新鮮熱そば-「堺・紀州街道」


兵庫県西宮で須田剋太の墓参りをして1泊したあと、2日目は司馬遼太郎記念館などを見てまわり、3日目は、『街道をゆく』の「3河内みち」をめぐった。
3日目の夜は堺に泊まって、4日目、5日目は「4堺・紀州街道」をたどった。

  第3日 (「河内みち」後) ちくま 堺市(泊) 
第4日 阪本整骨院 船待神社 南宋寺 塙団右衛門直次之墓 泉佐野市(泊)
第5日 泉佐野駅 関西空港 

1・2日目の墓参りについては[西宮の墓園で向日葵忌]
3日目の河内については[小さな寺と高い塔-「河内みち」]

第3日 (「河内みち」後) ちくま 堺市(泊) 

* 大阪に住む友人の橋本博行さんの車で3日目に河内を回り、夕方、南海本線の堺駅前にある「リーガロイヤルホテル堺」まで送ってもらって別れた。
チェックインしてから、夕食にそばを食べに街に出た。

『街道をゆく』の「堺・紀州街道」の冒頭あたりに、司馬遼太郎は堺についてこう書いている。

たとえば京都・大阪のような他地域の居住者にとっては生活地理の範疇(はんちゅう)の中に入って来にくい町である。(『街道をゆく 4』「堺・紀州街道」司馬遼太郎。以下引用文について同じ。)
堺から近くに住む司馬遼太郎にとってさえそうなのだから、僕のような遠い関東に住む者にとっては、なおさら縁遠く感じられる。日本史の時間に堺の名をきいたことがあるような気がするくらい。たとえば神戸とか博多とかいえば何かしらのイメージが浮かぶし、観光的名所のいくつかくらいは思い浮かぶが、堺については何も思いつくことがない。
司馬遼太郎は、とりあえず思いつくところとして

「まずちくまでそばでも食べましょう」
とそば屋に向かったが、あいにく月曜日で定休日だった。
僕が堺に着いたのは7月16日月曜日。
休みのはずの日だが、ちょうど「海の日」で、月曜でも祝日のときは営業しているということは調べてあったし、夜9時まであいていることも承知していた。
夕食はちくまのそばにしようと向かった。


● ちくま
大阪府堺市堺区宿院町西1-1-16 tel. 072-232-0093

着いてみて異様な外観に驚いた。
古い2階建ての木造の家が、小規模なセメント工場みたいなビルにはさみこまれたふうになっている。
こんなそば屋は見たことがないというか、どんな店にしろ、あるいは店に限らず、こんな構成はちょっと普通ではない。
ちくま

裏の通りにも入口がある。おおもとはこんな古風なつくり。この日は2階を修理中で入口を閉鎖してあった。

(このあとしばらくしてまた行く機会があったが、やはり工事中だった。ずっと工事中のままらしい。)
ちくま

店に入って靴を脱いで座敷に上がる。
座ろうとすると若い女性が現れて、いきなり「1斤にしますか、1.5斤にしますか?」と尋ねる。
選択肢はそれだけらしい。あまりストレートにきかれるから、あれこれ尋ねるのがはばかられて、そばの量のことだろうと判断して1.5斤にした。

僕としては夕飯のつもりだし、夜9時まで営業しているからには、軽く飲めて、そこそこのつまみくらいもあるだろうと予想していたのだが、はずれた。
ビールはあるようだが、ここはそばだけでいいことにする。

ちくまのそば 運ばれたそばを見てまた驚いてしまう。
木の箱の上におわんと薬味と玉子とトックリがのっている。
熱いから気をつけてと言われるとおりに、そばつゆが入ったトックリはすごく熱いので、タオルを使っておわんに注いだ。
箱のふたをとると、もちろんそばがある。

ひとくち食べてみると、そばも熱い。
ふくよかで独特な味わいがある。
玉子をどんぶりに割ってみて、他に食べようはないとは思うけれど、いちおう尋ねてみると、やはりそばつゆに入れるのだという。
といたほうがいい?それともそのまま?
お好みで。
といてからいれてみると、甘みと、とろっとした感じが加わる。
そばと卵と薬味だけで格別に珍しい材料ではないし、なにかしらかわった調理法とかでもなさそうなのに、これほど独特になるかとマジックのような気さえする。
食べ終えるころ、そば湯が運ばれるが、これも「熱いから気をつけて」。

支払いをすませて、木造そば屋と一見コンクリート工場の間を抜けるふうに外に出た。
工場?内にはセメント袋みたいのが積み重なっていて、機械が動いている。
そば粉をひいてるのだろうか。
異様なつくりといい、意表をつくようなそばといい、異次元を通り抜けてきたような気分になった。
知らない街に旅するだいごみをたんのうした。

* 近くに利休の屋敷跡があるはずだが見つからなかった。
林芙美子の生家跡も近くで、広い通りの歩道にちょっとした長さにわたって記念物を作ってあった。
堺の街を歩くのは何だか気分がいい。
道が広いわりに高い建物が少ないためだろうか。
もと環濠都市だったなごりがあり、駅からすぐのところにこんな水の風景があった。


堺駅の近く

● リーガロイヤルホテル堺
大阪府堺市堺区戎島町4-45-1

24階の部屋の窓からは、堺や羽曳野の市街が広がり、スカイラインを描くのは葛城山系。
視界の中央に小さくだが、またPLの塔が見えている。
堺市街

堺港 反対側は旧堺港で、人工の土地に建築物が建てこんでいる。
背後には六甲の山並み。
この港側の景色は部屋からは見えないが、エレベータの乗降のたびに、はるばる眺めて気分がいい。

僕などには気軽に泊まれるホテルではないが、朝食付きで7900円の特別価格にそそられた。
夕飯にそばだけでは物足りないので、コンビニで買ってきた缶ビールとつまみで展望を味わいながらゆったりする。
バイキングの朝食も申し分なかった。

(リーガロイヤルホテル堺は、このあとまもない2012年10月1日にホテル・アゴーラ リージェンシー堺にかわった。)

 . ページ先頭へ▲
第4日 阪本整骨院 船待神社 南宋寺 塙団右衛門直次之墓 泉佐野市(泊) 

* 翌日4日目はホテルの貸自転車を借りた。昼過ぎまで堺市内を自転車で回ってみるつもり。自転車は風を切って走るから暑い日でも歩くよりは楽なものだが、それにしても7月半ばのことで日射しが強い。日陰を拾いながら走った。
夕べ蕎麦を食べたちくまの前の広い通りを南に走る。
阪堺電軌阪堺線という路面電車の「御陵前」停留所のそばの交差点から、その広い通りはやや左に曲がっていく。そこから右斜めにそれていく細い道があって、そこがかつての紀州街道になる。


■ 阪本整骨院
大阪府堺市堺区西湊町1-4- 1

司馬遼太郎の一行は、このあたりで道を尋ねている。
「左へ折れるのですね」
「そうだす。阪本のほねつぎを知っていやすか」
「知りません」
「阪本のほねつぎが街道の入口だす」
と親切な教え方だった。
須田剋太の絵に「ほねつぎ」とかいた看板が見える。雨がかなり激しく降っていそう。

須田剋太『雨の堺市通り』 晴れた日の阪本整骨院
須田剋太『雨の堺市通り』

「御陵前」の交差点から右に細い道を入ると、道はすぐ左にゆるやかに曲がっていくが、そのつきあたりの位置に「阪本整骨院」の文字が見える3階建てのビルが見えた。(右の写真のほぼ中央)
『街道をゆく』では
屋根は、ちかごろなら奈良市あたりの古い民家にしか見られない本瓦(ほんがわら)ぶきである。
とある。
今は現代的なビルに建て替わっている。
「阪本整骨院」の下に「since 1990」と記してあるのは建て替えた年のことだろう。

2階に女性の姿が見えたので、『街道をゆく』に描かれた家はこちらでしょうかと声をかけると、もちろんそうで、「そういうことなら中に」と親切に指示される。
中に入ると、上の女性から連絡を受けていた白衣の院長さんが出迎えてくれた。
絵にあるとおりかつては隣と一体の長屋だったが、うちも建て替え、隣も建て替えたとのこと。
昭和の初めから長くほねつぎとして続いていることなど話され、さらにまた
「そういう古いことなら母親に」
とおかあさんを呼んでくださる。
白衣を着た女性が奥から来られて、待合室のソファに並んで話しを伺う。
もう80歳を越えているが、資格があるから今も仕事を手伝っていられるという。
司馬遼太郎の一行が来た時、姿を見かけたが、「山崎さんが弁のたつ人で、いろいろ話していた」という。
司馬の文章では、雨宿りをしている軒下に、あとから雨を避けてはいってきたのが山崎さんだった。
声の大きな理髪店の主人で、そのあと船待神社あたりまで話しながら同行している。
司馬遼太郎は、このあたりのことを下調べをしないで来てしまったと後悔していたところに、ここの歴史や生活感覚をじかに語ってくれる人が現れて幸運だった-という感覚で書いている。
その山崎さんは、もう亡くなられたとのことだった。
阪本整骨院では家族そろって笑顔が似合う親切な方たちで、こうした余裕のあるやさしさが古い歴史のある町ならではと思った。

■ 船待(ふなまち)神社
大阪府堺市堺区西湊町

少し先に船待神社がある。
太宰府に流されていく菅原道真がここで船を待ったという。
道の反対側の角が山崎さんの理髪店があったところだが、閉まっていた。
船待(ふなまち)神社

2月に旅した須田剋太は雨の景色を描き、司馬遼太郎は寒かったと書いている。
雨がいよいよはげしくなっている。
「氷雨ですね」
 と、須田さんがいった。須田さんはいつの場合もコートを着ないのが原則で(中略)私はコートを着ているくせに、背中が冷たくなっていた。
7月半ばに訪れた僕には、日射しが強く、自転車でわずかな距離を移動しただけで十分に汗になる。

* 船待神社から御陵前交差点に戻り、広い道を南東に行くとすぐ大きな寺がある。

■ 南宋寺(なんしゅうじ)
大阪府堺市堺区南旅篭町東3-1-2 tel. 072-232-1654

千利休や古田織部も関る由緒ある寺。
堺の中心部にありながら大きな面積を占めている。
広い境内の中にまた塀があり、その内側は有料になっていた。

キリシタン燈籠 津田宗及の墓 須田剋太『キリシタン燈籠 津田宗及の墓』
須田剋太『キリシタン燈籠 津田宗及の墓』

有料区域に入って順路にしたがって歩いていくと、『キリシタン燈籠 津田宗及の墓』があった。
今、前の白い標柱には、津田宗及の娘婿にあたる『半井卜養家墓碑』とある。
須田剋太の絵では、瓦がのった塀が墓の後ろに描かれているが、今は竹藪になっている。
墓を移したか、周辺をあらためたか。

須田剋太『堺市南宋禅寺の堀』
須田剋太『堺市南宋禅寺の堀』


堺市 南宋寺

もう1点『堺市南宋禅寺の堀』の場所がわからない。

墓で工事をしている人があって尋ねると、自信をもった口ぶりで「あの塀の中」だという。指さしているのは、すでに見てきた有料区域のことのようで、そこにはなかった。
落葉清掃の人がいてまた尋ねると、すぐ目の前にある像を見あげながら「これか?いやこれは弁天さんか」とかモゴモゴいって要領をえない。
暑いなかをしばらくさまよったあと、何度か通りすぎていた重要文化財の甘露門らしいと思い至った。
絵から判断して「塀のそばの建築物」と思って探していたのがよくなかった。
塀と門が絵にあるほど近くない。
絵では全体がずいぶんスッキリしているのに、堀にも門の周囲にも木が繁り草がはえているし、絵になかった囲いがある。

周囲の様子はあれこれ違っているが、門の構えからしてまず間違いなさそう。
これは画家がデフォルメしたというより、境内の改修工事があったのかもしれないし、時間が経過したということでもあるだろう。

* 仁徳天皇陵のすぐ近くにある市の図書館に寄ってみようと思った。
地図を見て南宋寺からはほぼ真東にあると方角の見当をつけていたが、自転車で通りかかった人にいちおうきいてみた。ついてきなさいと言われてついていったら、大きな病院の前にでた。その男性は、あとはこっちの方だからと指し示すと、病院に入っていった。
ついて走っているうちに、かえって方角がわからなくなってしまった。
また通りかかった別な女性に尋ねると、やはりモゴモゴ何か言うのだが、明確ではない。
先へ行ってみると、仁徳天皇陵の北端にでた。
外周が公園のようになっている道をほぼ南端まで走って、ようやく市立図書館の近くにでた。
暑かったが、仁徳天皇陵はこういう位置にあるということが実感的にわかったという効用はあった。
(図書館から戻るときは1本道をダイレクトに戻れた。)

きのうから何度か道など尋ねていて思ったのは、「わからない」と言わない風土なのかもしれないということだった。といっても見栄や自尊心からではなく、わからないとつき放してしまっては気の毒だから何とかこたえようとする親切心によるようだった。
病院の近くで尋ねた女性も、わからないとは言わずに何やかや言っていて、僕のほうで「ではこちらに行ってまたきいてみます」とケリをつけるまで、一緒に悩んでくれていた。

『街道をゆく』の取材では、一行は南宗寺への道に迷っている。
タクシーの運転手さんが通りかかる人にたずねてみるのだが、
運転手さんが寺の名を言っても
「……さあ、そんな寺は」
 知りませんね、というふうな答えが二度ももどってきた。
この「というふうな」が、僕の堺での経験からすると、やはりはっきり「知らない」といわずに何やかや口ごもっていたのではないかと思える。
阪本整骨院の親切な方たちの笑顔を思い出して、堺は心やさしい人ばかりのように思えてきた。

■ 堺市立中央図書館 
大阪府堺市堺区大仙中町18-1 tel. 072-244-381

須田剋太が『貿易時代堺繁栄図』を描いている。港に異国の船が停泊し、波止場を異国の人がにぎやかに往き来している。南蛮図の模写のようで、その元の絵がわかるかと思ったのだが、図書館ではわからなかった。
こういうことは近くの博物館のほうがわかりそうだが、あいにく今日は休館日で、諦める。
郷土資料の棚を見ると、冒険家の川口慧海や将棋の坂田三吉も堺の人だったが、須田剋太は坂田三吉を好きだった。
堺市立中央図書館

● 大和屋菓子店
埼玉県鴻巣市

突然だが、これは堺ではなく、須田剋太の埼玉の故郷にあった店。
司馬一行がタクシーで南宗寺に向かったとき、その所在を尋ねても知らない人ばかりだった。司馬遼太郎は土地に住む人がうつろっていくことを思い、須田剋太に、剋太の郷里も変わっているだろうかと尋ねている。
須田剋太は「あまり変わっていないかもしれません」と答えている。
その根拠は、剋太が少年のころ、いつも店の帳場にすわっている名物親爺がいた。数年前-というのは剋太が60歳を越えていた頃-訪ねてみるとその親爺があいかわらず帳場に座っていたという。
同じタクシーで助手席にいた編集者が、そんなことはありえないのではと言う。
「そうなんです。私もそう思いかえしたんです。それでしばらく往来で立ちどまってその親爺の後ろ姿をながめていたんです。すると親爺がふりかえって、"須田のカッチャンじゃないか"」
 ……その声も顔も姿も、大正初年のころの親爺とそっくりであった。
と、怪談めいてくる。
よくみれば名物親爺の子で、剋太の遊び友達だった。半世紀ほど経って親にそっくりになって、同じような姿で帳場にすわっていたのだった。
つまりそれが剋太にとって郷里が「あまり変わっていない」根拠なのだった。
その店の具体的なことは『街道をゆく』の文章には書かれていないが、剋太の郷里に今も暮らしていて生前の剋太を知る人によれば、その店は「大和屋菓子店」といった。
剋太の生家とは細い道をはさんだ向かいがわにあって、菓子や菓子パンを売っていたという。
さすがにもうその店はないし、名物親爺の子も亡くなっている。

● 美々卯(みみう)
大阪府堺市堺区中之町東1-1-12 tel. 072-232-2059

堺駅方向に戻り、美々卯に入った。
『街道をゆく』の取材のとき、司馬遼太郎一行は「夕食がわりにここでうどんを食った」のだが、僕は昼食に入った。
うどん屋というのどかなイメージとは違って、店内はパキパキした直線的な意匠にデザインされ、キレのいい照明をして、とてもスタイリッシュ。
新しい感性が行き届いていて、40年ほど前に司馬一行が訪れたときはこうではなかったろう。
僕は小町セットというのを食べた。1260円。
温かいうどん、冷たいそば(大根おろし、葱、卵)、タコのかやくごはん、天ぷらがセットになっている。かやくごはんにタコなのが大阪らしい。

美々卯 美々卯 小町セット

* ホテルに戻って自転車を返却する。
ホテルの2階からつながっている南海本線の堺駅から電車に乗る。
泉佐野駅で降り、コミュニティバスに乗る。


■ 塙(ばん)団右衛門直次之墓
大阪府泉佐野市南中樫井小字本山

塙団右衛門は大阪夏の陣における豊臣側の武将で、この樫井村のあたりで紀州の徳川軍に討たれた。
地図を見ると名所マーク(∴)がついていて「塙団右衛門之墓」とあるから、そこそこ知られた人、知られた所らしい。
そこにいちばん近いのは「長南公民館」というバス停だが、1つ先の「樫井」で降り、紀州街道を歩いて長南公民館まで戻ることにした。
「樫井」のバス停を降りると、涼しい車内からちょっと出ただけでめげそうに暑い。
ちょうど降りたところに小さな店があり、その前の自販機で冷たいペットボトルを買って、覚悟を決めて歩き出した。
一車線ほどの路幅で、道は村中で気儘にまがっている。家並は屋敷づくりのすきな泉州(せんしゅう)らしくどの家もりっぱで、かたちのいい土塀の家や、格子のみごとな軒、また日本の瓦でもっとも良質とされている泉州瓦の本(ほん)ぶきの家など、どの家もどこか得難い長所があって、歩いていても退屈しなかった。
司馬の文章のとおりに、細い道がゆるやかに曲がりながら家並の間を貫いていて、さりげないが長い歴史の時間を経ていることを感じさせる。
黒木の門。土塀がところどころ崩れかけていたりする。

「塙団右衛門之墓」は、道がゆるやかに左にカーブしていくところの右側にあった。
「この五輪塔は出来がいいですね」
 と、須田さんがスケッチをはじめたが、暗くて線がつかめないようだった。運転手さんが気をきかして車に戻り、背後の遠くから、ヘッドライトをつけてくれた。
「ああ、月が出ましたね」と、須田さんがつぶやいたが、傍らのHさんはべつに説明をしなかった。団右衛門の墓所にはヘッドライトよりも月光のほうが似つかわしいであろう。

塙団右衛門之墓 須田剋太『塙団右衛門之墓』
須田剋太『塙団右衛門之墓』
週刊朝日に掲載された挿絵は、暗いときにかろうじて描いたふうではなく、標柱や案内板の文字も読めそうに見えている。旅から帰ってから仕上げたものだろう。

* 暑いなかだが、長南公民館までは思いのほかあっさりと着いた。
バスは1時間おきに走っているから、冷房がきいているだろう公民館で涼んで次のバスを待つつもりだった。
ところが着いてみたら「休館日」の標示がでている!
中に入れない!
そば屋とか図書館とかは休みにあたりそうなので事前に調べたが、公民館はウカツだった。
田園風景のなかでは大きなイズミヤというスーパーマーケットが見えたので、そこで中休みしたうえ、羽倉崎駅まで歩くことにした。
いくらか風が吹いているのがすくいだったが、たっぷり汗をかき、駅に着いたときには「もう限界...」という感じだった。

南海本線に乗って泉佐野駅に戻った。高架を走る電車が駅に近づいたところで、左側に今夜予約してあるホテルが見えた。角の部屋は2面がガラスになっていて、あんな部屋なら眺めがいいだろうと思う。


● エアポートイン プリンス
大阪府泉佐野市若宮町6-3 tel. 0724-63-2211

須田剋太の墓参りをしたあと、4日目には帰るつもりでいた。
ところが、旅の予定など考えているときに、オーストラリアが本拠の格安航空JETSTARが国内で7月3日(2012年のこと)から就航するという大きな新聞広告がでた。関西空港から成田まで安い便がある。旅程の最後が泉佐野だから、関空はすぐそこ。乗ってみようと思ったのだが、成田行きは朝7:45きりない。
それで1泊余計に泊まることにした。
ここで高いホテル代を払ったらバカバカしいことになるから、空港に近くて安いという基準でこのホテルを選んだのだが、大正解だった。

チェックインした入った部屋は7階の角部屋。電車が駅に着くとき「あの部屋だといい」と思っていた、そのとおりになった。
左の窓からはすぐ下に泉佐野駅がある。南海電車が右に左に走る。やや離れたところにはJRの電車が、大きくカーブしながら関空に向かっていくのも望める。
そして正面の窓からは関空!
夜には飛行機が飛び立っていく灯りが見えた。

部屋の壁紙は淡い花柄。
エレベータの扉が開いてぱっと目に入る壁もアール・ヌヴォを思わせるような植物柄だった。
なんとなし女性的な趣味を感じる。
駅に近いビジネスホテルは、出張のサラリーマンを主な対象にしているから、こんな感じは珍しい。
アメリカ西海岸で泊まったサンタバーバラのホテルを思い出した。
こぢんまりしてエレガント。泊まった部屋には風呂がなくて、別のふつうの部屋みたいなところの中央に、独立したバスタブを置いてあった。
壁紙や調度などにも女性的な雰囲気があって、男のひとり旅で泊まってよかったのだろうかと思うくらいだった。

泉佐野のホテルは、確かめたのではないから勘違いかもしれないけど、個人営業のホテルのように思えた。かつては小さな家族経営の旅館だったのがホテルに建てかえて続けている、というふうな。
地方の都市にはときたまこういうホテルがあって、どこかしら気安く親しみやすい雰囲気が好きだが、久しぶりにそんなのに出会った気がした。

● 小花亭 

エアポートイン プリンスのレストラン ホテルの2階にある食事処で夕飯にした。感じがよさそうだし、たっぷり汗をかいたのでもう一度外に出る気がしない。
ていねいな飾り付けがあって居心地がいい。やはり個人営業だのだろうと確信した(が確証はない)。

なじみらしい中年男女が入ってきて、女性のほうが(連敗中なものだから)「阪神に絶縁状だしたろ思てるんや」と威勢よく怒っている。
値段を確かめないで生ビールと食事をして、支払いは予想の半分だった。
関空に乗る機会があったらまたここに泊まろう。

 . ページ先頭へ▲
第5日 泉佐野駅 関西空港

■ JETSTAR

羽田でなくて成田行きで、しかも朝の1便きりないというマイナス点はあっても6000円程度という安さにひかれてJETSTAR便を試してみる気になった。
ところが予約がスンナリいかなくて悔いた。
ネットで予約したのだが、送信されるべき旅程表というものが届かない。
問い合わせの電話をかけると、通話料が有料なうえに、つながると「混み合っています。30分ほどかかります。」なんていう。国際線が先に運行を始めたなごりか、web上の表記のかなりの部分が英文のままだし、あれこれストレスがたまっていった。
でもシステムは腹立たしいが、実際の場面に行き着けば、対応する人は電話でも空港の窓口でも感じがよかった。システムの不備を人で補っているふうだが、まだスタートしたばかりだから、やがて改善されていくかもしれない。

関空から成田行きジェットスター 飛行機に乗るにはバスで行ってタラップを上がる。
バスを降りて飛行機に歩いていくと、着いた乗客がまだ次々とタラップを降りてきているところだった。電車の始発駅みたいな風景で驚いた。

飛び立ってしまえば、やはり高い所は気分がいい。

関西空港をを見おろす。
関西空港

前に関西空港から羽田行きに乗ったときには仁徳天皇陵が見えた。飛行機からこんなにはっきり見えるほどの大きさなのかと感心したものだった。
今日の便は内陸に入らず、海岸線を和歌山方面に向かった。
生駒山、金剛山、葛城山と続いて紀淡海峡に臨むところまで、濃い緑色の山並みが大阪平野の背後を縁取っているのが見てとれる。
1つの都市に滞在してあちこち歩き回ったあと、最後にタワーとか高層ビルとか丘とかに上がってひとわたり振り返って見渡すというのは、はるばるしみじみした気分になってとてもいいものだが、今回は飛行機から広い範囲を見渡せた。楽しい旅だった。

富士山を見おろす

ページ先頭へ▲

参考:

  • 『街道をゆく 4』 「堺・紀州街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1974
  • 『言い触らし団右衛門』司馬遼太郎全集8 文藝春秋 1972
  • 4泊5日の行程 (2012.7/14-18) (→電車 =バス -自動車 ⇨タクシー ▷自転車 …徒歩 >飛行機)
    第1日 JR新大阪駅→JR夙川駅⇨甲山墓園⇨須田剋太旧宅⇨西宮市大谷記念美術館…香櫨園駅→地下鉄阿波座駅…スーパーホテル大阪天然温泉(泊)
    第2日 …大阪府立江之子島文化芸術創造センター…阿波座駅→河内小阪駅…司馬遼太郎記念館…喫茶美術館⇨河内小阪駅→東花園駅…東大阪市民美術センター…東大阪市立花園図書館-大東市東部図書館・来ぶらり四条…魚捨(泊)
     → [西宮の墓園で向日葵忌]
    第3日 -観心寺…松中亭-弘川寺-顕証寺-高貴寺-大平和祈念塔-リーガロイヤルホテル堺(泊)…ちくま

     → [小さな寺と高い塔-「河内みち」]
    第4日 堺駅▷阪本整骨院▷船待神社▷南宋寺▷堺市立中央図書館▷美々卯▷堺駅→泉佐野駅=樫井…塙団右衛門直次之墓…羽倉崎駅→泉佐野駅…エアポートイン プリンス(泊)   
    第5日 泉佐野駅→関西空港駅>成田空港
     →[ 新鮮熱そば-「堺・紀州街道」 ]