台風と同行二人-「阿波紀行」


松山市にある坂の上の雲ミュージアムで『街道をゆく』挿絵原画展が開催された。
2016年は第4回で広島県の「芸備の道」。
挿絵の地の今の写真として僕が行って撮ったものが使われ、あわせて松原正毅館長との対談が企画された。
松山に行った機会に、そのあと、「32阿波紀行」をたどった。
松山から徳島へ、そして徳島空港から羽田へと、西から東に移動したのだが、台風が接近している。
四国の遍路は空海とともにめぐるものとされ「同行二人」という。
この旅ではずっと台風を気にしていて、台風と「同行二人」の気分だった。

第1・2日 松山市 [坂の上の雲ミュージアム 松山(泊)]   
第3日 池田町から美馬市 [旧政海旅館 阿波池田駅 かずら橋 デ・レイケ堰堤 美馬市立脇町図書館 正木酒店 美馬市(泊)] 
第4日 鳴門市から徳島市 [田中家住宅 勝瑞城 霊山寺 大麻比古神社 堂浦 北泊 レストランカリフォルニアテーブル 大鳴門橋 土佐泊 徳島城 徳島(泊)] 
第5日 徳島市 [徳島市立図書館 徳島空港] 

第1・2日 松山市 [坂の上の雲ミュージアム 松山(泊)]
* 第1日第2日については→[坂の上の雲ミュージアム『街道をゆく』挿絵原画展 2016.2017]

第3日 池田町から美馬市 [旧政海旅館 阿波池田駅 かずら橋 デ・レイケ堰堤 美馬市立脇町図書館 正木酒店 美馬市(泊)]

* 松山空港から入り、四国を西から東に横断して、徳島空港から帰る行程を組んだ。
松山で2泊したあと、3日目に松山を発つころ、台風16号が接近していて、一緒に東へ行くことになるらしい。
雨を覚悟して朝、ホテルを出た。

JR松山駅の近くの営業所でレンタカーを借りた。
市電が走る街を車でいくのは慣れないので、早く市街地を抜け出したい。
市役所や城のあたりを通って松山I.C.から高速道路に入った。
台風は九州の北部にあって、日本海のほうへ向かっている。
四国の今日はくもりという天気情報だったが、途中でときおり小雨にあった。
徳島県に入って井川池田I.C.でおりると、三好市の市街地を東に通り越しているので、西へ走って市街地に戻る。


■ 株式会社あしたのチーム 三好ランド (旧政海旅館)
徳島県三好市池田町マチ2475 tel. 03-4577-3929

『街道をゆく』の取材のとき、司馬遼太郎一行は阿波池田駅から近い宿に泊まった。
司馬遼太郎の文章ではこう書かれている。
 私どもの宿は数代つづいたしにせだという。ただ残念なことに、屋号がおよそそれらしくなく、政治経済雑誌の誌名のようなのである。(『街道をゆく 32』「阿波紀行」 司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)

「政治経済雑誌の誌名のよう」といわれた宿は「政海旅館」という。
1887年創業で、昭和天皇も訪れた老舗の旅館だが、司馬遼太郎らが泊まった(1988年)あとの2008年に廃業した。
徳島県では、IT企業の誘致をさかんにしているが、ここには東京都中央区に本社がある企業がサテライトオフィスをおいている。


玄関前に車をとめて降りてみる。
入口脇に「旧政海旅館」と表示があった。
玄関を入るといかにも旅館ふうのつくりだが、骨格だけ残して、旅館として必要だった装置はさっぱり取り除かれている。
株式会社あしたのチーム 三好ランド  (旧政海旅館)

玄関を入ってすぐ左の1室がオフィスになっている。
声をかけると、若い新人らしい女性が現れた。
廊下の向こうに庭が見えているので、ことわって廊下の先まで入らせてもらった。
いかにも旅館のものらしい中庭を部屋が囲んでいる。
建物はちょっとした大きさがあるが、オフィスとして使われているのは玄関近くの1室だけなのが、もったいない気がする。

* 通りの向かいにも古そうな商店がある。
いい感じの街だと思う。
三好市は2006年に池田町を含め三好郡の6町村が合併して誕生した。
中心は旧池田町で、市役所があり、阿波池田駅がある。
阿波池田駅前に観光案内所があり、その駐車スペースに車を置いた。


■ 阿波池田駅
徳島県三好市池田町サラダ1840-5

旧池田町にはカタカナの大字がいくつもあるが、駅のあるあたりはサラダという。
駅に入ってみる。
たいした大きさがあるわけではない。
ところが壁に架かった路線図を見ると、多方面に路線がつながっている。
徳島線は徳島へ(徳島まで1,640円)。
土讃線の一方は高知方面へ(高知まで1,640円)、もう一方は多度津へ(多度津まで850円)。
多度津からは、予讃線が西へ観音寺(1,280円)を経て松山方面へ。
東へ行くと高松(1,460円)から高徳線につながり、こちらも徳島(1,640円)を通る。
予讃線の宇多津からは瀬戸大橋線があって、瀬戸内海を越えて岡山方面に向かう。(岡山まで1,900円)
内陸に住んでもこういう土地だと外部への意識が鋭敏になりそう。
司馬遼太郎は『孫子』の言葉を援用して、池田は「衢地(くち)」だという。
「衢地」とは道路が四通八達しているところのこと。
阿波池田駅の路線図を見て、なるほどと納得した。

入場券を買ってホームに入る。
跨線橋から見おろすと、線路がいくつもあって、ホームは5番線まである。

阿波池田駅 1須田剋太『 「孫子」の地』
須田剋太『「孫子」の地』

阿波池田駅 左の写真は、旧池田町域を出るとき、坂道を上がった途中から駅付近を見おろして撮った。四国は全体として山国だが、そのなかを単線の鉄道が通っている。
「衢地」という言葉のとおり、阿波池田で鉄道も錯綜して、線路がふくらんでいるのがよくわかる。

● 一福亭 
徳島県三好市池田町サラダ1803−3 tel.0883-72-0363

駅前の通りを歩いてみると、うどん屋さんがあった。
昼には少し早いが、この先適当な食事どころがないかもしれないので入った。
うどんとチキンカツの定食600円。
チキンカツがいい具合に揚がっている。
とりあえずおなかを満たしておこうと入った店で、期待以上のおいしさでよかった。
三好市 一福亭

* 車に乗って、西へ192号線を愛媛県方面に戻るように走った。
吉野川に架かる池田大橋を渡る。


■ 白地(はくち)

橋の先は池田町白地になる。
少し行ってからUターンすると、須田剋太の絵に描かれた景色が見える。

白地の道路標識 須田剋太『白地』
須田剋太『白地』

標識が並んでいる。
 左:かずら橋 大歩危
 中:高知 大豊
 右:徳島 高松
この3枚は須田剋太が絵に描いたとおりなのだが、今はさらに右に徳島自動車道の緑色の標識が加わっている。
「徳島自動車道 井川池田」とかいてある。
徳島自動車道のこの区間は、司馬一行が訪れた1988年よりあと、2000年に開通している。

* これから大歩危に向かうので、標識にしたがって左の道をいく。
吉野川に沿って32号線を南下する。


■ かずら橋
徳島県三好市西祖谷山村善徳

これまで何度か四国に来て、祖谷のかずら橋が気にかかっていたが、とても奥まったところにある印象で、なかなか来ることができなかった。
司馬遼太郎の文章にも
 祖谷(いや)について多少の知識があるひとなら、たいてい、ほのかな神秘感をおぼえる。私も、そうだった。
とある。
それでも-司馬一行が来たころすでに道が整備されて楽に行けたようだ。ふだんの通行はすぐそばにあるふつうの橋を使っていて、かずら橋は観光用に架けかえられたものだということも『街道をゆく』に書かれている。
(司馬遼太郎は文章に「かづら橋」とし、須田剋太も挿絵に「かづら橋」と記している。いま一般的には「かずら橋」と表記されているので、ここでも司馬の文章、須田の絵のタイトルのほかは「かずら橋」とした。)

それにしても僕にはまだ秘境のような思い込みがあったので、着いてみたら山あいにとても広い有料駐車場があって驚いた。
駐車場のはしには大きな観光用施設があり、大量のみやげものが陳列され、外にまで出店がいくつも並んでいる。
このときは小雨が降っていて、さすがに外の店にまでは客がいなかった。


かずら橋は一方通行になっているので、並行する立派な橋を歩いて、いったん川を越える。
かづら橋への橋


右下にかずら橋が見える。
雨はやんだが、濡れて滑りやすそうで、若い女性が脇のてすりにしがみついてゆっくり進んでいる。
アジアの人らしい数人が自撮りカメラで記念撮影している。
かづら橋

かづら橋 須田剋太『祖谷かづら橋』
須田剋太『祖谷かづら橋』

かずら橋は有料で、通行料は550円。
 ともかくも、須田画伯とともにかづら橋をゆらゆらと一往復してみた。祖谷に十日もいればもっといい体験があるだろうが、ほんの瞥見(べっけん)の旅としては、この橋を往復するしかない。
吉野川をさかのぼってきた「阿波紀行」はこういう文章で結ばれている。
僕は長く気になっていたかずら橋なのに、着いてみると奥深いところというよりかなりな観光地ふうになっていて、いくらか肩すかしをくった気分だったが、司馬遼太郎のしめくくりかたも同じような感慨によるかもしれない。

* 僕は『街道をゆく』とは逆に西から東へ向かうので、阿波紀行がまだ始まったばかり。同じ道を戻って、また井川池田I.C.から高速道路に入った。
曇り空で、ときたま軽い雨が降ってくる。
道の右手、低いところをずっと吉野川が流れている。
讃岐山脈のはずれの高みなのか、河岸段丘なのか、川と川沿いの集落より高い所を走り続ける。
高速で走りながら右下を去っていく川と集落をチラチラ見おろして高みを走る気分はわるくない。
美馬I.C.で一般道に降りる。


■ デ・レイケ堰堤
徳島県美馬市脇町

2005年に 美馬町、脇町、穴吹町、木屋平村が新設合併して美馬市となった。
旧脇町の中心部は吉野川北岸にある。
吉野川は西から東に流れ、そこに大谷川(おおたにがわ)が北から南に流れて脇町中心部付近で吉野川に合流している。
北から流れてきた大谷川が市街にはいる手前にデ・レイケ堰堤がある。
『街道をゆく』をたどっていて、これまでもデ・レイケ(1842-1913)が関わった水の土木遺産に出会ったことがある。

→三国港防波堤 [九頭竜川に沿って-「越前の諸道」] 第3日
→筑後川デ・レーケ導流堤 [佐賀・長崎のフクザツな海岸線をたどる-「肥前の諸街道」]第5日

デ・レイケ堰堤
大谷川の堰堤は2年がかりの工事で1887年に完成している。
川原にはえる草の勢いがさかんで、堰堤も水の流れもわずかきり見えないが、かえって自然になじんでいるふう。

川岸には遊歩道があり、デ・レイケの銅像があり、出身地がオランダということから風車の形の休憩所が作られている。
土木施設に敬意をあらわす心持ちがいいと思う。

司馬遼太郎は脇町に向かう車のなかで眠ってしまった。
 ふと覚めると、景色が一変していた。並木通りにいて、道の左肩は、堀川になって深く落ちている。家並み(やなみ)から往来する町の人まで、いままでとちがった風情(ふぜい)なのである。
大谷川に沿って柳の並木がある。
司馬遼太郎はとくにデ・レイケや大谷川の治水のことにふれていないが、このとき眺めたのが大谷川と柳並木ではないかと思う。

* 吉野川の近くまでなだなから坂をくだって、道の駅「藍ランドうだつ」に駐車する。ふつうに道の駅というのから想像されるのとは違って、こじんまりして、センスがいい。
 阿波のよさは、ひょっとすると脇町に尽きるのではないかとかねがね思ってきたが、(後略)
と司馬遼太郎は期待してきて、その期待がはずれなかったことを『街道をゆく』に書いている。
たしかに町並みがしっとりして風情がある。
歩いているうち、酒屋があって、ふと中をのぞくと奥のほうで将棋をさしている。昔の話のなかの店のようで、さすがと思う。


■ 美馬市立脇町図書館
徳島県美馬市脇町大字脇町154-1 tel. 0883-53-9666

酒屋の隣に白壁があり、その白壁に白文字で「脇町図書館」と陽刻されている。
図書館は1986年に開館している。
2005年の町村合併により、美馬市立脇町図書館となった。

美馬市立脇町立図書館 須田剋太『脇町図書館(A)』
須田剋太『脇町図書館(A)』

美馬市立脇町立図書館 須田剋太『脇町図書館(B)』
須田剋太『脇町図書館(B)』

司馬遼太郎と須田剋太は、合併前の1988年に脇町を訪れた。
僕は2010年に脇町に来て、この図書館にも寄ったことがある。
明治初期に建てられ放置されていた農業用倉庫を修復して閉架書庫にし、鉄筋コンクリート造2階建ての開架閲覧室を新築し、接続している。
新築部分も蔵のようなデザインにして、元からあったかのように街におさまっている
司馬遼太郎が図書館を訪れたとき、図書館長や、まちづくりに関わる人たちが集まっていた。
招かれて話に加わったときのことがこう記されている。
この脇町なら、ヨーロッパの古い町にくらべても、構造物の厚みや界隈(かいわい)としての造形性においてひけをとらないのではないか。
 どの民家も、古さが孤立しておらず、中町も南町も他の小路も、面として保存されている。それによく補修されてもいる。(中略)
「どなたが、こういう町づくりを考えられたのです」
「みな寄りあいましてな」
ひとりの人が、おだやかな表情でいわれた。
「結局、その道の方に相談したほうがいいということで、神戸大学の重村力(しげむらつとむ)先生におねがいしたんです」
 それがよかった。重村さんをえらんだというのも"町衆"のかしこさだし、その意見に従ったというのも、容易ならぬ知恵の深さといっていい。

僕は前にきたとき、司書の方に話を伺った。
そのころ僕は図書館に勤務していたころで、それならと農業用倉庫を改修した閉架書庫も見せていただいた。
そのときの方は今日は不在だが、今も図書館に在職されているとのこと。
今いる司書の方に須田剋太の絵のことをたずねると、酒屋さんが町を案内するボランティアをしていて詳しいと教えられた。
さっき店の奥で将棋をさしている人がいた店で、そういう店なら詳しい方がおられるだろうと納得する。
今夜ひとりで食事するのに適当な店はあるだろうかということもきいて教えてもらった。

■ 正木酒店
徳島県美馬市脇町大字脇町153-2 tel. 0883-52-1552

図書館前の小路をたどって元の通りに出て、正木酒店に入った。
正木文子さんに話を伺ったのだが、正木さんたちが脇町を案内するボランティアグループを立ち上げたのだという。
数冊のノートにデータなどが整理して記録してあり、たずねた内容にしたがって、すっとノートを選んで取り出して教えてもらえる。
みごとで快適なので、つい挿絵の場所のほかのこと-デ・レーケ導流堤など-までおききしてしまった。

正木酒店
正木酒店。
その右の白壁が図書館の閲覧室の一端で、さっき窓からこの通りが見えた。
そのさらに向こうの小路を左に入ると図書館に向かう。

絵の場所もたちどころに教えていただいた。
脇町(B)の絵は、通りを数軒東に行ったところ。
江戸期の建物で、「司馬さんたちが来られたときは拳法の道場」で、左に2つの円形が見えるのは道場であることを広告する意匠だったとのこと。

脇町 須田剋太『脇町(B)』
須田剋太『脇町(B)』

脇町(A)の絵は、正木酒店からは逆に西に数軒行ったところ。
2軒描かれているうち、左が明治、右が大正に建ったものという。

脇町 須田剋太『脇町(A)』
須田剋太『脇町(A)』

これまで『街道をゆく』の挿絵の地をかなりたどってきた。
現地に住む人、町づくりに関わる人などに挿絵の地を尋ねて、教えられた場所に行ってみると違っていることが幾度かあった。
脇町を例にしていうと、図書館のような名のある場所は間違いようがない。
でも『脇町(A)(B)』のように、似たような家があるところでは、地元の人でも違うところを教えてしまうことがあった。
間違えていたことを非難めいていうわけではない。
僕にしても、尋ねた相手の人が絵を見て「ここに階段があるのは...」というようなことを言うので、絵を見直すとたしかに階段がある、僕はその階段に気がついていなかった-というようなことが何度かあった。
挿絵の場所を探しているのだから注意して細部まで見ていそうなのにそんなことがあるくらいで、一般論として「人はよく見ていないもの」ということを学んだ気がする。
これまでそんなことがあったので、似たような家が並ぶ通りのなかでピンと該当の家を指す正木さんの正確な目に感嘆した。
もう1つ疑問に思っていたこともおききした。

通りから図書館に向かう小路が、その道に入りかけたところだけ小さなのぼり坂になり、またすぐ下っている。
道をわざわざふくらませている意味がわからなかった。
きいてみると、中に倉庫があり、だんじり置き場にした。倉庫の床面が高く、もともとの道が低いから、昇降装置がある車を用意しないとだんじりを出し入れできない。
直接出し入れできるように坂にしたのだとのこと。
なるほどと納得した。
脇町図書館への小路

こんなふうに街のことをおききしていたら楽しそうだが、通りにおかれた照明が灯るころになってしまった。

夕暮れの脇町

* ホテルにチェックインしてから夕飯に出た。

● 三々亭
徳島県美馬市脇町猪尻建神社下南183-2 tel.0883-53-0123

三々亭
脇町の古い町並みより外側、新しい店が建っている一帯にある。
カウンター席で刺身定食と生ビール。
ちょうど季節の戻りガツオもあって満ち足りる。

● ビジネスホテルマツカ
徳島県美馬市脇町猪尻字建神社下南153-1 tel. 0883-52-1555

旅行サイトで予約したとき、新しくフローリングルームができたとあるので、その部屋を選んだ。
予約のフォームに宿への希望を記す欄があったので、できれば高い階の眺めのいい部屋がいいと書いた。
後日、ホテルから電話があり、「フローリングルームは低層階になる、高い階にもあきがあるが、どちらがいいですか?」とのこと。
眺めいい高い階にかえてもらい、そのほうが新しく経費をかけた部屋よりも安いということもあった。
ていねいに電話してくれる配慮もありがたいし、電話の女性も好感だった。


翌朝の朝食は、和洋選べるので洋食にした。
あたたかく過不足なくおいしい。
部屋もロビーもスタイリッシュで気分がよかった。
ビジネスホテルマツカ

前に来たときもそうだったが、今回も脇町はしみじみいいところだとしみじみ思い、もっとゆっくりしていたい気分をふりはらうようにして町を出た。

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第4日 鳴門市から徳島市 [田中家住宅 勝瑞城 霊山寺 大麻比古神社 堂浦 北泊 レストランカリフォルニアテーブル 大鳴門橋 土佐泊 徳島城 徳島(泊)] 

* 脇町I.C.から徳島道に入り、藍住I.C.でおりる。
県道石井引田線を南に走って、いったん藍住町を出て石井町に向かう。


■ 六條大橋

吉野川を越える六條大橋に車がさしかかったとき、一瞬はっとした。
橋と、その両側の川の風情がとてもいい。
日本画で八橋図というのがある。
池に緑の草のかたまりが点在していて、その中を折れ曲がりながら木の橋が渡されている。
吉野川のこの橋でも、左右に水面があり、水草が生える浮島のようなものが不定形に点在していて、八橋図がふと思い浮かんだ。
走りながらで確かには目で確認できないが、右には潜水橋らしき橋もある。

あとで反対からもう一度渡った。
はっとしたのは橋が低くて水面が近いためだろうかと思い当たった。
それに両側の手すりが低いので、ふつうの乗用車の座席の高さからでも水面がさえぎるものなく見える。
すてきな渡り心地だった。

■ 重要文化財田中家住宅
徳島県名西郡石井町藍畑字高畑705 tel. 088-674-0707

重要文化財田中家住宅 須田剋太『水陸両用の屋根(B)』
須田剋太『水陸両用の屋根(B)』

江戸時代から続く藍商の屋敷。
吉野川が氾濫したときには主屋の葦葺の屋根は救命ボートになるというので、司馬遼太郎は連載のこの回を「水陸両用の屋根」とした。

日曜日と祝日だけ見学を受け付けているが、僕が行ったのは火曜日。
平日でも予約すれば見学可能ということだが、今日はほかにかなりの地点をめぐりたいので時間が定かにできなくて、予約してなかった。
入れないかと思っていたが門が開いている。
建物の中まで入らなくても須田剋太の絵の景色がたしかめられた。


もう1枚、このあたりで描いたらしき絵がある。
分かれ道が描かれている。
須田剋太『水陸両用の屋根(A)』
     須田剋太『水陸両用の屋根(A)』

このあたりの地図を見ると、道が二股に分かれているところがいくつもある。
まず田中家住宅から近いところに見当をつけていってみたが違う。
レタス畑で作業する人たちがいたので尋ねてみると、確かではないがここではないかという地点を教えられた。
行ってみると分かれ道の角度などは似ている。
分岐点に道祖神のようなものもあるが、細部まで見比べると、すっかり同じようではない。
須田剋太が描いた絵をコピーした紙を持って風景と見比べたり、写真を撮ったりしていると、白い車がとまった。

大きいわりに車高の低い車で、窓をあけて話しかけてきた男性は、かしっとスーツを着て、精力的で、世慣れたふう。
「買ってくれはる?」ときいてくる。
不動産業の人だった。
そうではないとこたえるとすっと走り去った。
あらためてよく見ると、小さな屋根が架かっている右のほうに緑色の看板があって「売物件」とあった。(写真の赤枠内)
挿絵の地をずいぶんたどってきたが、風景を眺めていて「ここを買うか」と尋ねられたのは初めてだった。
石井町の野の分かれ道

近くに「天神東」というバス停がある。
須田剋太らがたどった行程から推察してここという可能性は低くはないが、確定はできなかった。
台風が近づいているというのに、雨の気配がないどころか、うっすらと日が射している。
こういうとりとめない田園地帯をめぐるには、雨でないことが格別ありがたい。

* また六條大橋を渡る。
このときも水の上をすべるようで気分がよかった。
藍住町に戻る。


■ 勝瑞城(しょうずいじょう)
徳島県板野郡藍住町勝瑞 tel. 088-637-3128

勝瑞城跡の様子を司馬遼太郎はこう書いている。
 城跡に、三好氏の盛時の菩提寺だった見性寺という寺があるが、いまはさびれている。
 城跡でめだつ構造物は、鐘楼風の建物ひとつである。
 ところが鐘はなく、どういうわけか、大釜が一つ置かれていて、なんの説明もないまま、大きく扁額がかかげられていて、
「地獄の釜」
とある。なんの判(はん)じ物だろうか。
城跡らしくないし、寺としてもさびれていて、とりつくしまもないというふう。
今来てみると、寺はコンクリートづくりで、新築されてからまだそう年を経ていないようにみえる。
鐘楼風の建物と大釜はない。
人の気配はないし、今もいくらか妙な印象であることには変わりがなかった。

見性寺 須田剋太『勝瑞城跡(A)』
     須田剋太『勝瑞城跡(A)』

このところ行く先々で人口が気になっている。
どこも減少傾向にあって、大丈夫だろうかと寂しい気持ちになる。
ところが藍住町の人口を見てみたら、意外なことにたいへんな勢いで増えている。
1970年に10,244人が、2010年には33,336人と、3倍ほどになっている。
徳島市の北西に隣接していて、ベッドタウンとして発展しているらしい。
徳島市の人口はほぼ横ばい状態だから、徳島都市圏としては発展しているといっていいのだろう。
さっき田中家住宅に行った石井町も同様に増加傾向にある。

かわりに人口が減っているところがあるかと思って、徳島市と石井町に接している神山町の統計を見た。
1970年13,588人が2010年には6,042人と半減している。
徳島県ではIT企業の誘致をすすめていて、神山町にはいくつかサテライトオフィスができて注目されている。
それでもIT企業は大きな雇用をうみだすものではないから、人口減をくいとめられるかどうか。

* 藍住町から北に走って、鳴門市にはいる。
鳴門市は徳島県の北東端にあって、淡路島を経て本州につながる橋の起点になるところ。
ただ鳴門市で最初の目的地は、まだ内陸部にある。


■ 霊山寺(りょうぜんじ)
徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126 tel. 088-689-1111

霊山寺は四国八十八箇所霊場の第一番札所。

 私どもはこの旅で、札所といえば、第一番の霊山寺に詣ったきりである。
(中略)”お四国”の札所の寺は、お遍路さんの信心の脂(あぶら)でぬれているように思われる。
 この霊山寺の境内も、視野のなかにさまざまなものが自己主張していて、目をやすめてくれないのである。


たしかに、本堂に行き着くまでに、池があり、別のお堂があり、お遍路グッズを売る店があり、そのどこにもけっこうな人がいて、にぎわっている。
霊山寺


須田剋太が描いて『竺和山霊山寺』と題されている絵には、3段に分かれて高く上がっていく階段がある。
ところが霊山寺は平坦な土地にあって、これほどの段差はない。
絵に描かれた場所とタイトルとが違っている場合、画家が錯誤しているか、挿絵を寄贈された大阪府で管理上タイトルをつけたときに錯誤したか、2通りの理由がありうる。
須田剋太『竺和山霊山寺』

「阿波紀行」の連載では、第6回「お遍路さん」に、この絵が掲載された。
霊山寺以外の寺の名も記述があるが、司馬一行が実際に行ったところは霊山寺だけなので、大阪府でタイトルをふった人が錯誤したということではないだろう。
須田剋太がほかのところを描いた絵を霊山寺と錯誤したか、あるいはお遍路さんのことを記した文章だから、八十八カ所の霊場のどこかであればいいと考え、どこか通りかかったほかの寺を描いたものをつかったかもしれない。
お遍路さん関連の売店の人にきいても、こんな階段がある霊場は高知かどこかにあったような、というくらいで、どこかはわからなかった。

* 霊山寺からわずかに北に走ると大麻比古神社がある。

■ 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)
徳島県鳴門市大麻町板東広塚13 tel. 088-689-1212

第1次大戦後、1000人近いドイツ兵が捕虜として徳島にいた。
司馬遼太郎の言葉では、「阿波は、温和で人気(じんき)のいい土地」だし、「遍路という客人(まろうど)を大切にする伝統があった」ために、地元の人とドイツ兵との関係は悪くなかった。
戦争が終わって帰国することになったとき、ドイツ兵が地元民へのお礼のしるしとして築いた石積みの橋が大麻比古神社にある。

社殿の裏にまわると半自然という感じの庭がある。
作りすぎていないのんびりしたところで、そこを流れる川と池とに橋が架かっていた。
メガネ橋は、絵から受ける印象より低く小さかった。

大麻比古神社 須田剋太『ドイツ兵が作ったメガネ橋』
須田剋太『ドイツ兵が作ったメガネ橋』

* 徳島県の北西端の海岸に向かう。
このあたりは陸と海とが複雑に入りくんでいる。

島がいくつかあるが、橋でつながっているから、カーナビをたよりにするすると渡っていく。


■ 堂浦(どうのうら)

江戸初期に堂浦の漁師がテグスで一本釣りをすることを思いついて魚が多くとれるようになった。
 堂浦の漁港は、過去に生きているわけではない。船がこいにぎっしり船を並べて、いまも盛大なようだが、それにしても自己の過去には恬淡(てんたん)なもので、一本釣りとテグスという、日本の生産文化を変えた歴史をもちながら、碑ひとつない。
今も港はそんなふうだった。
港をぐるっと囲んで防波堤がある
その内側に小さな家がぎっしり並ぶ集落があり、防波堤と集落のあいだを車がすれ違えないくらい細い道が通っている。

堂浦 須田剋太『堂の浦』
須田剋太『堂の浦』

■ 鳴門北泊
徳島県鳴門市瀬戸町北泊

堂浦は内海に面しているが、北に走って外海に出ると、北泊港がある。
ここは『街道をゆく』の文章にはないところで、須田剋太が通りかかったときにスケッチしたのかどうか、詳細はわからない。

北泊港  須田剋太『鳴門北泊』
島田島に渡る小鳴門新橋が見える 須田剋太『鳴門北泊』

* 島田島の東岸に向かう。
丘の高みから大鳴門橋を見下ろすレストランに向かった。


● 鳴門パークヒルズ レストラン カリフォルニアテーブル
徳島県鳴門市瀬戸町大島田字中山1-1 tel.088-688-0212

鳴門パークヒルズ レストラン カリフォルニアテーブル 着いたのは12時ちょっと過ぎたが、ほかに車がない。
窓辺の席に案内された。
窓の向こうには大鳴門橋と鳴門海峡の雄大な景色が広がっている。
フェルメールランチという軽いコース料理で3500円。
メインは、ふっくらした味わいの、はものフリットで、緑や紫の野菜と組み合わせて、黄色いレモンを添えてある。

デザート:桃のジェラートと、白ワインのゼリーと、梨
最後に白づくしのデザートもよかった。
桃のジェラートと、白ワインのゼリーと、梨を、白い皿のくぼみに盛ってある。
テーブルに置かれたとき、目がハッとして、口に入れるとそれぞれの味わい、感触が絶妙だった。

ここに元あったホテルは、『街道をゆく』の「阿波紀行」で司馬遼太郎と須田剋太らが泊まったところだった。
 私どもは鳴門海峡と橋を見おろす山上に宿をとった。
 このあたりは国立公園であるため、高い建物は禁じられている。このため、大阪の電鉄会社が建てたこのホテルは低く横にのび、食堂も、芝生を歩いたり階段を上下したりして、崖ふちの一屋までゆかねばならない。

ホテル名は書かれていないが、文中の説明から、もと「ホテル南海なると」のことだとわかる。
1984年に開業したホテルで、「阿波紀行」が週間朝日に掲載されたのは1988年だから、開業後まもなくに行ったことになる。
2002年に営業を終え、建物も解体された。
新しくできたホテルは、建物の高さを抑えていること、食事は別棟に移動することなど、およそのスタイルは南海時代を継いでいるようだ。

「阿波紀行」で、司馬一行は徳島市内でこういうところにも行っている。
この夕、私どもは、むかしから懇意の「青柳」という家へ行って、阿波おどりをやってもらった。
その店は市街での営業をやめて新しい山上のホテルの施設の1つになっていた。
僕はここには2010年にも来たことがあり、鳴門パークヒルズ内の道を上っていくと、いちばん奥に「青柳」があった。落ち着いたつくりの一軒家が木々に囲まれてたたずんでいて、外観を眺めたきりだが、いい雰囲気だった。
今度また来てみると、「青柳」という店はなくなっていて、万里荘という、ホテル内でのディナーの場所になっているようだった。

*堀越橋を渡って大毛島に移る。
レストランから見えた大鳴門橋に着く。


■ 大鳴門橋

橋の下部が遊歩道になっている。
ちょうど満潮のころで、観潮船がいくつも出ていた。
大量の水がうごめいていて、大きなエネルギーを目の当たりにする。

大鳴門橋 須田剋太『鳴門大橋(A)』
須田剋太『鳴門大橋(A)』

* 大鳴門橋から南下して大毛島の南端にいたる。

■ 土佐泊(とさどまり)
徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦

司馬遼太郎は「鳴門海峡と橋を見下ろす山上」の宿に泊まった翌日、まず土佐泊を見たいと思った。
四国に在任していた紀貫之が、ようやく都に帰ることになった。
土佐を発ち、阿波の鳴門で寄った港に、これまでいた「土佐」という地名がついているので懐かしくなり歌を詠んだ。
タクシーの運転手が案内したのは潮明寺(ちょうめいじ) で、境内にその歌を記した歌碑があった。
『街道をゆく』では、紀貫之の土佐滞在についてちょっとした量の記述があるのだが、現地での司馬遼太郎の感想は
 潮明寺は町中(まちなか)にある。このため境内の歌碑を見ても気分が出なかった。
と、あっさりすませている。

ところが須田剋太は港の様子を描いている。
このあたりの海岸にいくつもある港と、とくにかわったふうはなく、司馬遼太郎はあえて文章を加えるまでもないと感じたかもしれない。

鳴門町土佐泊浦(なるとちょうとさどまりうら) 須田剋太『現在の土佐泊り』
須田剋太『現在の土佐泊り』

* 南に走って吉野川を越えて徳島市内に入る。
広い道に車が満ちているが、城の東隣の道は、中心市街地なのに静かで落ち着いている。
城跡の公園の北東に駐車場があって車を置く。
駐車場の係の人に絵の場所をきいてみる。
公園のうちで石垣があるのは東側という。


■ 徳島城
徳島市徳島町城内 tel. 088-656-2525

徳島で『街道をゆく』の一行が泊まったホテルは、こういう位置にあった。
 ホテルは、城跡を公園にした中央公園のそばにある。城跡の石垣と堀が、朝食をとっている一階軽食堂の大きなガラスごしにみえる。
僕はこの旅の出発前に、このホテルはどこだろうと悩んだ。
今のホテル情報を見ると、城を間近に見る位置にホテルはないようだ。
公園の東側に石垣があるとすれば、ホテルもその近くだろうと範囲がかなり限定される。
石垣に沿って絵の場所をさがしていく。

途中、石垣が途切れたところがあり、そこから出ると堀を越える橋がある。
数寄屋橋という。
橋を渡りかけたところで向こうから来た女性にたずねると、橋のすぐ向こうが元ホテルで、今はマンションになっているという。
1階の左寄り、今はガラス壁になっているところが元は入口だったという。

徳島城の石垣、数寄屋橋、旧徳島パークホテル
元ホテルは橋の向こう側正面にあって、10階を越える。

さらに石垣に沿って歩いていくと、挿絵を描いたと思われる場所があった。
場内に彫刻作品を置くイベントを開催中で、階段の手前に「野外彫刻展」とかいたノボリが立っていた。

徳島城 須田剋太『徳島城』
須田剋太『徳島城』

公園内を彫刻を眺めながらゆるゆる散歩して、駐車場に戻った。

* レンタカーを返してホテルにチェックインする。
徳島市は、吉野川の河口付近にあって、ひび割れたような島状の土地がいくつも寄り合っている。
市の中心の市役所や徳島城公園も、北東の助任川と南西の新町川にはさまれた中の島の地形にある。
トヨタレンタカーの徳島営業所は、新町川の南西岸にある。
徳島駅も中の島にあるので、車を返したとき「駅まで送りましょか?」といわれたが、ホテルも同じ側にあって歩いても近い。


新町川に架かる橋
散歩に出る。
ホテルの裏に回って新町川の川岸にでる。
橋に照明を仕込んである。
くもって空気がしめっぽいが、雨が差し迫っているほどの感じではない。

■ 眉山(びざん)

徳島市外の後背部に標高280mほどの眉山があって、公園として整備されている。
徳島には何度か来たが、眉山には上がったことがなくて、今度が初めて。
ロープウェイの山麓駅はみやげもの売り場やレストランがある観光施設「阿波おどり会館」になっている。

ロープウェイは15分おきにでていて、夜は昼間の片道料金で往復できる。
山頂駅を降りて展望台から市街をみおろす。
川で区切られた土地を数本の橋が結んでいる地形がよく見てとれる。
10月の最初の火曜日の夜で、十数人の人がいたろうか、ちょっと肌寒い。
眉山(びざん)の夜景

いちおう傘を持って出たが、降られずにすんだ。

● ハイパーイン徳島東船場
徳島市東船場町2-15 tel. 088-626-0818

この旅で最初に泊まった松山のホテルと同様に、ツインの部屋のシングルユース朝食付きだった。
それで5,000円しない。

テレビで天気情報を見ると、台風が接近している。
明日はJALの便を予約してあるのだが、JALのホームページを見るととくに運航に支障があるような情報はない。

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第5日 徳島市 [徳島市立図書館 徳島空港]

翌早朝5:27にスマホにメールが届いた。
ベッドでぼんやりしたまま開いてみると、JALからで「天候調査中」とある。
[天候調査中]
徳島空港 台風のため天候調査中です。台風18号の状況によっては、条件付き運行・遅延・欠航の可能性もございます。
前から気にしてひんぱんに天気情報を見ていて大丈夫そうだったのに、当日朝になってこういう知らせか、なんかなあ...という気はするけれど、天気のことでは仕方がない。
帰りの航空券は、早く予約すると安い「ウルトラ先得」運賃で手配していた。
安いかわりに変更はできないし、払い戻しには50%の取消手数料がかかる。
でもメールには、そういう特殊な航空券でも変更できるし、取り消す場合も手数料がかからないとある。

徳島から羽田行きの便は7便ある。
7:45 9:30 11:40 13:45 15:30 17:30 20:00
僕は13:45を予約してある。
7:45の便にはとても間に合わない。
空港までバスで30分ほどかかるから、朝食を食べたりしていると9:30でもちょっとせわしい。
夜の便なら台風が過ぎて確実に飛びそうとしても、天気がよければ1日ゆっくり市内見物してもいいが、嵐の日では気楽に歩き回るどころではなく、いったいどこにいたらいいか途方に暮れる。
11:40の便にあきがあったので変更手続きをして、6:24には確認のメールを受け取った。

ビュッフェスタイルの朝食をとる。
簡素で手ごろ。

スマホで雨雲のレーダー図を見ると、強い雨の塊が近づいていそうなので、その前にとホテルを出る。
軽い雨が降っているなかを歩いて駅まで10分かからないくらいだったか。
バスの時間を確認しておいて、駅前のアミコビル内5〜6階にある図書館に行った。

徳島駅
アミコビルから徳島駅前をふりかえったところ。

■ 徳島市立図書館
徳島市元町1-24 tel. 088-654-4421

『街道をゆく』「阿波紀行」の取材は1988年だった。
ゼンリンの住宅地図を探すと、徳島市の地図は翌1989年版があった。
徳島城の東に堀を隔てたところに「徳島パークホテル」が記されていた。
ホテル名の下に「喫茶パルコ」と、喫茶部の名も記してある。
司馬一行が泊まったホテルが確かめられた。
司馬遼太郎と須田剋太が、城を眺めながら「喫茶パルコ」で朝食をとったのだったろう。

図書館内のデザインは新しい印象を受ける。
バルコニ-があり、椅子が置かれていて、今日は嵐でとんでもないが、天気のいい日にそんなところで読書したら気分がいいだろう。
でも新築ではなくて、2012年に、5,6階にあった市の施設とホテルの跡に移ってきたのだった。

* 駅前の空港行きバス乗り場に戻る。
乗車券の自動販売機があって、いちばん上に「関西国際空港4100円」とある。
国際線なんかに乗るにはこういうバス便があって便利なわけだ。
上から6番目に「徳島阿波おどり空港440円」がある。
バスに乗る前に折りたたみ傘の雨をぬぐって、リュックにしまう。
空港に着いて案内ボードを見ると、はじめに予約していた13:45の便はまだ「天候調査中」と表示されている。

ともかく11:40の便は無事に離陸した。
飛行機は松山便より小さい型で、座席は左2列、右3列だった。
空港のコンビニで買ったおむすびとサンドイッチを食べる。
機内で「羽田は小雨」という案内があったが、着いてみると路面は乾いていて、降った形跡もない。
徳島駅前で傘を閉じてから、あとはまったく開かないまま家に帰った。
松山を発つときには、台風とずっと道連れかと覚悟して、今日もあやうく飛行機が飛ばないかもしれないというふうだったのに、ひどい雨風にあわずに帰れた。
8月に北海道に行ったときも、新幹線の車内で「明日は暴風雨で遅延や運休が見込まれる」と放送が繰り返されるのを聞きながら帰ってきた。
こういうきわどい旅がしばしばある。


台風の徳島空港発JAL便

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参考:

  • 『街道をゆく 32』 「阿波紀行」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1989
  • 『司馬遼太郎の風景 9 南伊予・西土佐の道/梼原街道/阿波紀行』 NHK 「街道をゆく」 プロジェクト 日本放送出版協会 1999
  • 3泊4日の行程 (2016.10/1-5)
    (→電車 ⇒市内電車 =バス -レンタカー …徒歩 >飛行機)
    第1日 羽田空港>松山空港=松山市駅=ミウラ-ト・ヴィレッジ=松山市駅→久米駅…日尾八幡神社…久米駅→松山市駅…いよてつ髙島屋⇒「勝山町」電停…ネストホテル松山(泊)
    第2日 …坂の上の雲ミュージアム…ネストホテル松山(泊)

    第3日 …「勝山町」電停⇒JR松山駅…トヨタレンタカー松山-株式会社あしたのチーム三好ランド(旧政海旅館)-阿波池田駅・一福亭-白地-かずら橋-デ・レイケ堰堤-美馬市立脇町図書館・正木酒店-ビジネスホテルマツカ(泊)
    第4日 -重要文化財田中家住宅-勝瑞城-霊山寺-大麻比古神社-堂浦-北泊-レストランカリフォルニアテーブル-大鳴門橋-土佐泊-徳島城-トヨタレンタカー徳島…眉山ロープウェイ…ハイパーイン徳島東船場(泊)
    第5日 …徳島市立図書館…徳島駅=徳島空港>羽田空港