琵琶湖から南へ、北へ-「湖西のみち」 ほか


琵琶湖を基点にして『街道をゆく』の3つの旅に関わるコースを一度に見てまわった。
まず、大津から出発して南西に行き、「7甲賀と伊賀のみち」をたどって大津に戻る。
次に、琵琶湖の西岸を「1湖西のみち」にしたがって北上し、琵琶湖西岸北方にある今津に泊まる。
次に、「4北国街道とその脇街道」のうちの滋賀県部分をたどって北上し、愛発(あらち)の関を越えて福井県に入ったところで折り返し、琵琶湖東岸北方の長浜を経る。
あとはおまけで、米原から琵琶湖を離れて岐阜県に方向転換して、前から行きたいと思っていた養老天命反転地と、新しくできたばかりの岐阜市立図書館に寄った。

第1日 「甲賀と伊賀のみち」:伊賀・甲賀をめぐって、琵琶湖の南端に泊まる [伊賀上野城 御斎峠 紫香楽宮跡 MIHO MUSEUM]  
第2日 「湖西のみち」 :琵琶湖の西岸を北上し、今津に泊まる [慈眼堂 成安造形大学 北小松港 白鬚神社 安曇川 藤樹書院 朽木中学校 興聖寺 今津ヴォーリズ資料館]
第3日 「北国街道とその脇街道」 :敦賀に向かって関を越えてから折り返し、長浜を経て、岐阜県大垣に泊まる [海津集落 愛発の関 明治天皇柳ケ瀬行在所 渡岸寺 竹生島 ヤンマー ミュージアム]  
第4日 岐阜で寄り道 [養老天命反転地 岐阜市立図書館]

第1日 「甲賀と伊賀のみち」:伊賀・甲賀をめぐって、琵琶湖の南端に泊まる [伊賀上野城 御斎峠 紫香楽宮跡 MIHO MUSEUM]

* 出発前の天気情報では、近畿地方は雨。
僕の『街道をゆく』をめぐる旅は、旅行前に雨と予告されているのに、着いてみると予想外に明るく雨が上がってきていたり、車で移動しているあいだだけ雨で、降りて目的地を見る間はやんでいるとか、予告された不運がくつがえって幸運だったということがとても多い。
新幹線で京都に着き、JR東海道線(在来線)で折り返して大津駅で降り、駅レンタカーを借りる。
瀬田西ICから高速道路に入る。
分岐があると、土地勘がない者にはどちらに向かったらいいか不安になるが、カーナビに助けられてなんとか間違えずに進めた。
一時雨が激しい。
甲南ICで降りる。
南に走り、滋賀県から三重県に県境を越えて、伊賀市の中心部に入る。
伊賀上野城の駐車場に車を置く。
(僕の旅のお約束のように)ちょうど雨がやんでいてくれる。


■ 伊賀上野城

須田剋太『伊賀上野城』 伊賀上野城からの展望
須田剋太『伊賀上野城』

須田剋太が、このときの挿絵に『伊賀上野城』を描いている。
城を高い位置から見おろしている。
城を見おろすような建物や地形があるかどうか、確認するために入場料を払って城に入った。
城はもともと高い位置にあり、さらに城内を天守階まで上がって外を見ると、田園や市街が眼下に広がっている。城を見おろす視点をえられる場所はどの方角にもなさそう。
航空写真を参考にして描いたもののようだ。

城内は展示物がわずらわしい。欧州の城は建築も装飾も華麗だが、日本の城の内部は柱と板きりで無愛想なので、歴史資料を並べているところが多い。
地域の関連資料ならまだしも、ここではすき間を埋めないと気がすまないかのように、全国にあるほかの城の写真まで多数並べている。
「甲賀」への観光的期待にこたえるかのように壁にハリボテの忍者がとりついているが、だらんとして落ちそう。
説明の放送が、琴の音を背景に休みなく繰り返されている。
城内だけでなく、外にも向けられいている。
早く音の聞こえないところまで離れたいと急いだ。

*車に戻り、南に走る。
伊賀市街は年を経た小さな住宅が並んでいる。
短い距離を走った印象だが、コンクリートのビルや、観光目当ての商店が虫食い状に混じっているということがない。
城は騒がしかったが、街は落ち着いたいいところだった。
伊賀鉄道伊賀線の踏切を越えると図書館がある。


■ 伊賀市上野図書館
三重県伊賀市上野丸之内40−5 tel. 0595-21-6868

レファレンス担当に行く。
須田剋太が城を描いた絵は、航空写真を参照しているのではないかと見当をつけた。航空写真を撮る機会はそう多いものではないだろうから、市の何かの記念行事に際して撮られたとかして、そのときの印刷物にのっているかもしれない。
あるいは一度撮られた写真が、何度かあちこちの広報物などに使われているかもしれない。
そう考えて尋ねたのだが、別の角度の航空写真はあったが、絵の元になったと判断できるような写真は見つからなかった。

■ 服部川・伊賀線交差地点


伊賀上野ではもう1点、郊外を走る電車の絵が描かれている。

須田剋太『伊賀上野市郊外服部川附近のローカル電車』
須田剋太『伊賀上野市郊外服部川附近のローカル電車』

伊賀線は17km14駅で、全線が三重県伊賀市内におさまっている。
(市内だけを走る鉄道が、となりの滋賀県甲賀市にもあるのがおもしろい。)
伊賀線の北端は伊賀上野駅でJR関西本線に、南端は伊賀神戸駅で近鉄大阪線に接続している。
伊賀市街中心部にある駅は上野市駅。
街の中心部はもとは上野市だったが、2004年に周辺町村と合併して伊賀市になった。
1973年に『街道をゆく』の取材で司馬一行が訪れたときは上野市だった。

絵では細い川と鉄道が描かれている。
地図と見比べて、服部川と線路が交差している新居駅の南あたりかと見当をつけた。
司馬一行は上野市から北へ向かっているから通った可能性は高い。
僕も車で北に向かったのだが、雨が強くなってきた。
川に並行する道の途中で土手を上がってみたのだが、それらしくない。
できれば違う場所、違う角度からも見てみたいところだが、雨にまけてこの絵の地点を探すことは諦める。

■ 伊賀上野駅

昼どきになっているが、店がない。
伊賀上野駅に行けばあるかと行ってみたが、ひっそり喫茶店が1つあるきりで、駐車場はなさそう。
峠を越えて甲賀まで、24キロ50分の見込みなので、甲賀まで行ってしまうことにする。
伊賀上野駅

■ 御斎峠(おとぎとうげ)

須田剋太が峠を越える道で描いた作品は、4点が『街道をゆく』に掲載されている。


そのうちの1点、須田剋太『御斎峠は凡て霧の中』。
司馬遼太郎の文章によれば、このとき御斎峠は雨だったから、こんな湿っぽい風景のなかを移動していったろうか。
須田剋太『御斎峠は凡て霧の中』

司馬一行は炭焼きの人に出会い、そのときかわした話が『街道をゆく』に記されていて、須田剋太も『御斎峠へ向う途上炭をやく二人』を描いている。
峠を越えた先にある多羅尾村の風景も『多羅尾村風景』に描いている。

さて僕が峠に向かう道に入ると、土砂降りの雨。
とても道の途中の風景を探すような気分ではないし、40年も経った今、炭焼きに出会うこともないだろうし、峠を走り抜けることにする。
「雨模様でも降りて見るところでは雨がやむ」という僕のこの旅のお約束は、このときはかなわなかった。

それでも1か所だけ、目にとまったところがあった。
峠を上がりきる手前、道が右に曲がるところでずいぶん広くなっていて、その端に意味ありげな木の繁みがあった。
車を寄せてみると葉に埋もれるようにして石碑らしいものが見える。
司馬遼太郎もここを通って、車を降りて石碑の裏の文字を確認している。
「御斎峠跡」の石碑で、新しい道ができて、古い峠道の雰囲気が失われることを惜しんで建てられたのだろうと、よいことをしたというニュアンスで書いている。

「御斎峠跡」の石碑
僕は、車の屋根にあたってバチバチと音を立てるほどの雨にまけて、車から降りずに中から写真だけ撮った。
そのとき確かめずにあとで見たら、雫に焦点があってしまっていて、石碑はぼんやり。

山口誓子の句碑 もう1つ石碑があり、これも車の中から写真を撮ったのだが、こちらはあとで文字が読める写真が撮れていた。
山口誓子(やまぐちせいし1901-1994)の句碑で、
「切通し多羅尾寒風押し通る 誓子」とある。
1978年に建ったものだから、1973年に司馬一行が来たときには、こちらの碑はまだなかった。

* 峠を越えて滋賀県に戻る。
信楽に近づくと、道に沿って信楽焼の店があらわれるようになり、店の外にまで信楽焼が並んでいる。


■ 甲賀市信楽図書館
滋賀県甲賀市信楽町長野1312-1 tel. 0748-82-0320
http://lib.city.koka.lg.jp/

信楽には、図書館の建築をいくつも手がけて評価が高い鬼頭梓建築設計事務所の設計による図書館がある。(1996年に建っている)
前にも来たことがあり、再度寄ってみた。

入ったときになじみやすい感覚を受ける。
建築全体のプロポーションや、光の具合や、書架の配置や、全体から細部まで、配慮が行き届いているからだろう。
奇抜な形や色はなく、さりげないようで、退屈ではない。
甲賀市信楽図書館

正面奥のつきあたりの壁の上部が、僕はレンガだったような気がした。
改装したろうかと思って、近くにおられた図書館の人にたずねると、新築以来、細部のメンテナンスはしているが、意匠を変えるようなことはしていないとのことで、僕の思い違いだった。
たずねた方は館長の内田さんで、あわせて須田剋太の絵についても、どこか教えてもらえたらと見てもらった。

須田剋太が信楽を描いた絵では、道の両側に信楽焼の店がずらりと並んでいる。
今はその頃より半分ほどに減って、道を埋めるような風景ではなくなっているという。

須田剋太『信楽焼 狸の焼物店』
須田剋太『信楽焼 狸の焼物店』

司馬遼太郎の文章に、信楽ではボーリング場に入ってそのレストランで食事したとある。
その「ボウル信楽」は今はなく、跡地はセブンイレブンになっているという。
かわってからもう20年ほど経つとのこと。
礼をいって、車で数分のセブンイレブンに向かった。

■ セブンイレブン信楽長野店
滋賀県甲賀市信楽町長野1179−1 tel. 0748-82-3808

セブンイレブンにしてはとても広い駐車場があり、なるほどもとボーリング場かと思う。
食事する店があまりみあたらないし、司馬一行をしのんで、セブンイレブンのサンドイッチで昼食にした。
セブンイレブン信楽長野店

■ 信楽焼の店

セブンイレブンに車をおいたまま、近くの信楽焼の店をまわってみた。
店頭には、信楽以外の土地でもけっこう見かけることがあるタヌキがたくさん並んでいる。
僕のひざくらいまでの大きさのが4~5万円くらい。
信楽焼の店

「ここが、あの信楽ですか」
 須田さんが、多少の不快さと戸惑いをみせて、いった。信楽焼の古陶をもって世間のイメージができあがっている、あの古拙な気分というものはいまない。町のなかばは建材用や工業用の陶器をつくり、半ばは田舎の料理屋の玄関に置かれているたぬき、がま、ほていさんといったものを焼き、あるいは火鉢や植木鉢といったものを焼いている。(『街道をゆく 7』「甲賀と伊賀のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976)

店の数が減っているが、古拙な気分はないというふうは、今も変わっていなかった。

* 5kmほど北に走って、信楽高原鉄道紫香楽宮跡駅から近くにある紫香楽宮趾に着く。

■ 紫香楽宮跡(しがらきぐうし)

8世紀半ば、聖武天皇は短期間だが信楽に都を置いた。
紫香楽宮を造営し、大仏も造ろうとした。
ところがこの頃に火災や地震が相次いで起き、都は奈良の平城京に戻った。
そうした事情がなければ、今奈良にある大きな大仏はここに現れていて、観光バスが乗りつけて修学旅行生などでにぎわっていたかもしれない。
まばらに木が生えている草地に、講堂趾、鐘楼趾、塔趾などと刻んだ石柱が立っている。
荒れているのではないが、手を加えすぎてもいなくて、かつて都があったかもしれない寂しさをたたえていて、とても風情がある。
かすかに雨が降っていて、枝から雫が落ちる音が聞こえてくる。
ところどころにコスモスが咲いているのだけが明るい彩り。
去りがたい思いになった。

須田剋太『紫香楽宮跡』 紫香楽宮跡(しがらきぐうし)
須田剋太『紫香楽宮跡』

須田剋太は「僧房跡」の標柱が立つところを描いている。
(この写真ではわかりにくいが)文字柱と礎石の関係が違っているが、こうした案内の柱は動かしたことがあるかもしれない。

* 西に数キロ走ってMIHO MUSEUMに着く。

■ MIHO MUSEUM
滋賀県甲賀市信楽町桃谷300  tel. 0748-82-3411
http://www.miho.or.jp/

パリのルーブル美術館にガラスのピラミッド(1989)を作ったI.M.ペイがミュージアム(1997)を、ニューヨークのワールドトレードセンタービル(1973 - 2001崩壊)を作ったミノル・ヤマサキ が礼拝堂(1988)を建てた、とても建築的で美術的な神慈秀明会という教団の美術館。

MIHO MUSEUM

入口棟(チケット売場やミュージアムショップがある)と展示棟とが離れている。ゆっくり歩いたら10分くらいかかるほどの距離がある。
かすかな雨が降っている。
入口を入ってからもう一度傘を開いて歩くのはちょっと面倒に感じたが、透明なホロがついた電気自動車で送り迎えしてくれるのだった。
美術館で展示をみるとき、いい気分で入れると、展示もおもしろく、どんどんのっていく感じになることがある。
逆に、なんとなし不快になって入ると展示品がつまらなくなりかねない。
ここでは運転する人が事務的でなくて、好感しながら展示館に入った。

ここには2度目。
常設展で今回いちばんひかれたのは「ギリシャ・ローマ」の部屋に展示されていた『キューピッド』。もとは壁画の一部だったようで、茫洋とした空に小さなキューピッドが浮いている。キューピッド自身も輪郭が定かでなく、全体が夢のように淡く、なかにひきこまれそうになる。

* 北に走って琵琶湖岸に戻る。

● アーブしが
滋賀県大津市唐橋町23-3 tel. 077-537-2753

琵琶湖の南端から瀬田川が流れ出ている。
瀬田川は琵琶湖の水が流れ出る唯一の川。
中之島があって、今夜の宿はその島の北端(琵琶湖をのぞむ位置)にある。
瀬田の唐橋の途中から中之島に降りる。
瀬田の唐橋からアーブしが

駐車場から宿の入口に向かって歩いていくと、レストランのガラス窓が並んでいるのが見える。
今夜は2食付で予約してあり、できれば窓際の席だといいが、ひとりでは奥のほうかもしれない。
ところが、お願いした時間になり、レストランに行ってみると、100人ほども入れそうなレストランに、客は僕ひとり。
コックさんもひとりだけで、完全なマンツーマン状態。
僕が早く食べ終えれば早く仕事からあがれるのだろうと、何だか落ちつかない気分だった。
翌朝は、ほかにもう1人ぶんがテーブルに準備されていたが、その客はまだ現れていなくて、やはりひとりきりで食事した。
宿の食事によくある目玉焼き、納豆、味噌汁のほかに、焼き鳥1本とふりかけがあった。どちらも宿の朝食には初めてだったと思う。

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第2日「湖西のみち」 :琵琶湖の西岸を北上し、今津に泊まる [慈眼堂 成安造形大学 北小松港 白鬚神社 安曇川 藤樹書院 朽木中学校 興聖寺 今津ヴォーリズ資料館]

■ 瀬田

朝、雨はやんでいる。
ときおり傘がなくてもすむくらいに霧のような雨が流れる。
手紙を書いたのでポストを探して散歩にでた。
瀬田の唐橋を西に渡って、京阪電気鉄道の踏切を越えると、郵便局があった。
うろうろと裏道をたどると、古くからの家が建ち並び、自転車でも抜けられないほどの路地があったり、いい風情を味わった。
* 今日は『街道をゆく 』「1湖西のみち」をたどって琵琶湖の西岸を行くのだが、最初の1か所目だけ、「16 叡山の諸道」の関連地の慈眼堂に寄る。

■ 慈眼堂(じげんどう)・滋賀院門跡
滋賀県大津市坂本4-6-1 tel. 077-578-0130

「叡山の諸道」にはすでに行ったことがある。→[比叡山越え~近江牛への長い道]
「須田剋太『街道をゆく』挿絵原画全作品集 第一集近畿のみち」に『日吉大社(B)』というタイトルをつけられた絵があり、五輪塔が描かれている。
日吉大社に行ってみると、絵にあるような塔はなかった。
そもそも五輪塔は仏式の供養塔や墓として作られたから、神社にはないはずのもの。
須田剋太は『街道をゆく』の挿絵に、描いた場所を記すことが多いが、記してない絵もかなりある。
この絵には記してなくて、「挿絵原画全作品集」を編纂するときに、その制作者が『街道をゆく』の文章から推定して誤ったように思う。
須田剋太『日吉大社(B)』

須田剋太『日吉大社(B)』

日吉大社のすぐ近くに慈眼堂がある。
比叡山が織田信長に焼き討ちされたあとの復興に尽くした天海(慈眼大師)の廟所。
歴代天台座主の墓のほか、天皇や将軍の供養塔が並んでいるので、そこかもと思って寄ってみた。
慈眼堂には前にも来たのだが、日吉大社より先に通りかかったので、絵の場所はこの先の日吉大社にあると考えてさらっと通り抜けてしまっていた。


あらためて慈眼堂のわきの墓所を歩いた。
五輪塔が並んでいて『日吉大社(B)』の絵らしくはあるが、歩き回ってみても形や位置関係がピッタリするところはなかなか見つからなかった。
慈眼堂

慈眼堂の石畳道で3人の女性が体操をしていて、絵を見てもらってこのあたりで見覚えがないかたずねてみると「慈眼堂では?」という。
隣にある滋賀院に入って受付の男性にたずねても、やはり同じ返事。
このあたりで五輪塔が並んでいるのは、やはり慈眼堂だけのようだ。
わざわざ2度目に来てはみたのだが、すっかり同じに見えるところは探しあてられなかったし、司馬遼太郎の文章でも慈眼堂に寄ったとは書かれていないので、須田剋太の絵がこことは確定できなかった。

このあたりは高低差のある地形に由緒ある寺院が連なり、木々が多く、間を細い川が流れていたりする。
坂本駅から比叡山高校に向かうらしい高校生に次々に行き会う。
こんなところを毎日通学できるなんていい。

* 「湖西のみち」に入る前に、もう1か所、寄り道する。
西岸沿いの西近江路を走って琵琶湖大橋に近づいていく。
橋より手前で、左手の丘に、カラフルな異様なものがチラと見えて、あれだろうと見当をつけて、湖畔の道をそれて丘を上がる。


■ 成安造形大学
滋賀県大津市仰木の里東4-3-1 tel.077-574-2111
http://www.seian.ac.jp/

1993年に開校した美術系の大学。
「キャンパスが美術館」と名づけて、校舎の内外に美術作品を置いて、学外の者にも公開している。
幾棟かある校舎の間を歩いていっても、学生の姿が見えなくて、ひっそりしている。

今井祝雄(のりお)「湖を見るヴォワイアン」 丘の先端にも作品があった。
並んで腰かけて丘から下の風景を見おろしている人たちがいる。
そろってメガネをかけている。
今井祝雄(のりお)の「湖を見るヴォワイアン」(1994-2010)で、湖畔の道から見えたのはこの作品だった。

そのすぐそばにカフェテラス棟がある。
まだ昼前の早い時間だが、若い女性が開店準備をしている。
窓や扉が開いていて、パンの香りがしてくる。
焼きたてだろうか、ふくよかなとてもいい香り。
丘からの風景を眺められる窓際の席で、コーヒーを注文して(きっとコーヒーもいい香りがするだろう)パンを食べる-という情景を想像して、ここの学生は幸福だと思う。

カフェテラスにもまだ学生の姿は見えなくて、9月半ばでもまだ夏休みだろうかと思ったが、清掃の人に行きあってたずねると「もう(学期は)始まっている」とのことだった。

* 南北に長い琵琶湖の西岸を走って、ほぼ半ばあたりにきたところで、ようやく「湖西の道」をたどる最初の絵の地点にいたる。
琵琶湖西岸に並行する広い道からそれて、湖岸に近づいていく細い道を進むと、北小松港がある。


■ 北小松港

数軒の小集落があり、海側は短い突堤に囲われて小さな港になっている。
「漁港区域内への「釣り人」及び一般者の立入を厳禁します。」という内容の表示が、念入りに何カ所も掲げてある。
釣り人については漁業権の侵害になるからわかるが、一般の人まで立入禁止するにはなにか事情があるのだろう。

そんなところにレンタカーで入りこんでしまって落ちつかないが、道のはたにとめて、短い時間に須田剋太の『滋賀郡北小松附近』と景色を見比べてみる。
右の建物は変わっているようだが、あとはそのままに見える。
北小松港

魚を甘く煮るような匂いがするのは、加工する店があるのかもしれない。
碇泊している船の甲板で網をつくろう人がいる。
写真を撮る侵入者を見とがめるでもなく無視してくれているが、長くなったらまずいだろう。
静かな、いい風情の港だが、突堤の先まで散歩してみたい気持ちをおさえて、車に戻って集落を出た。

* 北に走って高島市に入ると、すぐに神社がある。

■ 白鬚(しらひげ)神社
滋賀県高島市鵜川215 tel. 0740-36-1555

白鬚神社というと、僕には浅草にあるのが思いあたるが、ここが全国にある白鬚神社のおおもとという。
もともとは近江の国の地主神とされる比良明神が、ひろく信仰されるようになったという。

境内にはちょっとした段差がある。湖面から遠い側の高いところに祠が並び、一段さがったところに拝殿があり、湖岸を通る道の手前に鳥居が立つ。
さらにその延長線上の琵琶湖の水中にも鳥居が立っている。
白鬚(しらひげ)神社

* 高島市は2005年に高島郡の5町1村(マキノ町、今津町、新旭町、安曇川町、高島町、朽木村)が合併してできた。
「高島屋」デパートの名は、創業者飯田新七の義父が高島郡の出身であったことによるという。
旧・安曇川町の区域に入る。


■ 安曇川(あどがわ)

須田剋太『安曇川』 『安曇川』が描かれた地点を探して、僕は勘違いをした。
絵では、向こうに山があり、中州の先に橋が2つある。
そんふうに見える所をまず地図上で探して、藤樹書院の南を流れる川だと思いこんでしまい、2か所候補地を選び、実際に行ってみもしたが、それらしい場所は見つからなかった。
須田剋太『安曇川』

帰ってから気がついたのだが、安曇川は藤樹書院の北を流れている。
グーグルマップでストリートビューを見ると、安曇川にかかる585号線の橋が、絵の奥のほうにある橋に似ていた。

■ 藤樹書院・良知館
滋賀県高島市安曇川町上小川225 tel.0740-32-4156

藤樹書院は、日本陽明学の祖、中江藤樹(なかえとうじゅ1608-1648)の住居跡・講堂跡で、国の史跡。
隣に案内施設として良知館がある。

書院では儒教の様式による命日の集いの準備中だった。
変わった書体で「致良知(ちりょうち)」と刻まれた額がかかっている。
中江藤樹はこれを「良知に到る」と読んで、その思想の中心のテーマだった。

須田剋太『安曇川青柳藤樹書院』 須田剋太の『安曇川青柳藤樹書院』では、長い画面の右端に葉を落とした木が描かれている。
良知館内に、この木についての説明があった。
木は「よのみの木」といい、ニレ科の落葉樹。
『街道をゆく』の取材は1970年の「粉雪の舞う季節」だったから、葉がない。
藤樹書院という名前の由来にもなった藤の蔓(つる)をまきつけさせてそびえていて、地元の人たちに親しまれていた。
枯れて倒れるおそれがでてきて、1999年に伐られ、館内にその幹の一部が保存・展示してあった。

藤樹書院の前の道 現在(2015年9月)の様子。
道の右側・中ほどが藤樹書院の位置。
大きな「よのみの木」がなくなって空が広い。

良知館では須田剋太の絵に関わっていろいろお尋ねした.。
「よのみの木」がまだ健在で大きく葉を茂らせている写真を見せていただいたり、親身にいろいろ教えていただいた。
さすがに藤樹の地という気がするほどに、おおらかであたたかい印象で、ありがたいことだった。

* 旧安曇川町の中心部に向かう。
161号線に面した道の駅で昼を食べる。


● 道の駅 藤樹の里あどがわ
滋賀県高島市安曇川青柳1162-1 tel.0740-32-8460

「とんから玉丼定食」を食べた。玉丼のほかに、とんちゃん唐揚げ、ミニうどんがついて880円。
窓際の席からは白い雲と青い空が見えて、なかなかよかった。

* すぐとなりにある図書館に入る。

■ 安曇川図書館
滋賀県高島市安曇川町青柳1173 tel.0740-32-4711

この旅では準備にオチがあった。
「甲賀と伊賀のみち」「湖西のみち」 「北国街道とその脇街道」と、3コースを一度にまわろうとしている。
「須田剋太『街道をゆく』挿絵原画全作品集」から該当コースの絵を写真にとって印刷して持って歩いているのだが、なぜか最後の北国街道の絵をもらしてしまっていることに旅の途中で気がついた。
図書館で本かインターネットからコピーをとれればと思ったのだが、挿絵がでている本はないし、インターネットから画像を印刷することには制約があってかなわなかった。
(夜、ホテルから家に電話して、妻に作品集から写真を撮ってスマホに送信してもらった。)

* 湖岸を離れて西へ、旧朽木村に向かった。

■ 朽木(くつき)中学校
滋賀県高島市朽木市場1055 tel.0740-38-2314

『街道をゆく』の文章に、野尻という字があり、かつて朽木氏の館があったところが今は朽木中学校になっているとある。
行ってみると、中学校は細い道を隔てて東小学校と隣りあっていて、空中廊下で接続している。
朽木(くつき)中学校

* 367号線を南に行くと興聖寺がある。

■ 興聖寺(こうしょうじ)
滋賀県高島市朽木岩瀬374 tel. 0740-38-2103
http://www.koushoji.jp/index.html

1970年に司馬遼太郎一行がここを訪れたときは夕暮れだった。

坂をのぼりつめると、暮れの鐘が鳴った。十と一つ鳴った。本堂で読経の声がきこえている。(中略)
 庭は健在であった。時間による風化のまま素直に荒れていて、観光という人工が加わっておらず、そのことに須田画伯が感動の声をあげてくれた。私は画伯を道案内してここまできた甲斐があったとおもった。
 庫裡から老婦人が出てきて、
「お寺に人がすくのうて」
 と、きれいな京言葉でしきりにわびてくださったのは、案内も乞わずに入ってきたわれわれの非礼に対し、温かすぎる応対で、当方にすればひたすら恐縮するほかなかった。
 御住持は森泰翁とおっしゃるそうで、それがいま本堂からきこえてくる読経のぬしである。(『街道をゆく 1』「湖西のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1971)

静かな寺の夕暮れどき、離れたところからの読経を耳にしながらかわされたこの老婦人とのおだやかな会話が記されて、『街道をゆく』の「湖西のみち」は終わる。ここで文章をしめくくろうと考えるほどに、司馬遼太郎にとってこの寺は印象深かったのだろう。

興聖寺は、曹洞宗の開祖、道元禅師がこのあたりを訪れたとき、風光明媚な様子が宇治の輿聖寺に似ていると感激して、領主の朽木氏にこの地に寺を創建することを勧めたのが始まりといわれる。
道元は、須田剋太が生き方としても、抽象画の造形理念としても、師と思い定めていた人だから、ここは須田剋太にとっても機縁を感じるところだったろう。

司馬一行が訪れたとき「案内も乞わずに入ってきた」とあるから、当時、寺は一般に公開はしていなかったようだ。
45年後に訪れると、拝観料をおさめて重要文化財でもある本尊の木造釈迦如来坐像を拝めるようになっていた。
それでも本殿も庭も、観光用に手を加えているわけではなくて、信仰の場であるところに、ひととき歴史や美術に関心がある人も入って見せていただいているという感じで、素直に本尊に向き合える。

司馬遼太郎の文章にお名前がでてくる森泰翁師のご子息で、第32代森泰孝師からお話しをうかがった。
司馬遼太郎が訪れたとき、「母がお相手をしたが、父は歴史好きだったので、会えなかったのをとても残念がっていた」という。
ほかの寺では、宗派にかかわらず手ごろな人をさがして寺を継がせることがあり、法系が変わってしまうことがある。この寺ではしっかり法系を継いできたし、そういう継ぎ方をして、しかも長い歴史があることに誇りを持っておられる。
寺として道元の思想を継いできたのだが、森泰孝師は、僧が偉くなると金力や権力に近づくのをきらった道元の生き方にも共感されていてる。
画壇の地位とか栄誉とかに無縁でいた須田剋太に通じる。
寺の歴史のこと、道元のことなどうかがい、あと須田剋太が描いた「市場」の絵の場所を教えていただいて辞した。

須田剋太『雪の興聖寺』 興聖寺

須田剋太『雪の興聖寺』

「須田剋太『街道をゆく』挿絵原画全作品集」には、興聖寺を描いた挿絵が2点掲載されている。
1点は雪の降る中、司馬遼太郎が興聖寺を背景に立っていて、週間朝日と単行本にはこの絵が掲載された。
もう1枚ほとんど同じ構図で、司馬遼太郎がいない絵がある。(上左の写真)
(須田剋太は『街道をゆく』の挿絵原画を大阪府に寄贈したが、挿絵としてつかわれなかった作品もいくつか含まれていて、上記の「全作品集」にはそれらも掲載されている。逆に挿絵としてつかわれたのに寄贈されなかったものもあり、それらは「作品集」に掲載されていない。)

庭に出る。
もとは反乱で追われた室町幕府の第12代将軍足利義晴が朽木氏を頼って数年間滞在した居館に設けられた庭園。
かつては川に近い(低い)ところにあったが、江戸時代に朽木氏の菩提寺である輿聖寺に移された。
比良山系を借景にして考えて作られているが、過剰な作りこみがない。
今、庭を守る寺も、歴史的な由緒がある庭だからとなにかしら演出的なことはしないでひっそりとあり、雑念にまどわされることなく静かにゆっくりひたった。
いい場所でいい話をきけて、こういうときに特に『街道をゆく』をめぐる旅をしてよかったと思う。

須田剋太『曹洞宗興聖寺「足利将軍義晴公庭園」』 興聖寺の庭園
須田剋太『曹洞宗興聖寺「足利将軍義晴公庭園」』

(松山市にある坂の上の雲ミュージアムでは、毎年『街道をゆく』挿絵原画展を開催している。この旅の翌年(2016年)秋の原画展では、僕が撮った写真が挿絵の地の現在の風景として対比して展示され、あわせて当時の松原正毅館長との対談があった。何人か僕の挿絵めぐりに関わる方々にお知らせしたところ、森泰孝師ご夫妻が松山まで見に来られたということもあった。→[坂の上の雲ミュージアム『街道をゆく』挿絵原画展2016])

■ 市場

『街道をゆく』の文章に「市場(いちば)」という地名のあたりのことが書かれている。

道路わきを、堅固に石がこいされた溝川が流れており、家並みがつづくかぎり軒が低く、その軒下の闇に古色がこもっていた。
「これはいい」
 と、須田画伯は車を降り、粉雪のなかでスケッチをしはじめた。(同上)

興聖寺で「ショッピング・チッズ」という案内図をいただき、道も教えてもらって行ってみると、司馬の文章のとおりの町並みがあった。
須田剋太は、とくにその「溝川」にひかれたようで、ずいぶん強調して描いている。

須田剋太『朽木街道市場』 朽木(くつき)の市場


須田剋太『朽木街道市場』

*湖岸に戻る。
『朽木渓谷野尻』と記された、山中を川と道路が並行している風景を描いた挿絵がある。途中、野尻という地名のところを通り、川の曲がりぐあいから見当をつけてゴルフ場に向かう道にそれて安曇川の橋を渡ってみたが、絵の場所はわからなかった。道の途中の風景を描いた絵では、場所を特定するのが難しい。


* 今夜は旧・今津町に泊まる。
「湖西のみち」は、旧・朽木村の興聖寺で文章が終わっていて、この町はふれられていない。
ヴォーリズの建築があり、行程上も都合がいいので、ここを宿泊地に選んだ。


■ 今津ヴォーリズ資料館
滋賀県高島市今津町今津175番地 tel. 0740-22-0981

ヴォーリズが設計した銀行、教会、郵便局が並んで「ヴォーリズ通り」と名づけられている。
そのうち銀行が今津ヴォーリズ資料館として公開されている。
1923年に建って、銀行が別の場所に移転したあと、1979年から2001年までは今津町立図書館だった。
2003年に、増築部分を取り壊すなどして建設当初の姿に復元後、今津ヴォーリズ資料館として開館。
ヴォーリズにかかわる資料展示があり、中央がカフェになっている。
ここでヴォーリズの建築を内側で味わいながらコーヒー・ブレイク。


散歩に出て、教会(日本基督教団今津教会会堂)と郵便局を見る。
いい通りでのんびりする。

(右の写真は郵便局)
今津郵便局 ヴォーリズ 

● ホテル可以登
滋賀県高島市今津町名小路1-6 tel. 0740-22-5111

ホテル可以登 JR近江今津駅の西側すぐ前にある新しいホテル。

603号室に入る。
部屋は広い。
窓からは高架の駅が目の前にあり、駅舎の屋根の向こうに琵琶湖の湖面が見える。
1階に大浴場があり、宿泊客でなくても300円ではいれる。
フロントは、ひとりきり立つだけの広さ。大浴場の入口がすぐそばにあり、風呂屋の番台も兼ねている。
近所の人がけっこう利用していて、中高年のほか、子連れのおかあさんも見かけた。
合理的でよくできていて、しかも安い。
コスト・パフォーマンスのとても高いホテルで、こういうホテルにあたるとうれしい。

● Giallo Felice ジャッロ・フェリーチェ
滋賀県高島市今津町桜町2-7-12 tel. 0740-22-4000

外に食事に出る。
このホテルを先頭にしてローラン名小路というアーケード街がある。
とても短くて、ひっそりしている。
アーケード街を抜けてしまうと、静かな住宅街で、暗く、人けがない。
道の先にレストランっぽい灯りが見えたので行ってみると洋食の店だった。

Giallo Felice ジャッロ・フェリーチェ 手ごろな大きさで、ちょうどいい感じで、入る。
とんかつ定食と生ビール。
落ち着いた店内で、なごんで1日のしめくくりの食事ができた。
眠ってしまっているような一帯に、この店がなかったら途方にくれるところだった。僕のために魔法で現れてくれたように思えた。

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第3日 「北国街道とその脇街道」 :敦賀に向かって関を越えてから折り返し、長浜を経て、岐阜県大垣に泊まる [海津集落 愛発の関 明治天皇柳ケ瀬行在所 渡岸寺 竹生島 ヤンマー ミュージアム]

* 朝、起きて外を見ると道がたっぷり濡れている。
夜のうちに雨が降ったようだった。 
これで今度の旅の雨は終わりで、あとは気持ちのいい晴天だった。

須田剋太が『琵琶湖畔海津港』を描いた海津港をめざして北に走る。
琵琶湖の北端からは、2つの岬が湖にせりだしている。
西のほうの岬の先端近くに港があるようなので行ってみた。


■ 海津大崎港
滋賀県高島市マキノ町海津

「海津大崎港」という大きな看板がある。
桟橋への入口の扉には鍵がかかり、上部に鉄条網までして、立ち入りできないようにしてある。
1日3便を記した時刻表に貼り紙がしてあり、
「海津大崎港桜クルーズ2015 今年度の運航は終了しました」
とある。
海津大崎港

このあたりは桜の名所で、湖面から桜を眺める船がその季節だけ動くらしい。
桟橋だけがあって集落はないから、須田剋太が描いたのはここではないようだ。

■ 海津の集落

地図を見直して、岬の西側のつけ根あたりに戻る。
両側に古びた家が並び、いい風情が漂っている。

「変ですなあ、湖がないですなあ」
 と、詩人のTさんが道を歩きながらつぶやいたほどに、道路の両端はびっしり家がならんでいる。その家並の裏手がすぐ湖水なのだが、道を歩いているかぎりは見えない。ただわずかに、家と家のあいだにすき間のあるところがあって、のぞくと、ちかぢかと水がみちていた。(『街道をゆく4』「北国街道とその脇街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画  朝日新聞社 1974。以下の引用文について同じ。)

僕が走ってきたより、さらに湖岸寄りにもう1本、細い道がある。
文章のとおりに、家並の裏にいくとすぐ湖岸なので、絵と文章の場所はここのようだ。

海辺にでると、僕が湖岸にでたところからはやや離れたところで、細い板を張り出してあって、その先端でかがんで、なにか洗っているらしい女性がいた。
須田剋太の絵そのままで驚く。
司馬遼太郎の文章にも
波打際に中年の婦人がしゃがんでいて、野菜を洗っていた。近づくと、洗っているのはごぼうだった。
とある。
『街道をゆく』をもうずいぶんめぐっているが、文章と絵と眼前の風景が、これほどに人の動きまでぴったり合っているというのは初めてのことだった。
歩いて近づいていくうちに、その人は家に入ってしまったので、ごぼうを洗っていたかどうかはわからないが、夢のようだった。

須田剋太『琵琶湖畔海津港』 琵琶湖畔海津
須田剋太『琵琶湖畔海津港』

湖面は静か。
湖に面している家は、石垣を組んだうえに建っている。
浜にそってずらりと並ぶ石垣の面が美しい。

* 海津の集落から161号線は湖畔を離れて北へ、敦賀に向かう。
「北国街道とその脇街道」にしたがって、僕もその北へ行く道に入る。
山道を上がるのだが、しっかりした道で、かなりの通行量がある。
関東に住む者には、琵琶湖の西岸を通って敦賀に向かう道というのは、主要な道路という感じがしない。
でも歴史的には敦賀に船で入った国内各地の物資や海外からの旅行者が京都へ向かう重要な街道だった。
今も大阪・京都と日本海側を結んで人や物が動いている幹線になっているようだ。


■ 愛発(あらち)の関

山中峠で滋賀県から福井県に入る。

 愛発の故関(こせき)のあたりは冬枯の色のなかに残雪がすさまじい白さで残っていて、車のそとに出ると急に深山の寒さを感じた。(中略)
 路傍を見わたしたが、関の趾を表示したような碑などはなさそうである。別な碑がある。
「親鸞聖人 有乳山旧跡」
とある。

峠の最高部を越えて、北にややくだってからその石碑があった。

須田剋太『愛発の関親鸞上人旧跡』
須田剋太『愛発の関親鸞上人旧跡』
愛発の関親鸞上人石碑

道の右先方が敦賀方向。
左に見えるガードレールの向こうに石碑が立っている。

* これから琵琶湖の東岸を目指すが、来た道を戻るのではなく、逆Uの字形(∩)に走ることにする。
ここまで走ってきた161号線を、いったんさらに北へ走り、疋田というところで東へ折れる。
やがて365号線にぶつかって、右に折れ、南に向かう。

疋田から東へ向かう道は、途中から北陸道に並行して走る。
もう一度滋賀県に入る県境には、柳ケ隧道がある。もとは北陸本線の鉄道が走っていたのを車道トンネルにしていて、鉄道は単線だったし、車道としては1車線。
すれ違えないからトンネル手前に信号があり、交互に入ることになる。
1,352mあり、6分30秒待たされる。
たまたま先頭で待つことになったので、うしろに長く車の列ができた。
ようやく青信号になってトンネルに入ると、狭く、暗く、照明が少なく、圧迫感がある。
初めて通るのに、何台もつづく車に、うしろからも迫られている気がする。
トンネルからようやく出ると、緊張して体が硬くなっていたのに気がついた。

トンネルを抜けると365号線にぶつかって、南へ、琵琶湖方面に向かう。
これが北国街道で、山に挟まれた細い平坦地を抜けている。
道は坂道ではないし、ほぼまっすぐだから、奥深い山地の間にいる感じではない。
平坦地の幅がわずかに広くなったところに柳ケ瀬の集落がある。


■ 明治天皇柳ケ瀬行在所
滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬 140

ここで須田剋太が描いた2枚が『街道をゆく』に掲載されている。
『街道をゆく』に描かれた地をたどっているうち、目の前に見ていても、「こんなところが現代にほんとうに実在しているのだろうか」ととまどいながらひきこまれる桃源郷のようなところに行き当たることが、これまでもいくつかったが、ここもそんなところだった。
山にはさまれた道に沿って、家が並んでいる。
限られた平坦地に、川と、旧北国街道と、(旧北陸本線から車道にかわった)365号線と、北陸自動車道が並行しているのに、集落は不思議に静けさにひたされている。
集落の前後には、店もガソリンスタンドもなく、この集落だけが孤立している印象がある。
両側の山は高く迫っているわけではないから、空が広く、眺めがのびのびしている。

須田剋太『北陸街道柳ケ瀬附近』

須田剋太『北陸街道柳ケ瀬附近』
柳ケ瀬

家々は格別に歴史的由緒がありそうなほどに古くはないが、新建材をつかってハウスメーカーが建てたようなのはなく、適度に年月を経ていて、懐かしいような風情がある。
集落の裏近くを川が流れていて、家のすぐ前の道にも水路をひいてある。

須田剋太『明治天皇柳ケ瀬行在所』 明治天皇柳ケ瀬行在所
須田剋太『明治天皇柳ケ瀬行在所』

『街道をゆく』では、羽柴秀吉と柴田勝家の軍がここで戦った賤ヶ岳合戦(柳ヶ瀬合戦ともいわれる)について長い文章がある。
ところがそれにつづいて
柳ケ瀬には、車をとめずに通過した。
とある。
僕は柳ヶ瀬の道と集落の風景にとてもひかれたので、このあっさりした結びがなんだか惜しい気がする。
須田剋太は、あとで写真か資料をもとに描いたのかもしれない。

* 柳ケ瀬の集落を出て、さらに南に向かう。

■ 余呉湖

地図で見ると大きな琵琶湖のしずくが一滴はねてできたかのような小さな余呉湖が、琵琶湖のすぐ北にある。
琵琶湖との間には標高422mの賤ヶ岳がある。
『街道をゆく』の取材は1973年の2月だった。
須田剋太が描いた余呉湖の絵は、木が葉を落としていて、いかにも寒そう。
余呉湖は周囲6キロほどで、地図で見ると湖畔を一週する道がある。
寒い時期に余呉湖でそう時間をかけることはなかったろうと見当をつけて、365号線からそれて簡単に着けそうな北岸に行ってみた。

北岸には公園があり、駐車場がある。
桟橋が突き出ていて、遊漁券を買って入って釣りができるようになっている。
余呉湖ビジターセンターの入口には、「外来魚(ブラックバス、ブルーギル)の買い上げを行っています」と貼り紙がある。
センターの男性がちょうど外に出て来られたので、須田剋太の絵を見てもらった。
灯籠に目をとめ
「灯籠は右手の道を行った先に先にある。琵琶湖総合開発で護岸工事をして、様子はかわっているだろう。」とのこと。
『街道をゆく』の文章では、湖畔の「軽食堂」に入っているのだが、それらしいレストランはすぐそこに、ずいぶん前からあるという。

須田剋太『余呉湖』 余呉湖
須田剋太『余呉湖』

まず西岸の道を歩いていくと、たしかに灯籠があった。
木を植え、石を組んで、小さな庭のようなつくりにしてあり、余呉八景の1つであることを示す標識があった。
9月の余呉湖は光があたたかく、木々も葉をつけている。

夕べ妻に連絡して余呉湖を描いた画像を送ってもらっていた。
絵のことはおよそ記憶にあるから、なくてもいいかとも思ったのだが、灯籠を意識していなかった。
画像が送られていないと大事なところを見落とすところだった。
湖の北端に戻って、ビジターセンターの隣というような位置にあるレストランに入った。

● レストラン余呉湖
滋賀県長浜市余呉町川並261-1 tel. 0749-86-2425

窓際の席に座ってコーヒーを飲む。
日射しを浴びてコスモスが軽い風に揺れている。
その先に湖面がある。
うらうらと気分がいい。

レストラン余呉湖からの湖畔風景

店の桐畑和子さんに話しをうかがった。
司馬遼太郎一行が訪れたときお会いになっている。
司馬一行もその窓際の席に座ったという。
「5,6人で来られた。話しているうちに、画家だけ表に出て描いていたようだ」というから、須田剋太だけ出て湖岸を歩いて、灯籠のあたりで描いたようだ。


司馬遼太郎の文章では、
たとえば信州のどこかにあるような軽食堂ができていた。(中略)店内の調度やデザインなどもあかるくて、いかにも歌謡曲に出てくる湖畔の感じに適(あ)っていた。
とあるが、今も外観も中も変わっていなかった。
レストラン余呉湖

* 365号線に戻って南下する。
木之本を通る。

須田剋太『木之本びわ湖えりあみ漁』
須田剋太が『木之本びわ湖えりあみ漁』を描いている。
「えり」は、漢字では「魚」偏に「入」とかく。
網や木材で作った囲いに魚を追いこんでとる漁法という。

『街道をゆく』の文章では、余呉湖の湖畔のレストランから「車にもどって、木ノ本をめざした」とある。そのあとは賤ヶ岳合戦のおりに秀吉の本営が木ノ本におかれたということから、また合戦のことが記され、木ノ本の実景についてはまるでふれられないまま「北国街道とその脇街道」は終わる。
とくに文章にはないけれど、実際に琵琶湖畔に行って漁の様子を見たかもしれないし、資料を見て描いたかもしれない。

* 旧余呉町、旧木之本町と南に走って、旧高月町に入る。
いづれも2010年に長浜市に編入されている。
高月町で須田剋太が『高月町渡岸寺十一面観音』を描いている。
この観音像がある渡岸寺のとなりに資料館があり、その駐車場に車を置く。


■ 高月町観音の里歴史民俗資料館
滋賀県長浜市高月町渡岸寺229 tel.0749-85-2273

朝鮮通信使ユネスコ記憶遺産登録推進事業「雨森芳洲と朝鮮通信使~未来を照らす交流の遺産~」という企画展を開催していた。
高月町の出身と伝えられる雨森芳洲は、対馬藩に仕え、2度にわたり朝鮮通信使に随行するなど、朝鮮との交流に尽くした。
その関連資料がこの資料館に保管され、重要文化財に指定されていて、さらにユネスコ記憶遺産への登録をめざしている。(その後2017年に世界遺産に登録が決定した。)

(資料館の入館料は240円。ところが長浜から竹生島に往復する船の割引券があり、300円だったか500円だったか安くなり、もとをとることになった。)

■ 渡岸寺
滋賀県長浜市高月町渡岸寺50

資料館のとなりにある渡岸寺観音堂(向源寺)にいく。
国宝の国宝十一面観音は保存・展示用の専門施設に収めてある。

須田剋太『高月町渡岸寺十一面観音』 渡岸寺

須田剋太『高月町渡岸寺十一面観音』

前述のように「北国街道とその脇街道」は木ノ本で文章が結ばれている。司馬一行はさらに南下して帰ったはずだから、途中で渡岸寺に寄って須田剋太が観音を描いたのだったかもしれない。

* 僕の今回の旅では、渡岸寺の十一面観音が『街道をゆく』の挿絵をめぐる最後で、あとはおまけ旅。
まず竹生島に向かう。
長浜港から船で往復するのだが、これから行くと、11:30か12:45の船になりそう。11:30に間に合うといいが、間に合わなければ港のレストランで昼食にすればただ待つのではなくすみそう。

11:30のほんの少し前に港の駐車場に着くと、駐車場整理の係の人が「船に乗る?だったら急いで」と声をかけてくれる。
小さな建物で乗船券を売っていて、高月町の資料館でもらった割引券をだして割引価格で買い、船に乗った。
僕を待つようにしてすぐ船が出る。
港の建物ににも周囲にもレストランなどなさそうなところで、間に合ってよかった。途中で赤信号1つ余計にひっかかっていても間に合わなかったようなきわどさだった。


■ 竹生島

何かで読んだのだったか、竹生島は特異な宗教的雰囲気をたたえた島という思いがあり、かなり前から行きたかったのに叶わずにいた。
着いてみれば港には観光船がいくつもとまっていて(長浜港以外の港とも発着がある)、観光客がぞろぞろ階段を上がり降りしている。
参道を歩いてみてもなんだかザワザワしていて、霊的な雰囲気が濃厚なところというふうではなかった。

竹生島 高いところからの景色はよかった。
港の近くに売店が並んでいる。とくにこだわるのでもないが昼を食べる気になるような店はない。
長浜に戻るには、定期便だと13:20だが、その前に12:50発の臨時便があったので乗った。

* 港の駐車場からまたレンタカーに乗って、長浜市街に向かう。
食事について格別選り好みをするわけではなくて、駐車場があってさっと入れる店があるといいのだが、なかなかない。
駅近くの中心部に車を置いて歩いて探そうとしてみても、駐車場が「満」の表示ばかりでなかなか置けない。
探して走っているうち、駅の近くで目立って古そうな店が目にはいった。
ようやく市営駐車場に空きがあって車を置き、さっき見た食堂へ歩いた。



● 中島屋

滋賀県長浜市北船町3-3
tel. 0749-62-0205

店を入ると、古い木のテーブルと椅子があり、壁には古い広告ポスターがかかっている。
中島屋

僕が座った席には「このテーブル3本脚なので座ったり手を強くついたりしない」ようにと注意書きがある。
細身で動きが軽そうなおばあちゃんが注文をとりにくる。
先客はビールを飲んでる2人連れの男。
昼すぎ2時頃だし、飲み屋さんでもないし、汗だくになるほど暑い日でもないのだが、あとから来た人もまずビールを注文していた。
ただ昼を食べるというより、のんびり構えられる店のようだ。
僕はきつねうどんセットをとった。
きつねうどんのほかに、名物さばずし1、ビワマスにぎり1、お新香巻3がついている。
レトロなふんいきにひたりながら、素朴な味をあじわう。
駅からすぐ近くにこんな時代ばなれしたような店があるのが奇跡のよう。
ここまで昼を食べそこねてきてよかった。

* 長浜の有名観光地になっている黒塀通りを歩く。9月半ばの土曜の午後で、観光客がおおぜいいる。
また駐車場から車に乗って市街を南に抜ける。


■ ヤンマー ミュージアム
滋賀県長浜市三和町6-50 tel. 0749-62-8887
https://www.yanmar.com/jp/museum/

農機具のミュージアム。
こんなにワクワクしたミュージアムは久しぶりな気がする。
トラクターに乗れる。
ミニショベルでボールすくい。
土を削って、すくって、別の場所に積み上げるシミュレーター。
♪ぼくの名前はヤン坊~ という懐かしいCM。
ヤンマー ミュージアム

そうしたことのおおもとに、創業者山岡孫吉が苦心のすえディーゼルエンジンの小型実用化を実現したということがある。その後のヤンマーのというか、農作業機械化の原点といっていのか、そのエンジンも展示してあって、ちょっと感動的でもあった。

* 少し南に走って米原駅で駅レンタカーの車を返す。
おととい大津駅で借りて、南へ北へ走ってきたのだった。
米原から17:06発の東海道線に乗って、30分ほどで岐阜県の大垣駅に着く。


● ホテルグッディ大垣
岐阜県大垣市清水町76-1 tel. 0584-74-4141

3日目の夜は大垣に泊まる。
駅から10分ほどにあるホテル。
2階にフロントがあり、1階にはパン屋と呉服店とコインランドリー。
8階建てだったかの7階の部屋に入ると、窓から西方向が見えて、城や駅方面の景色が広がる。
朝食つきで、朝、レストランへは、ベランダづたいに一度外に出てからいく、かわったつくり。
夜はほとんど他の宿泊者を見かけなかったが、朝食時はたくさんの人がいた。
作業服の人、女性、高年旅行夫婦など。
部屋は狭かったが、朝食サービスつきで5,400円だから見合っている。

● 朝日屋
岐阜県大垣市東長町40 tel. 0584-78-4054

夜、ホテルにあった近所のレストラン案内地図をもって、外に食事に出る。
夕べの今津のGiallo Felice (ジャッロ・フェリーチェ)のように、静かな住宅街にまた魔法のように店が現れるというのを期待して、それらしい店もあったのだが、おしゃれが過ぎるふうだし、かなり混んでもいて、そのすぐ先の食堂ふうの店に入った。
司馬好みのかつ丼を注文する。

朝日屋のかつ丼 泡立てた卵を、カツにかけてある。
先にほかの客に同じものがとどくのを見て、玉丼かと思っていた。
僕の前に同じ見かけのものが置かれたので、一瞬まちがいかと思ったが、泡からはみだすようにカツがのぞいている。
これがかつ丼かと驚いた。


僕にはかつ丼といったら、トンカツを玉ねぎなどといっしょに玉子でとじたもの。
玉子がないソースかつ丼というのもあちこちにあって食べたことがある。
でもこういう見かけのかつ丼は初めてで、ふわふわとした独特の食感が新鮮だった。
店内はそこそこの広さがあるが、テーブルがあくとすぐ次の客が入ってきて埋まるふうで、繁盛している。
中高年夫婦や男のひとり客というのは似つかわしいとして、小学生くらいの子を連れた家族が次々と現れるのが奇妙な気がした。
ファミレスや回転寿司は小さな子どもづれを見かけるし、居酒屋でも子連れがいても驚かないが、近所の食堂で子どもと一緒に食事するというのは、何だかなじみがない。
土曜の夜だから今夜はちょっと外で食べようか、という感じだろうか。
泡のかつ丼とか、子連れの家族とか、不思議なものを見た気がした。
食べ終えて、またひっそりした住宅街の道をホテルに戻った。

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第4日 岐阜で寄り道 [養老天命反転地 岐阜市立図書館]

* 大垣もいろいろ見どころはありそうなのだけれど、今日は養老天命反転地と岐阜市立図書館を最優先にすることとして、まず大垣駅から養老電鉄に乗った。
養老電鉄は、自動改札はなくて、2両編成のワンマン運転で、駅員がいない駅もある。
養老駅には駅員がいた。
駅から出てまっすぐ坂道を上がる。
広い養老公園には、「こどもの国」という遊園地もあって、駐車場に親子連れが乗った車が次々に入っていく。


■ 養老天命反転地
岐阜県養老郡養老町養老1155-21

荒川修作+マドリン・ギンズにより公園全体が大きな作品になっている。

はじめにカラフルな養老天命反転地記念館に入る。
ただの資料展示ではなく、まずこの建物じたいがまるでふつうではない。
歩いていくと床がうねっているうえ、その床と天井が上下に鏡像関係にある。鏡像というと平面になってしまうが、どちらも立体というのがすさまじい。
養老天命反転地記念館

次に『極限で似るものの家』。
キュビスムの絵画を3次元の立体に展開したかのよう。
家なのに閉じていなくて、壁や床や天井が傾き、脈絡不明に構成されている。
その間に、机やトイレや台所のものがひっくりかえったり傾いたりして配置されている。
『楕円形のフィールド』に向かう道は『死なないための道』と名づけられた溝状の道。
僕の場合、先に死があるからようやく生きていられると思っているのに、ここを歩いてしまっていいのか-と、矛盾した感じになりながら溝に降りて歩いた。


『楕円形のフィールド』はすりばち状の庭を囲んで細い道が高みに向かう。
高度感に昂揚する。
養老天命反転地 楕円形のフィールド

日常の感覚を攪乱することで死すべき運命を変えるというのが、荒川修作+マドリン・ギンズのコンセプト。
ここは1995年に完成した。いつか行こうと思っているうち、20年も経ってしまい、その間に2010年には荒川修作、2014年にマドリン・ギンズが亡くなった。

* 養老駅に戻るころには、日が高くなり、暑くなっていて、坂道をおりるのに汗をかいた。
養老駅は静かで美的でとてもいい。
待合室に役者さん達が次々に現れて、演劇が始まっても似合いそう。

養老鉄道に24分乗って、大垣駅に戻る。
東海道線に乗りかえ、12分で西岐阜駅で降りる。
美術館までたいした距離ではないが、暑さにこりて、5分ほど待って「くるりんバス」に乗り、美術館へ。


■ 岐阜県美術館
岐阜市宇佐4-1-22 tel. 058-271-1313
http://www.kenbi.pref.gifu.lg.jp/index.php

常設展示に、山本芳翠『裸婦』『浦島図』、熊谷守一『ヤキバノカエリ』なんていうおなじみの作品があった。

■ 岐阜県図書館
岐阜市宇佐4-2-1 tel. 058-275-5111
http://www.library.pref.gifu.lg.jp/

道を隔てた反対側に県立図書館がある。
ここで昼食にカレーを食べた。
図書館の食堂でカレーなんていうと安直な感じになるが、岡田新一設計事務所の設計による図書館では、レストランもなかなか重厚。カレーもたしかな味で、おいしかった。

* 西岐阜駅の南にある県立図書館から、岐阜駅の北にある市立図書館に行きたい。
バスや電車の乗り継ぎがめんどうな気がして、タクシーに乗った。
岐阜駅の北側を通りすぎるとき、小さな駅前広場に織田信長像があることを運転手さんが教えてくれて、タクシーからでは後ろ向きの像がチラっと見えた。
3年ほど前にできたが、金箔を貼って高額な経費がかかっていて、賛否両論があるという。
運転手さんは反対意見で、「偉い人のすることはわからん」という。
お客さんはどう思うかというので「ウルトラマンのようでちょっとヘン」というと、おもしろがられてしまった。


■ 岐阜市立中央図書館 みんなの森ぎふメディアコスモス
岐阜市司町40-5 tel. 058-262-2924
http://g-mediacosmos.jp/lib/

2015年7月に開館したばかりの図書館。
岐阜駅の北2キロほど、岐阜大学医学部が移転した跡につくられた。
設計者は伊東豊雄氏。2011年の東日本大震災以後、伊藤氏は「みんなの」と名づけた建築をいくつも建ててきた。
図書館を含む施設全体の名称は「みんなの森ぎふメディアコスモス」という。
公募を経て決まったらしいのだが、いかにも伊藤氏にふさわしい名称になっている。

建物前面にある広場がのびのびしていていい。 岐阜市立中央図書館 みんなの森ぎふメディアコスモス

中に入ると、いちばんの特徴は天井からさしかけられたカサ。
「グローブ」と名づけられていて、照明や換気の機能をもっていて、受付のグローブ、文学のグローブ、親子のグローブといったふうに、利用上の区画にもなっている。
岐阜市立中央図書館 みんなの森ぎふメディアコスモス

せんだいメディアテークとか、多摩美術大学図書館とか、テント的自邸とか、伊東豊雄的建築表現の集大成という印象を受けた。
いかにも伊東豊雄建築でいて、心地よく、親しみやすく、にぎわっている。
図書館は一般的に自己完結的、守旧的傾向があるように僕は感じているが、こうした図書館が殻を破っていくといいと思う。

* バスで岐阜駅に向かった。
駅前の高架通路に立つと、岐阜市立中央図書館に向かうときタクシーから見えた織田信長像が正面にあった。

岐阜駅 織田信長像

岐阜駅から東海道線に乗り、名古屋駅で新幹線に乗りかえた。
どちらもホームに上がるたびに手ごろな感じで電車が入ってくるというふうで、するすると順調に帰った。


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参考:

  • 『街道をゆく 7』「甲賀と伊賀のみち」司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976
    『街道をゆく 1』「湖西のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1971
    『街道をゆく 4』「北国街道とその脇街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1974
    『街道をゆく 16』「叡山の諸道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1981
  • 「須田剋太『街道をゆく』挿絵原画全作品集 第一集近畿のみち」 近畿建設協会/編・刊 2000
  • 『中江藤樹 子供のための伝記シリーズ』 千葉ひろ子/文 えんどうえみこ/絵 財団法人新教育者連盟 2005
  • 3泊4日の行程 (2015.9/17-20)
    (→電車 -レンタカー =バス ⇨タクシー ~船 …徒歩)
    第1日  京都駅→大津駅-伊賀上野城-伊賀市上野図書館-伊賀上野駅-御斎峠-セブンイレブン信楽長野店-甲賀市信楽図書館-紫香楽宮趾-MIHO MUSEUM-アーブしが(泊)
    第2日  -慈眼堂・滋賀院門跡-成安造形大学-北小松港-白鬚(しらひげ)神社-安曇川-藤樹書院・良知館-道の駅 藤樹の里あどがわ…安曇川図書館-朽木中学校-興聖寺-市場-今津ヴォーリズ資料館・今津教会会堂・郵便局-ホテル可以登(泊)…Giallo Felice
    第3日  海津大崎港-琵琶湖畔海津港-愛発の関親鸞上人旧跡-明治天皇柳ケ瀬行在所-レストラン余呉湖-高月町観音の里歴史民俗資料館・渡岸寺-長浜港~竹生島~長浜港-中島屋-ヤンマー ミュージアム-米原駅→大垣駅…ホテルグッディ大垣(泊)…朝日屋
    第4日  …大垣駅→養老駅…養老天命反転地…養老駅→西岐阜駅=岐阜県美術館・岐阜県図書館⇨岐阜市立図書館=岐阜駅→名古屋駅