秋田の内陸へ-大館から鹿角-「秋田県散歩」2


『街道をゆく』の「29秋田県散歩」は前に半分ほどたどったことがある。
秋田市と、南部のにかほ市象潟、北部の八郎潟あたりをまわった。
 →[ 秋田の海べ-象潟から八郎潟-「秋田県散歩」1 ]
2011年3月の東日本大震災からまもない初夏のことで、震災のことが強く意識にあり、内陸部までは行かないで太平洋岸に向かった。
 →[ 東日本大震災後の石巻と仙台-「仙台・石巻」1 (2011) ]
6年ほどを経て、秋田市を起点に、残していた能代-大館-鹿角と内陸に入り、十和田湖にでた。

第1日 秋田市から海岸を北へ [菅江真澄の墓 旧奈良家住宅 八郎潟 能代風の松原 能代(泊)] 
第2日 内陸に入り十和田湖畔へ [大館駅 石田ローズガーデン 鹿角市先人顕彰館 大湯環状列石 十和田ホテル(泊)]
第3日 青森市 [乙女の像 アスパム 善知鳥神社 三内丸山遺跡・青森県立美術館]

「秋田県散歩」で登場する主要な4人の人物は、僕にはこれまでなじみがうすい名前ばかり。どこの人で、いつの人で、どういうことをしたのか、さらっと整理をしておく。

菅江真澄(1754豊橋?-1829秋田 秋田に墓)
江戸時代後期の旅行家、博物学者。全国を旅して、後半生約30年を秋田で暮らした。

安藤昌益(1703?大館-1762大館 大館市二井田の温泉寺に墓)
江戸時代中期の医師・思想家。農業を中心とした無階級社会を理想とする過激な思想をもっていた。
八戸で医者をして、大館に戻って亡くなった。

狩野亨吉(1865大館-1942東京都小石川 東京多磨霊園に墓)
教育者で夏目漱石(1867- 1916)の友人。
京都帝大学長のとき内藤湖南を大学に招く。
学長を44歳で辞して本に没入し、安藤昌益を再発見する。

内藤湖南(1866鹿角市毛馬内-1934京都府木津川市 京都法然院に墓)
東洋史学者。本名は虎次郎で、十和田湖から「湖南」とした。
父も十和田湖に湾の地形が多いことから「十湾」といった。

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第1日 秋田市から海岸を北へ [菅江真澄の墓 旧奈良家住宅 八郎潟 能代風の松原 能代(泊)]

* 秋田新幹線は盛岡から分岐すると山中に入り、とてもゆっくり走るようになる。
途中で信号場があって、短い時間止まった。車窓からときおり細い川が見えていたが、その信号場まで手前に(太平洋に向かって)流れていたのが、過ぎると先へ(日本海に向かって)流れるようになった。
秋田駅で降りる。
駅構内は新しくすっきりしたデザインで、土産物とか、食事どころとかそそられる。駅前にいくつか並ぶバス停は木を多用して、土地柄、秋田杉を使ったものらしく、ちょっとかわった様子をしている。
駅から近い営業所でレンタカーを借りる。
千秋公園にはハスがいくつも咲いていた。
旧雄物川の河口に向かって走り、丘をのぼる。


■ 菅江真澄の墓
秋田市寺内大小路137

菅江真澄は江戸後期の紀行家。
愛知県に生まれ、全国をめぐり、秋田にきたところで藩主の佐竹義和から出羽六郡の地誌を作ってほしいという意向を受け、以後は秋田をまわって記録を残し、秋田で亡くなった。
司馬遼太郎は、民俗学者・柳田国男が菅江真澄に共感していたという。
柳田は真澄を自分の学問の先覚であるように敬愛した。(『街道をゆく29』「秋田県散歩」 司馬遼太郎。以下ことわりのない引用文について同じ。)

墓は秋田城があった高台にある。
秋田城といっても刀をさした武士がいた城ではなくて、奈良時代から平安時代にかけての地方官庁で、10世紀後半には役割を終えている。
高台は旧雄物川の右岸河口近くにあり、港を守る日和山として機能してもよさそうだが、そうしたことはなかったようだ。

菅江真澄の墓へののぼり口 須田剋太『菅江真澄墓入口』
須田剋太『菅江真澄墓入口』

道から墓地への階段を上がる。
野球の内野だけよりちょっと広いくらいかと思える墓地だが、先のほうに案内板がかたわらに立つ墓があるので、すぐそれが菅江真澄のものとわかる。
周囲は、ここからすぐ近くにある古四王神社に関わる神職であった鎌田家の墓域。
ほかの墓がそろって南向きなのに、菅江真澄のものだけ西を向いている。西方浄土への信仰でも関わるのかと思ったら、もとはやはり南向きだったが、1909年の八十年忌の機会に、ほかの墓に侵入しなくて参れるように向きを変えたという。
石には「菅江真澄翁墓」とある。

菅江真澄の墓 須田剋太『菅江真澄翁墓』
須田剋太『菅江真澄翁墓』

周囲の墓が独特で、シンプルな石に「多津姫墓」「宗女○○」「波止王○○」などと刻んである。(○は見覚えがない不思議な文字)

前に秋田に来たとき、市街から秋田港まで走った。
須田画伯の墓はほぼその道筋にあるのに、そのときなぜここに寄らなかったのか覚えがない。

* 丘をくだって秋田港にでる。

■ セリオンタワー
秋田市土崎港西1-9-1 tel.018-857-3381

秋田土崎港 港の岸壁の近くに高さ143mの展望タワーがある。展望室に上がると、港や秋田市街を見わたせる。
いい感じに晴れた日で、やや離れた街並みも、真下の青い海も、みんなくっきりしている。
台風15号が近づいていて、この旅の3日間、出かける前の予報はコロコロ変わっていた。最新のでは1日目はなんとか晴、2、3日目は雨のようだ。
とりあえず海辺にいるとき晴れているのはうれしい。

* 北の郊外へ走る。
田が広がって、稲穂がたっぷり実っている。


■ 旧奈良家住宅(秋田県立博物館分館)
秋田市金足大字小泉字上前8 tel.018-873-5009

旧奈良家住宅は江戸時代中期の豪農の屋敷で重要文化財に指定されている。
秋田県立博物館の本館からすこし離れた分館になっている。
漂泊の紀行家、菅江真澄(1754-1829)は、1811年に秋田にきてこの家に滞在した。ここで藩主の佐竹義和から地誌作成の意向を受け、以後、秋田に居続けることとなった。

奈良家 須田剋太『奈良家』
須田剋太『奈良家』

この家にはブルーノ・タウト(1880-1938)も訪れている。
1935年だから菅江真澄から120年ほどあと。
(『街道をゆく』で司馬遼太郎、須田剋太が訪れたのは、タウトからほぼ50年後の1986年。僕はそれから25年後の2011年と、今回2017年に来た。)
タウトはこの近くの農家(秋田市旭川)の土間で六角形の柱を見たことを記している。ところが、その後の研究者がその家に行ってみても六角形の柱はない。
タウトはその翌日、奈良家を訪れた。
奈良家の土間には八角形の柱があり、タウトの研究者は奈良家の土間の八角形の柱を、前日の農家の六角形の柱と錯誤したものと推定している。

奈良家の八角柱と大広間

土間に八角形の柱がある。(上の写真の左より)
その土間から上がった座敷が須田剋太が描いた『奈良家大広間』になる。

奈良家の大広間

須田剋太『奈良家大広間』
須田剋太『奈良家大広間』

* 北上して八郎潟の干拓地に入る。
道がまっすぐ伸びている。
両側に並木があるのは、雪と風から道を守るためだろうか。


● 大潟観光パレス
秋田県南秋田郡大潟村中央

『街道をゆく』の旅で、司馬遼太郎と須田剋太は、寒風山を降りてから八郎潟にきて、湖心のあたりの食堂に入り、司馬遼太郎はカレーライスを注文した。
「大潟観光パレス」という、アルミサッシを多用した店だった。
と、店の名もでてくる。
僕は2011年に八郎潟に来たとき、司馬遼太郎に敬意を表してカレーライスを食べようと思って、ここに寄ってみた。ところが店は閉まっていて、携帯の番号が書いてあり、かけてみると「今は事前予約だけ受けている」とのことだった。

こんどの旅でも、もう昼はすませてしまった時間だが、寄ってみようとした。
大潟村役場の2つ南のブロックだったと思うのだが、見つからなくて、いくらか範囲を広げて走ってみても、やはりそれらしいところがなかった。
(帰ってから調べてみると「大潟村議会だより」にいきあたった。
2015.7.16発行のものに6月定例会の報告がのっている。
工事締結3件のうちの1件に「大潟村字中央3番地内宅地造成工事(大潟観光パレス跡地の宅地造成)」とある。
大潟観光パレスの建物は2015年までには解体されてなくなっていたことになる。)

* 大潟村役場より北にあるホテルに向かった。

● ホテルサンルーラル大潟
秋田県南秋田郡大潟村北1-3 tel.0185-45-3332

前に来たときに、八郎潟を車で走って、独特の景色だと思ったものだった。
八郎潟の地図を見ていてホテルがあるのに気がついて、八郎潟を高いところから見わたせそうと寄ってみた。
最上階にレストランと展望温泉風呂があるが、さらにそこから上がって屋上に出られる。

八郎潟の初期開拓者住宅

須田剋太『大潟村コンバイン』
須田剋太『大潟村コンバイン』
ホテルから近くに大潟村役場や住居が集中していて、その区域を広い農地がとり囲んでいる。
すぐ眼下には、初期の開拓者住居が建ち並んでいる。
農地の広さのわりに家は小さく、密集している。
遠くには寒風山が見える。
海は見えない。
八郎潟は土を入れて埋め立てたのではなく、水を出し、土を乾燥させて人が生きられる地面を作った。
もとは琵琶湖に次ぐ面積があった広い水面を、1957年から20年かけて干拓した。
今も休み無く排水しつづけることで存在しえている。

戦後の食糧難を背景に干拓計画が動きだしたのだが、完成する前に米あまりで減反政策に転換していて、干拓はその大きな動きに逆行するようにして完成した。
干拓が完成したころの人口は3,200人ほど。その後ピークが3,300人台で、2015年の国勢調査では3,100人ほど。
多くの地方での人口減少傾向に比べれば、減少はとてもゆるやか。
計画的な政策を組み立てるのが得意なのかもしれない。

* 海の近くを北に走ると能代市にはいる。

■ 能代風の松原
秋田県能代市日和山下

米代川の河口近くの左岸に松林があり、「風の松原」といわれている。
南北14キロに700万本の松があるという。
江戸時代、飛砂の害を防ごうと苦心して松を植えたことが『街道をゆく』に紹介されている。
松原の東がわ、海ではなく、市街に近いほうの道を行き、車をとめて松の林に入ってみた。松は海からの風を受け続けて、内陸方向に傾いている。

能代風の松原 須田剋太『海辺の森(B)』
須田剋太『海辺の森(B)』
「交響楽がきこえてきそうな感じですね」
 詩人でもある須田画伯が、つぶやいた。
木々が立ち並んでいるリズム感が音楽をかんじさせる。

江戸時代は、砂を防ぐためにどういう植物をどのように育てたらいいか、試行錯誤を繰り返し、人の力で松原にした。
現代の土木は、火力発電所をつくるために機械力で松原の外の海を埋め立てた。
埋立は1981年に完了し、1993年に1号機、1994年に2号機が稼働した。
3号機までつくる計画だったが、石炭を主にする発電所なので温暖化への懸念から凍結されていた。
東日本大震災後で状況がかわり、電力を確保するために建設が始まり、2020年に稼働予定という。

* 能代市街にはいる。
能代駅の西、歩いたら10分ほどのところのホテルに入る。


■ 能代駅あたり

ホテルにチェックインしてから散歩に出た。
ホテルがある通りにはアーケードがあり、ちょっとした商店街になっている。
小さい店が並んで、開いて営業してはいるが、人通りはさびしい。

能代駅近くの街並み 駅に向かう県道101号にでて右にいく。
両側にホテル近くの商店街より間口の広い商店が並んでいる。平日のまだ明るい夕方なのにほとんどシャッターをおろしている。
車道は片側2車線あり、歩道も広い。
かつては盛んな勢いのある道だったろうから、かえって寂寥感がます。
駅まで行ったが、駅前周辺もさっぱりしている。

かつて能代は、江戸時代には北前船の寄港地、近代には秋田杉の集散地として発展したが、時代の変化に追いつけていけなかったということだろうか。

秋田県は人口の減少率が2016年で4年連続トップになっていたが、2017年4月には1930年以来87年ぶりに100万人を割った。
県庁所在地の秋田市の人口が県のなかで占める割合は。1970年に20.7%だったのが、2015年には30.9%に上がっている。
全県で人口減なのに秋田市が占める割合があがっているということは、秋田市のほかの自治体がはげしい勢いで人口を減らしていることになる。
能代市の減り方も激しく、1970年の約77千人から、2015年には約55千人と、30%近くも減っている。
(しかも秋田市でさえ、国勢調査でみれば2000年次の336千人がピークで、以後は減少傾向にある。)

またホテルがある商店街にもどってくる。
飲み屋がいくつもあって、商店街のなかで飲み屋が占める割合が高いようにみえる。景気がいいといっていいのかどうか、ものを作って売る店がもっと盛んだといいのだろうけど、なんだかうら寂しい。
商店街が国道に出はずれる角にイオンがある。このあたりではけた外れに大きな建物だが、中に入ってみると客はまばらっだ。
かつてだって地方にいけば、人が少なく、都会的雑踏はなく、ものさびしい感覚はあったとしても、人口が減る時代になって衰退していくわびしさが加わっている気がする。

● 川どこべらぼう
秋田県能代市能代町字赤沼48-21

イオンから近い居酒屋に入った。
予約の客でほぼうまっていて、かろうじて妻とふたりぶんの席はあった。
海に近いから海のものがさすがに豊富。
刺身の盛り合わせにハタハタが入っていたり、小鯛焼きもおいしかった。
ほかに比内地鶏やいぶりがっこと、秋田らしい味で満ちた。

● 能代タウンホテルミナミ
秋田県能代市畠町9-28 tel.0185-55-2256

能代のアーケード街
ホテルの部屋から歩道に屋根がついた商店街がみおろせる。眺めていても、なかなか人が通らない。

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第2日 内陸に入り十和田湖畔へ [大館駅 石田ローズガーデン 鹿角市先人顕彰館 大湯環状列石 十和田ホテル(泊)]

* くもっているが、雨がおちてきそうではない。
9月の初めにしては気温が低くて、半袖でも長袖でもすごせそうで、移動するのにはいい1日になりそう。

能代をでて東に走る。
国道7号は米代川に沿った道で、ゆるい高低差と、ゆるいカーブが続いて、車の運転がややだるくなってくる。
道ばたの柱に温度表示があって、19℃だった。
途中、小さな右カーブで、左に路肩がふくらんだところにババヘラのパラソルを見かけた。
ババヘラというのは秋田の路上で売られているアイスクリームのこと。
車が曲がっていく先に急に現れ、走りすぎてしまったので、定かではないが、やや高齢で小柄の女性がいたようだ。こんな涼しい日にアイスクリームが売れるだろうかといぶかしいが、体は楽だろう。
(ババヘラについては、あとで大館の図書館で学ぶことになる)


大館市街に入ると、ビルや商店が並び、車の交通量も多くて、さかんな街という印象を受ける。
ところがJRの駅に近づくと、しだいにひっそりしてくる。


■ 大館駅あたり

南西から大館駅に向かうと、駅に着く直前で廃線の踏切を渡った。
大館駅と鹿角郡小坂町にある精錬所を結んでいた小坂線の線路で、2009年に廃止された。
小坂線の駅舎や貨物の引込線があって広い面積を占めていたが、ほとんど撤去されて荒れ地になっている。
小坂線の線路跡と踏切

『街道をゆく』の取材は1986年だったから、その頃はまだ列車が走っていた。
沿線の駅舎は解体されたり朽ちたりしているが、線路は残っていて、一部が小さなテーマパークのように利用されている。
精錬所は、スマホやスクラップから金・銀・銅やレアメタルを回収する事業に転換している。時代の波に適合して盛んだが、車社会になっていて、鉄道を走らせ大館にまでその勢いが波及するほどではないようだ。

小坂線の踏切跡から大館駅に向かう。
渋谷駅に飼い主が亡くなったあとも通いつづけた忠犬ハチ公は大館の生まれ。
駅前に彫像があり、待合室には観光用に生きた秋田犬がいて、記念写真を撮らせてくれたりする。
大館駅

大館駅はJR奥羽本線の駅。
奥羽本線は福島から山形、秋田を経て青森にいたる485キロの幹線だが、駅は市街中心部から2キロほど北にある。
大館駅からは岩手県盛岡市に向かう107キロのJR花輪線も出ていて、次の駅は東大館駅で、市街には1キロほどの距離がある。
市街の中心ではないところに駅が2つあって、都市として求心力が分散しているのは和歌山市もそうだった。(→[桜と桃の紀ノ川-「高野山みち」と「紀ノ川流域」])

■ 御成座
秋田県大館市御成町1-11-22 tel. 0186-59-4974

駅から歩いてもすぐのところに映画館がある。
1952年に洋画専門のロードショウ館として開館、2005年に閉館したが、名画座として再開した。

上映プログラムを見ると、そそられる映画が並んでいる。
埼玉の僕のうちあたりでは、車で20分ほどでいける範囲に3つもシネコンがあるが、アメリカ製と日本製の観客数が見込めるほとんど同じ映画ばかり。
近くにこんな映画館があるといい。
大館に宿をとれば1本くらい見られたかもしれない。
御成座

* 大館駅から南に2キロほど、市役所近くに向かう。
石田ローズガーデンと秋田犬博物館の共用の駐車場があって、車をおく。

■ 石田ローズガーデン(狩野亨吉生家跡)
秋田県大館市三ノ丸10 tel.0186-43-7072

能代で生まれ大館で育った政治家、石田博英(1914-1993)の私庭が、バラ園として公開されている。
石田の死後、バラ園は遺族から市に寄贈され、1995年からは市が管理しているが、石田が生きているころから公開されていたようだ。
1986年に訪れた司馬遼太郎もバラ園に入っている。
ここは狩野亨吉が生まれ、4歳まで過ごしたところでもあった。
入口の塀に「狩野良知・亨吉父子 生家の跡」と記したプレートがかかっている。

石田ローズガーデン(狩野亨吉生家跡) 狩野亨吉生家跡のプレート

須田剋太『狩野家跡』 須田剋太『狩野良知・亨吉父子生家之跡』
須田剋太『狩野家跡』      須田剋太
『狩野良知・亨吉父子生家之跡』

バラ園には「ハマナシ」と記した札がついた木があり、赤い実をつけていた。
司馬遼太郎はここに来る前、能代の松原の海岸で、ハマナスのピンク色の花がゆらいでいるのを見かけて、同行している編集者の藤谷宏樹氏とこんな会話をしていた。
バラ科だそうだから、花はバラに似ており、トゲもある。
「バラ科なのに、どこが茄子(なす)なんですか」
ハマナス好きの藤谷氏にきいた。
「実が梨(なし)の形に似ているからじゃないですか」
「すると浜梨(はまなし)」
「そうです。東北の人が発音すると。浜ナス、いや、ホントです」
司馬遼太郎はあとで秋田の花についての本をあたり、ハマナスの項に別名ハマナシとあるのを確かめている。
大館のバラ園でそのハマナシの実を見るとは思いがけなかったが、なるほどバラ科の木なんだと納得する。
ハマナシの実

狩野亨吉は夏目漱石と同時代の人で、深い親交があった。
教育者としては、京都帝国大学文科大学の初代学長となり、幸田露伴、西田幾多郎などすぐれた人びとを教授陣に招いて、京大文学部の基礎を築いた。
その教授陣のなかには毛馬内村(けまないむら、現・秋田県鹿角市)生まれの内藤湖南もいた。
早くに公職をひいたあとは、大量の本を集め、読み、本読みとしては、現在の大館市二井田生まれの特異な思想家、安藤昌益を発掘・評価して、世に知らせるということもした。
内藤湖南についても、安藤昌益についても、同じ地域の人だから引き立て評価したということではなかった。
秋田県で"県北"といわれてやや僻地視されているこの山間の小盆地が、安藤昌益と狩野亨吉という2つの大きな精神を生んだということにおどろくのである。
狩野亨吉の膨大な蔵書はおもに東北大学におさまった。
司馬遼太郎も執筆のために多量の図書を集めたが、それは自邸(と司馬遼太郎記念館)におさまっている。
たいていの蔵書家は、死ねばその本は古書籍商を通して需要と供給という還流のなかにもどされる。
狩野亨吉と司馬遼太郎の蔵書は散逸しないですんだことになる。

◆ 狩野亨吉の肖像画


須田剋太は、生家跡の実景(『狩野家跡』)のほかに、『狩野亨吉像』も挿絵に描いている。
広い面構えをしているように見える。

 須田剋太『狩野亨吉像』
須田剋太『狩野亨吉像』


狩野亨吉は、1898年から1906年まで第一高等学校の校長として在職した。
1939年に刊行された『第一高等学校六十年史』には、在職時のものと思われる狩野亨吉の肖像写真が掲載されている。
顔は細く長い。
須田剋太が描いた顔とは、同じ人とは思えないほど印象がちがう。
『第一高等学校六十年史』の狩野亨吉の写真


『狩野亨吉遺文集』(安倍能成/編 岩波書店 1958)の巻頭に狩野亨吉の肖像写真がのっている。この本は狩野亨吉の著作を集めた基礎文献で、顔の向きなどからして、須田剋太はこの本の写真をもとにして描いたと推定できる。
この写真では、剋太が描いたような広い顔にも見えるし、よく見れば第一高等学校の写真のような面長にも見える。
光と影のコントラストが大きいので、そんなトリックのようなことが起きたようだ。
『狩野亨吉遺文集』

『狩野亨吉遺文集』では、写真の下に「昭和十六年二月二十六日撮影」とある。狩野亨吉は昭和17年(1942年)に亡くなったので、その前年に撮影されたことになる。
ところで『松岡正剛の千夜千冊』1229夜は、青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』について書いている。
そこに松岡正剛の文章でこうある。

 須田剋太に「狩野亨吉像」がある。さすがに「嬰骸性」(えいがいせい)をうたった須田にふさわしく、狩野ならではの破格の醇朴とでもいうものが発露する。須田はめったに肖像画など描かない画家だが、その須田が狩野を選んだのはよほどのことだったのかと偲ばれる。(『松岡正剛の千夜千冊』1229夜 青江舜二郎「狩野亨吉の生涯」)

この文章には戸惑わせられる。
この『狩野亨吉像』というのは、『街道をゆく』の挿絵として描かれた上記の絵のことだろうか。
独立した作品ということもありうるが、僕の知る限りでは『街道をゆく』以外に狩野亨吉像を見たことがない。
「めったに肖像画など描かない」とあり、たしかに須田剋太は独立した作品としての肖像画はほとんど描かなかったが、『街道をゆく』では、狩野亨吉の例のように、写真を参考にいくつも人物像を描いている。
この「秋田県散歩」でも、狩野亨吉と同時代の内藤湖南像も描いている。
松岡の文章は、写真からではなく、実際に当人を前にして肖像画を描いたことがめったにないという意味だろうか。
だとしても、須田剋太が実際に狩野亨吉と会って、目前でポースしてもらって描いたということもありえなそうに思える。

須田剋太は、若い頃、埼玉県浦和市(現さいたま市)のアトリエで制作していたが、1941年、パリに行く費用を出そうという人があったのをことわって、群馬県の妙義山にこもって絵を描いた。
狩野亨吉が亡くなった1942年に奈良に移り、そこで東大寺の僧、上司海雲の庇護を受けるようになる。
狩野亨吉は1906年から1907年にかけて、京都帝国大学文科大学学長をしていた。須田が上司海雲と知り合ってからなら、そのつながりで京都帝大の人と会うことはあり得ることだが、狩野亨吉が京都にいたころは須田剋太は生まれたばかりで、上司からのつながりはあり得ない。
須田剋太が旧浦和市のアトリエにいたころには、狩野亨吉は公職をひいて東京小石川で鑑定業を営んでいた。浦和と小石川は距離的に遠くはないが、貧しい暮らしをする青年画家が、公職を拒んで膨大な本を集め読みながら鑑定業をする何かただならぬ老人の肖像を描く機会があったとは考えにくい。


狩野亨吉の肖像画を岡田三郎助(1869-1939)が描いている。
青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』によると、狩野亨吉は1940年に東京府美術館で開催された岡田の遺作展覧会を見に行き、自身の肖像画が展示されていて照れていたという。
第一高等学校で狩野亨吉の後任の校長だった新渡戸稲造のものとあわせて「一高出品」として出ていたという。
岡田三郎助の狩野亨吉像

岡田三郎助についての資料によると、狩野亨吉像を描いたのは1912年となっている。狩野が学校を退職したあとだが、学校として歴代校長の肖像画として公式に依頼して描かれたものと思われる。狩野亨吉の次期校長であった新渡戸稲造も岡田三郎助が描き、2人の服が同じスタイルをしていることもその推定を補強する。
あらたまった服を着て、胸を張って、構えた感じの姿が描かれている。
狩野亨吉像を描いたのは岡田三郎助が44歳ころで、文部省留学生としてフランスで学んで帰り、すでに東京美術学校教授となっていた。校長・狩野亨吉を描くにはそうした社会的に認知された画家がふさわしいと考えられたことだろう。

そうしたことから考えても、須田剋太は実際に狩野亨吉に会って描いたのではなく、写真から描いたことが推定される。
ただ遺稿集の写真では、写真とちがって内側に着ている服にくっきりたて縞がある。それに、襟元からのぞいているシャツとボタンも写真でははっきりしない。
似た構図で別の写真があったのか、遺稿集に掲載された写真が印刷ではつぶれているが、より明瞭な写真がどこかにあるのかもしれない。
『街道をゆく』の挿絵の地をたどっていると須田剋太の絵から謎をかけられることはしばしばだが、狩野亨吉の肖像画のことでは松岡正剛から謎を加えられた。

狩野亨吉の肖像については、なお余談がある。
公職からひいた狩野亨吉は貧しい暮らしをして、生涯結婚もしなかったから、誰にもみとられずにひっそり亡くなった。
その死亡記事が朝日新聞にのったが、写真は別人のもので、青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』にはその記事が転載されている。
青江は狩野亨吉の評伝より前に内藤湖南の評伝も出版したが、その「大館の学-狩野父子」の項に「狩野亨吉」の写真が掲載されている。死亡記事と同じ朝日新聞社の刊行だが、ここでも死亡記事と同じ別人の写真が掲載された。

須田剋太は狩野亨吉が再発見した安藤昌益の肖像(下左)も描いている。
これは安藤昌益の著書『自然真営道』にある自画像(下右)をもとにしている。

須田剋太『安藤昌益像』 安藤昌益『自然真営道』の一部
須田剋太『安藤昌益像』

* 大館市の図書館が菅江真澄の著書を所蔵しているというので、なにか展示もあるだろうかと思って寄ってみた。

■ 大館市立栗盛記念図書館
秋田県大館市谷地町13 tel.0186-42-2525

菅江真澄の没後、残された著書は分散したが、明治になって収集され、この図書館の所蔵になっている。
図書館に入ってたずねると、展示はないが、インターネットで公開しているという。(旅から帰ってから見た。)

ついでに郷土資料の棚を眺めていると『食文化あきた考』という本があった。
中高年の女性が道ばたにパラソルをかけて売っているアイスクリーム=ババヘラについて考察している。
1970年代半ばに、夏休みにアルバイトにやとわれた高校生が「ババヘラ」というコトバを考え出したものらしい。

 その女子高校生3人組は、売り子がバアさんばかりなのにショックを受け、それを逆手にとり、ババがヘラですくうアイスを若い私たちも売ってるよ、という「自虐的つっこみ」がヒネリだしたネーミングなのだそうだ。(『食文化あきた考』あんばいこう)

今では秋田名物の1つになっている。
須田剋太の『秋田街道』 は、場所を特定する定かな手がかりがないが、道ばたにパラソルを開いてものを売っているらしい。
須田剋太『秋田街道』
須田剋太『秋田街道』
道と道でないところがどういうことになっているのかわからない描かれ方をしていて、そこにパラソルがある。背景はモノトーンなのにパラソルだけが部分カラーのようにはなやかで、ちょっとシュールレアリスムの絵のようになっている。
不思議な絵だと思って眺めていたのだが、これはババヘラだったわけだ。
広い風景に直線的な道、その道に沿って樹林があるから、八郎潟の干拓地だろうか。
「ババヘラ」を考えついた高校生は男鹿海洋高校の生徒だと想定されているし、製造業者が男鹿市あたりに集中しているというから、須田剋太が男鹿半島あたりでしきりに目にして描いたということはおおいにありそうだ。

須田剋太の『狩野家跡』でも、門の前にババヘラの店のパラソルがひらいている。
生家跡はバラ園になっていて、『街道をゆく』の一行が大館に来たのは6月のバラの見ごろのにぎわう時季だったから、それにあわせてでていたのかもしれない。

* 東へ走る。市街を北東に出た田園地帯にドームがある。

■ ニプロハチ公ドーム
秋田県大館市上代野稲荷台1-1 tel.0186-45-2500

ニプロハチ公ドーム 伊東豊雄
伊東豊雄氏設計による国内最大の木造建築で、木材は秋田杉を使っている。
1997年に建ち、建設時は大館樹海ドームパークといった。
昼どきになっていて、こういうところなら食事をできる店があるかもしれないと思ったのだが、ゲームのない日は見学に公開されてはいるが閑散としていて、食事の営業が成り立つふうではなかった。

* 大館市から鹿角(かづの市)へ、東に走る。
道は山中に入ってしまってとても食事ができる店がありそうもない。
小坂で国道282号に右折して南に向きをかえる。
次の目的地が近づいてきたところにローソンがあった。
店内にカウンターがあって、そこで簡素に食事する。
安くて時間がかからなくて、これも悪くない。
次の目的地は(食事の店があるだろう)鹿角市街より手前にあり、ローソンから出てまもなく着いた。
そこではかなりの時間を過ごすことになったから、ローソンがなければたいへんだった。


■ 鹿角市先人顕彰館
秋田県鹿角市十和田毛馬内柏崎3-2 tel.0186-35-5250

草創期の京都大学で東洋史を講じて京大の歴史研究の大きな礎をつくった内藤湖南(1866-1934)と、十和田湖でヒメマスの養殖に成功し十和田湖を世に開いた和井内貞行(1858-1922)の2人が主役。
この近くに内藤湖南の住まいがあり、司馬遼太郎一行は『街道をゆく』の旅でそこを訪ねている。

 押せば倒れそうなほどに簡素な門に、不相応に大きな扁額がかかげられている。
「蒼龍窟」
 とある。湖南の父十湾がつけたものらしい。(中略)
 私どもは、あらかじめ許可を得ることなくここへきてしまっている。
「突如でおそれいりますが」
 と、格子戸をあけていうと、幸い、当主の内藤新次氏が出て来られて、湖南先生のことでしたら私よりも内藤琴がおりますので、ということだった。

そして母屋と別にある「三余堂」に案内され、そこで湖南の姪の琴さんから話をきいている。
『街道をゆく』の連載では、最後の3回を内藤湖南についやしていて(それ以前の回にも言及はあるが)、したがって須田剋太の挿絵も各回2枚で6枚もある。『内藤湖南像』のみ肖像画だが、あとの5枚は内藤邸を訪ねたときの様子が描かれている。

顕彰館には「三余堂」が復元されている。
内藤邸は今もあって、簡素な門までは外から見られそうだが、今の方がお住いの中には入りがたい。
復元されているのはありがたいことだった。

顕彰館の展示を見て、小田嶋隆一館長に、須田剋太の挿絵の地をたどっていることをお話しすると、そういうことなら実際の内藤邸にご案内しようといわれる。
内藤家に電話されると、了承され、顕彰館から近い内藤邸に伺い、内藤家の方に迎えられた。
司馬遼太郎が文章に記し、須田剋太が描いたとおりの簡素な門がある。

内藤家門倉龍窟 須田剋太『内藤家門倉龍窟』須田剋太『内藤家門倉龍窟』

門の表札は司馬遼太郎を迎えた「内藤新次」のお名前で、「琴」さんの名もあり、内藤家の歴史意識に感動する思いだった。
須田剋太は道の向かい側も描いているが、木は伐られて様子が変わっている。

内藤湖南家前 須田剋太『内藤湖南家前』
須田剋太『内藤湖南家前』

門をくぐると、主住居があり、となりに三余堂がある。
特徴がある欄間も、須田剋太の絵のとおりに今もあった。
門だけでも外から眺められればと思っていたのだが、司馬遼太郎が琴さんから話をきき、須田剋太が5枚も描いた部屋を拝見できるのはありがたいことで、達者な役者たちが退場したあとの舞台を見る思いがした。

三余堂の中(復元)
(三余堂は現役の住居なので写真は控えて、上の写真は顕彰館に復元されているもの。絵と写真では方角が異なる。)
須田剋太『内藤琴女』
須田剋太『内藤琴女』

 ところで、内藤琴さんの頭上の欄間に、扁額がかかっている。湖南がおそらくこの座敷で書かされたかと思われるもので、文字がじつに素直である。(中略)
  思無邪
 思い邪無(よこしまな)し。「論語」にある孔子のことばである。


「思無邪」のほか、須田剋太の絵にいくつかの扁額が見えるが、これらはいま顕彰館におさまっている。
「思無邪」(おもいよこしまなし)

顕彰館に戻るには小さな坂を下る。
つまり内藤邸は、やや高いところにある。
鹿角市は四方を山に囲まれているが、東の山から鹿角の盆地に舌状の丘が迫っている先端に内藤邸がある。
湖南は他郷に出てから自分の家のまわりを「吾の家、爽丘の上に在り、而して下平田(したへいでん)に臨む。」と回想している。
グーグルアースでこの地形を見ると、不思議な様子をしている。
東の山からの高みの先端でありながら、この舌状の一帯だけが平坦で、しかも市街地より一段高く、舌の周囲は木々が生えて緑色に縁取られている。
湖南は京都の南部に恭仁(くに)山荘を建てて隠棲したが、その地形は故郷のこの爽丘と似ていたという。

■ 仁叟寺(じんそうじ)
秋田県鹿角市十和田毛馬内番屋平26 tel.0186-35-3127

小田嶋館長に案内され、顕彰館をいったん通りすぎて、仁叟寺に行った。

仁叟寺(じんそうじ)
内藤家3代の墓がある。
左から、内藤先爵先生墓、十湾内藤先生之墓、湖南内藤先生遺髪塔-と3代が並んでいる。
内藤湖南は京都でなくなって法然院に墓があり、ここには遺髪をおさめてある。

◆ 内藤湖南の肖像画

内藤湖南先生顕彰会が「湖南」という研究誌・顕彰誌を刊行している。
顕彰館にバックナンバーがあったので見ていると、1983年刊行の第3号に、司馬遼太郎を迎えた内藤琴さんの文章があった。
『街道をゆく』で「私は琴さんの『思い出あれこれ』という文章を読んだことがあるが」と司馬遼太郎が書いている出典はこの研究誌だったかと、『湖南』第3号を求めて帰った。

須田剋太『内藤湖南先生像』
1987年に週刊朝日に掲載された『街道をゆく』「秋田街道」での須田剋太『内藤湖南先生像』。

「湖南」第3号に掲載の「晩年の湖南先生(恭仁山荘)} 上記の「湖南」第3号には、「晩年の湖南先生(恭仁山荘)」と説明がある写真が、巻頭に掲載されている。
恭仁山荘に住んだ1927年から、亡くなった1934年までの間に撮られた写真ということになる。

服装、顔と体の向きなど似ているが、須田剋太の絵のほうがずっと若々しく見える。
似た姿の別の写真があって、それをもとに描いたか、この写真から須田剋太の思い入れがあって若返らせて描いたか、想像をさそわれる。

須田剋太『内藤湖南』
須田剋太『内藤湖南』
『街道をゆく』より前に、須田剋太は犬養道子『日本人の記録 犬養木堂』の挿絵を描いたことがある。
毎日新聞に1969年3月4日から12月27日まで連載された。
その第139回に内藤湖南の肖像がある。
犬養木堂は中国のことをしっかり知らなくてはと考え、「内藤湖南博士が彼の無二の友となる」とその回の文章にある。
(『日本人の記録 犬養木堂』の原画は須田剋太の生地、埼玉県鴻巣市が所蔵している。)

「御講書始の儀・御進講」のときの内藤湖南 「湖南」第3号に、「御講書始の儀・御進講」のときの写真がある。ネクタイの形やその下の勲章らしきものから、毎日新聞掲載の肖像の元はこれと考えていいようだ。
「湖南」第3号は毎日新聞連載よりあとの1983年刊だから、須田剋太がこの研究誌を手にとって描いたのではないとして、以前にどこかに掲載されたその写真によったものだろう。

どちらの組み合わせでも写真では目を伏せているのに、剋太の絵ではよく見透すような、意志的な目をしている。写真の穏やかで知的な表情もいいが、剋太の絵もとても魅力的な人物に感じられる。

* 西へ走る。

■ 大湯ストーンサークル館
秋田県鹿角市十和田大湯万座45 tel.0186-37-3822

日本にも大湯環状列石というストーンサークルがあると、前から心ひかれていた。
十和田湖に向かう道筋にあり、絶好の機会と思って寄ってみた。
ところが、このところ熊が出没していて危険なので、展示施設から遺跡に向かう遊歩道は立入禁止になっていた。
車道から遠望して十和田湖に向かった。

* 大湯から十和田湖に向かうと十和田湖の南端に出る。
西側を北上する道を行くと、今夜の宿の十和田ホテルがある。
『街道をゆく』の一行は十和田湖から秋田に戻ったのだった。

内藤家を辞したあと、坂をのぼって十和田湖畔に達した。(中略)
帰路、道は暮れた。秋田市までは遠かった。
こうして『街道をゆく』「秋田街道」の連載は結ばれる。
僕らが走ってきた道をふりかえっても、秋田からかなりな距離があった。
『街道をゆく』の旅のころは今より道路事情がよくなかったろうから、よけいにたいへんなことだったろう。
「秋田街道」をたどる旅はここでほぼ終えて(須田剋太が十和田湖畔を描いた絵が1枚残ってはいる)、僕らは新青森駅から新幹線で帰るまでのおまけの行程になる。


● 十和田ホテル
秋田県鹿角郡小坂町十和田湖字鉛山 tel.0176-75-1122

十和田湖の西岸にあり、部屋からは十和田湖を見下ろせる。
1940年に開催予定だった幻の東京オリンピックのために外国人観光客を迎える宿として政府の要請で建てられたホテルのひとつで、1939年にオープンした。
秋田の杉を多くつかっていて、ホテルのホームページでは
建築後七十有余年を経たとはいえ逆に年を重ねるごとに磨きがかかり、柱に使われている丸太はますます独特の光を放ち、訪れる人々に驚きと感動を与えております。
と自負している。
登録有形文化財にもなっているが、改修と時代にあわせた磨き直しもして、きれいで新鮮で快適。
レストランでの食事も忘れがたいもので、献立をメモしておく。

オードブル 白神生ハムとメロン 
      トラウトサーモン トルティーヤ巻
      比内地鶏のサラダ仕立て バルサミコソース
造り    二種盛り
魚料理   十和田湖ひめますのポワレ 味噌バターソース
台の物   米茄子と海鮮陶板焼き
洋皿    ローストビーフ 和風シャリアピンソース
冷鉢    冬瓜の白ごまあんかけ
食事    枝豆御飯 香の物 味噌汁
デザート  桃のクラフティ

ひめますは、鹿角市先人顕彰館で見た和井内貞行のおかげで養殖が成功し、およそ100年経った今も楽しめる。
お酒は、十和田ワインと、「北鹿」十和田湖畔雪中貯蔵酒。
食事をサーヴィスしてくれる人もさすがに老舗のホテルで、なにもかも心地よかった。

部屋に戻ってNHKTVの『ブラタモリ』を見た。
2017年9月2日のことで、ちょうど十和田湖の回だった。
和井内貞行によるヒメマスの養殖のこともでてきて、十和田湖がヒメマスが生きるのに適していることが地質学的に説明された。

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第3日 青森市 [乙女の像 アスパム 善知鳥神社 三内丸山遺跡・青森県立美術館]

十和田ホテル

翌朝、目が覚めて窓のカーテンをあけると、湖の向こうからまっすぐに朝日が射してきた。向こう岸の緑の山の上にあるほんものの太陽と、湖面に映る太陽と、2つの光源があってまぶしい。
台風15号と併走して北上してきたので、今日も荒れた雨を覚悟していたのだが、東の海上へそれていってくれたようだ。
雨が予告されているのに行ってみるときわどく雨を回避する-というのは僕の『街道をゆく』の挿絵の地めぐりの旅のお約束のようになっているが、今度も幸運だった。

* ホテルを出て、南岸を東へ走る。

■ 十和田湖/乙女の像
青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋

高村光太郎「乙女の像」 須田剋太『十和田湖』
須田剋太『十和田湖』

湖畔に高村光太郎の女性像が立っている。
十和田湖国立公園指定15周年を記念して、1953年につくられた。

須田剋太が十和田湖を描いた絵は、いくらか高い位置から描いたもののようだ。
自然のなかで描いた絵はなかなか場所を特定しにくいが、この絵はいくつか特徴がある風景で、ゆっくり湖畔をめぐれば見つかるかもしれない。
でも『街道をゆく』の取材は十和田湖に着いたところで秋田に引き返していて、司馬遼太郎の文章も簡単に結ばれている。
とくに時間をかけないことにして、僕らはさらに北上して青森に出た。

● 奥入瀬渓流ホテル
青森県十和田市大字奥瀬栃久保231 tel.0570-073-022

奥入瀬渓流ホテル 岡本太郎
国道102号が103号と交わるところにホテルがある。
ロビーに入って進むと、岡本太郎の大きな暖炉が目覚ましい。
僕らが泊まった十和田ホテルとちがって、外国人のグループ客が多かったようだ。

* 蔦温泉、酸ヶ湯を過ぎる。
いくらか頭がくらくらしてくるほどたくさんのカーブを走って、向こうにようやく青森市街が見えて下り坂になった。


■ 青森県観光物産館アスパム
青森市安方1-1-40 tel.017-735-5311


Uの字形をした青森湾の底、港の扇の要のような位置に、三角形をした大きな建物があって、港の位置を示すシンボルになっている。
この中の港を見おろすレストランで郷土料理のランチにした。
青森港

* アスパムの駐車場に車を置いて、近くを歩く。

■ 青森県庁
青森市長島1-1-1 tel.017-722-1111


県庁舎は谷口吉郎の設計により1961年に建った。
今、その庁舎を6階建てから5階建てに「減築」するという珍しい工事が進行している。
1階分減らして軽量化し、地震に対する強度を増すのが目的という。
中に入ってみたいところだが、日曜日で閉庁で入れなかった。
青森県庁

■ 善知鳥(うとう)神社
青森市安方2−7−18 tel.017-722-4843


古い由緒がある青森市の根源の神社だが、そのわりに境内は狭く、市街地にひそむようにしてある。
県庁所在地の中心にしてはひっそりしていて、小さな港町にいるような気さえしてくる。
善知鳥(うとう)神社

* 青森市街を西に抜けて三内丸山遺跡に向かう。
遺跡は帰りの新幹線に乗る新青森駅に近い。
新興住宅地のような景色のゆるい坂を上がっていくと遺跡に着く。


■ 縄文時遊館
青森市三内丸山305 tel.017-766-8282

三内丸山遺跡
展示施設を抜けて屋外に出ると三内丸山遺跡がある。
ゆるく傾斜した土地に復元された建築物が点在している。

■ 青森県立美術館
青森市安田近野185 tel.017-783-3000


遺跡につづく土地に美術館が建っている。
青木淳設計による建築は外が白く、中は土っぽい。
奈良美智の『あおもり犬』。
屋内の展示室からいったん外に出て細い通路をたどった先にある。高さ8.5m。
奈良美智の『あおもり犬』

* 新青森駅のすぐ前にあるレンタカーの営業所に車を返す。
かつて青森への往復はふつうには飛行機で、鉄道で移動するにはかなりの覚悟がいるほどだった。
今は駅弁とカップ酒でほろ酔いして、たいして退屈しないうちに大宮駅に着いた。

「秋田県散歩」の旅では、司馬遼太郎と須田剋太は、大阪空港から出発した。

 早目に大阪空港についたので、軽食堂に入った。
「もう十六年になります」
 須田画伯がコーヒーを注文したあと、遠い目つきをして言った。
『街道をゆく』が始まってからの歳月のことだった。その旅は1970年からおよそ20年続いたから、終盤に近いころだった。
『街道をゆく』の挿絵の地をめぐる僕の旅も、国内をもうすぐまわり終えるところで、新幹線のなかでちょっとした感慨を覚えた。


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参考:

  • 『街道をゆく 29』「秋田県散歩」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1987
  • 『日本-タウトの日記-1935~6年』 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975
    『今昔「飛騨から裏日本へ」タウトの見たもの」 笹間一夫 井上書院 1979
  • 『狩野亨吉遺文集』 安倍能成/編 岩波書店 1958
    『埋もれた精神』 思想の科学研究会/編 思想の科学社 1981
    『第一高等学校六十年史』 第一高等学校/編 第一高等学校 1939
    『京都大学文学部五十年史』 京都大学文学部 1956
    『明治人の教養』 竹田篤司 文藝春秋文春新書 2002
    『狩野亨吉の生涯』 青江舜二郎 中央公論社中公文庫 1987 明治書院 1974
    『竜の星座 内藤湖南のアジア的生涯』 青江舜二郎 朝日新聞社 1966
    『松岡正剛の千夜千冊』1229夜 青江舜二郎「狩野亨吉の生涯」
    『岡田三郎助』 松本誠一 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 2011
    『特別展 岡田三郎助-エレガンス・オブ・ニッポン-』 佐賀県立美術館 2014
  • 『食文化あきた考』 あんばいこう/著 無明舎出版 2007
  • 「思い出あれこれ」 内藤琴 『湖南』第3号 内藤湖南先生顕彰会 1983
    『写真で見る内藤湖南の生涯』 鹿角市先人顕彰館 1996
    『写真で見る和井内貞行の生涯』 鹿角市先人顕彰館 1998
    『日本人の記録 犬養木堂』 犬養道子 毎日新聞 1969.3.4-12.27
  • 『豆の葉と太陽』 柳田国男 創元社 1941
  • 2泊3日の行程 (2017.9/1-3)(→電車 -レンタカー …徒歩)
    第1日 秋田駅-菅江真澄の墓-秋田市ポートタワーセリオン-秋田県立博物館・旧奈良家住宅-ホテルサンルーラル大潟-能代風の松原-米代川河口-能代タウンホテルミナミ(泊)
    第2日 -今井病院-大館駅-御成座-石田ローズガーデン-大館市立栗盛記念図書館-ニプロハチ公ドーム(大館樹海ドーム)-鹿角市先人顕彰館-大湯環状列石-十和田ホテル(泊)
    第3日 -乙女の像-アスパム…善知鳥神社-縄文時遊館-青森県立美術館-新青森駅