鹿ががないが、神主さんによると鹿は古くからある。
(制作年を記した銘があるとのことで、あとでもう一度近づいて見てみたが、見つからなかった。)
内側の(やや小型の)灯籠は新しいものというから、絵にはなくて当然。
絵には花をつけた木があるようだが、そこの木は変わったかもしれないとのこと。
階段を上がったところ、左右に赤く塗った柵があるのだが、絵では向かって右だけ描かれていて、左にはない。
灯籠の数が絵を描いたときには実際に少なかったし、絵では柵を減らし、鹿を省略し、全般に絵のほうがスッキリしている。

* 山陰道9号線を北西に走ると老ノ坂という峠がある。
この峠の北の山塊は、嵐山になる。
老ノ坂の峠道と並行するように保津川が山塊をうがっていて、『嵯峨散歩』でめぐったところだ。
(→[3日で3都-京都・大阪・神戸-をめぐる][桜の京都

■ 老ノ坂

須田剋太の絵に『旧老の坂道』がある。
老ノ坂は、京都市(西京区)と京都府亀岡市の境界で、亀山城にいた明智光秀は、この坂を越えて京都・本能寺にいた織田信長を襲った。
今の国道9号線はトンネルでくぐっている。

京都からいえばそのトンネルに入る手前に、山にむかって狭い坂がのぼっている。それが旧道である。
 ところが、その旧道を入ってすぐ、左側にモーテルが出来てしまっていた。モーテルまではその経営者がセメントで叩き締めたらしい坂で、そのむこうは地道になり、暗い竹藪の中へうねりながら入ってゆく。光秀は夜中このモーテルの坂をくだって日本史上最大の史劇を演じた。(『街道をゆく 4』「丹波篠山街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1974。以下2日目までの行程中の引用文について同じ)

『街道をゆく』にはそいういう手がかりになる文章がある。
ところが"左にはいってすぐモーテルがある道"が見つからなかった。
細い道を入ってゴミ処理工場らしいところに突き当たったりした。
ことのきの『街道をゆく』の旅では、須田剋太は司馬遼太郎に同行していて描いたのではなかったから、すっかり同じ行程をたどっていない可能性もある。
今日は先を急ぎたい事情があるので、探すのを諦めて先に向かった。

国道9号線 老ノ坂付近 

たまたま道が似たようなカーブをしていて紛らわしいが、この2枚は同じ地点ではない。左の写真は国道で、右の絵はたぶん国道からそれた道を描いたもの。
須田剋太『旧老の坂道』
須田剋太『旧老の坂道』

* 亀岡市に向かう。
老ノ坂トンネルを抜けた先で渋滞にはまる。
朝食を早い時間に食べて家を出てきて、もう昼時になっている。
のろのろ運転なので、走らせながら熊谷駅で買ったくるみパンを食べる。
亀岡市街が近づいて、ようやく迂回路をとれるようになり、国道から南へ、つつじケ丘という新開発地にそれて渋滞を避けて、街に入った。


■ 大本本部 亀岡宣教センター(天恩郷)(旧・亀山城)
京都府亀岡市 荒塚町内丸1 tel. 0771-22-5561
http://www.oomoto.or.jp/

亀山城は明智光秀がいた城。
1919年に新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎が城を購入、教団の拠点に整備した。政府は教団の拡大を危険視し、出口王仁三郎を拘束、所有権を格安値で亀岡町に譲渡させ、1936年に教団の施設を徹底的に破壊した。
戦後に城の所有権は大本に戻って整備しなおされ、天恩郷という聖地になっている。

神域に入る。中心地以外は信徒でなくても通行できて、近くに住むらしい人が散歩している。
みろく会館という信徒のための施設から出てきた教団の関係者らしい人に、須田剋太の絵を見せて尋ねた。
やはり教団の方で、すぐ場所がわかり、見に入ることもOKとのこと。
ただし神域に入るので、お祓いを受けてもらうと、案内される。
万祥殿に入って正面の玄関で待つと白装束の方が出てこられ、お祓いを受ける。
教えられたとおり、万祥殿から左に回って、一の門、二の門をくぐっていくと、その先に石段があり、絵の場所だった。

亀山城趾 須田剋太『亀山城の天守跡に登る石段 光秀手植の大銀杏』
須田剋太『亀山城の天守跡に登る石段 光秀手植の大銀杏』

階段の上がり口にはロープがあり、先には行けない。神苑案内図には「禁足地」とある。
「特別なところ」ということを実感させるような霊気と緊張感が漂っているし、案内された方もすがすがしい印象で、神域に入ってから出るまで、気分がよかった。

* すぐ近くにある図書館に寄った。

■ 亀岡市立図書館
京都府亀岡市内丸町26 tel. 0771-24-4710


須田剋太が亀岡で描いた絵に『亀岡盆地明智光秀の城跡大本教神域』というのがある。
高い地点からみおろした構図になっている。
須田剋太『亀岡盆地明智光秀の城跡大本教神域』
須田剋太『亀岡盆地明智光秀の城跡大本教神域』

すぐ近くに図書館があるので入って、2階の女性司書に絵を見ていただいた。
「私は(絵を描いたらしき方角にある)山のほうに住んでいるが、城跡はさえぎるものがあって見えない」とのこと。
とても高い視点のようで、もとになる航空写真があるのかもしれない。

* 能勢妙見山に向かう。
そこに13時に着きたかったのだが、朝の高崎線の火災、亀岡に向かう道の渋滞で時間がかかった。
駐車場に13:20ころ着いて、参道の階段を急いで上がった。


■ 能勢妙見山
大阪府豊能郡能勢町野間中661 tel. 072-739-0991
http://www.myoken.org/menu.html

日蓮宗の霊場で、関西の人にはなじみの信仰地らしい。
『無精の代参』という落語があるくらい。
信徒会館「星嶺」の最上階の礼拝堂で、毎月15日13時に一般公開の法要があり、それにあわせて日程をくんできた。
「星嶺」に入ると、法要はもうほとんど終盤のようで、受付の女性がこれから入れていいものかどうか、ちょっととまどったふう。
法要の終わり近くに駆けこんでくる人はあまりないだろう。
それでも、どうぞといわれて、靴を脱いで階段を上がる。
壁は透明なガラス、床もガラスで、座るところにだけ敷物があって、座る。
敷物のまわりは下がスカスカに見えていて、浮遊感がある。僕はこういうの好きだが、高所恐怖症の人にはつらいかもしれない。
前に立つ僧が読経し、うしろにいる僧が太鼓や鐘を鳴らす。
遅れて入ったので10分もしないうちに終わった。
散華でまかれた紙が床に散っていて、持ち帰ってもいいといわれるので、数枚拾った。

能勢妙見山 この日のこの時間にあわせてきたのは、信仰心によるのではなくて、高松伸が設計した建築を見たかったから。
信徒会館「星嶺」は、蝶が羽根を開くように8枚の羽根がある。
高い位置にあるので、駐車場から上がってくる途中からも見えた。
妙見信仰のおおもとである「星」と、能勢家の紋章である「矢筈」をモチーフにしている。
中では8角にガラスの壁を広げる構造がむきだしで力強い。
もともと高い位置にあるガラスの建築の最上階に上がって、急いだかいがあった。

* 午後2時近くになっているが、昼には渋滞のなかでくるみパン1個食べただけ。
能勢妙見山を出たあとの田園地帯を走っていると、なかなか食事をできる店がない。
広い幹線道路に出て、ようやくファミリーマートがあった。
おむすびとサンドイッチとコーヒーを買って運転席で食べる

今日の最終目的地の篠山市街に入る。


■ 丹波古陶館
兵庫県篠山市河原町185 tel. 079-552-2524

いかにも古い道に入る。
通りはきっかりした直線ではなくて、右に左にわずかに揺らいでいる。
門を入ると、左右に展示棟があり、正面中央は中庭になっている。
そこを須田剋太が描いている。

丹波古陶館 須田剋太『篠山の丹波古陶館』
須田剋太『篠山の丹波古陶館』

展示の古陶器を見たあと、車を古陶館前に置いたまま、道を歩いてみた。
須田剋太の絵には篠山名産の山芋ののぼりがある。
今ぴったりの店は見つからなかったが、道の風情からしてこの通りにあったようだ。
新しく建った店で表情は違っているが、山芋を売る八百屋はあった。

篠山の道 須田剋太『篠山の街角』
須田剋太『篠山の街角』

* あと行きたいところは今夜の宿から近くにある。宿に行って車を置いてから散歩に出た。

■ 篠山市役所・たんば田園交響ホール
兵庫県篠山市北新町

たんば田園交響ホール 篠山城趾を囲む堀の北側に市役所があり、その隣にコンサートホールがある。
1988年に開館して、日本音響家協会の「音響家が選ぶ優良ホール100選」というものに選ばれている。
外から眺めるだけで過ぎる。

■ 篠山城趾
兵庫県篠山市北新町


明治になって篠山城は壊され、城地には役所や学校などが建てられた。
平成にはいって、篠山幼稚園、篠山養護学校、篠山中学校を城外に移転して、跡地を城跡として整備していて、2000年に二の丸大書院が復元されている。
大書院のほかは広い平坦地に草が生えている。
とめどない気分で歩いていると、防災無線から夕暮れを告げる「赤とんぼ」の曲が流れる。
寺の鐘もなる。
ひとり旅をしていて、こういう生活的匂いの濃い街で夕暮れになると、寂しくなる。
須田剋太『丹波篠山城』
須田剋太『丹波篠山城』

丹波篠山城

● 潯陽楼(じんようろう)
兵庫県篠山市二階町79 tel. 079-552-0021

丹波古陶館があったのは古い風情のある通りだったが、宿が面している道もしっとりしている。名物のいのしし肉をつかったぼたん鍋を食べさせる店がいくつかある。
潯陽楼は、『街道をゆく』の旅のとき司馬遼太郎が泊まった宿で、文章に名前がでてくる。

二階町というやや灯の多い通りがあって、そこに潯陽楼という、篠山に連隊があったことからの古い宿がある。そこに泊まった。向いは猪の肉を売る店である。


今も変わらずに、道の向かい側に猪肉を売る店が営業している。
潯陽楼(じんようろう)

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第2日 篠山 立杭 三田 三木 舞子(泊)

* 朝、支払いを済ませたあと、旅館に車を置かせてもらったまま、すこし歩いた。

●  おゝみや
兵庫県篠山市乾新町40番地 tel. 079-552-0352
http://www.botan-nabe.com/

須田剋太の絵に『猪肉屋さん』として、猪肉を売る店が描かれている。
文字が読みとれて、「丹波特産 山肉門屋 大見屋」とある。
「大見屋」が、今は「おゝみや」として営業している。
店の沿革をみると
 1949年 「大見商店」として営業を始める
 1970年 「大見屋」に改称(司馬一行が訪れたのはこの時期
 1993年 「株式会社 おゝみや」に社名変更
とある。

はじめ、司馬の文章にある宿の向かい側にある店が、須田の絵にある肉店かと思った・
実は旅館前の道を西へ、ほんの数分歩いたところにおゝみやがある。
くと、篠山名物のイノシシの肉を売る店がある。
ここが本店で、ほかにも店舗があり、三田(さんだ)の店では猪鍋のレストランを併設している。

 篠山 おゝみや 須田剋太『猪肉屋さん』
須田剋太『猪肉屋さん』

中に入るとガラスケースのなかに猪肉が並んでいる。
赤い肉と白い脂がゆるやかな曲線をえがいて接していて、とてもきれい。
旅の途中ではこういうのを買って帰るわけにはいかないのが惜しい。
猪肉を串カツにして冷凍したものとか、猪肉をいれたレトルトカレーとか、加工したのもいろいろある。
須田剋太の絵では、店頭にイノシシが3頭ほどぶら下がっている。
かつては獲ってきたばかりのイノシシを、こんなふうに吊り下げていたが、今は衛生上の規制でこんなことはしないという。
今は剥製のイノシシが置かれている。

* ぶらぶらと遠回りして戻る。
さりげない道の風情がとてもいい。
古い街並みが残っていても、そこだけが模型のようにあって周囲はがらっと変わってしまっている都市もあるが、ここは街の広い区域がゆったりしている。
大きなショッピングセンター、コンビニを見かけなかったのも落ち着いてよかった。
観光客をごくまばらにしか見かけなかったのは、はずれた季節だからかもしれない。

「篠山城下町ホテルNIPPONIA」があった。
明治期の民家数軒をホテルにしたといううちの1軒。
夕食は地域の飲食店でとり、朝食は近くの住民が作りにくる。
おもしろそうなしかけだが、僕は『街道をゆく』の文章に名前がでてくる潯陽楼に泊まった。(それでなくても「NIPPONIA」は1泊3万円以上とかで、僕には高い。)

旅館に置かせてもらっていた車に乗り、いったん市街の北に向かう。


■ 篠山市民センター
兵庫県篠山市黒岡191-1 tel. 079-554-2188

篠山市民センター 篠山市民センターは篠山の市街地の北の端にあり、ここより先は田園地帯になり、その先は山地になる。
2003年に開館した施設で、多目的ホールと研修室があり、大きな公民館といったところ。
ロビーや通路がとてもゆったりしているが、過剰な気がする。

* 道を戻る。
泊まった宿の前をふたたび通りすぎて、南西に走る。
目的地は図書館なのだが、合併前の旧篠山町の中心部を抜けてしまい、盆地の南西の隅にある。


■ 篠山市立中央図書館
兵庫県篠山市西吹88-1 tel. TEL 079-590-1301
http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/

篠山の中心市街地から離れたところに、篠山市民センターと同じ2003年に開館した。

1999年4月1日に旧多紀郡篠山町・今田(こんだ)町・丹南町・西紀町の4町が合併し、篠山市が誕生した。
「自治体合併による人口4万以上の市制」を全国で初適用、平成の大合併のさきがけとなった。
もともとはごみ焼却場と斎場が必要になっていて、それぞれ80億と20億と見込まれ、単独の町では財源が足りないので、合併してまかなうはずだった。
ところが、合併に際してもとの自治体ごとにハコモノを作る悪いクセが全国にあるが、篠山でも懸案だったごみ焼却場と斎場のほかに、温泉15億、図書館19億、市民センター25億、体育館15億、博物館18億と建てた。
無謀な計画に思えるが、人口増で負担できると考えていたらしい。
ところが、合併直後2000年の人口はおよそ46,000人。
その後に減少に転じ、振り返ってみれば人口のピークに合併したことになる。

 1970年 43,428人
 1975年 42,026人
 1980年 41,685人
 1985年 41,144人
 1990年 41,802人
 1995年 44,752人
 2000年 46,325人-合併直後
 2005年 45,245人
 2010年 43,268人
 2015年 41,506 人
 (合併前の人口は、合併後の相当市域の人口の合計)

財政は危機的状況で、すさまじい緊縮体制をとっているらしい。
職員の給料まで減額しているし、博物館(篠山チルドレンズミュージアム)は、冬は休館し、ほかの季節も曜日を限って開いているだけ。

図書館が市街から遠いのは旧・丹南町にあるから。
塔がある。どこか異国のふうで、篠山の風土とは関係なく、ちょっと気恥ずかしい。
館内に入ると、書架が並んだ上に高い天井がある。
開館まもなくに入ったので照明がまだついていないのかな?と思ったほどに暗い。
見あげると、高い天井にある照明はついているが、手もとで本を開くと、やや光の量が足りない気がする。
司書さんにたずねると、外光が入るから、晴れて日が高くなれば明るくなるという。

篠山市立中央図書館 塔の中はどうなっているのか、展望室でもあるのだろうか、と思ってそれもたずねてみると
「塔は...あれ?なんだろう?」と苦笑いしている。
ふだん何かしら実用的につかわれているのではないらしい。

* 『街道をゆく』の取材では、篠山のあと立杭(たちくい)の窯に寄っている。
当時は旧・今田(こんだ)町だったが、今は篠山市になっている。
292号線を走ると、道の両側にいくつも陶房が並んでいる。


■ 立杭(たちくい)

「立杭陶の郷」というのがあるあたりに広い駐車場があるので車を置いた。
1970年代前半にここを訪れた『街道をゆく』の文章に、
村じゅうにある登り窯が県の文化財に指定されたが、いまは採算点の高さから重油窯をつかっている家が多い。
とある。

須田剋太が絵を描いた場所がどこか、絵には特定するてがかりがない。 須田剋太『立杭の上り窯』
須田剋太『立杭の上り窯』

「丹波窯最古の登り窯」という道案内標識があり、行ってみた。
1895年に築かれ、修復されながら今もある。
その隣に煙突があり、その先は覆われているが、須田剋太の絵に似ている。
丹波窯最古の登り窯

トタン板で囲われた中にも登り窯がある。今は荒れているが、もとはちょうど絵のようだったろう。
ここと断定はできないが、たくさんの陶房が連なるなかで、とにかく似た風景に行き会えたことでいいことにした。

* 車に乗って南に向かい、篠山を離れた。
篠山には城跡があって、落ち着いた街並みがある。
老舗の宿があり、新しいしかけのホテルもある。
寄っている時間がなかったが、やはり民家を転用してクラフトを置いてあるおしゃれな店もいくつもある。
イノシシとか黒豆とかおいしいものがある。
桂文珍、河合隼雄、大村崑といった多様多彩な人を生み出してもきた。
それほどの蓄積があり、新しい取り組みをしているまちでも、合併による財源に舞い上がって大きな負債をかかえて苦しんでいるのがわびしい。

篠山市の南に隣接する三田(さんだ)市に入る。


■ 新宮晋 風のミュージアム
兵庫県三田市尼寺968

新宮晋 風のミュージアム 武庫川(むこがわ)の支流の黒川・青野川につくられた青野ダムによってできた千丈寺湖の南岸に公園がある。
なだらかな丘に新宮晋(しんぐうすすむ)の立体作品が配されている。
どれも風を受けて揺れたり回ったりする。
気持ちがゆったりする。

* 三田市街に入る。
三田市では2本の鉄道路線があり(JR西日本の福知山線と、神戸電鉄公園都市線・三田線)、神戸、大阪方面と結ばれている。
公園都市線の南ウッディタウン駅の近くの駐車場に車を置く。


■ ウッディタウンに架かるセンチュリー大橋

三田(さんだ)市は、神戸市街から六甲山を北に越えた先にある農村だった。
大規模住宅団地の開発と、JR福知山線の複線電化により、大阪・神戸の衛星都市として急拡大した。
司馬遼太郎は『街道をゆく』の旅で篠山を出たあと、三田を訪れ、こういう文章を書いている。

 そのあと山中の道を通り、正午すぎ摂津三田の盆地にさしかかると、篠山のしずかさとはまるでちがい、そこここの丘に赤地が剝け出て、土地造成屋の看板が騒々しくたてちらかされている。

1981年に三田の開発の最初期の北摂ニュータウンへの入居が始まっている。
司馬遼太郎が三田を訪れたのは1970年代初期だから、まだ新しい街が生まれる前、しきりに丘の緑をはぎとっている時期だったようだ。
その後の三田市の人口増加はすさまじく、80年代後半から90年代半ばにかけて、人口増加率10年連続日本一だった。

 1970年 33,090人(篠山市43,428人)
 1975年 35,261人
 1980年 36,529人
 1985年 40,716人
 1990年 64,560人(篠山市41,802人。逆転している)
 1995年 96,279人
 2000年 111,737人
 2005年 113,572人
 2010年 114,220人
 2015年 113,966人(篠山市41,506人)

1970年には篠山市より少ない人口だったが、大逆転して、2倍以上になっている。
今は人口増がとまっていて、それはつまり高齢者の比率が高まっていくことを意味していて、高齢化の速さが日本一になるかもしれないといわれている。
それにしても、街を歩いていると、篠山の静けさに比べ、活気がある。
ウッディタウンは三田のニュータウンの1つ。
南ウッディタウン駅の近くには、それぞれが大きな面積を占める商業施設がいくつもある。
ウッディタウン市民センターのビルには、三田市立図書館ウッディタウン分館が入っている。

センチュリー大橋 ビル内の2階から外に出る通路があり、橋につながっている。
公園都市線を越えてウッディタウンの東西を結ぶセンチュリー大橋という歩行者専用橋。

5本のケーブルと大小の馬てい形の鋼を組み合わせた吊り橋で、1993年にできた。センチュリー(世紀)を超えて、という開発者の理念で名づけられたといい、線路を越えるための歩道橋に11億円ほどの経費をかけた。
今にも独特の意匠で存在感がある遺産を残したともいえるし、開発に勢いがあった時代をものがたるともいえそう。

橋の東側には大きな商業施設があったが、西側に越えると戸建ての住宅街になっている。
僕は2000年にもこのあたりに来たことがある。
1戸ごとにそこそこの広さがあってレベルの高い住宅地といっていいだろう。
でも、数種のハウスメーカーの住宅があり、ローカルな工務店が建てた住宅があり、個別に設計を委託して建てた住宅もあり、ということだったのだろう、新しくてきれいな家が並んでいるのに、みんな勝手に建てている感があり、住宅展示場のようだった。
庭に木がなかったり、まだ植えたばかりで小さかったりで、家の建物だけがポツン、ポツンと等間隔に模型のように並んでいるから、格別妙な景色に感じた。
今は年月を経て、木が育ち、家もいくらか古びたから、前よりは落ち着いた風景になった。
それでもまるで設計思想が違う住宅が並んで何かしっくりしない感じは今もした。

■ 兵庫県立人と自然の博物館
兵庫県三田市弥生が丘6丁目 tel. 079-559-2001
http://www.hitohaku.jp/

神戸電鉄公園都市線の南ウッディタウン駅からひとつ南がフラワータウン駅で、その近くに兵庫県立人と自然の博物館がある。
丘陵地を開発するとき、谷に橋を架ける必要があったが、丹下健三の提言で橋と博物館を兼ねた4階建ての巨大な博物館として設計された。
開館は1992年で、開館からまもない頃、見に来たことがある。
僕は埼玉県立自然の博物館にいた頃で、県立自然系博物館のなかで極小のほうだったから、兵庫の博物館の大きなスケールに圧倒された。
谷底は広い公園になっていて、そこからは博物館がダムのようにある。
自然の中に巨大建築物がでしゃばりすぎないように、壁面をハーフミラーにして、青っぽい光をおびていた。
今日は近くを通りすぎただけで先に向かった。

* 『街道をゆく』の「丹波篠山街道」の文章は三田(さんだ)で終わっている。
僕はそこから西に走って三木(みき)市にはいった。


■ 兵庫県立三木総合防災公園
〒673-0515 兵庫県三木市志染町三津田1708 tel. 0794-85-8408

防災公園というところに建築的に気になるところがあって寄り道した。
その1つが2007年にできた屋内テニスコート。
上空から見ると、豆のさやのような形をしている。曲線の具合がムーミンのようでもある。

ビーンズドーム 内部は、中央に1500の観客席があるセンターコートと、その両側に4面ずつのサブコート。
防災施設も兼ねていて、災害時には物資の集配や宿泊に使われる。
3つの大きなトップライトも、非常時でも昼間は電力を使わずに作業できるという効果が考えられている。
名称をビーンズドームといい、2018年までの命名権をブルボンが得ていて、ブルボンビーンズドームという。

テニスコートが防災施設を兼ねているが、屋外にも3つのシェルターがある。

The Pavilion of the Senses ペーター・エブナー+フランツィスカ・ウルマン+遠藤秀平 その1つが「The Pavilion of the Senses」(ペーター・エブナー+フランツィスカ・ウルマン+遠藤秀平建築研究所)。考え方としてヨーロッパの庭園の小屋をイメージしたという。
鋼板とコンクリートで構成しているが、屋根の鋼板は自重で湾曲している。

あとの2つも実用のシェルターには不向きで、遊び心の造形としてはおもしろい。

* 三木から南に走ると海にぶつかるわけだが、海に着いてしまうより手前、土地は海に向かってかなりの傾斜で下っているのだが、まだ坂の高いところにあるレンタカーの営業所に車を返す。
今夜の宿は海岸近くにあり、営業所からホテルまで送ってもらえた。


● シーサイドホテル舞子ビラ神戸
兵庫県 神戸市垂水区東舞子町18-11 tel. 078-706-3711
http://www.maikovilla.co.jp/

明石海峡大橋の本州側は舞子公園になっている。
その公園とほとんど一体のように隣りあう庭園があるホテルに泊まった。
部屋からは明石海峡大橋が見えて、橋は向こうの淡路島までつないでいる。
こちら側には舞子公園があり、移情閣がすっと建っている。
そんな雄大な眺めを見晴るかす海側の広い部屋にひとりで泊まって5000円ほど。
眺めはいいし、設備も過不足なく整っているし、老舗の宿にふさわしく働く人たちも上質だし、とても快適だった。
高額な高級ホテルに泊まって、部屋が豪華だったり、食事がおいしかったりするのは当たり前。僕は高くないのにとても印象がいい、コストパフォーマンスが高いホテルにあたるととてもうれしい。

明石海峡大橋 シーサイドホテル舞子ビラ神戸

僕が泊まったのは緑風館。
上の写真はその部屋からの景色で、右の写真の高層建築は本館。
そこらぐるりと庭をめぐって緑風館にきた。

2枚の写真の風景はおおむねこのようにつながっていて、左の写真は明石海峡大橋の夜景。
日が沈んで暗くなると、大橋はライトアップされ、車の灯りも右に左に移動していく。
こういう夜景を美しいと思う心情は、文明が発達してから生じた心性なのか、なにか灯りにひかれる原質のようなものがもとからあったのか。
夜がふけていくとまず移情閣の照明が消えた。
やがて橋の照明も消え、橋が見えなくなった。

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第3日 淡路島岩屋港 国万商店 石屋神社 孫文記念館 芦屋市立図書館打出分室 新大阪駅

* 「丹波篠山街道」はきのうまでの1泊2日で終わり。
今日はすでに行った「明石海峡と淡路みち」の一部を再訪することと、舞子から西宮にかけて、いつか行きたかったところをめぐる。

『街道をゆく』で淡路島を訪れたとき、司馬遼太郎一行は明石港から岩屋港まで、播但汽船で渡った。
「明石海峡と淡路みち」では、海峡を好きだということから始まって、明石側であちこち寄り道していた。週間朝日での連載でいえば、実際に船に乗って明石海峡を渡った先のことがでてくるのは、3週目になってからだった。
司馬はもともと神戸の一の谷の上から海への落日を見るのが好きだったが、

いま明石海峡の波の上からそれを見ると、波の黒ずみの上にひろがる茜色というのは、一の谷などより一層あでやかであることがわかった。
 茜に映えている頭上の雲も美しい。須田画伯が顔をあげ、西方の茜よりも頭上の雲の色のうつくしさに見とれている。(『街道をゆく7』「明石海峡と淡路みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976。以下、司馬遼太郎の文章の引用については同じ。))
と書いて、明石海峡の船旅は印象深かったようだ。

また幸田文の『崩れ』には、こういう一文がある。

自然を見るには、どうしても最低で一年四季は見ておかなくてはうまくない。
遠くの地方まで旅して、一度きりの出会いを身に沁む思いで味わうのも、それはそれでいいとは思う。
でも一度きりでは見えないことがあったり、次の旅で初めて見えてくることがあったり、前とは違ってみえてきたりすることもあるだろう。旅するとき、いつもこの幸田文の言葉が気持ちのどこかにひっかかっている。
僕は淡路島にはこれまでに2度行った。
どちらも秋だったし、バスやレンタカーに乗って高速で橋を渡った。
春に船で渡るのもわるくないかな-と考えて、篠山の旅のあとに船で淡路島に渡ることにした。


* 舞子から、淡路島への船が出る明石までは、JRと山陽電気鉄道が並行している。
JRにはふだんなじみがあるので、ここは山陽電気鉄道にしてみようと舞子公園駅から山陽明石駅までを乗った。
駅から船の乗り場までは近い。


■ 淡路ジェノバライン明石乗り場~岩屋港
兵庫県明石市本町2-10-1 tel. 078-918-2411

司馬遼太郎の文章では、岩屋への船の乗り場はこんなふうだった。

 播但汽船の乗り場へゆくと、田舎の停車場のような木造ペンキ塗りの建物があり、そこに柵がほどこされていて、柵内でみな順番を待っている。

淡路ジェノバライン明石乗り場 今は新しい建物ができているが、大きさとしては今もこぢんまりと小さい。


淡路ジェノバライン明石乗り場 天井に十字形 中に入ると、乗船券売場とベンチがあるくらいで、さっぱりしている。
天井に十字形のスリットがあり、光が入ってくる。
2003年に建ったのだが、設計者の岸和郎はホームページにこう記している。
「正確に南北軸を表示するよう穿(うが)たれた天井の十字形のスリットであり、入ってくる光は日時計として時を刻むと同時に、天井の微(かす)かなドーム状の形態と共(とも)に、この場所が子午線上にあることを表象している。」


『街道をゆく』の文章によれば、船は30分おきにでていて、運賃は120円とある。
今は、朝夕は20分おき、その他の時間帯では1時間に1便か2便が運行されている。
運賃は500円。
橋ができても連絡船が共存していて、かなりの頻度で出ている。

今の船は新しいし、短距離の連絡船にしては大きい。
岸壁を離れると、船は速い。
『街道をゆく』のころには「二十分とすこし」かかっていて、前述の「いま明石海峡の波の上からそれを見ると」といった美しい文章が記される。
ところが今は「十分とすこし」で着いてしまう。
春の暖かい日で、天気はいいし、内海を船ですべっていくのは気分がいい。
とはいうものの、船は速く勢いがあり、抒情にゆっくりひたるほどもなく、大橋を右から左に(西から東に)くぐって、するすると岩屋港に入ってしまった。
須田剋太『明石播但汽船渡し場』
須田剋太『明石播但汽船渡し場』

明石から淡路島への船

岩屋港

* 岩屋港からまもなく岩屋商店街がある。
岩屋港から続く岸壁に沿った細い道の両側に小さな店が並んでいる。
前に来たときにも気になったのだが、商店街の規模に比べてやけに喫茶店が多い。
モカという喫茶店の前に来ると、三角形の店名板の上に猫がいる。
見ていると、隣のクリーニング店の軒上に歩いていき、2階のガラス窓をひっかいている。
そこで引き返し、またモカの三角形を越え、豆腐屋さんの軒上に移る。
意図して作ったのではないだろうに、手ごろなキャットウォークになっていて、おかしい。


● モカ
兵庫県淡路市岩屋1364-2 tel.0799-72-2621


淡路島 岩屋 モカ
モカに入ってみた。
いかにも昔からの喫茶店の風情。
モーニングセットがあり、トースト+ゆで卵+コーヒーで380円。
朝は簡単にすませていたけれど、たまにはモーニングセットもいいかなと注文した。
ほかには高年男性が数人。
店主(男)は注文の品を運ぶと、そのままあいている席に座って親しそうに話し始める。
店主(女)が、カウンターの向こうでパンを焼き、コーヒーをいれてくれている。
なんかのどかでいい。

* 商店街を港のほうに戻る。
店と店のあいだに路地がはさまれているところがいくつもある。
先をのぞくと、いかにも島の道らしく、狭く、微妙にカーブしている。
ひさしぶりに国万商店に入った。


■ 国万商店
兵庫県淡路市岩屋1110 tel. 0799-72-2012

2014年に淡路島に来たとき、須田剋太が描いた『明石播但渡し場』の絵がどこか、なかなかみつからなかった。
諦めかけて、ここで最後と思って入ったのが国万商店で、その店の主が場所をご存知だった。
絵の場所は淡路島の西岸の豊島(としま)で、たまたまそこから嫁に来られた方だった。(→[淡路島の港のいちじろう])
『街道をゆく』の絵の地をたどっていると、ときたま思いがけない偶然に出会ったことがいくつもあるが、ここがいちばん劇的だった。
昨年、日本経済新聞に『街道をゆく』めぐりのことを紹介する機会をいただいた。担当の編集委員の方とおよその内容を打ち合わせて、あんなことがあった、こんなことがあったと話していて、編集委員さんも国万商店のことはぜひ含めたいということになった。
→[Topics 日本経済新聞に "「街道をゆく」挿絵の謎追う" が掲載されました。(2015.11.19)]

国万商店

店を入ると国本民代さんが今日もかわらないやさしい笑顔でいらした。
前は須田剋太の絵のことをきいてビックリして富島にむかった。
それで富島に実際に行ってみて、いくらか地理感覚がわかったので、今日はあらためて国本さんがもとお住まいだったのは富島のどのあたりだったかたずねると、海からやや離れた山のほうとのこと。
かつていた東浦は寒さが厳しかったが、今暮らしている西浦は暖かいという。
岩屋商店街に喫茶店が多いのは漁師さんが固定客としているからのようで、漁師さんそれぞれに行き着けの店が決まっているらしい。
猫を見かけたことを話すと、ヒトより多いかもといわれる。
本州に戻るバス停への道を教えてもらって出た。

* 国万商店を出て、港へとは反対方向に行く。
数分で岩屋神社に着いた。
前は、国万商店から岩屋港の駐車場に戻り、車に乗り、国道を数分走って、神社の駐車場に着いた。国万商店と岩屋神社は、別の区域にあるかのように思いこんでいたのだが、今回、地図を見直すと、歩いてしまえばかえってすぐ着いてしまうほどの距離なことに気がついた。(国万商店も岩屋神社の氏子だとのことだった。)


■ 石屋神社
兵庫県淡路市岩屋799 tel. 0799-72-3155

ここには3度目。
初めてきたとき、ちょうど女性の神主さんが祝詞をあげておられ、すんだあと、『街道をゆく』の挿絵以後の神社の変化のことなど話しを伺った。
今日は社務所の玄関をたずねたがお留守のようだった。

石屋神社 石屋神社 淡路島
須田剋太『淡路島石屋神社』

* 本州側にはバスで戻りたい。
国万商店で「観覧車をめざしていけばいい」と教えられたとおりに坂を上がっていく。
高速道路下から細い階段を上がっていくと、淡路交通高速バス「淡路IC」停留所があった。地元の、使い慣れているらしい人が数人、バスを待っている。道の向こう側に淡路サービスエリアの観覧車が見える。

バスは発車するとまもなく明石海峡にかかる。
高い位置を走るので、対岸の市街地が広く見わたせる。
眼下には海がゆらゆらしている。
気分がいい。
10分ほどか、対岸の「高速舞子」停留所で降りる。
明石海峡をバスで越える

明石海峡大橋の下に行く。
吊り橋を支持する橋台(アンカーレイジ)がある。
コンクリート製の大きな構造物で、見あげながらわきを歩いていて、なんだかわくわくする。武骨ではあるが、大きさ、重量感が圧倒的に迫ってくる。
ウイーンに対空砲火のための円筒構造物があったのを思い出したりした。
明石海峡大橋を支持する橋台(アンカーレイジ)

孫文記念館に入った。
朝、一度この前を通って舞子駅にむかったのだが、開館時間前だったので、淡路島にひとめぐりしてから戻ってきた。


■ 孫文記念館(移情閣)
兵庫県神戸市垂水区東舞子町2051 tel. 078-783-7172
http://sonbun.or.jp/jp/

孫文ゆかりの建築で、長いこと、いつか行ってみたいと思っていた。
中国と日本を往復して革命を志した人。
日本の支援者とのつながり。
海辺の立地。
そうしたことを象徴するような移情閣という名。
そんなことを思うと、はるかな気持ちになってそそられる。

明石海峡大橋と海を背景にいい姿をして立っている。
残念だったのは、文化財施設の公開にはありがちだが、内部は説明で充たされてかなりうるさい状態で、海を見おろしながら遠い気分にひたるようなところではなかった。

(右の写真は、このあと行った舞子海上プロムナードから見おろして撮った。) 孫文記念館(移情閣)

■ 舞子海上プロムナード
兵庫県神戸市垂水区東舞子町2051 tel. 078-785-5090

大きなコンクリート構造物、アンカーレイジの中に入っていくと、大橋の下部に突きだした回遊式遊歩道があるのだった。
床面の一部が透明なガラスになっていたりして、海上に浮いている感覚になる。
展望室からは移情閣など、広い景色を見おろせる。

* また山陽電気鉄道の舞子公園駅に戻り、三宮方面に向かう電車に乗る。
乗り入れている阪神の打出駅で降りる。
住宅街を歩いていくと、ほかの住宅とは異質な立方体の建築がある。


■ 芦屋市立図書館打出(うちで)分室
芦屋市打出小槌町15番9号 tel. 0797-38-7220
http://www.ashiya-city-library.jp/

登録有形文化財の建築物が図書館になっている、しかも村上春樹が親しんだところ-ということで、もうずいぶん前から行きたいと思っていた。
水曜から土曜だけという奇妙な開館日で、なかなか都合がつかなかった。


阪神の打出駅から北に(山手方向に)歩いていくと、小さな公園があり、その向こうに石積みの四角い建物があった。

村上春樹の『風の歌を聴け』では、ここに車で突っこんでいる。
 とにかく僕たちは泥酔して、おまけに速度計の針は80キロを指していた。そんなわけで、僕たちが景気よく公園の垣根を突き破り、つつじの植込みを踏み倒し、石柱に思い切り車をぶっつけた上に怪我ひとつ無かったというのは、まさに僥倖というより他なかった。

この建築は、明治中ごろに建った銀行で、個人が買い取って美術品の保管所に使っていた(らしい)あと、芦屋市が買い取り、1954年から市立図書館にされた。のちに新たに本館ができ、1990年からは打出分室になっている。

若い村上春樹が愛用していたころは、ここが本館だったことになる。
今、館内に入ると、明るく清潔なインテリアで現代の図書館の水準にしつらえなおしてあるが、かつてはもっとクラシックで重い印象ではなかったろうか。

須田剋太は後半生、西宮市を流れる夙川の土手のへりに暮らしていた。
村上春樹もそのあたりにいたらしいことはうっすら承知していたけれど、ずいぶん近いのだった。

僕が生まれた場所は一応京都だけどすぐに兵庫県西宮市夙川というところに移り、それから同じ兵庫県芦屋市に移っている。だからどこの出身かというのは明確ではないのだが、十代を芦屋で送り、両親の家もここにあるのでいちおう芦屋市出身ということになっている。(『村上朝日堂の逆襲』)

 僕は物心ついてから高校を出るまでに二回しか引越しをしなかった。不満である。もっとたくさん引越しをしたかった。
 それに二回引越したといっても、直線距離にして一キロほどの地域を行ったり来たりしていただけである。こんなのって引越しとも言えない。兵庫県西宮市の夙川の西側から東側へ、そして次に芦屋市芦屋川の東側へと移っただけのことである。(『村上朝日堂』)

「夙川」がでてきてぐっと近づいた気がしていたのだけど、さらに驚いたことに直接の接点があったのだった。
インターネット上で読者が質問し、村上春樹氏が回答するという企画があり、その質問と回答の一部が本になった。
Q278に「子供の頃に習い事は何かしましたか?」という質問があり、小学校の低学年ころに須田剋太に絵を習っていたとこたえている。
須田剋太さんという画家が近所に住んでおられました。司馬遼太郎さんとよく一緒に仕事をしておられたとても有名な方です。(『村上さんのところ』)
とあって、須田剋太のやさしい教えぶりが印象的に書かれている。

* 打出分室からは北に歩いてJRの芦屋駅に。
東海道線に乗り、新大阪から新幹線に乗った。

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参考:

  • 『街道をゆく 4』「丹波篠山街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1974
    『街道をゆく7』「明石海峡と淡路みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976
  • NHKクローズアップ現代「平成の大合併 夢はいずこへ」2014.4.30
  • 『崩れ』幸田文 講談社文庫 1994
  • 『風の歌を聴け』 村上春樹 講談社 1979
    『村上朝日堂』村上春樹 若林出版企画 1984
    『村上朝日堂の逆襲』 村上春樹 朝日新聞社 1986
    『村上さんのところ』 村上春樹 新潮社 2015
  • 2泊3日の行程 (2016.3/15-17)
    (→電車 =バス -レンタカー ~船 …徒歩)
    第1日 京都駅-大原野神社-老ノ坂-亀岡市立図書館…亀山城…亀岡市立図書館-能勢妙見山-丹波古陶館-潯陽楼…篠山城趾…潯陽楼(泊)
    第2日 …しし肉専門店丹波篠山おゝみや…潯陽楼-篠山市民センター-篠山市立中央図書館-立杭-新宮晋 風のミュージアム-センチュリー大橋-兵庫県立三木総合防災公園-シーサイドホテル舞子ビラ神戸(泊)
    第3日 …舞子公園駅→明石駅…淡路ジェノバライン明石乗り場~岩屋港…国万商店…石屋神社…淡路交通高速バス「淡路IC」=「高速舞子」…孫文記念館…舞子海上プロムナード…舞子公園駅→打出駅…芦屋市立図書館打出分室…芦屋駅→新大阪駅