「芸備の道」としまなみ海道
  +尾道市立美術館の須田剋太展


尾道市立美術館で須田剋太展が開催された。
それを見に行くのにあわせて、『街道をゆく』「芸備の道」(1979)をたどって広島北部の安芸高田、三次をまわった。
尾道に下ったあと、瀬戸内の島々を結ぶしまなみ街道にのって、いくつかの島もめぐった。ここは前に計画したとき、大型台風に重なってしまい、島に渡ったら戻れなくなりそうで断念したことがある。
今回は台風の心配はないが、12月に入っているから、広島県北部で雪に降られたり、道が凍結したりする可能性がある。レンタカーで走るのに、雪や凍った道に慣れないので不安があった。


第1日 広島空港 安芸高田市(毛利元就の墓 吉田町役場跡ほか いろは家旅館)  
第2日 三次市(粟屋駅 岩脇古墳 環翠楼跡 鳳源寺 灰塚ダムほか) 尾道 
第3日 今治市(伊東豊雄建築ミュージアムほか) 耕三寺博物館 福山
第4日 福山市(ふくやま美術館ほか) 尾道市立美術館 広島空港 


第1日 広島空港 安芸高田市(毛利元就の墓 吉田町役場跡ほか いろは家旅館)

* ボーイング777は、羽田空港から離陸すると右回りに上昇した。
ベイブリッジ、ランドマークタワーなど横浜港が見おろせる。

全日空機からの富士山
富士山上空には薄い雲がかかっっていた。雲の間から富士山が透けて見えて、水中に沈んでいるかのよう。雲の上に山頂を突きだしている姿はよく見るが、今日は珍しい眺めだった。

浜名湖、三河湾を過ぎると、山々に囲まれた低地を濃い雲がうめている。大阪平野になるだろうか。

瀬戸内海に平行して大きな水のたまりがあり、いくつもの川が流れこんでいる珍しい地形が見えた。あとで地図で確かめると、児島湾の奥、児島湖に、吉井川、百間川、旭川、笹ヶ瀬川が流れこんでいるのだった。地図をたどると、旭川は岡山の後楽園のすぐ西側を流れ下っている。いつか児島湖に行ってみたいと思う。


■ 広島空港
三原市の北西の山中を切りひらいて作った空港のようだ。標高332 mにある。
レンタカーを借りる。

* 山陽道を西に向かい、広島i.c.を目ざす。
高速から降りるあたりで、これから向かう右に見える山地は黒い雲におおわれている。もし雪なら、降りぐあいによっては旅のコースを変えなくてはならない。
太田川の西を、川に沿って北上する。広島市街の北10kmあたりで、道が西岸から東岸へ越える。その橋が新太田川橋で、『街道をゆく』の取材のとき、司馬遼太郎一行は太田川を越えたところで車を降りている。


■ 新太田川橋付近
広島市安佐北区可部

土手の脇の道に車をとめて、土手の上に上がってみる。須田剋太が描いたような水利施設がある。

新太田川橋付近 須田剋太『可部の風景』
須田剋太『可部の風景』

* 広島から松江にいたる国道54号線を東北に走って安芸高田市に入る。

■ 分水の道
広島県安芸高田市八千代町上根

『街道をゆく』には、旧・吉田町に向かう車中での運転手との話が書かれている。このあたりは、日本海へ流れていく川と、瀬戸内海へ流れて行く川の分水の峠だという。立ち小便をするとわずかな差で北へいくか南にいくかの分かれ目になるという「地理上の落とし咄(ばなし)」もある。
日本海にいたる簸川(ひのかわ)(やがて江の川に合流する)と、瀬戸内海に注ぐ根之谷川(やがて太田川に合流する)の分水嶺ということになる。

国道54号線は、根之谷川を越えるところにバイパスができていて、川を高架で一直線に過ぎる。
その手前でバイパスをさけて旧道に入った。
バイパスが開通したのは1990年で、1979年に訪れた司馬遼太郎一行は、とうぜん旧道を通った。
旧道はいったん川にそって北向したあと、逆U字型の先端で橋を渡って折り返し、南向する。
その先で集落に入ると、地図上に「上根峠」(かみねとうげ)というバス停の表示がある地点になる。
峠といえば、ふつうは山中にある。上りきったところが峠で、そこから道が下っていく。ここではいずれの常識もくつがえして、集落のなかをほとんど平坦に見える道が突き抜けている。

広島県安芸高田市上根峠 その道の途中に「分水嶺ポスト」という案内板があった。(写真左はし、空き地に立っている)
「ポストの屋根右側に降った雨は日本海に、左側に降った雨は瀬戸内海に流れると言われていました。」とある。
かつてこの道は往来が多く、にぎわったらしいが、1915年に芸備線が開通して寂れたという。今もひっそりしている。

かわった分水地として僕が知るところでは長野県富士見町にもある。一見するとゆるやかな丘のようで、その一画が森になっているところに別荘があり、森を「分水の森」、別荘を「分水荘」といった。戦争協力詩を書いたことを悔いて、詩人・尾崎喜八が戦後の一時期、この別荘に隠棲していたことがある。

広島市街を出て太田川とその上流(根之谷川)をわずか二〇キロばかり北上しただけで、もう川が日本海に向かって流れているというのは、ただごとではない。(『街道をゆく21』司馬遼太郎。以下、とくに注記がない引用文は同じ。)
と司馬遼太郎はおどろき、
古代の文化圏でいうと、日本海の出雲文化圏が水流を南へさかのぼって(古代弥生式農耕文化は水流をさかのぼってゆく文化であった)広島市域北方二〇キロのところまできていたということではないか。
と思いを広げている。

僕の感覚でも、三次市に向かって、まだこれから中国山地のなかにはいりこんでいく、上がっていくという感じがある。
ところが上根峠は標高268m。
三次市は標高160mくらいで意外に低い。だから霧がたまるので有名ということにもなるようだ。
松江に向かう国道54号線は、三次より先で山中に上がっていき、最高地点では標高560mの赤名峠を越える。
江の川は三次市で国道54号線からそれて西に向かい-したがって国道のように標高の高い地域に向かうことがなく-島根県江津市で日本海に注ぐ。
地図とあれこれの数字を比べ眺めてみて、ようやくこのあたりが分水点でありうることを納得した。

* 54号線を走っていると、ときおり「早朝深夜 凍結注意」という標識があり、現在の気温が「2℃」とかある。
広島i.c.あたりで不安になった黒い雲はどこにいってしまったのか、白い雲のあいまから日も射してくる。
この調子なら、早朝深夜に走る予定はないから大丈夫そうだと思えてくる。

司馬遼太郎一行は八千代町勝田のあたりで「路傍の店に入り、休憩した。」とある。
それらしいところにはドライブインがあるが休業の貼り紙。
近くに、江の川のすぐほとりで眺めのよさそうなレストランがあるが満席。
一行がどこで休憩したかはわからない。

少し先まで行くと農産物直売所があり、3種のおはぎとミカンとお茶を買って、車のなかでランチにした。
空は晴れているが、駐車場のコンクリート舗装が雨が降ったあとまもないような濡れかたをしている。黒い雲が通り過ぎて雨をふらしていったようだ。

54号線をあと数キロ走ると安芸高田市街に入る。


■ 安芸高田市歴史民俗博物館
広島県安芸高田市吉田町吉田278-1 tel. 0826-42-0070
http://www.akitakata.jp/hakubutsukan/

『毛利隆元-名将の子の生涯と死をめぐって-』という特別展を開催中だった。
隆元は元就の子で、武将には珍しい自画像を描き残している。顔だけ別に描いて体の像につぎたしている。
40代だったかで宴会の翌日に急死したが、病気か毒殺かわからないという。物語になりそう。

司馬遼太郎一行がここを訪れたのは「吉田郷土資料館」のころだった。その後2004年に高田郡吉田町は八千代町などと合併して今は安芸高田市になり、資料館も名をかえている。(建物も建て替わっている)
司馬一行は、館長の小都(おづ)勇二氏に誘われて多治比(たぢひ)城に出かけたりしているのだが、博物館の人のたずねると小都氏はもう亡くなられたとのことだった。

安芸高田市歴史民俗博物館 安芸高田市歴史民俗博物館の近くのパチンコ店の屋上の王様

博物館から1つ建物をはさんだ隣に、キッチュなパチンコ屋があった。大きなトランプみたいな王様が空を突いている。

■ 郡山城趾・毛利元就の墓

博物館の裏の小山が郡山城趾で、毛利元就の墓がある。
須田剋太はその城趾を遠望する絵を描いている。
広島から安芸高田まで来る道の途中に福原という地名のところがあり、そこで描かれた絵もある。
遠くの山、田、白いサギと、似た景色を似た構図で描いているのが珍しい。

須田剋太『郡山城遠望』 須田剋太『福原風景』
須田剋太『郡山城遠望』 須田剋太『福原風景』

墓に向かう道はひたすら右カーブばかりで上がっていく。道の右側には石垣がつづく。

毛利公の墓への道 須田剋太『毛利公墓へ行く迄の林道』
須田剋太『毛利公墓へ行く迄の林道』

鳥居の先に墓所がある。
『毛利元就の墓地にて』は毛利一族の墓の前を描いている。
低い石垣が囲む外側に、絵では高い樹木がある。
今行ってみると、高い木はない。小さな切り株があるが、その高い木が伐られたあとだろうか?

毛利一族の墓 須田剋太『毛利元就の墓地にて』
須田剋太『毛利元就の墓地にて』

数段の石段を上がった高い位置に元就の墓がある。低い石柱に囲まれたなかに、墓石はなく、小さな塚があって、高い木が伸びている。

その墓域は、石垣、墓碑、鳥居などの石造のものが配置されているが、すべて江戸期および明治期に寄進されたもので、それ以前の元就塚はそういう装飾がいっさい施されず、芝でおおわれた土饅頭一つの古朴(こぼく)なものであった。
 墓碑もなかった。土にかえり、輪廻(りんね)の塵になるという思想からいえば浮世の名を刻むというのは非仏教的なことで、元就塚だけでなく、塚はすべてこうであった。
 ただ目印として樹が植えられたにすぎない。

須田剋太は元就の墓ではなく、同じ壇の反対側にある百万一心の碑を描いた。
郡山城の拡張にあたり人柱を立てることを元就がとめて、かわりに「百万一心」と刻んだ石を埋めさせたという。これを「一日一力一心」(いちにちいちりきいっしん)と読んで、共同の精神をこめたという。
ただし、今見る碑は近代の制作物で、現物は見つかっていない。文献にも見あたらないので、「1本の矢は折れるが3本束ねると折れない」というのと同様のつくられた伝説らしい。

百万一心の碑 須田剋太『毛利元就の墓地内にある百万一心の碑』
須田剋太『毛利元就の墓地内にある百万一心の碑』

* 町の中心部を離れて、西に向かって細い道を走る。
丹比郵便局の角を左に折れると、先に見えてくる小山に城あとがある


■ 多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)

小山に上がりかけたところにある駐車場で車をおりる。
山頂の城跡まで20分と案内がある。
剋太の絵は遠望のみで、山頂から描いてはいないようなので、僕も上まではいかないことにした。
駐車場から見おろすと、木立のあいだに、剋太はあそこで描いたのだろうと思われる下の道が見え、近くに古めかしい校舎がある。そこに行ってみることにした。
須田剋太『猿掛城趾』

須田剋太『猿掛城趾』

郵便局あたりまで戻る。
校舎の門には「吉田町立丹比西小学校」とある。廃校になって、今は学童保育の施設らしい。玄関の前に鐘が下がっている。かつては山にこだましていたかもしれない。(屋根の向こうに見えるのが猿掛城趾の山)
旧・吉田町立丹比西小学校

校門から出るとき、石の門の裏側に「毛利公爵寄贈」と刻んであるのに気がついた。

* 市街に戻る。
このあたりで見かける家の多くで、屋根の先にツンと天をさす突起のようなものがある。
小さなしゃちで、いちばん高いところだけでなく、屋根の端ごとにつけている。


屋根のシャチ 須田剋太『屋根の上に黒いしゃちのような黒瓦の乗っている民家』
須田剋太『屋根の上に黒いしゃちのような黒瓦の乗っている民家』

須田剋太もその屋根に目をとめて絵を描いている。
(このあと三良坂歴史民俗資料館に寄って館の人と話していて、「屋根の端々にしゃちがあるのが珍しい、おもしろい」と言ったら、「えっ、どこでもそうするものではないのか!?」と驚かれた。)


■ 安芸高田市役所・安芸高田市立中央図書館
広島県安芸高田市吉田町吉田761クリスタルアージョ1F
tel. 0826-42-2421

『街道をゆく』の取材で街を歩いて、旧・吉田町役場にいきあたり、須田剋太がその姿を描きのこしている。
司馬遼太郎の文章では「町役場(昭和五十七年移転、跡地は他の公共建築物を建造中)」と注を加えてある。
僕が来たのは、その移転からおよそ30年後になる。

三次市役所、図書館 移転してできた庁舎には、その後さらに新館が加えられ、同時に市立中央図書館やホールも接続して建てられている。
図書館は今どきよくある(半)透明ビルで、全体も、部分も四角い。新鮮さはないかわり、落ち着いてはいる。
司書のひとによると「前は公民館に付属した図書館だったから、とても大きくなった」という。

司馬遼太郎一行が三次のまちを散策しているとき、同行していた写真家を警察官が不審尋問するということが起きた。警察署の近くで古い民家を撮っていた写真家を、警察署からでてきた警察官が不審におもった。

ゆったりと明治風に威張りかえっているというか、署の玄関に立ち、右腕をゆるゆると水平にまであげて、十数歩むこうの長谷氏に対し、掌でさしまねいた。来い、というのである。

司馬遼太郎は、まだ初々しい若者が、警官の制服を着たことで権力意識ができ、人としてふつうの礼がとれなくなった不幸という。

それ以上に、日本の社会の不幸としては、すべての警官が本卦(ほんけ)がえりをして江戸の同心意識や、(中略)内務省の官憲の意識をすこしずつもちはじめたときにおこるのではないかということだが、この長谷氏の被害(むろん被害である)はおそらくごく特殊できわめて偶発的な事件かもしれない。

ところがそれがまれな偶発的事件ではないらしいことが最近の新聞記事にあった。

 ある若者が、デモに行くという友人と、その後で映画を見ようと約束した。その若者が、友人が交じったデモ隊の列と並んで歩道を歩いていた時、突然、私服警官に逮捕された。理由は公務執行妨害だったが、若者にはまったく覚えがなかった。後に若者は検察官から「きみが威圧的態度をとり、警官は恐怖を感じたからだ」といわれた。そういえば、私服警官らしい人間と目があったことは思い出したが、それが公務執行妨害にあたるとは夢にも思わなかった。(中略)その若者が半世紀近くたって、いまこの論壇時評を書いている。(『論壇時評』高橋源一郎 朝日新聞2013.12.19)

筆者・高橋源一郎は1951年生まれだから、「ある若者」であったのは1970年ころだろう。
『街道をゆく』の取材が1979年だった。
どちらも戦前のできごとかと思えるほどのことが1970年代に起きていた。
高橋源一郎の文章は、「特定秘密保護法」をめぐって書かれている。これからいっそうそういう傾向が強まっていくだろうかといやな感じがある。

* 今夜は須田剋太が泊まったのと同じ「いろは家旅館」に予約してある。宿に車を置いて古い街並みを散歩した。

■ 旧吉田町役場

宿を左に出るとすぐ旧吉田町役場があったところ。
須田剋太はこの町役場を描きのこしたが、『街道をゆく』の単行本に「町役場(昭和五十七年移転、跡地は他の公共建築物を建造中)」と注を加えてあるとおり、今は役場ではなくなっている。
かわりにできた老人施設と文化施設は、役場があった活気を埋め合わせるには及ばなかったようで、通りかかったかぎりでは人の出入りを見かけない。
もとの役場は、戦後まだ物資が乏しい1950年に建った建物だった。
司馬遼太郎はその建築について、明治期に洋館を見たことがない人が擬洋風の建物を懸命につくったのと似たひたむきさを感じて、好ましい印象を書き残している。その後に建った公共建築は、屋上に斜めの円筒がつきだし、外にある階段なども強い造形意識があり、建て替え時なりに建築へのひたむきさが繰り返されているといっていいのかもしれない。

旧吉田町役場あとの公共施設 須田剋太『吉田町役場』
須田剋太『吉田町役場』

● 田原菓舗
広島県安芸高田市吉田町吉田1302-1  tel. 0826-42-0305

旧町役場から商店街がのびている。(商店街から見れば、その突き当たりに役場があった。)かつてはこのあたりが町の中心で、商店街ももっとにぎわっていたのだろう。

旧役場からすぐの角に、木造2階建ての立派な構えの田原菓舗店がある。
名物の「毛利公」という最中を売っている。
(右上の須田剋太の絵で、右のほうに「毛利公」という看板が見えている。)
店内に入ってみれば、名菓をあつかう老舗というより、町のお菓子屋さんのよう。店番をされていた奥さんとやわらかい言葉のやりとりをして最中を2種とりまぜて買う。


田原菓舗 写真の左、横断歩道の先に旧役場。
右に行くと北屋呉服店。
いろは旅館は手前になる。
今は静かだが、かつては街の中心だった。

■ 北屋呉服店
広島県安芸高田市吉田町吉田1105 tel. 0826-42-0343

商店街を行くと、田原菓舗の数軒先に呉服店があり、ここを須田剋太が描いている。

北屋呉服店 須田剋太『吉田町にて』
須田剋太『吉田町にて』

■ 合流点ウォッチング:多治比川+江の川


商店街に並行するように多治比川が流れている。
流れ下ると旧役場の近くで江(ごう)の川に合流している。
須田剋太『多治比川』

須田剋太が『多治比川』

左向こうから手前方向に江の川、右から手前に多治比川。関東より日没が遅いから、関東ならもう日が沈んでいるころなのに、まだ西の水平線近くに太陽がある。すすきの穂が、向こうからの西陽をためて輝いていた。 合流点ウォッチング:江の川と多治比川

ひとり旅をしていると、こういう時間、こういう場所は寂しい。
河川敷にある簡素なグランドで数人の少年が野球をしている。その声にいくらか慰められる思いがする。

● いろは家旅館
広島県安芸高田市吉田町吉田1331  tel. 0826-42-0009


菓子店が名菓の老舗というより町の菓子屋さんだったように、宿も城下町の名旅館というより地方都市の商人宿のような風情だった。
旅館いろは

夕食に食堂にいくと、先にいたのは商用で滞在しているらしき男がひとり。やや慣れたふうで、連泊しているらしい。あとから現れた男性2人は作業服を着ていて、このあたりの工事で一時的に泊まりこんでいるのだろう。
食事は簡素。食堂に入ったとき「何か飲みますか」ときかれるでもなく、そのまま食事を始めた。他の客も誰も酒を飲んでいなかった。

宿の人に須田剋太が絵を描いたところを訪ねていると話すと、玄関にある看板を教えられた。

玄関に入って沓脱場(くつぬぎば)に立つと、旅館いろは、という墨の色もさだかでない軒吊りの板看板がほうり出すようにして内壁に立てかけられている。

今もこのとおりだった。
板は長いときを経て黒ずんでいて見えにくいが、大きく「旅館」の2文字があり、下にやや小さめに「いろは」とある。

『街道をゆく』のあとをたどっていると、もう30年、40年と経っているから、様子が変わっていたり、当時あったものが今はなくなっているということがしばしばある。
吉田では、菓子店といい、呉服店といい、旅館といい、そろって今もある。
旅館いろはの看板

 安芸吉田は江戸期以前の城下町だが、豊臣政権の末期に毛利氏がいまの広島市に近世的な沿海城郭をきずき、新城下町を町割りして大挙(町人まで)それへひっ越したために吉田は毛利氏にとっての旧都になった。(中略)毛利氏の旧城府であった吉田はかつて毛利氏の本城であった郡山の城趾を擁しつついよいよさびれ、(中略)小ぶりな町でありつづけ、いまもその姿を維持している。

それが21世紀に至ってもつづいているようだ。
こんなふうに静かなままいきつづけているということは驚くべきことのように思える。
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第2日 三次市(粟屋駅 岩脇古墳 環翠楼跡 鳳源寺 灰塚ダムほか) 尾道

● いろは家旅館

朝、窓を開けると、空がくもっていて、前の通りの眺めがぼんやりしている。通り過ぎる車はヘッドライトを点けている。天気情報では雨ではなかったのに意外に感じる。もしかするとこれこれが名物の霧だろうかと思うが、12月でもあるものか。

須田剋太が旅したときは、霧ではなく、はっきりと雨が降っていた。

 翌朝、吉田の宿を出るべく靴をはいていると、表通りにはこまかな雨がふっている。
「雨ですね」
すでに靴をはきおえた須田画伯がいった。
「かえっていいかもしれません」
 須田画伯に言うことによって、みずからをはげました。

朝食はいちばん早い時間だと7時からとのことだったので7時に食堂に行くと、夕べの人たちがそろって7時だった。やはりのんびり旅をしているのではないらしい。

8時ころ宿を出る。すぐ先に見える「毛利公」を売る田原菓舗は、もう店を開いていた。

* 54号線を北に向かう。芸備線甲立駅あたりで東にそれると、道の左に小田東小学校、右に高林坊がある。

■ 高林坊
広島県安芸高田市甲田町高田原 tel. 0826-45-2064

高林坊は浄土真宗本願寺派の古刹。
石段を数段上がって山門をくぐる。
拝観料をとるような寺は別として、ふつうの寺はほとんど出入り自由だが、ここでは山門のすぐ先に柵があって勝手にはいることを禁じている。
静かでひとけがなくすがすがしい。
朝の空気が冷たく、凜とした気持ちになってくる。

須田剋太はここで2枚描いている。
正面の本堂のやや右よりのところに、絵のとおりの壁と樹木がある。

高林坊 須田剋太『高林坊』

右を見ると鐘楼。

高林坊の鐘楼 須田剋太『甲田町高林坊』
須田剋太『甲田町高林坊』

中に入れなくても絵を描いた場所がわかった。

* 54号線に戻って三次へ北上する。
三次市の市街地をいったん通り過ぎて西に向かう。


■ 三江線粟屋駅
広島県三次市粟屋町字下津河内

司馬遼太郎は製鉄の歴史に強い関心をもっていて、『街道をゆく』では「砂鉄のみち」と題した回があるくらい。三次駅で手に入れた観光パンフレットに「丸山鉄穴場(かんなば)跡」と赤丸があるのにひかれて向かっている。
近くに、三次駅からでて江の川に沿って走り、島根県の江津(ごうつ)駅に至る三江(さんこう)線の粟屋駅があり、須田剋太はその駅を描いている。
無人駅で、プラットホームの中ほどに簡素な待合室がある。覆いは合成樹脂製にかわっているようだが、形はそっくり。
中にある時刻表を見ると、1日に上り下り5本ずつ。
三次行きは午前は、7:27と9:12の2本だが、ちょうど9:12の三次行き電車がやってきた。

粟屋駅 須田剋太『粟屋駅』
向こうが三次駅 須田剋太『粟屋駅』。
手前が三次駅。

* 三次市街方向に戻る。まだ市街地に入らずに、江の川の左岸の岩脇古墳に向かう。

■ 岩脇古墳

地図上で見当をつけたところに着いても古墳が見つからない。国民宿舎の駐車場に入ると、作業服を着た人がふたり、斜面の階段に腰かけて話している。古墳のことを尋ねると、ここだそうだと階段の上を示された。

草におおわれた小山が古墳公園として整備されていた。
須田剋太が描いた絵では、広々としたけしきのなかの小高い丘のよう。
実際は、建物や木立が迫っているなかの小公園だった。

岩脇古墳 須田剋太『三次岩脇古墳』
須田剋太『三次岩脇古墳』

 登るにつれて足もとに三次の町並がひらけてきて、墳丘の上に立つと、一望に見はるかすことができた。春は野遊びにくることができるのではないか。なににしても古墳一基を核にして芝生と樹木を按配(あんばい)しつつこのように小公園をつくるというのは、三次市の能力のすぐれたところかもしれない。

今はその樹木が大きく育ってしまって、木々がつくる暗がりのなかに埋もれている。
すぐ下にある国民宿舎は廃業して廃墟になっている。
まだ霧がただよっているし、ここでは残念ながらはればれした気分になれなかった。

須田剋太は石が並ぶ絵も描いている。円形古墳の頂きがへこんでいて、その窪地の底に石組みがある。周囲を回り、方向を変えて見比べてみたが、実景と絵とがすっきりあわない。

岩脇古墳の石室 須田剋太『岩脇古墳』
須田剋太『岩脇古墳』

■ 合流点ウォッチング:江の川と馬洗川

古墳公園から歩いて坂を下って、江の川(ごうのかわ)と馬洗川(ばせんがわ)の合流点にでた。
江の川が右から左に流れているところに、向こうから馬洗川が流れこんでいる。
江の川と馬洗川の合流点

馬洗川を越える橋を電車が走っていく。粟屋駅の時刻表では、反対方向に向かう電車は10:06のがあったからそれだろう。午前中2本あるうちの2本目。
電車の運行は少ないのに、たまたまよく目にする。
電車の鉄橋の向こうでは、馬洗川に西城川が合流している。市街地の近くで3つの川が集まっている。山に囲まれて霧がたまりやすいのに、川が集中していていっそう濃くなる。

江の川上流部にことぶき橋、下流に祝橋。
馬洗川に巴橋。
西城川に旭橋がかかっている。

* 車に戻り、祝橋を渡ったところで左折して、江の川の土手のきわに駐車する。

● 環翠楼
(広島県三次市三次町1880)

司馬遼太郎一行が泊まった宿「環翠楼」は土手からすぐにあった。
もと環翠楼

宿はその土堤の下にあり、そこへは土堤の上から、宿の屋根を見おろしつつ降りてゆかねばならない。川が決潰した場合、まっさきに流されねばならない位置だが、堤防への信頼がよほどつよいのだろう。宿の名は「環翠楼」という。「環水楼」というほうがふさわしい。

一行は電話で予告した時間より早く着いた。宿ではまだ夕方の客を迎えるための準備をしているころだった。

「女将さんはいらっしゃいますか」
 とHさんがきくと、女将さんは上(かみ)へ行っております、という。上とは、京・大阪のことである。
 あとで他の人にきくと、もうすぐ江の川の鵜飼(うかい)の季節が始まるので宿がいそがしくなる、その前に姑さんと一緒に芝居見物に行ったという。きいているうちに季節と人事が品よく織りまざって、俳人なら一句できそうなふんいきであった。

この宿は内田康夫の『後鳥羽伝説殺人事件』にも登場している。警察庁刑事局長を兄にもつルポライター浅見光彦が探偵としてデビューした記念すべき第1作で、妹が三次で死んだことから三次を訪れるることになる。
妹と同行した友人が、その後ひとりでまた三次を訪れて泊まったのが「環翠楼」だった。その妹の友人が殺され、足どりをおって地元の刑事が宿にききこみにくる。

尾関山公園の畔(ほと)りに建つ旅館で、皇族が泊まられたほどのところだから格式も高いに違いない。しかし、その割に主人もお内儀(かみ)も気さくな好人物で、刑事の来訪にもいやな顔を見せなかった。
「ほんま、お気の毒なことでしたの」
 夫婦はまず哀悼(あいとう)の意を表した。
(『後鳥羽伝説殺人事件』内田康夫 角川春樹事務所 1996 )

内田康夫の小説の文中では「環水楼」にかえている。前述の司馬遼太郎の感想に符号しているのがおかしい。内田康夫が『街道をゆく』を読んでいてそうしたのかどうかはわからないが、『街道をゆく』「芸備の道」が1979年、『後鳥羽伝説殺人事件』の最初の版が1982年だから、可能性がなくはない。
内田康夫の文章はフィクションではあるが、小説家になる前には広告会社に勤めていて、依頼主の会社のひとつが三次にあった。しばしば三次を訪れ、その会社の紹介で「環翠楼」に泊まることがあった。旅館の人への親しみが感じられる文章は実体験によるだろう。

そんな優雅さ、明るさにいかにもふさわしそうな和風建築が土手のすぐ下にあった。屋根と棟の折り重なりが美しい。
ところが近づいてみると「デイサービスセンターさくら」とある。
中に入って尋ねると、旅館から今の施設にかわってもう十数年経つという。
建物はほぼそのままをいかして使われている。入口を入った実景と絵とがすぐ先に、新しく建てたデイサービス施設ではとても望めないようなみごとな中庭がある。
なかに上がらせてもらって庭の全景を眺めた。浩宮が泊まったことを記した記念碑が立っている。
宿がなくなったことは惜しいが、デイサービスの利用者にしてみれば幸運といえるかもしれない。
司馬遼太郎と内田康夫の文章に記された明るい印象の人たちがいられるときに僕も泊まってみたかった。

■ 尾関山

司馬遼太郎一行は、宿に荷物を置き、散策にでて、ひとまず土手に上がっている。

「どうしましょう」
須田画伯にきいてみた。
「私(わっち)はどちらでも」
 と、右掌をひろげ、押すようなしぐさをし、あなたが考えればいい、という意味のことを表現した。
「それでは、すこし川でも見ていましょう」
 というと、画伯はうなずき、川下にむかってスケッチをはじめた。画伯の視線のむこうに尾関山がある。

このとき描いたのが『三次風景』と題した絵だろう。

江の川の土手から尾関山の眺め 須田剋太『三次風景』
須田剋太『三次風景』

右に尾関山の樹林がある。
画面ほぼ中央にある横線は三江線の鉄橋。
左には、岩脇古墳からつづく対岸が描かれている。

土手上の道は尾関山のすそを回る遊歩道につづいていく。
江戸時代の作といわれるキリシタン灯籠を過ぎて、鉄道の橋の直下にでる。
線路は川を渡ってくると(写真左上)、遊歩道のすぐ先で尾関山を貫くトンネルに向かっている(写真左下)。
川と鉄道橋とトンネルを対岸から眺めた風景を須田剋太が描いている。
尾関山のトンネル側から眺めると、対岸は木々が粗くはえた崖になっている。
あんな崖に絵を描ける場所があるのだろうかと不思議な気がする。
対岸の岩脇古墳を見てから川のこちらに渡ってきたので、もう一度確かめに戻るのはあきらめる。

尾関山から鉄道橋 須田剋太『三次風景』

須田剋太『三次風景』
尾関山トンネル

* 尾関山の北側に回ると尾関山公園用の広い駐車場がある。
鳳源寺がすぐ近くにある。


■ 鳳源寺
広島県三次市三次町1057  tel. 0824-62-3680

駐車場から寺に入るとしだれ桜があり、「赤穂義士大石良雄手植の枝垂桜」とある。そんな史実はなかったようだと司馬遼太郎が週刊朝日に書いてから30年以上たち、その後も単行本や文庫本で版をかさねているが、いまだにそう記した板が立っている。
昭和初年に商工会議所の人が、三次にはめだった観光資源がないから、たまたま鳳源寺にあるしだれ桜を「大石良雄手植」にしたてあげたらしい。
司馬遼太郎はいっそそうしたいきさつも記しておくのがいいと書いている。そのころすでに観光資源の開発という思想があったことがわかる。

さらに当時は、史実よりも伝承のほうが重んじられたということもわかっていい。『古事記』『日本書紀』に書かれた"神代"の伝承が、そのまま「国史」として小、中学校で教えられていた時代なのである。

鳳源寺・大石良雄手植の枝垂桜 須田剋太『赤穂義士大石良雄手植の枝垂桜』
須田剋太
『赤穂義士大石良雄手植の枝垂桜』

本堂の裏手にある庭に、木戸が開いているので入ってみる。

庭の樹木はわずかに荒れている。職人の手が入りすぎて床屋帰りのような庭より、この程度に荒れた庭の中に居るほうが、古い城下町のふんいきに適(あ)っている。

今もこのとおりの印象だった。
司馬遼太郎が訪れたとき、池には睡蓮が7,8個の花をつけ、橋の下には河骨(こうほね)が葉を沈ませつつ黄色い花をつけていたという

鳳源寺 須田剋太『鳳源寺』
須田剋太『鳳源寺』

『街道をゆく』「芸備の道」は、そうした庭の描写のあと、こう結ばれる。

「三次は、どこというところなしに、いい処ですね。こう、この盆地ぜんたいかもしれません」
 と、橋の上で須田画伯がつぶやいた

* 『街道をゆく』「芸備の道」は、須田剋太のそういう言葉を結びにして三次で旅を終えるのだが、僕の旅はまだ半ば。
馬洗川を赤く塗られた巴橋で越え、川に沿ってある図書館に寄った。


■ 三次市立図書館
広島県三次市十日市東3-14-1 tel.0824-62-2639

病院が移転したあとの跡地に、福祉保健センターと図書館が建った。四角い福祉保健センターに、三日月形の図書館がくいこむような形に作られている。
三次市立図書館

もとの図書館は環翠楼の近くにあった。
『後鳥羽伝説殺人事件』では、環翠楼(内田康夫の文中では「環水楼」)で、あとで殺されることになる女が本を探していて図書館に行ったということをきき、刑事たちは図書館に向かっている。「環水楼」から「つい目と鼻の先」とある。
この頃の図書館は三次市歴史民俗資料館と同居していた。もともとは1927年に三次銀行本店として建った建築で、図書館が現在地に移転してからは全館が歴史民俗資料館になっている。

* 三次市街を南に出る。
中国道の三次i.c.の先に美術館がある。
今日はずっと曇ったままなのかと思いはじめていたが、昼前ころになってようやく霧が消えて、青空と太陽が見えてきた。


■ 奥田元宋・小由女美術館
広島県三次市東酒屋町453-6 tel. 0824-65-0010

日本画家・奥田玄宗(げんそう)と、妻で人形作家・小由女(さゆめ)の美術館。
元宗は初期の絵がいきいきしている。大成してからは、身につけた表現方法をくりかえしているふうで、さらっと眺めすぎた。

美術館は、小さな庭を作り、木を1本植え、それを囲むようにエントランスと展示室が配置されている。いい感じだが、ところどころ造形意識が強すぎる気がする。
特別展として「ウォルト·ディズニー展」を開催中だった。
奥田元宋・小由女美術館

* 184号線を東へ走る。

■ 三良坂平和美術館
広島県三次市三良坂町三良坂2825 tel. 0824-44-3214
http://mirasakaheiwa.web.fc2.com/

三良坂平和美術館
美術館がうまれた契機がユニークで、1986年(2004年に三次市に合併するより前)に行なった非核平和自治体宣言を記念して1991年に開館したという。

柿手春三常設館は、この地の出身の洋画家、柿手春三の作品や、柿手春三が東京池袋モンパルナスで制作中に交友のあった鶴岡政男、長谷川利行、古沢岩美、福沢一郎などの作品を展示している。
企画特別展示館では、「アクティブ・イン・ミラサカ2013 Part 1」という県内の若手作家5人によるグループ展を開催中だった。

■ 灰塚ダム
広島県三次市三良坂町仁賀

三良坂の集落からそれて山中に向かうと灰塚ダムがある。
ここでPHスタジオというアーティスト・グループが、「船をつくる話」という大がかりなプロジェクトをおこなったことがある(1994-2005)。ダムが完成する前に、完成すると水没する位置に船を造っておく。水が湛えられると船が浮かびあがるので、上流に移動する。
いくつかの段階でイベントがおこなわれたのだったと思うが、その告知のチラシなどを見てそそられはしたが、とても遠くて来られなかった。
記録映画『船、山にのぼる』(2007)だけは見たが、『街道をゆく』をたどる機会にようやく実際に来られた。

左岸に駐車場があり、車を置いてダムを渡る。
上流側には大量の水があり、ハイヅカ湖と名づけられている。
下流側は公園になっている。

灰塚ダム・下流部 灰塚ダム・上流部(ハイヅカ湖)

そこに作業服の人たちがいる。リモコンでクモのような形をしたドローンを飛ばしている。クモは上昇し、ダムのすきまをくぐって上流側まで飛ぶ。下からは見えない向こう側まで、クモにとりつけたレンズをとおして見ているようだ。
エレベーターで下る。作業服の人たちがいるあたりは芝生の公園になっている。

灰塚ダムは江の川に流れこむ上下川(じょうげがわ)にある。
その先にある三次市は、盆地にあって3つの川が流れこんでいるので、しばしばひどい水害に見舞われた。そこでダムの建設が計画されたが、水没予定地域では激しい反対運動が起きた。
解決の鍵になったのは、集落ごとにそっくり移転する代替住宅地が用意されたことで、のぞみが丘、ひまわり、田総の里の3箇所に住宅団地ができ、最大の代替地であるのぞみが丘には小学校や寺社も移転した。
全事業が完了したのは2006年で、計画発表から41年かかった。
ダムをめぐるアート事業や、周辺の観光施設の整備も、ダム建設の補償の一部だったろう。(ハイヅカ湖を見おろす位置に、トム・ヘネガン,安藤和弘,梶直樹の設計による「灰塚湖畔の森コテージ」がある。)

■ 三良坂民俗資料館
広島県三次市三良坂町灰塚8-2 tel. 0824-44-2237

三良坂・のぞみが丘団地 最大の住宅団地、のぞみが丘に行く。
「団地」という言葉から、集合住宅ではないにしても、きまった規格の家が狭い区画にずらりと並んでいる様子を思い浮かべていた。着いてみれば、かなりの広さの庭とりっぱな塀や石垣をそなえた家が余裕をもって並んで、屋敷町といったようすだった。

三良坂民俗資料館 そのなかに民俗資料を集めた資料館がある。
JAの帽子をかぶった男性がいて、案内・留守番役を請け負っているらしい。開館日は週2日だけで、僕が行った木曜日はたまたま開館日だった。
収蔵庫をそのまま展示にしているような簡素な構造が、あれこれ見せるための細工がないだけすっきりしている。

■ 無縁墓地

住宅団地がある平坦地のはずれ、森を背にして、のぞみが丘霊園がある。
いちばん奥に、ダムによる水没地に散在していた無縁仏を納める無縁墓地。

三良坂・のぞみが丘霊園のなかの無縁墓地 川の自然石を敷きつめ、たくさんのステンレスのポールが立っている。いちばん奥にタラヨウの大木があり、その前に納骨スペースを設けている。
特定の宗教を表現しないようにして慰霊の空間をつくっている。
1998年に吉松秀樹氏のプランで作られ、いくつか建築関係の賞を受けている。

* 冬の陽はもう傾きかけている。南に、海へ向かう。途中、世羅から尾道道という自動車専用道路に入る。
すっかり暗くなって尾道市街に入った。


● 尾道第一ホテル
広島県尾道市西御所町4-7  tel. 0848-23-4567


駅に近いホテルに泊まる。
外に夕飯にでる。
前に尾道に来たのは2007年だった。駅前の再開発が進んでいた頃だったが、もうすっかり完成していた。
尾道駅前しまなみ交流館

ウォーターフロントビルとか、しまなみ交流館とか、新しいものが建っている。夜に歩いたせいか(といっても遅い時間ではないが)人通りが少ない。新しく建った施設は、フェリー乗り場とか、観光案内施設とかの機能をこぎれいにおさめたふうで、夜にさらっと歩いたかぎりの印象だが、新鮮な魅力に乏しいように感じる。

本通り商店街という高いアーケードを歩く。まだ夕方の6時ころなのに閉まっている店が多くて、なんだか寂しい気分になる。
小さな中華の店に入って生ビールを飲みながら尾道ラーメンを食べた。
尾道本通り商店街

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第3日 今治市(伊東豊雄建築ミュージアムほか) 耕三寺博物館 福山

* 前回2007年に尾道には妻と来た。千光寺公園の展望台から、細い海を隔てて向島などの島々を眺めた。しまなみ街道が海を越えて延びているのを見て、先まで行きたい気分をそそられた。
その後、2011年9月には、福山から出発してしまなみ街道を走り、広島で友人たちと会う計画を立てた。ところが大型台風がきて、島に渡ってしまっては戻れなくなりそうなので内陸側を行くことにして、島を諦めたことがある。
今日はようやくしまなみ街道に乗った。
向島、因島、生口島までは広島県尾道市で、その先は四国に入り、最初の目的地の大三島に降りた。
大三島のインターチェンジは島の東端にあり、出て西の端に向かった。


■ 今治市伊東豊雄建築ミュージアム
愛媛県今治市大三島町浦戸2418 tel. 0897-74-7220
http://www.tima-imabari.jp/

海をみおろす高台にシルバーハットとスティールハットが建っている。


シルバーハットは伊東豊雄自邸の再現で、薄い材で囲われた逆U字の棟が連続している。自邸は車が入れない土地だったので、屋根にする菱形のユニットを人手で運んで組んだという。その細部がどのようなものか、間近に見える。
シルバーハット


入口から遠い棟の2階に、さまざまなデザインの椅子を並べた部屋がある。そこに座ると、海がひろがり、眼下の島の斜面には濃い緑の葉のなかに黄色いみかんが点々とまじっている。とても気分がよくて、ひとりぼっちでずっと眺めていたくなる。
シルバーハット内部


スティールハットは、六角形の部屋が連続していて、これまでの伊東豊雄建築の模型が置かれている。
壁や天井には、建築や創造をめぐる言葉が記されている。
スティールハット

建築は水の流れに生じる渦のようなものである 伊東豊雄

建築の価値は、そこに集まる人々が過ごす時間に比例する 高塚順旭

人類の最初のねぐらであった洞窟はもしかしたら、人類の最後の避難所となるかもしれない バーナード・ルドフスキー

福島の事故のあとでは、ルドフスキーのことばがリアルに感じられてくる。

現実の世界とは別の世界を探すプロセスは、そのまま精神の冒険であり、心を揺さぶる何かへと向かう想像力の旅へとつながっていきます
それは実際に世界を歩き回るよりもはるかに難しく、重要なことであると僕は考える 石川直樹

石川直樹は、北極から南極までアメリカ大陸を縦断し、高山に登り、南太平洋で船にのり、気球で太平洋横断を企て、幾度か死の危険に近づく行動をしてきた。そんな人が、精神の冒険はさらに難しいということに圧倒される。

■ 岩田健母と子のミュージアム
愛媛県今治市大三島町宗方5208-2 tel. 0897-83-0383
http://museum.city.imabari.ehime.jp/iwata/

島の西端をぐるっと回りこむと彫刻のミュージアムがある。
埼玉県川口市に住む岩田健(いわたけん 1924-)さんが、「母と子」をテーマにしてつくった彫刻を展示している。
場所はもと宗方小学校があったところで、背の低い木造校舎が残る、その校庭にある。


ミュージアムといっても、白い円形の塀で囲われたなかに、彫刻が屋根のない屋外に置かれている。
緑の芝生に白い塀に青い空。のびやかで心地よい。
設計は建築ミュージアムと同じ伊東豊雄さん。
岩田健母と子のミュージアム

岩田健さんとは、だいぶ前にご縁があった。
僕が埼玉県立近代美術館に在職していたころ、アーティスト・イン・レジデンスを数年実施したことがある。レジデンスを置く市と共同して実行委員会を組織して、アーティストの世話したり展覧会を実施したりした。
川口市で実施したとき、岩田さんが市の実行委員のひとりとして加わっていられた。
あまり岩田さん自身のことをおききしたことがなくて、ここに来て、兄を戦争で亡くされていることを知った。
岩田さんが20代、兄の戦死の知らせをうけて書いた詩が壁にしるされていた。
兄を失った心情にくわえて、当時の美術的関心もうかがわれる。

   林中挽歌
               岩田健
ええもう帰って来ないのです
兄は帰って来ないのです
   こんなにも晴れた秋の日に
   兄の戦死の報を受け取るのは
   寧ろ私には望ましかった
透明な秋の午前十時
ガムボージの勝った緑陰の
数を増した光の斑の中に
兄を五次元の世界より連れ戻し
コレスポンデンスの会話を交換しつつ
私は青く透き徹って行こう
   サクラサク峠のドヴォルザーク
   兄さんは柿の色が見たかったでしょう
   ローライ・レフのファインダーの中に
   もう一度日本の秋が見たかったでしょう
(以下略)

ガンボージ:タイ・ビルマなど東南アジア原産の常緑樹。その木から採取した樹脂を原料とする黄色顔料。別名ではレモンイエロー、梔子色など。

母と子の彫刻の制作に向かうときにそうした記憶がこめられているということをさらりと示している。 岩田健

■ ところミュージアム大三島
愛媛県今治市大三島町浦戸2362-3
http://museum.city.imabari.ehime.jp/tokoro/

海を見おろす斜面にある。
階段状に下っていく展示室に、現代アーティストの立体作品が置かれている。
道路から入る上部も、海を見おろす下部も、壁がなくてひらいたまま、脇に並行している階段との出入り口も扉で閉じていないので、風がぬけ、視線が外に抜け、開放的で気分がいい。
ところミュージアム大三島

* ここで次にどちらに向かうか迷う。
ここから尾道方向へ戻るか。
さらに南に向かって、大島にある隈研吾氏の設計による亀老山展望台を見に行くか。
大島へは、もうひとつ伯方島(はかたじま)を経ていくことになり、四国本土がもうすぐ目の前になる。
しばらく迷ったあと、行くことにした。


■ 亀老山展望公園
愛媛県今治市吉海町名 tel. 0897-84-2111

ふつう展望台は見晴らしのいい地形のてっぺんに突きだしているのに、ここではてっぺんから埋まっている。
隈研吾氏が亀老山の山頂に展望台を設計することを依頼されたとき、すでに山頂部は削って水平に整地されていた。そこに建築を置けば、「見る」はずの展望台が「見られる」ものになって目立ってしまう。
そこで山頂部を復元して、展望施設はそのなかに埋もれるように作られた。

駐車場から歩いて近づくと、いったん展望施設の底に入る。そこから左右に上がる階段があり、左に上がるとしまなみ海道がわ、右に上がると来島海峡大橋を経て四国の今治がわをのぞむ。
左右の展望台を通路がむすんでいる。
突き出さずにへこんでいるということのほかに、一点から四方を見渡すのではなく散策しながら景色を眺めていくということでも、展望台の常識を崩している。

亀老山展望公園 12月にしてはあたたかく、のどかな気分になって散策路を往ったりきたり。
残念なのは、春のように海がかすんでいて、橋も四国ももうろうとしている。

* ここから尾道方向に戻る。
しまなみ海道にのり、伯方島、大三島を経て、広島県に戻って生口島(いくちじま)のインターチェンジで降りる。


■ 平山郁夫美術館
広島県尾道市瀬戸田町沢200-2 tel. 0845-27-3800
http://www.hirayama-museum.or.jp/

建築も内部の雰囲気も、いかにも日本画の巨匠にふさわしく、和風で格調高い。
幼年期~若い頃、瀬戸内を描いた作品、シルクロードと、3部構成になっている。
平山郁夫の制作・活動を支えた夫人にも目配りした紹介がされている。
平山郁夫美術館

亀老山から来島海峡大橋を描いた大作も展示されていた。
ミュージアム・ショップでは、複製画でも100万とかの値がついていた。

■ 耕三寺(こうさんじ)博物館
広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田553-2 tel. 0845-27-0800
http://www.kousanji.or.jp/

ここは途方もないところだった。
初代住職が1936年に発願(ほつがん)して建立を始め、以後30年にわたって建て増しつづけてきた建築群が、広い境内に散在している。
初代住職というのはもとは技術者で、大口径の鋼管製造に成功して材をなした。
母の孝養のために建てた潮声閣が主目的で、材もゼンスも技術も一流。
母の孝養のための家ということでは、僕が住む埼玉県にも遠山記念館がある。やはり母のために心をこめ、贅を尽くして建てている。今井兼次の設計による美術館も併設して公開されていて、とてもみごたえがある。
とはいえ、規模において耕三寺の大きさは並はずれていて、歩いてまわりながら「こんなにも!」とか「こんなことまで!」とか「ここまでやるか!」とか、しばしば感嘆詞が心に浮かんだ。

耕三寺博物館

耕三寺の特徴は、古建築の写しを加えているところにある。五重塔は室生寺、孝養門は日光東照宮、本堂は平等院鳳凰堂など。
写しといっても、忠実な再現ではなく、自在なアレンジを加えている。写しといい、アレンジといっても、安っぽくキッチュになっていない。全体が均整をとって構成されていて、細部のつくりまで確かな技で仕上げてある。

奥まった位置には「未来心の丘」があり、彫刻家・杭谷一東による大理石の庭園になっている。大理石の彫刻が置かれているというようなものではなく、丘全体を大理石で作ってしまったといってもいいほどの大量の大理石を積み上げている。
あいにく僕が行った日は、ぼんやりの空に、ぼんやりの海だったが、くっきり青い空、青い海のときならもっと映えてすてきだったろう。
耕三寺博物館「未来心の丘」

つくりものばかりでなくて、重要文化財があり、博物館登録もしている。
観光と宗教、つくりものとほんものが溶けあって、ときめきながら歩きまわった。

* 風が強い。一部で50キロ規制のしまなみ海道を走って尾道に戻った。
広島空港で借りたレンタカーを返すのに、尾道には営業所がない。通りすぎて福山まで走って返した。


■ しぶや美術館
広島県福山市本町8-27 tel. 084-925-2113
http://shibuya-museum.sakura.ne.jp/

しぶや美術館
しぶや美術館は、福山駅前にホテルを経営する澁谷昇が、日本家屋にコレクションを展示して1993年に開館した。
尾道に住み続けて今も慕うひとが多い画家、小林和作の作品をたくさんもつ。

ニッサンレンタカー福山営業所は美術館に近い。17時に閉館なら入館はその30分前までかと、レンタカーを返したあと急ぎ足で向かった。
ところが僕が行ったのは金曜日で、金曜のみ14時に閉館だった。
休館日も開館時間も調べていったのに、金曜の例外は見落としていた。
落胆する様子をみかねて親切に特別に入れてもらえそうだったが、小林和作は今展示されていないというので、遠慮した。

* 駅のすぐ近くに予約したホテルに向かう。
福山城跡を抜けていくが、城から降りるとすぐ駅で、こんな駅に近い城は初めて。
ホテルのスタイリッシュな写真にひかれて予約したのだが、おしゃれなのはロビーだけだった。
部屋の窓からは隣のビルの壁。設備もいたみかけている。


■ 福山市中央図書館
広島県福山市霞町1-10-1 tel. 084-932-7222

2008年に開館したこの図書館には、2011年に福山を通りかかったときに寄ったことがある(下の写真右)。すっきりしていい感じだった。そのときは昼間だったが、夜はどんなふうか見てみようと、駅から10分ほど歩いて行った。
広くて平らでほとんど何もない芝生だけの公園の向こう端に図書館がある。
壁がすっかりガラスなので、光る箱のようで、かっこいい。

前面に人口の四角い池がある。公園からいくらか隔てるような、つながっているような、微妙な間隔をおいている。
1階の床と池が同じレベルなので、池のこちらから見ると、水中から立ちあがっているかのよう。
中で机にむかって読書する人、歩いている人が見える。そんな姿も含めて館内が水に反射して、あざやかな夜景だった。

福山市中央図書館・夜景 福山市中央図書館・昼景

駅方向に商店街を戻る。
街並みに厚みがあるし、人通りも多い。
尾道はいくつもの映画の舞台になって、とくに縁があるわけでもない僕などにもなじみがある。隣の福山には、格別な印象はなくて、地味な地方都市くらいに思っていたのだが、都市としては尾道よりよほど大きいことを駅に戻る道で実感した。

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第4日 福山市(ふくやま美術館ほか) 尾道市立美術館 広島空港

* 旅の最終日は、尾道市立美術館での須田剋太展がいちばんの目的で、そもそもこの時期に広島に来たのは、その展覧会の記念講演が今日あるのにあわせた。
朝、福山のホテルを出たあと、尾道に直行しようかと悩むが、尾道は前にも歩いたことがある。午前中は福山駅近くにミュージアムが集中しているあたりを見てまわることにした。


■ ふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)
広島県福山市西町2-4-1 tel. 084-931-2513
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/rekishih/

川底に埋もれた中世の町、草戸千軒町遺跡を中心にした博物館で、30年以上にわたる発掘調査の成果を公開するため1989年に開館した。
草戸千軒町遺跡は、鎌倉時代から室町時代にかけて繁栄した町の跡。
当時は芦田川が奥深くまで入っていて、遺跡付近が河口だった。(地形の変遷図によれば、今の福山駅あたりも、かつては海か、河口の中州だった。)
草戸千軒は年貢米を運び出す港だったと考えられている。その後河口が南下し、港の機能を失って忘れ去られていた。

展示室の中央に、1/60で町並みをつくり、実物大の復元住居が配されている。水の流れに面したくらしののどかな様子が思い浮かんでくる。
中世の街の遺構がここほど大規模に残っているのはほかに例がないという。
広島県立歴史博物館・草戸千軒町遺跡復元模型

県立の歴史博物館が県庁所在地でない都市にあるのは珍しい。受付できくと、草戸千軒遺跡があるから福山に設置されたという。ほかに広島県立歴史民俗資料館が三次市にある(寄らずにきてしまった)。あと広島市につくる構想があったというが、財政事情でか、3館目は実現していない。

■ ふくやま美術館
広島県福山市西町2-4-3 tel. 084-932-2345
http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/fukuyama-museum/

常設展示になぜかはまった。
展示室に入るとすぐ、
・靉嘔(あい・おう)の虹色の椅子があり、ここでおっ!と思ったら、あと作品ごとに反応しまくった。
・岸田劉生の小品が数点ならぶ
・南薫三の大きな風景画
・セガンティーニ『婦人像』
黒い服を着た女性で、ネックレスと腕輪と指輪が白く輝いている。
黒い服は、ただ黒く塗っているふうで、それが画面のかなりを占めるのに、それでいてとても存在感がある。
・サンドロ・キア『少女』
セーラー服ふうワンピースを着た大柄な少女。太ももが(画面上で)50cmはありそう。
顔は小さい。両手を踊るように上げていて、指が可愛らしく交差している。
裾が短いので、丸い尻がちょっとのぞいている。
・ひとつおいて隣にフォンタナ
・北大路魯山人の武蔵野鉢
ひととおり見終えてロビーに降りてくると、壁に
・圓鍔勝三のレリーフがある。ミューズが花を撒いている。
たっぷりといいものを見たという満足感がある。1点ごとには格別珍しいものではないのに、ここでなぜこれほどはまったのか不思議な気がする。

エミリオ・グレコ『水浴の女』 屋外にエミリオ・グレコ『水浴の女』がある。かつて僕が通っていた埼玉県立近代美術館にも同じ彫刻があり、懐かしい気分になる。

■ ふくやま文学館
広島県福山市丸之内1-9-9 tel. 084-932-7010
http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/bungakukan/

福山出身の文学者としては、大・井伏鱒二(1898-1993)がいて、ほとんど井伏鱒二記念館のよう。

井伏鱒二「厄除け詩集」 「わしが故郷は はるかに遠い
帰りたいのは かぎりもないぞ
故郷渺何処帰思方悠哉
         井伏鱒二」

漢詩を自在な日本文に訳したこんな自筆の額に迎えられる。
「人生足別離」は「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」になる。
井伏鱒二にはそんな軽妙な印象もあるけれど、もちろんそれだけではない。
開高健が「出版記念会か何かの席で」初めて井伏鱒二をみかけたときの印象を記した文章があって、井伏鱒二というと僕はその文章を思い出す。

氏がとても勇ましい、力んだような歩きかたをするところは少しユーモラスに見えたが、眼光の鋭さにはおどろかされた。これは不意うちだった。非常に鮮明に眼に灼きついた。私は子供のときから愛読してきた氏の作風や写真などから氏がそういう種類の眼をしている人、またはそういう種類の眼をすることのある人などとは思いもよらなかったのである。ああした作品がこういう眼から書かれていたのだと知らされた。(『"思い屈した"井伏鱒二』開高健)

文学館では、井伏鱒二の生涯を見わたす展示がされているが、そのなかに長野県富士見町高森の別荘の写真が2枚あった。1枚は外観の写真、もう1枚は室内で、ろくろを備えて絵付けを楽しんでいる。
この別荘は、川端康成の軽井沢の別荘なども設計した建築家、広瀬三郎が、気に入った民家を移築して建てたもので、大きな屋根が目をひく。
井伏鱒二が1993年に亡くなったよりあとの2007年に、僕はその別荘まで行ったことがある。同じ富士見町に住む武藤盈(むとうみつる 1914-2012)さんを訪れたときに案内された。
武藤盈さんは、本業は農業だが、井戸尻遺跡の発掘に関わり、写真家でもあり、中川一政や清水武甲など文化人との交流も多かった。90歳を越えてから歌集『夕映へ』、句集『野火』を刊行された。僕は勝手に「スーパー農民」と名づけていた。
武藤さんが93歳のころだったが、自分が軽トラックを運転して連れていこうかといわれる。ふだん野良仕事にはその軽トラックででかけていて慣れたものらしいが、さすがに申し訳ないので僕が自分の車を運転していった。
そのとき、井伏鱒二の、亡くなったあと使われていないらしい別荘や、閉館したままになっている栗本和夫の図書館を案内していただいた。なんとかいかす手立てはないものかと案じていらしたが、今はどうなっていることか。

[今日は遠くの図書館]分水の森、小川の匂い、富士見で暮らす

晩年の井伏鱒二は富士見の別荘に滞在中、ときおり武藤さんに電話してきて呼び出し、富士見駅前の居酒屋で呑んでいたという。
武藤さんの歌集『夕映へ』には、井伏鱒二をうたったものがおさめられている。

杖を曳く井伏鱒二に誘はれて村のモツ煮を食べに行きにき
文豪鱒二の遂の住処となりにしか閉せる荘に木花散り敷く

武藤さんと話すときの井伏鱒二はどんな目をしていたろうか。
次にお会いするときには井伏鱒二のことをもっときいてみたいと思っているうちに亡くなられてしまった。98歳だった。あの勢いでは100歳まで十分に生きられると思っていたのだが、間に合わなかった。

* 福山から尾道まで、こちらに来て初めて電車に乗った。
尾道市立美術館へのアクセスとしては、バスと千光寺山ロープウェイを乗り継ぐように、美術館のチラシやホームページで示してある。地図でみるとそれは三角形の2辺を遠回りしているが、駅付近から短い1辺を歩いていく道がありそう。
駅前の観光案内所でたずねると「道はあるけれど、坂がきつい。30分くらいかかるでしょう」という。

でも坂を上がった。
たしかに急坂ではあった。

小学校の脇を抜けると城がある。歴史的にはここに城があったわけではなく、1960年代に観光施設として建てられたまがいもの。
1990年代に閉鎖され、今は廃墟になっている。
千光寺山の先端にあり、尾道駅あたりからもとても目立つ。文学作品や映画の舞台で知られる尾道にしては、おかしな存在になっている。
尾道駅付近から尾道城を見あげる

城のすぐ先にホテルがあって、そのなかにタイ料理のレストランがある。思いがけないものがあって飽きない道だ。
坂は急だが、短く、上がりきってしまえばあとは楽な尾根道で、美術館あたりまで20分ほどで着いてしまった。

千光寺山の展望台に上がる。妻と来ていらい6年ぶりになる。
狭い海をはさんで対岸に向島が広がる独特の風景。
日射しが暖かい。
千光寺山からの展望

■ 尾道市立美術館
広島県尾道市西土堂町17-19 tel.0848-23-2281
http://www7.city.onomichi.hiroshima.jp/

『須田剋太展 北海道・新星館コレクション』の初日。
東大阪市に喫茶美術館がある。司馬遼太郎の住まいに近い。
司馬遼太郎がその経営者・大島墉(よう)さんの人柄を気に入り、須田剋太に紹介したところ、須田剋太も自分の作品はこういう店で見てもらいたいと、数多くの作品をプレゼントした。
その作品は、一部は喫茶美術館で、一部は北海道・美瑛町にある新星館で展示されている。
 → 喫茶美術館
 → 向日葵忌(2012)絶景の美瑛と謎の国後島

新星館は、いかにも北海道らしい、展望のひらけた美しい風景のなかにあるが、冬は寒いので休館する。その期間を利用して、新星館の作品が尾道で公開されることになった。

尾道市立美術館も千光寺山の尾根筋のすばらしいロケーションにある。作品に影響しないところには外からの光がたっぷり入って明るく、眺めがいい。 尾道市立美術館

展示室に入ると、新星館のレイアウトにならって配置したと、注意書きがある。
担当された宇根元了学芸員によれば、できるだけ新星館の雰囲気を再現したいし、新春にかかる展覧会でもあるから、あたたかい作品を選んだといわれる。
そのとおりにとてもいい感じで見てまわった。

開会初日に喫茶美術館の代表で詩人でもある丁章(チョンヂャン)さんの講演があった。
会場は2階のロビーで、全面ガラスの向こうには瀬戸内海と向島の大展望がひらけている。
父・大島墉と司馬遼太郎の出会いと須田剋太の支援という喫茶美術館の経緯が語られる。
喫茶美術館代表・詩人丁章(チョンヂャン)さんの講演

父は理想家で、大阪よりもっと美しい場所に美術館を建てて須田剋太作品を展示しようと考えた。理想を抱いたら走ってしまう人で、日本全国、美術館にふさわしい土地を探しまわる。建物にもこだわり、新潟から古い民家を移築した。
とうぜんそうしたことには多額の資金が必要で、家族は反対したが、実現させた。
理想に走る父、現実的判断でとめようとする子。子はつよく反対し、困らせられながらも、理想にひた走り実現してしまう父に、一方では敬意をもっている。そうした家族の物語としてもききごたえのある話だった。
父は美瑛の風景で暮らすうち、絵ごころが起きて、絵を描きはじめた。
美瑛の新星館ではロビーなどにその絵も展示されていて、僕は2012年の初夏に訪れたとき、1点買った。

終了後に、丁章さん、須田展を担当した学芸員・宇根元了さんと短時間の立ち話。宇根元さんが
「冬はここでも観客が減るということもあって、花の絵など、あたたかい作品選んだ。私は抽象が好きだが。」
といわれる。関東から来ればこんな穏やかな瀬戸内で、と意外な気がした。
美術館の外に出ると日がかげっている。昼間はずいぶん歩いている人がいたのに、すっかり人の気配がなくなっていて、なるほどそうかと思った。

夕暮れの尾道駅前 復路は尾根道でなく、山の傾斜面に家が建てこんでいるいかにも尾道らしい道を歩いて駅に戻った。

尾道駅からJR山陽本線にのる。

夜の白市駅 白市(しろいち)駅で降りると、駅前に商店もなく暗い。これが空港に向かうバスが出る駅なのだろうかと不安になるくらい。
バスには僕のあとから女性2人連れが加わった。途中のバス停での乗り降りはなく暗い道を走りつづけ、乗客は3人のまま広島空港に着いた。

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参考:

  • 『街道をゆく 21』「芸備のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1983
  • 『後鳥羽伝説殺人事件』内田康夫 角川春樹事務所 1996
  • 『建築と社会』1999.12月号(三次市立三次図書館 日建建設)
  • 『いま生きているという冒険』石川直樹  理論社 2006
  • 『奇想遺産 世界のふしぎ建築物語』鈴木博之 藤森照信 隈研吾 松葉一清 山盛英司/著 新潮社 2007
  • 『厄除け詩集』井伏鱒二 筑摩書房 1977
  • 『"思い屈した"井伏鱒二』開高健 「群像 日本の作家 16 井伏鱒二」小学館 1990 所収
  • 『歌集夕映へ』武藤盈 近代文芸社 2007
  • 3泊4日の行程 (2013.12/4-7)
    (→電車  =バス -レンタカー …徒歩)
    第1日 広島空港-広島市安佐北区新太田川橋付近-安芸高田市上根付近-安芸高田市歴史民俗博物館-郡山城趾・毛利元就の墓- 多治比猿掛城-安芸高田市立中央図書館-田原菓舗… 北屋呉服店…吉田町役場跡… 合流点(多治比川+江の川)…いろは家旅館
    第2日 -高林坊-三江線粟屋駅-岩脇古墳…祝橋…合流点(江の川+馬洗川)…岩脇古墳-環翠楼跡…尾関山-鳳源寺-奥田元宋・小由女美術館-三良坂平和美術館-灰塚ダム- 三良坂民俗資料館-無縁墓地-尾道第一ホテル
    第3日 -今治市伊東豊雄建築ミュージアム-岩田健母と子のミュージアム-ところミュージアム大三島-亀老山展望公園-平山郁夫美術館…耕三寺博物館-ニッサンレンタカー福山営業所…しぶや美術館…ホテルエリアワン福山…福山市立中央図書館
    第4日 …広島県立歴史博物館…ふくやま美術館…ふくやま文学館…福山駅→尾道駅…尾道市立美術館…尾道駅→白市駅=広島空港
  • 第1日・第2日について加筆訂正しました。(2016.6/29)