「芸備の道」と尾道市立美術館の須田剋太展


尾道市立美術館で須田剋太展が開催された。
それを見に行くのにあわせて、『街道をゆく』「21芸備の道」をたどって広島北部の安芸高田、三次をまわった。

第1日 広島空港から安芸高田市 [郡山城趾・毛利元就の墓 多治比猿掛城 安芸市役所 吉田町役場跡 いろは家旅館(泊)]  
第2日 三次市から尾道市 [高林坊 三江線粟屋駅 岩脇古墳 環翠楼跡 鳳源寺 尾道(泊) 
第3日 (しまなみ海道を走って福山(泊))
第4日 尾道市立美術館から広島空港 


第1日 広島空港から安芸高田市 [郡山城趾・毛利元就の墓 多治比猿掛城 安芸市役所 吉田町役場跡 いろは家旅館(泊)] 

* ボーイング777は、羽田空港から離陸すると右回りに上昇した。
ベイブリッジ、ランドマークタワーなど横浜港が見おろせる。

全日空機からの富士山
富士山上空には薄い雲がかかっっていた。雲の間から富士山が透けて見えて、水中に沈んでいるかのよう。雲の上に山頂を突きだしている姿はよく見るが、今日は珍しい眺めだった。

広島空港でレンタカーを借り、山陽道を西に向かって、広島I.C.を目ざす。
高速道路からでるあたりで、これから向かう右に見える山地は黒い雲におおわれている。もし雪なら、降りぐあいによっては旅のコースを変えなくてはならない。
太田川の西を、川に沿って北上する。広島市街の北10kmあたりで、道が西岸から東岸へ越える。その橋が新太田川橋で、『街道をゆく』の取材のとき、司馬遼太郎一行は太田川を越えたところで車を降りている。


■ 新太田川橋付近
広島市安佐北区可部

土手の脇の道に車をとめて、土手の上に上がってみる。須田剋太が描いたような水利施設がある。

新太田川橋付近 須田剋太『可部の風景』
須田剋太『可部の風景』

* 広島から松江にいたる国道54号線を東北に走って安芸高田市に入る。

■ 分水の道
広島県安芸高田市八千代町上根

『街道をゆく』には、旧・吉田町に向かう車中でのタクシーの運転手との話が書かれている。このあたりは、日本海へ流れていく川と、瀬戸内海へ流れて行く川の分水の峠だという。立ち小便をするとわずかな差で北へいくか南にいくかの分かれ目になるという「地理上の落とし咄(ばなし)」もある。
日本海にいたる簸川(ひのかわ)(やがて江の川に合流する)と、瀬戸内海に注ぐ根之谷川(やがて太田川に合流する)の分水嶺ということになる。

国道54号線は、根之谷川を越えるところにバイパスができていて、川を高架で一直線に過ぎてしまう。
その手前でバイパスをさけて旧道に入った。
バイパスが開通したのは1990年で、1979年に訪れた司馬遼太郎一行は、とうぜん旧道を通った。
旧道はいったん川にそって北向したあと、逆U字型の先端で橋を渡って折り返し、南向する。
その先で集落に入ると、地図上に「上根峠」(かみねとうげ)というバス停の表示がある地点になる。
峠といえば、ふつうは山中にある。上りきったところが峠で、そこから道が下っていく。ここではいずれの常識もくつがえして、集落のなかをほとんど平坦に見える道が突き抜けている。

広島県安芸高田市上根峠 その道の途中に「分水嶺ポスト」という案内板があった。(写真左はし、空き地に立っている)
「ポストの屋根右側に降った雨は日本海に、左側に降った雨は瀬戸内海に流れると言われていました。」とある。
かつてこの道は往来が多く、にぎわったらしいが、1915年に芸備線が開通して寂れたという。今もひっそりしている。

かわった分水地として僕が知るところでは長野県富士見町にもある。一見するとゆるやかな丘のようで、その一画が森になっているところに別荘があり、森を「分水の森」、別荘を「分水荘」といった。戦争協力詩を書いたことを悔いて、詩人・尾崎喜八が戦後の一時期、この別荘に隠棲していたことがある。

広島市街を出て太田川とその上流(根之谷川)をわずか二〇キロばかり北上しただけで、もう川が日本海に向かって流れているというのは、ただごとではない。(『街道をゆく21』「芸備の道」司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)
と司馬遼太郎はおどろき、
古代の文化圏でいうと、日本海の出雲文化圏が水流を南へさかのぼって(古代弥生式農耕文化は水流をさかのぼってゆく文化であった)広島市域北方二〇キロのところまできていたということではないか。
と思いを広げている。

僕の感覚でも、三次市に向かって、まだこれから中国山地のなかにはいりこんでいく、上がっていくという感じがある。
ところが上根峠は標高268m。
三次市は標高160mくらいで意外に低い。だから霧がたまるので有名ということにもなるようだ。
松江に向かう国道54号線は、三次より先で山中に上がっていき、最高地点では標高560mの赤名峠を越える。
江の川は三次市で国道54号線からそれて西に向かい-したがって国道のように標高の高い地域に向かうことがなく-島根県江津市で日本海に注ぐ。
地図とあれこれの数字を比べ眺めてみて、ようやくこのあたりが分水点でありうることを納得した。

* 54号線を走っていると、ときおり「早朝深夜 凍結注意」という標識があり、現在の気温が「2℃」とかある。
広島I.C.あたりで不安になった黒い雲はどこにいってしまったのか、白い雲のあいまから日も射してくる。
この調子なら、早朝深夜に走る予定はないから大丈夫そうだと思えてくる。

司馬遼太郎一行は八千代町勝田のあたりで「路傍の店に入り、休憩した。」とある。
それらしいところにはドライブインがあるが休業の貼り紙。
近くに、江の川のすぐほとりで眺めのよさそうなレストランがあるが満席。
一行がどこで休憩したかはわからない。

少し先まで行くと農産物直売所があり、3種のおはぎとミカンとお茶を買って、車のなかでランチにした。
空は晴れているが、駐車場のコンクリート舗装が雨が降ったあとまもないような濡れかたをしている。黒い雲が通り過ぎて雨をふらしていったようだ。

54号線をあと数キロ走ると安芸高田市街に入る。


■ 安芸高田市歴史民俗博物館
広島県安芸高田市吉田町吉田278-1 tel. 0826-42-0070

『毛利隆元-名将の子の生涯と死をめぐって-』という特別展を開催中だった。
隆元は元就の子で、武将には珍しい自画像を描き残している。顔だけ別に描いて体の像につぎたしている。
40代だったかで宴会の翌日に急死したが、病気か毒殺かわからないという。物語になりそう。

司馬遼太郎一行がここを訪れたのは「吉田郷土資料館」のころだった。その後2004年に高田郡吉田町は八千代町などと合併して今は安芸高田市になり、資料館も名をかえている。(建物も建て替わっている)
司馬一行は、館長の小都(おづ)勇二氏に誘われて多治比(たぢひ)城に出かけたりしているのだが、博物館の人のたずねると小都氏はもう亡くなられたとのことだった。

安芸高田市歴史民俗博物館 安芸高田市歴史民俗博物館の近くのパチンコ店の屋上の王様

博物館から1つ建物をはさんだ隣に、キッチュなパチンコ屋があった。大きなトランプみたいな王様が空を突いている。

■ 郡山城趾・毛利元就の墓
広島県安芸高田市吉田町山部

博物館の裏の小山が郡山城趾で、毛利元就の墓がある。
須田剋太はその城趾を遠望する絵を描いている。
広島から安芸高田まで来る道の途中に福原という地名のところがあり、そこで描かれた絵もある。
遠くの山、田、白いサギと、似た景色を似た構図で描いているのが珍しい。

須田剋太『郡山城遠望』 須田剋太『福原風景』
須田剋太『郡山城遠望』 須田剋太『福原風景』

墓に向かう道はひたすら右カーブばかりで上がっていく。道の右側には石垣がつづく。

毛利公の墓への道 須田剋太『毛利公墓へ行く迄の林道』
須田剋太『毛利公墓へ行く迄の林道』

鳥居の先に墓所がある。
『毛利元就の墓地にて』は毛利一族の墓の前を描いている。
低い石垣が囲む外側に、絵では高い樹木がある。
今行ってみると、高い木はない。小さな切り株があるが、その高い木が伐られたあとだろうか?

毛利一族の墓 須田剋太『毛利元就の墓地にて』
須田剋太『毛利元就の墓地にて』

数段の石段を上がった高い位置に元就の墓がある。低い石柱に囲まれたなかに、墓石はなく、小さな塚があって、高い木が伸びている。
その墓域は、石垣、墓碑、鳥居などの石造のものが配置されているが、すべて江戸期および明治期に寄進されたもので、それ以前の元就塚はそういう装飾がいっさい施されず、芝でおおわれた土饅頭一つの古朴(こぼく)なものであった。
 墓碑もなかった。土にかえり、輪廻(りんね)の塵になるという思想からいえば浮世の名を刻むというのは非仏教的なことで、元就塚だけでなく、塚はすべてこうであった。
 ただ目印として樹が植えられたにすぎない。

須田剋太は元就の墓ではなく、同じ壇の反対側にある百万一心の碑を描いた。
郡山城の拡張にあたり人柱を立てることを元就がとめて、かわりに「百万一心」と刻んだ石を埋めさせたという。これを「一日一力一心」(いちにちいちりきいっしん)と読んで、共同の精神をこめたという。
ただし、今見る碑は近代の制作物で、もとの物は見つかっていない。文献にも見あたらないので、「1本の矢は折れるが3本束ねると折れない」というのと同様のつくられた伝説らしい。

百万一心の碑 須田剋太『毛利元就の墓地内にある百万一心の碑』
須田剋太『毛利元就の墓地内にある百万一心の碑』

* 町の中心部を離れて、西に向かって細い道を走る。
丹比郵便局の角を左に折れると、先に見えてくる小山に城あとがある


■ 多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)
広島県安芸高田市多治比

小山に上がりかけたところにある駐車場で車をおりる。
山頂の城跡まで20分と案内がある。
剋太の絵は遠望のみで、山頂から描いてはいないようなので、僕も上まではいかないことにした。
駐車場から見おろすと、木立のあいだに、剋太はあそこで描いたのだろうと思われる下の道が見え、近くに古めかしい校舎がある。そこに行ってみることにした。
須田剋太『猿掛城趾』
須田剋太『猿掛城趾』

郵便局あたりまで戻る。
校舎の門には「吉田町立丹比西小学校」とある。廃校になって、今は学童保育の施設らしい。玄関の前に鐘が下がっている。かつては山にこだましていたかもしれない。(屋根の向こうに見えるのが猿掛城趾の山)
旧・吉田町立丹比西小学校

校門から出るとき、石の門の裏側に「毛利公爵寄贈」と刻んであるのに気がついた。

* 市街に戻る。
このあたりで見かける家の多くで、屋根の先にツンと天をさす突起のようなものがある。
小さなしゃちで、いちばん高いところだけでなく、屋根の端ごとにつけている。


屋根のシャチ 須田剋太『屋根の上に黒いしゃちのような黒瓦の乗っている民家』
須田剋太『屋根の上に黒いしゃちのような黒瓦の乗っている民家』

須田剋太もその屋根に目をとめて絵を描いている。
(このあと三良坂歴史民俗資料館に寄って館の人と話していて、「屋根の端々にしゃちがあるのが珍しい、おもしろい」と言ったら、「えっ、どこでもそうするものではないのか!?」と驚かれた。)


■ 安芸高田市役所・安芸高田市立中央図書館
広島県安芸高田市吉田町吉田761クリスタルアージョ1F
tel. 0826-42-2421

『街道をゆく』の取材で街を歩いて、旧・吉田町役場にいきあたり、須田剋太がその姿を描きのこしている。
「芸備の道」の単行本の文章では「町役場(昭和五十七年移転、跡地は他の公共建築物を建造中)」と注を加えてある。
僕が来たのは、その移転からおよそ30年後になる。

三次市役所、図書館 移転してできた庁舎には、その後さらに新館が加えられ、同時に市立中央図書館やホールも接続して建てられている。
図書館は今どきよくある(半)透明ビルで、全体も、部分も四角い。新鮮さはないかわり、落ち着いてはいる。
司書のひとによると「前は公民館に付属した図書館だったから、とても大きくなった」という。

* 今夜は司馬遼太郎一行が泊まったのと同じ「いろは家旅館」に予約してある。宿に車を置いて古い街並みを散歩した。

■ 旧吉田町役場
広島県安芸高田市吉田町吉田

宿を左に出るとすぐ旧吉田町役場があったところ。
須田剋太はこの町役場を描きのこしたが、単行本に注を加えてあるとおり、今は役場ではなくなっている。
かわりにできた老人施設と文化施設は、役場があった活気を埋め合わせるには及ばなかったようで、通りかかったかぎりでは人の出入りを見かけない。
もとの役場は、戦後まだ物資が乏しい1950年に建った建物だった。
司馬遼太郎はその建築について、明治期に洋館を見たことがない人が擬洋風の建物を懸命につくったのと似たひたむきさを感じて、好ましい印象を書き残している。その後に建った公共建築は、屋上に斜めの円筒がつきだし、外にある階段なども強い造形意識があり、建て替え時なりに建築へのひたむきさが繰り返されているといっていいのかもしれない。

旧吉田町役場あとの公共施設 須田剋太『吉田町役場』
須田剋太『吉田町役場』

● 田原菓舗
広島県安芸高田市吉田町吉田1302-1  tel. 0826-42-0305

旧町役場から商店街がのびている。(商店街から見れば、その突き当たりに役場があった。)かつてはこのあたりが町の中心で、商店街ももっとにぎわっていたのだろう。

旧役場からすぐの角に、木造2階建ての立派な構えの田原菓舗店がある。
名物の「毛利公」という最中を売っている。
(右上の須田剋太の絵で、右のほうに「毛利公」という看板が見えている。)
店内に入ってみれば、名菓をあつかう老舗というより、町のお菓子屋さんのよう。店番をされていた奥さんとやわらかい言葉のやりとりをして最中を2種とりまぜて買う。

田原菓舗 写真の左、横断歩道の先に旧役場。
右に行くと北屋呉服店。
いろは旅館は手前になる。
今は静かだが、かつては街の中心だった。

■ 北屋呉服店
広島県安芸高田市吉田町吉田1105 tel. 0826-42-0343

商店街を行くと、田原菓舗の数軒先に呉服店があり、ここを須田剋太が描いている。

北屋呉服店 須田剋太『吉田町にて』
須田剋太『吉田町にて』

■ 多治比川と江の川の合流点


商店街に並行するように多治比川が流れている。
流れ下ると旧役場の近くで江(ごう)の川に合流している。
須田剋太『多治比川』
須田剋太『多治比川』

左向こうから手前方向に江の川、右から手前に多治比川。関東より日没が遅いから、関東ならもう日が沈んでいるころなのに、まだ西の水平線近くに太陽がある。すすきの穂が、向こうからの西陽をためて輝いていた。 合流点ウォッチング:江の川と多治比川

ひとり旅をしていると、こういう時間、こういう場所は寂しい。
河川敷にある簡素なグランドで数人の少年が野球をしている。その声にいくらか慰められる思いがする。

● いろは家旅館
広島県安芸高田市吉田町吉田1331  tel. 0826-42-0009


菓子店が名菓の老舗というより町の菓子屋さんだったように、宿も城下町の名旅館というより地方都市の商人宿のような風情だった。
旅館いろは

夕食に食堂にいくと、先にいたのは商用で滞在しているらしき男がひとり。やや慣れたふうで、連泊しているらしい。あとから現れた男性2人は作業服を着ていて、このあたりの工事で一時的に泊まりこんでいるのだろう。
食事は簡素。食堂に入ったとき「何か飲みますか」ときかれるでもなく、そのまま食事を始めた。他の客も誰も酒を飲んでいなかった。

宿の人に須田剋太が絵を描いたところを訪ねていると話すと、玄関にある看板を教えられた。
玄関に入って沓脱場(くつぬぎば)に立つと、旅館いろは、という墨の色もさだかでない軒吊りの板看板がほうり出すようにして内壁に立てかけられている。

今もこのとおりだった。
板は長いときを経て黒ずんでいて見えにくいが、大きく「旅館」の2文字があり、下にやや小さめに「いろは」とある。

『街道をゆく』のあとをたどっていると、もう30年、40年と経っているから、様子が変わっていたり、当時あったものが今はなくなっているということがしばしばある。
吉田では、菓子店といい、呉服店といい、旅館といい、そろって今もある。
旅館いろはの看板

 安芸吉田は江戸期以前の城下町だが、豊臣政権の末期に毛利氏がいまの広島市に近世的な沿海城郭をきずき、新城下町を町割りして大挙(町人まで)それへひっ越したために吉田は毛利氏にとっての旧都になった。(中略)毛利氏の旧城府であった吉田はかつて毛利氏の本城であった郡山の城趾を擁しつついよいよさびれ、(中略)小ぶりな町でありつづけ、いまもその姿を維持している。

それが21世紀に至ってもつづいているようだ。
こんなふうに静かなままいきつづけているということは驚くべきことのように思える。

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第2日 三次市から尾道市 [高林坊 三江線粟屋駅 岩脇古墳 環翠楼跡 鳳源寺 尾道(泊)

● いろは家旅館

朝、窓を開けると、空がくもっていて、前の通りの眺めがぼんやりしている。通り過ぎる車はヘッドライトを点けている。天気情報では雨ではなかったのに意外に感じる。もしかするとこれこれが名物の霧だろうかと思うが、12月でもあるものか。

須田剋太が旅したときは、霧ではなく、はっきりと雨が降っていた。

 翌朝、吉田の宿を出るべく靴をはいていると、表通りにはこまかな雨がふっている。
「雨ですね」
すでに靴をはきおえた須田画伯がいった。
「かえっていいかもしれません」
 須田画伯に言うことによって、みずからをはげました。

朝食はいちばん早い時間だと7時からとのことだったので7時に食堂に行くと、夕べの人たちがそろって7時だった。やはりのんびり旅をしているのではないらしい。

8時ころ宿を出る。すぐ先に見える「毛利公」を売る田原菓舗は、もう店を開いていた。

* 54号線を北に向かう。芸備線甲立駅あたりで東にそれると、道の左に小田東小学校、右に高林坊がある。

■ 高林坊
広島県安芸高田市甲田町高田原 tel. 0826-45-2064

高林坊は浄土真宗本願寺派の古刹。
石段を数段上がって山門をくぐる。
拝観料をとるような寺は別として、ふつうの寺はほとんど出入り自由だが、ここでは山門のすぐ先に柵があって勝手にはいることを禁じている。
静かでひとけがなくすがすがしい。
朝の空気が冷たく、凜とした気持ちになってくる。

須田剋太はここで2枚描いている。
正面の本堂のやや右よりのところに、絵のとおりの壁と樹木がある。

高林坊 須田剋太『高林坊』
須田剋太『高林坊』

右を見ると鐘楼。

高林坊の鐘楼 須田剋太『甲田町高林坊』
須田剋太『甲田町高林坊』

中に入れなくても絵を描いた場所がわかった。

* 54号線に戻って三次へ北上する。
三次市の市街地をいったん通り過ぎて西に向かう。


■ 三江線粟屋駅
広島県三次市粟屋町字下津河内

司馬遼太郎は製鉄の歴史に強い関心をもっていて、『街道をゆく』では「砂鉄のみち」と題した回があるくらい。この旅でも、三次で手に入れた観光パンフレットに「丸山鉄穴場(かんなば)跡」と赤丸があるのにひかれて向かっている。
近づいていくと、三江(さんこう)線の粟屋駅があった。
三江線は、三次駅からでて江の川に沿って走り、島根県の江津(ごうつ)駅に至る。

須田剋太がその粟屋駅を描いている。
無人駅で、プラットホームの中ほどに簡素な待合室がある。覆いは合成樹脂製にかわっているようだが、形はそっくり。
中にある時刻表を見ると、1日に上り下り5本ずつ。
三次行きは午前は、7:27と9:12の2本で、ちょうど9:12の三次行き電車がやってきた。

粟屋駅 須田剋太『粟屋駅』
向こうが三次駅 須田剋太『粟屋駅』。
手前が三次駅。

(三江線は2018年3月31日を最後に廃線となった。)

* 三次市街方向に戻って、江の川の左岸の岩脇古墳に行く。

■ 岩脇古墳
広島県三次市粟屋町

地図上で見当をつけたところに着いても古墳が見つからない。国民宿舎があったので駐車場に車をおき、歩いていくと、作業服を着た人がふたり、斜面の階段に腰かけて話している。古墳のことを尋ねると、ここだそうだと階段の上を示された。

草におおわれた小山が古墳公園として整備されていた。
須田剋太が描いた絵では、広々としたけしきのなかの小高い丘のよう。
実際は、建物や木立が迫っているなかの小公園だった。

岩脇古墳 須田剋太『三次岩脇古墳』
須田剋太『三次岩脇古墳』

 登るにつれて足もとに三次の町並がひらけてきて、墳丘の上に立つと、一望に見はるかすことができた。春は野遊びにくることができるのではないか。なににしても古墳一基を核にして芝生と樹木を按配(あんばい)しつつこのように小公園をつくるというのは、三次市の能力のすぐれたところかもしれない。

今はその樹木が大きく育ってしまって、木々がつくる暗がりのなかに埋もれている。
すぐ下にある国民宿舎は廃業して廃墟になっている。
まだ霧がただよっているし、司馬遼太郎が味わったようなはればれした気分にはなれなかった。

須田剋太は石が並ぶ絵も描いている。円形古墳の頂きがへこんでいて、その窪地の底に石組みがある。周囲を回り、方向を変えて見比べてみたが、実景と絵とがすっきりあわない。

岩脇古墳の石室 須田剋太『岩脇古墳』
須田剋太『岩脇古墳』

■ 江の川と馬洗川の合流点

古墳公園から歩いて坂を下って、江の川(ごうのかわ)と馬洗川(ばせんがわ)の合流点にでた。
江の川が右から左に流れているところに、向こうから馬洗川が流れこんでいる。
江の川と馬洗川の合流点

馬洗川を越える橋を電車が走っていく。粟屋駅の時刻表では、反対方向に向かう電車は10:06のがあったからそれだろう。午前中2本あるうちの2本目。
電車の運行は少ないのに、たまたまよく目にする。
電車の鉄橋の向こうでは、馬洗川に西城川が合流している。市街地の近くで3つの川が集まっている。山に囲まれて霧がたまりやすいのに、川が集中していていっそう濃くなる。

江の川上流部にことぶき橋、下流に祝橋。
馬洗川に巴橋。
西城川に旭橋がかかっている。

* 車に戻り、祝橋を渡ったところで左折して、江の川の土手のきわに駐車する。

● 環翠楼
(広島県三次市三次町1880)

司馬遼太郎一行が泊まった宿「環翠楼」は土手からすぐにあった。
もと環翠楼

宿はその土堤の下にあり、そこへは土堤の上から、宿の屋根を見おろしつつ降りてゆかねばならない。川が決潰した場合、まっさきに流されねばならない位置だが、堤防への信頼がよほどつよいのだろう。宿の名は「環翠楼」という。「環水楼」というほうがふさわしい。

一行は電話で予告した時間より早く着いた。宿ではまだ夕方の客を迎えるための準備をしているころだった。
「女将さんはいらっしゃいますか」
 とHさんがきくと、女将さんは上(かみ)へ行っております、という。上とは、京・大阪のことである。
 あとで他の人にきくと、もうすぐ江の川の鵜飼(うかい)の季節が始まるので宿がいそがしくなる、その前に姑さんと一緒に芝居見物に行ったという。きいているうちに季節と人事が品よく織りまざって、俳人なら一句できそうなふんいきであった。

この宿は内田康夫の『後鳥羽伝説殺人事件』にも登場している。警察庁刑事局長を兄にもつルポライター浅見光彦が探偵としてデビューした記念すべき第1作で、妹が三次で死んだことから三次を訪れるることになる。
妹と同行した友人が、その後ひとりでまた三次を訪れて泊まったのが「環翠楼」だった。その妹の友人が殺され、足どりをおって地元の刑事が宿にききこみにくる。

尾関山公園の畔(ほと)りに建つ旅館で、皇族が泊まられたほどのところだから格式も高いに違いない。しかし、その割に主人もお内儀(かみ)も気さくな好人物で、刑事の来訪にもいやな顔を見せなかった。
「ほんま、お気の毒なことでしたの」
 夫婦はまず哀悼(あいとう)の意を表した。
(『後鳥羽伝説殺人事件』内田康夫 )

内田康夫の小説の文中では「環水楼」にかえている。前述の司馬遼太郎の感想に符号しているのがおかしい。内田康夫が『街道をゆく』を読んでいてそうしたのかどうかはわからないが、『街道をゆく』「芸備の道」が1979年、『後鳥羽伝説殺人事件』の最初の版が1982年だから、可能性がなくはない。
内田康夫の文章はフィクションではあるが、小説家になる前には広告会社に勤めていて、依頼主の会社のひとつが三次にあった。しばしば三次を訪れ、その会社の紹介で「環翠楼」に泊まることがあった。旅館の人への親しみが感じられる文章は実体験によるだろう。

そんな優雅さ、明るさにいかにもふさわしそうな和風建築が土手のすぐ下にあった。屋根と棟の折り重なりが美しい。
ところが近づいてみると「デイサービスセンターさくら」とある。
中に入って尋ねると、旅館から今の施設にかわってもう十数年経つという。
建物はほぼそのままをいかして使われていて、新しく建てたデイサービス施設ではとても望めないようなみごとな中庭がある。宿がなくなったことは惜しいが、デイサービスの利用者にしてみれば幸運といえるかもしれない。
司馬遼太郎と内田康夫の文章に記された明るい印象の人たちがいられるときに僕も泊まってみたかった。

■ 尾関山

司馬遼太郎一行は、宿に荷物を置き、散策にでて、ひとまず土手に上がっている。

「どうしましょう」
須田画伯にきいてみた。
「私(わっち)はどちらでも」
 と、右掌をひろげ、押すようなしぐさをし、あなたが考えればいい、という意味のことを表現した。
「それでは、すこし川でも見ていましょう」
 というと、画伯はうなずき、川下にむかってスケッチをはじめた。画伯の視線のむこうに尾関山がある。

このとき描いたのが『三次風景』と題した絵だろう。

江の川の土手から尾関山の眺め 須田剋太『三次風景』
須田剋太『三次風景』

右に尾関山の樹林がある。
画面ほぼ中央にある横線は三江線の鉄橋。
左、対岸の丘は岩脇古墳につづいている。

土手上の道は尾関山のすそを回る遊歩道につづいていく。
江戸時代の作といわれるキリシタン灯籠を過ぎて、鉄道の橋の直下にでる。
線路は川を渡ってくると(次の写真左上)、遊歩道のすぐ先で尾関山を貫くトンネルに向かっている(写真左下)。
川と鉄道橋とトンネルを対岸から眺めた風景を須田剋太が描いている。
尾関山のトンネル側から眺めると、対岸は木々が粗くはえた崖になっている。
あんな崖に絵を描ける場所があるのだろうかと不思議な気がする。
対岸の岩脇古墳を見てから川のこちらに渡ってきたので、もう一度確かめに戻るのはあきらめる。

尾関山から鉄道橋 須田剋太『三次風景』
須田剋太『三次風景』
尾関山トンネル

* 尾関山の北側に回ると尾関山公園用の広い駐車場がある。
鳳源寺がすぐ近くにある。


■ 鳳源寺
広島県三次市三次町1057  tel. 0824-62-3680

駐車場から寺に入るとしだれ桜があり、「赤穂義士大石良雄手植の枝垂桜」とある。そんな史実はなかったようだと司馬遼太郎が週刊朝日に書いてから30年以上たち、その後も単行本や文庫本で版をかさねているが、いまだにそう記した板が立っている。
昭和初年に商工会議所の人が、三次にはめだった観光資源がないから、たまたま鳳源寺にあるしだれ桜を「大石良雄手植」にしたてあげたらしい。
司馬遼太郎はいっそそうしたいきさつも記しておくのがいいと書いている。そのころすでに観光資源の開発という思想があったことがわかるし、
さらに当時は、史実よりも伝承のほうが重んじられたということもわかっていい。『古事記』『日本書紀』に書かれた"神代"の伝承が、そのまま「国史」として小、中学校で教えられていた時代なのである。

鳳源寺・大石良雄手植の枝垂桜 須田剋太『赤穂義士大石良雄手植の枝垂桜』
須田剋太
『赤穂義士大石良雄手植の枝垂桜』

本堂の裏手にある庭に、木戸が開いているので入ってみる。
庭の樹木はわずかに荒れている。職人の手が入りすぎて床屋帰りのような庭より、この程度に荒れた庭の中に居るほうが、古い城下町のふんいきに適(あ)っている。

今もこのとおりの印象だった。
司馬遼太郎が訪れたとき、池には睡蓮が7,8個の花をつけ、橋の下には河骨(こうほね)が葉を沈ませつつ黄色い花をつけていたという

鳳源寺 須田剋太『鳳源寺』
須田剋太『鳳源寺』

『街道をゆく』「芸備の道」は、そうした庭の描写のあと、こう結ばれる。
「三次は、どこというところなしに、いい処ですね。こう、この盆地ぜんたいかもしれません」
 と、橋の上で須田画伯がつぶやいた

* 『街道をゆく』「芸備の道」は、須田剋太のそういう言葉を結びにして三次で旅を終えるのだが、僕の旅はまだ半ば。
馬洗川を赤く塗られた巴橋で越え、川に沿ってある図書館に寄った。


■ 三次市立図書館
広島県三次市十日市東3-14-1 tel.0824-62-2639

病院が移転したあとの跡地に、福祉保健センターと図書館が建った。四角い福祉保健センターに、三日月形の図書館がくいこむような形に作られている。
三次市立図書館

もとの図書館は環翠楼の近くにあった。
『後鳥羽伝説殺人事件』では、環翠楼(内田康夫の文中では「環水楼」)で、あとで殺されることになる女が本を探していて図書館に行ったということをきき、刑事たちは図書館に向かっている。「環水楼」から「つい目と鼻の先」とある。
この頃の図書館は三次市歴史民俗資料館と同居していた。もともとは1927年に三次銀行本店として建った建築で、図書館が現在地に移転してからは全館が歴史民俗資料館になっている。

* 三次市街を南に出る。
途中で寄り道して、すっかり暗くなって尾道市街に入った。


● 尾道第一ホテル
広島県尾道市西御所町4-7  tel. 0848-23-4567


駅に近いホテルに泊まる。
外に夕飯にでる。
前に尾道に来たのは2007年だった。駅前の再開発が進んでいた頃だったが、もうすっかり完成していた。
尾道駅前しまなみ交流館

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第3日 (しまなみ海道を走って福山(泊))
第4日 尾道市立美術館から広島空港

* 第3日はしまなみ海道をめぐり福山市に泊まる。
最終第4日は、尾道市立美術館での須田剋太展を見て、展覧会の記念講演をきくため、尾道に向かう。

尾道駅から尾道市立美術館へのアクセスとしては、バスと千光寺山ロープウェイを乗り継ぐように、美術館のチラシやホームページで示してある。地図でみるとそれは三角形の2辺を遠回りしているが、駅付近から短い1辺を歩いていく道がありそう。
駅前の観光案内所でたずねると「道はあるけれど、坂がきつい。30分くらいかかるでしょう」という。
でも坂を上がった。
たしかに急坂ではあった
が、距離は短く、上がりきってしまえばあとは楽な尾根道で、美術館あたりまで20分ほどで着いてしまった。


千光寺山の展望台に上がる。
狭い海をはさんで対岸に向島が広がる独特の風景。
日射しが暖かい。
千光寺山からの展望

■ 尾道市立美術館
広島県尾道市西土堂町17-19 tel.0848-23-2281

『須田剋太展 北海道・新星館コレクション』の初日。
東大阪市に喫茶美術館がある。司馬遼太郎の住まいに近い。
司馬遼太郎がその経営者・大島墉(よう)さんの人柄を気に入り、須田剋太に紹介したところ、須田剋太も自分の作品はこういう店で見てもらいたいと、数多くの作品をプレゼントした。
その作品は、一部は喫茶美術館で、一部は北海道・美瑛町にある新星館で展示されている。
 → 喫茶美術館
 → [西宮の墓苑で向日葵忌]・[「北海道の諸道」-開通まもない北海道新幹線に乗る] 

新星館は、いかにも北海道らしい、展望のひらけた美しい風景のなかにある。ただ冬は寒いので休館するので、その期間を利用して新星館所蔵の作品が尾道で公開されることになった。


尾道市立美術館も千光寺山の尾根筋のすばらしいロケーションにある。作品に影響しないところには外からの光がたっぷり入って明るく、眺めがいい。
尾道市立美術館

展示室に入ると、新星館のレイアウトにならって配置したと、注意書きがある。
担当された宇根元了学芸員によれば、できるだけ新星館の雰囲気を再現したいし、新春にかかる展覧会でもあるから、あたたかい作品を選んだといわれる。
そのとおりにとてもいい感じで見てまわった。

開会初日に喫茶美術館の代表で詩人でもある丁章(チョンヂャン)さんの講演があった。
会場は2階のロビーで、全面ガラスの向こうには瀬戸内海と向島の大展望がひらけている。
父・大島墉と司馬遼太郎の出会いと須田剋太の支援という喫茶美術館の経緯が語られる。
喫茶美術館代表・詩人丁章(チョンヂャン)さんの講演

父は理想家で、大阪よりもっと美しい場所に美術館を建てて須田剋太作品を展示しようと考えた。理想を抱いたら走ってしまう人で、日本全国、美術館にふさわしい土地を探しまわる。建物にもこだわり、新潟から古い民家を移築した。
とうぜんそうしたことには多額の資金が必要で、家族は反対したが、実現させた。
理想に走る父、現実的判断でとめようとする子。子はつよく反対し、困らせられながらも、理想にひた走り実現してしまう父に、一方では敬意をもっている。そうした家族の物語としてもききごたえのある話だった。
父は美瑛の風景で暮らすうち、絵ごころが起きて、絵を描きはじめた。
(美瑛の新星館ではロビーなどにその絵も展示されていて、僕は2012年の初夏に訪れたとき、1点買った。)

終了後に、丁章さん、須田展を担当した学芸員・宇根元了さんと短時間の立ち話。宇根元さんが
「冬はここでも観客が減るということもあって、花の絵など、あたたかい作品を選んだ。私は抽象が好きだが。」
といわれる。関東から来ればこんな穏やかな瀬戸内で、と意外な気がした。
美術館の外に出ると日がかげっている。昼間はずいぶん歩いている人がいたのに、すっかり人の気配がなくなっていて、なるほどそうかと思った。

夕暮れの尾道駅前
復路は尾根道でなく、山の傾斜面に家が建てこんでいるいかにも尾道らしい道を歩いて駅に戻った。

尾道駅からJR山陽本線にのる。

夜の白市駅 白市(しろいち)駅で降りると、駅前に商店もなく暗い。これが空港に向かうバスが出る駅なのだろうかと不安になるくらい。
バスには僕のあとから女性2人連れが加わった。途中のバス停での乗り降りはなく暗い道を走りつづけ、乗客は3人のまま広島空港に着いた。

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参考:

  • 『街道をゆく 21』「芸備のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1983
  • 『後鳥羽伝説殺人事件』内田康夫 角川春樹事務所 1996
  • 3泊4日の行程 (2013.12/4-7) (→電車 =バス -レンタカー …徒歩)
    第1日 広島空港-広島市安佐北区新太田川橋付近-安芸高田市上根付近-安芸高田市歴史民俗博物館-郡山城趾・毛利元就の墓- 多治比猿掛城-安芸高田市立中央図書館-田原菓舗… 北屋呉服店…吉田町役場跡… 合流点(多治比川+江の川)…いろは家旅館(泊)
    第2日 -高林坊-三江線粟屋駅-岩脇古墳…祝橋…合流点(江の川+馬洗川)…岩脇古墳-環翠楼跡…尾関山-鳳源寺-奥田元宋・小由女美術館-三良坂平和美術館-灰塚ダム- 三良坂民俗資料館-無縁墓地-尾道第一ホテル(泊)
    第3日 -今治市伊東豊雄建築ミュージアム-岩田健母と子のミュージアム-ところミュージアム大三島-亀老山展望公園-平山郁夫美術館…耕三寺博物館-ニッサンレンタカー福山営業所…しぶや美術館…福山市立中央図書館…ホテルエリアワン福山(泊)
    第4日 …広島県立歴史博物館…ふくやま美術館…ふくやま文学館…福山駅→尾道駅…尾道市立美術館…尾道駅→白市駅=広島空港