堺−熱いそばと温かいうどん(向日葵忌3)


兵庫県西宮で須田剋太の墓参りをして1泊したあと、2日目は司馬遼太郎記念館などを回り、3日目は、『街道をゆく』の「3河内みち」に行った。
4日目は「4堺・紀州街道」をたどる。

「堺・紀州街道」が週刊朝日に掲載されたのは1973年、僕が行ったのはほぼ40年後の2012年だった。
1・2日目の墓参りについては[向日葵忌(2012)]
3日目の河内については[河内−寺から塔へ(向日葵忌2)]

* 友人の橋本博行さんの車で3日目に河内を回り、夕方、南海本線の堺駅前にある「リーガロイヤルホテル堺」まで送ってもらって別れた。
チェックインしてから、夕食にそばを食べに街に出た。

『街道をゆく』の「堺・紀州街道」の冒頭あたりに、司馬遼太郎は堺についてこう書いている。

たとえば京都・大阪のような他地域の居住者にとっては生活地理の範疇(はんちゅう)の中に入って来にくい町である。
堺の近隣でさえそうなのだから、僕のような遠い関東に住む者にとっては、なおさら縁遠く感じられる。日本史の時間に堺の名をきいたことがあるような気がするくらい。たとえば神戸とか博多とかいえば何かしらのイメージが浮かぶし、観光的名所のいくつかくらいは思い浮かぶが、堺については何も思いつくことがない。
野球チームもないし、Jリーグもない。
映画とかマンガの舞台になったことはあるだろうか?

司馬遼太郎もとりあえず思いつくところとして

「まずちくまでそばでも食べましょう」
とそば屋に向かったが、あいにく月曜日で定休日だった。

僕が堺に着いたのは7月16日月曜日。
休みのはずの日だが、海の日で、月曜が祝日のときは営業して火曜日が休みということは調べてあったし、夜9時まであいていることも承知していた。夕食はちくまのそばにしようと向かった。


● ちくま
堺市堺区宿院町西1-1-16 tel. 072-232-0093

着いてみて異様な外観に驚いた。
古い2階建ての木造の家が、小規模なセメント工場みたいなビルにはさみこまれたふうになっている。
こんなそば屋は見たことがないというか、どんな店にしろ、あるいは店に限らず、こんな構成はちょっと普通ではない。
ちくま

裏の通りにも入口がある。おおもとはこんな古風なつくり。この日は2階を修理中で入口を閉鎖してあった。

(このあとしばらくしてまた行く機会があったが、やはり工事中だった。ずっと工事中のままらしい。)
ちくま


店に入って靴を脱いで座敷に上がる。
座ろうとすると若い(ほとんど幼いという印象の)女性が現れて、いきなり「1斤にしますか、1.5斤にしますか?」と尋ねる。
選択肢はそれだけらしい。あまりストレートにきかれるから、あれこれ尋ねるのがはばかられて、そばの量のことだろうと判断して1.5斤にした。

夕飯のつもりだし、夜9時まで営業しているからには、軽く飲めて、そこそこのつまみくらいもあるだろうと予想していたのだが、はずれた。
A3くらいの紙に書いて、壁に何かの注意書きかのように貼ってあるのが、気がついてみればメニューだった。ビールもあるようだが、ここはそばだけでいいことにする。

ちくまのそば 運ばれたそばを見てまた驚いてしまう。
木の箱の上におわんと薬味と玉子とトックリがのっている。
熱いから気をつけてと言われるとおりに、そばつゆが入ったトックリはすごく熱いので、タオルを使っておわんに注いだ。
箱のふたをとると、もちろんそばがある。

ひとくち食べてみると、そばも熱い。もりそばを食べているような感じもするが、ふくよかで独特な味わいがある。
玉子をどんぶりに割ってみて、他に食べようはないとは思うけれど、いちおう尋ねてみると、やはりそばつゆに入れるのだという。
といたほうがいい?それともそのまま?
お好みで。
といてからいれてみると、やや甘みとふっくらした感じが加わる。
格別に珍しい材料とかかわった調理法とかではなさそうなのに、これほど独特になるかとマジックのような気さえする。
食べ終えるころ、そば湯が運ばれるが、これも「熱いから気をつけて」。

支払いをすませて、木造そば屋と一見コンクリート工場の間を抜けるふうに外に出た。
工場にはセメント袋みたいのが積み重なっていて、機械が動いている。
そば粉をひいてるのだろうか。
異様なつくりといい、意表をつくようなそばといい、異次元を通り抜けてきたような気分になった。
知らない街に旅するだいごみをたんのうした。

* 近くに利休の屋敷跡があるはずだが見つからなかった。
林芙美子の生家跡も近くで、広い通りの歩道にちょっとした長さにわたって記念物を作ってあった。

堺の街を歩くのは何だか気分がいい。
道が広いわりに高い建物が少ないためだろうか。
もと環濠都市だったなごりがあり、駅からすぐのところにこんな水の風景があった。


堺駅の近く

● リーガロイヤルホテル堺
堺市堺区戎島町4-45-1

24階の部屋の窓からは、堺や羽曳野の市街が広がり、スカイラインを描くのは葛城山系。
視界の中央に小さくだが、またPLの塔が見えている。
堺市街


堺港 反対側は旧堺港で、人工の土地に建築物が建てこんでいる。
背後には六甲の山並み。
部屋からは見えないが、エレベータの乗降のたびに、はるばる眺めて気分がいい。

僕などには気軽に泊まれるホテルではないが、朝食付きで7900円の特別価格にそそられた。
夕飯にそばだけでは物足りないので、コンビニで買ってきた缶ビールとつまみで展望を味わう。
バイキングの朝食も申し分なかった。

(リーガロイヤルホテル堺は、このあとまもない2012年10月1日にホテル・アゴーラ リージェンシー堺にかわった。)

* 翌日4日目はホテルの貸自転車を借りた。昼過ぎまで堺市内を自転車で回ってみるつもり。自転車は風を切って走るから暑い日でも歩くよりは楽なものだが、それにしても日射しが強い。日陰を拾いながら走った。

夕べ蕎麦を食べたちくまの前の広い通りを南に走る。
阪堺電軌阪堺線という路面電車の「御陵前」停留所のそばの交差点で、その広い通りはやや左に曲がっていく。そこから右斜めにそれていく細い道もあって、そこがかつての紀州街道になる。


■ 阪本整骨院
堺市堺区西湊町1-4- 1

司馬遼太郎の一行は、このあたりで道を尋ねている。

「左へ折れるのですね」
「そうだす。阪本のほねつぎを知っていやすか」
「知りません」
「阪本のほねつぎが街道の入口だす」
と親切な教え方だった。

そして須田剋太の絵にあるような看板をかけた整骨院にでている。(写真左)

須田剋太『雨の堺市通り』 晴れた日の阪本整骨院
須田剋太『雨の堺市通り』

御陵前の交差点から細い道を右に入ると、道はすぐ左に曲がっていくが、そのつきあたりの位置に「阪本整骨院」の文字が見える3階建てのビルが見えた。(写真右のほぼ中央)
河内の高貴寺では絵の描かれた場所を探すのに苦労したが、ここは明快でよかった。
『街道をゆく』では「屋根は、ちかごろなら奈良市あたりの古い民家にしか見られない本瓦ぶきである」とある。
今、現代的なビルの「阪本整骨院」の下に「since 1990」と記してあるのは建て替えた年のことだろう。

2階に女性の姿があったので、『街道をゆく』に描かれた家はこちらでしょうかと声をかけると、もちろんそうで、
「そういうことなら中に」
と親切に指示される。
中に入ると、上の女性からきいていた白衣の院長さんが出迎えてくれた。
絵にあるとおりかつては隣と一体の長屋だったが、うちも建て替え、隣も建て替えたとのこと。
昭和の初めから長くほねつぎとして続いていることなど話され、さらにまた
「そういう古いことなら母親に」
とおかあさんを呼んでくれる。
白衣を着た女性が奥から来られて、待合室のソファに並んで話しを伺う。
もう80を越えているが、資格があるから今も仕事を手伝っていられるという。
司馬遼太郎の一行が来た時、姿を見かけたが、「山崎さんが弁のたつ人で、いろいろ話していた」という。
司馬の文章に声の大きな理髪店の主人がでてくる人のことで、もう亡くなったとのことだった。

家族揃って笑顔がやさしい親切な方たちで、こうした余裕のあるやさしさが古い歴史のある町ならではと思った。

■ 船待(ふなまち)神社
堺市堺区西湊町

少し先に船待神社がある。
道の反対側の角が山崎さんの理髪店があったところだが、閉まっていた。
船待(ふなまち)神社

須田剋太は雨の景色を描き、司馬遼太郎は寒かったと書いている。

雨がいよいよはげしくなっている。
「氷雨ですね」
 と、須田さんがいった。須田さんはいつの場合もコートを着ないのが原則で(中略)私はコートを着ているくせに、背中が冷たくなっていた。

7月半ばに訪れた僕には、日射しが強く、自転車でわずかな距離を移動しただけで十分に汗になる。

■ 南宋寺(なんしゅうじ)
堺市堺区南旅篭町東3-1-2 tel. 072-232-1654

大きな寺だった。
広い境内の中にまた塀があり、その内側は有料になっていた。

キリシタン燈籠 津田宗及の墓 須田剋太『キリシタン燈籠 津田宗及の墓』
須田剋太
『キリシタン燈籠 津田宗及の墓』

順路にしたがっていくと『キリシタン燈籠 津田宗及の墓』があった。
今、前の白い標柱には、津田宗及の娘婿にあたる『半井卜養家墓碑』とある。
須田剋太の絵では、後ろが瓦ののった塀が描かれているが、今は竹藪になっている。
墓を移したか、周辺をあらためたか。

須田剋太『堺市南宋禅寺の堀』


重要文化財の甘露門

もう1点『堺市南宋禅寺の堀』の場所がわからない。

墓の工事の人に尋ねると、自信をもった口ぶりで「あの塀の中」だという。指さしているのは、すでに見てきた有料区域のことのようで、そこにはなかった。
落葉清掃の人がいてまた尋ねると、すぐ目の前にある像を見あげながら「これか?いやこれは弁天さんか」とかモゴモゴいって要領をえない。
暑いなかをしばらくさまよったあと、「塀のそばの建築物」−と考えて、何度か通りすぎていた重要文化財の甘露門らしいと思い至った。

堀と門が絵にあるほど近くない。
絵では全体がずいぶんスッキリしているのに、堀にも門の周囲にも木が繁り草がはえている。
絵になかった囲いがある。

周囲の様子はあれこれ違っているが、門の構えからしてまず間違いなさそう。
これは画家がデフォルメしたというより、境内の改修工事があったのかもしれない。

* 仁徳天皇陵のすぐ近くにある図書館に寄ってみようと思った。
地図を見て南宋寺からはほぼ真東にあると方角の見当をつけていたが、自転車で通りかかった人にいちおうきいてみた。ついてきなさいと言われてついていったら、市民病院の前にでた。その男性は、あとはこっちの方だからと指し示すと、病院に入っていった。
ついて走っているうちに、かえって方角がわからなくなってしまった。
また通りかかった別な女性に尋ねると、やはりモゴモゴ何か言うのだが、明確でない。
ひどく暑いのでちょっとしたことがめんどうくさいが、結局、携帯をとりだしてナビを操作して、ようやく着いた。
わかってみれば、ほとんど正三角形の2辺を走っていた。初めの自分の感覚どおり真東に向かっていたら、もっと早く着いているところだった。(図書館から戻るときは短い1辺をダイレクトに戻れた)。

きのうから何度か道など尋ねていて思ったのは、「わからない」と言わない風土なのかもしれないということだった。といっても見えや自尊心からではなく、わからないとつき放してしまっては気の毒だから何とかこたえようとする親切心によるようだった。
市民病院の近くで尋ねた女性も、わからないとは言わずに何やかや言っていて、僕のほうで「ではこちらに行ってまたきいてみます」とケリをつけるまで、一緒に悩んでくれていた。

『街道をゆく』の取材では、一行は南宗寺への道に迷っている。
運転手さんが寺の名を言っても
「……さあ、そんな寺は」
 知りませんね、というふうな答えが二度ももどってきた。

この「というふうな」が、僕の堺での経験からすると、やはりはっきり「知らない」といわずに何やかや口ごもっていたのではないかと思える。

南宋寺や、きのうの観心寺で絵の場所を尋ねた工事の人は、自信を持ってあそこだと教えて、連れていってくれさえしたのだが、結果としては違っていた。
もちろん悪意ではない。でもわからなければそう言ってくれたほうが、まどわされずにすむ分、正しい結果に至るのが早いのにとも思う。
真っ直ぐ行き着くより40%ほど余計に汗をかいて図書館に着いた。


■ 堺市立中央図書館 
堺市堺区大仙中町18-1 tel. 072-244-3811
http://www.lib-sakai.jp/shisetu/s_tyuo.htm

須田剋太が『貿易時代堺繁栄図』を描いている。南蛮図を模写して描いているので、その元の絵がわかるかと思ったのだが、図書館ではわからなかった。
こういうことは近くの博物館のほうがわかりそうだが、あいにく今日は休館日で、諦める。
郷土資料の棚を見ると、冒険家の川口慧海や将棋の坂田三吉も堺の人だったが、須田剋太は坂田三吉を好きだった。
堺市立中央図書館

● 大和屋菓子店
埼玉県鴻巣市

突然だが、これは堺ではなく、須田剋太の生地にあった店。
司馬一行がタクシーで南宗寺に向かったとき、その所在を尋ねても知らない人ばかりだった。司馬遼太郎は土地に住む人がうつろっていくことを思い、須田剋太に、剋太の郷里も変わっているだろうかと尋ねている。
須田剋太は「あまり変わっていないかもしれません」と答えている。
その根拠は、剋太が少年のころ、古くからある店の帳場にすわっていた名物親爺がいた。数年前−というのは剋太が60歳を越えていた頃−訪ねてみるとその親爺があいかわらず帳場に座っていたという。
助手席にいた編集者がそんなことはありえないのではと言う。

「そうなんです。私もそう思いかえしたんです。それでしばらく往来で立ちどまってその親爺の後ろ姿をながめていたんです。すると親爺がふりかえって、"須田のカッチャンじゃないか"

と、怪談めいてくる。
よくみれば名物親爺の子で、剋太の遊び友達だった。半世紀ほど経って親にそっくりになって、同じような姿で帳場にすわっていたのだった。
それが剋太にとって郷里が「あまり変わっていない」根拠だが、その店は「大和屋菓子店」といった。
剋太の生家とは細い道をはさんだ向かいがわにあって、菓子や菓子パンを売っていた。
1906年生まれの須田剋太が少年時代から半世紀経ち、1973年の取材時にわりと最近のこととして話しているから、1960年年代後半から1970年代のはじめのことだろう。その頃にはもう帳場がある店は珍しかったから、「あまり変わっていない」という感想ももっともに思える。

さすがにもうその店はないし、名物親爺の子も亡くなっている。

● 美々卯
堺市堺区中之町東1-1-12 tel. 072-232-2059
http://www.mimiu.co.jp/

市街地に戻り、美々卯に入った。
『街道をゆく』の取材のとき、司馬遼太郎一行はここで「夕食がわりに食った」のだが、僕は昼食に入った。
うどん屋というイメージとは違って、店内は直線的なインテリアにキレのいい照明をして、とてもスタイリッシュ。当然、司馬一行が訪れたときはこうではなかったろう。
小町セットというのを食べた。1260円。
温かいうどん、冷たいそば(大根おろし、葱、卵)、タコのかやくごはん、天ぷらがセットになっている。かやくごはんにタコなのが大阪らしい。

美々卯 美々卯 小町セット

* ホテルに自転車を返す。
ホテルの2階からつながっている南海本線の堺駅から電車に乗る。
泉佐野駅で降り、コミュニティバスに乗る。


■ 塙(ばん)団右衛門直次之墓
泉佐野市南中樫井小字本山

地図を見ると名所マーク(∴)がついていて「塙団右衛門之墓」とあるから、かなり知られた人、知られた所らしい。
そこにいちばん近いのは「長南公民館」というバス停だが、1つ先の「樫井」で降り、紀州街道を歩いて長南公民館まで戻ることにした。
「樫井」のバス停を降りると、涼しい車内からちょっと出ただけでめげそうに暑い。
ちょうど降りたところに小さな店があり、その前の自販機で冷たいペットボトルを買って、覚悟を決めて歩き出した。

たしかに樫井のあたりは、今も紀州街道の古い風情があるところだった。
狭くくねった道。黒木の門。土塀はところどころ崩れかけていたりする。

「塙団右衛門之墓」は、道がゆるやかに左にカーブしていくところの右側にあった。
須田剋太が暗いところで絵を描き出したので、タクシーの運転手さんが気をきかせて車のライトを向けた。勘違いした須田剋太が「月が出ましたね」と言ったことが、『街道をゆく』に書かれている。
ふと気になったのは、タクシーは曲がる道のどこから照らしたろうということ。
狭い道だから、他に通る車の邪魔になりそうだが、現場検証みたいなことを考えてもしかたがない。

塙団右衛門之墓 須田剋太『塙団右衛門之墓』
須田剋太『塙団右衛門之墓』

* 暑いなかだが、長南公民館までは思いのほかあっさりと着いた。
バスは1時間おきに走っているから、公民館で涼んで次のバスを待つつもりだった。
ところが着いてみたら「休館日」の標示がでている!
中に入れない!
そば屋とか図書館とかは休みにあたりそうなので事前に調べたが、公民館はウカツだった。
田園風景のなかでは大きなイズミヤというスーパーマーケットが見えていたので、そこで中休みしたうえ、羽倉崎駅まで歩くことにした。
いくらか風が吹いているのがすくいだったが、たっぷり汗をかき、駅に着いたときには、「もう限界...」という感じだった。
まだ日暮れには間があるけれど、ホテルに入って休むことにした。

南海本線に乗って泉佐野駅に戻った。高架を走る電車が駅に近づいたところで左側にホテルが見えた。角が2面ガラスになった部屋があって、あんな部屋なら眺めがいいだろうと思う。


● エアポートイン プリンス
大阪府泉佐野市若宮町6-3 tel. 0724-63-2211

須田剋太の墓参りをしたあと、4日目には帰るつもりでいた。
ところが、旅の予定など考えているときに、JETSTARが国内で7月3日から就航するという大きな新聞広告がでた。関西空港から成田まで安い便がある。旅程の最後が泉佐野だから、関空はすぐそこ。乗ってみようと思ったのだが、成田行きは朝7:45きりない。
それで1泊余計に泊まることにした。
ここで高いホテル代を払ったらバカバカしいことになるから、空港に近くて安いという基準でこのホテルを選んだのだが、大正解だった。

チェックインした入った部屋は7階の角部屋。電車が駅に着くとき「あの部屋だといい」と思っていた、そのとおりになった。
左の窓からはすぐ下に泉佐野駅がある。南海電車が右に左に走る。やや離れたところにはJRの電車が、大きくカーブしながら関空に向かっていくのも望める。
そして正面の窓からは関空!
夜には飛行機が飛び立っていく灯りが見えた。

部屋の壁紙は淡い花柄。
エレベータの扉が開いてぱっと目に入る壁もアール・ヌヴォを思わせるような植物柄だった。
なんとなし女性的な趣味を感じる。
駅に近いビジネスホテルは、出張のサラリーマンを主な対象にしているから、こんな感じは珍しい。
アメリカ西海岸で泊まったサンタバーバラのホテルを思い出した。
こぢんまりしてエレガント。泊まった部屋には風呂がなくて、別のふつうの部屋みたいなところの中央に、独立したバスタブを置いてあった。
壁紙や調度などにも女性的な雰囲気があって、男のひとり旅で泊まってよかったのだろうかと思うくらいだった。

泉佐野のホテルは、確かめたのではないから勘違いかもしれないけど、個人営業のホテルのように思えた。企業が経営しているのではなくて、かつては小さな旅館を営んでいた家がホテルに建てかえて続けている、というふうな。
地方の都市にはときたまこういうホテルがあって、どこかしら気安く親しみやすい雰囲気が好きだが、久しぶりにそんなのに出会った気がした。

● 小花亭 

エアポートイン プリンスのレストラン 2階にある食事処で夕飯にした。感じがよさそうだし、たっぷり汗をかいたのでもう一度外に出る気がしない。
ていねいな飾り付けがあって居心地がいい。やはり個人営業だのだろうと確信した(が確証はない)。

なじみらしい中年男女が入ってきて、女性のほうが(連敗中なものだから)「阪神に絶縁状だしたろ思てるんや」と威勢よく怒っている。
値段を確かめないで生ビールと食事をして、支払いは予想の半分だった。
関空に乗る機会があったらまたここに泊まろう。

■ JETSTAR 関空から成田

羽田でなくて成田行きで、しかも朝の1便きりないというマイナス点はあっても6000円程度という安さにひかれて試してみる気になった。
ところが予約がスンナリいかなくて悔いた。
ネットで予約したのだが、送信されるべき旅程表というものが届かない。
問い合わせの電話をかけると、有料なうえに、自動応答で問い合わせ内容を番号で選択していって、さあこれでと思うと「混み合っています。30分ほどかかります。」なんていう。国際線が先に運行を始めたなごりか、web上の表記がかなりの部分が英文のままだし、あれこれストレスがたまっていった。
でもシステムは腹立たしいが、対応する人は電話でも空港の窓口でも感じがよかった。システムの不備を人で補っているふうだが、まだスタートしたばかりだから、やがて改善されていくかもしれない。

関空から成田行きジェットスター 飛行機に乗るのにバスで行ってタラップを上がる。
バスで飛行機に向かうと、着いた乗客がまだ次々とタラップを降りてきているところだった。電車の始発駅みたいな風景で驚いた。

飛び立ってしまえば、やはり高い所は気分がいい。

関西空港をを見おろす。
関西空港

前に関空から羽田行きに乗ったときには仁徳天皇陵が見えた。飛行機からこんなにはっきり見えるほどの大きさなのかと感心したものだった。
今日の便は内陸に入らず、海岸線を和歌山方面に向かった。
生駒山、金剛山、葛城山と続いて紀淡海峡に臨むところまで、濃い緑色の山並みが大阪平野の背後を縁取っているのが見てとれる。

1つの都市に滞在してあちこち歩き回ったあと、最後にタワーとかビルとか丘とかに上がってひとわたり振り返って見渡すというのは、はるばるしみじみした気分になってとてもいいものだが、今回は飛行機から広い範囲を見渡せた。楽しい旅だった。

富士山を見おろす

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参考:

  • 『街道をゆく 4』「 堺・紀州街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1974<
  • 『須田剋太『街道をゆく』挿絵原画全作品集』近畿建設協会 2000
  • 『言い触らし団右衛門』司馬遼太郎全集8 文藝春秋 1972
  • 4泊5日の行程 (2012.7/14-18)
    (→電車 =バス −自動車 〜自転車 …徒歩)

    第1日 (東海道新幹線・東海道線)→JR夙川駅(タクシー)甲山墓園(タクシー)須田剋太旧宅(タクシー)西宮市大谷記念美術館…香櫨園駅→地下鉄阿波座駅・湯元「花乃井」スーパーホテル大阪天然温泉
    第2日 …大阪府立江之子島文化芸術創造センター…阿波座駅→河内小阪駅…司馬遼太郎記念館…喫茶美術館(タクシー)河内小阪駅→東花園駅…東大阪市民美術センター…東大阪市立花園図書館−大東市東部図書館・来ぶらり四条…魚捨
     → [向日葵忌(2012)]
    第3日 −観心寺…松中亭−弘川寺−万代−顕証寺−高貴寺−大平和祈念塔−リーガロイヤルホテル堺…ちくま

     → [河内−寺から塔へ(向日葵忌2) ]

    第4日 〜阪本整骨院〜船待神社〜南宋寺〜堺市立中央図書館〜美々卯・堺駅→泉佐野駅=樫井…塙団右衛門直次之墓…羽倉崎駅→泉佐野駅・エアポートイン プリンス   
    第5日 泉佐野駅→関西空港駅(JETSTAR)成田空港
     →[ 堺−熱いそばと温かいうどん(向日葵忌3) ]