春を迎える近江-「近江散歩」


司馬遼太郎は近江が好きで、芭蕉の句を例にひいている。
 行春を近江の人とおしみける(中略)
 行く春は近江の人と惜しまねば、句のむこうの景観のひろやかさや晩春の駘蕩たる気分があらわれ出て来ない。(中略)この句を味わうには「近江」を他の国名に変えてみればわかる。句として成りたたなくなるのである。(『街道をゆく24』「近江散歩」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1984。以下引用文について同じ。)
『街道をゆく』でも、まず最初の旅が「湖西のみち」(1971)だったし、その後も「北国街道とその脇街道」(1974) 、「甲賀と伊賀のみち」(1976)、「叡山の諸道」(1981)で近江の地にふれている。
1983年に、また近江に行くことにしたが、
 近江路は春がいい。しかし車窓から眺める湖東平野は、冬こそいい。
と、12月初めに出かけている。
僕は行くのを惜しむ春でも、冬でもなく、来る春を迎える3月末に出かけた。

第1日 米原駅 不破関資料館 寝物語の碑 柏原宿歴史館 伊吹家 姉川古戦場 国友鉄砲の里資料館 彦根ビューホテル(泊)  
第2日 彦根城 多賀大社 豊郷町立図書館 安土城趾 西の湖 「ラ コリーナ近江八幡」  ホテルはちまん(泊) 
第3日 三上山(近江富士) 瀬田川洗堰 平等院 醍醐寺 滋賀県立図書館・滋賀県立近代美術館 大津駅 


第1日 米原駅 不破関資料館 寝物語の碑 柏原宿歴史館 伊吹家 姉川古戦場 国友鉄砲の里資料館 彦根ビューホテル(泊)  

* 東京駅から東海道新幹線に乗る。
7:33のひかり新大阪行きは、乗り換えなしで9:44に米原に着く。


右の窓側席に座っていると、米原に着くわずかに手前で伊吹山が見えた。
独特の形をしていて、山頂部は白く雪におおわれている。
もう何度となく新幹線でこのあたりを通ったが、今まで伊吹山を意識したことはなかった。
それでも今度はこのあたりの地図をいくらか注意深く見てきたので、あれは伊吹山だとすぐわかった。
伊吹山

米原駅で降りる。
レンタカーの営業所までの短い距離を歩くだけでも、風の冷たさがこたえた。
まず国道21号線を東に戻る方向に走って、滋賀県米原市から岐阜県関ヶ原町に入る。
右に不破関資料館が現れた。


■ 不破関資料館
岐阜県不破郡関ケ原町松尾21-1 tel.0584-43-2611

展示を見てから受付の人に須田剋太が描いた関あとの絵についてたずねた。
資料館の裏手に旧中山道があり、そこから今の国道に上がる道との分岐点とのこと。
行ってみると不破関跡を示す案内板があり、教えられたとおりその前に細い道が2つに分かれる分岐があった。
石柱には「左旧中仙道」「右中仙道大谷吉隆墓十丁」とあり、昭和13年(1938年)に建てたと刻んである。
右に行くと今は国道に出るのだが、石柱が立った当時はまだ国道がなくて、単に大谷吉隆の墓まで行く細い分かれ道だったのだろう。
大谷吉隆は豊臣秀吉の家臣で、今の地図などでは「大谷吉継」(よしつぐ)とされている。

不破関資料館の裏にある分かれ道
須田剋太『不破関跡』須田剋太『不破関跡』

* 21号線を米原に戻る方向に走る。
3キロほど行って最初にある信号が「今須」で、そこから右へ細い道にそれていく。
まもなく「寝物語の碑」がある。


■ 寝物語の碑

ここは滋賀(近江)と岐阜(美濃)の境になる。
細い溝を隔てただけだから、溝の両側の家ではクニを越えて寝物語ができるという。
『街道をゆく』の旅では、司馬遼太郎は「国境の川」という思いこみがあって、橋を気にかけていて、いったん通り過ぎてしまった。ようやく行き着いてみれば、なにごともないように道が溝をおおっているだけだった。特別な場所であることを示す碑があるが、「腹がたつほど何の象徴性ももたない無性格な碑である」と記した。
今も溝の様子は変わらずにあるが、碑は「美濃国」と「近江国」を示して、無性格ではなくなっている。しかも司馬遼太郎が言葉で、須田剋太が絵でのこしたものと思われる碑も撤去してしまわずに置かれていて、歴史意識が感じられる。

近江美濃両国境寝物語 須田剋太『寝物語不破関』
須田剋太『寝物語不破関』

写真を撮っているとうしろから話しかけられた。
家のかげに置いた椅子に女性が腰かけている。
日向ぼっこというには曇っているし、風がやや冷たいほどだが、家の中にいても手持ち無沙汰で外を眺めていたらしい。
80歳をこえていられるとのこと。
「うちが岐阜側に1軒だけ」といわれる。
なるほど溝の東側にはこの1軒だけで、溝の向こうには数軒の家がある。
郵便配達は違う方向からやってくるし、子どもたちは別の学校に通う。
どちらかの学校が近ければ越境入学というて手立てもあるだろうが、どちらも遠いという。
学校に通う子は、かつては自転車で駅まで走った。今は親が毎日車で送り迎えしているという。
道は細いのだが、これがかつての旧中山道で、さっき信号を右にそれてきたその広いほうの道が新しくできた国道だった。新国道ができたのは「伊勢湾台風のころ」というから1959年ころ、半世紀以上前になる。
新しい道ができる前は、この細い道をトラックがひんぱんに往復していて、すれ違うのがたいへんで、いさかいも珍しくなかった。そんなふうでゆっくり走らざるをえないから、自転車通学の子どもたちはトラックに手をかけて楽して走ることもよくあったという。

僕がいま住む埼玉の家のすぐ近くを中山道がとおっている。僕が子どものころ、やはり大型トラックを含めて車がよく連なっていた。その後、やはり新しい国道ができ、さらにそのバイパスまででき、旧中山道は静かな田舎道になった。
僕には中山道は地元の道という感覚があるから、東海道新幹線で走ってきて-東海道の旧街道にでるならしっくりするが-中山道の古い道にいるのがなんだか不思議な気がする。

* 国道21号線をさらに西へ、米原方向に向かう。
関ヶ原から寝物語の里まで岐阜県だったが、また滋賀県に戻っている。
JR東海道本線に並行していて、鉄道では関ヶ原駅の次が柏原(かしわばら)駅になる。
21号線から、柏原駅が近づいたあたりでまた右にそれて、旧街道にはいる。


■ 柏原宿歴史館
滋賀県米原市柏原2101 tel.0749-57-8020

1917年に建てられた邸宅を改築して、歴史資料館になっている。
柏原宿は中山道67宿のうち、江戸から60番目の宿場。
伊吹山のもぐさが名物で、盛時には旅籠が22軒、もぐさ屋が10軒あったという、そんなことを中心にした展示があった。

● 喫茶柏
歴史館のうちの1棟が喫茶にしてあり、食事もできる。
やいとうどんというものを食べた。
ゆで卵をくるむようにしたとろろ昆布をもぐさに、その上にちょこんとのせた紅生姜を火に見立てて、やいと(お灸)をあらわしている。形の遊びというだけでなく、食べてもとてもおいしいものだった。

■ 合名会社亀屋佐京商店 伊吹家
滋賀県米原市柏原2229番地 tel.0749-57-0022

須田剋太『伊吹家もぐさ傳』須田剋太『伊吹家もぐさ傳』
柏原宿歴史館の前の道は古い宿場の風情を漂わせている。
少し歩くと今も続くもぐさ屋がある。
外観を須田剋太が描いているが、姿は変わらずにあった。

* 長浜市街の北東にある姉川古戦場跡に向かう。
開けた田園風景の向こうにずっと伊吹山があって、移動するのにしたがって山容がかわって見えてくる。
しばしば東海道線の電車や貨物列車が田園を横切って走っていくのも見かける。


■ 伊吹山

司馬遼太郎は伊吹山を眺めたとき、タクシーの運転手とこんな会話をしている。

「向かって左の肩が、饅頭でもかぶりとったように欠けていますな」
「あれは」
 運転手さんはいった。
「セメント工場がかぶりとったんです」

伊吹山は石灰岩でできているため、セメントの材料に削られつづけている。
僕がこのとき走っていたあたりからは、左肩が不自然にえぐられた形をしている。
僕が住む埼玉県では、秩父に武甲山という山がある。名前のとおりかぶとの形をした秀峰が秩父市街から見あげるとすぐそこにあり、古くから信仰の対象になっていた。不幸なことに、秩父市街を向いた、いわば表側の山頂付近が石灰岩で、やはり採掘されている。山頂部がえぐられているのがくっきりと見え、標高が低くなってさえいる。
それに比べれば山頂を保っている伊吹山はまだしもという気がする。

雪をかぶって、いい形をしたボリュームが、このあともあちこちから眺められた。
須田剋太が12月に来て、雪をかぶった伊吹山を描いている。
標高1,377mで、たいした高さではないのに、僕が来た3月半ばになっても雪がある。
春の早い時季にきたのもわるくなかったと思う。

伊吹山 須田剋太『伊吹雪』
須田剋太『伊吹雪』

■ 姉川古戦場
滋賀県長浜市野村町

姉川は伊吹山系の山から西に流れて、長浜市街地の北で琵琶湖に注いでいる。
野村橋の北側(姉川の右岸)に姉川古戦場の碑がある。
1570年(元亀元年)に、織田信長・徳川家康連合軍と、浅井長政・朝倉義景連合軍との間で姉川の戦いがあった。浅井長政はここから6キロほど北西にある小谷(おだに)城主だったが、この戦いで敗れてから3年後、信長軍に小谷城を包囲され、28歳で自刃した。
そういう歴史があったことを思わなければ、平凡な川の眺めだった。
ここからの伊吹山は、手前の低山の上に山頂部だけのぞかせている。

姉川古戦場 須田剋太『姉川古戦場』
須田剋太『姉川古戦場』

右の須田剋太の絵では、右に立つ標柱には「浅井町」(あざいちょう)とあるが、浅井町は2006年に合併して長浜市となった。
左の現在の写真で、柱に2枚の看板があり、左のほうには「ここは野村町です」と、長浜市内の字名が記されている。
左の写真の木々のかたまりの向こう側に、下の写真の石碑がある。

姉川古戦場 須田剋太『姉川の岸』
須田剋太『姉川の岸』

左の碑には「姉川戦死者之碑」、右の碑には「元亀庚午古戦場」とある。

* 西へ走って北陸道をくぐると長浜市国友町になる。

■ 国友鉄砲の里資料館
滋賀県長浜市国友町534 tel. 0749-62-1250
http://www.kunitomo-teppo.jp/

1543年に種子島に鉄砲が入ると、国友で翌1544年には足利将軍の命で鉄砲が作り始められたという。信長の発注を受けて1550年には500挺を納め、1573年に長浜城主になった秀吉は国友の鉄砲鍛冶を保護した。国友村が工業団地のようになり、最盛期には70軒500人の生産体制があったという。

そういう技術的土壌から国友一貫斎という人物があらわれ、天文学に関心をもったというのがおもしろい。
反射望遠鏡を作り、天体観測をした。
資料館には一貫斎が残した記録が紹介されていて、月のクレーター、土星の輪、木星の縞模様などがあり、太陽の黒点の連続観察もしている。
僕がかつていた埼玉県長瀞町にある埼玉県立自然の博物館には「地質学発祥の地」の碑が建っていたが、滋賀県国友村(現長浜市)は、日本の天文学発祥の地といわれているということを初めて知った。

■ 国友源重郎商店
長浜市国友町380 tel. 0749-62-1008

国友の町を歩いていくと、堅牢で上質な家が建ち並んでいて、独特の存在感が漂っている。古い街道筋や古い城下町のように、伝統的意匠の家が並んでいるというのではないのに、街並みがかっしりして風格がある。
「国友○○屋敷跡」などと記した案内柱があちこちに立っている。


『街道をゆく』の旅で、司馬遼太郎は国友源重郎商店に入っている。
その文章にあるとおり、「天文十三年創業 鉄砲火薬商 国友源重郎商店」と記した木製の看板が、今も壁にある。
(下の看板はその後に加えられたものと思う。)
国友源重郎商店の看板

このとき司馬は「爆(はじ)けるような活発な人柄」の夫人に会っている。
今は店が閉まっていて、ちょうど通りかかった人にきくと、その夫人は高齢になり、しばらく前から店は開いていないとのことだった。

国友源重郎商店 須田剋太『國友鉄砲鍛冶』
須田剋太『國友鉄砲鍛冶』

* 琵琶湖の東岸は、北から、長浜市、米原市、彦根市となる。
国道8号線を南に走ると、左手、田園風景の向こうにに米原駅が見えた。
米原駅では何度か乗り換えたことがあるし、この旅でもここで降りてレンタカーを借りた。でも米原でとくに何かしら見に歩いたというようなことはない。東海道新幹線の駅だし、金沢までの北陸本線の起点の駅でもあるのだが、8号線から遠望すると米原駅はちょっと寂しい地方駅のように見えた。

彦根市街に入る。
日暮れが近く、もう城を見ている時間はない。
彦根市立図書館にだけ寄り道してから今夜のホテルに向かった。


● 彦根ビューホテル
滋賀県彦根市松原町網代口1435-91 tel.0749-26-1111

彦根ビューホテルは琵琶湖岸にある。
部屋に入ると、目の前に湖面が広がっている。
風が強い日で、波が護岸のコンクリートに繰り返し打ちつけていて、海のよう。
左にのびる岸を目でたどると、その先に彦根城がライトアップされて際立っている。

『街道をゆく』では、彦根に泊まり、やはり城の夜景がよかったことが書かれている。
いますぎてきた彦根城の丘が岬のようにつき出して居て、遠景をなしていた。
 その夜の湖水を中景にして、彦根城の天守閣が照明をうけて白々とうかんでいるのを見たとき、ときめくほどに感動した。

このホテルがどこか気にかかった。
『街道をゆく』の文章では、「彦根城のそばをすぎ、湖畔に近づき、渚のそばにあたらしくできたホテルに入り」、「夜、渚のそばのホテルから、食事をするために彦根の城下へ出た。」。
また、翌朝には「朝食までのあいだに彦根城にのぼってみようと思いたち」彦根城に行っている。

そんな文章から、僕は城に近い印象を受けた。
彦根ビューホテルは、城の夜景を眺めるのにはよさそうだが、彦根市の北端で米原市との境にあり、駅から4kmほど離れている。
地図をみると、城のそばに彦根キャッスルホテルがある。
ここなら、夜の食事に街に出るにも、朝食前に城を歩くにも手ごろそうだけれど、湖水を背景にして城の夜景を眺めることにはならない。

1つの可能性としては、かつて彦根城から近い湖岸にホテルがあり、今は廃業しているということがあるかもしれない。
この旅に出る前に、彦根市の観光企画課におたずねしたところ、あちこち照会されて回答をいただいた。
結論は彦根ビューホテルだろうとのことだった。
司馬遼太郎一行が泊まった1983年当時は、彦根プリンスホテルだったという。
1981年にオープンして間もない、新しかったころで、ステータスが高いホテルだった。
当のホテルにも確認していただいたが、記録はないとのことで、確実な物証はないのだが、ここにほぼ間違いないとのことだった。

司馬遼太郎の文章でも
「 タクシーをひろって朝の彦根の街に入ると、古い家並がういういしかった。湖の水あかりのせいかもしれない。」
とある。
朝食前にタクシーに乗って城跡に行くのかと感嘆してしまった。ピンポイントで特定の景色を見るならともかく、城跡は広い。それに夏のように、朝早くから明るい時期ならいいが、このときの取材は12月で、夜明けが遅い季節だったが、高貴なホテルだから朝食時間が遅かったろうか。

2008年に経営が変わり、今は気楽に泊まりやすいホテルになっている。
平日、金曜日の夜に泊まったが、バイキングの夕食会場は(2回の入れ替え制になっていて、早いほうの回にいったが)大勢の宿泊者がいた。

彦根ビューホテルから彦根城
彦根ビューホテルから見た彦根城。肉眼ではもっとずっと小さく見えた。


次の日にいった彦根城の天守閣からの彦根ビューホテル。
彦根城から彦根ビューホテル

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第2日 彦根城 多賀大社 豊郷町立図書館 安土城趾 西の湖 「ラ コリーナ近江八幡」  ホテルはちまん(泊) 

* 朝、まず彦根城に行った。
城の周囲に5つの券売所があるが、そのうち大手門券売所から入った。
須田剋太がここで5枚の挿絵を描いている。
場内は広いので、およその見当をつけておきたいと思って、券を売る人に絵を見てもらってたずねておいて場内に入った。


■ 彦根城
滋賀県彦根市金亀町1−1 tel. 0749-22-2742

大手門から坂を上がっていくと、右上の写真のように太鼓橋の下に出る。
右に進んで坂を上がって行くと、右下の写真のように太鼓橋の手前に出る。
橋の向こうには両端に櫓(やぐら)があるので「天秤櫓」という。


須田剋太『彦根城(C)』

須田剋太『彦根城(C)』
彦根城太鼓門

彦根城天秤櫓

天主にいたる。
江戸時代かそれ以前に建設され、現代まで残っている天守が全国に12あり、いずれも国宝か重要文化財に指定されているが、彦根城は国宝になっている。
力強く複雑な意匠を凝縮させている。

彦根城 須田剋太『彦根城(B)』
須田剋太『彦根城(B)』

天主に上がると、夕べ泊まった彦根ビューホテルが、湖畔にすっと立っているのが見えた。


「玄宮園」という庭園に入る。
大手門券売所の人が、『彦根城(E)』の絵はここではないかと言われていた。
玄宮園では、回遊式の庭の中央に池がある。
絵の下半分は水のようだが、池の向こうに石垣がある景色は玄宮園にはなかった。
須田剋太『彦根城(E)』
須田剋太『彦根城(E)』

玄宮園のなかに茶室があり、そこで準備をしている人にあらためて尋ねてみた。
玄宮園の北端に黒御門があり、そのへんから三重櫓を見あげたところではないかといわれる。
行ってみると、木が繁って、この絵のように石垣を眺めるふうではなく、木々の盛大なボリュームが迫っていて、石垣と櫓はかろうじて見える程度で、絵の印象とはかなり違う。
この絵については確かなところはわからなかった。


『彦根城(D)』の絵は、 堀の向こうに石垣があり、その上に天守閣がある。
須田剋太『彦根城(D)』

須田剋太『彦根城(D)』

彦根城
城の区域の南端に、いろは松といわれる松並木がある。
そのへんで石垣が幾段か屈折しているところを描いたようだ。
道のがわにある木が枝を伸ばしていて、絵のようにすっきりした眺めではなかった。

場内を歩いていると、城見物の観光客のほかに、地元の人が散歩したり走ったりしていた。
おおらかな広がりがあり、ゆったりしていていい。
それにしても、やはり朝食前にちょっと見ておこうというには広すぎる気がする。

* 彦根からわずかに南に多賀大社がある。
須田剋太を具象画から抽象画に方向転換させる重大な影響を与えた前衛画家・長谷川三郎が長浜に疎開していたことがある。須田剋太は長谷川を長浜に訪ねた折りに多賀大社に寄ったことがあり、多賀大社に思い入れが深い。
『街道をゆく』の旅では、近くを通り過ぎただけで多賀大社には行かなかったのだが、須田画伯が愛着を覚える地に寄ってみることにした。


■ 多賀大社
滋賀県犬上郡多賀町多賀604 tel. 0749-48-1101
http://www.tagataisya.or.jp/

国道306号線から右折して多賀大社に近づく道に入ると、もう参道で、しっかりした門前町という趣の店が並んでいて、大きな大社なのだと実感する。
伊邪那岐命・伊邪那美命の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれてきたという。

多賀大社
鳥居をくぐり、スリリングなほどに反った太鼓橋を渡ると、広い庭の先に社殿が堂々と構えている。

『街道をゆく』の旅の一行は高速道路を大阪から走ってきて、関ヶ原に向かう途中でこのあたりを通った。多賀のサービスエリアに寄り、司馬遼太郎はカレーライスを食べた。サービスエリアから多賀大社まで直線距離では1キロもないが、高速道路と下の道とは隔絶感がある。

「わっちは、長谷川三郎が長浜に疎開していたころに行ったことがあります。長谷川三郎は英語が上手で、進駐軍とも話ができて、近江聖人といわれていました」
 画伯の述懐は、高速道路を通ってきたせいか、どこか高速なみだった。英語が上手だったことと近江聖人といわれていたことのあいだに、長谷川三郎の人間と思想がぎっしりつまっているはずなのだが、画伯は省略した。(中略)
惜しいことに、当の長谷川三郎は、老熟することなく早世した。それを思いだしているのか、窓ガラスごしに道路上の造園樹をながめている画伯は、寒鴉みたいにさびしげだった。

* 滋賀県には13市6町がある。
その6町のうちの4町(多賀町、甲良町、豊郷町、愛荘町)が、琵琶湖の東岸の中央部で寄り添うように並んでいる。
多賀町のあと、もう1つ豊郷町に寄り道した。


■ 豊郷(とよさと)町立図書館(旧豊郷小学校)
滋賀県犬上郡豊郷町石畑518 tel. 0749-35-8040

豊郷小学校は1937年にヴォーリズの設計で建ったが、2000年ころに、解体して新しい小学校を建てるという町の方針が示された。
全国的な話題になり、保存を求める意見が多くあった。
結局、校舎は残り、今は図書館や展示施設などとして使われている。

校舎の写真を見ることはあったが、実際に来てみて驚いたのは、かつては校地全体が当時としてはとびぬけた作り方をされていたこと。
前庭には実習畑があり、後ろ側には、テニスコトート、プール、高山植物園などがあったという。
のちに後ろ側はグラウンドになり、今はその先に強引に建てられた新校舎がある。
旧校舎の解体に関わっての権力者たちの動きは、思い出すと今でも気持ちが暗くなるほどだが、ヴォーリズに設計を委ね、解体の方針に異を唱えて保存に尽くした町の人たちの意志に感嘆する。

旧豊郷小学校
報徳記念館というところが休憩室のように使われていて、ミュージアムショップのようなところがあり、うなべんを売っていたので昼食にした。

* 琵琶湖に沿うように南西に移動して、近江八幡市に入る。
安土城趾は近江八幡市にある。
かつては安土町があり、住民や議会から合併して「安土」がなくなることに強い反対があったが、反対の動きが間に合わずに、2010年に合併して近江八幡市になっている。

■ 安土城趾
近江八幡市安土町下豊浦 tel. 0748-46-7201

織田信長が1579年に初めて天守閣をもつ城を建てた。
3年後の1582年には信長は明智光秀に殺され、城も焼失した。
建った当時は3方を湖面に囲まれ、北につきだした(南だけが陸につづく)岬の地形だったという。

司馬遼太郎は中学生のころ、初めて安土城趾に来た。
坂が苦手の司馬少年は、「登れ、のぼると美しいものが見られるぞ」とはげまされて、苦しい思いで歩いた。

最高所の天守台趾にまでのぼりつめると、予想しなかったことに、目の前いっぱいに湖がひろがっていた。(中略)
 この水景のうつくしさが、私の安土城についての基礎的なイメージになった。織田信長という人は、湖の野の境いの山上にいたのである。

1983年、『街道をゆく』の旅で久しぶりに安土に来た司馬は、その景色をおおいに楽しみにし、同行者にも期待させる言葉をかけながら、また苦しい思いで石段を上がった。

 が、のぼりつめて天守台趾に立つと、見わたすかぎり赤っぽい陸地になっていて、湖などどこにもなかった。
 やられた、とおもった。(中略)
海を干拓するならまだしも、人の生命を養う内陸淡水湖を干拓し水面積を減らしてしまうなど、信じがたいふるまいのようにおもわれた。

安土城を北から囲んでいた大中湖(だいなかのこ)は、琵琶湖とは砂州で区切られた内湖だった。
直径4キロのほぼ円形で、面積は15.4km2あり、諏訪湖(12.81km2)より大きい。
1960年代に干拓され、神奈川県逗子市(17.28km2)とか兵庫県芦屋市(18.47km2)とかに近い面積の土地が生まれた。

駐車場に車を置いて、城跡への坂を上がった。
たいして苦になるほど急でもなく長くもない。

安土城趾
坂を来て、最後に天守閣趾へ上りきるところの石段。
左の標柱に「天守閣趾」とある。



  須田剋太『天守閣趾』
須田剋太『天守閣趾』


上の写真と絵にある階段を上がると、下の写真と絵にある場所にでる。
そこが「天守閣趾」なのだが、須田剋太は下の絵に『安土城本丸跡』と文字を書きこんでいる。本丸屋敷があったのは上の写真と絵の階段を上がるより手前にあったやや広い平坦地で、勘違いしたようだ。

安土城趾 須田剋太『安土城本丸跡』
須田剋太『安土城本丸跡』

天守閣趾から見おろすと、いくらかかすんで市街風景が広がっていた。ここのすぐ下まで水面があったとは信じがたいほどに陸地が圧倒している。
右のほうに白く雪をかぶった山が見えるのは伊吹山。


摠見寺を通って下る道の途中から、西の湖が見えた。
ヨシを焼く煙が上がっていた。

* 干拓された大きな大中湖の南に、盲腸みたいにあった西の湖は、今も水面として残っている。
その北西の端に、船で水郷をめぐる乗り場がある。


■ 西の湖

近江八幡の水郷をめぐる観光船は4つあるらしいのだが、ふつうは4月からの営業のようで、1つに電話でたずねたら3月の運行は貸し切りだけで、8千円ほどとのことで、ひとりでは高すぎる。僕が行った3月半ばには島真珠水郷観光船部だけが動いていて、定期便は2千円で乗れる。
午前、午後1便ずつあるが、この日は午前は出ないとのことで、午後2時半の運行に乗った。僕のほかには4人連れの1家族がいただけで、その家族がいなければ僕だけの貸切状態になるところだった。

西の湖 須田剋太『近江八幡水郷(E)』
須田剋太『近江八幡水郷(E)』

枯れたヨシの原のあいだの水路をすすんでいく。
西の湖の北西部は島状のヨシ原と水路が複雑に入りくんでいる。
スマホの地図のおかげで現在地を確かめられるが、そんなのがないと自分がどこにいるかわからなくなる。
やがて複雑なところを抜けて、西の湖の広い水面にでる。
琵琶湖に比べると、干拓された大中湖はとても小さいし、その大中湖にくらべても西の湖はさらに小さいが、それでも2km2ほどある。
小さな観光船に乗っているとたっぷりした水面に囲まれる。

西の湖から、ヨシ焼きの煙、近江富士の遠望
ヨシを焼く煙が上がっている。
船頭さんの話では、水面が下がっている今の時期が、ヨシ焼きの適期なのだという。
右の蒼い突起は近江富士。
あたたかかな日が射して、ゆらゆらと水のうえにいるのは気分がいい。

須田剋太『近江八幡水郷(D)』 須田剋太『近江八幡水郷(D)』

別の水路を通って乗り場に戻っていく。
水中に幾本も棒が立っているところがあり、真珠を養殖しているという。最盛期の1970年代には年間6000kgを超える真珠が海外へ輸出されていたが、琵琶湖の水質悪化などにより急速に衰退したが、今は技術改良などで回復途上とのこと。僕が乗った観光船も、真珠養殖の衰退期に本業の支えとして観光船事業を始めたのだという。

* 船の乗り場から近江八幡市街に向かう途中に、近江八幡といえばここというくらいに有名な菓子店「たねや」の新施設がある。
広い駐車場に車を置いて入る。


● ラ コリーナ近江八幡
滋賀県近江八幡市北之庄町615-1 tel.0748-33-6666
http://taneya.jp/la_collina/

山を背景に、どこか遠い見知らぬ地域の民俗建築のようなのが建っている。
設計者は藤森照信で、現代の建築にたっぷり関わってきた人。
それでいてひとが家を建てる根幹の意識や技術に根ざしたようなものをつくる。
造形に独特のユーモア感覚があるのも親しみを加える。
菓子売り場もカフェも庭もにぎわっていて、レジには行列ができているし、あちこちで写真を撮る人がいて、なんだかみんな楽しそう。たねやの菓子はおいしいが、これだけ人が集まる大きな要素は藤森照信の設計にあるといっていいのだろう。
建築の力を感じる。
ほかの設計組織により確認申請と実施設計まで完了していたのを覆して、あらためて藤森照信に設計を依頼しなおしたという経営者の眼識もすごいものと思う。


屋根を芝がおおい、松を植えてある。
ラ コリーナ近江八幡 藤森照信

● ホテルはちまん
滋賀県近江八幡市桜宮町285 tel.0748-33-1771

駅から近いホテルに泊まった。

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第3日 三上山(近江富士) 瀬田川洗堰 平等院 醍醐寺 滋賀県立図書館・滋賀県立近代美術館 大津駅 

* この旅の最終日=第3日は、天気情報では雨。
朝、ホテルの窓から外を見ると、まだ雨は降っていないし、差し迫っている感じでもない。
今日、どこに行くか、ずっと迷っていた。
近江八幡附近には、ヴォーリズの建築や、図書館や、佐川美術館、琵琶湖博物館など、見どころは多いが、いずれもかつて行ったことがある。
大津の町並みをゆっくり歩いてみたい気もするが、1日かけるほどではないようにも思う。
旅の行程を考えていたとき、地図を眺めていると、琵琶湖の南端から瀬田川が流れ出している。
流路を目でたどっていくと、宇治川となって、宇治を経る。
やがて大山崎あたりで、木津川、桂川と合流し、淀川と名を変え、大阪市街・大阪湾へと向かっている。
下流にはいくらかなじみがあるが(→[春の奈良めぐり]で3川の合流点に行ったりしている)、上流域は僕にはまったく空白で、平等院もずいぶん前の修学旅行以来、行ったことがない。
近江めぐりなのに京都に出てしまうが、瀬田川がどう流れていくのかそそられてしまって、宇治に向かうことにした。

琵琶湖の南端に向かう途中で近江富士(三上山)の近くを通る。


■ 近江富士(三上山(みかみやま))
滋賀県野洲市

野洲市の南方に低い小さな丘陵があるが、その端にぽつんときれいな富士山型の突起があるのが三上山で、標高432mの割には目立って、きのうも何度か遠くから眺めてきた。
西から見あげる位置に行ってみた。
子ども用の遊具を置いた公園があり、日曜日だが朝早いので誰もいなかった。

近江富士 須田剋太『近江富士』
須田剋太『近江富士』

* 琵琶湖の南端は細くすぼまって瀬田川となって流れ出している。
瀬田の唐橋のすぐ手前で左折して、瀬田川に沿って南に走る道を行く。
(瀬田の唐橋の途中に中の島があり、そこにアープしがという宿泊施設がある。
ここには「湖西のみち」をたどったとき泊まったことがある。(→[琵琶湖を基点にめぐる-「湖西のみち」 ほか])
瀬田の唐橋から4キロ下ると瀬田川洗堰がある。
堰を管理する施設のほかに展示館があり、小さな公園になっている。


■ 瀬田川洗堰
滋賀県大津市南郷 tel.077-546-0844

20世紀の初めころ、瀬田川の底を掘り下げ、幅を広げ、流れを妨げているところは爆破して、京都、大阪に流れる瀬田川の水量を増やした。
さらに治水のために旧洗堰が1905年に完成した。

南郷洗堰遺構
堰の開閉は複数の橋脚のあいだに人力で角材をはめるというもので、閉じるのに丸2日、開くのに丸1日かかったという。
今は使われていないが、一部が保存されている。

下流側に1961年に完成した堰があり、こちらは電動で、30分で開閉するという。

* 新しいほうの堰の上は道になっている。
その道で堰を越えて、瀬田川の右岸にうつり、南下する。


起点の琵琶湖とも、京都を流れる宇治川や大阪を流れる淀川とも雰囲気が違って、ちょっとした山中の川のような風景があった。
瀬田川

曽束大橋を越えて左岸の道になると、やがて京都府に入り、宇治川と名を変える。
流れは宇治田原町というあたりが底になって北向きに変わり、まもなく宇治市に入る。


■ 平等院
宇治市宇治蓮華116 tel.0774-21-2861
http://www.byodoin.or.jp/

中学校の修学旅行以来、久しぶりになる。
かつては黒ずんで、いかにも年月を経て深みがあるという印象を受けた覚えがある。
2001年に平等院ミュージアム鳳翔館が開館した。
2012年から2014年にかけて、屋根の葺き替えや柱の塗り直しなどがあった。
前には周囲の状況をまったく意識しなかったが、住宅街が接している。
前は神秘に近づいていたような気がしていたのだが、明るい観光施設にかわってしまったようで拍子抜けした。

平等院

* 琵琶湖南端に戻る途中に醍醐寺があり、寄り道した。

■ 醍醐寺
京都市伏見区醍醐東大路町22 tel.075-571-0002
https://www.daigoji.or.jp/

醍醐寺というと、奥村土牛がここのしだれ桜を描いた『醍醐』を連想する。
秀吉の醍醐寺の花見も有名だが、初めて来た。

醍醐寺
車を置いて中に進むと、白い壁を背景にしだれ桜があった。
3月半ばで、まだ花は開いていない。

本坊である三宝院の庭は秀吉が基本設計したといわれるもので、奥行きが浅いのに立体的で構築的でみごとだった。

* 北に走って滋賀県大津市に戻る。

■ 滋賀県立図書館
滋賀県大津市瀬田南大萱町1740-1 tel.077-548-9691
https://www.shiga-pref-library.jp/

滋賀県立美術館と図書館は大津の市街地から離れたリゾート地のようなところにある。
昼時なので図書館のレストランで食事にした。
美術館におしゃれなレストランがあるのは珍しくないが、ここでは美術館にはなくて図書館にあって、なかなか雰囲気がいいし、料理もいい。

■ 滋賀県立近代美術館
滋賀県大津市瀬田南大萱町1740-1 tel.077-543-2111

1984年に開館して、まだ30年ほどの美術館が、4月から休館して新館ができ、2020年に再開するという。
見おさめに寄った。

* 膳所(ぜぜ)駅の近くの営業所にレンタカーを返した。
あとは京都駅から新幹線で帰る。
大津を歩いてみたかった気分があり、もう長くいられる時間はないが、なんとなしに大津駅で降りてみた。


■ 大津駅

駅の北にいくと琵琶湖畔で、市街があり、湖岸の公園やらホテルやらがあり、そちらには行ったことがある。


南に出る改札口があるので、ふらっとそちらに出て、1つホテルのビルを抜けると、すぐに土手につきあたる。
細い水路と道が並行している。
県庁所在地の駅を出て、いきなり人気(ひとけ)のない景色になって驚いた。
大津駅南側の堀


細い道を歩いていくと、土手をくぐる地下道がある。
国道1号線下の地下道への入口


かわいい絵が描かれた地下道をいく。
国道1号線下の地下道


くぐって抜けると、その先に小学校がある。
階段を上がって土手上にでると、国道1号線東海道が走っている。
右の写真は、国道わきからふりかえって小学校と、今抜けてきた地下道を見おろしたところ。
小学校側地下道入口


地下道は主に逢坂小学校の子どもたちが通る通学路のようで、また地下道に戻っていくと、階段の降り口に「さようなら 気をつけて帰りましょう」なんて書いてある。
気をつけて帰りましょう

あとで地形図を見ると、山地がすぐそばまで迫っていて、そのへりに小学校があり、東海道線と国道1号が抜けているのだった。
小学校のすぐ南には名神高速道が走っていて、大津I.C.まである。大津駅のどちら側からでもわずか2kmほどで、県庁所在地の駅から高速道路の入口までこんなに近いところは、他にはないのではと思う。
JR東海道線で大津駅は京都駅からたった9分。
京都には修学旅行以来、何度も来ている。
大津には7年前に初めて来てから4度目で、これまでも名のある観光地とかではないさりげない場所で「えっ!こんなところが!」ということがあったが、また驚かされた。

* 静かな大津駅に戻って電車に9分乗り、人がいっぱいいる京都駅で乗り換えて新幹線で帰った。

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参考:

  • 『街道をゆく24』「近江散歩」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1984
  • ほかの近江の旅については
    比叡山越え~近江牛への長い道
    琵琶湖を基点にめぐる-「湖西のみち」 ほか
  • 2泊3日の行程 (2017.3/24-26)(→電車 -レンタカー …徒歩)
    第1日 東京駅→米原駅-不破関資料館-寝物語の碑-柏原宿歴史館…合名会社亀屋佐京商店伊吹家-姉川古戦場-国友鉄砲の里資料館…国友源重郎商店-彦根市立図書館-彦根ビューホテル(泊)
    第2日 -彦根城-多賀大社-豊郷町立図書館-安土城趾-西の湖-ラ コリーナ近江八幡-ホテルはちまん(泊)
    第3日 -三上山-瀬田川洗堰-平等院-醍醐寺-滋賀県立図書館・滋賀県立近代美術館-膳所駅→大津駅→京都駅→品川駅