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 肥後・球磨川へ-「肥薩の道」1


『街道をゆく』「3肥薩の道」をたどって熊本に行った。

第1日 熊本空港から人吉市 [願成寺 人吉城趾 青井阿蘇神社 鍋屋本館(泊)]
第2日 人吉市から熊本市 [くま川下り発船場 球磨川河口 熊本城 熊本市現代美術館 熊本市田原坂西南戦争資料館 酒本鍛冶屋付近]

* 「肥薩のみち」の後半の鹿児島には、別な日、種子島とあわせて行った。
  →[薩摩へ-「肥薩のみち」2]
  →[丸木舟と宇宙船-「種子島みち」]

第1日 熊本空港から人吉市 [願成寺 人吉城趾 青井阿蘇神社 鍋屋本館(泊)]

* 出かける前の天気情報では熊本は雲と雨。
1月のことだから雨が降るなら雪になるかもという。
熊本空港に着くと、かすかだが雪が舞っていた。レンタカーを借りるときに、チェーンをトランクに入れておいてもらう。使わなければ無料、使うとあとで7,000円の追加料金がかかる。
でも走り出したら雪はやみ、晴れ間もみえてくるようになった。


人吉へは山中の道になる。雪の山道を走れるだろうか、チェーンをうまくつけられるだろうかと心配していたのだが、すっかりはずれて、ときおり青空がのぞくし、寒くない。
のぼり傾斜の道を山に入っていく。
明るい道を車を走らせていて、予想外の好天にうれしくなって、つい顔に笑いが浮かんでしまう。
対向車で気づく人がいたら、気味わるがられるかも、と思ったりしながら走った。


須田剋太が人吉に向かう道を描いている。
左に球磨川が流れている。
右には肥薩線があって、この小さな図版では見づらいけれど、電車が走っている。
左にカーブしていく線路で、車両は少なくとも4両ある。
須田剋太『球磨川ぞい』
須田剋太『球磨川ぞい』

■ 願成寺
熊本県人吉市願成寺町956 tel.0966-24-4161

球磨川の上流、人吉に入る。
人吉は、鎌倉幕府の時代から明治維新まで、相良氏が670年にわたって支配していた。その相良氏37代の墓が、町の東の願成寺(がんじょうじ)にある。
すぐ近くに、くま川鉄道湯前線の駅があって、「相良藩願成寺」という駅名がつけられている。

無数といっていいほどの五輪塔が青く苔むし、ところどころにツバキや山桜の老樹が陽をさえぎり、雨滴が孔をうがった石畳がつづき、訪う人もなく諸霊がしずまっている壮観は、相良氏七百年という歳月の古びをよく物語っている。(『街道をゆく3』 「陸奥のみち 肥薩のみち」 司馬遼太郎/文 須田剋太/画 朝日新聞社 1972。以下引用文について同じ。)


ここで須田剋太が描いた絵がある。
寺の中のどこで描いたか、静かでとめどなく歩いていても気持ちのいい境内なので、しばらく寺の中をあちらこちらと探してみた。
なかなかわからなかったのだが、石段が90度に曲がっていく特徴ある場所は見つけられた。
ただ石段の上の方から曲がり角を見おろした先には五輪塔はない。
でも、そこで左に目を向けると、それらしい五輪塔が並んでいる。
もしかすると、須田剋太が頭の中で風景を合成して描いたろうか。
須田剋太『相良家墓地』
須田剋太『相良家墓地』

願成寺の相良家墓地 願成寺
左に五輪塔が並ぶ位置から...    下を見ると絵に似た曲がり角 

本堂とは別のお住いに住職をたずねて、『街道をゆく』にここの絵が描かれたときの様子をおききした。
でも司馬遼太郎と須田剋太には会われていないとのこと、とくに住職に会わずに境内を歩き、絵を描いていったようだ。
石段の絵の場所についてきいてみると、他に階段がそのように見える場所はなく、「合成したね」と即断された。

住職はにこやかで親切な方で、こうしたことを立ち話していたのでだが、去り際に「お茶がわりに」といって、願成寺についての図録をいただいた。
薄いパンフレットではなくて、九州歴史資料館が編集・刊行した行き届いた内容のもので、ありがたいことだった。


* 球磨川の橋を南へ(左岸へ)越えると、人吉城趾がある。

■ 人吉城趾
熊本県人吉市麓町

車をおいて、城趾に向かって高く、奥へと上がっていく。
上がりきるとやや広い平坦な地面があり、冬の低い日射しが木の影を長く伸ばしている。
城下町と球磨川を見おしろて、のびやかで気分がいいが、さすがに1月の午後は寒い。
人吉城址

球磨川に沿った石垣の間を抜けると球磨川の川岸に出る。
「水ノ手門跡」で、江戸時代に7箇所の船着き場があったうちの最大のもの。
年貢米がここから運び込まれ、城内の蔵に入ったという。
石垣を7箇所も開いて船着き場にできたのは、戦乱がない時代だからこそだろう。
水ノ手門跡 水ノ手門跡から球磨川下流の眺め

城内を歩いていると、野球のユニフォームを着た高校生が2人走っていて、「ちは!」と歯切れ良くあいさつしてくれる。
学校は2キロほど離れていて、「3本は走る」という。
少なくとも3往復ということだろう。

■ 青井阿蘇神社
熊本県人吉市上青井町118 tel.0966-22-2274

「青井大明神」という額を掲げる国宝の楼門について、司馬遼太郎は
京都あたりに残っている桃山風の建造物(西本願寺の唐門など)よりもさらに桃山ぶりのエッセンスを感じさせる華やぎと豪宕さをもっている
と評し、これほど遠い地にまで桃山の芸術的気分と様式が届いていることに感動している。

須田剋太画『人吉市青井神社本殿』 人吉市青井神社本殿
須田剋太『人吉市青井神社本殿』
須田剋太が描いたのはその楼門より奥にある本殿で、僕が行った2011年1月には屋根を葺き替えているところだった。
屋根の下のふちが、ゆるやかに曲線を描いて、ほほえんでいるふうだった。

● 鍋屋本館
熊本県人吉市九日町22-2 tel. 0966-22-3131
http://www.nabeyahonkan.co.jp/

『街道をゆく』では、司馬遼太郎は人吉で泊まった宿のことをこう書いている。
 夕食をとった部屋の裏が小さい庭になっていて、そのむこうがコンクリートの壁になっている。水を防ぐためだという。庭下駄をはいて壁のそばまでゆくと、壁の向こうがいきなり球磨川になっているのにはおどろいた。
「あン川はおそろしかとですよ、水がほんにどこから出てくるか、思いがけなか所から出て参りますとですよ」
人吉には水害がつきものである。この宿も何度か浸っているという。
この宿に泊まってみようと思ったのだが、どこか確定できなかった。
観光協会に問い合わせたり、地図を見て球磨川に沿っているいくつかの旅館に直接電話もしてみたのだが、「わからない」「うちの旅館ではそんなことをきいたことがない」というふうな返事ばかりだった。
結局、老舗旅館の鍋屋本館に泊まることにした。
人吉温泉で温泉の知名度を上げるために、何人かの文化人を各旅館に招待するという企画があり、司馬遼太郎がこの宿に泊まったことはあるという。
でも『街道をゆく』の取材のときに泊まったかどうかは確認できないとのこと。
それでも由緒ある宿で、田山花袋、与謝野晶子、柳田国男から、より近いところでは、美空ひばり、瀬戸内寂聴なんていう人も訪れている。
宿に車で着いたときに、旗をもった番頭さん(というのか)が出迎えてくれた。
館内も昔ふうに落ち着きがある。
部屋からは球磨川の流れを見おろせる。
料理もおいしく、いい宿だった。

人吉温泉と球磨川
人吉温泉では、ほとんどの宿が球磨川に面している。

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第2日 人吉市から熊本市 [くま川下り発船場 球磨川河口 熊本城 熊本市現代美術館 熊本市田原坂西南戦争資料館 酒本鍛冶屋付近]

■ くま川下り発船場

人吉で須田剋太が球磨川の風景を描いている。
人吉温泉側(球磨川右岸)から、川の流れと、対岸(左岸)の低い山並みを眺めている。
こちらの岸では、コンクリートの堤防の上に人が立っている。
下駄をはいて着物(浴衣?)を着ているから、温泉客だろうか。
ところが不思議なのは、僕が堤防沿いを散歩した範囲では、堤防は上が細くなっていて、サーカスの人ででもなければ、とても上を歩けるようなものではなかった。

須田剋太画『人吉温泉の朝霧』 人吉温泉と球磨川
2011年の堤防風景
須田剋太『人吉温泉の朝霧』

2日目、人吉温泉からの帰り際に、球磨川下りの船の発着所を通りかかったので、ここなら堤防のことがわかるかもしれないと思って寄ってみた。
ほうきとちりとりを持って開業の準備をしている20代くらいと思える人がいたので、絵を見てもらって尋ねた。
もともと球磨川は氾濫しやすい川で、司馬と須田の取材時期よりあとにも2度の大洪水があり、堤防を高くつけ替えたという。
今の堤防もそれほど新しいもののように見えなかったから、まさか付け替わっているとは思わなかった。
およそ40年の間には、それほどのことがあるかと時の流れを感じた。

* 川下りの人が、司馬遼太郎の文章にある宿は翠嵐楼ではないかという。
きのう人吉温泉を散歩して、球磨川沿いの宿をいくつか見たのだが、どれも決定的にこれと司馬の文章に符号しそうではなかった。
翠嵐楼は人吉温泉街からポツンと離れた下流にあるが、車で向かった。


■ 翠嵐楼
熊本県人吉市温泉町2461-1 tel.0966-23-2361

宿で用向きを伝えると、わざわざ女将がでてこられた。
司馬遼太郎が来たころとは建て替えているが、前のときでも司馬の文章とは様子が違うとのことだった。
ロビーの奥まで招かれて入ってみると、すぐ先に低い土手を隔てて球磨川が流れている。
たしかに、建て替える前にしても小さな庭とコンクリートの壁はありえなかったように思える。
館内を見わたすと風格があって落ち着いている。
ここも歴史に名を残した人が多く泊まった由緒ある宿なのだった。
やさしい印象の女将に、次に人吉に来るときはどうぞと声をかけられて宿を出た。
願成寺の住職、城趾の野球青年、船乗り場の人、宿の人、人吉ではどこでもお会いする人が好感な人ばかりだった。

* 人吉は熊本県の南端にある。
『街道をゆく』の旅で司馬一行はさらに南へ久七峠を越えて薩摩=鹿児島県に行った。
僕は薩摩へはまた別な機会に行くことにして、北に戻る。
熊本市に向かう途中、八代を通って、球磨川の河口に寄った。


■ 郡築三番町樋門

司馬遼太郎は球磨川上流の人吉が稲作に適していて、おかげで華やかな桃山文化までが届いていたことを見てきた。
 また弥生式農耕のやり方では、山襞こそ水田耕作の好適地であった。山襞ごとに球磨川へ流れこむ細流があり、その細流を段々畠に受けてゆけば稲作は容易なのである。
ただ、山中では十分な収穫があったとしても、下流ではもっと大きな生産量が必要だったということだろう、近代に球磨川河口あたりでは干拓による農地拡大が大規模におこなわれた。

八代市の西部、八代海のあたりを地図で見ると、いかにも人工的な碁盤目状になっている。
20世紀初めの干拓事業で生まれた土地で、そこに郡築三番町樋門がある。
八代地方でいう「郡築(ぐんちく)」は、干拓のことで、樋門は干拓地の水流を調整するためにある。

郡築三番町樋門 初期の水門で現存するのはこの三番町樋門だけで、1938年に造られた。
こういう土木建造物が重要文化財になっている。
景色に東欧の映画を見るような寂寥感がある。

■ 河口ウォッチング-球磨川

車であとわずか南に走ると球磨川の河口になる。人吉盆地から流れてきた川がここで海に入る。

河口ウォッチング-球磨川 突堤の先では川が海に溶けこんでいく。
太陽が向こうにあって、水がキラキラ輝いている。

看板が立っている。ニューヨークの9.11以後、テロの脅威がある。密航や密輸が巧妙になっている。不審者、不審物を見かけたら八代港管理事務所か警察へ連絡するようにと書いてある。
関東地方の内陸に暮らしていると、こういう危機感は思い浮かばない。西の海では現実的な切実さがあるようだ。

* 北上して熊本市街に入る。

■ 熊本城
熊本市1 tel.096-352-5900

西南戦争で激しい戦闘があった熊本城に行く。
黒い姿、石垣、太い柱など、みごと。
建設当時のものが唯一残る宇土櫓に上がったときに、ちょうど雪が降ってきた。日射しがあるところに雪が舞うから、映画にでも使えそうな景色になった。
三十数年前に復元した天守閣は、内部は近代建築。
すれ違う観光客の声は韓国語が多い。
雪はまもなくやんで、また青空が広がった。

■ 熊本市現代美術館
熊本市上通町2-3 tel. 096-278-7500

熊本市現代美術館に行くと『舟越桂2010』展を開催中だった。
舟越桂の作品は静かな木彫の人物像だが、近年、奇形の度を増している。動物のような長い耳があったり、両肩に小さな山がのっていたり。でも「ここに人が存在している」という強烈な感覚があり、生半可な写実彫刻より、あるいは希薄な生身の人物より、よほど強く迫ってくる。
熊本市現代美術館 『舟越桂2010』展

『光の絵画』展というのも同時開催中。
合志市(こうしし)と熊本市のハンセン病施設の人たちの絵画を展示している。
熊本はハンセン病と縁が深い土地柄なことをこちらに来て知った。
舟越桂の父・舟越保武のダミアン神父像も展示してあった。

ダミアン神父はベルギー出身の神父で、ハワイのハンセン病患者を献身的に世話した。
僕がいた埼玉県立近代美術館でも舟越保武のダミアン神父像を所蔵していた。自身もハンセン病にかかった神父の像は、顔や手にぶつぶつのコブ状の斑点があり、口をうっすら開いて、ハンセン病の特徴をとく表現しているといわれた。僕が在職していた1990年代半ばには、ふつうの展示室ではなく奥まった応接室に置いてあり、とくに見たいという申し出しがあれば案内して見せるという扱いだった。今ではなぜそんなことが必要だったか、かえって怪訝に思えるほどだが、当時はまだハンセン病に対する偏見が強くあり、デリケートな配慮があって不思議ではない状況だった。

その埼玉県立近代美術館に僕がいた頃の館長は2代目の田中幸人(たなかゆきと)さんだった。もともとが九州の人で、埼玉に単身赴任していたが、2002年の熊本市現代美術館の開館時に初代館長として移られた。
いつかその現代美術館に伺ってみようと思っていて実行しないうちに、2004年に亡くなられ、それからでもまた年月が経ってしまった。
田中幸人さんはもとは毎日新聞の記者で、三井三池の争議の荒れた現場の取材なども経験している。
『漂民の文化誌』という本をだしているが、大量の文献を読み、実際に現場を歩くこともしてまとめた民俗学の著作で、視野が広い。
2002年の熊本市現代美術館の開館記念展では、堕胎を強制された女性のハンセン病患者が、わが子のかわりとして30年間ともに暮らしてきた抱き人形が展示されたという。
今も舟越桂展にあわせてハンセン病施設の人の作品を展示し、舟越保武でつなぐという複眼的企画をしている。初代・田中館長の志が受け継がれているといっていい。
僕は熊本に「現代美術」の「館」ができたのだと思っていた。
でもこの美術館は「現代」という社会につながる「美術館」なのだと考えをあらためた。
「現代美術(の)館」ではなく、「現代(の)美術館」。
すてきな美術館だと思うが、それにつけても田中幸人さんが生きていられる間に来るのだったと悔やまれる。独特の九州弁のイントネーションの話しぶりが懐かしい。

美術館の有料の展示室より手前、だれでもタダで気楽に寄れる位置に図書室がある。
「ホームギャラリー」という名称になっているが、壁面いっぱいに本が並んで、図書室といっていいだろう。美術書だけでなく、ここにも「現代」の感性に通じるフィクションやマンガも選ばれて並んでいる。

内装のデザインをしたのは、壁に大きな絵を展示してもあるアブラモヴィッチ。
天井中央にはジェームズ・タレルの光の作品をしこんである。四角な面が青くボーと光りを帯びている。何か実体があるのか、空間が光っているだけなのか、(仮に手を伸ばせばモノにあたるのか、手が宙を舞うのか)判じがたい。
真下には、十字にクロスする台があり、陶製の枕が4個置いてある。
寝そべって青い光を眺めていてもいいし、本を読んでもいいし、ちょっと眠ってしまってもいい。
書架の一部にすき間があり、そこにも陶製の枕があるのは、そこにも寝そべっていいというサインになっている。
美術的しかけがしかけられているが、色調も照明も落ち着いたもので、心を静めて本にひたれる。
こんな美術館の近くに住めたらいいと思う。

● 紅蘭亭上通パビリオン
熊本市上通町1-15 http://www.kourantei.com/

紅蘭亭上通パビリオン 熊本名物に太平燕(たいぴーえん)というものがあるのを知った。
街の中心部の上通町(かみとおりちょう)の商店街に「太平燕」ののぼりがあったので入った。
通りから少し奥まったところにあり、中庭がある。
中国服の女性が迎えてくれる。
入口あたりに中国の骨董が並ぶ一画がしつらえてある。

ひとくち食べて「うまい!」。
春雨を麺に見立てたような中華スープで、エビ、豚肉、白菜、タケノコなどがのるが、欠かせないのが揚げ卵。
ほかほかと和む味で、食べていて気持ちまで豊かになってくるようだ。
アプローチも室内のデザインもすてきで、サーブする人も上質、看板料理の太平燕は申し分なくおいしい。さりげないがパーフェクト!だと思った。

* 熊本市街を北に抜ける。

■ 熊本市田原坂西南戦争資料館
熊本市植木町豊岡858-1 tel. 096-272-4982

田原坂は、西郷隆盛が起こした西南の役の激戦地で、坂というのは峠のこと。
上り坂を車で峠に向かうと、途中で数人ずつの自衛隊員のグループをいくつも見かけた。
田原坂資料館の近くの茶店で菓子と缶コーヒーを買って一休みしながら店の人に話をきいた。自衛隊は西南の役の両軍の戦いを教材にして、模擬戦闘をしているのだと教えられた。しかも今日は卒業演習だという。
兵器も輸送も通信も変わったろうに、まだ130年も前の戦闘が参考になることがあるのかと驚いた。

田原坂の激戦の跡地一帯が公園になっている。

須田剋太『田原坂(A) 金峰山県立公園 田原坂
須田剋太『田原坂(A)

激戦の銃弾を浴びた「弾痕の家」が残っていて、司馬が文章に書き、須田も絵に描いている。

須田剋太『田原坂』(B) 田原坂 弾痕の家
資料館に復元されている「弾痕の家」
須田剋太『田原坂』(B)

「弾痕の家」が資料館の一部として復元されているが、須田剋太が描いたのと同じものに見えない。須田剋太が描いたほかにも「弾痕の家」があり、それが復元されたということだろうか。
(追記:僕が行った2011年には「植木町田原坂資料館」といった。2015年に「熊本市田原坂西南戦争資料館」として新装開館して、たぶん僕が行ったころとはまた様子が変わっている。)

銃弾がとびかう激しい戦闘のすえ、西郷軍は敗れる。
西郷は城山で自刃し、そのときをもって薩摩国は戦国以来の独立勢力としてのおそるべき歴史をうしなうにいたるのだが、失ったのはあるいはそれだけではないかもしれない。(中略)その敗北は日本国に史上類がないほどに強力な官権政府を成立させるもとになった。あるいは西郷の敗北は単に田原坂にとどまらず、こんにちにいたるまで日本の政治に健康で強力な批判勢力を成立せしめない原因をなしているのではないかとさえおもえるのだが(後略)


須田剋太が描いた西郷隆盛像は、あきらかに上野公園の銅像をもとにしている。
大日本帝国憲法発布にともなう大赦によって反逆者・西郷が名誉回復したあと、西郷の死後21年を経た1898年に建った。
上野公園の像に比べて上半身も下半身も着るものをはだけている。須田剋太は自分の体に引け目を感じていて、着ぶくれして大きく見せようとしたりしていた。ジーパン姿やほとんど裸体など、マッチョな印象の男性をいくつも描いたが、西郷像もその系譜を感じさせる。
そんなことを別にしても、この西郷像は大きな目が印象的で、西郷はきっとこんな人だったかと思わせられる。
須田剋太『西郷隆盛像イメージ』
須田剋太『西郷隆盛像イメージ』

「弾痕の家」のあたりの崖に椿の木が多くあったことに司馬遼太郎が目をとめた。
「椿の木はいいですね」
 と、須田画伯は、人肌にでもふれるような情のこもった手つきで幹をなでていた。
「須田さんは椿の花がお好きですか」ときくと、
「好きじゃありません」
 と、この人はつねに意外である。
「椿は花よりも幹がいいのです。(後略)」

* また南下して熊本市街に向かう。

■ 酒本鍛冶屋付近

熊本電鉄菊池線の池田駅近くに酒本鍛冶屋があるはずだが見つからない。
 熊本の旧城下町にさしかかったとき、そのあたりの路幅は今様(いまよう)にひろくとも両側の家並みの屋根がひくく、いかにも旧城下の家並みのにおいを感じさせる一角があった。
「ちょっととめて頂けませんか」
 と、あわてて運転手の肩をたたいたのは、右の車窓を通して変な看板の家が目についたからである。
「酒本鍛冶屋」
 と、ブリキの横看板に黒々と書いてある。これには敬服したい気持をもった。なにしろ製作所とか鉄工所でなく、鍛冶屋なのである。
興味を覚えて司馬遼太郎は鍛冶屋のなかに入る。
とくに入り用があるわけではないが、突然入りこんでただ話をきくのも具合がわるいと思って、金槌を1つ買って、主人と話しをした。
400年続く鍛冶屋で、自分が15代目とのこと。

ところが僕が行ったおよそ40年後には鍛冶屋はなくなっていた。
このあたりと見当をつけたあたりに、熊本京町台郵便局という小さな郵便局があったので入ってみた。
僕もただ尋ねるのは遠慮して、旅の途中でたまりそうな資料を送るためにレターパック500を買ったうえで酒本鍛冶屋のことを尋ねるた。
すると「数年前に閉めた。信号のそばの、今はバイク店になっているところ。」と教えられた。


400年も続いた店が司馬遼太郎と須田剋太が訪れ、次に僕が行くまでの間にうしなわれていた。
鍛冶屋の歴史は終わったが、司馬遼太郎の文章と須田剋太の絵が、長く残る記録にはなった。
須田剋太『酒本鍛冶屋』
須田剋太『酒本鍛冶屋』

郵便局を出て左右を眺めると、道の両側にどれも近年に建て替わったふうの商店や住宅が並んでいる。
鍛冶屋1つがなくなっただけでなく、司馬遼太郎が感心した「いかにも旧城下の家並みのにおいを感じさせる一角」という風景までが変わってしまっていた。

* 熊本城公園の南、新町電停そばに古い本屋さんがあるらしいので行ってみた。

■ 長崎次郎書店
熊本市新町4-1-19 tel. 096-352-0021

目的の書店に近づいたとき、通りの反対側で赤信号がかわるのを待った。
青になって渡り始めた横断歩道で、タバコをくわえてゆったり歩いていく中年の男性を追い抜いた。
僕が店に入って中を眺めていると、「いらっしゃい」だったか言って、その人が階段を上がって行った。店主だろうか。
国登録文化財という建築の書店で、「官報販売所」という看板がかかっている。

スクラッチタイルの壁、2階の窓のアーチ、その付近の手すりのデザインや装飾など、いい味わいをしている。外から見た表情は古い上海あたりにでもありそうに思える。 長崎次郎書店

熊本では、鍛冶屋さんは閉めたが、こういう書店が残ってはいる。

■ 熊本空港

司馬遼太郎と須田剋太の熊本の旅は、人吉からさらに南に行って薩摩に入っていくのだが、僕は熊本空港に戻った。
レンタカーにガソリンをいれなくてはならないが、空港内のガソリンスタンドが妙な位置にあって、見つけるのにやや手間取った。
車を借りるときには粉雪が舞ってチェーンを積んでもらった。雪道は慣れないから不安だったが、あとはほとんど青空の下を移動して、気持ちよい旅になった。
飛行機の待ち時間にレストランに入り、この旅で初めて食べた太平燕がとても気にいったので、最後にもう一度と注文した。
それに生ビール。
(熊本での行程を1日にまとめて記したので立て続けに食べているうふうだが、ここより前に太平燕を食べたのは実は前日の昼のこと)
ふつうの麺類ならさらっと食べ終えてしまうところだが、野菜が大量にのっていて、食べるのに時間がかかる。
旅の最後にちょっとした満ち足りた食事をした気分になった。
飛行機から夜景が見えたが、どこかはほとんど判別できなかった。

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参考:

  • 『街道をゆく 3』「肥薩のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1973
  • 『肥後 人吉 願成寺』 九州歴史資料館編/刊 1996
  • 『漂民の文化誌』田中幸人 葦書房 1981
    『感性の祖形―田中幸人美術評論集』田中幸人 弦書房 2005
  • この旅のレポートは2日の行程に短縮・整理して記した。実際の行程は以下のようだった。
    3泊4日の行程 (2011.1/29-2/1) (-レンタカー …徒歩 >飛行機)(薄字の箇所はこのレポートでは省略している)
    第1日 羽田空港>熊本空港-
    [熊本市より南]轟水源と轟泉水道-宇城市立不知火美術館・宇城市立中央図書館-
    [人吉] 願成寺-人吉城趾-青井阿蘇神社-鍋屋本館(泊)
    第2日 -願成寺-くま川下り発船場-翠嵐楼-
    [八代] 八代神社…霊符神社…盛高鍛冶刃物-八代市厚生会館…成竜園…八代城…八代市立図書館…松濱軒…八代市立博物館-やつしろハーモニーホール-郡築三番町樋門-球磨川河口-八代広域行政事務組合消防本部庁舎-新八代駅-
    [熊本市]-和数奇 司館(泊
    )
    第3日 -白川・坪井川河口-熊本城-熊本市現代美術館…紅蘭亭-熊本県立図書館-九州ルーテル学院大学-熊本県立劇場…NTT西日本九州病院(熊本逓信病院)-和数奇 司館(泊)
    第4日 [熊本市より北]玉名市立歴史博物館-熊本市田原坂西南戦争資料館-合志市西合志図書館-
    [熊本市]
    酒本鍛冶屋付近-熊本市立図書館…緑亭-熊本県立美術館…熊本市立熊本博物館…長崎次郎書店-熊本空港>羽田空港