小さな寺と高い塔-「河内みち」


兵庫県西宮市で須田剋太の墓参りをして1泊したあと、2日目は司馬遼太郎記念館などを回って、大阪の東部、大東市に2泊目の宿をとった。
3日目に、『街道をゆく』の「3河内みち」をたどった。
「河内みち」が週刊朝日に掲載されたのは1972年、僕が行ったのは40年後の2012年だった。

第3日 観心寺 弘川寺 顕証寺 高貴寺 大平和祈念塔 堺市(泊)

1・2日目の墓参りについては[西宮の墓園で向日葵忌]
4日目に行った「4堺・紀州街道」については[新鮮熱そば-「堺・紀州街道」]

* 大東市に友人の橋本博行さんがいて、「河内みち」は橋本さんの車に乗せてもらって回ることにした。予定地間の距離は短いが、バスや電車を乗り継ぐのは不便なところで、車で移動できるのはとてもありがたい。

2日目に、東大阪市立花園図書館で待ち合わせた。
この日、橋本さんは地元の盆踊り大会の準備があるが午後にはすんでいるということで、車で迎えに来てもらった。
大東市は、司馬遼太郎が住んだ東大阪市のすぐ北にあり、ともにもとは河内の国。
橋本さんのところでも踊りは河内音頭が中心で、秋祭りにはダンジリがでるという。

橋本宅で夕飯をご馳走になった。
野崎詣りで有名な野崎観音の近くにある。
旧家で、門の構え、蔵、庭がいかにも古さと格式を感じさせる。
庭の手入れに職人さんが2日入るという。
僕の家では1日ですむがが、橋本家だとさすがに2日がかりかと思ったら、それも「5人で2日」という。うちはひとりで1日ですんでしまう。とんでもない勘違いだった


● 魚捨
大阪府大東市野崎2-6-1 tel. 072-876-1203


野崎観音のすぐ前にある宿に泊まる。
3階の部屋で眺めがいい。
魚捨 野崎観音

風呂は2階にあるといわれて行ってみると、さらに別棟に向かう階段を上がっていく。結局は5階くらいまで上がったことになるか、風呂はいちだんと眺めがいい。露天風呂もあって、遠くに大阪中心部を望む夜景を眺めながらのんびり湯につかった。

* 翌朝、橋本さんの車に乗せてもらって、まず観心寺に向かう。大東市から南に40kmほどの行程。
近畿道にのると、前方に白い塔が小さく見える。今日の最後に行く予定のPL教団の塔(大平和祈念塔)だろうか。まさか、まだずっと遠いよね。などと話していたのだが、あとでわかってみれば、やはりそれがPLの塔だった。
美原北I.C.で自動車道から出る。
河内長野からは山間の道になるが、意外に乗合バスがかなりの頻度で通る。金剛山に向かう人が多いのか、先に団地があるからか。


■ 観心寺
大阪府河内長野市寺元475 tel. 0721-62-2134
http://www.kanshinji.com/index.html

701年に役小角によって開かれ、平安時代の初め(808年)に弘法大師空海が北斗七星を勧請したという由緒がある寺。
1336年に神戸の湊川で討死した楠木正成の首がここに運ばれ祀られたという首塚もある。
本尊の如意輪観音菩薩は平安時代の密教美術の優品で、写真を見ると素晴らしいものだが、年に2日きり公開されない。

国宝の金堂を囲む森の7箇所の木を北斗七星の7つの星に見立てて巡る「星塚」というものが作られている。
名前と願いごとを記した赤いのぼりが星塚の各所に立っていて、のぼりで願をかけるには1本3000円。
観心寺

「北斗の塩」というものが売られていて、1kg 1,000円、300g 500円、瓶守り500円、盛り塩セット3,000円。
商売っ気が盛んすぎる気もするが、寺の維持には経費がかかるから、お参りをする人が安心を得て、寺が収入が得れば、けっこうなことではある。

須田剋太が境内の建掛塔を描いている。
奇妙な名前だが、三重の塔を建てるはずだったのに楠木正成が湊川で討ち死にしたので未完のままという。
あいにく改修工事中で-建てかけの建物を改修するというのがおかしいが-足場に囲まれていた。

観心寺建掛塔 須田剋太『河内観心寺楠公建てかけの塔』
須田剋太『河内観心寺楠公建てかけの塔』

『街道をゆく』の旅では、近くの渓流に沿った林間に、建って百年ほどの宿屋があるというので泊まっている。
冷房がなくてすむほど涼しかったが、セミが次々に食卓に飛んでくるのでしかたなく蛍光灯を消して食事をしたという。

* 観心寺から弘川寺まではおよそ10km、車で25分ほど。
そのあと顕証寺、高貴寺とまわるが、それぞれ5km、10分ほどの近くにある。


■ 弘川寺(ひろかわでら)
大阪府南河内郡河南町弘川43

1189年に西行が亡くなった寺。
観心寺のように営業的なものはほとんどなくて、しっとりと静かな寺だった。

本堂の脇を抜けて山道の階段を上がると平坦なところに出る。
一方に西行を慕った似雲(じうん)の墓、反対側に西行の墓(と似雲が考えた円墳)がある。

弘川寺西行法師円墳墓 須田剋太『河内弘川寺西行法師円墳墓』
須田剋太『河内弘川寺西行法師円墳墓』

須田剋太の絵にない白い柱が立っている。
西行は1190年に亡くなっているが、遠忌800年にあたる1989年に立てたと柱の裏側に記してある。「河内みち」が週刊朝日に連載されたのは1972年だったから、その後に白い柱が付け加わったことになる。

* 金剛山系からいったん平野に向けて道を下る。
展望が開けて、またPLの塔が見える。

河南町に入って顕証寺に近づいた。12時を過ぎていて昼にしたいが、農村に住宅が増殖しつつあるような地域で、食事をできる店が見あたらない。
田園風景の中で万代(まんだい)というスーパーマーケットが大きな建物でめだっている。関東に住む者にはきいたことがない名前だが、橋本さんによれば近畿圏ではなじみのスーパーとのこと。そこで弁当でも買って食べるしかないかと駐車場に車を置いたら、道の向かい側に肉屋がレストランも兼ねている店があって、そちらに入った。


■ 顕証寺
大阪府南河内郡河南町大字大ケ塚106

司馬遼太郎は古い地図を見ているうち、顕証寺がある大ケ塚一帯が環壕集落だったろうと気がついて訪れている。
顕証寺は台地状の土地にあり、台地のすぐ下の石川公園に車を置いて階段を上がった。石川公園を縁取るように細い川があったが、これが環濠の跡だろうか。
9月に「八朔法要」と「八朔市」という伝統行事があり、司馬遼太郎と須田剋太はたまたまその日に訪れている。
僕らがいったのは7月半ばの祝日。高台にあるだけ太陽に近くて余計暑いのかと、めげるほどに暑い。他にあまり人に出会わない。

顕証寺 須田剋太『顕証寺河南町大ケ塚
須田剋太『顕証寺河南町大ケ塚』

左の写真の山門を正面から描いたのが右の絵。
左の写真で塀が短く途切れているのは、現代的事情で車を境内にいれるためだろう。須田剋太が訪れたときには、塀がまだ続いていたかどうか。

顕証寺 須田剋太『大ケ塚顕証寺』
須田剋太『大ケ塚顕証寺』

寺の裏側にまわると、また小さな公園がある。須田剋太が描いた絵は、寺と公園にはさまれたこの通りに似ている。建物の様子が違うが、蔵が新しそうだから建て直されたかもしれない。

 大ケ塚は、田園のなかの小さな島のような高みで、その台上の平面に環濠集落がある。
大ケ塚の集落はぜんたいのかたちが矩形で、しかも幾筋かの道路がまるで京都もしくは中世の堺のように、東西南北の条理をなしているのである。あきらかに自然発生的に成立した集落ではなく、都市計画によってできためずらしい集落であることがわかってきた。(『街道をゆく 3』「河内みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1973。以下引用文について同じ。)

この島状の高みの周囲は田畑のなかに住宅が混じった、いかにも自然発生的な風景が広がっていて、ここの特殊性が際立っている。
『街道をゆく』がなければまったく行き当たることがなかったろうおもしろいところに、また導かれた-と感じた。

* わずか2kmほど東に大阪府立近つ飛鳥博物館がある。
2年前にやはり橋本さんの車で来たことがあるが、今日は寄らないことにして、それよりさらに東に向かう。
弘川寺からいったん低いところに下ったのだが、また葛城山系に向かって上がっていく。
平石峠に至る道を東に進むと、道幅がいちだんと狭くなる分かれ道にでる。まっすぐ行けば平石峠。左に行けば高貴寺。分岐点に上部が欠けた石の道標があって、「かうきじ」と刻んである。
心細くなるほど細い道を行き、やや広いところにでて車を置く。


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■ 高貴寺
大阪府南河内郡河南町平石539 tel. 0721-93-2924

未舗装の一本道を寺に向かって歩いていくと、左に長い塀がある。
塀の向こうに平屋で長屋ふうの木造建築がある。等間隔に仕切りがあり、いわばワンルームマンションのよう。洗濯物が干してあったりして、穏やかな生活が送られている印象がある。
高貴寺への道

先に進むと門があり「直心坐禅会本部道場」とある。修行の人が一時的に暮らす場のようだ。

道の正面に金堂が現れる。
左にある講堂では大規模な改修工事をしているところだった。
須田剋太が庭の中央のしだれ桜を堂々とした風情で描いている。
この日は、前庭は作業場にされ、工事の車も置かれ、しだれ桜は肩身がせまいふうだった。

高貴寺しだれ桜 須田剋太『高貴寺しだれ桜』
須田剋太『高貴寺しだれ桜』

ここで『高貴寺奥院』と題した絵も描かれているが、どこかわからない。
工事中の大工さんにきいてみたが、どうもはっきりしない。
湿度の高い森の道を汗だくで上がって「奥院」らしきところに着いても、絵とは様子が違う。
須田剋太『高貴寺奥院』
須田剋太『高貴寺奥院』

道場まで戻って声をかけると若い修行者らしき人が現れた。
須田剋太の絵を示すと、前から承知されていたようで、場所と、絵の上部に描かれたものの大きさを教えてくれた。絵にまどわされてはいけなくて、大きさが大事なところで、ひざくらいまでの大きさだという。

もう一度講堂の裏に行って、ようやく絵の場所がわかった。
ほんとうに膝丈くらいの石造物が2つ並んでいる。
といっても、さっきひとまわり探して歩いたとき、すでに見ていたものなのだが、絵の上部に描かれた2つのものがこんな小さいとは思わなかった。

高貴寺 葛城二十八宿経塚 高貴寺

左の写真が、『高貴寺奥院』の絵の上部に描かれている2つの物体。
絵では標石より大きく描かれているから、遠近法の原理から推定すれば、ちょっとした建造物のように思える。
実際は左の写真のとおりで、たしかにひざの高さくらいのもの。
全体の配置は右の写真のようになる。小径の両脇に石の標柱のようなものがあり、その間の階段を上がった先に、その2つのものがある。写真では、中央よりやや左上方に茶色い木の幹が見えるが、その向こうある。
遠近法にしたがった絵を描けば、2つの物体は階段手前の標石よりずっと小さくなるだろう。
須田剋太は、ときに正面と左の景色を合成して1つの画面におさめてしまうことなどするのだが、またひっかかってしまった。

あとで調べると2つのものの左は、「葛城二十八宿経塚」の1つらしい。
役小角が法華経を葛城山系の28か所に埋納したとされ、修験道の聖地になっている。二十八宿とは、中国の天文学で天の赤道を28に分割したもので、「葛城二十八宿」もこれに由来すると考えられるという。

ほかに須田剋太が室内で描いた絵もある。
司馬一行が訪れたときも、若い修行者が迎えて座敷に招き、住職の前田弘範住職の夫人も同席された。
須田剋太が描いた『慈雲尊者の書の前で大いに語る高貴寺若僧』には、その2人が描かれている。
2人のうしろに書がかかっているのも見えるが、司馬の文章に「長押(なげし)にも慈雲尊者の書がかかっていた」とあるもののことだろう。

『高貴寺奥院』の絵についてたずねたとき、あわせて室内を描いた絵についてもきくと、今いるここのこと、すぐそこだと後ろを指し示す。そのときかかっていた書は今修理に出してあり、別のものがかけてあるとのことだった。

司馬遼太郎が話した修行僧は、端正でよく学んでいるふうな一方で、「マンガ本でも読めばげらげら笑いころげそうな弾みをもった青年だった」と、司馬が好印象をもったことが書かれている。
僕らを迎えてくれた目の前の人も、健康そうな笑顔をして明快に話し、司馬と話した僧を彷彿とさせる人だった。
大工さんと話をしていたとき、ここでは賽銭箱を置かないと聞いた。賽銭泥棒など、そこにお金があるから盗む気をおこす。人に罪を犯させるようなことをすべきではないという考えなのだという。
寺全体が俗にまみれず、いきいきとして、すがすがしい。今どきこういう寺もあるのかと新鮮な気分になった。

司馬一行が訪れたとき、香る花が多いから「香華(こうげ)の山」と呼ぶうちに高貴寺となったといわれるほ由緒そのままに、境内には豊かな草花がみちていた。植物が好きな須田剋太は花を見つけるたびに、シャガです、ヤブミョウガです、と花の名を司馬遼太郎に告げながら歩いていく。
その姿を眺めていて、司馬遼太郎の文章は須田剋太の服装のことに転じている。
 そのくせ真夏の須田さんのいでたちは、声をのむように奇抜である。たとえばミネソタあたりの百姓のお洒落息子がセント・バレンタインに願をかけて作ったようなかっこうで、村の娘があっとおどろくような感じであった。
俗と離れた寺の様子が、須田剋太の超越した風情と共鳴したかもしれない。

■ 大平和祈念塔(超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔)
大阪府富田林市廿山285-1 tel.0721-24-1111

また山中から平野に向かって降りる。
司馬遼太郎は高貴寺から下ったときのことをこう書いている。
 山を降りるとき、南河内の段丘が見おろせる。この風景は大和よりも大和に似てかねがね美しいと思っていたのだが、折りよく峠の下り坂の向こうに夕陽が沈もうとしているのを見た。

今日の僕の行程としては、北から南に-顕証寺、高貴寺、弘川寺、観心寺と-下ったあと堺に向かうのが素直なルートなのだが、そんな夕景色を期待して、あえて高貴寺を最後にした。
ところが橋本さんの車にたよったおかげで順調に見て回れて、まだ日が高いうちに高貴寺から下ることになった。
それでもそんな行程にしたおかげで、葛城山系の高みから河内にくだる道の展望が開けてここちよい眺めは、観心寺から下るときと、高貴寺から下るときと、2度楽しむことができた。

PL教団の塔を遠望する 須田剋太『羽曳野PL教団塔』
弘川寺から下ったときの展望。正面に小さくPLの塔があるが、肉眼ではもっとはっきり認められる。 須田剋太『羽曳野PL教団塔』

一方で司馬遼太郎は、富田林市にあるPL教団の塔についてこんなことも書いている。
 南河内の葛城・金剛山麓をあるけば、西側が大眺望なのである。(中略)
 ところがその大眺望のなかに、巨大なコンクリートの塔がぬっと立っているのである。(中略)それがいかに美であれ、風景に致命的な変化をあたえるほどに巨大な空間占有物を建てる自由というのは、ちょっとこまるような気がする。南河内の高台を歩いていると、どこからでもこの変な巨大建築物が見えてしまうのである。

教団本部に近い塔の足もとまで行ってみた。
広い駐車場があるし、塔の周囲もゆったりしている。
かつては教団経営の遊園地があったというから、その名残りだろうか。

青空を背景に白い塔が天に向かってそびえている。
第2代教祖が原型をデザインして、大阪万博の年、1970年に完成している。
構造を素直にみせる近代的な塔でもなく、観音や大仏でもない。
ガウディを連想させるような、有機的な、骨の組み合わせのような形状で、造形的になかなかいいと思う。
大平和祈念塔

遠くからでも認められる建造物は、方角がわかってそれなり便利でもある。
反面、司馬遼太郎がいうように、風景のなかにいつも見えてしまうというのはうっとうしいという気分もわかる気がする。
かつては教団関係者でなくても中に入って展望台に上がれたらしいが、残念ながら今は入れない。

* 友人の橋本さんに堺駅に近いホテルまで送ってもらって別れた。
今日まわった3つの寺は、関東に住む者がふつうに行くような観光的に有名な寺ではないが、それぞれにユニークな味わいある寺で、いい旅をしたという満ち足りた思いになった。


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参考:

  • 『街道をゆく 3』「河内みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1973
  • 4泊5日の行程 (2012.7/14-18)(→電車 =バス -自動車 ⇨タクシー ▷自転車 …徒歩 >飛行機)
    第1日 JR新大阪駅→JR夙川駅⇨甲山墓園⇨須田剋太旧宅⇨西宮市大谷記念美術館…香櫨園駅→地下鉄阿波座駅…スーパーホテル大阪天然温泉(泊)
    第2日 …大阪府立江之子島文化芸術創造センター…阿波座駅→河内小阪駅…司馬遼太郎記念館…喫茶美術館⇨河内小阪駅→東花園駅…東大阪市民美術センター…東大阪市立花園図書館-大東市東部図書館・来ぶらり四条…魚捨(泊)

     → [西宮の墓園で向日葵忌]
    第3日 -観心寺…松中亭-弘川寺-顕証寺-高貴寺-大平和祈念塔-リーガロイヤルホテル堺(泊)…ちくま
     → [小さな寺と高い塔-「河内みち]
    第4日 堺駅▷阪本整骨院▷船待神社▷南宋寺▷堺市立中央図書館▷美々卯▷堺駅→泉佐野駅=樫井…塙団右衛門直次之墓…羽倉崎駅→泉佐野駅…エアポートイン プリンス(泊)   
    第5日 泉佐野駅→関西空港駅>成田空港

     →[ 新鮮熱そば-「堺・紀州街道」 ]