佐賀・長崎のフクザツな海岸線をたどる-「肥前の諸街道」


『街道をゆく』「11肥前の諸街道」で司馬遼太郎一行の旅は、福岡空港からスタートして、佐賀の北海岸、長崎の西海岸とめぐって、長崎空港から帰った。
僕は佐賀空港を起点にしたが、あとは同じように福岡、長崎とまわった。
最終日はまた佐賀に戻り、有明海を眺めてから帰った。

僕が暮らす埼玉県はサツマイモを横にコロンと置いたような単純な形をしていて、2秒でさらっとおよその形を書ける。(人間も単純になりそうな気がする)
ところが九州の北西の角は、半島があり、入り江があり、島があり、とても複雑。(そこに育つ人は複雑な思考に慣れて、知的に高度で精緻になりそうな気がする)
目的地を地図上で見つけても、さて全体ではどういう位置になるのか、あらためてとまどう-というようなことを繰り返しながらめぐった。

第1日 博多港から唐津 [蒙古塚 元寇防塁 旅館洋々閣 唐津シーサイドホテル(泊)]
第2日 呼子港から平戸 [呼子港 佐賀県立名護屋城博物館 外津浦・玄海原発 平戸大橋 松浦史料博物館 平戸ザビエル記念教会 印山寺屋敷跡 篠崎海産物店 平戸オランダ商館 旗松亭(泊)] 
第3日 佐世保から長崎 [石岳 親和銀行本店 佐世保玉屋 佐世保港 針尾送信所 西海橋 横瀬浦 長崎(泊)]
第4日 長崎から佐賀 [稲佐山 稲佐悟真寺国際墓地 長崎港 オランダ坂 大浦天主堂・グラバー園 親和銀行大波止支店 長崎市立図書館 日本二十六聖人記念聖堂 佐賀(泊)] 
第5日 佐賀 [三重津海軍所跡 筑後川昇開橋 デ・レーケ導流堤] 

* 須田剋太が「肥前の諸街道」の旅で描いた絵に『オランダより献上された釣燈籠』がある。平戸の松浦史料博物館で、釣燈籠は日光東照宮に献上されたものと教えられ、後日、日光で釣燈籠を見てきた。→[日光でオランダの燈籠を見てグラバーの遺産を味わう-「肥前の諸街道」]

第1日 博多港から唐津 [蒙古塚 元寇防塁 旅館洋々閣 唐津シーサイドホテル(泊)]

■ 羽田空港から佐賀空港

朝、雨が降っているなかを佐賀行きの便が出る。
離陸して上昇すると雲の上に出て、あとはずっと白い雲がまぶしい。
羽田空港の売店で買ったサンドイッチと天むすで早い昼をすませる。
ちょうど九州にさしかかるところで雲がなくなった。
国東半島に近づいていて、海に迫りだした大分空港がはっきりわかる。
由布岳、九重連山を越えて、九州新幹線の新大牟田駅が見えて、駅が山地と平野の境にあることが見てとれる。
あとはずっと平坦な水田地帯が広がっていて、水路や道に沿ってだけ家々が並んでいる。暮らしやすそうな、恵まれた土地なのだろうということが、空から見て感じ取れる。
まもなく着陸するというあたりで、筑後川の河口を越える。
川の中央に細い仕切り線のようなものがある。
上流から流れてきた土砂が河口に堆積してしまわないように導流堤というものがつくられていて、最終日に見に行こうと思っていたのだが、アプローチのときにいきなり見えてしまった。
数日後に近くから見ることになるだろう。

* 空港でレンタカーを借りる。
北に向かって走る。
帰りの便も佐賀空港からだからあとでまた来ることになるのだが、いったん佐賀市街を抜ける。
通りすぎながら、ゆったり、広々していて、圧迫感のない、感じのいい街だと思う。


■ 野の花学園 蒙古塚
福岡市西区今津4820-2 tel.092-806-2059


最初の目的地だけ福岡県にある。
博多湾に面する浜に近づく。
野の花学園という障害者のための学園があり、そのなかに蒙古塚がある。
須田剋太『蒙古塚へ行く道の毘沙門山』
須田剋太『蒙古塚へ行く道の毘沙門山』

司馬遼太郎一行がきたとき、
受付で「蒙古塚はどこにありますか」ときくと、三十歳そこそこの髪をきれいに分けた先生が出てきて、校庭のすみに案内してくれた。(『街道をゆく 11』「肥前の諸街道」 司馬遼太郎。以下引用文について同じ。)
というふうだった。
僕も同様に受付に行くと、やはり明快な印象の先生がおられて、塚まで案内していただいた。
13世紀後半、蒙古軍が襲ってきたとき、両軍に多数の死者がでたのを祀ってあるという。

今は学園によって整備され、「蒙古塚」と記した石柱が立ち、周囲には花の咲く木が植えられている。この塚を機縁に、モンゴルとの友好事業も実施されている。

写真で、右の建物の向こうに上部だけ見えているのが、上の須田剋太の絵にある毘沙門山。
野の花学園 蒙古塚

野の花学園を出て、海岸に向かう。
このあたりは「今津福祉村」で、「すぐれた自然環境に各種の社会福祉施設をおく」というコンセプトで、国立の視力障害センター、市立の養護学校、赤十字の病院などがある。

■ 元寇防塁

海べにでると、海岸線に沿って松が生えた海岸砂丘がつづいている。
ここに蒙古の襲来に備えて石を積んだ壁がつくられた。
高さ3m、上の幅2m、下の幅3mの台形状の防壁だったが、長い年月を経て砂に埋もれていった。
今は一部が復元されている。

元寇防塁 須田剋太『元寇の時の防塁』
須田剋太『元寇の時の防塁』

* 西へ走ると、ふたたび佐賀県にはいる。
唐津湾に面して海岸線はゆるく弧を描いている。
松林が虹の松原というきれいな名前の景勝地になっている。
その海岸線をさらに西にいくと、今夜予約してある宿に着く。


● 唐津シーサイドホテル
佐賀県唐津市東唐津4丁目182 tel. 0955-75-3300
https://www.seaside.karatsu.saga.jp/

『街道をゆく』の文章では、司馬遼太郎一行は、虹の松原を見たあとホテルに着き、荷物を置いて、日があるうちに呼子(よぶこ)港にあわただしく向かった。
呼子に行き、さらに外津を見て、ホテルに戻ったはずだが、その後は平戸に行く記述になり、ホテルのこと、その夜のことは記されていない。
ところが須田剋太の絵に『唐津シーサイドホテル』というのがあり、唐津で泊まったホテルの名がわかる。
それで僕もそのホテルに予約した。

須田剋太『唐津シーサイドホテルより』
須田剋太『唐津シーサイドホテルより』

右上写真の、正面奥に見える棟に司馬遼太郎の一行が泊まったことをホテルの人に教えてもらった。
そこから唐津城方向を見ると、およそ下の写真のようになる。
下の写真は僕が泊まった部屋からの眺めで、ベランダの手すりの延長線上、小さな突起のように見えるのが唐津城。
(僕が泊まった部屋は上の写真のプールの右で、その写真には写っていない。プールの位置は絵の時期以後、移されている。)

唐津シーサイドホテル


唐津シーサイドホテル

■ 河口ビューイング/松浦川

唐津ではもう1枚、『唐津城の見える街 東唐津1丁目』という絵があり、夕飯前にその場所を探しに散歩に出た。
行く先に唐津城が見える道を歩いていっても、絵のような構図になる所がなかなかない。
ホテルがある東唐津の区域と、唐津城がある区域とは、川で隔てられている。
絵の場所が見つからないうちに松浦川の河口にでた。
向こう岸に唐津城が見える。

松浦川と唐津城

■ 旅館洋々閣 
佐賀県唐津市東唐津2丁目4-40 tel. 0955-72-7181
http://www.yoyokaku.com/

絵の場所はどこか、城を振り返りながらホテルに戻っていく。
旅館洋々閣の前を通る。
洋々閣は古い老舗の旅館だが、東京・渋谷の松濤美術館など独特の深みをもった建築で知られる白井晟一の弟子、柿沼守利が改装したということで気になっていた。
唐津で宿をとるのに洋々閣にしようかとも迷ったのだが、やはりここは司馬遼太郎一行が泊まったホテルにした。
洋々閣の前に立つとしっとりと落ち着いた風情が心を誘う。

旅館洋々閣 須田剋太『唐津城の見える街 東唐津1丁目』
須田剋太『唐津城の見える街 東唐津1丁目』

眺めているうちに、これが『唐津城の見える街 東唐津1丁目』ではないかと思い当たった。
中に入って尋ねると、宿の人から女将に取り次いでいただいた。
玄関をあがって喫茶室に入る。
長く座っていたくなるようないい部屋だ。

そこで女将に話を伺うと、驚いたことに『街道をゆく』の取材のとき、女将は司馬遼太郎一行に会っていらしたのだった。
泊まったのはシーサイドホテルだが、編集者が手配して食事だけこちらに来たという。
司馬遼太郎が来るというので、宿では丹精して料理を用意した。
ところが司馬さんはしゃべりどおしで 料理のことは何も言わない。
私には、このあたりでは葬式はどんなふうにするかきくので、今ではふつうと変わらなくなっていると答えたりした。
わざわざこちらに食事にくるというので気合いをこめてととのえた宿としては、いくらか残念な思いをされたようだ。

須田剋太の絵の家は、たしかにここと似ているが、この宿の前の道をもう少し城に歩いたほうにあるとのこと。
ウチは欄干をとってしまったが、前は絵のとおりだった。
元はこの道が街道で、橋を作るときに別に新しく道を通した。
主人は対岸の中学校に渡船で通った-という。

絵の場所に案内しようといわれて、一緒に宿を出た。

東唐津1丁目
わずかに城に向かって歩くと、右に空き地がある。
「絵の家は私が嫁に来たときはもういたんでいて、20年くらい前だったかに壊された」とのこと。

シーサイドホテルが4丁目、洋々閣が2丁目で、そこからさらに城方向にきたこのあたりが1丁目になる。
1丁目と2丁目ではつきあいがなくて、そこに住んでいたひとのこと、その後どうなったということはわからないという。

女将は大河内はるみさん。
あとで洋々閣のホームページを見ると、司馬遼太郎が訪れたときのことが書かれていた。

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第2日 呼子港から平戸 [呼子港 佐賀県立名護屋城博物館 外津浦・玄海原発 平戸大橋 松浦史料博物館 平戸ザビエル記念教会 印山寺屋敷跡 篠崎海産物店 平戸オランダ商館 旗松亭(泊)]

■ 呼子(よぶこ)港
佐賀県唐津市呼子町

『街道をゆく』の取材では、唐津のホテルに泊まった日の夕方に呼子に行き、ホテルに戻っている。
「いまから呼子まで行っても、まだ陽があるでしょうか」
 ここまで来たからには、どうしても呼子の港を見たかった。呼子へゆき、入海(いりうみ)の水の色をひとめ見ただけで陽が落ちてもかまわない。

呼子(よぶこ)港 須田剋太『呼子町漁港』
須田剋太『呼子町漁港』

僕は唐津に泊まった翌日、呼子に向かった。
呼子はイカと朝市で名高い。
僕が着いたのは9時ころで、波止場に近い通りには、たくさんの人が店をだしていた。
海で獲れたものが多い。
さざえとウニを売るところでは「すぐに新鮮なウニが食べられますよ!」ということを、ほかに英語、中国語、ハングルでかいた看板を立てている。



家からオート三輪で市に来ているこのおばちゃんは、その通勤車をうまくくふうして売り台に仕立ててある。
呼子(よぶこ)港の朝市

* 司馬遼太郎一行は呼子港のあと、さらに西の外津浦へ急行している。
その間に名護屋城の旧跡があり、博物館ができている。
名護屋城は朝鮮侵略のために豊臣秀吉が築いた城で、司馬遼太郎が関心がないことはないだろうが、日暮れが迫っていて司馬一行は寄らなかった。
僕は博物館の建築に興味があって寄った。


■ 佐賀県立名護屋城博物館
佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3 tel. 0955-82-4905

名護屋城は1592年の開戦から秀吉の死で撤退するまで7年間、朝鮮侵攻の拠点だった。参戦した諸大名の陣があり、広大だった。
その跡地に博物館が1993年に前川國男設計事務所の設計で建っている。
前川國男(1905-86)はその前に亡くなっているので、生前ここの設計に関わりが始まっていたとしても関与の度合いは薄いだろう。

外観はあまり前川國男らしくないが、内部は僕がかつて勤務していた埼玉県立自然史博物館(現・埼玉県立自然の博物館1981年)に共通している。
とくに吹き抜けのロビーは床も壁も天井もほとんどそのままで、懐かしい気がした。
佐賀県立名護屋城博物館

展示では、日朝両国の軍船を10分の1で復元したものが見応えがあった。
半跏思惟像があって驚いたが、韓国にはいくつか金銅半跏思惟像があって、そのレプリカだった。

* 司馬遼太郎一行は陽が沈むのを気にしながら呼子港に着いたのだが、そこで須田剋太が
「このあたりにホカワヅという浦がありますか」
と言いだす。
道元が、そこから宋へ渡ったという。
司馬遼太郎は須田剋太が道元に深く傾倒していることを思いはかって、そこまでさらに向かっている。


■ 外津浦(ほかわづうら) 
佐賀県唐津市鎮西町

 呼子と似た地勢の入江だが、呼子のようには人家が密集せず、入江に架(かか)る橋の上に車を停めたときには、陽が落ちたせいもあって、ひどくさびしげな所のように思われた。
 画伯は、淡い闇につつまれて橋上に立っている。

外津浦には外津橋が架かっている。
旧・鎮西町と玄海町の境。
(鎮西町は2005年に合併して唐津市鎮西町になっている)
この橋は司馬一行が訪れる数年前(1974年)に完成していて、それまでは渡し船があったらしい。

外津浦(ほかわづうら) 玄海原発

司馬遼太郎や須田剋太は、はるか遠い昔の道元の旅のことを思うのだが、今、左側の陸には玄海原発が立地している。
須田剋太『鎮西町附近海の入り江』
須田剋太『鎮西町附近海の入り江』

■ 玄海原子力発電所
佐賀県東松浦郡玄海町今村浅湖4112-1

外津浦をはさむ西側に玄海原発がある。
1号機から4号機まであるが、司馬一行が来た1977年には、1975年に稼働した1号機のみがあった。
(1号機と2号機は廃炉が決定し、前者は2015年、後者は2019年に運転を終了した。)

正面にあるのは、観賞用温室。
その向こうに4つの原子炉があり、左から
円筒左:2号機
球体左:4号機
円筒右:1号機
球体右:3号機
玄海原発

各地の原発によくあるように、ここにも危険施設の見返りとして玄海エネルギーパークがある。
僕はいくつかのミュージアムに関わったから、こういう展示施設を作り、維持する費用がどれほど要するものかおよその見当がつくが、どの施設も展示がきれいで案内の人も十分にいて、しっかり経費がかけられている。

* 西へ走ると長崎県松浦市に入る。
松浦市を横切ってから平戸市に入るには平戸大橋を渡る。


■ 平戸大橋
長崎県平戸市

『街道をゆく』の取材一行が平戸を訪れたのは1977年3月だった。
北松浦郡田平町(現在は平戸市田平町)から船に乗り、平戸城を近くから見あげる港に渡った。
一ヵ月後の四月からは、海峡に架かった平戸大橋が開通するために、太古以来の船舶による海峡横断の歴史が、いわばおわるのである。

平戸大橋と平戸城 須田剋太『平戸遠望』
左に見える赤い橋が平戸大橋。対岸の右のほうに、小さな粒のように平戸城が見える。 須田剋太『平戸遠望』

* 平戸には旗松亭(きしょうてい)という老舗の宿があるが、『街道をゆく』の一行は満室で予約できなくて、平戸には泊まらず、佐世保に泊まった。
かわりにということか、その宿の常務の倉田友路さんという人が道案内をされた。
僕は旗松亭に予約した。
平戸市街では狭い範囲に目的地があるので、宿にいったん車を置かせてもらって、あとは歩くことにした。
平戸港がある入江を低い山地が囲んでいる。
司馬遼太郎が「平戸の市街は、古来、立体的にできている。」と書いているとおり、平戸をめぐるには地図だけでなくて、立体的な模型がほしい気がする。
宿は港からやや上がった中腹にあり、その中腹につけられた道をたどっていくと博物館がある。


■ 松浦(まつら)史料博物館
長崎県平戸市鏡川町12 tel. 0950-22-2236
http://www.matsura.or.jp/

松浦(まつら)史料博物館
はじめに歴史系の博物館に寄った。
長く平戸を支配した松浦氏の本拠地だったところが博物館になっている。

展示品に『松浦屏風』のレプリカがあった。
平戸藩主が京都で購入して平戸につたわってきた。
のち所在不明になっていたが、発見され、今は奈良市の大和文華館所蔵で、国宝になっている。
ほかに多くの歴史資料があるのに、まずレプリカに反応してしまっては申し訳ないようだが、平戸の殿様はこういうスタイリッシュな絵に目をつけたのかと感じ入る。

「肥前の諸街道」 では、須田剋太は資料から模写していくつも挿絵を描いている。
須田剋太自身が絵に典拠をかきこんであるのは明快だが、典拠がないものがあり、その1つが『平戸のオランダ商館』。
博物館の受付の女性にたずねると、モンタヌス『日本誌』にあるという。
須田剋太『平戸のオランダ商館』
須田剋太『平戸のオランダ商館』

学芸員の久家孝史さんにもそのことを確認され、そのあと他の絵、他の場所についても教えていただいた。
『オランダより献上された釣燈籠』という絵があり、これは実景を描いたのか、模写かさえ判然としない。
久家さんによると釣灯籠は日光東照宮に献上されているという。
もしそうなら模写ということになる。
(後日、日光でその釣燈籠を見てきた。→[日光でオランダの燈籠を見てグラバーの遺産を味わう-「肥前の諸街道」])

この博物館の初代館長は葉山萬次郎という人だった。
司馬遼太郎が大阪外語大に入ったときの校長で、在学中に定年退職し、平戸に帰っていた。
そういうゆかりもあってということか、久家さんは『街道をゆく』に記述があるところをすべて把握しておられて、遠くから来た者にはわかりにくかったところを地図上でピンポイントに示していただいた。
ここ数年、須田剋太が『街道をゆく』に描いた挿絵の地をたどっている。描かれたところに今も住む方が、自分のところが描かれていたことを承知されていないことが少なからずある。承知されているところでも、これほどきっかりおさえておられるところは珍しい。
須田剋太は平戸でかなりの点数を描いているので、博物館のお二人から教えていただいてとてもたすかった。

□ 『モンタヌス日本誌』は想像が加わった奇書だった

帰ってから探してみると、『モンタヌス日本誌』は近くの埼玉県立熊谷図書館にあった。
現代日本人からみると、事実から遠くとんだたいへんな奇書だった。わずかな違和感があるどころか、むしろ大胆に変容していることが愉快になるほどだった。
17世紀初から50年ほどの間に、数回東印度会社から訪日したひとの見聞をモンタヌスが編集したもので、書かれているのは織豊から徳川初期の100年間という。

図版を多数収めてあり、話をきいて画家が描いたと前書きにある。
実際に見た人が描いていないから奇妙で、中国ふう、西洋ふうが混じっている(中国のイメージは伝わっていたろうか)。
手が何本もある仏像では、手が体に妙な具合についているし、顔がいくつもある仏像では、顔が腹のあたりにある。
大仏は女性で乳房を露出している。
キリスト教への弾圧について、拷問の描写が詳細で具体的で、著者にそういう嗜好があったのではと思わせるほど。

「(大きな寺院の学習施設らしいところで)学生が勉学し住居する建物数個あり。それには各図書館の設あり。無数の書籍目録を備へ、螺旋機を用ひ或は輪を転ずれば、所要の書自然に眼前に出来る。」
今でいう自動書庫のようだが、日本にこんな機械仕掛けの書庫をそなえた図書館があったとは思えない。

松浦史料博物館を出て、海に向かって階段を下りかけると、『平戸風景(B)』の絵の風景が現れた。

松浦(まつら)史料博物館 須田剋太『平戸風景B』
須田剋太『平戸風景(B)』

* 入江を囲む丘の中腹の道を行く。

■ 平戸ザビエル記念教会
長崎県平戸市鏡川町259-1

平戸ザビエル記念教会
1931年に建った教会。
平戸にはフランシスコ・ザビエルが3度訪れたことがあり、その名を冠している。

■ 寺院と教会の見える風景

教会の先で左折して海に向かう道を下っていくと、道の左に瑞雲寺という寺があり、長い塀がある。
坂道を下ってから振り返ると、塀があって瑞雲寺があり、その先にさっき行った平戸ザビエル教会がある。
松浦史料博物館で平戸の観光地図をいただいてきたが、ここは「寺院と教会の見える風景」として特記されていて、名所になっている。
須田剋太が描いた『平戸風景(C)』は、ここのようだ。

ただ、絵では教会が消えている。
写真でも教会が見えにくいが、拡大するとこんなふう。

寺院と教会の見える風景
須田剋太『平戸風景C』
須田剋太『平戸風景(C)』

寺院と教会の見える風景

■ 印山寺屋敷跡
長崎県平戸市鏡川町

平戸の貿易に大きな関わりがあった王直という人物が住んでいたところが印山寺屋敷とよばれていた。
司馬遼太郎が訪れたときに「今は金光教の教会になっている」と書かれたが、それは今も変わりがない。
階段の上がり口の説明板はかわっていた。

印山寺屋敷跡
須田剋太『印山寺屋敷跡』
須田剋太『印山寺屋敷跡』

印山寺屋敷跡

* 坂を下って港に沿った道にでる。
さっきは中腹の道を来たのだが、今度は下の道を宿のほうに戻っていく。
個人商店や住宅がならぶ落ち着いた風情の道だが、(おそらくこのあたりで1軒だけの)スーパーマーケットがあった。
宿は素泊まりで予約しているので、明日の朝食を仕入れる。
旗松亭の下あたりまで戻る。


■ 平戸市観光交通ターミナル(平戸桟橋)

平戸城 海からは船がでて、陸からはバスがでて、共通の待合室がある。
対岸の丘の上に平戸城がある。
その下、海べりに平戸文化センターがある。

『街道をゆく』の取材で平戸に来た1977年には、まだ西海大橋はなくて、司馬一行は船で平戸に着いた。
おそらくその船からの眺めとして、
景観の中の城として日本でもっとも美しいのは平戸城だと思うが、その城の下に醜怪なコンクリートの建造物があって、信じがたいほどののさばり方でのさばっている。
と、酷評している。
(同じようなことがこのあと四国の大洲市でも起きている→[幸運の愛媛-「南伊予・西土佐の道」] の大洲城)

* その先に行くと水辺に遊歩道がつくられて、途中に古い時代の石段がある。

オランダ埠頭 須田剋太『平戸元オランダ埠頭』
須田剋太『平戸元オランダ埠頭』

* 遊歩道から陸側にはいる。

■ 篠崎海産物店
長崎県平戸市崎方町898 tel. 0950-22-2425

篠崎海産物店

篠崎海産物店
店の裏から入ってしまったが、中の壁の一部は古い時代のオランダ倉庫の壁。
司馬遼太郎はここを「看板に篠原みやげもの店と書かれている」と記している。
今は篠崎海産物店が営業している。
『街道をゆく』の文章に「隣家の小西さん」にも寄って壁を見せてもらったとある。
1978年の住宅地図を見ると、そのとおり隣家に小西さんがある位置に「篠崎商店」がある。
篠原ではなく篠崎であることは確実なようだ。
司馬遼太郎が誤ったか、印刷段階で誤植だったかがあったようだ。

■ 平戸オランダ商館1639年築造倉庫


1639年築造の倉庫を復元して2011年9月にオープンしている。
平戸オランダ商館1639年築造倉庫

■ オランダ井戸とオランダ坂

オランダ井戸の脇から坂道を上がる。

平戸オランダ塀 須田剋太『平戸オランダ塀』
須田剋太『平戸オランダ塀』

木立にはさまれた道で、途中、片側が公園になっていて、ここが「武家屋敷跡」であることの説明板がある。
『街道をゆく』の取材のころ、峰家がここに住んでいた。
平戸のあとに行った佐世保のホテルで、司馬遼太郎と須田剋太は親和銀行の調査役の峰泰(ゆたか)氏に会っている。その峰氏の実家がここだった。

オランダ坂 須田剋太『平戸風景A』
道を左に入ると公園になっている。かつて武家屋敷があったところで、その後、峰氏が住んでいた。 須田剋太『平戸風景(A)』

* オランダ坂を上がりきったところに今夜の宿の旗松亭があって、ひとまわり終えたことになる。
いったん部屋に入って、また夕食をとりに出た。


● お食事処なんばん
食事どころをかいた案内地図を見て、これはと思うと定休日だったり、早い時間なのにもう閉まっていたりする。
困りかけていると、観光交通ターミナルの近くの井元(いのもと)旅館の食堂部が営業していて、手ごろな食事ができた。

● 国際観光ホテル 旗松亭
長崎県平戸市大久保町2520 tel. 0950-22-3191

老舗の宿なのだろうが、食事を外ですませてきたし、とりたてて目をひかれることもなく、ひっそりやすんだ。

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第3日 佐世保から長崎 [石岳 親和銀行本店 佐世保玉屋 佐世保港 針尾送信所 西海橋 横瀬浦 長崎(泊)]

* 今日は、平戸を出て、佐世保を経て長崎に向かう。
須田剋太が平戸で描いたなかに『平戸風景(D)』があり、石仏4体が並んでいる。
松浦史料博物館の久家孝史さんに、それは最教寺にあると教えられていた。
きのう歩いたコースからはやや遠く、佐世保に向かう道のほぼ途中にあるので、「明日、車で寄り道しよう」と思っていた。
ところが朝から雨。
すぐ近くを通りかかったが、雨にまけてパスした。
平戸大橋を東に渡って、204号線に入り、南に向かう。


■ 石岳
長崎県佐世保市

南向きに開いた佐世保港を囲う西の半島状の地形の最高部が石岳。
石岳に上がれば、東に佐世保港、西に九十九島を望むことになる
九十九島はたくさんの島が浮かんで名所ということになっているが、司馬遼太郎はかつて来たことがあり、ほかにめざしたい所があるから、行く気はなかった。
ところが佐世保のホテルをたずねてきた須田剋太の友人の画家が強引に誘って石岳に行き、「ひどく絵ハガキじみた」景色を見て悄然としている。

僕が石岳の展望台の駐車場に着くと、雨がはげしい。
島がたくさんある「絵ハガキじみた」風景というのはおよそ見当がつくし、司馬の気分に乗じて車から降りずに駐車場を離れた。

石岳展望台 須田剋太『九十九島夕陽』
須田剋太『九十九島夕陽』

* 佐世保の中心部に入る。
親和銀行の裏手は建物が入り組んで建っているが、コインパーキングを見つけて車を置いた。


■ 親和銀行本店
長崎県佐世保市島瀬町10-12 tel. 0956-24-5115

司馬遼太郎一行は佐世保で1泊した。
そのとき須田剋太の知り合いである画家がホテルを訪ね、その画家の知人の峰泰(みねゆたか)氏も一緒だった。
平戸出身の藤浦洸の文章に、子供のころの遊び友達としてでてくるので、司馬は峰氏の名前に覚えがあった。(というのだが何という記憶力だろう!)
峰氏は平戸に家があり、オランダ商館跡の石段をのぼってゆく途中の家とのことで、平戸の歴史に関わる家柄の人だった。
「いかにも平戸ふうの人物である。温厚で寡欲で、他人に対しては慇懃というふうで」と描写され、とても魅力的に書かれている。
仕事は親和銀行相談役という。

僕は別な関心もあって親和銀行に行った。
唐津の洋々閣は白井晟一の弟子、柿沼守利が改装したのだが、佐世保の親和銀行本店はその師のほうの白井晟一が設計している。
1969年に本店が建ち、1975年に懐霄館(かいしょうかん)というコンピュータ棟が加わって、白井晟一の代表作になっている。


本店はアーケードのある商店街に面している。
複雑な表情をしているが、アーケードがあるので全景は見えない。
親和銀行本店

裏にある懐霄館は石の建築で、ヨーロッパの城砦のような、あるいは牧場のサイロのような、まるで銀行らしくない表情をしている。
本店を入って正面奥に案内室がある。
ひとりで親和銀行のステータスを象徴しているかのような、若くて美人で聡明そうな女性がやさしい笑顔で迎えてくれる。
見学はできるでしょうか?とたずねると、予想どおりできないという回答なのだが、まったく拒絶的なニュアンスが感じられない口調で、日を決めて見学会があるのでまたそのときお出かけくださいという。(あいにくそう簡単に出直せる距離ではないのだけど)
それに加えて、建築を見に来られる方は、あの階段に興味をもって見ていかれますと示されるほうを見ると2階に上がる階段がチラと見えている。手摺りのなまめかしい曲線と、上から柔らかにおりてきている光とに、ちょっとトロっとする。
写真で見ただけでもその先にあるはずの内部の美しさはため息がでるほどで、階段を駆け上がっていってその場にひたりたい気がする。

■ 佐世保玉屋
長崎県佐世保市栄町2−1

アーケードの商店街に出て少し歩くと、佐世保で老舗の玉屋デパートがある。
屋上が小さな遊園地になっていて、そこから見おろすと親和銀行の全景と周囲の様子が見える。


どっしりとして銀行1つの存在感が際立っている。
それに比べて日本の街はこんなふうに薄っぺらなのかと、わびしい感じにとらわれたほど。
親和銀行本店

■ 佐世保新みなとターミナル(河口ビューイング/佐世保川)
長崎県佐世保市新港町8-23

佐世保新みなとターミナル

須田剋太『佐世保港』
須田剋太『佐世保港』

佐世保川の河口に佐世保港がある。
いくつかの航路があり、複数のターミナルビルがある。
そのほかにツタヤが入る商業施設や、レストラン施設もあり、港というより今どきのウォーターフロントになっている。
昼には早いが、この先あまり食事どころがあてにできなそうなので、リンガーハットに入って皿うどんを食べた。
2階の席からは港を一望できる。
ちょうど雨がやんで真上の空は明るくなっているが、石岳の方向は暗くくもっている。。

佐世保新みなとターミナルは、芝生のスロープを上がって屋上に出られる。
そこから眺めると下に公園があって、その右は佐世保川の河口。
写真に見える水面は、佐世保川が流れこんでいる佐世保湾になる。
河口ウォッチング:佐世保川

* 佐世保は村上龍が生まれた街。1976年の『限りなく透明に近いブルー』を読んだときは強いショックを受けた。
そんなことがあって佐世保にはいつか行ってみたい街という思いがあった。
でもこの旅では長い時間いられる余裕はなく、銀行と港に寄っただけで出た。
南へ走る。
途中でハウステンボスの近くを通る。
かつて長崎空港に向かっていたときだったと思うが、機内から見おろしたことがある。
ここも行ってみたいが、短時間ちょっと寄ってみるには入場料が高いし、ひとりで行って楽しいとこでもさなそうなのでパスする。

須田剋太の絵にある西海橋に向かう。
その手前で右に高い塔が見えて、ここは寄り道する。


■ 針尾送信所無線塔
長崎県佐世保市針尾中町

1922年に旧日本海軍が無線通信のために建てた塔。
3本あって、高さは2本が135m、1本は137m。
3本が約300m間隔の正三角形をなし、その中央に電信室がある。
2009年にDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれ、2013年に国の重要文化財に指定されている。

塔の手前にある小屋に「針尾無線塔保存会」の方が詰めていて、案内してくれる。
塔に入る。
底部の直径は約12m。
中は薄暗い。
内壁にそって鉄梯子がある。
塔の上部に、航空機に構築物があることを知らせる航空障害灯をそなえてあり、その電球の交換のために今も梯子を上がる。
梯子は上が細くなっている壁の内側につけられていて、あれをそりかえるようにして上がるのは危険だし、おそろしく力がいりそう-と思ってしまったが、壁との間に入って、安定した体勢で上がるのだときいて、それはそうかと納得した。
針尾送信所無線塔

針尾送信所無線塔

3本の塔の中央にある電信室は、ふつうの箱形の建築物で、植物に覆われている。
その外に立つ電柱は、現存するいちばん古い電柱だという。

■ 西海橋

 午後二時四十分、針尾島と西彼杵郡という一大陸塊の間にかかった西海橋をわたった。橋の下を、針尾瀬戸が潮色を濃くして流れている。

橋の手前に長崎県立西海橋公園がある。
そこから眺めると左に赤い西海橋、右に江上バイパスの薄水色の橋がある。
下には潮の流れが渦を作りながらうごめいている。
大量の水が動く大きなエネルギーを感じる。

西海橋 須田剋太『西海橋』
須田剋太『西海橋』

* 西海橋を越えたあと、202号線を北西に走る。
南端に長崎市をかかえる半島のほぼ北端に近いあたりに横瀬の入り江がある。
202号線からそれて集落の中の細い道をいくと、入り江にせりだした丘の上が公園になっている。


■ 横瀬浦巡礼地
長崎県西海市

横瀬浦を見おろす丘の上が2008年に「横瀬浦巡礼地」として整備されている。
(司馬遼太郎一行が来たときには、まだ整備されていなかった。)
大村純忠がここで受洗したといわれ、横瀬浦がキリシタンとの貿易港となったという由緒がある
丘から見おろすと小さな港が見え、その向こうに八ノ子島がある。

横瀬浦巡礼地 須田剋太『横瀬の浦』
須田剋太『横瀬の浦』

* 一気に南下して長崎市街に入る。
長崎駅前の営業所にレンタカーを返す。
長崎市で行きたいところはわりと狭い範囲にある。
港を囲んで山が迫っているから、余裕の土地が少なくて、車だと駐車場所を見つけるのに苦労しそうで、明日は自転車を借りるつもり。
駅から路面電車で3つ目(といっても歩いてもたいした距離ではない)、大波止停留所近くのホテルにチェックインした。


● コンフォートホテル長崎
長崎市樺島町8-17 tel. 095-827-1111

『街道をゆく』の取材で司馬一行が泊まったホテルは-名は記されていないが位置についての記述から-長崎グランドホテルと思われる。
この窓の下は裁判所、検察庁といった官庁で、ホテルの西隣りが県警本部である。その南隣が県庁というふうに官庁街になっており、もともと人通りのすくない界隈であるらしい。
長崎グランドホテルの前身は西洋料理店「精洋亭」で、1884年創業、孫文が食事をしたという。
1947年にホテル事業に進出し、にぎわったが、その後経営が悪化、2007年に閉館した。
しばらく廃墟化していたが、解体工事が開始。しかし一部がコインパーキングになった状態で止まっているらしい。
僕が泊まったコンフォートホテル長崎は、『街道をゆく』の一行が訪れたころはまだなかった。
長崎グランドホテル跡地からほんの数分のところにある。

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第4日 長崎から佐賀 [稲佐山 稲佐悟真寺国際墓地 長崎港 オランダ坂 大浦天主堂・グラバー園 親和銀行大波止支店 長崎市立図書館 日本二十六聖人記念聖堂 佐賀(泊)]

* 今日は自転車で長崎市内をめぐったあと、夕方JRの電車で佐賀市に行きたい。
貸自転車をJRで扱っているが、駅の窓口に行くと貸出は9時からで、まだ早すぎる。
台数は少ないが予約しておくことができるというので、9時から予約する。
JR利用だと自転車が2割引になるので、佐賀行きの切符をあわせて買って、4時間以上通常1,500円が1,200円になった。

自転車を借りるまでの間に、稲佐山に行くことにする。
長崎の主要市街地は港の東側にあるが、稲佐山は西側にあって、市街を展望できる。
バスでロープウェイ下まで行き、ロープウェイで往復して、またバスで戻って、自転車を借りることにする。


□ ロープウェイに乗る前に 長崎市中国墓地のナゾ

長崎で須田剋太がいくつか描いているが、旅に出る前に調べていて絵の場所がどこかいちばんナゾだったのが『長崎市中国墓地』。
長崎市には外国人墓地が3か所ある。
北から順に
1 坂本国際墓地:JR浦上駅(路面電車「浦上駅前」)の東
2 稲佐悟真寺(いなさごしんじ)国際墓地:長崎駅の西へ、浦上川を越えた先
3 大浦国際墓地:路面電車の南終点「石橋」のさらに南
1から3までは南北4キロほど離れているし、2はその間だが川を西に越えた対岸にある。
ただ1枚の絵の場所を探すにしては範囲が広い。

インターネットで検索して各墓地の説明を読んでも判然としないし、絵に似た写真も見つけられなかった。
自転車を予約する前に、長崎駅前の観光案内所でたずねたが、ここでもどれという明快な答はえられなかった。

■ 稲佐山

バスに乗って浦上川を越え、ロープウェイ乗り場に着く。
ロープウェイが動くのも9時からで、こちらにもまだちょっと早すぎた。
3つある外国人墓地のうち、稲佐悟真寺国際墓地はここから近いようだから行ってみようかと思う。
稲佐山の山麓にあるらしいが、平面の地図だけでは、どう行ったらいいものか様子がわからない。
ロープウェイまでの時間があるうちに方針を決められればと思って、すぐ近くにある幼稚園の前にいた女性にきいてみた。
はっきり墓のことを知っているのではないが、地図を見て、「高い位置にありそう」といいながら、ここをこう行って-と、道を教えてくれる。
そのとおり行きかけたけれど、かなり距離がありそうな気がして、ロープウェイ乗り場に戻った。
高い位置にあるならロープウェイの上のほうの「稲佐岳駅」から歩くのがいいだろうか。
チケット窓口の男性にもきいてみると「ここから往復したほうがいい」という。
迷っているうちにロープウェイが動く時間になり、乗った。
稲佐山からは、長崎港と長崎市街が広がっているのが見える。

稲佐山から長崎港 須田剋太『長崎港B』
須田剋太『長崎港(B)』

福田遊園地跡 山の反対側には角力灘の水面が見える。
あしもとの入江に高層マンションがびょうぶのように建ち並んでいる。
もしかするとあれは福田にあるマンション群ではないだろうか。

かつて長崎港から西へ丘を越えた先に、福田遊園地があった。
1957年に開園し、当初は大型遊具をそなえた長崎市内唯一の遊園地施設でにぎわった。
『街道をゆく』の取材は1977年だったが、その頃はもう寂れていた。

路傍からのぞいたところ、商業的な遊園地のようであった。ただ空屋のように閑散としていて、入場者など一人もいない。(中略)
 ともかくも、キップを買って、遊園地に入った。
 入場者がいないために、どの遊戯器械も動いていない。

横瀬浦の港を破壊されたイエズス会とポルトガル商人は、福田を選んだ。
やがて港として、より適した長崎に移ったのだが、司馬遼太郎は福田がどういう地かと現地に立ってみたいと考えて行ったのだった。
動かずに置いてあるだけの遊具の間をぬけて海が見えるところにでる。


司馬遼太郎は
「地図で想像していたよりも小さな入江で、左手の小さな岬でかこわれた五百畳くらいの海面が、藻をふくんで濃くよどんでいる。」
とだけ書いていて、力が抜ける思いだったようだ。

遊園地は1977年にそれほど寂れていたが、閉園したのは1996年8月31日。
司馬一行が訪れたのは3月だったから閑散期で、夏にはそこそこの入場者があったのかもしれない。
須田剋太『福田港跡』
須田剋太『福田港跡』

司馬遼太郎は入江の対岸に「福田本町」という地名の地があることが気になり、行ってみた。
集落を歩いていると「ふと宿場のような錯覚を感ずる一角がある」と書いている。
須田剋太の絵はそこで描いたものだろう。
須田剋太『福田にて只一軒古さを残す家』
須田剋太『福田にて只一軒古さを残す家』

1999年に再開発のマンションが建ち、周囲には駐車場をそなえた郊外型店舗がいくつも並んだ。
旅の計画をしているときには、レンタカーがあるうち長崎市街に入る前に福田に寄ってみようと考えていた。
でも、きのう長崎に近づいたころには返却時間が近づいてしまっていたし、遊園地からマンションにかわっていることは事前に調べてあり、風景はすっかりかわっていることが予想できたので、きのうあえて寄らなかった。
1977年に「只一軒古さを残す家」が、それから40年近く経ってあるはずはないだろう。
稲佐山の展望台で、離れた高所からにしても肉眼で福田を確認できてよかった。

降りるロープウェイに乗る。
ガイドの女性がいて、景色の解説をしてくれる。
ひととおり定型の説明がすんだところで、稲佐山の裏側に見えたのは福田かどうかたずねると、たしかに遊園地があったあとのマンションとのこと。
確かめられてよかったと思っていると、さらに右下を指さして、
「あそこに稲佐の国際墓地が」
と教えてくれる。
しかも「稲田警察のすぐそば」という補強情報も加えてもらえて、知らない街で探すにはこういう目印があるとたよりになる。
高い位置から具体的な場所を示してもらえてよかった。
その先に浦上川があり、長崎駅があるという位置関係が具体的に見てとれる。
これなら一度駅に戻ってから自転車で行けると方針が決まる。

* ロープウェイ下のバス停からバスに乗り、長崎駅に戻る。
各方面に向かうバス乗り場の端にある営業所で、予約してあった自転車に乗った。
さっきバスに乗って往復したばかりの稲佐橋をまた渡る。
稲佐警察署をめざして、さらにその先まで行くと悟真寺があった。


■ 稲佐悟真寺国際墓地(いなさ ごしんじ)
長崎市曙町6-14 tel. 095-861-2654

赤く塗った中国風の山門を入る。
本堂は日本ふう。
墓地は別にあるというので、別の門から出て墓地に向かった。
稲佐山のすそのほうの斜面に墓地がある。
階段を上がりかけたところが、須田剋太の絵のとおりだった。
3つある国際墓地のうち、最初に来たところが該当地でよかった。
あと2か所は行かずにすむ。

稲佐悟真寺(いなさ ごしんじ)国際墓地 須田剋太『長崎市中国墓地』
須田剋太『長崎市中国墓地』

しかも今日は4月8日で、たまたま清明(チェンミン)という特別な日だった。
清明は、立春とか冬至とかの二十四節気のひとつで、日本では馴染みがないが、中国では国の祝日に定められている。
気候があたたかくなり、雨季になる前の季節に、1年のあいだ風雨にさらされてきた墓を手入れし、周囲の草を刈る。(それで「掃墓節」ともいう)
すんだら供物を並べて先祖に祈る。
日本でいえば彼岸や盆の墓参りのようなものらしい。
これからあたたかくなる、過ごしやすい季節になった、外へ出よう!という、いい時期にあるから、ピクニック気分もあるようだ。
あちこちの墓にたくさんの家族がいるが、はたを通りかかるだけでも浮き浮きした感じがわかる。
いい日に来た。

* また橋を渡って東岸に戻る。
南に走って長崎港にでる。


■ 長崎港

ウォーターフロントにおしゃれなレストランがいくつもある。
船、水、対岸の山。
のんびり眺めながらランチにした。

視界の右手のほうで背の高いクレーンが何本も立って大きな工事が進行中。
長崎県庁の新庁舎の工事で、南北に細長い長崎港の北の突端になる。
東側は長崎市街地、北には長崎駅があり、街のどまんなかという位置に建つことになる。
山に囲まれた長崎港周辺の狭い土地に長崎の都市機能がつめこまれている。
長崎港ウォーターフロント

* 右に港を眺めながら自転車で気持ちよく走る。
晴れているし、暑くなく、寒くなく、快適。
やや南下したところで左に折れて坂を上がる。


■ オランダ坂


活水女子大学の前のオランダ坂

石畳の急な坂を上がる。
須田剋太が活水女子大学の前でオランダ坂を描いている。
写真では、右の階段を上がったところが大学の正門。
須田剋太『長崎市オランダ坂』
須田剋太『長崎市オランダ坂』

* 自転車で移動して、大浦天主堂の前に置く。

■ 大浦天主堂

正式名称は日本二十六聖殉教者天主堂。
拝観料をとるし、なかでは解説の音声案内が繰り返し流れている。
寺では珍しくないが、教会ではほかに例があるかどうか。
観光地になってしまったので、すぐ向かい側のような位置に新しい教会(カトリック大浦教会)を建てた。
それが司馬一行が来る前の1975年で、ここはいかにも早くから観光地として人気が高かった。

大浦天主堂 須田剋太『長崎天主堂』
須田剋太『長崎天主堂』

■ グラバー園

大浦天主堂と、グラバー邸を中心とするグラバー園は隣りあっている。
グラバー園に大浦天主堂側入口から入る。

グラバー邸 須田剋太『長崎グラバー邸』
須田剋太『長崎グラバー邸』


右の絵は、主屋を回廊が囲んでいて、上の絵と同じ建物を描いたらしく見える。
ところが実景では2階部分はない。
園内にいくつも建物があるので、見落としたかと思ってもう1周したけれど、こういう建築物はなかった。
この絵はなぞがとけなかった。
須田剋太『グラバー邸』
須田剋太『グラバー邸』

グラバー邸の中に展示されている写真に、グラバーが日光の中禅寺湖畔で鱒釣りをする写真があった。
後日、日光に行き、鱒を食べ、中禅寺湖畔の風景を楽しんだ。
→[日光でオランダの燈籠を見てグラバーの遺産を味わう-「肥前の諸街道」]

入ったときとは別なゲートを通ってグラバー園を出た。
大浦天主堂が混雑するために新築されたカトリック大浦教会の前を通って、自転車を置いた大浦天主堂に戻った。
カトリック大浦教会


時間がさかのぼるけれど、グラバー園の中で教会の尖塔2つを見おろすところがあった。
左にカトリック大浦教会。右に(2本の木にはさまれて見えにくいが)大浦天主堂。
須田剋太の『長崎風景』にやはり教会の尖塔2つがある。
ところが建物の角度が違う。
これも明快なことはわからなかった。
グラバー邸から教会

須田剋太『長崎風景』
須田剋太『長崎風景』

* 大浦天主堂から坂を下って海岸通りにでる。

■ 長崎港松が枝国際ターミナル

イタリアの大きな船がとまっていた。
朝9時に入港し、昼間観光して、夜には出ていくのだという。
長崎港 イタリア船

* 国際ターミナルの脇に小さなナガサキピースミュージアムミュージアムがあってのぞく。
長崎県美術館も近いが、今日はもう時間の余裕がないのでパス。

北へ歩いて、夕べ泊まったホテルのあたりを過ぎる。

■ 親和銀行大波止支店
長崎市五島町4-16 tel. 095-822-8151

きのう佐世保で本店を見た親和銀行の大波止支店がある。
本店と同じ白井晟一の設計による。(1963年)
中に入ってみると、道路側の壁面は弧を描いていて、壁を背にひとり座りの椅子がずらりと並んでいる。
ここも銀行らしくないところが快い。
親和銀行大波止支店

* 長崎湾を囲む丘の中腹をたどる道を北に行って聖堂に寄る。
ここが長崎での最後の寄りどころ。
このあと長崎駅からJRで佐賀に行くが、ここからその長崎駅は近い。


■ 日本二十六聖人記念聖堂 日本二十六聖人記念館
長崎市西坂町7-8 tel. 095-822-6000

長崎には何度か来ている。前に行ったところで今度も寄りたいところがいくつかあるが、あまり時間をとれないので諦めることにして、それでもここだけは寄りたいと思っていた。
1597年に豊臣秀吉の命令によって長崎で26人のカトリック信者が処刑された。
その地に、1962年に、今井兼次の設計による日本二十六聖人記念聖堂と日本二十六聖人記念館、彫刻家の舟越保武による記念碑がつくられた。

日本二十六聖人記念聖堂と 舟越保武による記念碑

近づいていくと、聖堂にはガウディを参照した2本の塔が立っている。
といって形でビックリさせようとする建築ではない。
僕はキリスト教の信者ではないが、中に入ると聖堂も記念館も悼みと祈りの気持ちがひとりでにわいてくる。
聖堂の天井は船の底のような大胆さだが、ノアの方舟を想定している。
その天井にイエスとマリアを象徴する青と赤のガラスがはめこまれている。
16世紀ころスペインで作られ、キリスト像としては国内最古といわれるものが、正面ではなく、さりげなく横の壁にある。
空間の立体的な構成だけでなく、今井兼次の建築は表面が美しく装飾されているのもみごとで、中にいて目でたどっていて、いちいち「そうだ」と沁みてくる。

* 坂を下ると長崎駅にでて、レンタサイクルを返す。
佐賀まで電車で移動する。
長崎16:20発、佐賀17:35着、特急白いかもめ4号。
長崎から博多まで1時間に2本特急が走っている。
長崎では始発なので自由席でも座れて、すいている。
あと停車駅ごとにすこしずつ乗客が増えていった。

諫早駅を出たあと、右に諫早水門が見えた。
かつて長崎空港に降り、諫早水門を経て、島原半島、天草とめぐったことがあった。→
[島原と天草のあかるい海]

佐賀駅で降りると、これから乗る人の長い列ができている。夕方の通勤時間になっていて、特急が通勤につかわれているようだ。

佐賀駅から南に出て、まっすぐ歩いていく。
道は狭くはなく、広すぎもしなくて、ちょうどいい感じ。
20分近く歩いてちょっとそれると今夜の宿がある。


● 旅館 あけぼの
佐賀市中の小路 3-10 tel. 0952-24-8181

旅館 あけぼの 長く続いている老舗の宿だが、地元では料亭としての利用が多いようだ。
今夜は宴会の予約が5組入っていて、玄関を入るとなんだかざわざわと人の出入りがある。学校、市役所、企業などの名を記した黒い板が玄関先にかかっている。年度初めの金曜日で、歓送迎会が重なっている。
泊まる人は少なそう。
これだけの団体客があるなかでひとりぶんの料理に充分な手をかけてもらえるか不安なところで、たまたま今夜は食事なしの素泊まりで予約していたのが正解だったかもしれない。

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第5日 佐賀 [三重津海軍所跡 筑後川昇開橋 デ・レーケ導流堤]

* 旅の最終日、前半は佐賀駅でレンタサイクルを借りて市街地を回った。
僕は佐賀市をめぐるのは初めてで、体育館、美術館、博物館など見ていったが、佐賀市は市街地がコンパクトで、自転車でちょうどいい感じで楽しめた。昼過ぎ駅に戻ってレンタサイクルを返し、こんどはレンタカーを借りた。
あとは郊外の川の景色をめぐりながら、夕方、佐賀空港まで走る。

筑後川が佐賀市の西方を南に流れて有明海に注いでいる。
筑後川は河口付近で早津江川が分かれていて、このあたりで
 ・分流点付近に[昇開橋]があり。
 ・西に分かれた早津江川に[三重津海軍所跡]があり、
 ・東を流れる筑後川本流に[デ・レーケ導流堤]があり、
土木的見どころが集中している。

はじめに三重津海軍所跡に向かった。


■ 三重津(みえつ)海軍所跡
佐賀市川副町大字早津江津446-1 tel. 0952-34-9455

江戸時代後期に佐賀藩が置いた海軍技術の教練所。
「明治日本の産業革命遺産」として、萩の反射炉や、軍艦島の炭坑や、釜石の橋野高炉などとセットで世界遺産に指定されている。
ここでとくに面白いのは船の修理などをするためのドライドック。
明治以後は石やレンガで作られるが、ここでは木と土により在来の工法で作られた。

三重津(みえつ)海軍所跡 有明海は潮の干満差が大きいことで知られるが、早津江川の河口に近いここも同様で、水面が大きく上下することをいかしてドックに船を出し入れした。
(写真の中央あたりがドライドック跡。発掘後、埋め戻してある。)

■ 旧国鉄佐賀線筑後川橋梁(筑後川昇開橋ちくごがわしょうかいきょう)
佐賀市諸富町大字為重石塚
tel. 0944-87-9919(筑後川昇開橋観光財団)

1935年に国鉄佐賀線が開通した。
筑後川を渡るところで、船を通すために橋の中央部が上下に動くように作られた。
1987年に国鉄佐賀線は廃止。
1996年に遊歩道になり、2003年には国の重要文化財に指定された。
橋の西は佐賀市(旧諸富町)、東は大川市。
西には「橋の駅ドロンパ」があり、車を駐められて、土産物などを売る店もある。
橋は9時から16時の間、1時間に1回、昇降する。
昇降部分の佐賀市側に昇降のための操作室があり、係の人が詰めている。
このあたりは2005年に佐賀市に合併するまでは諸富町だった。
昇降操作の人に、「僕の学生時代の友人で、諸富町出身の福島富士郎というのがいて、岡山の大学で教えている」と何となく実名をだして話したら、なんとその人は福島くんと小学校だったか中学校だったか一緒で、今年もつい最近同窓会が会って話したばかりだという。
驚いた。
筑後川昇開橋ちくごがわしょうかいきょう 筑後川昇開橋ちくごがわしょうかいきょう

(昇降する赤い橋を天草でも見たことがあった。
→[島原と天草のあかるい海]の第4日、本渡瀬戸歩道橋)

■ デ・レーケ導流堤

昇開橋のすぐ下流から筑後川の河口まで、長さ約6㎞にわたって川の中央に堤があって流れを隔てている。
有明海の干潟で知られるように、筑後川は粘っこい泥土を運んでいる。
泥土が堆積して川底が浅くなると治水に悪影響があるし、船も通りにくくなる。
位置を工夫して中央分離帯のような堤をつくり、川の左の流れを早くすると、左には泥土が堆積しなくなる。
右のほうには堆積するが、それはいいことにする。
マジックのような仕掛けだが、オランダ人技師デ・レーケの指導で1890年に完成した。
120年も経て、いまだに有効に機能しつづけている。


昇開橋から土手を下流に歩いていくと導流堤の北端が見えた。
この日の干潮時刻は15:59と調べてあった。
これから佐賀空港から帰るのだが、その前に寄るのにちょうどいい時間だった。
このあたりでも干満の差は5mほどもあり、満潮時には堤は見えなくなってしまう。
デ・レーケ導流堤 上流側

■ 河口ビューイング/筑後川

筑後川は河口付近で中津江川と分かれるのだが、分かれた2つの川の間にある中の島地形の南端まで車で行ってみた。
細い農道に車を置いて土手に上がると、導流堤の南端が見えた。
デ・レーケ導流堤 河口側

* 空港まで走ってレンタカーを返す。
もう車を運転しなくていいので、空港のレストランで生ビールを飲みながら早い夕食。


■ 佐賀空港から羽田空港

羽田行きの便は日が沈んだころ離陸した。
左の座席に座っていると、さっき目前に見てきたばかりの導流堤が見えた。
司馬遼太郎は平戸でオランダ人が関わった商館や塀や井戸をめぐったところでこう書いている。
 この地上で、オランダ人ほどけなげな民族はないかもしれない。海面より低い地面に住み、海から土地を守るために何世紀も堤防を築きつづけてきた。国土をさえ造成したのである。
そういう歴史の蓄積があって、19世紀末のオランダ人技師デ・レーケによる筑後川の導流堤にもいたっているということだろう。
「肥前の諸街道」の旅の終わりにふさわしい眺めだった。

筑後川河口+デ・レーケ導流堤

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参考:

  • 『街道をゆく 11』「肥前の諸街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1979
  • 『日本の絵巻13 蒙古襲来絵詞』 小松茂美編 中央公論社 1988
    『世界歴史シリーズ12モンゴル帝国』 鈴木勤編 世界文化社
    『平戸 人と歴史』 藤浦洸/文 井上博道/写真 淡交新社 1967
    『モンタヌス日本誌』 アルノルドゥス・モンタヌス 和田万吉/訳 丙午出版社 1924
    『長崎古版画』 野々上慶一 三彩社 1970
    『長崎を開いた人-コスメ・デ・トーレスの生涯』 結城了悟 サンパウロ 2007
    『二十六聖人と長崎物語』 結城了悟 聖母の騎士社 2002
    『船の歴史 第1巻 古代中世編』 上野喜一郎 天然社 1952
  • 『音成三男写真集 わが心の風景 有明海』 佐賀新聞社 1996
    『悲劇の洋画家 青木繁 伝』 渡辺洋 小学館文庫 2003
  • 『ゼンリンの住宅地図 平戸市・北松浦郡生月町 [1978]』 善隣出版社 1978
    『ゼンリンの住宅地図 長崎市(南部) [1978]』 善隣出版社 1977
  • 4泊5日の行程 (2016.4/5-9)
    (→電車 -レンタカー =バス ~ロープウェイ ▷自転車 …徒歩 >飛行機)
    第1日 羽田空港>佐賀空港-野の花学園・蒙古塚-虹の松原-唐津シーサイドホテル…松浦川(河口ウォッチング)…旅館洋々閣…唐津シーサイドホテル
    第2日 -呼子港-佐賀県立名護屋城博物館-外津浦-玄海エネルギーパーク-平戸大橋-国際観光ホテル旗松亭…松浦史料博物館…平戸教会…印山寺屋敷…平戸市観光交通ターミナル(平戸桟橋)…篠崎海産物店…平戸オランダ商館-オランダ坂…国際観光ホテル旗松亭
    第3日 石岳-親和銀行本店…玉屋-佐世保港フェリーターミナル・佐世保川(河口ウォッチング)-旧佐世保無線電信所(針尾送信所)-長崎県立西海橋公園-横瀬-コンフォートホテル長崎
    第4日 …長崎駅=ロープウェイ前…淵神社~稲佐岳~淵神社…ロープウェイ前=長崎駅▷稲佐悟真寺国際墓地▷長崎港▷オランダ坂▷大浦天主堂・グラバー園▷ナガサキピースミュージアム▷長崎港国際ターミナル▷親和銀行大波止支店▷長崎市立図書館▷日本二十六聖人記念聖堂・日本二十六聖人記念館▷長崎駅→佐賀駅…旅館あけぼの
    第5日 …佐賀駅▷市村記念体育館▷佐賀県立図書館▷佐賀県立博物館・美術館▷佐賀大学美術館▷大隈記念館▷かごしま▷佐賀市歴史民俗館▷佐賀駅-三重津海軍所跡・佐野常民記念館-旧国鉄佐賀線筑後川橋梁(筑後川昇開橋)-デ・レーケ導流堤・筑後川(河口ウォッチング)-佐賀空港>羽田空港