「北海道の諸道」-開通まもない北海道新幹線に乗る


『街道をゆく』の「15北海道の諸道」をたどった。
旭川空港から入って札幌~江差~函館と『街道をゆく』の旅とは逆に回り、2016年3月に開通してからまだ半年もたたない北海道新幹線で帰った。
「北海道の諸道」が週刊朝日に連載されたのは1979年だった。
それから37年後、新幹線だけでなく、変わっていることがいくつもあった。

第1日 旭川空港~滝川
[美瑛町] 新星館
[旭川市] 旭川市博物館 旭川駅
[滝川市] 太郎吉蔵 ホテル三浦華園(泊) 
第2日 新十津川~札幌
[新十津川町] 新十津川駅 新十津川町役場 出雲大社新十津川分院 新十津川神社 金滴酒造
[美唄] 安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄
[月形町] 月形樺戸博物館
[札幌] 北海道庁 時計台 テレビ塔 観覧車ノリア ロテル・ド・ロテル(泊) 
第3日 江差
[洞爺湖町] 洞爺湖
[江差町] 旧中村家住宅 開陽丸 関川商店 横山家 鴎島 ホテルニューえさし(泊) 松の岱公園 
第4日 松前町~函館
[松前町] 松前城 法憧寺松前藩主廟所 松前町郷土資料館・図書館
[木古内町] 木古内駅
[北斗市] トラピスト修道院 茂辺地港
[函館市] 笹流堰堤 赤レンガ倉庫群 函館山 スーパーホテル函館(泊) 
第5日 函館~北海道新幹線
[函館市] 茶房ひし伊 冨茂登 函館市地域交流まちづくりセンター 姿見坂 函館ハリストス正教会 元町配水場 摩周丸 函館駅 

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第1日 旭川空港~滝川
[美瑛町] 新星館
[旭川市] 旭川市博物館 旭川駅
[滝川市] 太郎吉蔵 ホテル三浦華園(泊)イースト

* 旭川行きの便が羽田から離陸すると、空気が澄んでいて、東京湾岸の景色がどっと広がった。
荒川河口の2つの人口なぎさを過ぎると、ディズニーランドと周囲のホテル群が模型のよう。
あとはかすんだ雲が流れていて、とぎれとぎれにしか下が見えなかった。
本州を抜けるころ、かすんではいても青森港あたりが見え、下北半島の先端をむつ市中心部からむつ市大畑に縦断したあと、津軽海峡を越えた。
北海道の上空から見おろすと、大きな大地に整然と住宅が並んでいて、さすがに開拓した土地という気がする。

旭川空港のレストランでラーメンを食べてからレンタカーに乗った。
南に走る。
美瑛のあたりでは、なだらかな丘に数種の作物が植えられてパッチワークになっている。
そのうちのひとつの丘にあがると、さまざまな高山植物に囲まれて美術館がある。


■ 新星館(須田剋太・島岡達三 美術館)
北海道上川郡美瑛町新星の丘 tel. 0166-95-2888

館主の大島墉(おおしまよう)さんは、司馬遼太郎と須田剋太と親しく、粒ぞろいの須田剋太作品を所蔵されている。(名前の「よう」が表示されない場合、「土」へんに「庸」)
3人のつながりは、大島さんが事業に失敗して大阪でお好み焼きの店を始めて奮闘しているときに始まった。
大島さんは整体に通ってそんな身の上話をしていたが、同じところに司馬遼太郎も通っていて、整体師を通じて司馬遼太郎が大島さんに関心を持った。
司馬遼太郎が須田剋太に大島さんを薦める手紙を書き、須田剋太がそれにこたえてたくさんの書画をプレゼントした。
今は作品は2か所にあり、大阪では喫茶美術館として、のちに北海道にこの新星館がつくられ公開されている。

この美術館の魅力は大きくいって2つある。
1つは、作家と画家と直接に親しい関係にあったから、須田剋太の粒ぞろいの名品がそろっているうえ、司馬遼太郎が贈った書や絵もある。
はじめに喫茶美術館ができたとき、司馬遼太郎が『天爵を感ずる場所』という文章を寄せているが、その末尾はこうしめくくってある。

 その場所ができあがったので、小生は近所でもあり、内覧の果報を得ました。圧倒的な質の高さ、それになによりも数の多さにおどろかされました。
 このぶんなら、せっかくの宝物も人に知られぬままになってしまうと思い、義によって、右の次第をしたためました。
 義といえば須田画伯こそ義挙であり、大島埇氏も義挙であります。この両氏を思うと、つい「孟子」の一節を思いだします。「天爵なる者有り」。まことに、町の一隅に天爵のかがやくのを見るおもいがするのです。

美術館には、
「天爵を感ずる処 大島兄 遼」
と書いた司馬遼太郎の書も展示されている。
「天爵」は聞き慣れない言葉だが、辞書には、天から受けた爵位、自然に備わった人徳、天から授かった美徳とある。

魅力のもう1つは、敬意をもって贈られた作品を、最高の環境で見てもらいたいと、大島さんが全国を探して選んだ絶景の地であること。
新潟から移築した豪壮な民家を美術館にしているが、作品を見ながら進んで3階に上がると、いきなり大きなガラス窓から大展望が広がる。
「お客さんが入って、時間が経って、そろそろ聞こえるぞと待っていると、ワーという歓声が聞こえてくるのが楽しみの1つ」と大島さんがいわれる。
正面に十勝岳、左手に大雪山、右には芦別岳。

新星館の大島さん

この美術館には2度目だが、前回も晴れ、今日も青空にゆったり白い雲が流れる、展望には絶好の日だった。
大島さんの熱い話をききながら、作品にひたり、大展望を満喫した。
司馬遼太郎、須田剋太、大島墉という3人の特異な人物の結びつきにも感じ入る美術館だった。
遠いけれどまた来たいと思う。

■ 屯田兵屋を描いた挿絵

北海道の開発にあたった屯田兵の住居を須田剋太が3点描いている。

須田剋太『北海道の住居と暖房』
須田剋太『北海道の住居と暖房』
2点は外観を描き、もう1点『北海道の住居と暖房』は中の様子を描いている。
この絵には須田剋太の文字の書きこみがないので、挿絵がつかわれたときの連載第17回のタイトル「北海道の住居と暖房」が作品のタイトルとしてつかわれている。

連載の第22回「新十津川町」では、滝川市にある郷土館に行ったことが書かれている。

 翌朝、市立の滝川郷土館に行ってみた。
 受付で、パンフレットをもらった。明治の小学校教科書風に装幀された小冊子で、ひどく気のきいたものであった。ひらくと、

  たきがわの開拓は、屯田兵によってはじめられた。そこで、屯田兵屋の一部を「冬」をテーマに復元している。

 とあり、そのコーナーにゆくと、いろりが切られ、むこうに紙障子があり、梁(はり)から石油ランプがぶらさがっている。(『街道をゆく15』「北海道の諸道』 司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)

『街道をゆく』では、文章と挿絵とがいつも1対1で対応しているとは限らなくて、ある回の風景として描かれた挿絵が、別の回の挿絵にも使われることがある。
『北海道の住居と暖房』では、紙障子ははっきりしないが、いろりがあり、石油ランプがあり、滝川郷土館に復元してある屯田兵屋で描かれたのではないかと推察した。
ところが滝川郷土館は土曜・日曜・祝日だけの開館で、僕は木曜日に行く予定ですでに交通も宿も予約をすませてある。
そこで出発前に滝川郷土館にファックスで照会すると、違うだろうという回答があった。
・幾度か展示替えをしているので確かなことはいえないが
・現在の展示にも、司馬一行が来られたころのパンフレットの写真にある展示でも、「柱時計」と「糸巻き」がない
・道内の郷土資料館で屯田兵の暮らしというと似たような展示になるからどこかほかのものを描いたのではないか
ということだった。

須田剋太はしばしば見たとおりに描かないことがあるが、「柱時計」と「糸巻き」のような小物を描き加えることは、まずないだろう。
『北海道の住居と暖房』は、滝川郷土館ではないようだ。

『街道をゆく』の文章から判断できる限りでは、少なくとももうひとつ屯田兵屋を見ている。
連載の第12回は「屯田兵屋」と題した回で、旭川市の郷土博物館を訪ねている。
旭川市郷土博物館は、もと旧第七師団の偕光社という、上層の軍人のためのクラブだった。
1902年に建って、1989年に国の重要文化財に指定された。
その後、郷土博物館として使われたあと、1994年から「中原悌二郎記念彫刻美術館」になっている。
下の写真は僕が前回2012年に訪れた彫刻美術館のときのもの。(改修中で中に入れず、外観を眺めただけだった。)
須田剋太『旭川偕行社 郷土博物館』
須田剋太『旭川偕行社 郷土博物館』
旭川偕行社 郷土博物館

司馬一行が訪ねた、偕光社が旭川市郷土博物館だったときには、ここに屯田兵の小屋があった。
この偕光社建物の横に、刈りこまれていない樹木が枝を乱雑にのばしている。その林のかげに、屯田兵の兵屋が一戸建っている。
ただ、このとき見た屯田兵屋については、内部の様子についての記述はない。

旭川市郷土博物館は1993年から旭川駅に近い旭川大雪クリスタルホール内に移転し、旧博物館の横にあった屯田兵屋もそちらに移っているという。
博物館のホームページには、屯田兵屋の内部の写真はないので、行ってみないとわからない。

* 新星館を見てから、空港からきた道を戻り、空港のそばを通りすぎ、旭川市街に入り、まず旭川市博物館に向かった。

■ 旭川市博物館
旭川市神楽3条7丁目 tel. 0166-69-2004

旭川駅の南に、大きな旭川大雪アリーナという施設があり、その一部が博物館になっている。
もとの材を使って、新博物館内の展示に嵌めこむように屯田兵屋が復元されていた。
須田剋太が描いた外観とよく似ていて(偕光社の横にあったときの)この小屋を描いたと思える。(屯田兵の小屋を描いた3枚のうちもう1枚は同じところを縦長の構図で描いている。)

旭川市博物館の屯田兵屋 須田剋太『屯田兵原屋』
須田剋太『屯田兵原屋』

その中に、いろりを切り、ランプが下がる室内が再現されている。

旭川市博物館の屯田兵屋の内部
いろりの間に置かれた生活用品は、あっさりしていて、須田剋太の『北海道の住居と暖房』の絵のような密集感がない。
柱時計と糸巻きもないし、少なくとも内部はここで描いたのではないようだ。

ほかに旭川市内には旭川兵村記念館というものがある。
『街道をゆく』では、言葉としての「兵村」について記述があるが、おそらく実際には行っていない。
 屯田兵の村のことを、当時のことばでは、
「兵村(へいそん)」
 という。いかにも官庁造語くさく、手ざわりの温みや実材感を感じさせにくい。

僕は前に旭川に来たときに兵村記念館に寄ったが、内部の詳細の記憶がない。
館のホームページを見ると内部の写真が公開されているが、やはり「柱時計」と「糸巻き」がないし、須田剋太の絵とは違う。
結局、屯田兵の住居については、外観はおそらく旭川市博物館にあるもの、内部についてはどこと判断しにくいということになった。

* 旭川は、前に来たときにとてもとてもいい街だと気に入っていた。
とくに旭川駅がよかった。
あと、常磐公園のあたりでは、美術館や図書館があり、近くの石狩川と牛朱別川の合流点付近の眺めとかも、思い出しただけでも遙かな、懐かしい気分になるほど。
常磐公園までは諦めるとして、旭川駅は博物館からすぐ近いので寄ることにした。
駅の北側にまわり、駅前広場にある駐車場に車を置いた。


■ 旭川駅

旭川駅は南北で対照的な様子をしている。
北側は、ホテルや商業施設のビルが並び、いかにも大都市の表情をしている。
南側は、すぐ近くを忠別川が流れていて、駅と川のあいだは公園になっている。
駐車場から歩いて駅構内を南に抜け出ると、駅舎のガラス壁が、白い雲と青空を映している。
前日まで荒れた天気が続いていたので、川は泥色の濁流がながれていて、こわいような迫力がある。

パラソルつきのベンチがいくつか置いてあって、休んでいくように誘われている気がする。
駅内のキオスクに行って、コーヒーとケーキを買ってきた。
この旅には妻も同行している。
電車に乗るわけでもないのにただ駅に来て、妻にはどうかと思ったのだが、「ここはいい」と気に入ってくれた。
のんびり駅舎と空と雲と川を眺めて、いい時間になった。

旭川駅

■ 中原悌二郎記念彫刻美術館ステーションギャラリー

駅構内に彫刻の展示室がある。
偕光社あとの中原悌二郎記念彫刻美術館が改修中なので、休館のあいだの期限つきの展示場を作ってある
中原悌二郎、同時代の荻原守衛のほか、現代の舟越桂などもあり、こぢんまりした展示を軽く楽しんだ。

* 次の目的地の滝川まではたいして長い距離ではないが、有料の道央道を走った。
滝川市郷土館には屯田兵に関わる展示があるが、須田剋太が描いた絵とは違うらしいことはこちらに来る前に確かめた。
郷土館の近くに滝川市美術自然史館というミュージアムがあり、美術館と自然史博物館が同居しているのというのは僕には魅力的なのだが、もう閉館時間を過ぎてしまった。


■ 太郎吉蔵 
北海道滝川市栄町2-8

滝川駅の近くに蔵をリノベーションしたイベント用建築物がある。
もとは1926年に五十嵐太郎吉が酒づくりの醸造米の貯蔵倉庫として建設したもの。
建築家の中村好文氏の設計で2007年に再生した。
イベント用施設なので、何もない今日は外観きり見られない。
ホームページを見ると、イベントで使われる機会は多くないようだ。
太郎吉蔵

滝川市の商店街
駅の近くの商店街を歩いてみると、西部劇の街のよう。
通りを風が吹き抜けて、輪になった草が転げていきそう。
大型店が周縁部にできて、中心市街地が空洞化しているらしい。

駅前の複合商業ビルに入ると、2階へ上がるエスカレーターは通行止めになっている。まだ夕方の6時前だが、今日の営業が終了したのか、いつも使われていないのか、どちらにしても活気がない。
駅前広場は整備工事中だった。
工事が終われば見違えるかどうか。

● ホテル三浦華園(ホテルミウラカエン)
北海道滝川市花月町1-2-26 tel. 0125-22-2101

明治時代初期、道路をつくる工事のための物資を供給するため、山形の人、三浦米蔵が滝川の空知川右岸に住んだのが、そもそも宿の起源につながるという。
その後、宿は滝川の開拓と並行して発展し、要人や文化人が宿泊し、国木田独歩や林芙美子が文章に記している。
旭川の発展にともない、滝川の地位は相対的に小さくなったが、今でもホテルは格式をたもっている。

ホテル三浦華園のレストラン券 僕らは2食付きひとり8,000円で予約した。
ところがチェック・インのときフロントでひとりにつき1,080円の食券を渡された。
それをこえると自己負担だという。
こんなの初めてのおもしろいシステムだ。

食事は別の個室に行く。
床の間つきの落ち着いた部屋。
和食と中華があり、中華が主力のようなので、中華にした。
岩のりと干しエビの炒飯、五目あんかけやきそば、春巻。
飲みものは2人で生ビール2杯、いいちこ2杯。
リラックスして飲んで、おいしく食べて、食券ぶんを越えたのが2人あわせて2000円ちょっとだった。
はじめに定額食券にはビックリしたが、おいしく満ちたりた。

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第2日 新十津川~札幌
[新十津川町] 新十津川駅 新十津川町役場 出雲大社新十津川分院 新十津川神社 金滴酒造
[美唄] 安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄
[月形町] 月形樺戸博物館
[札幌] 北海道庁 時計台 テレビ塔 観覧車ノリア ロテル・ド・ロテル(泊) イースト

* 朝、滝川市から石狩川を越えて、新十津川町に入る。
町役場で新十津川神社の場所を教えてもらいたいのだが、まだ早くて開いていない時間なので、駅に行ってみた。


■ 新十津川駅
北海道樺戸郡新十津川町字中央

町外れにポツンと小さな駅があって、なんだかとても愛らしい。
ここは終着駅で、プラットフォームに立つと、線路の一方の先のほうに電車止めが見えて、その先には公営住宅かと思えるような2階建ての四角な建物が建っている。
新十津川駅

道外の者には不思議なのは、北海道はとても広いのに、となりあっている滝川市と新十津川町それぞれに、別な鉄道路線が短い距離だけ隔てて並行して走っている。
きれいに並行している区間でいちばん近づいているところでは、線路間の距離は4km。
滝川駅は、さらに新十津川寄りに近づいていて、駅間の直線距離は2km。

滝川駅を通るのは函館本線で、函館から小樽、札幌、滝川を経由して、旭川駅まで行く。
単純にそのように走る直通電車はないらしいが、道内一の幹線といっていいだろう。
新十津川駅のほうは学園都市線で、札幌と新十津川を結んでいる。
かつてはさらに北の石狩沼田駅まで行っていて、正式名称は今も札沼線(さっしょうせん)という。
1972年に新十津川駅 - 石狩沼田駅間が廃止され、新十津川駅が終点駅になった。路線名としては、「沼」まで行かなくなったこともあって、愛称の学園都市線が定着している。

待合室に時刻表がかかっている。
左枠に「時刻9:40 行先 石狩当別」とある。
右枠は到着時刻で「時刻9:28」とある。
つまり9:28に着いた電車が9:40に出ていくだけ。
電車で着いた人は翌朝まで帰れないし、出て行った人も同じ。
どういう使い方が想定されてこういうことになっているのかわからない。
でも構内には、それを逆手にとって「日本一早く最終列車が出発する駅」というキャッチコピーが記され、「到達証明書」を発行したりしている。

* 役場の開庁時間になったので役場に行った。

■ 新十津川町町役場
北海道樺戸郡新十津川町字中央301-1 tel. 0125-76-2131

新十津川町は、奈良県の十津川村民が洪水で大きな被害を受け、北海道に新しい生活の場を求めて移住してきて誕生した。
1890年に2489人が移ってきて、新十津川町という町名はその起源による。
『街道をゆく』の旅で取材に訪れた司馬遼太郎は、移住してきた人の何人かから話をききたいと考え「たとえば気楽なラーメン屋とか、コーヒー・ショップのようなところで落ちあいたい」という意向だった。
ところが「新十津川町にはそういう稼業の店は一軒もない」ということで町役場で会っている。
そのあとの文章に
 大和の十津川村の郷社である玉置山(たまきさん)の神体を北海道に分祠して、新十津川神社と名づけられている氏神が、町役場のそばにある。
と記されている。
須田剋太は『新十津川町は折りからまつりであった』を描いた。
神社そのものは描いてなくて、通りにまつりの幟が立っている。

役場に入って、入口にいちばん近く、案内係をかねているらしい窓口にいくと、若い女性2人がいらして、わけを話し、「町役場のそば」の新十津川神社の場所をたずねた。
近くだからすぐわかるかと予想していたのだが、困ったふうなので、奈良の十津川村から分祠された神社と補足した。
それならと見当がついたようで、道順を教えられた。
役場の裏側の道を東にいき、石狩川の土手につきあたるところにあるとのことで、そのとおり車で行くと神社があった。
(奈良県の十津川村については→[紀伊半島で川めぐり-「十津川街道」と「熊野・古座街道])

■ 出雲大社新十津川分院
北海道樺戸郡新十津川町中央32-9 tel. 0125-76-2547

出雲大社新十津川分院 境内に入っていくと「新十津川 出雲大社」とかいた幟が数本立っている。
「新十津川」の文字は小さく、「出雲大社」の字は大きいから、「出雲大社」が目立つ。
新十津川神社をたずねてきたつもりなので、「おや?」という感じになる。社務所でたずねると宮司の間宮敏さんがそういうことならと社殿のなかに招かれ、説明していただいた。

十津川村では、明治維新後の神仏分離令がでたとき、村民がそっくり神道に帰依することにした。
そのとき神道の教派を定める必要があり、出雲大社教に定めていたという。

新十津川では、1891年に奈良・十津川の玉置(たまき)神社から分祠した神社がまつられた。
こちらでも「玉置神社」としていたが、十津川村出身者でない信徒もふえてきたので、1967年に「新十津川神社」にあらためている。
ただし今も玉置神社の名に親しみ、そういう人が多いという。

玉置神社の分祠より後の1910年に、それとは別に出雲大社の分院として、この「出雲大社新十津川分院」ができた。
奈良の玉置神社には出雲大社由来の社があり、いずれの神社も、今も奈良の十津川村との関係が深いという。

新十津川神社の場所を教えていただき、そちらにも行ってみることにした。

* 『新十津川町は折りからまつりであった』の絵にある祭礼ののぼりには、「奉納 新十津川神社」のあとに、「橋本区氏子」の文字が見える。
さっき通ってきた375号線を滝川に戻る方向に走るのだが、その途中の橋本という地域に向かっている。
もう一度どこかで道を確かめようと思いながら走っていると、小さな郵便局があった。
まさに「橋本局」という郵便局で、絵が描かれたのはこのあたりかもしれない。
中に入って若い局員さんに「新十津川神社にはどう行けばいいですか」とたずねた。
「え~と」という表情なので、2つある十津川関連神社のどちらか迷っているのかと思って「玉置神社です」というと、さっと明快な表情になって、道を教えてもらえた。
石狩川を渡る橋の手前の信号を左折、つぎにある信号をもう一度左折して、まもなく右にある、とのこと。
そのとおりに走っていくと、集落をでてしまい、野のなかを走って着いた。


■ 新十津川神社
北海道樺戸郡新十津川町字中央37番地 tel. 0125-76-2542

こちらは人の気配がなくて、ひっそりしている。
鳥居にも本殿にも「玉置神社」の額が掲げてあり、新しいものらしい標柱には「新十津川神社」とある。

新十津川神社
正面上部の三角形内に、雲形の板があり、「玉置神社」と記されている。

新十津川神社の前の道
新十津川神社の前の道。
左に神社がある。
道は土手につきあたって、その向こう側を石狩川が流れている。
橋本の集落は、つきあたりを右に行くとある。

北海道神社庁の記録によると以下のような過程を経ている。
1891年 役場の近くに仮殿を設けて、十津川の玉置神社5柱の分霊を奉る
1894年 現在地よりわずかに北のシスン島に仮殿を建築
1898年 シスン島は川中島のような低地で水害にあい、現在の高台に分霊を移し
1900年 現在地に社殿を造営、以後社殿は改築や改修を経ている


右の『新十津川町は折りからまつりであった』の絵は、新十津川神社に近い橋本地区で描いたと思われる。
新十津川神社は橋本の集落からわずかだが離れるので、『街道をゆく』の一行が神社まで行ったかどうかは確かではない。
それにしても『街道をゆく』の取材では新十津川から滝川に移動していて、橋本地区はその途中にあるから、少なくとも橋本の集落を通って描いたのは確実と思われる。

須田剋太『新十津川町は折りからまつりであった』
須田剋太『新十津川町は折りからまつりであった』

『街道をゆく』の取材は1978.9/3-12のことだった。
新十津川神社の例祭は9/4なので、時期的にも符号する。
(出雲大社新十津川分院には9月に例祭はない。)

* 橋本郵便局で道をたずねて新十津川神社に向かうとき、石狩川を渡る橋の手前の信号を左折したが、その角に造り酒屋があるのを見かけていた。
次の目的地に向かう前に、その酒蔵に寄った。


● 金滴酒造
北海道樺戸郡新十津川町中央71-7 tel. 0125-76-2341

金滴酒造 100年を越える酒蔵という。
石狩川に注ぐ徳富川(とっぷがわ)という支流があり、その伏流水と地元産の米から酒をつくっている。
滝川にホテル三浦華園という宿があり、ここには金滴酒造があり、かつてこのあたりが道内で重い位置を占めていたことを物語っている。

いくつか買いこんだ。
家に帰ってから飲むための720ml。
帰りの新幹線で飲むための純米吟醸北海道新幹線開業記念酒300ml。
これは新幹線の車内でサーブされている限定品。
あとどこかで食べてみようと地酒ケーキ金滴。

* 函館本線に沿って12号線を南下する。
美唄駅のあたりで左折して、東に走る。


■ 安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄
北海道美唄市落合町栄町 tel. 0126-63-3137

美唄出身の彫刻家・安田侃氏の思いがこもったアート空間で、廃校になった小学校をベースに、周囲を起伏に富んだ草地で囲い、校舎の内外に作品をおいてある。
ここには2002年に来たことがあり、14年ぶりになる。
その年、安田侃は彫刻家なのだが、自然と学校と彫刻作品が一体となってかけがえのない空間をつくりだしていることが評価されて、建築の賞である村野藤吾賞を受賞した。
その受賞記念講演を聴いたが、感動的だったし、あわせて出版された本に記された文章も深い思いをそそるものだった。

 ただ存在するという以上でも以下でもない白い石に人の心や思いが宿り、託された時、はじめて時を越え過去と現在と未来を同時に結ぶ場に変わるだろう。そんな形のない大切なものを育んでくれる空間に、アルテピアッツァ美唄が育っていくことを願っている。(『安田侃の芸術広場 アルテピアッツァ美唄』北海道新聞社編/刊 2002)

そんな2002年に実際に来てみて、忘れがたい感銘を受けて、いつかまた来たいと思っていた。
前に来たのは、やはり夏で7月のことだった。
そのとき、ここの若い女性と話していて、「雪の日がとてもいいですよ」とすすめられた。
14年もたってようやく来たが、また夏に来てしまって、軽い雨の日になった。
雪と雨だから文字は似ている。
雨で石が濡れると乾いているときと違う色、違う輝きをしていて、これもわるくないと思った。

安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄

* ほぼ札幌に向かって南下しているのだが、函館本線にある美唄をでてから今度は西にずれて、並行して走っている学園都市線の月形駅に向かう。
駅の近くに次の目的地の博物館がある。
そろそろ昼にしたいのだが、駅に近い町の中心部を走っても、食事をできそうな店が見つからない。
司馬遼太郎が新十津川町に移住してきた人から話しをきこうとしたが、手ごろな店がなくて町役場で会った-というのを思い出した。
30年以上経った(新十津川町からすぐ南にある)月形町でも同じようかと思った。
もっと探せばあるかもしれないが、市街地に入りかけたあたりで見かけたコンビニに戻り、サンドイッチなどを買って車で食べた。


■ 旧樺戸集治監本庁舎 (月形樺戸博物館)
北海道樺戸郡月形町1219 tel. 0126-53-2399

旧樺戸集治監本庁舎 (月形樺戸博物館) 須田剋太『元樺戸監獄あと 現代資料館』
須田剋太『元樺戸監獄あと 現代資料館』

明治時代におかれた「樺戸集治監」の庁舎が町立の博物館として公開されている。
集治監は犯罪者を収容する刑務所のこと。
北海道の開拓のための道路建設などで囚人に強制労働を強いた。
この刑務所の維持や開拓に必要な物資を供給するために商人が集まり、町が発展し、かつては『札幌か月形か』といわれるほどに繁栄していたという。
月形という町名は初代典獄(刑務所長)の月形潔という人名からとっているし、今も町でいちばん知られる(それで主要観光資源でもある)のが、この刑務所跡の博物館になっている。

へこんだ石段がある入口から「旧樺戸集治監本庁舎」に入る。

旧樺戸集治監本庁舎 須田剋太『集治監入口の石』
須田剋太『集治監入口の石』

玄関への十段ばかりの石段がすりへっていることに気づいた。どの段もはげしくくぼんで波うっており、いったい延べにして何千万人の足に踏まれればこうなるのかとおもうと、息をのむ思いがした。
司馬遼太郎はこう書いたのだが、博物館を運営する月形町のホームページでは、
 札幌市の石山から切り出された凝灰岩で、通称札幌軟石と呼ばれる柔らかな石で、永い歴史と共に自然に人の出入りによってすり減ったものです。
囚人が鉄丸(てつがん)を引いてすり減ったと言われますが、そうではありません。
と、囚人の出入りによるという見方を否定している。
たしかに本庁舎は囚人を収容していたところではなく、事務所棟だから、囚人が踏んですり減ったというのはあたらないかもしれない。
旧樺戸集治監本庁舎は、1919年に廃監後、1972年まで役場庁舎として使われたから、その頃に多くすり減らされたかもしれない。


内部に、他の刑務所が廃止になったときに移してきて復元した雑居房がある。

須田剋太『集治監監獄雑居房』
須田剋太『集治監監獄雑居房』


木製の水道管が(須田剋太の絵とは並びようが違うが)展示してあった。
3km離れた沢にダムを築き、木管を使って送水していた。
建設の年代は不明だが、1890年に道庁の技師が描いた図面があるので、その前後と推定されている。
横浜に次いで2番目に函館に水道ができたのが1889年だから、とても早い時期だったことになる。

須田剋太『樺戸集監あとの樹の水道』
須田剋太『樺戸集監あとの樹の水道』

* 『街道をゆく』の取材では、札幌に数日滞在し、そのうちの1日に札幌より東の海岸にある厚田に往復している。
このとき須田剋太は同行しないで、北海道大学構内のポプラ並木を描いたりしていた。
厚田についてはおそらく写真を材料にして2枚描いて『街道をゆく』連載に掲載された。
『厚田村』では、草が生えた斜面の上方から見おろす構図で、数軒の家ごしに海が見えている。
『厚田村ルーラン地』は、画家・三岸好太郎の生地で、ルーランというのは海につきだした岩の一部に穴があいて向こうが見えるところという。
須田剋太が直接行ってはいないし、ルーラン近くを通る道がつけかえられて今は穴があいた岩を見ることができないということもあり、僕は厚田には行かないことにした。
厚田まで行けば、石狩川の河口にも寄りたかったので惜しいが、月形から札幌に直行した。


■ 北海道庁

札幌までは人家がまばらで、人口密度が低いところを走ってきたのに、札幌の都会度は別世界のよう。
市街では横に幾台も同じ方向に車が並んで走っている。
信号待ちのときに数えてみたら片側6車線もあった。(右折レーンとかがあって部分的にだったかもしれないが)
北海道庁の近くの道も広い。
どこかに駐車場があるだろうかと走っていくと、すぐ近くの交差点手前、何車線だったかのいちばん左のレーンに、1時間駐車可の白枠がかいてあって駐車できた。

信号を渡って道庁内を散歩した。
下の写真は正面で、須田剋太の絵は側面を描いている。

北海道庁 須田剋太『北海道道庁』
須田剋太『北海道道庁』

■ 北海道大学

須田剋太『札幌市 北海道ポプラ並木(B)』
札幌に滞在中の1日、司馬遼太郎らが厚田に行っている間に、須田剋太は札幌に残って北海道大学のポプラ並木を描いた。
大学を囲む道を走ったが、いくつかある大学の駐車場には観光客は進入禁止としてある。
ひとまわりしても手ごろな駐車場が見つからなくて、学外からポプラ並木を眺めただけで諦めた。


須田剋太『札幌市 北海道ポプラ並木(B)』

(『街道をゆく』の挿絵には『北海道風景(B)』というモノクロに近い色調の絵が掲載された。大阪府に『街道をゆく』の挿絵を寄贈したなかに、このようにカラフルな作品が加えられていた。)

* すすきのに近い市街地にあるホテルに向かった。
ホテルの隣に屋内立体駐車場があるが、たったいま故障したところということで、ちかくの契約駐車場を案内される。
観覧車があるビル内の屋内駐車場に車をおいた。
ホテルにチェックインして散歩に出た。


■ 時計台

大通り公園を横切る。
テレビ塔が長い公園を悠然と見おろすように立っている。
北に抜けると時計台。
記念写真を撮るひとが大勢いた。

札幌時計台 須田剋太『北海道札幌時計台』
須田剋太『北海道札幌時計台』

司馬遼太郎は「幾日か札幌ですごした」のに、札幌についてわりと詳細に書いたのは、泊まったホテルの向かいにあるメガネ屋のことくらいだった。
 札幌の駅前通りに入ると、二十余年前にくらべ、まったく別の町になってしまっていた。(中略)
 いまは外装の美しい十階建て以上のビルが櫛比(しっぴ)し、灰色のやわらかいアスファルト車道が谷底のようになっている。かつてこの町を特徴づけていた赤レンガの洋館も、見わたしたところ、一軒もなくなっていた。
札幌では、着いたときのこの第一印象の喪失感のようなものをずっと引きずっていたかもしれない。
司馬遼太郎が低温だったのにあわせるかのように、須田剋太が描いたのは、道庁にポプラ並木に時計台という、定番の観光地ばかりだった。

■ テレビ塔

大通り公園に戻ってテレビ塔に上がった。
札幌市街をぐるりと見おろす。
真下に大通り公園、その先に手稲山。
反対方向に札幌ドームとか。
ちょうど日が沈むところ。
天気予報は雨のちくもりで、金滴酒造のあたりでは軽い雨に降られたが、晴れてきている。
ほとんど真横からビルに日があたる。
高いところからの夜景も見てみたいが、夕食をとりに塔を降りる。
テレビ塔

● 海へ南三条店
北海道札幌市中央区南3条西2丁目 tel. 011-290-4129

すすきのを歩きまわったりしたあげく、ホテルに戻ってすぐ隣の海鮮居酒屋に入った。
写真つきのメニューがあるのだが、注文して現物が届くと、どれも写真より大きい。
最後にたのんだしらす焼きおにぎりなんて、写真ではちょこっとかわいいふうなのに、持ち重りがするほどにがっしりしている。
小さく見せてたくさん注文させようという狙いだろうか。
あれっと思うことはあっても、写真では豪華でおいしそうなのに、でてきたら貧弱なのよりは、ずっといい。

■ 観覧車ノリア
札幌市中央区 南3条西5丁目1−1 tel. 011-271-3630(ノルベサ)

駐車したノルベサというビルに観覧車があったので、乗ってみようともう一度そこに戻った。
にぎやかなエンタテインメント複合施設で、ある階ではジンギスカン鍋を幾組も囲んでいたり、ある階ではボーリング場があったり、人がいて、活気がある。
最上階に行って観覧車に乗り、テレビ塔で眺めそこねた夜景を楽しんだ。
観覧車は平日は午後11時まで営業というのはそんなものとして、金・土・祝前日は翌朝3時まで動いているというのがすごい。
周囲には広い土地があり、人口密度が低いのに、ここには人が集中している。
午前3時まで回っている観覧車というのが、都会の象徴のように思えた。

● ロテル・ド・ロテル
札幌市中央区南3条西2丁目 tel. 011-222-0211

ロテル・ド・ロテル 札幌 階段を上がって2階にフロントがある。
すぐ脇にフロントからつづいた別室のような感じにロビーがある。
上品で落ち着いた雰囲気で、それでいて椅子は赤い色のを置いて華やいだ感じもある。
セルフサービスでコーヒーを飲めて、ホテルに戻ったところで手ごろにひと休み。

建物に入ってから部屋に着くまでのデザインが目に快いし、部屋も広い。
フロントの人も好感で、いいホテルだった。

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第3日 江差
[洞爺湖町] 洞爺湖
[江差町] 旧中村家住宅 開陽丸 関川商店 横山家 鴎島 ホテルニューえさし(泊) 松の岱公園

* 旅の3日目は、札幌から江差に移動する。
300km以上あって、前半が高速道路、後半は渡島(おしま)半島を東岸から西岸まで、一般道を走って横切ることになる。

札幌は大きな街で、車で走っていてもしばらく市街が続いている。
かなり走ってようやく北広島I.C.から道央道に入る。
新千歳空港の近くを通ったが、札幌の中心地から空港までかなり遠いことを実感する。

走りづめでは退屈なので、途中で高速道路をいったん出て、洞爺湖に寄り道した。
札幌から洞爺湖までがおよそ2時間、洞爺湖から江差までがおよそ3時間になる。


■ 洞爺湖 

よく晴れていて、あざやかな日射しを受けて湖面が青い。
8月下旬で、関東地方で晴れていたら猛暑だが、さすがに北海道では湖岸を歩いていても汗をかかない。
足湯があって入る。
左手の丘の上にザ・ウィンザーホテルの白い建物が見える。
あそこからなら眺めがいいだろう。

地酒ケーキ金滴
木陰のベンチに移って、新十津川町の金滴酒造で買った「地酒ケーキ金滴」を、妻と1個ずつ食べる。ふわっとやわらかく、かすかに酒粕の香りがして、もうちょっと買ってきてもよかったかなと思う。

* また高速道路に入る。
内浦湾に沿って、∩こういう形を右から左にぐるりと走る。
∩の頂点を越えて、しだいに南向きにかわると、方角としては函館に向かって走るようになる。
左に海があり、先方に駒ヶ岳の独特の山頂が見えてくる。

落部(おとしべ)I.C.で高速道路からおりる。
一般道になって、函館に向かう道から南西にそれて、渡島半島の西海岸に向かう。
ここから時間がかかるかと思ったが、ヘアピンカーブをぐるぐる曲がるような山道ではなく、苦になるほどでもなく西の海岸に近づいた。

日本海側にでると、こんどは道の右に海を見て走るようになる。
海岸に港らしき人工物が見えてきて、江差町に入った。
江差町役場の駐車場に車を置いて(土曜日閉庁の日でほかに車はない)、古い街に歩いていく。


■ 旧中村家住宅
北海道檜山郡江差町字中歌町22 tel. 0139-52-1617

江差ではいくつか見ておきたいところがあるが、町の北部からはいっていくと最初に中村家住宅がある。
住宅の前の通りは「いにしえ街道」として、歴史のある道の風情を残すようにして整備されている。
高知県檮原(ゆすはら)もこんなふうだったと思い出す。

中村家は江戸時代から海産物の仲買商を営んでいた近江商人の大橋宇兵衛が建てた。
住宅は通りに面したほうは帳場などがあり商売の場。
奥に進んでいくと、屋内屋のように蔵があり、生活の場がある。
通りから奥へしだいに低く傾斜していて、そこを貫く通路は坂や階段になっていて下っていく。
いちばん奥はかつては海岸に面していて、荷揚げの作業場だった。
今では海岸は埋め立てられて陸になり、住宅のすぐ裏を国道が通っている。

ここで案内をされている方に話しをうかがった。
1980年から2年計画で大規模な修復工事が行われたという。
前の道が舗装を繰り返したことなどで高くなってしまっていたので、新しく石を敷き入れて住宅全体を55cm高くした。
幾棟も連なっているし、蔵まであるのをひきあげるのは大変な工事だったろう。
司馬遼太郎一行が『街道をゆく』の旅で訪れたのは1978年だから、修復工事より前のことになる。
住宅全体が高くなっているから、話を聞かなければわからないことだった。
須田剋太が『江差町文化財中山家』を描いている。
近くにやはり古い姿を残している「横山家」があるので、僕はどちらかだろうと思っていたのだが、絵に描かれているのは「中村家」だし、ほかに「中山家」というのはないとのこと。
「中山」としたのは、須田剋太のちょっとした勘違いだろう。
絵には左はしに信号が描かれている。
案内の方は、信号があったことは覚えがないという。

旧中村家住宅 須田剋太『江差町文化財中山家』
須田剋太『江差町文化財中山家』

江差で描かれたほかの絵についても教えてもらった。
『江差港より鷗島を見る』の絵のこと。
江差の町の背後に松の岱という高台がある。
司馬遼太郎の文章からそこに行ったことが書かれているから、この絵は松の岱から描いたのではと、僕は推測していた。
中村家の案内の方は、それほど高いところではなく、馬坂とか北前坂とか、今はいにしえ街道と名づけられている道から一段上がったところにある坂だろうといわれる。
『江差追分の歌聞へる江差町』の絵のことでは、古い家並みは、津花(つばな)だろうとのこと。
『江差の漁港』も、港で古い雰囲気が残っているのはやはり津花ではといわれる。
江差で最初に入ったところで有益な案内をえられてよかった。
(実際このあと教えられたところをめぐって大きな手ごたえがあった。)

■ 馬坂



高い位置から鴎島を見おろしている。
島の向こうの海面も見えている。


須田剋太『江差港より鷗島を見る』
須田剋太『江差港より鷗島を見る』

中村家を出て、いにしえ街道から馬坂をあがる。
坂道はあがりきると右に曲がって、いにしえ街道と並行して海をみおろして行く道になる。
木々の間から見おろすと港が見えて、須田剋太の絵のような眺めがあるのが、下の左の写真。(葉に焦点があってしまって島がボケている。)

馬坂から鴎島 松の岱から鴎島
馬坂から鴎島 松の岱から鴎島

右の写真は、翌朝、松の岱から見おろして撮ったもの。
絵では島の向こうの海面が見えているので、その点では右の写真が絵を描いた場所のように思える。
ところが、須田剋太はしばしば実際に立つ位置から視点をとばして描くことがある。
とくに高い視点から描く構図を好む傾向があり、たとえば通りの両側に家が並ぶ風景を描くのに、目の高さは家の1階ほどの高さにあるのに、2階から見おろしたように描く。
そうしたときには、1階からでは見えないはずのものも(たとえば2階の屋根瓦とか)描きこむ。
(たとえば[鳥取大横断-「砂鉄のみち」と「因幡・伯耆のみち」]のうち第3日の『鹿野町』、あるいは[春の奈良めぐり-「奈良散歩」ほか]のうち第4日の『今井町街頭』などで、ほかにも例がある)
それに絵に『江差港より鷗島を見る』と文字を記している。
松の岱は海岸からかなりの坂を上がった高台にあり、「江差港」という気分から遠くなっているだろうという気がする。
だから馬坂あたりから描いた可能性も低くないのだが、馬坂と松の岱のいずれも決定的な決め手はないので、どちらかと断定はしにくい。
(絵の近景に家の形がはっきり描かれているので、当時の写真でもあれば確定できるかもしれない。)

* 車を江差町役場から開陽丸青少年センターの駐車場に移した。
江差の街のすぐ沖合に鴎島があり、かつては島だった。
埋立で陸地が伸びていき、今は鴎島までながって、島ではなくなっている。
開陽丸青少年センターは、市街から鴎島への道が始まるあたりにある。


■ 開陽丸青少年センター
北海道檜山郡江差町姥神町1-10 tel. 0139-52-5522
http://www.kaiyou-maru.com/index.html

開陽丸は江戸幕府がオランダに発注してつくられた軍艦で、1865年に進水して、1868年には江差沖で嵐にあい、沈んだ。
1975年から海中から遺品を引き揚げる本格的な調査が行われた。
遺品は脱塩処理したうえ、復元した開陽丸内に一部が展示されている。
開陽丸青少年センター

1978年に江差を訪れた司馬遼太郎らは、発掘調査のために臨時に作られた作業場を訪れ、発掘をリードした石橋藤雄教育長にも会っている。

『街道をゆく』には掲載されなかったが、須田剋太が引き揚げられたものの数点を描いている。
今、開陽丸内の展示を見ていくと、それらしいものが見つかる。
とくに明確なのは「亀吉」と記された木札。(左の写真)
右の札には「開陽」と焼き印があるが、これは「亀吉」の木札の裏面。
引き揚げられた3万点をこえる遺品のなかで、開陽の遺品であることを文字で証明しているのはこれだけだという。
亀吉は船に乗っていた仕立て屋で、持ち物をいれていた柳行李も発見されている。

開陽丸 亀吉の木札 須田剋太『開陽丸より引揚げられた品物』
須田剋太『開陽丸より引揚げられた品物』


『当時のヒップス造船所』という絵があるが、開陽丸のなかの展示で、オランダでの軍艦製造を説明しているところに、すっかり同じ絵があった。
ただその展示にも、もとの出典がなんなのかは記されていなかった。
須田剋太『当時のヒップス造船所』
須田剋太『当時のヒップス造船所』

やや暗めの展示室を見ていたあと、階段を上がって甲板にでると、日射しがまぶしい。
すぐ前に鴎島がある。
海を眺めていると気持ちがはればれする。

■ 津花町

開陽丸から南に海沿いを歩く。
家々のあいだに国道から上の道に上がっていく細い道があるので上がってみる。
このあたりが中村家住宅で教えられた津花という地区になる。
上がりきったところに「沖の口役所跡」という案内標示があった。
藩が設けた港に付随する施設で、今でいえば税関+出入国管理事務所にあたるだろう。


細い道を上がりきった角に、倉庫らしきちょっとした大きさの建物がある。
そこから道が南に向かっていて、この風情が須田剋太の絵に似ている。
見比べると細部が違っていて、絵を描いたのがこことは特定できない。
でも、いにしえ街道が整備されていくらかきれいすぎる印象があるのに比べ、こちらにはさりげなくふるい道の情緒が漂っているのを感じた。
須田剋太『江差追分の歌聞へる江差町』
須田剋太『江差追分の歌聞へる江差町』

江差 津花の道

■ 関川商店
北海道桧山郡江差町姥神町22 tel. 0139-52-3969

古い道を少し歩いてみたあと、「沖の口役所跡」に戻る。

江差 関川商店
姥神大神宮のほうに向かいかけると、松前漬の看板が出た店があり、妻がみやげに買いたいというので関川商店に入った。

どこから来たときかれて埼玉からこんなことで来たと話し始めたところから、関川英章・みほ子ご夫妻からいろいろ教えていただき、長い時間話しこんでしまうことになった。

旧市街の外周を埋め立てて道ができたことは中村家住宅で教えられていた。そこの案内の方は須田剋太が描いたころのことを直接にはご存知でなかったけれど、中村家の前にはかつてたしかに信号があったという。
埋め立てで外周の道ができる前は、旧市街の(今は「いにしえ街道」という)道がメイン・ストリートだから、交通量が多かったろう。
鴎島に向けても、何次にも埋め立てがあり、拡大し、今はつながっている。
財源があるからではなく、補助金を得て公共工事で仕事をつくった。
丘の上の文化センターは閉館して、開陽丸の資料は青少年センターへ、その他は郷土館へ移った。
須田剋太の『江差の漁港』は、津花付近の港かと思っていたのだが、横山家などの屋敷が並んでいたところの海側とのこと。
埋め立てて道ができる前は、家々の裏はこんな海岸風景だったという。
なるほど、あらためて絵を見直せば、大きな木造の家が海に向かって並んでいる。

関川さんは、もとは新潟の柏崎から来た。北前船の経路だから、江差の繁栄を目指してこられたということだろう。
ご夫妻そろって司馬遼太郎のファンで、旅行にいくときはその地の『街道をゆく』を持って行くし、男の子に司馬遼太郎にちなんだ名をつけておられる。
ご家族の話もまじえて楽しいおしゃべりの時間を過ごし、横山家を見るようにということと、鴎島の夕景色をすすめられ、松前漬けを買って店を出た。

■ 横山家
北海道檜山郡江差町姥神町45 tel. 0139-52-0018

かつては街道と海のあいだに屋敷がズラリと並んでいたが、今も残るのは中村家とここだけ。
中村家は重要文化財として公開されていて、実際に人が暮らしているのはこちらだけ。
ニシン漁には大きな資金がいるから、とれれば大儲けだが、はずれると破産しかねないといわれる。でもそのための担保として土地をもって、悲惨な状況に陥ることは避ける用意をしてあった。
ところがニシンがだめになり、農地改革で土地もなくなって、厳しくなったという。

江差 横山家
中村家と同様にやはり奥まで長い。
家の中にこんなふうに坂道がある。
個人宅でこれだけの規模の古い家を維持していることがすごい。

横山家の裏に回って撮ったのが下の左の写真。
かつては道の右側にニシンを扱う家が並んでいて、今はすぐ前にある道路やその左の木立あたりは海だった。(写真は翌朝撮ったもの)

江差の国道 須田剋太『江差の漁港』
須田剋太『江差の漁港』

■ 姥神大神宮
北海道檜山郡江差町字姥神町99−1 tel. 0139-52-1900

『街道をゆく』に、
 江差の浜に、姥神(うばがみ)社という、北海道では古社というべきお宮がある。
という文章がある。


横山家のすぐ向かい側にあり、古社とはいってもこぢんまりしている。
8月9日、10日、11日には渡御祭が開催され、全国から人が集まるという。
姥神大神宮

* 今夜の宿は浜から少し上がった高台にある。
いったんチェックインして、荷物を置いた。
日没時刻が近づいてきて、関川商店ですすめられた日の入りを見に、また車で鴨島に向かった。


■ 鴎島

鴎島に渡り、坂を上がって、港からは向こう側になる位置に出た。
芝地になっていて、子ども連れの夫婦や、犬を散歩させる女性など、数人の人がいる。
足もとに岩礁があり、波が静かに寄せている。
夕陽は正面にあって、まっすぐこちらに光が射している。
太陽よりわずかに右に奥尻島が低く薄く見えている。
水平線より離れて平行に雲があるが、水平線はくっきりしていて、ゆっくり日が沈んでいった。
今日は札幌から長い距離を走ってきて、関川さんにすすめられなければいったん入ったホテルから出る気にならずに、この雄大な景色を見逃してしまうところだった。
中村家住宅で教えられて津花に行き、そこで入った関川商店ですすめられて絶景に到った。
たまたまのつながりでこうしたことが起きるのも旅の大きな楽しみだ。

鴎島からの夕陽

● ホテルニューえさし
北海道檜山郡江差町字新地52 tel. 0139-52-3311

* 翌朝、高台の商店+住宅街を抜けて、さらに高い位置にある松の岱公園にまず向かった。

■ 松の岱公園

司馬遼太郎一行が来たとき、ここには文化センターがあり、開陽丸にあった遺物がここに展示されていたのを見ている。
今もコンクリートのかなり大きな建物が建っている。

松の岱公園 もと江差町生涯学習センター 「江差町生涯学習センター」という標示があり、その下に「郷土資料室は檜山爾志郡役所へ移転しました」と記したパネルがある。(移転してからかなりの年数がたち、文字が色あせている。)

郷土資料室の資料は2つに分かれたことになり、海からの発掘物は復元した開陽丸に、その他の資料は江差町郷土資料館におさまっている。
文化センターより、やや高いところに神社があり、そこに上がる階段の途中から鴎島が見えた。

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第4日 松前町~函館
[松前町] 松前城 法憧寺松前藩主廟所 松前町郷土資料館・図書館
[木古内町] 木古内駅
[北斗市] トラピスト修道院 茂辺地港
[函館市] 笹流堰堤 赤レンガ倉庫群 函館山 スーパーホテル函館(泊)

* 渡島半島の西岸を下って、半島の南端にいたる。
しばらく南向きに走ってきたのだが、東向きに走るようになって松前町に入る。
町は南にある津軽半島と向き合う位置になる。
松前城に近づいて駐車場に車を置く。


■ 松前城・松前城資料館
北海道松前郡松前町字松城144 tel. 0139-42-2216

入場料金を支払って、1961年に再建された天守閣に入る。
内部は資料館になっている。さらっと見て外に出ると、そこに須田剋太が描いた本丸御門があった。
岩を方形に加工し、隙間なく石をすり合わせている。

松前城と門 須田剋太『松前城本丸御門』
須田剋太『松前城本丸御門』

■ 法憧寺・松前藩主廟所
北海道松前郡松前町字松城307 tel. 0139-42-2209

城の北には寺が集中している。
そのうちの1つ法憧寺(ほうどうじ)は、松前家の菩堤寺。
境内の北東隅に歴代藩主の墓所があった。
絵では描かれていないが、だれの墓か案内標示があり、左の祠のそばには「十四世二男側室 (氏名)」とある。
ほかに小さな墓だが、「十三世召使」というのがあった。
こういう所の決まりごとなのか、あるいは慣習なのか、わからないが、ずいぶん手厚い気がする。

歴代松前藩主廟所 須田剋太『松前町歴代松前藩主廟所
須田剋太『松前町歴代松前藩主廟所』

* 須田剋太が松前で描いた絵のなかで『松前藩家老屋敷孟宗竹林』というのがある。
近くに「松前藩屋敷」という江戸の街並みを再現したテーマパークがある。
ただしそこは古い屋敷をいくつか集めて移築したところだから、竹林があるようなところではなさそう。
松前市街に向かってきたとき、松前城に着く手前で「孟宗竹林」と左を指した案内標示を見かけたが、そこのことだろうか。
郷土資料館に行って尋ねてみようと向かった。


■ 松前町郷土資料館
北海道松前郡松前町神明30 tel. 0139-42-3060

松前町郷土資料館
3階建ての建物の2階に郷土資料館があった。
ところが展示室は公開されているが、まったく人がいない。
1階に図書館があるので、そちらをたよりにすることにした。

■ 松前町立図書館
北海道松前郡松前町字神明30 tel. 0139-42-4600

階段を降りて図書館に入る。
『街道をゆく』の挿絵の地をたずねていることを話し、『松前藩家老屋敷孟宗竹林』について尋ねる。
『街道をゆく』の文章では
 家老屋敷跡までは草を分けて進まねばならない。たどりつくと、石垣をたかく積みあげた土台などがのこっているだけで、あとは百草(ももくさ)の茂るがままになっている。
とある。
司書の方がいわれるところでは、「松前藩屋敷」はやはり整備されたテーマパークで、まったく様子が違うところ。
観光地図に「孟宗竹林」とあるところがそうかもしれないが、竹林に近づく道はとても狭くて、車で行くにはかなり窮屈な道だという。
前に別な所で狭い山道に入りこんで、目的地に行き着けないまま引き返そうとバックして道の角に軽くぶつけてしまい、レンタカーの休業補償を支払ったことがある。
そんなことを思い出してしまったし、あとの時間の都合もあるので、竹林を確かめに行くのは諦めることにした。

図書館ではもう1つ思いがけないことを教えられた。
『松前高校生の仮装パレード』という絵がある。

司馬一行は、学園祭で松前高校の生徒たちが町を練り歩いているのに出会っている。
松前高校は市街地から西に3キロほど離れたところにある。
僕は学園祭だからちょっとした距離はあっても市街地までいわば遠征してきたのだろうと思っていた。
須田剋太『松前高校生の仮装パレード』
須田剋太『松前高校生の仮装パレード』

ところが司書の方によると、そのころ松前高校は市街地にあったのだという。
今、松前城の西隣に松城小学校があるが、かつてはここに松前高校があった。
松城小学校は松前城内にあった。
松前高校が郊外に出て、そのあとに文化財区域である松前城内からでた松城小学校が玉突き式に移転したのだった。


竹林を描いた絵がある。
この絵についてあてにした郷土資料館には人がいなかったが、「あとで学芸員に照会すれば家老屋敷と竹林のことがわかるだろう」と図書館でアドバイスされた。


須田剋太『松前藩家老屋敷孟宗竹林』
須田剋太『松前藩家老屋敷孟宗竹林』

帰ってからお尋ねすると、松前町教育委員会の学芸員、前田正憲さんから丁寧な回答をいただいた。
武家屋敷が並んでいた頃の城下の配置図、それと対応する現代の地図、さらに挿絵と同じ位置を撮った写真まで添付していただいた。
観光地図にあり、道を走っていて案内標識に気がついた「孟宗竹林」がやはり挿絵の場所で、屋敷群からやや離れた位置にある。
松前藩の重臣新井田氏が本州から竹を持ち込んだとされていて、「新井田氏の竹」ということが「家老屋敷の竹林」というようにとらえられたようだ。

* 城がある一帯の南側を、東西に城下通りがある。
そこでランチにした。


● レストラン矢野
北海道松前郡松前町福山123 tel. 0139-42-2525

『街道をゆく』の文章では、「松前城趾の台上から町へ降りてくると、やや空腹を感じた」ので、「町なかの狭い通りにある店」でそばを食べたとある。
僕らは旅館が併設している店であわびごはんを食べた。
炊き込みご飯に5枚のあわびがのっている。
松前漬もそえられていて、今日の昼は土地の名物を食べられた。


レストランの前から見る城下通り。
すっきり整備されている。
ただ日曜日の昼ころだが、人通りがなくてひっそりしている。
松前町城下通り

 『街道をゆく』では、松前町の大きさのことがふれられている。
 この町の歴史の古さや歴史的権威の重さからいえば、不当なほどに小さな町なのである。
として、町役場でもらったパンフレットに、この取材の年1978年度の人口が18,903人とある。

人口の変化をたどると以下のようになる。
年   人口   減少数
1970年 18,624人
1975年 18,307人  317
1980年 17,524人  783
1985年 16,016人 1,508
1990年 13,546人 2,470
1995年 12,151人 1,395
2000年 11,108人 1,043
2005年 10,121人  987
2010年 8,750人 1,371
2015年 7,336人 1,414

全国各地で人口が減っているが、不思議に思うのは、減少数が、人口が減ったあとでも、人口が多かったときと同じくらいなことがよくある。
たとえば松前では、1980年17,500人ほどが、その後の5年間で1,500人ほど減っている。
2010年には、人口がすでに半分ほどの8,750人になっているのに、減少数が1,400人ほどもある。
減少率が同じなら理解できる気がするが、ベースの人口が小さくなっているのに減少数がほぼ同じということはどういうことだろう。
高校を卒業した若者が町の外へ出て行くだけではなさそうだ。
人口8,000人くらいの町で、5年間で1,000人以上の人がいなくなっていくというのは、住んでいる人にとってどういう思いになるものだろう。
司馬遼太郎がいうように、これほどの歴史があり、したがって観光資源があるともいえるが、そんな町でさえ人口減少から逃れられないのかとちょっと気持ちが沈む。

* 松前市街を出て228号線を東へ走る。
松前半島の最南端=北海道の最南端を通る。
対岸は本州青森の龍飛崎。
そこを過ぎると道は北向きになる。
右に海があり、その先に陸地の青い影が見えているのは下北半島になるだろうか。
北海道新幹線で函館から1駅目の木古内駅に寄ってみる。


■ 木古内駅
北海道上磯郡木古内町

かつてはここで江差線と松前線が分岐していた。
1988年に松前線が廃止、2014年には江差線のうち木古内-江差間が廃止された。
2016年3月に北海道新幹線が開業して新幹線の駅が置かれ、江差線の五稜郭駅 - 木古内駅間は「道南いさりび鉄道」になった。
北海道内最南端の駅になる。


広い駐車場があるが、たくさんの車がとまっていて、ほぼ満杯。
そばに「道の駅みそぎの郷きこない」があり、対面するように木古内駅がある。
どちらも新しい。
木古内駅

道の駅には有名レストランも入っていて、にぎわっている。
あしたは昼ころの函館発新幹線で帰る予定だが、ちょうどその列車がここを通るくらいの時間になっている。
道の駅をのぞいただけで、駅までは行かないまま離れた。

* 渡島当別駅の手前で228号線から左にそれ、すぐに道南いさりび鉄道の踏切を越える。
まっすぐで、ゆるやかな坂の道を上がっていくと、つきあたりに修道院がある。


■ トラピスト修道院
北海道北斗市三ツ石392 tel. 0138-75-2108

1896年に創設された日本最初のカトリック男子修道院。
月曜日の14時からだけ予約すれば内部を見学できるが、それも男性のみという厳しさ。
坂を上がって外観だけ眺めた。
外観きり見えないのに駐車場に車が多くて、脇にある売店でクッキーやソフトクリームが売れている。

『街道をゆく』の文章で、トラピスト修道院は、司馬遼太郎が20年ほど前に今東光に同行して寄ったときの回顧としてでてくる。
今東光のこのときの取材は修道院を見学することが主で、当然中に入る手配をしてあった。
あの中腹の修道院で出されたクッキーの旨かったことを思いだした。
『街道をゆく』の旅のときは、
「修道院が見えますよ」
 と、当別を通過するとき、F君が山の中腹を指さしてくれた。
とあるように通りすぎている。
ふつうに歩いていくと須田剋太が描いたように見えるところはないし、写真をもとにして描いたと思われる。

トラピスト修道院 須田剋太『トラピスト修道院』
須田剋太『トラピスト修道院』

* 228号線に戻って、北に走ると、わずかな距離で茂辺地(もへじ)港がある。

■ 茂辺地港
北海道北斗市

僕は『街道をゆく』の旅とは逆に江差-松前-函館というふうに走っている。
『街道をゆく』では、函館-松前-江差だった。
『街道をゆく』では、トラピスト修道院が見える前に、矢不来(やふらい)を通過している。
函館湾の海岸線を西へゆくと、矢不来という集落がある。ここを過ぎるとき、二十何年か前、今東光氏に新聞記者として随行したむかしを憶いだした。
このあと矢不来の歴史についての記述があるが、トラピスト修道院と同様に、『街道をゆく』の旅のときに寄ったわけではない。

矢不来の近くに茂辺地(もへじ)港という港がある。
須田剋太の『函館山遠望』が、海を隔てて函館山を描いているので、このあたりからだろうかと見当をつけて寄ってみた。
絵にある水辺は自然な海岸のようだが、茂辺地港はコンクリートでしっかり護岸されている。
わりと最近に拡張工事があったようなので、以前は絵のような風景があったかもしれない。
とはいえ、絵になら函館山山頂の様子をくっきり描いてしまうことができるにしても、茂辺地港からとするには遠すぎるだろうか。

茂辺地(もへじ)港から函館山 須田剋太『函館山遠望』
須田剋太『函館山遠望』

■ 笹流(ささながれ)堰堤 
北海道函館市赤川町

函館市街は、函館湾を囲むわずかな平地にある。
北東からは亀田半島の山地が迫っているが、その山地と平地の境にダムがある。
山地から流れ出てくる亀田川の水をいったんためて、市街に水を供給している。
1923年(というから関東大震災の年)にできたダムが、今も函館市民の重要な水源の1つになっている。
日本初のバットレスダムで、バットレスダムというのは、コンクリートの柱が格子状に連なり、中空になっていて、当時は高価だったセメントを節約できた。


下流側は公園になっていて、木々が繁り、緑の芝地があり、遊歩道がある。
見上げると、ダムというより都市にあるビルのように見える。
笹流(ささながれ)堰堤 下


ダムには両側から上がることができて、上がってみると、上流側にはいっぱいに水がたくわえられている。
笹流(ささながれ)堰堤 上

関東地方の常識では、ふつうこうした公園で火を使うことは禁止されるが、ここではジンギスカンを楽しむグループがいくつかあって、いかにも北海道らしい。

* 日暮れが近づいてきている。
ガソリンをいれてから函館駅前の営業所にレンタカーを返した。
駅からまっすぐ東にいく道があり、市電が走っている。
今夜のホテルは駅前から2駅目、「松風町」の近くにある。
荷物があるが、たいした重さではないし、たいして遠くもないので、街を眺めながらホテルまで歩く。
駅からの中央通りという感じの道なのに、かすかにさびれた印象を受ける。
建物があっただろう一角が空き地になっていたり、店が開いていても、しばらく前から変わらないままのような、活気がない様子をしている。

ホテルに入ってチェックインしたあと、食事をしに外に出る。
「松風町」から市電に乗って「十字街」で降りる。


● 赤レンガ倉庫群・函館ビヤホール
北海道函館市末広町14-12 tel. 0138-27-1010

港に面して赤レンガ倉庫街があり、ファッションや雑貨の店とか、レストランとかが営業している。
こちらは人が多く、アジア系外国人も多い。

生ビールを飲みながら食事をする。
太い柱が高い天井を支える大きな空間で、がっしりした構築感が気持ちを落ち着かせる。

赤レンガ倉庫群
窓からは港の水面が見えて、青い光が残っていたのが、食事しているうちに黒くなっていった。

* ぷらぷら歩いてロープウェイ山麓駅へ。

■ 函館山ロープウェイ

ここにも人が集中している。
ロープウェイに乗るのに待たされるかと思ったが、125人乗りという大きなゴンドラはたいしたもので、飽きるほど待つことはなかった。
山麓駅も山頂施設も、2016年の北海道新幹線開通にあわせて改修されている。

都内で見る華やかに光があふれる光景に比べてしまうともうひとつ迫力がたりない気がするが、函館駅付近が両側を海にはさまれてくびれている独特な地形が光でくっきり現れているのがおもしろい。

* 朝、江差を出てから170キロほど走り、ずいぶん密にいろいろなところを見てきた。ロープウェイを山麓駅で降りたあとは、駅からすぐのところにあったタクシー乗り場からタクシーに乗ってホテルに戻った。

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第5日 函館~北海道新幹線
[函館市] 茶房ひし伊 冨茂登 函館市地域交流まちづくりセンター 姿見坂 函館ハリストス正教会 元町配水場 摩周丸 函館駅

* 朝食のあと、市電で「松風町」から「宝来町」に向かった。
函館の市電は区間に応じて210~250円するが、今日は1日乗車券600円を車内で買った。


 夜、街へ出て宝来町で夕食をとった。
 その店の軒をくぐるとき、ふとふりかえると、坂ののぼり傾斜を背にして-つまりは海に向かって-銅像が立っているのに気づいた。
 食事を終えて出るとき、銅像の高い基壇に近づいて、下のほうの銅の文字をみると、高田屋嘉兵衛とあった。

司馬の文章に「街へ出て宝来町で夕食をとった」とあるから、飲食店が集まる繁華な一角を予想していた。
停留所を降りてみると、静かな住宅街で、ポツリポツリと店がまじっている。
角に「肉の阿さ利本店」があった。
古い、ちょっとそそる建物で、「1階精肉部 2階すき焼部」とあり、きのうの夕食をこちらにしてもよかったかなとチラっと思う。
次の角には、壁がピンクに塗られた洋館ふうの「井上米穀店」がある。


● 茶房ひし伊
北海道函館市宝来町9-4

そこで角を曲がると、次の角には3軒並んで古い建築が連なる一角があった。
須田剋太が描いた『函館宝来町旧家』そのままの風景が現れて、むしろ意外な気がした。
この絵が描かれたのは1978年のことで、半世紀ほども経っている。
文化財に指定されるほどの建築であればともかく、ふつうの町家だとしたら建て替わっているかもしれないと思っていた。

中央の店には「ひし伊 アンテーク エレガンス」という看板がかかっている。
洋家具、レース、古布、雑貨を扱っている。
左の店は茶房ひし伊というカフェになっている。
寄ってみたいが、まだ朝いちで早すぎるのが惜しい。

函館市宝来町 ひし伊 須田剋太『函館宝来町旧家』
須田剋太『函館宝来町旧家』

● 冨茂登(ふもと)
北海道函館市宝来町9-7 tel. 0138-26-3456

冨茂登(ふもと)
ひし伊のすぐ隣に料亭があった。
そのすぐ前に高田屋嘉兵衛の銅像がある。

 その店の軒をくぐるとき、ふとふりかえると、坂ののぼり傾斜を背にして-つまりは海に向かって-銅像が立っているのに気づいた。

こういう位置関係から判断して、夕食をとったのはこの冨茂登のようだ。
司馬一行は函館では湯川(ゆのかわ)温泉の宿に泊まっている。
湯川温泉は函館市街の西にあり、市電の駅で10駅以上も離れている。
温泉の宿に泊まりながらかなり遠い店にわざわざ出かけているから、司馬自身が縁があるとか、だれかしかるべき人がすすめるとかいったことがあったのだろう。
冨茂登は由緒ある料亭で、函館山のふもとにあることから名づけられたという。
その前の道は護国神社坂といい、坂の上のほうを見あげると函館山がある。
山を背に、海を見おろすように高田屋嘉兵衛の銅像が建っている。

高田屋嘉兵衛肖像


須田剋太『高田屋嘉兵衛肖像』
須田剋太『高田屋嘉兵衛肖像』

* 函館湾に向かって歩く。
「十字街」停留所前の角にクラシックな建物がある。


■ 函館市地域交流まちづくりセンター(旧丸井今井百貨店)
北海道函館市末広町4-19 tel. 0138-22-9700

建物は1923年(というから関東では大震災があった年)、丸井今井呉服店函館支店として鉄筋コンクリート構造で建った。
交差点に面した角を円形にして、その屋上にはドーム型の展望室をつくった。
1930年に増築したときにエレベーターを設置したのが今も動いていて、東北以北最古のエレベーターになっている。
函館市地域交流まちづくりセンター(旧丸井今井百貨店)

1969年に丸井今井函館店が五稜郭に移転し、1970年から2002年までは、函館市役所末広町分庁舎として使用された。
老朽化に対応することと創建時の姿に復元する工事を経て、2007年から「地域交流まちづくりセンター」になった。
市民活動の支援と、地域情報の発信をしているところで、観光案内もしてくれている。
中に入って、『街道をゆく』の絵の地をさがしていることを話し、わかりにくかった『元町の坂』のことなど尋ねた。
教えていただいたのは船越未生さんで、内部も案内してもらった。

丸井今井函館店のエレベータ 手動エレベータにも乗せてもらった。
かごが上下するとき、中からは壁側に記された階数を示す数字が動いていくのが見える。
最上階からは市街を見わたせる。
東京日本橋高島屋にも手動のエレベータがあり、数台並んでいる。
こちらは1台きりだが、エレベータの周囲と近くの階段あたりは大理石で作られ、ずいぶん豪華で力の入った建築だったことがしのばれる。

■ 元町の坂

須田剋太『函館元町の坂』の場所を探しにいく。
東に函館港、西に函館山があり、その間に住宅街がある。
とうぜん住宅街の中には、山から港方向に下る坂道がいくつもある。
元町公園から下る基坂は広く、船越さんの話でも、それより北、それもかなり北寄りだろうとのことだった。

姿見坂 須田剋太『函館元町の坂』
須田剋太『函館元町の坂』

写真は姿見坂。
幾本か坂道を見たなかで、これがいちばん絵に似ているように思えるが、40年ほども経っているから、どの坂でも様子はずいぶん変わっていることだろうし、ここと断定できるような決め手はない。

■ 函館ハリストス正教会
北海道函館市元町3-13 tel. 0138-23-7387

道を戻って元町公園を過ぎると、教会が集中している一角がある。
須田剋太はハリストス正教会を描いている。

函館ハリストス正教会 須田剋太『函館市ハリストス教会』
須田剋太『函館市ハリストス教会』

* さらに南に歩くと、夕べ来たロープウェイ山麓駅に近づく。
駅に行き着く前に水道施設が公園になっているところがある。


■ 元町配水場
北海道函館市元町1-4 tel. 0138-22-2871(元町配水場管理事務所)

日本最初の水道は横浜で、2番目に函館の水道が1889年に完成した。
きのう見た笹流堰堤から送られてきた水は、この配水場を経て市内に供給されているようだ。


配水池の周辺が公園になっていて、上空をロープウェイのワイアが横切っている。
すぐ上をゴンドラが通過する眺めは迫力がありそうだが、残念ながら今日は運休になっている。
元町配水場

台風が近づいていて、まだ天候は危険なほどの感じはないが、函館山に霧がかかってしまっていて、上がっても展望がきかなくなっている。
これでは運転しても上がる人はまずないだろう。

* また港に向かって、「十字街」停留所近くまで坂を降りてくる。
市電が走る通りに面していい表情をした建築があり、入ってみる。


■ はこだて工芸舎
北海道函館市末広町8-8 tel. 0138-22-7706

もとは1935年に建った梅津商店の建物。
茨城県の人、梅津福次郎が明治半ばに函館に来て、食料品・雑貨・酒類の卸業で成功した。
今は今ふうの雑貨を商う店が入っている。
妻がどっかで見たようなところだというので何だろうと思っていたら、店内に『世界から猫が消えたなら』という映画のロケに使われたという説明があった。
ことし2016年5月に公開されたばかりで、一緒に見たのだが、僕はすぐには結びつかなかった。


映画では、ここは映画館「ミナト座」で、木のカウンターがあって、チケットを売る宮崎あおいが座っていた。
外観では、左の丸くした壁面の高いところに「ミナト座」の看板がかかり、ガラスの内側には映画のポスターが並んでいた。
はこだて工芸舎

● 函館麺厨房あじさい紅(くれない)店
北海道函館市豊川町12-7 函館ベイ美食倶楽部 tel. 0138-26-1122

函館麺厨房あじさい紅(くれない)店 昼どきになり、また赤レンガ倉庫街をふらふら歩いて、ラーメンの店に入った。
旭川は醤油ラーメン、札幌は味噌ラーメン、函館は塩ラーメンが名物だという。
ここまで来てようやく名物のラーメンを食べた。

* 「食市場通」から「函館駅前」まで市電に乗る。

■ 摩周丸

青函連絡船に使われていた摩周丸が保存公開されている。
学生のころ、友人3人と東北を旅行したことがある。
青森で宿に泊まるかわりに、夜の連絡船に乗り、深夜だったか早朝だったか、函館に着いた。
朝市で朝食をとり、4時間函館にいただけで青森に戻る船に乗った。
僕はそのときが北海道に来た最初だった。
以後何度か来ているが、いつも飛行機だったので、青函連絡船に乗ったのはそのときの1往復きりだった。
摩周丸に500円払って見物したが、とくに懐かしい思い出がよみがえってくるようなことはなかった。

摩周丸から函館山の眺め
摩周丸からの眺め。
向こうは函館山で、山頂は雲に隠れている。

茂辺地港からかと推定した『函館遠望』の絵は、このあたりから描いた可能性もあるだろうか。
市街地の建物群の高方に函館山の山頂が見えて、距離感は手ごろだが、手前の水辺が、青函船が発着していた港付近にしてはのどかすぎる気がする。

* 歩いて夕べ泊まったホテルに戻り、預けてあった荷物を受け取る。
「松風町」から「函館駅前」まで市電に乗る。
これで3回乗ったので、1日乗車券600円を買ったのがぎりぎりムダにならなかった。

このあと函館駅発14:14のはこだてライナーに乗る予定。
14:33に新函館北斗駅に着いて、14:44発のはやぶさ26号東京行の指定席をとってある。
函館駅でまだ待ち時間があり、2階に上がってコーヒーショップに入った。


● タリーズ

函館タリーズ ガラス張りの明るい窓際のカウンター席があいていた。
コーヒーとロールケーキ。
すぐそこに摩周丸や朝市の商店街。
向こうには雲がかかった函館山。
旅の終わりのひと休みにちょうどよかった。

* 新函館北斗駅では乗り換え時間が20分ほど。
いろいろ駅弁を売っているらしいけれど、初めての駅で様子がわかないので、函館駅で駅弁を買った。


■ 北海道新幹線

14:44発の新幹線は青函トンネルに15:05ころ入った。
出たのが15:30近く。
トンネル内ではスピードを落としているとしても、ずいぶん長い。

走っているうちに、雨のところがあり、晴れのところがあり、いかにも嵐が近い感じがする。
途中で虹がかかっているのも見た。 

北海道新幹線から虹

「明日は台風で遅れや運休がある見込み」ということを、繰り返し車内放送でいっている。(実際そのとおりになったし、道内では大きな被害があった。)
僕らが北海道に行く前にもやや荒れた気候だった。
夏の終わり、嵐と嵐のあいだのきわどいタイミングの旅で、いくらか降られたときもあるけれど、なんとか嵐のあいまの平穏なときに旅をできた。


函館駅で買った駅弁を食べる。
酒は新十津川町の金滴酒造で買った北海道新幹線用の酒で、ほろほろいい気分になる。
録画した映像を見るように、そっくりもう一度繰り返してもいいと思えるほどに楽しい旅になった。
金滴 北海道新幹線開業記念

* 家に帰るときも雨はなくて傘がいらずに着いた。
近くの西友に明日の朝食用のパンと牛乳など買いに行った。
昼は函館でラーメンを食べていたのに、飛行機を使わずに埼玉まで帰って明日の買い物に行くなんて、新幹線効果はすごいと実感した。


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参考:

  • 『街道をゆく15』「北海道の諸道』 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1981
  • 『新十津川百年史』 新十津川町史編さん委員会 新十津川町役場 1991
  • 『父祖たちの風景』 上杉朋史 響文社 2013
  • 『安田侃の芸術広場 アルテピアッツァ美唄』北海道新聞社編/刊 2002
  • 『江差 街並み今・昔』 松村隆 北海道新聞社 2003
  • 『松前町史 通説編 第1巻 下』 松前町史編集室 松前町 1988
  • 『花はくれない 柳はみどり』 尾形京子/語り 吉田幸子/聞き書き 2006
  • 4泊5日の行程 (2016.8/25-29)
    (→電車 ⇒市電 -レンタカー ⇨タクシー …徒歩 >飛行機)
    第1日 羽田空港>旭川空港-新星館-旭川市博物館-旭川駅-太郎吉蔵-ホテル三浦華園(泊)
    第2日 -新十津川駅-新十津川町町役場-出雲大社-新十津川神社-金滴酒造-安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄-月形樺戸博物館-北海道庁…札幌時計台…テレビ塔…観覧車ノリア…ロテル・ド・ロテル(泊)
    第3日 -洞爺湖-旧中村家住宅-開陽丸青少年センター-沖の口役所跡…関川商店…横山家…姥神大神宮-鴎島-ホテルニューえさし(泊)
    第4日 -松の岱公園-天の川河口-勝山館跡ガイダンス施設-松前城…法憧寺 松前藩主廟所…松前町郷土資料館・図書館-木古内駅-トラピスト修道院-茂辺地港-笹流堰堤-スーパーホテル函館⇒赤レンガ倉庫群 函館ビヤホール…函館山ロープウェイ⇨スーパーホテル函館(泊)
    第5日 ⇒茶房ひし伊…冨茂登…高田屋嘉兵衛銅像…旧丸井今井百貨店…姿見坂ほか…カトリック元町教会…函館ハリストス正教会…元町配水場…はこだて工芸舎…赤レンガ倉庫群 函館麺厨房あじさい⇒函館駅…摩周丸…スーパーホテル函館⇒函館駅・タリーズ→新函館北斗駅→大宮駅