紀伊半島で川めぐり-「十津川街道」と「熊野・古座街道」


紀伊半島に行った。
中央部を流れる十津川に沿って北から南へ「12十津川街道」、半島の南端に出てからは古座川・周参見川に沿って東から西へ「8熊野・古座街道」をたどった。
吊り橋や潜水橋を渡り、河岸の床屋跡をたずね、流れの速さ、水の色の変化に驚き、川にひたる旅になった。

第1日 十津川街道 [関西空港 千早峠 和風レストランよしの川 五條代官所跡 天辻峠 谷瀬の吊り橋 十津川村歴史民俗資料館 十津川高校 神湯荘(泊)]  
第2日 十津川街道 [玉置神社 瀞峡 熊野本宮大社 熊野速玉大社・佐藤春夫記念館 熊野川河口 那智大滝・熊野那智大社・那智山青岸渡寺 ホテル浦島(泊)] 
第3日 熊野・古座街道 [橋杭岩 潮岬灯台 無量寺・応挙芦雪館 浅利理容所跡 河内神社 若衆宿跡 古座川潜水橋 一枚岩 雫の滝 日置川河口 関西空港] 


第1日 十津川街道 [関西空港 千早峠 和風レストランよしの川 五條代官所跡 天辻峠 谷瀬の吊り橋 十津川村歴史民俗資料館 十津川高校 神湯荘(泊)]

* スターフライヤーに乗って羽田から関西空港まで飛び、レンタカーを借りる。
阪和道の岸和田和泉I.C.で降り、170号線、河内長野市街、310号線と経由していく。
観心寺の前を通る。


■ 金剛山観心寺
大阪府河内長野市寺元475 tel. 0721-62-2134

司馬遼太郎一行も大阪からタクシーに乗って南へ向かっている。

 私どもも、意外に早く観心寺の門前に着いてしまった。
「ここは観心寺じゃありませんか」
 と、須田画伯が、くびを伸ばして山門を見た。(『街道をゆく 8』「熊野・古座街道」司馬遼太郎。以下、第2日までの引用文について同じ。)

ここは『街道をゆく』「河内みち」の訪問地で、僕も4年前に来たことがある。→[小さな寺と高い塔-「河内みち」]

* 大阪府河内長野市から奈良県五條市へ千早峠を越える。

■ 千早峠

五條方面を見はるかす。
あいにくぼんやりかすんでいる。
たくさんの鳥の声がする。

千早峠から五條市 須田剋太『千早峠より五条市をのぞむ』
須田剋太『千早峠より五条市をのぞむ』

(奈良県五條市については「五條」と「五条」の表記が混在している。市の名称は正式には「五條市」だが、須田剋太は絵に「五条市」と記しているので、絵のタイトルとしてもそれにしたがう。)

* 五條市街に入る。
ちょうど昼時になっている。
『街道をゆく』の旅でも五條で昼食をとっている。
近くの栄山寺まで須田剋太が来たことがあるという、、吉野川を見おろすところにあるレストランに入った。


● 和風レストラン よしの川
奈良県五條市小島町449-1 
tel. 0120-367-105 0747-23-0123(さきやま観光株式会社)


店内はひろびろしていて、吉野川に面した側は大きなガラス張りで、明るい。
川を見おろす眺めのいい席に座った。
和風レストラン よしの川

今夜は山の中の旅館に2食つきで予約してある。
夕食は当然に和食だろうからと考えてハンバーグにした。
同行している妻はエビ天をとった。
少しずつシェアしてみると、エビ天が立派でとてもおいしい。
もう一度これを食べにきてもいいなと思うくらいだった。

『街道をゆく』では昼食の店をこう記している。
吉野川の水が、磧(かわら)でせめぎあいながら流れている。その川そばに、鉄骨製ながら数寄屋の感じをだしている新築の建物があって、そこが食堂だった。
文章に店名はないのだが、川のそばにあり、栄山寺が近いということもあり、ここと考えて間違いないだろう。

食べ終えるとレジで「ポイントカードをお持ちですか」ときかれる。
「遠いので」といいながら、この店に選んできたわけを話す。
司馬一行が食事をした(らしき)ことを店ではご承知でなかった。
司馬一行は自分たちからは名のらないだろうから、店のほうで気がつかなければ、こういうこともあるだろう。

* 五條市の中心部に戻る。
市役所の近くに、五條市史跡公園がある。


■ 五條市民俗資料館(五條代官所跡)
奈良県五條市新町3-3-1 tel. 0747-22-0450

明治維新の5年前に、尊王攘夷派が五條にあった江戸幕府の代官所を襲い、焼き払った。ここでいわば革命軍が勝利したのだが、時期は新時代にはまだ早く、幕府軍に鎮圧された。
代官所は焼失したあと早い時期に場所をかえてそっくり再建された。
もとの五條代官所は、今、小学校や市役所がある所だったが、再建されたのは、今、長屋門(=民俗資料館)がある所になる。
明治維新後、代官所は郡役所や裁判所になった。
裁判所は建て替えられてもとの代官所本体は失われたが、長屋門は五條市が譲り受け、旧来の姿をのこして民俗資料館としてつかわれている。
こうした経過は民俗資料館の窪田照久さんにうかがった。(もっと詳細な推移があったのだが簡略にしている。)
窪田さんが小学生だったころには、今の長屋門を抜けた先に代官所の建物があり、堀も残っていたという。

ここで須田剋太が2枚描いている。
明るい笑顔をした受付の女性と、親切なボランティアガイドの男性に、いろいろ話しをきかせてもらいながら絵と現状を比べてみた。


五條代官所跡

「明治維新発祥之地」の碑
須田剋太『五条代官所明治維新発祥之地』
須田剋太『五条代官所明治維新発祥之地』

「明治維新発祥之地」の碑があり、左下の写真のようなもの。
左上の写真で、正面に向かう道の左の植え込みの中にある。
ところが右の須田剋太の絵では、正面の門のすぐ前に、門をふさぐような位置にある。
代官所のお二人が「こんな大きな碑を移設することはないし、そもそも門前中央に置くはずがない、絵は合成だろう」といわれる。

その正面の門だけ大きく描いたのを比べると、こんなふう。

五条代官所旧門 須田剋太『五条代官所旧門』
須田剋太『五条代官所旧門』

絵が描かれたよりあとに門を改修したという。
門の手前右手に小屋があったが、右の絵の右はしに部分が見えているのがそれらしい。
かつてその小屋には太鼓台を収めてあったが、改修のときに小屋は撤去し、太鼓台は門を入って左奥の展示室に移してある。

今日はこれから十津川へ向かうと話すと、この先で崖崩れがあったとのことで、親切に電話で問い合わせていただいた。
迂回路があり、係員がいて誘導しているから南へ抜けていけるというので安心した。

* 五條からは168号線を南に走る。
だいぶ紀伊半島の中に入りこんだ気がするのに、まだ五條市が終わっていないあたりに天辻峠がある。
ここは五條代官所を襲った天誅組が通ったいわれのあるところで、司馬遼太郎は峠まで登りかけたが、先まで行っては今夜の宿に着くのが遅くなってしまいそうなので諦めている。


バス停『天辻』付近 須田剋太『天辻峠にて』
奈良交通八木新宮線「天辻」バス停 須田剋太『天辻峠にて』

* 阪本というあたりで天(てん)ノ川の橋を渡って、天ノ川に沿って南下するようになる。
天川村、五條市内では天ノ川だった川が、十津川村に入ると十津川になり、和歌山県に入ると熊野川になって熊野灘に注ぐ。


■ 谷瀬(たにぜ)の吊り橋
奈良県吉野郡十津川村谷瀬

十津川村に入ると吊り橋がある。
川の流れよりずっと高い位置にある。
足もとがすかすかして、涼しく、高度感が快い。

谷瀬(たにぜ)の吊り橋


須田剋太『十津川谷瀬の橋(A)』
須田剋太『十津川谷瀬の橋(A)』

* さらに南下すると十津川村役場がある。

■ 十津川村役場
奈良県吉野郡十津川村大字小原225-1 tel. 0746-62-0001

このところ行く先々で人口が気になる。
十津川村の人口はこんなふうで、地方の自治体ではほとんどどこも減少傾向にあるが、1970年比で半分以下になっていて減り方が激しい。
人口密度は5.08人/km²。

1970年    8,502人 減少数
1975年    8,086人   416
1980年    6,627人  1,459
1985年    6,001人   626
1990年    5,516人   485
1995年    5,202人   314
2000年    4,854人   348
2005年    4,390人   464
2010年    4,112人   278
2016年(6/1) 3,417人   695

『街道をゆく』の旅のとき、一行はここで西川中学校長の勝山毅氏と知り合った。
勝山氏はここから同行して、この夜の宿の神湯荘で食事をともにするまでつきあっている。
このあと行った十津川高校で勝山氏はすでに亡くなられたときいた。
その西川中学校と上野地、小原、折立の4校の中学校が統合して、2012年に十津川村立十津川中学校が新築開校した。
十津川村の面積は672.38 km²で、東京23区全体の面積621.98km²より広い。
ここに中学校が1校だけ。
十津川高校と中高一貫教育をしているというが、具体的にどんな学校生活になるのか、想像しにくい。

■ 十津川村歴史民俗資料館
奈良県吉野郡十津川村大字小原225-1 tel. 0746-62-0137

十津川村歴史民俗資料館 役場の向かい側の高台にある。
もとは(これから行く)十津川高校内にあり、『街道をゆく』には「十津川高校の校庭を横切って民俗資料館へゆく途中...」という文章がある。
これは1977年のことだったが、現在地に1981年に移転開館した。

須田剋太が『民族館中の野猿』を描いている。
野猿(やえん)というのは、深い谷を渡るためのローテクなロープウェイ。
両岸を結んだワイヤーロープに座席を吊り下げ、乗った人が自力で引き綱をたぐり寄せて進む。
猿が木のつるを伝って行く様子に似ているので野猿という。
今の民俗資料館にも野猿を展示してあった。

十津川村歴史民俗資料館の野猿 須田剋太『民族館中の野猿』
須田剋太『民族館中の野猿』

十津川では1889年に大水害があった。
被災者の多くが北海道へ移住し新十津川町をつくった。
その水害の関連資料とあわせて、画家・絹谷幸二が災害の様子を復興を描いた「十津川に昇る太陽」も展示されている。
(このあと夏には北海道の伸十津川町に行った。→[「北海道の諸道」-開通まもない北海道新幹線に乗る])

* さらに南下して十津川高校に寄る。

■ 奈良県立十津川高校
奈良県吉野郡十津川村込之上58 tel. 0746-64-0241

校内に入ると、今日の授業は終えてクラブ活動の時間になっていた。
クラブごととか、親しい仲間同士とか、あちこちに生徒たちのいくつものグループができている。気候はいいし、放課後だし、なんとなしリラックスした雰囲気がある。
すれ違うと生徒たちが「こんにちわ」と声をかけてくれる。
義務でしているとか、照れるとかいう感じがなく、自然で気持ちがいい。

十津川高校の旧資料館
グループの1つのところに行って、かつて校内にあった民俗資料館のことをたずねた。
野球のグランドの先、バックネットの向こうにあるのがそうで、今はクラブの部室になっているという。

それはわかったが、校舎のことまでは生徒たちでは無理そうなので、事務室に行って、わけを話してたずねた。
校長室に案内されると、壁に校舎の写真が数枚かかっていた。
1973年に刊行された『県立移管30年のあゆみ』という本も見せていただき、壁の写真と見比べながら説明していただいた。
長い歴史がある高校だが、校舎のことを中心に整理すると以下のようになる。(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲは、3代の校舎を示す。ただしここに描かれた校舎に限った順を示していて、Ⅰより前の校舎もあった。)

1864年 十津川高校の前身「文武館」が孝明天皇の内勅により創立された
1865年 折立村字平山に新館舎落成(Ⅰ)
須田剋太『大正初期の文武館』(Ⅰ) 須田剋太『大正初期の文武館』

1927年 十津川村込之上の現在地に新校舎落成し移転(Ⅱ)
須田剋太『十津川高校 思い出多い旧本館』(Ⅱ) 須田剋太『十津川高校 思い出多い旧本館』(Ⅱ)

1942年 奈良県に移管され「奈良県立十津川中学文武館」となる
1948年 学制改革により「奈良県立十津川高等学校」 男女共学を実施
1973年 全面改築(Ⅲ)
須田剋太『文武館の本館』(Ⅲ) 須田剋太『文武館の本館』(Ⅲ)

現在(2016年)の校舎 十津川高校

『文武館の本館』は、そっくり現校舎なので、たぶんここでスケッチしたろう。
ほかに現在の校舎を描いた『十津川高校A』『十津川高校B』の2点があって、対岸からの校舎を描いている。現存しない過去の校舎とあわせて、壁の写真とか本とか、何かしらの資料をもとに描いたと思われる。

職員も生徒も好感の人ばかりで、とつぜんの闖入者に親切に教えられてさわやかな気分になって門を出た。

* 十津川高校から近くに数軒の宿が集中している十津川温泉がある。
今夜の宿はそれより奥、国道からそれて上湯川に沿っていった先にある。
細い道だが、すれスレ違いのためのふくらみがいくつもあって、走りやすい。
夕方なのに向こうから来る車が多い。集落があるとか、多く人が訪れる施設があるとかいうふうでもないのに、どこからやってくるのだろう?


● 神湯荘
奈良県吉野郡十津川村大字出谷220 tel. 0746-64-0256

神湯荘 十津川
今夜は『街道をゆく』の旅で司馬一行が泊まった宿に僕も予約してある。
「日本秘湯を守る会」と「源泉掛け流しの宿」の提灯がかかっている。

神湯荘の川原の温泉
玄関前に掲示があり、日帰り用の川原の湯が流失して、今は入れないことのお断りがしてあった。


須田剋太が右の絵のほかにも『十津川 川湯にて』という、川原で温泉にはいる人を描いている。
神湯荘に泊まって川原の温泉を描いたろうか。
ところが、絵の右はしに橋が見えるが、神湯荘の近くには橋はない。

須田剋太『川原温泉』
須田剋太『川原温泉』


『十津川』という絵には、上の『川原温泉』と似た橋が描かれている。
まぎらわしいことに、168号を南に行くと田辺市に「川湯温泉」というのがある。僕は行かなかったのだが、Googleのストリート・ビューで見ると、その川湯温泉には絵によく似た橋がある。
須田剋太『十津川』
須田剋太『十津川』

神湯荘の川の湯は閉鎖されていて確認できなかったし、田辺市の川湯温泉までは行かなかったので、わからないままになった。

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第2日 十津川街道 [玉置神社 瀞峡 熊野本宮大社 熊野速玉大社・佐藤春夫記念館 熊野川河口 那智大滝・熊野那智大社・那智山青岸渡寺 ホテル浦島(泊)]

神湯荘から発つ朝のことを司馬遼太郎がこう書いている。
 須田画伯が、廊下のはしにすわって、いかにも幸福そうだった。
須田剋太は『街道をゆく』の旅がとても好きだった。

* 宿を出て国道に戻る。
その途中で、きのう気がつかなかった野猿があった。
いつでも使っていいようになっている。


十津川を渡る野猿 須田剋太『十津川ヤエン』
須田剋太『十津川ヤエン』

* 国道168号線に出て、十津川温泉まで戻り、その少し先で十津川をまたぐ橋を南に越える。
曲がりくねった道を奥へ奥へと進入して、玉置神社に着く。

■ 玉置神社
奈良県吉野郡十津川村玉置川 tel. 0746-64-0500
http://www.tamakijinja.or.jp/

坂道が苦手な司馬遼太郎は高所にある玉置神社に行くのをためらった。車で近づいて、あと歩くのは500mときいて、行ってみる気になった。
ところが車を降りた先は「道というより崖の割れ目で、踏み石のようなものが積みかさねてある」というふうで、「ときどき目の昏(くら)むおもい」をして、ようやくたどり着いている。
今は駐車場があり、歩く道も整備されているが、境内がすぐそこにありそうなのに大きな杉を見あげながら大回りしていく。

玉置神社の神代杉 須田剋太『神代杉玉置神社』
須田剋太『神代杉玉置神社』

神社には長い歴史があり、かつては今より多くの建物があり、大勢の僧がいたという。

玉置神社本社 須田剋太『玉置神社』
玉置神社本社 須田剋太『玉置神社』

もとは神社の別当寺だった建物が、 神仏分離後は社務所・台所として使われていて、重要文化財に指定されている。
そこに拝観料をおさめて入ると、僧がなかを案内してくれる。

玉置神社の鐘楼と社務所
重要文化財の社務所。
右手前にあるのは鐘楼。
須田剋太『玉置神社内彩色杉戸ぶすま』
須田剋太『玉置神社内彩色杉戸ぶすま』

中は杉の一枚板の板戸と板壁60枚ほどで仕切られていて、その戸と壁に京から狩野派の絵師が招かれて画を描いた。
高い寒い山中にあり、火鉢に炭を入れて暖房したから、客の出入りが多い部屋では白鳥がすすけて黒鳥になっているほどだが、奥にいくほど絵がきれいになる。
ただし、いちばん格式の高い奥の部屋の2枚が、京から持参した絵の具が足りなくなり、下地(背景)を塗れなくなってしまった。
それで主題の植物を描いているが、背景は板がむきだしのまま。
木目がくっきり見えていて、現代美術のようなおもしろさがある。

玉置神社の絵馬堂
絵馬堂
須田剋太『玉置神社山門』
須田剋太『玉置神社山門』

* これから熊野本宮と瀞八丁に寄って新宮に向かいたい。
玉置神社からは道の選択が2通りある。
1 十津川温泉に戻り、168号線を南下、熊野本宮-瀞八丁-新宮
2 玉置神社から林道を東に進んで瀞八丁-熊野本宮-新宮
距離的にはどちらも同じくらい。
どちらのコースも一部同じところを往復しなくてはならないというメンドウがあるのも同じ。

旅に出る前からどちらにするか悩んでいた。
1のコースでは、玉置神社から瀞八丁に向かう林道が四駆とかではない普通のレンタカーで抜けられるような道かどうかという不安があった。
来てみると、十津川温泉から玉置神社までの道が狭く曲がりくねって走りにくかった。あの道をもう一度走りたくないという理由で、1のコースに決めて、玉置神社から林道を先に進むことにした。
細いけれど荒れたところはなくて、わりとすんなり瀞八丁に着いた。


■ 瀞峡

十津川村営バスの終点折り返し場から階段を降りると名勝の瀞八丁になる。
ちょうど奈良県・和歌山県・三重県の3県の県境でもあって、「三県境」の案内表示もある。
深い碧色の水をグレーの崖が囲み、崖の上部は緑の木々で覆われている。

瀞八丁 須田剋太『瀞八丁』
須田剋太『瀞八丁』

『街道をゆく』の文章には瀞八丁に寄ったことは書かれていない。
玉置神社を出て「夕刻に下山し、南に向かった。」というふうに、「十津川街道」はしめくくられている。
ところが『街道をゆく』の行程をのちにたどりなおして作られた『週刊 司馬遼太郎 街道をゆく』には、左の写真のような遊覧船に司馬遼太郎と須田剋太が乗っている写真が掲載されている。
玉置神社を出た日か、もう1泊した翌日にでも水の風景を楽しんだようだ。

* ここからかなり戻る感じで走る。
Uの字の右上に瀞八丁があり、左上に熊野本宮がある。
今日の最終目的地はUの字のずっと右下にあるのに、右上の瀞八丁から左上の熊野本宮まで、Uの字に走る。

熊野本宮に着いて、門前のレストランで名物のめはりずしを食べた。


■ 熊野本宮
和歌山県田辺市本宮町本宮1110 tel. 0735-42-0009

門を入ると塀ごしに3棟の拝殿があり、それぞれに賽銭箱を置いてある。
のぼりがあちこちに立ち、八咫烏(やたがらす)のグッズをあれこれ売っていたり、商売気がさかんでにぎやか。
熊野信仰の基部だろうけれど、なんだか気をそがれた。

■ 世界遺産熊野本宮館
和歌山県田辺市本宮町本宮100番地の1 tel. 0735-42-0751

世界遺産熊野本宮館
「熊野本宮観光協会」や、世界遺産の保全・活用を受け持つ「和歌山県世界遺産センター」の事務局が入っている。
木材を多用した大きく美しい建築だが、中身の機能に比べると大きく過剰な気がする。

* 168号線を南下する。
168号線は東へ曲がっていくが、その付近から311号線にそれて数キロ行くと、川湯温泉(和歌山県田辺市本宮町)がある。
須田剋太の絵に『十津川川湯にて』『川原温泉』があり、十津川の神湯荘のことか、こちらの川湯温泉か、迷うところだ。
わざわざ川原の湯に入るためにわざわざ行程からそれてまで行くことはないように思うが、川湯温泉あたりの写真を見ると、須田剋太の絵にあるような橋が架かってもいる。
でもそこまでそれて行くと時間がきつくなるし、行ってみても確定的なことはわからないだろう。
川湯温泉には行かないことにして、168号線を進んだ。

熊野川町宮井で、道はまた南に向けてカーブする。
吉井大橋があって熊野川を渡り、北に行くと瀞八丁になる。
吉井大橋~熊野本宮の間を(一筆書きでなく)往復したことになる。
あとは熊野川に沿って新宮に向かう。

十津川は細い流れが山を穿っていて、道より低いところに見おろした。
熊野川になると、道とほぼ同じ高さを広くゆったり流れている。
ミルクを混ぜたような独特の青い色をしている。
石灰が混じるためという。


車に戻って南下すると、道はいよいよくだり勾配になり、川は平地の河川相を呈しはじめ、そのまま熊野に入る。熊野は隠国(こもりく)といわれながら、北方の高地の十津川郷からきた目でみると、目を見はりたいほどに広潤な野に感じられるのは、十津川郷の印象がそれほど濃厚であったということらしい。

* 『街道をゆく』「十津川街道」はそういう文章で終わるが、僕の旅はまだ新宮を経て古座に続いていく。

■ 熊野速玉大社
和歌山県新宮市新宮1番地 tel. 0735-22-2533

熊野速玉大社
ここも熊野本宮と同じ配置で、門を入ると塀があり、その向こうに3棟の拝殿がある。
熊野本宮のように目にうるさい広告物がなくて、ひっそりしていていい。

■ 佐藤春夫記念館
(熊野速玉大社境内)tel. 0735-21-1755

東京文京区にあった佐藤春夫邸を移築復元した記念館。
玄関まわりの意匠と木の組み合わせが魅力的。
ここを写した写真をどこかで見たことがあるが、写真だけで記憶に残ってしまうほど僕には印象が強かった。


玄関を入ると狭い廊下があり、吹き抜けにして、そこに狭い階段を置いている。
窓が大きく、トップライトからも光が入って、とても明るい。
吹き抜け2階の窓際に、昔の旅館のような手摺りをつけていて、遊び心も楽しい。
誕生日に大勢の文士が集まるならわしだったという。
家の中のあちことで活発な声がいきかっていたのだろう。
佐藤春夫記念館

ここを訪ねてきた人たちが記した芳名帳に、詩人・神保光太郎の名があった。
須田剋太は若い頃、さいたま市の別所沼畔のアトリエで絵を描いていた。
神保光太郎が近くに住んでいて、須田剋太を詩に詠んだことがある。
→[別所沼のひとたち-須田剋太、神保光太郎、立原道造、秋谷豊]

* 新宮には(移築ではなく)もとからあるものとして西村伊作邸が西村記念館として公開されている。ずいぶん前から行きたいと思っていた憧れの地なのに、閉めて修理中で、心残りになった。
熊野川の右岸河口に向かった


■ 河口ビューイング/熊野川

河口の先端に行き着く手前で堤防に上がってみた。
赤い色に舗装してある。
突端は工場で、近づけないようだった。
対岸(左岸)も工場らしい建物が見えて、地図で確認すると左岸先端の広い面積を占めている。
熊野川河口

右岸の堤防の下の道に戻って、海方向へ走ると、河口の先端に近づけないまま道は右に曲がっていく。
海側から順に、砂州-防風林-道になっていて、道より内側はパチンコ屋とか墓地とかがある。
近くに住む人にとっても、この河口は近づきにくい、親しみにくい場所になっている。
十津川、熊野川がこんなふうに終わっているのかと、無残なような、寂しいような気がする。

* 熊野灘に沿って42号線を南下する。
那智駅前で右へ、山に向かう道にそれる。


■ 那智大滝
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山 tel. 0735-52-0555


ここには学生のころ来て以来、じつに久しぶり。
水がひとすじすーと降りて、途中で岩にあたって少し広がる。
あたたかい日で、空は明るい薄曇りで、滝がややあいまいに感じる。
早朝とか、厳しい寒さのときとか、条件しだいで滝の見え方もずいぶん変わるだろうと思う。
那智大滝

■ 熊野那智大社
和歌山県東牟婁郡 那智勝浦町那智山1 tel. 0735-55-0321

熊野那智大社
滝からかなりの階段を上がって熊野那智大社にいたる。
熊野本宮大社、熊野速玉大社とめぐってきたので、これで熊野三山をそろってお参りしたことになる。

■ 那智山青岸渡寺
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字那智山8 tel. 0735-55-0401

青岸渡寺にもお参りする。
上がってきたときとは別の表参道を下りると、見覚えのあるところにでた。
参道を下りはじめの高い位置に土産物を売る店が並んでいて、そのひとつに硯を売っている店があった。
学生のころ来たとき、那智滝と、なぜかこの硯の店が記憶にある。
「次に(もっとおとなになって来たときには)買うようになるかな?」と、漠然と思ったことを覚えている。
そんな曖昧な記憶の店が、ほとんどそのままに現れたことに驚いた。
まるで夢で見た景色が現実に現れたようだった。
次の機会が訪れたのだけれど、今度も買わないで過ぎた。

* 今夜は洞窟の風呂で有名な宿に予約してある。
紀伊勝浦駅側から対岸の半島にあり、陸続きだけれど船で渡るようになっている。いったん広い駐車場に車を置き、マイクロバスで港に送られ、専用の送迎船で半島に渡る。


● ホテル浦島
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町勝浦1165-2 tel. 0735-52-1011

有名な洞窟の風呂「忘帰洞」とか「玄武洞」とかがあって、海辺の洞窟につづく位置に湯船を作ってある。
半露天風呂とでもいうか、頭上は洞窟に覆われているが、先のほうは海にひらけている。
ホテルは幾棟もあり、半島の高い位置にまでつくられている。
その山上館にも風呂があり、そこに行くには長い長いエスカレーターで上がっていく。大人数を収容するホテルだが、風呂はたくさんあるから、混み合うほどのことはない。多くの人を詰め込んでおいてストレスなく楽しませるシステムに感心してしまう。

食事はバイキングで、そこそこの質があり、酒類を注文すると待たせずにすぐサーブされる。
まぐろの解体ショーまであって、なんだか勢いで盛り上がった気分になって食事を終えた。

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第3日 熊野・古座街道 [橋杭岩 潮岬灯台 無量寺・応挙芦雪館 浅利理容所跡 河内神社 若衆宿跡 古座川潜水橋 一枚岩 雫の滝 日置川河口 関西空港]

* 最終日は「熊野・古座街道」をめぐる。
その前に妻がこのあたりは初めてなので、観光名所に寄っていくことにする。
いったん古座を通りすぎてしまう。
南に向かって走っていくと、海に尖った岩が沖に向かっていくつも並んでいるのが見えてくる。


■ 橋杭岩
和歌山県東牟婁郡串本町橋杭

道の駅があってひと休みして眺めていく。
橋杭岩

■ 潮岬灯台
和歌山県東牟婁郡串本町潮岬2877

潮岬は本州の最南端。
らせん階段を上がると、太平洋の展望がひらける。
潮岬灯台

* 串本市街に戻ると、市街地の道はとても狭い。
車で角を曲がるのに苦労しながら入りこんでいって無量寺に着く。


■ 無量寺・応挙芦雪館
和歌山県東牟婁郡串本町串本833 tel. 0735-62-6670

1707年、宝永地震による大津波で無量寺は全壊。
1786年、臨済宗白隠下の禅僧、愚海和尚が本堂を再建。
愚海和尚は京にいたとき円山応挙と親しく、応挙は寺の再建ができたときは絵を描くと約束していた。
無量寺

無量寺が再建され、応挙は京で障壁画12面を描いたが、多忙であり高齢になってもいたので、弟子の芦雪を名代として南紀に向かわせた。
芦雪は、師と寒い京から離れて温暖な串本で画風を変え、代表作『虎図』『龍図』など、10か月の滞在中に270点を越える絵を描いた。

僧に案内されて、はじめに応挙芦雪館展示室に入り、芦雪に関する短い紹介映像を見る。
ここには応挙、芦雪以外のアーティストの作品や、考古資料なども展示してある。
次に応挙芦雪館収蔵庫に鍵をあけてもらって入る。
応挙と芦雪の襖絵55点のオリジナルが保管されている。
仮の部材で簡素に無量寺の本堂が再現してあり、そこに襖絵を置いているから、位置関係はもともとあった本堂と同じに見ることができる。
最後に本堂に行く。
デジタル技術で復元した襖絵が、元のように配置されている。
だいじなおおもとの作品はきっちり保存できる施設をととのえたうえに、襖絵本来の配置でも鑑賞できるようにうまくシステムができている。

本堂を見ているうち、今日予定されていた法事の方々が到着する。
案内の僧が急がせることを恐縮しながら最後のほうは簡単な説明になり、それでもすでに肝心なところはたっぷり見たので、満ちたりた思いで出た。

* 『街道をゆく』の旅は周参見から古座へ、東向きに移動した。
僕の旅は十津川を下って新宮に出てきていたので、古座から西向きに移動する。
串本で芦雪を見てから古座に戻った。

古座町は2005年に合併して串本町になっている。
(これから西に向かうと似たような町名の「古座川町」がある。)
古座の中心地は古座川の河口にあり、川に沿って集落が山の方向にのびている。
海沿いに32号線を走ってきて、古座川の河口にかかる橋を越えたところで左折、左岸を川に沿ってさかのぼる道にはいった。


■ 浅利理容所 
和歌山県東牟婁郡古座川町

『街道をゆく』の旅では、古座川筋の生まれというKさんという人が同行していた。司馬遼太郎にとって「絶えず無形の恩恵をうけつづけている友人」と紹介されている。
Kさんは建築家の神野(こうの)章氏で、司馬邸の家と庭の設計もした。
古座川をたどってきた一行が河口近くの古座まできたき、こんなことがあった。

 ところが驚いたことに、幼少のころにKさんがはるばるやってきたという理髪店が、そのままの店舗装置で残っていたのである。
「浅利理容所」
 とある。(中略)
待つ場所は、背後の壁に密着して上げ床(ゆか)がつくられているのである。上げ床の上は、タタミが三帖敷かれている。順番を待つ客はここで碁や将棋をしてひまをつぶすのである。この感じは江戸時代の床屋とほぼ変らない。
「私(わっち)の小さいときの村の床屋さんも、こうでした」
 と、武州の熊谷の奥のうまれである須田画伯も、幼いころに舞いもどったようにぼう然と土間に立っていた。(『街道をゆく 12』「十津川街道」司馬遼太郎。以下の引用文について同じ。)

須田剋太『川船宿のサンパツ屋』
須田剋太『川船宿のサンパツ屋』

出かける前に電話帳などで古座の「浅利理容所」を探したが、見つからなかった。
「浅利薬房」と「浅利釣具店」という名があったので、どちらかできいてみようと思ってきた。

古座川河口
向こうが古座川河口
浅利薬房の近くに車をとめると、川の低い堤防に立ってひと休みという感じでタバコを吸っている男性がいた。
わけを話すと、「このへんに浅利は15軒もあって、自分も浅利」だという。(あとで名前をおききすると、浅利昌人さんといわれる。)
でも理容所には心当たりがない。

僕が走ってきた道は、川に沿った堤防のすぐ内側の道だが、この道は半分ほどが前より広がっているという。数軒ぶん内側に、もうひとつ並行する道があり、かつてはそちらが主要道で、バスもそちらを走っていた。商売をしていたとなると、そちらの道沿いかもしれないという。

母親ならわかるかもしれないと、浅利薬房から路地を入って2,3軒目だったかの男性の自宅に向かう。
おかあさんによると「池田モータースの先にあった」とのこと。
男性も思いあたったふうで、「それなら高浜(という字)だ」という。
「連れていってやろう」と気軽にいって、軽トラックで先導してくれることになった。

古座街道


須田剋太『古座街道』
須田剋太『古座街道』

軽トラックのあとを追う。
道の狭さ、家が建てこんでいる感じが、ほとんど右の絵のような道を走った。

すぐ近くかと思ったのだが、とことこと走りつづけて、道をきいた地点から約1.4km、河口からだと2kmほどもさかのぼった。
古座川町にはいっている。
そこでいあわせた女性にたずねると、すぐわかって、ここがそうだったと教えられた。
池田モータースという看板がかかった店の下流側の隣。
今は建て替わっている。
その女性によると、理髪所は廃業し、息子さんは公務員になったという。

 須田さんが、ぜひこのお店を改造なんかしないでほしい、というと、浅利店主は、
「もう年で」
 と、いった。今様に改造しなければいかんと思うのだが、そんなことよりそろそろ仕事のほうを廃(や)めんといかんような年だから、という意味だった。べつに好きこのんで古風を守っているわけではない、と、ごく平然と言われるのである。

『街道をゆく』の旅のときKさんと須田剋太が驚いたのは奇跡だったが、それからまた40年近く経ってまだ残っているという、もう一度の奇跡はなかった。


池田モータースの看板がかかる家。
青いドラム缶の手前に、川べりに下る坂がある。
降りてみると船着き場になっている。
かつては船で散髪に来たひとがあったのだろうし、Kさんもそうだったろう。
須田剋太の絵を思い返してみれば、右にある窓の向こうは水の気配がするし、船らしき形も見える。
(下の写真:向こうが河口方面。左の斜面の上に理髪所があった。)
古座川町の理容所

理容所の裏の川岸

* 古座川を北にさかのぼる。
西に曲がるところで、川の中に島がある。


■ 河内(こうち)神社
和歌山県東牟婁郡古座川町

古座川河内神社 須田剋太『御神体が島神社』
須田剋太『御神体が島神社』

島そのものが御神体で、鳥居とか社殿とか人工物がない。
祈りの場なのに思想とか経済とか思惑とかがまとわりつくとうっとうしいが、清々しく、潔い。
科学的なことをいってしまうと、古座川に沿って太古のマグマ活動でできた「古座川孤状岩脈」というのがあり、この島もそうだし、このあと行く一枚岩もその一部になる。

どういう地質なのか、蔵土(くろず)からは、不気味な山容あるいは奇岩怪石がやたらと出てくる。
「なんだか前衛彫刻の展覧会に出くわしているみたいですね」
 と、須田画伯は息を殺すような表情で車のそとを見つめていた。水流が、堅い地質の出っぱりに出くわすたびに、風化というには鑿に匠気がありすぎるような自然の形象に出くわすのである。

* 38号線を西に行く。
河内島からわずかで月の瀬温泉があり、その先で細い道を右に入る。


■ 洋館の若衆宿
和歌山県東牟婁郡古座川町

「熊野・古座街道」で司馬遼太郎の関心は若衆組というものにあった。
男だけが青年期だけ一時的に所属する共同体で、日本の南方に多くあり、司馬遼太郎はその精神風土が社会一般に影響を及ぼしていたのではないかと推定していた。
明神というあたりで、同行していたKさんが、かつての若衆宿が今もあるのを示している。大正時代の木造洋館ふうで、立派でハイカラなことを司馬は意外に感じた。
かつては共有物だったが、いまは個人の所有になり、ふつうの暮らしにつかわれているようだ。

古座街道若衆宿の建物
須田剋太『古座街道若衆宿の建物』
須田剋太『古座街道若衆宿の建物』


須田剋太は自分では体が弱いと思いこんでいたことが、『街道をゆく』の文中でしばしばふれられている。
その反動なのか、憧れなのか、『街道をゆく』の挿絵に限らず筋肉質の若い男を何枚も描いている。
古座街道では、若衆のことに触発されて右の絵を含めて若い男たちの絵が3枚も描かれている。
何か参考になる写真などがあったのか、想像画なのか、わからない。
須田剋太『若衆宿の青年達』須田剋太『若衆宿の青年達』

* また38号線を西に行く。
右に明神郵便局があるあたりで左へ川に向かって歩いていくと潜水橋がある。


■ 潜水橋
和歌山県東牟婁郡古座川町

『街道をゆく』の取材でここに来たのは1975年だった。
その後、潜水橋でも耐えられないほどの増水があり、一部崩壊してしばらくそのままだったが、2009年に修復されている。

古座川の潜水橋 須田剋太『古座街道潤野(うるの)潜水橋の見える付近』
須田剋太『古座街道潤野(うるの)潜水橋の見える付近』

■ 吊り橋

『街道をゆく』の一行は、吊り橋を渡ってKさんの家に寄った。
38号線を周参見に向かって走るといくつか吊り橋を見かけて、須田剋太の絵に似たのもあったが、どれと特定しにくい。

古座川にかかる吊り橋 須田剋太『古座川にかかる橋』
須田剋太『古座川にかかる橋』

* 大きな岩が川に面して露出しているところがあり、対岸から眺められるように道の駅ができている。

■ 一枚岩
● 一枚岩鹿鳴館
和歌山県東牟婁郡古座川町相瀬290-2 
tel. 0735-78-0244


「古座川孤状岩脈」がこんな景観も見せている。
須田剋太『古座一枚岩』
須田剋太『古座一枚岩』

須田さんは目の前の一枚岩の大岸壁を夢中になって写生している。須田さんの好きな不動心そのもののような大造形である。

一枚岩のこちら側に道の駅があり、その中のレストラン「一枚岩鹿鳴館」に入った。
一枚岩を眺めるカウンター席でランチにした。
正面に圧倒的な存在感がある岩が立ちはだかっている。
その下を涼やかに水が流れている。
巨大でガンコそうな岩と、光を映す浅い水流と、白い川原のコントラストもすてき。
そんなのを眺めながらおいしい食事を味わっていると、気持ちがほぐれ、和んで、ゆったりする。


おだやかな古座川の流れ。
右が一枚岩。
左は道の駅のレストラン。
店の人によると、道の駅ができる前はベンチがあるくらいだったという。
古座川と一枚岩と道の駅

須田剋太『古座川船着き場』
須田剋太『古座川船着き場』
ここから司馬一行はKさんが手配してくれた船にのって明神まで下っている。
その川下りのときのこととして、司馬遼太郎がこんなふうに書いている。
「 対岸の風景(といっても目の前だが)ことごとくは奇峰奇岩でないにせよ、ほぼそれにちかく、しかも剝き出た岩肌以外の部分は、温暖で雨量の多い土地のせいか、濃淡の緑で覆われ、過剰なほどに鬱然としている。詩人でもある須田さんがつぶやいた言葉を引用すると、
「この山の豊富さ」
 という感じであり、同時にこの異様な豊富さを鋭く感受している須田さんの感受性そのものもただごとではない。」

* 38号線を西に走っているうちに、(うかつなことだが)いつのまにか西から東に流れる古座川を離れて、東から西に流れる周参見川に沿っていた。
古座川は、(少なくとも気がついている間はずっと)開けたところを流れていた。ちょっとした川原があるところを穏やかに流れていて、だからカヌーを浮かべている人たちがいたし、司馬一行は舟下りを楽しんだりした。
周参見川は、礫がゴロゴロしている間を水が白くしぶきを飛ばして流れている。
両岸が近く迫っていて、木々が繁り、光をさえぎって暗い。

* 古座から山中に入って周参見に抜けるには、地図上の経路で55kmある。
だいぶ走ってきて、周参見まであと11kmというところに滝がある。


■ 雫の滝
和歌山県西牟婁郡すさみ町

(白浜から乗ったタクシーの)運転手がガード・レール越しに崖下をのぞきこみながら、
「二十年も土地で運転手をしていて、こういう所を知らなかった」
 といった。大体、古座街道という道路には、タクシーの用事はまずない、という。

今は道も階段も案内表示も新しくなっている。

雫の滝 須田剋太『古座街道すさみ川 滝風景』
須田剋太『古座街道すさみ川 滝風景』

紀伊半島では、もっと北の山中には熊野詣での道がある。
南の海岸線には潮岬や橋杭岩などの観光地がある。
その間にある古座街道はとても地味な道だが、味わい深かった。

* 38号線を太平洋岸まで走ると周参見港があり、須田剋太が『古座街道すさみ港』を描いている。
ところが僕は道を間違えて、港にでる前に、すさみI.C.から紀勢道に入ってしまった。
2015年8月に開通して、まだ1年も経っていないので、カーナビになかった。
次の日置川I.C.で降りて、日置川の河口を遠望した。
周参見港まで戻ってもたいした距離ではないが、パスすることにして、また日置川I.C.から高速道路に入り、大阪方面に向かった。

関西空港18:35発のスターフライヤーに乗る。
外は暗くて見えない。
羽田に着陸するとき、空気がかすんでいなくて、鮮やかな大都会の夜景が見えた。


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参考:

  • 『街道をゆく 8』「熊野・古座街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1977
    『街道をゆく 12』「十津川街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1980
  • 『週刊 司馬遼太郎 街道をゆく no.40』 朝日新聞社 2005
  • 『文武館百年史』 文武館百年史編集委員会編 十津川高等学校 1963
    『県立移管30年のあゆみ』 奈良県立十津川高等学校 編・刊 1973
  • 『晩春の旅・山の宿 現代日本のエッセイ』 井伏鱒二 講談社文芸文庫 1990
  • 2泊3日の行程 (2016.5/27-29)(-レンタカー)
    第1日 関西国際空港-千早峠-和風レストランよしの川-五條代官所跡-天辻峠-谷瀬の吊り橋-十津川村歴史民俗資料館-十津川高校-神湯荘(泊)
    第2日 -玉置神社-瀞峡-熊野本宮大社・世界遺産熊野本宮館-熊野速玉大社・佐藤春夫記念館-熊野川河口-那智大滝・熊野那智大社・那智山青岸渡寺-ホテル浦島(泊)
    第3日 -橋杭岩-潮岬灯台-無量寺・応挙芦雪館-浅利理容所跡-河内神社-若衆宿跡-古座川潜水橋-一枚岩-雫の滝-日置川河口-関西国際空港