壱岐の博物館と対馬のレストラン


『街道をゆく』「13壱岐・対馬の道」の旅で1977年に壱岐を訪れたとき、道をたずねたのがきっかけで司馬遼太郎は教育委員会の若い職員が歴史ある島の文化を熱心に吸収しているのに出会っている。その職員はのちの2010年に、壱岐の文化財展示だけでなく島おこしも担って一支国博物館が開館したとき、初代館長に就任した。『街道をゆく』のいくつもの旅のなかでも、こういう劇的な展開は珍しい。
壱岐ではその須藤資隆館長に島を一周して案内していただき、楽しい旅になった。(その後、須藤館長の講演があるのにあわせて2度目の壱岐への旅をした→[日本最古の船着き場からその河口へ-「壱岐・対馬の道」2] )

対馬では「壱岐・対馬の道」の最後をしめくくるように印象的な女性のことが書かれている。この女性は司馬遼太郎が文章に書き、須田剋太が挿絵に描いてもいる。
そのレストランに行って食事をすると、たばこをくわえた司馬と女性とが一緒に写った写真を見せてもらった。『街道をゆく』の挿絵の地をたどっていて、旅先の人について文と絵と写真がそろっているのは初めてだった。

第1日 対馬空港から対馬北端へ [対馬空港 天神多久頭魂神社 佐護川 鰐浦 韓国展望所 佐須奈湾 レストランかっぽれ はら旅館(泊)]  
第2日 対馬を南下して郷ノ浦 [志多留 海神神社 和多都美神社 烏帽子岳展望台 西漕手 阿麻氐留神社 万関橋 大船越 万松院 長崎県立対馬歴史民俗資料館 厳原港 対馬市交流センター ホテルベルフォーレ(泊)] 
第3日 壱岐に渡り一周 [一支国博物館 唐人神・印通寺浦 津の宮 雪連宅満の墓 岳ノ辻 久間水産 国分寺跡 百田鮮魚店 壱岐風土記の丘 曾良の墓 朝鮮通信使迎接所神皇寺跡 勝本港 カラカミ遺跡 月読神社 天の川酒造 郷ノ浦港 壱岐交通ホテル アイランド壹岐2号館(泊)]
第4日 壱岐から福岡空港 [小崎港・和多津美神社 壱岐文化ホール 壱岐空港 聖母宮 福岡アジア美術館] 

『街道をゆく』の取材で、司馬遼太郎一行は福岡空港から壱岐空港へ空路で行き、壱岐から対馬へは船で渡った。(対馬からの帰路は書かれていない)
僕は遠いほうの対馬を先に行くことにして、長崎空港から対馬空港へ空から入り、壱岐、福岡と船で戻ってくる行程にした。

第1日 対馬空港から対馬北端へ [対馬空港 天神多久頭魂神社 佐護川 鰐浦 韓国展望所 佐須奈湾 レストランかっぽれ はら旅館(泊)]

* 羽田から長崎に向かう便は、帰りに寄港することになる博多港の上空を飛んで、海の中道や能古島が見えた。


長崎空港から対馬への飛行機はDHC8-200という定員42人のプロペラ機。
海と複雑な海岸線をみおろして、30分ほどで対馬空港に降りる。
長崎空港から対馬空港 DHC8-200

対馬空港に降りてレンタカーの営業所までの送迎の車に乗る。
対馬には屋根に石をのせた民家があるときいていたが、営業所に向かう途中でさっそく1軒見かけた。
運転手さんにきくと、「あれは観光用のモデルハウス」とのこと。
いきなりあるなんてうますぎる話で、まあそんなもんだろうかと思う。
「今日は黄砂が少ない」ともいう。
大陸への近さを思う。

レンタカーを借りて、北に走る。
対馬は南北に細長く、空港は中央よりやや南にある。
今日は北の先端部まで行ってしまって、途中の見どころは明日寄りながら南下する。
対馬は全体が主に山地で、南北に82kmほどある細長い島だが、国道382号線が縦に貫いている。
北の端は、南北方向に比べて短いながらも東西に15kmほどあり、その西の辺にかなり近づいたあたりで382号線をそれて佐護湾に向かっていく。
佐護の港の手前で、両側に水田があるなかを直線道路が貫いている。
その直線がとても目に新鮮で、ここまでずっとそうではない道ばかりだったと今さら気がつく。


対馬 佐護野


須田剋太『佐護野水田地帯』
須田剋太『佐護野水田地帯』

■ 天神多久頭魂神社
(あめのたくづだまじんじゃorてんじんたくづだまじんじゃ)
長崎県対馬市上県町佐護 286

「鳥居+参道」のセットが2方向にあり、それぞれの先にご神体の山があって、社殿がない。
原始的でおおらかで、人工的なものがまとわりついていない、こういう祈りの場はいいものだと思う。
天神多久頭魂神社

天神多久頭魂神社

須田剋太『天神多久頭魂神社(A)』

須田剋太『天神多久頭魂神社(A)』

■ 河口ビューイング/佐護川

神社の前から佐護川に沿って歩いていくと、河口に佐護港がある。
左岸の途中に「新羅国司毛麻利叱智朴堤上公殉国之碑」がある。
5世紀に日朝でトラブルがあったときに日本で亡くなった新羅の役人を悼んで1988年に建てられた。
その役人の名が、日本の資料では毛麻利叱智(もまりしち)、朝鮮の資料では
朴堤上(パク・ジェサン)という。


碑の建立に関わった人の氏名も刻まれているが、朝鮮の人名に混じって永留久恵(ながとめひさえ)氏の名もある。
永留氏は、対馬の古代史研究者で、1977年の『街道をゆく』の旅にも同行し、須田剋太が描いてもいる人だ。
須田剋太『対馬街頭永留久恵氏』
須田剋太『対馬街頭永留久恵氏』

港の先端には防波堤があり、さらにその上部には頑丈そうな網が設けてある。
網も波を防ぐのに効果があるのだろうか。
さらに防波堤の外側にはテトラポットが置かれている。

河口ウォッチング:佐護川河口

佐護港から佐護湾を隔てた対岸に千俵蒔山(せんびょうまきやま)がある。
『街道をゆく』の旅に同行していた金達寿(キムダルス)氏らは、以前、朝鮮半島の釜山を展望するためにこの山に登ったことを『対馬まで』に書いている。
7世紀に白村江の戦いがあってから、防人の制がつくられ、千俵蒔山には緊急事態を知らせるためののろし台が設けられていた。 

* 今夜は佐須奈に宿を予約してあるが、いったん通りすぎて、島のほとんど最北端に到る。

■ 鰐浦集落

島の西側を北に向かっていた国道182号線が、島の最北端付近で折り返して南東に向かうようになる。
その折り返し点近くで、細い道にそれて海岸に向かうと鰐浦港がある。
そこにヒトツバタゴという花があり、今ごろちょうどいい時期だと、旅に出る前に教えてくれる人があった。
ヒトツバタゴは、中国、台湾、朝鮮半島にあり、日本では対馬、岐阜県と愛知県の一部にだけあるという珍しい分布形態をしている。

鰐浦

鰐浦の小屋
対馬のなかでも鰐浦には、約3000本が自生していて、国の天然記念物に指定されている。
花がふつうの花のようではないので、「なんじゃもんじゃ」という名もあるという。
着いてみると、白い花が咲いているはずの岸辺の森は緑一色。
遅かったようだ。

波止場の近くに小屋が並んでいる。
住居が密集しているので、火災が起きたらたくさんの家が致命的な被害を受けてしまう。
住居とは別に小屋を置き、資材を分散しておいたり、緊急時の避難場所にもなる。
ふだんは作業用にも使われ、そのため小屋の前には共同の広場があって、漁網の手入れなどに使われた。

手押し車をおしてくる女性を見かけて話をきかせてもらった。
ヒトツバタゴは今年は「うすかった」という。
うすいというのは、花が少ないということだろう。
5月3日がヒトツバタゴの祭だったが、前日の2日に大風が吹き、すっかり散ってしまった。
このあたりの暮らしは半農半漁。木々が繁った崖が海に迫っていて、農地があるように思えないので、そのことをきくと、農は大浦とかまで行ってするのだという。(あとで地図を見ると、大浦は鰐浦の南にあった。)
小屋の屋根は瓦だが、さらに石がのっていることもある。
石をのせるのが本来ふつうの形で、瓦がとぶほどの風が吹く。
小屋は一家で3つとか、5つとか持っている。
病気になったり、継ぐ者がいないとかで減っていく。
女性は自分のことを「おばちゃん」といい、ゆったりした口調で、昔語りをずっときいていたくなるようだった。
(あとで気がついたのだが、この話より前に撮っていた上の写真に、おばちゃんが押していた手押し車が写っていた。おばちゃんはどこから現れたのだろう?)
* 対岸の崖のうえに、赤い色が目立つ朝鮮スタイルの建築があって、車で向かった。

■ 韓国展望所
長崎県対馬市上対馬町鰐浦996

朝鮮半島を眺めるための施設で、資料も展示されている。
対馬を中心にした海図があって、釜山まで49.5km、博多港まで145kmと、対比するように線を引いてある。
博多までのほうがおよそ3倍も遠い!-と、あらためて対馬の位置を確認する。

眼下に鰐浦港。
その先に自衛隊の基地がある海栗(うに)島。
そのずっと向こうに朝鮮半島がある。
水平線上に微かにグレーをおびているのが半島のようだ。
グレーの少し上に、キラキラ輝く光の点が見える。
展望所に備え付けの双眼鏡をのぞくと、釜山の高層ビルが日の光をこちらに反射させているのが見えた。
韓国展望所 対馬

「!(おっ)な島です。対馬」とキャッチフレーズをかいた車が駐車場にとまっていた。
行政とか観光とかの関係者らしいので、たずねてみると、対馬市市民協働・自然共生課の吉田裕司さんだった。
朝鮮半島の見え具合を確認にこられていて、「きのう雨だったので、朝のうち期待して来たが見えなかった、今日3度目でようやく見えた」という。
僕ははるばる対馬まで来て、ここに長い時間はいられないし、見えなくても出直す時間はない。
かすかでも見えて運がよかった。
(遙か先に見えていた釜山に数年後行った→[港町・釜山と古都・慶州-「韓のくに紀行」])

須田剋太が描いた絵のなかで、どこかわかりにくかったのを知りたくておたずねした。
『郷士屋敷』のことで、郷士屋敷そのものは島内各所にあり、『街道をゆく』では、佐護にいるあたりの文章にでてくる。
とくに具体的に地名をあげているのは
「翌日、竹敷付近の集落を歩き、たまたま郷士屋敷の門前にさしかかったとき」とある。
ところが竹敷はずっと南の下島にあり、竹敷を訪れたときの具体的な記述はない。
そもそも『街道をゆく』の文章から判断してたどれるコースからはずれている。
『街道をゆく』の文章は対馬を北上して佐須奈で終わっているから、文章が終わったあとの帰りの行程で竹敷に寄ったのかもしれない。
そんなふうで絵と文章からでは決定的なことはわからなかったのだが、吉田さんは絵を見て「志多留ではないか」といわれた。
絵の左下が水色に塗ってあり、川のように見える。
川だとすれば、川を前にした郷士屋敷が志多留にあるとのこと。
明日、南に戻っていく途中で寄ってみようと思う。

* 来た道を引き返して、今夜の宿泊地の佐須奈に着いた。

● はら旅館
長崎県対馬市上県町佐須奈乙983 tel. 0920-84-2009

はら旅館 旅に出る前に佐須奈の宿を探していて、佐須奈港に面したこの宿に予約の電話をした。
ご主人に旅の目的を尋ねられ、『街道をゆく』をたどっていると話すと、そのとき一行が寄った店は「かっぽれ」だと教えられた。
はら旅館では、宿泊客の食事をそこから用意しているという。

話をききたいなら連絡しておいてあげようというのでお願いしてあった。
宿にいったん入って荷物をおいてから、かっぽれに夕食をとりに行った。

● 料亭&レストラン かっぽれ
長崎県対馬市上県町佐須奈乙919  tel. 0920-84-2055

『街道をゆく』の旅は、壱岐が先で、対馬はあとだった。
対馬では厳原から北上して佐須奈で遅い昼食をとった。
その昼食をとった店が「かっぽれ」で、対応したのは沢井アサエさん。
司馬遼太郎に独特な印象を残したようで、この店と人についてかなり長い記述がある。


「年少のころ、釜山へ行きましたかという意味のことをきくと、当時はろくな道がなかったため、厳原までゆくのは泊りがけだった。釜山までだとうまくゆくと日帰りだよ、という。映画見物も病院も釜山であった。(中略)
 佐須奈には朝鮮の遺跡はなにもなかったが、この人をながめていると、佐須奈まできた甲斐があったような気もした。」(『街道をゆく 13』「壱岐・対馬の道」 司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用について同じ。)
という文章で、週刊朝日の連載回数でいえば25回にわたる長い旅の記録が結ばれている。
須田剋太『佐須奈の老婦人』
須田剋太『佐須奈の老婦人』

(「朝鮮の遺跡はなにもなかったが」というのは、佐須奈港は朝鮮通信使の上陸港だったが、それをしのばせるものがなかったことをいっている。)

 かっぽれ 対馬
アサエさんは亡くなったし、店内は改装されて絵とは様子がかわっている。
今、店を切り盛りしているのは沢井裕子さん。
『街道をゆく』の一行が食事をしているときのことが記憶にあり「たいそうな人が来ている」ときかされたという。

司馬遼太郎がたばこをくわえてアサエさんと話しているのを写した写真を見せていただいた。
僕は『街道をゆく』の地をずいぶんめぐってきて、司馬遼太郎一行と直接会った人にあちこちでお会いした。
でも、こんなふうに司馬が文章に書いた人が、須田剋太の絵にも描かれていて、さらにそろって写った写真があるというのは初めてだった。

司馬遼太郎は旅先でよく食べたように、ここでも豚カツを注文した。
僕も同じものを注文し、ビールを飲みながら裕子さんに話をうかがった。
トビウオの刺身が僕には珍しかった。
僕は今日、朝鮮半島の淡い島影とビルの反射光を見たのだったが、ビルの窓枠まで見えることがあり、花火も見えるという。
対岸の異国の花火見物なんてすてきだと思う。

僕の住むところからは対馬はとても遠い。
こんな遙かな地で、ということもときたま思い浮かべながら、忘れがたい食事をした。
そのときテレビニュースで演出家の蜷川幸雄さんが亡くなったことを報じていた。
このところ具合が悪いことはきいていたが、とうとう逝かれたかと思う。
蜷川さんが主宰した高齢者劇団ゴールド・シアターを介して縁があり、そのことでも心に残る店、心に残る食事になった。

■ 佐須奈湾・金比羅神社

食事を終えて外に出ると、5月だし、西の地方ではなおさらまだ明るい。
街を散歩した。
国道は直線で佐須奈を抜けているのだが、ほぼ並行するように、ゆるくうねる細い道がある。
国道が整備される前の主要道はこちらだったかと思える道で、かっぽれも、そのゆるい道に面している。
細い川に架かる橋を越えると、金比羅神社があった。
階段を上がっていくと小さな社殿があった。
その裏には水道のための貯水槽があった。

階段を上がりきったところから正面に佐須奈港が見おろせた。
ちょうど日が沈んでいくところだった。

対馬佐須奈港 須田剋太『対馬佐須奈港』
須田剋太『対馬佐須奈港』

宿に戻る。
2階の部屋の窓をあけると、すぐ前に佐須奈湾の静かな水面がある。

 . ページ先頭へ▲
第2日 対馬を南下して郷ノ浦 [志多留 海神神社 和多都美神社 烏帽子岳展望台 西漕手 阿麻氐留神社 万関橋 大船越 万松院 長崎県立対馬歴史民俗資料館 厳原港 対馬市交流センター ホテルベルフォーレ(泊)]

* 朝食は宿でとる。簡素だがバランスがよくて1日のはじまりに十分。
食事をしているときに宿の主人とぽつりぽつりと話していると、この宿では韓国の人を断っているという。
直前にキャンセルされることがあったり、ちょっとした行きちがいなんかあったときに、言葉が通じないので苦労するという。
距離が近いと親しくもなりうるが、まさつにもなる。

今日はきのう韓国展望所で会った対馬市役所の吉田祐司さんが教えてくれた志多留にまず行ってみることにする。
南に向けて走る。
382号線をそれて西の海岸に向かう。
細い道だが、山道ではなく、未開の平坦地をぬっていくような感じになる。


■ 志多留

志多留川の細い流れの河口に集落があった。
『街道をゆく』では、郷士屋敷について、こう書いている。
 村々も、他府県にありふれた水田農村の集落のかたちをとっている。ただよく見た上でのことだが、どの小集落にも集落の二つの口をおさえこむようにして、門構え・玄関付きの屋敷がある。対馬郷士が他藩のそれと異り、農村における藩機関として監視の役目をもっていたということであろう。

須田剋太が描いた『郷士屋敷』の絵では、左下がうすく水色に塗られている。
志多留の細い川にかかる小さな橋を渡ったすぐ角の家が、絵によく似ている。
川と道の角にあって、川と道に面してりっぱな塀がつくられている。

対馬市役所の吉田さんが気づかれたように、絵の左下は川のようだし、だとすればこの絵はここ!といっていいのではと思える。

ただし須田剋太の絵に地名はない。
司馬遼太郎の文章にも志多留に行ったとは書かれていないし、382号線から数キロそれている。
須田剋太『郷士屋敷』
須田剋太『郷士屋敷』

志多留

それにしても「どの小集落にも」と書いているから文中にない集落もいくつも見ているようだし、「仁田は対馬にめずらしく良田が多い」とふれている仁田から海岸沿いの道を進めばその先にあるから、志多留に行ったことはありえそうだが、ここと断定はしがたい。

志多留 集落を歩いていると、郷士屋敷より規模は小さくなるが、石垣に囲まれた家々が建ち並んでいる。
歩いていえも人に出会わず、ひっそりしている。
夢の中で架空の街を歩いているような気さえする。

ちょっとした広さの空き地があり、独特の倉庫群が囲んでいるところもある。
現実的、観光的なことをいえば、沖縄の竹富島のように集落ごと保存して、ときに休む店があったりしてもいいくらいだ。
国道をそれてきたかいがあった。
きのう韓国展望所で会った市役所の吉田さんのおかげで、幸運だった。

* 国道に戻って南下する。
車で走っていると、ときどきツシマヤマネコに注意するよう呼びかける看板を見かける。
また海に向かってそれるていくと、海神神社がある。
ツシマヤマネコに注意

■ 海神神社(かいじんじんじゃ)
長崎県対馬市峰町木坂247

本殿は階段を上がった先にあるが、それより手前、鳥居をくぐってすぐに宝物館がある。
『街道をゆく』の一行がここを訪れたときは、同行していた永留久恵さんが手配してその鍵をあずかる人がやってきて開けてもらっている。

須田剋太『如来立像』
「宝物館-といっても小さな収蔵庫だが-に入って最初に目につくのは重文の新羅仏(銅造)である。
「如来立像」
 とのみ表示されている。八世紀の統一新羅時代のもので、みごとな円の表現といっていい。五体のふくらみと起伏が、衣文(えもん)の線の流れに化(な)って動いている。


須田剋太が描いた『如来立像』はこのことだろう。

 この如来像は私どもが海神神社で拝見してから、数ヶ月後に、奈良国立博物館の「日本仏教の源流」に出陳された。
というようなことがあったのだが、さらに2012年には韓国人グループが盗み出すという事件が起きた。
日本政府が返還を求めたが、韓国では「倭寇に略奪されたものだから韓国にあるべきもの」と主張する意見があり、国家間のデリケートな問題になった。
2015年になり、韓国検察が海神神社を「正当な権利者」と認定し、約3年ぶりで返還された。


目前にある「峰町ふるさと宝物館」は、司馬遼太郎一行が訪れたよりあとの1997年に新築されたものであることが、館の前にある碑に記してある。
コンクリートでがっちり作ってあるように見えるが、なかなかタフな窃盗団だったようだ。
海神神社 峰町ふるさと宝物館

如来立像は今ここにあるのかどうか、見せてもらえるかどうか。
社務所に人はいないし、鍵をあずかる人の住まいは近くにあると思ったのだが見まわしたところ人家はないし、諦める。

海神神社拝殿 須田剋太(わだつみ)神社拝殿』
須田剋太『海神(わだつみ)神社拝殿』

(上の須田剋太の絵では「海神」の上に小さく「わだつみ」とふりがなを付してある。『街道をゆく』の文章でも同様に、「海神」に「わだつみ」とルビがある。司馬遼太郎は同行している地元の史家の永留氏に「対馬には、ほかにもワダツミ神社がありますね」と話しかけていて、「ほかに」というのは仁位にある和多都美神社のことで、永留氏もそれを長く気にかけているらしい。
この海神神社は一般には「かいじんじんじゃ」といわれているようなのだが、読み方にしろ、歴史的由来にしろ、このあたりの区別には立ち入りがたい。)

ここの森の径(こみち)で司馬遼太郎は青木繁の『わだつみのいろこの宮』をおもいだしている。
ここを歩いている間、ずっと鳥の鳴き声がきこえていた。
「木坂野鳥の森」という案内板があり、オオルリ、キビタキ、シジュウカラなどたくさんいるらしい。

■ 御前浜


御前浜の藻小屋
海神神社からすぐ先にある海岸に、(おそらく復元の)藻小屋(もごや)がある。
海岸に漂着した藻をここに貯蔵したという。

『街道をゆく』の取材のとき、同行していた朝鮮半島出身の考古学者が、ここで巨済島が見えたという。

海岸にでてみると、巨済島は見えなかったが、足もとにハングルがかかれたプラスチック容器がたくさん転がっている。
清涼飲料くらいならまだしも、農薬の容器まであってちょっと気味がわるい。
朝鮮半島が近いことを実感するが、ロマンとともに愉快でない現実も見えてしまう。
ハングルのペットボトル

釜山の海岸には、日本語を記したペットボトルが流れ着いているだろうか?
互いに対岸からやってくるものが迷惑とは逆のものであるようだといいと思う。

■ 峰町歴史民俗資料館
対馬市峰町三根451 tel. 0920-83-0151

また国道に戻ったところで、もしかしたら如来立像はこの資料館にあるかもしれないと思って、寄ってみた。
ここで厳原にある長崎県立対馬歴史民俗資料館におさめられていると教えられたが、公開していないだろうとのこと。

* さらに南下する。
対馬本島は本来1つの島だが、中央部に細いくびれがあり、浅茅湾がくいこんでいる。
そのあたりの海岸線はとびきり複雑だが、その入り組んだひだのような入江の1つに、対馬にあるもう1つのわたづみ神社がある。


■ 長崎県
長崎県対馬市豊玉町仁位55 tel. 0920-58-1488

狭い入江~5つの鳥居~参道~本殿が、まっすぐの軸線上に並んでいる。
5つの鳥居のうち2つは海中に立っている。
いかにも海に関わる神社だが、本殿の裏手にまわりこんで、さらに先に進むと、木々に覆われた深い森のなかを細いせせらぎが流れている。
とても特異な地にある。

須田剋太『和多都美神社』
和多都美(わたづみ)神社


須田剋太『和多都美神社』

海側からかぞえて3の鳥居と4の鳥居の間を車道が横切っている。
そこにコーヒーやアイスクリームを売る移動販売車がとまっている。
メニューにはハングルが併記されている。
自転車で走る数人のグループをいくつか見かけるが、ほとんどみな韓国から来ているらしい。
社殿には、靴を履いたまま社殿にあがらないようにというハングルの注意書きがあった。(こうした注意書きはあちこちで見かけた)

■ 烏帽子岳展望台
対馬市豊玉町仁位

神社の鳥居の間を抜ける車道を上がっていくと、烏帽子岳の展望台下にちょっとした広さの駐車場がある。
そこに車を置き、山頂の小ピークにつけられたらせん状の階段をのぼりきると展望台にでる。
浅茅湾(あそうわん)にたくさんの島が点在している。

ここにも韓国の自転車グループが上がってきたが、みな階段なのに自転車をかつぎあげてくる。下の駐車場に置いては盗難の心配があるのだろうか。

浅茅湾 須田剋太『対馬浅茅湾』
須田剋太『対馬浅茅湾』

* 対馬は南北に細長いが、中ほどのところに、浅茅湾が侵入して東西が直線距離で300mほどしかないところがある。
国道382号線がカーブでふくらんでいるところに駐車スペースがある。
車を置いて、西に細い道を入っていくと、静かな水面が横たわっている。


■ 西漕手(にしのこいで)

ここは小船越というところで、海に挟まれた陸地が狭い幅しかない。
いくらかの高低差があるが、小舟はここを運んでしまい、大きな船では荷を降ろして運び、反対側の船に乗り換えた。
遣唐使も東方の本土からここに来て、西の浦に用意した船に乗り換えたという。

西漕手(にしのこいで)
その西側の船着き場を西漕手という。
静かな水たまりにそった歩道を歩いていくと、道はまもなく行き止まりになる。
水流はずっと先まで続いて、地図で確認すれば対馬の西の外海になる。

* 国道わきに「西漕手」の標識がでているところから、国道をわずかに北に歩くと、交差点があり、その角に神社がある。

■ 阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)
長崎県対馬市美津島町小船越字河岸川352
(阿麻テ留が表示されないとき「テ」は「氏」の下に「一」)

急な階段を上がると狭い境内に小さな社殿がある。
人は常駐していないので、かすかに荒れた感じがある。
まつりごとがあるときにだけつかわれているのかもしれない。
「あまてる」の名のように日をまつる神社で、一方、壱岐には月読神社がある。

阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)

上の写真は社殿を裏からみたところ。
右に小さな祠がある。
右上の写真は、その祠の正面。中に違う色の石がある。
右下はその一部拡大。北斗七星のようにみえる。何か意味があるのか、無人なのできいて確かめることができなかった。

阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)

北斗七星 あまてるじんじゃ

阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)
また階段をおりかけたところで東の海の水面が見えた。
この神社のある崖の背面がさっき歩いた西漕手で、しかもこの神社の位置まで上がらずに抜ける道がある。
なるほどこれなら大きな労力でなく海から海へ陸を越せそうだと思う。

* 南に数キロはしると万関橋がある。

■ 万関瀬戸(まんぜきせと)・大船越(おおふなこし) 

対馬は北と南の2つの島から成るように見えるが、間が途切れているわけではなく、狭い地峡部でつながった1つながりの島だった。
船を東西に通すために、1672年に大船越瀬戸が開削された。
大船越は水深が浅かったために、1900年、軍艦を通すために旧日本海軍が新しく万関瀬戸を開鑿した。
3島に分離したことになるが、万関瀬戸より北部を上島(かみじま)、南部を下島(しもじま)とよんでいる。

北から走ってくると、はじめに万関瀬戸にかかる万関橋を渡る。

万関瀬戸

須田剋太『対馬風景万関橋上より』
須田剋太『対馬風景万関橋上より』

須田剋太『大船越堀切り』という絵があるのだが、これは万関瀬戸ではないかと思う。
大船越の両岸には人家があって、万関瀬戸のように水面から崖がすぐ立ってはいない。

万関瀬戸 須田剋太『大船越堀切り』
須田剋太『大船越堀切り』

■ 大船越

大船越

須田剋太『大船越え堀切り』 
須田剋太『大船越え堀切り』

* 大船越からはまもなく、きのうの出発点の対馬空港近くを通る。
さらに南下すると、下島の中央あたり、対馬市役所がある中心地の厳原に入る。


■ 万松院(ばんしょういん)
長崎県対馬市厳原町西里192 tel. 0920-52-0984

宗家の菩提寺万松院

須田剋太『宗家の菩提寺万松院』
市役所と対馬歴史民俗資料館の間に、こんな道を車で進入していっていいのだろうかとためらうような奥まった印象の道がある。
スピードを落として進むと万松院に突き当たる。
そこから先は、あるいは車でも行けるのかもしれないが、ふつうに人が住む区域を出はずれてしまうようだ。
そういう市街の際(きわ)の位置に、対馬藩主だった宗家の菩提寺万松院がある。

須田剋太『宗家の菩提寺万松院』

■ 長崎県立対馬歴史民俗資料館
長崎県対馬市厳原町今屋敷668番地1 tel. 0920-52-3687

長崎県立対馬歴史民俗資料館 万松院から市街に戻ると右に市役所、左に金石城跡と長崎県立対馬歴史民俗資料館といったぐあいで、対馬市の中心地になる。
1977年に開館した対馬歴史民俗資料館には、宗家文書、朝鮮通信使資料など、貴重な資料が多数ある。

かつて、すぐ近くに厳原町郷土館があった。
ここで司馬遼太郎がガラスケースの中の資料をカメラで撮ろうとして、「写真はいけません。と受付の老人に叱られてしまった。」ということがあった。
今は郷土館は閉館し、建物もない。

対馬市では新しい「対馬博物館(仮称)」の建設準備を進めている。
長崎県立の資料館が老朽化しているので、県の「対馬歴史研究センター(仮称)」に組織替えしたうえ、あわせて整備するという。
壱岐には壱岐市立一支国博物館があって、長崎県埋蔵文化財センターを併設しているから、同様の相乗り形態を想定しているのだろう。
長崎市にある長崎歴史文化博物館は、長崎県と長崎市の相乗りで、長崎県はこういう柔軟な組織づくりが得意だ。

今ある対馬歴史民俗資料館で、海神神社の如来立像のことをたずねた。
盗難事件があったため安全を確保するために緊急避難という位置づけで当館に保管されているという。自館の所有物でも管理物でもないので、公開予定はまったくないとのことで、見ることができなかった。
こういう臨時措置状態なので、所在や公開についての情報そのものがインターネットなどで調べてもなかなか見つからないということになったようだ。

* レンタカーの営業所は万松院の近くにある。厳原港の近くにあるガソリンスタンドで給油し、万松院近くまで戻って、レンタカーを返した。
対馬歴史民俗資料館の前を通って、そのすぐ先にあるホテルにチェックインしてから散歩に出た。


■ 厳原港

『街道をゆく』の取材で、司馬一行は壱岐から夜8時過ぎに着く船で厳原港に入った。
僕は明日の朝早い便で壱岐に向かう。
ホテルからの所要時間を確認したくもあって、港まで歩いてみた。
きのう韓国展望所で会った市役所の吉田さんから港は大きくかわっていて、絵と現状を比べるのは難しいだろうといわれていた。
左の写真は壱岐に向かう船が出る乗り場。
見まわしても右の絵と似た風景が見つからない。

厳原港 須田剋太『厳原港』
須田剋太『厳原港』

■ 大西書店
長崎県対馬市厳原町大手橋1042 tel. 0920-52-0278

厳原港に流れこむ水路があり、その両側が商店街になっている。

本屋があって、「宝くじ・たばこ 大西書店」と、壁にくっきり表示してある。
店の脇にたばこの自販機があり、正面には宝くじの広告チラシが大量にディスプレーされている。
そんなふうに経営を成り立たせて、中に入ると対馬の地域資料が充実している。
あれこれ眺めて2冊買った。
大西書店 対馬

■ 厳原の街

須田剋太が厳原で描いた絵が3点ある。
どれも石塀に門を構えた屋敷で、どこと特定はできなかったが、街を歩いていると似たような屋敷を見かけた。

厳原の屋敷

須田剋太『対馬厳原町(A)』 
須田剋太『対馬厳原町(A)』

古いたたずまいを残した家もあるが、解体中の家も見かけた。

右の写真ではわかりにくいが、石垣の左には作りこまれた庭があり、由緒ある旧家だったようだ。
このあと行った対馬交流センターの向かい側も、石垣で囲われた大きな邸宅があったようだが、解体され、ホテルを建てる工事が進んでいた。
厳原 解体中の屋敷

■ 対馬市交流センター
長崎県対馬市厳原町今屋敷661-3

『街道をゆく』の一行が泊まったのは対馬観光ホテルだった。
敷地内に「あらおどん」とよばれている小さい祠があったことが『街道をゆく』に書かれている。

対馬市交流センター 今はホテルはなくなって対馬市交流センターというものになり、ショッピングモールがあり、図書館も入っている。
「あらおどん」というのは万葉集にゆかりがあるようだが、万葉の時代にさかのぼるようなたしかな根拠があるわけではなく、たとえば資料館に移されるとかいう扱いはされなかったようだ。

交流センターのロビーに、ツシマヤマネコの交通事故の無事故日数を掲示してあった。
ツシマヤマネコはめったに出会えない生き物ではなくて、それで事故も少なくいらしい。
ツシマヤマネコの交通事故の無事故日数

センター内のテナントには、ハングルの案内表示がいくつもあった。

● ホテル ベルフォーレ
長崎県対馬市厳原町今屋敷660 tel. 0920-52-1301

対馬市交流センターの裏に今夜泊まるホテルがある。

ホテル ベルフォーレ前の石垣の水 センターから裏の道にまわりこんでくると、ホテルの向かい側に屋敷がある。
ホテルより高い斜面に位置していて、高いところまで塀があり、その塀の一部に石を組んだ排水口があって、水が流れ出ている。
屋敷は大きく、たいそうな家のようだから、庭も豪壮につくって水を流し、庭をめぐった水が外に流れでているのだろうと思った。
ちょうど通りかかった40代くらいの女性もこの水に目をとめて写真をとっている。

豪邸ですねえ-と声をかけてみたら、韓国からの旅行者だった。
それで身ぶり手ぶりの会話だが、自転車で旅行中で、夜はテントに寝るという。
僕はこのホテルに泊まると示すと、そんな高いところにはとても泊まれないという身振りをする。

豪華というほどのホテルではないが、新しく、ロビーや階段が明るく広々している。
シングルにしては広い部屋にダブルベッド。
ふだんホテルの予約はほとんどインターネットでするのだが、ここには直接電話した。
とても感じのいい女性が対応してくれた。
この夕方にフロントいた男性も好感で親切な人だった。
向かい側の放水する屋敷のことをきくと、庭のぜいたくではなく、崖の上部からの湧水を下に放流している、大雨のときは道のほうにまで勢いよく流れてたいへんだという。

 . ページ先頭へ▲
第3日 壱岐に渡り一周 [一支国博物館 唐人神・印通寺浦 津の宮 雪連宅満の墓 岳ノ辻 久間水産 国分寺跡 百田鮮魚店 壱岐風土記の丘 曾良の墓 朝鮮通信使迎接所神皇寺跡 勝本港 カラカミ遺跡 月読神社 天の川酒造 郷ノ浦港 壱岐交通ホテル アイランド壹岐2号館(泊)]

* 対馬の厳原港6:45発の高速船に乗る。
壱岐の芦辺港に7:50着。
(明日は芦辺港から博多港まで、また船に乗る。こういう場合、乗継割引があり、2区間あわせて1割引の7,230円だった。)
船から降りると、予約してあるレンタカー会社の人が名前を記した紙を持って迎えてくれる。

芦辺港 岸壁の駐車スペースに置いてある軽自動車に案内される。
そこで現金で支払って(こういう状況だからクレジットカードは使えない)車に乗る。
返すときはガソリンを満タンにしたうえ、同じ場所に駐車し、営業所(はどこにあるかわからない)に電話すればいい。

車のキーは車内に置いたままで、当然ドアはロックしないままになる。
おおらかで、沖縄の離島や種子島でもこんなやり方だった。

まず一支国博物館に向かった。


■ 一支国(いきこく)博物館
長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触515-1 tel. 0920-45-2731
http://www.iki-haku.jp/

僕がかつて勤務していたことがある埼玉県立近代美術館は黒川紀章の設計による建築だった。
同じ建築家による設計で2010年に一支国博物館が建った。
黒川紀章は2007年に亡くなったから日本国内で最後に手がけていた仕事で、遺作となった。
一見して記憶に残るような独特な姿をしていて、いつか行きたい(でも遠いなあ)と思っていた。『街道をゆく』に壱岐があるのはいい機会だった。

一支国博物館の館長は須藤資隆さんで、司馬遼太郎が『街道をゆく』の取材で来たとき、たまたま出会い、須藤さんが案内したということがある。
当時、須藤さんは壱岐市に合併する前の勝本町教育委員会の職員だった。
司馬遼太郎が勝本港に行ったとき、たまたま通りかかった公民館にトイレを借りに入った。
公民館に教育委員会の事務所が同居しているので、受付の窓口で朝鮮通信使を応接したという神皇寺跡はどこか尋ねると、さっと部屋をでてきて現地まで案内してくれたのが須藤さんだった。

 壱岐の北端の勝本では、旅の余録ともいうべきいい人に出くわした。たとえば須藤資隆という青年に出くわしたことなど、いま思い出しても夢の中の情景のような感じがする。(中略)
壱岐の勝本の古代から現代にいたるまでじつに豊富で堅牢な知識と、さらには自分の意見をもっていた。

司馬遼太郎は須藤青年に好意と敬意をいだき、連載の1回分をほとんど須藤青年を紹介することに費やしている。
確かな知識と行動力をかわれ、神皇寺跡だけでなくその後も同行し、最後は北の勝本町を出て南の郷ノ浦町のすしやで夕食をともにするということにもなった。
1977年に『街道をゆく』の旅に同行した人が、2010年に開館した一支国博物館の館長になっている。
こういう目覚ましい展開は、長く広範な『街道をゆく』のなかでも出色の成り行きになる。

旅の前に話を伺いたいむね須藤館長にお願いしたところ快諾されていた。
朝早い船で着き、レンタカーを借り、まだ開館前の博物館に着いた。
開館までの時間に周囲をひとまわりすると、草を被った屋上がうねっている。
周囲の地形を模したという意図がなるほどと思う。
ポコンと塔が突き出て目立っているが、全体として異質な建築物がとつぜん風景にさしこまれたような違和感がない。

一支国(いきこく)博物館

館長室でお会いすると、須藤館長が「挿絵の地は説明しただけではむずかしい、一緒にまわろう」といわれる。
ありがたいこととはいえ恐縮したが、挿絵の地は見つけるのがそうとう難しそうで、そうしてもらえればこんな確実なことはない。
僕が借りているレンタカーで外に出た。

* 一支国博物館は、ごく大雑把に壱岐島を円形の時計盤に見立てれば、4時の位置にある。
はじめに5時の位置にある印通寺港に向かった。
(そのあと、おおむね時計回りに回って博物館に戻る。)


■ 唐人神(とうじんがみ)・印通寺浦(いんどうじうら)
長崎県壱岐市石田町池田東触

印通寺港の西に唐人神がある。
石垣を組んで少しだけ高くなったところが、木々で囲まれ、特別な場所になっている。
低い鳥居をくぐって短いスロープをあがると、小さな祠がいくつか並んでいる。
中世のころ、若い唐人の下半身が流れ着き、それを漁師が祀ったのが起源という。
なぜ下半身だけなのか、残酷でもあり、エロチックでもある気がする。
後代、やはり下半身の威力で、セックスに関わるご利益が期待されるようになって、良縁とか安産とかの信仰対象になった。

中央の祠は古いものだろうけれど、左に石の男根、右に木製の女性の下半身像が置かれている。
女性像のほうは、二股に分かれた木の全体を白く着色したうえ、分かれ目のところだけなまなましい赤い色に塗っている。
壱岐の古い遺跡というより秘宝館のようで、気持ちが引く感じもあるが、こんなふうに信仰心が生きているともいえるかもと考えたり、とまどった。
唐人神(とうじんがみ)

須田剋太『壱岐島唐人神』

右の絵の坂を上がったところに、上の写真の祠がある。
須田剋太『壱岐島唐人神』

上の絵にある坂を向こうから下ってきたところ。
まっすぐ対岸あたりに印通寺港があり、フェリーターミナルからは唐津との便がある。
鳥居には「昭和62年7月吉日建立」とある。
昭和52年に須田剋太が来て描いたときには鳥居がなかった。
唐人神(とうじんがみ)

須田剋太『壱岐印通寺浦』 須田剋太『壱岐印通寺浦』

* 西へ郷ノ浦方向へ走って1kmもしないで、道が左にカーブしおえたところで津の宮がある。

■ 津の宮
長崎県壱岐市石田町池田西触19

両側を家にはさまれ、大きな木が空をさえぎっている根方にひっそりとお宮がある。
「壱岐の銘木・巨樹 ホルトノキ」と記した柱が立っている。
ちょうど氏子の方が通りかかって、須藤さんと話をされていた。
あとでうかがうと、氏子の1人が亡くなられたという。
もとから少ない氏子で宮を維持しているのに、また減ることは痛手になる。

須藤さんによると『住吉神社』と題されている絵はここだという。
2段階の鳥居と階段が、たしかにそのとおり一致する。
住吉神社というのが壱岐に実在はするのだが、社殿は鳥居から階段を降りて石橋を渡った先にあり、鳥居からはほぼ同じ高さに見えている。
この絵のように階段を上がった先のやや高い位置に社殿があるふうではなく、住吉神社である可能性はない。

津の宮

須田剋太『住吉神社』
須田剋太『住吉神社』

(『街道をゆく』の挿絵は、ほぼ全点を須田剋太が大阪府に寄贈した。
大阪府では作品管理上タイトルを付している。
須田剋太が画中に文字を記してあれば、ふつうそれがタイトルになり、文字がなければ『街道をゆく』の文章から判断して付されている。
この絵では、画中に『優通駅』という文字があるのに『住吉神社』というタイトルが付いている。この絵が載ったときの『街道をゆく』の文章に住吉神社はなく、なぜこういうタイトルが付されたかは不明。)

ここは須藤さんに案内してもらわなければ見つからないところだった。
あとで場所を確認できるように、カーナビの画面をデジカメで撮った。

* 同じ道をまた郷ノ浦方面に、また1kmも行かないうちに次の目的地があった。
右に大きく鋭角に(戻るような具合に)曲がり、「壱岐四国八十八カ所霊場 第五十二番 石田峰大師堂」という小屋くらいのお堂の前に車を置く。
(軽自動車なので奥まで入りこんだが、ふつうには鋭角の曲がり角が「池田憩いの広場」の駐車場になっている。)


■ 雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の墳墓
長崎県壱岐市石田町本村触1-1

石田峰大師堂から、畑のなかの道をウネウネ歩いていくと、木がこんもり繁ったところに入る。
壱岐市教育委員会が制作した案内板が立っている。
雪連宅満は、736年、聖武天皇のころの遣新羅使のひとりで、その解説には、
京都松尾社で月読命(つきよみのみこと)を祀る家系で、卜占(ぼくせん)の特技を持っていたことから、航海の安全(吉凶)を占う持斎(じさい)として一行に加わったものと思われる。
とある。
航海の途中で病み、先祖の出身地である壱岐で亡くなった。
この塚が土地の古老から「遣唐使の墓」「官人の墓」として伝わっていたというのだが、その伝承以上の確たる根拠はないらしい。

雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の墳墓

雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)の墳墓
須田剋太『壱岐雪連宅満之墓』
須田剋太『壱岐雪連宅満之墓』

木がこんもり繁った右に、小さな塚があり、上に小さな石の組み合わせがのっている。
須田剋太の絵では、大きな石塔の前に、お供えをする椀らしきものがあり、整備されているように見える。
須藤さんによれば、かつては絵の印象のような大きな石があったとのことで、それがどういう事情か失われているようだ。
今、現地で目前にあるのは、塚の上の小さな石の積み重ねだけで、周囲も草が茂って荒れかけている。

雪連宅満の死を悼む歌が万葉集にある。
 石田(いわた)野に宿りするきみ 家人のいづらとわれを 問はばいかに言わむ
旅に出る前に調べたところでは、さっき行った印通寺裏より東に万葉公園があり、その中にその歌を刻んだ碑があるらしい。
須藤さんに案内してもらわなければ、万葉公園にだけ行って、こちらにはたどり着かなかったろう。

* 今度はやや長く3.5km走って、南に向かう道にそれた。
時計でいえば6時の位置に着く。


■ 岳ノ辻

岳ノ辻 須田剋太『壱岐島岳ノ辻展望台より釈迢空歌碑』
須田剋太『壱岐島岳ノ辻展望台より釈迢空歌碑』

岳ノ辻は壱岐の最高峰で標高213mある。
それでNHKなどの通信用の塔が建っているし、展望台からは海と山の広い眺めが展開して見える。


NHKの施設の前に釈迢空の歌碑がある。

葛の花踏みしだかれて色あたらし この山道をゆきし人あり

釈迢空は1921年と24年に壱岐に来て、この句を詠んだ。
歌碑は1977年に建っている。
釈迢空の歌碑

近くにもう1つ石碑がある。
松坂直美という壱岐出身の作詞家のもので、『玄海ワルツ』の歌詞が3番まで記してある。
壱岐の小中学校の校歌もいくつか残している。
この石碑は1997年に建っている。

須藤さんによると、釈迢空の歌碑は、いま松坂直美の碑があるところに元はあったという。
須田剋太が来たのは1977年だから、いま松坂直美の碑があるところに釈迢空の碑が建ったばかりのときに見たことになる。
絵の中に「壱岐島岳ノ辻展望台より釈迢空歌碑」という文字がある。
展望台から見える歌碑を描いたかのようだが、そういうことではない。

* また西に走って郷ノ浦地区にはいる。

■ 久間水産 (くますいさん)
長崎県壱岐市郷ノ浦町郷ノ浦196 tel. 0920-47-0245

『壱岐島郷の浦港』の絵では、左端にある建物に「久間水産」という文字がある。
郷ノ浦港の水路の近くに今も久間水産があった。
右上に見える社は金毘羅神社。

久間水産


須田剋太『壱岐島郷の浦港』
須田剋太『壱岐島郷の浦港』

■ 壱岐交通ホテル

市街中心部、三叉路の近くに廃業したホテルがある。
ここに『街道をゆく』の取材一行が泊まったと須藤さんに教えられた。
通りから見える正面はさほどの大きさではないが、奥に深くあって、島の大きさからするとずいぶん大規模なホテルだったようだ。

壱岐交通の沿革をWikipediaでみると
1971年  ボウリング場・レストラン・宴会場・バスターミナルを一体化した商業施設を郷ノ浦町本町に開業
1972年 前年開業の商業施設に宿泊施設を建て増しし、「壱岐交通ホテル」を開業
2006年 壱岐交通ホテルを廃業


ホテルはもう10年間、閉まったままであるようだ。
『街道をゆく』の取材のとき、ホテルの若い支配人が「いいコーヒーの店がある」と案内した。
経営者がかわったが、店は今もあるという。
郷ノ浦の埠頭の近くで食事したというすしやは、今はないという。
壱岐交通ホテル

* 島の南部を東から西へ走ってきたが、ここから北に向かう。
島のほぼ中央に国分寺跡がある。


■ 国分寺跡
長崎県壱岐市芦辺町国分本村触

国分寺跡は道からそれたところにあり、数個の礎石が残っている。
道に面した小公園のようなところに絵にある柱が立っている。
「顎掛け石」といって、中ほど、大人の顎がかかるくらいの位置に、意味不明の刻みがある。上には六面十二菩薩の仏塔が乗っている。
絵に「へそ石」という文字がある。
「顎掛け石」のとなりにあり、壱岐の中心の道標だったという。

へそ石と顎掛け石

須田剋太『国分寺跡』
須田剋太『国分寺跡』

● 百田鮮魚店
長崎県壱岐市芦辺町国分本村触1365 tel. 0920-45-3432

司馬遼太郎は国分寺跡をたずねたあと、道の向かい側のよろず屋に入って、飲みものを買った。そこで
豆腐も売っていることを知った。豆腐は琺瑯(ほうろう)びきの容器に二丁分しか残っていなかったから、今日のぶんはほぼ売り切れたのであろう。この二丁の豆腐を念のために写真に撮った。いまこの稿を書きながらながめると、質感がチーズのようで、ひどく固そうである。
このあと、土佐の高知や朝鮮の豆腐が固いというような記述がしばらく続く。

僕らも国分寺跡を眺めたあと、道に戻ったのだが、須藤さんが「今も司馬遼太郎先生が訪れたその店がある」と言うので驚いた。
入ってみると、琺瑯びきの容器ではなかったが、今も豆腐を売っていて、写真を撮らせてもらった。

表に店名がないのだが、脇の壁に大きく「百田鮮魚店」とあった。
電話の「3432」は、たまたまそういう番号をふられたのか、特注なのか、「さしみに」という語呂合わせにしている。

百田鮮魚店 豆腐

* さらに北に走る。

■ 壱岐風土記の丘 古墳館・古民家園
長崎県壱岐市勝本町布木触324-1 tel.0920-43-0809

須田剋太はここで2枚の絵を描いている。
『壱岐百姓家』には数戸の建物があり、手前に一行6人の姿がある。
『郷士屋敷』とだけ文字が記された絵は、対馬でもどこかわかりにくかった。
須藤さんから、この『郷士屋敷』は、『壱岐百姓家』に描かれている奥の大きな家のことだと教えられた。
連載では「豆腐譚」と題した回の挿絵につかわれていて、なるほど行程的にもあっている。

壱岐風土記の丘 古墳館・古民家園 須田剋太『郷土屋敷』
須田剋太『郷土屋敷』

「壱岐風土記の丘」は1990年に整備されたもので、『壱岐百姓家』『郷士屋敷』に描かれた建物は今あるのとは違うところから移築された。
須田剋太は移築前、本来あったところ(勝本町新城西触)で描いた。

* 壱岐島のほとんど最北端に勝本港がある。
壱岐の時計でいえば12時あたり。
南から港を見おろすように城山がある。


■ 曾良の墓
長崎県壱岐市勝本町坂本触


駐車場に車を置いて、山道を上がる。
港を見おろす斜面の狭い墓地に曾良の墓があった。
俳人、河合曽良は、1710年に巡見使としてこの地を訪れ、病になり、亡くなった。
墓は上半分が欠けている。
曾良の墓

下っていく道の途中から港を見おろす。

壱岐勝本町城山公園から勝本港

須田剋太『壱岐勝本町城山公園ヨリ』
須田剋太『壱岐勝本町城山公園ヨリ』

■ 朝鮮通信使迎接所神皇寺跡
長崎県壱岐市勝本町坂本西触

細い直線の道の両側にほぼ同じ大きさの家が密集している。
庭とか駐車場とかの余裕がなく、建物が壁を接するように並んでいて、港町らしい風情が漂っている。

朝鮮通信使迎接所神皇寺跡 そのうちの1つ分が、「壱岐四国八十八カ所霊場 第八十六番 阿弥陀堂」で、かつて朝鮮通信使の壱岐での宿泊地だったところ。
朝鮮通信使は朝鮮国からの外交使節団で、1607年から1811年までに計12回の往復があった。

壱岐での迎賓館がここにあったわけだが、その後に神皇寺になり、今はこういうかすかな痕跡だけになっている。
中は一室空間で、正面に仏壇と賽銭箱がある。
司馬遼太郎がきたとき、
 風情があったのは、仏壇の前、それも左はしに、仏たちの宿直(とのい)をしているように、三人の老婦人が、一つの瀬戸物火鉢をかこんで、それぞれ小さくうずくまっていたことであった。あいさつをすると、いっせいに笑顔になって、あいさつを返してくれた。
僕が行ったときは右はしに瀬戸物火鉢があった。
ひんぱんに更新するようなものではないから、同じものではないだろうか。

そのとき須藤青年が鍵をあずかる人に連絡して秘仏の阿弥陀仏を見せている。

「 通信使の宿館の跡に統一新羅の仏がいまなお安置されているというのは、人情の手厚いこの土地の伝統と決して無縁ではない。仏と同郷の李進煕(リジンヒ)氏が、身を横たおしにし、頬を畳にくっつけて、この仏を見た。仏は、五体・蓮台ともに一鋳(いっちゅう)である。一鋳であることが、かえって豪宕(ごうとう)な感じをあたえる。」
須田剋太『神皇寺跡の秘仏』
須田剋太『神皇寺跡の秘仏』

連載のこのときの回をそう結んでいて、須藤青年、鍵を開けてくれた人、そのとき居合わせた3人の老婦人への敬意がこもっているように感じる。
ここは今も地域の主に老人が思い思いにやってきて話しなどする寄合所のように使われているということだった。

■ 勝本港

勝本港は北に開いてUの字形をしている。
Uの字の左上先端あたりにある朝鮮通信使迎接所神皇寺跡に先に行ったが、勝本港の中心部のUの字の底に戻ってくる。

ここはもと勝本町の中心部でもあった。
(壱岐市は2004年に壱岐郡の郷ノ浦町・勝本町・芦辺町・石田町の全4町が合併してできた。)
司馬遼太郎が須藤青年に出会ったのは、須藤青年が勝本町教育委員会の職員だったころだった。
当時は公民館の中に勝本町教育委員会の事務所があった。
今は壱岐市役所勝本支所がおかれている。
このあたりは特に須藤さんには親しいところになる。

勝本港 須田剋太『壱岐勝本港イカツリ船』
須田剋太『壱岐勝本港イカツリ船』

勝本で描いたあと2枚の絵も、この近くであることを須藤さんに教えられた。

● 原田酒造
長崎県壱岐市勝本町勝本浦251 tel. 0920-42-0010


須田剋太『壱岐勝本町』 では、左の家に「酒」の文字がある。
ここには原田酒造があり、「蔦の寿醸造元」の看板がかかっている。
1984年に壱岐島内の酒造会社6事業所が共同して「壱岐焼酎協業組合」を設立。さらに2010年に壱岐の蔵酒造株式会社にかわっている。
新会社は芦辺町にあり、勝本の原田酒造は小売店舗として営業しているようだ。

絵の右にある家も風情があるが、その家に隠れた向こう隣には「つたや旅館」がある。
今は廃業しているが、珍しい木造3階建ての旅館で、使われないまま荒れかけているのが惜しい。
原田酒造

須田剋太『壱岐勝本町』
須田剋太『壱岐勝本町』

勝本町

須田剋太『勝本町にて』
須田剋太『勝本町にて』

もう1枚、『勝本町にて』は須藤さんによるとほぼ同じ地点から、通りの反対方向を描いている。
絵には「資生堂化粧品」「UCCコーヒー」の文字が見えるが、今はない。
右にある家は永田医院だったが、火災で焼失したという。
今は「エム・マート」というスーパーマーケットふうの外装の店があるが、それも廃業してちょっとした月日が経っていそう。

あと、須田剋太の絵に描かれてはいないが、「うどん」というのれんがかかった店で食事したと文章にある。
その店は今はないという。 

* また南に走る。
国分寺跡近くまで南下して、南北縦貫道を西にそれる。
複雑な起伏を持つ丘陵地になっていて、畑地と森が混じっている。


■ カラカミ遺跡
長崎県壱岐市勝本町立石東触字カラカミ・国柳・川久保

須田剋太の絵には『加良香美神社』とあるが、ふつうには「カラカミ遺跡」とされるところを目指している。
ところが、丘の起伏をぬう道を行く途中で、須藤さんが車をとめるようにというので、路肩にとめた。
降りて見まわすととりとめない田園風景が広がっている。
須田剋太の絵に『壱岐風景』とだけ記した絵があり、石塔が4つ、道ばたに立っている。

須田剋太『壱岐風景』
須田剋太『壱岐風景』

ここがその場所というところに来ているのだが、あるはずの石塔がない。
須藤さんも、どうしたことだろうという感じで、あちこち眺めてとまどっていられる。
道から畑におりる階段が斜面に刻まれているのに気がついて降りてみると、あった!
コンクリート製の施設の中に、石塔がおさまっている。

カラカミ遺跡の近くの水神 カラカミ遺跡の近くの水神

司馬遼太郎一行が訪れたときは、工事中に発見された石塔が1か所に集められて絵のようにあった。
その後、このあたりの畑の所有者が、道ばたに置くより安全と考えて保護する施設をつくって移したのかもしれない。

『街道をゆく』の一行がこのあたりを歩いたとき、おかしなことがあった。
 道路は普請中であった。いま作業の休憩中であるらしく、ブルドーザーが無人のまま路傍にとまっていた。赤黒いような土が機械力で掘りかえされ、無限軌道の跡が大きな縄目(なわめ)のようにふかぶかと刻まれている。
「李進煕さん」
 と、須田画伯は顔色を変えていた。
「ごらんなさい。これが縄文遺跡です」
「…はい」
 この考古学者は、当惑しているようであった。ブルドーザーの跡ではないか。が、かれは年長者に対する礼の厚い人で、須田画伯を敬愛してもいたから、むげにはさからえなかった。
「そうでしょうか」
 と、くびだけはひねった。なかなかできない礼節の所作である。

常識からはずれて思いこみにのめりこみかねない須田剋太の個性がいかにもうかがえる。(須田剋太が若く、舗装道路がめずらしかった頃、その質感を確かめたくて道路の一部を欠き、警察の世話になったという昔話も思い出した。)

ときたまブルドーザーが通ることがあるとすれば、あるいはトラクターが通ることもあるだろうし、道の下のコンクリート容器に収めてあれば傷める心配がない。
それにしても、ここも須藤さんに同行してもらわなければ見つけられないところだった。
なにかしら目印になるようなもののない丘陵の途中地だし、仮に地図上で特定できてここに立つことができたとしても、途方に暮れたことだろう。
車に戻ってから、またここもカーナビの画面をデジカメで撮った。、

少し先にカラカミ遺跡があった。
弥生時代の土器のほか、鯨の骨をつかった漁撈具、イノシシやシカの肩甲骨を灼いた占いのための骨、鉄製品など、多様な出土品がでている。
高地に環濠を巡らした高地性の環濠集落という特色もあり、朝鮮半島系の土器もあり、考古学的に重要なところであるようだ。

カラカミ遺跡

須田剋太『加良香美神社』
須田剋太『加良香美神社』

* ひととおり須田剋太が描いた地をまわりおえて、あとは一支国博物館に戻るのだが、最後に国分寺跡に近い月読神社に寄った。

■ 月読神社
長崎県壱岐市芦辺町国分東触464 tel. 0920-45-4145

司馬遼太郎の文章にも須田剋太の絵にもないところだが、茨木孝雄という天文民俗学の人が僕の友人で、日と月と星(星はとくに北斗七星)に関心を持っている。
僕もいくらか引きずられていて、対馬では阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ) を見てきた。
それと対になる壱岐の月読神社もどんなところか見ておこうと思った。

友人は40年ほど前になるか、新婚旅行で壱岐にきて、月読神社に来たことがある。海が荒れて新婚の妻ともども船酔いし、たいへんな思いをしたという。
月読神社に向かう車の中で、須藤さんにその話をすると、その頃に月読神社に関心をもってわざわざ来られたというのはたいへんなことといわれる。
1970年に上田正昭さんが『日本神話』(岩波新書)を書いて、壱岐の月読神社が関心をもたれるようになった。
お友達がその本を読んで啓発されたのかどうかはわからないが、同じころに壱岐まで来られたというのは関心を持った時期がとても早いということになるという。

月読神社 友人が来たのはずいぶん前で、友人にはもう定かな記憶はないが、月読神社は無人で忘れられているような神社だった印象があるという。
ところが、今来てみると、駐車場があり、月読神社だと示す案内標識もある。
道に面した鳥居をくぐって急な石段を上がると、小さな社殿がある。

宮司さんがおられて、お札などが各種並んでいる。
話をきくと、壱岐には150の神社があるのに30人きり神官がいないので、かなりの神社が無人になってしまう。月読神社には3年ほど前から訪れる人がなぜか増えてきたのでつめるようになったという。

■ 一支国(いきこく)博物館

壱岐をほとんど一周して博物館に戻った。
須藤館長のおかげで挿絵の地をほとんどたどることができた。

須田剋太『壱岐島風景』という絵があるが、島の風景はどこもこんなふうで、ここで暮らしていても特定はできないとのことだった。
ここには行き着けなかったのではなく、ずっとこんな風景を目にしながら移動したことになる。
須田剋太『壱岐島風景』
須田剋太『壱岐島風景』

『対馬へ渡る連絡船待合所』は郷ノ浦港のことで、これはあとで僕ひとりでも行ける。

須田剋太が挿絵を描いた地をめぐるとナゾをかけられることがしばしばあった。
それにしても、1つの旅でこれほど難解なナゾに満ちているところは他にはなかった。
そんなところで須藤さんのようにこれ以上望めない方に案内していただいてよかった。
カラカミ遺跡で石塔4つの位置が動いているのを確認できたというようなこともあり、須藤さんもまわった甲斐があったといわれて、時間と手間をとっていただいたけれどいくらか気持ちが軽くなる。

あとで博物館の展示も楽しんだ。
魏志倭人伝に倭の30国の記録がある。
一支国の王都とされる原ノ辻遺跡を見わたすダイナミックな仕掛けが館内3か所にある。
展示室ではちょうど博物館所蔵の重要文化財3点がそろって公開されていて、ラッキーだった。
「人面石」「金銅製亀形飾金具」「中国北斉製二彩陶器」の3点。
「人面石」は、弥生時代の石製品として唯一、ひとの顔をしている。のどかなような、不気味のような、シンプルだが一度見たら忘れがたい表情をしている。
中国・北斉で作られた二彩陶器の碗は、抹茶に近い緑色をして、それが光沢をおびてツヤツヤした輝きがあり、てもとに欲しい気がした。

* 今夜のホテルは郷ノ浦に予約してある。
博物館からホテルに向かう途中で天の川酒造に寄った。


● 天の川酒造
長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触808 tel. 0920-47-0108

ここも天文民俗学の友人が気にしていたところで、日や月の神話に関わりが深い島だから、この名にも何かしら神話とか伝承とかがあるのかもしれないと思った。

ところが先代の主が詠んだ俳句が起源だという。

松よけて見あげる空や天の川

店の人に話をきくと、子供が着るものを外に干したままだったのを夜になって思い出し、先代の当主が取りにでた。
松の木がさえぎっていたのをよけて見あげると天の川が見えた、という句。
天の川酒造

ちょうど酒づくりを始めるころにこの句を作り、ちょっとした賞を得たので、記念に天の川を蔵の名前につかったという。
それはそれで、いい話だが、壱岐のことだから古い神話や伝承と関わりがあるかもしれないと期待していた気分からすると、「ああ、そういうことでしたか...」と拍子抜けした感じもある。

ここのブランドに「天の川」という焼酎がある。
司馬遼太郎は対馬の佐須奈で遅い昼食をとった店で、カウンター越しに見ている。
背後が、洋酒棚になっている。ほかに天の川という焼酎もある。
開高健もこの焼酎に目をつけた人で、いっときここの店主と手紙の往復があり、そのやりとりの中から生まれた焼酎が「天の川 VERY OLD」という限定ブランド品としてある。

■ 郷ノ浦港

『街道をゆく』の取材では、壱岐→対馬の順でまわった。
壱岐から対馬へは、郷ノ浦港で博多からやってくるフェリーに、夜になって出る便で渡った。
対馬の厳原港まで2時間、海が荒れて、気分がなんともなかったのは須田画伯ひとりというありさまだった。
今の郷ノ浦港フェリーターミナルは新しい印象で、その頃以後に建て替わっている。

郷ノ浦港 須田剋太『対馬へ渡る連絡船待合所』
須田剋太『対馬へ渡る連絡船待合所』

● アイランド壹岐2号館
長崎県壱岐市郷ノ浦町片原触221 tel. 0920-47-5868
アイランド壹岐2号館から郷ノ浦港 郷ノ浦港に面したホテルに泊まった。
窓からは港の水面があり、海がわの先端には橋が架かっている。
和室にベッドが2つあり、朝食のみついて7,000円だった。
朝食にいくと舞台があり、宴会場に使われる部屋のようだった。
他に宿泊者が少なくて大浴場にひとりじめして入った。

郷ノ浦の中心部に近い。
歩いてでて、壱岐交通ホテルのあたりを散歩した。
近くに親和銀行壱岐中央支店本町通出張所があった。
「平成21年1月28日(水)をもちまして営業を終了いたします。」という貼り紙がしてあるのだが、それからもう7年経っている。
(親和銀行は先だって「肥前の諸街道」をめぐったとき、佐世保と長崎ですてきな建築を見てきた。→ [佐賀・長崎のフクザツな海岸線をたどる-「肥前の諸街道」])

● モンブラン
長崎県壱岐市郷ノ浦町郷ノ浦174 tel. 0920-47-4868
港に続く水路を見おろすレストランで食事をした。

 . ページ先頭へ▲
第4日 壱岐から福岡空港 [小崎港・和多津美神社 壱岐文化ホール 壱岐空港 聖母宮 福岡アジア美術館]

■ 郷ノ浦町渡良浦小崎

僕が埼玉県立近代美術館にいた頃、館長は田中幸人氏だった。
もともと九州の人で、熊本市現代美術館長にうつったあと、2004年に亡くなられた。
田中幸人氏は、もと九州の毎日新聞の学芸部にいて、1977年ころに壱岐・対馬をたどって『漂民の文化誌』を出版された。そこに壱岐の小崎(こざき)浦の海士のことが書かれている。
ここでは男がもぐってアワビなどをとっていて、なかでも田島五郎というたいした海士がいるのを訪ねている。
狭い土地に小さな家が密集していて、細い路地の先に和多津美神社があり、鳥居の左手に小屋のような祠があり、そこに
「壱岐特有の七夕祭りの竹組のタナがぽつんと供えてあった。」
という文章がある。
田中館長の独特の九州弁のイントネーションが懐かしくもあり、この旅でしばしば名前がでてくる天文民俗学の友人、茨木孝雄氏の特別関心領域の七夕のことまでかさなってくるので、この旅の最終日にはまず渡良浦に向かった。
泊まったホテルがある郷ノ浦港からは宇土湾を隔てた西にあり、車では6km、十数分で着く。

■ 和多津美神社
長崎県壱岐市郷ノ浦町渡良浦小崎

小崎港はコの字の左右を逆にした形をしている。(右=東が海に開いている)
その逆コの字の左上の角あたりで、路地を入っていくと奥まった位置の斜面の下に和多津美(わだつみ)神社がある。
(対馬に、1文字ちがいで読み方も微妙にちがう和多都美(わたづみ)神社があって頭が混乱する)

和多津美神社
とにかく狭い土地だから、家々が建ち並ぶ間に小さな社殿がかろうじて挟みこまれているといったくらいの窮屈さで、参道だの庭だのはない。

社殿のわきに小さな祠が数個、横に並んでいる。
驚いたことに、田中幸人氏の文章と同じように、和多津美神社竹を組んだ棚が作ってあった。
田中館長のときから40年ほども経つから、そんな習俗が続いているとは限らないし、続いているとしても七夕の時期ではないから、こんな竹組を目にするとは思っていなかった。
僕が田中館長のその文章を読んだのは埼玉県立近代美術館にいた1993年ころのことで、20年以上経つが、それからの時間が一気に圧縮した気がした。
和多津美神社 竹のタナ

近くにいあわせたおばあちゃんにきくと、七夕ではなく、集落を出た人がお盆のあとに帰郷してきて、粉を練ってヒガタとツキガタを作って供えるのだという。
古事記では、イザナギとイザナミの男女2神が国生みをして、そのとき壱岐と対馬が生まれた。
イザナギが亡き妻イザナミを慕って黄泉(よみ)の国に行き、ふたたびこの国に戻って目を洗うと日の神アマテラスと月の神ツクヨミが生まれた。
そういう神話と、対馬に阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)があり、壱岐に月読神社があること、そして小崎の和多津美神社でヒガタとツキガタを供えていることに関わりがあるのかどうか。
そもそもヒガタとツキガタは具体的にどんなものか見てみたい気もする。

港の岸壁に数人の男女がいて、にぎやかな話し声がする。
網をつくろっている人が近所の人と話していて、そこに通りかかった人も加わって、というようなときらしい。
40年ほど前にここに来て田島五郎さんのことを書いた新聞記者がいたこと、その記者と縁があり、はじめて壱岐に来た機会に小崎に寄ってみたことを話すと、今の様子をいろいろきかせてくれた。

田中館長が来たころ73歳だった田島五郎さんは、予想していたとおりということになるが、亡くなられていた。
あと名前がでていた長男の国弘、孫の広和といった方々は今も元気で漁にでておられるという。
文章で小崎がとにかく狭いことに何度かふれているのだが、話しているあたりも、そこから見える家々の様子も、かなり広々している。
わけをきいて納得したのは、埋め立てで陸が広がったのだという。
だから今いる岸壁のあたりが広場のようになっているし、陸の途中に防波堤がある。


教えられた田島五郎家も、防波堤の際にある。
今はその外側(かつて海だったところ)を道が通っていて、さらにその先に作業小屋らしき建物も建っている。
壱岐 小崎港

海辺にいる人たちは、みな陽に灼けていて、たっぷりと空から降りてきている日射しに似つかわしい。
海の人特有のということか、開放的な感じも話していて快い。
のんびり話を続けていたいようだったが、あといくつかまわったうえ、船に乗って、夕方には飛行機に乗らなくてはならないのが惜しい。

港の写真を撮ったりしたあと、去りかけているところに、さっき話していた人のひとりが通りかかった。
軽トラックでどこかに向かうようだった。
今日は漁にでないで、どんなことをしているのだろうと思ってたずねると、今はここで漁をしていなくて、出稼ぎからたまたま戻っているところだという。
佐賀空港の近くで海苔漁をしているとのこと。
つい1か月前、そのあたりに行き、筑後川昇開橋から海苔漁の船を見おろして、今年の海苔漁の季節が終わったところだという話をきいたばかりだった。
それで出稼ぎの人が壱岐に戻っているわけで、地理と時期が符号してしまった。
こういう偶然もあるものかと驚いた。
→[佐賀・長崎のフクザツな海岸線をたどる-「肥前の諸街道」] 

* 郷ノ浦の市街地北部に戻る。

■ 壱岐文化ホール(壱岐郷土美術館)
長崎県壱岐市郷ノ浦町本村触445 tel. 0920-47-4111

須田剋太の絵に『壱岐郷土館』がある。
この館についての経緯がわかりにくかったが、整理すると以下のようになる。
1996年 壱岐文化ホール開館
     壱岐郷土美術館と壱岐郷土史料館を併設
     壱岐郷土美術館は彫刻家小金丸幾久記念館と名称変更
     2階はサークルの展示などに貸出
2009年 壱岐郷土史料館は8月31日閉館
2010年 一支国博物館が3月14日開館
2016年 壱岐市は島内の焼酎蔵元「壱岐の蔵酒造」と命名権契約を結び、壱岐文化ホールの愛称が「壱岐の島ホール」になる(8月1日から)

須田剋太が描いた『壱岐郷土館』にあたるところにはTV会社が建ち、展示品は一支国博物館に移った。

壱岐郷土美術館は「彫刻家小金丸幾久記念館」に改称されている。 壱岐郷土美術館の1階の小金丸幾久彫刻展示室

* 西に走り、雪連宅満の墓の下の道を過ぎて、壱岐空港に着く。

■ 壱岐空港
長崎県壱岐市石田町筒城東触1725

佐渡空港を見ていらい、地方の小さな空港にひかれる。
便数が少ないので、発着時のほかはひっそりしている。
それでいて、飛び立てばここを離れて遠くへ行ってしまうというロマンとか冒険とかの気配が漂っている。
大空港だと、ビジネスとか観光とかが前面にあって、ロマンが薄い気がする。

壱岐空港からは長崎空港とだけ便がある。
朝に1往復、夕方に1往復、所要時間は約30分。
司馬遼太郎一行は福岡空港から飛んできたが、今は福岡便はない。

壱岐空港
発着がない時間も空港ビルの屋上が展望用に公開されている。
階段を上がると、テニスコート1面ほどの広さ。
小さな子を連れたおかあさんとその友人らしい人が、子どもを遊ばせていた。
金網の向こうには短い滑走路があってそそられる。

* 最北端の勝本港にふたたび向かった。
『街道をゆく』の絵にはないのできのう寄らなかった聖母宮を見たいと思った。


■ 聖母宮(しょうもぐう)
長崎県壱岐市勝本町勝本浦554 tel. 0920-42-0914

通信使迎接所神皇寺跡のすぐ先にある。
717年の創建で、門と石垣は1592年に加藤清正によるという。

文永の役で元の軍隊が上陸した地
外に出ると文永の役で元の軍隊が上陸した地であることを示す石碑が建っていた。

* 神皇寺跡の前の道は、港の岸壁に並行していて、両側に家が建ち並んでいる。
おばあちゃんが買い物車を押して向こうから歩いてくる。
少年がどこからか現れて、そのおばあちゃんにカメラを向けて写真を撮る。
一瞬がキリコの絵か、芝居の1場面のようだった。
僕はおばあちゃんと、おばあちゃんを撮る少年を撮りたかったが、たちまちいなくなってしまった。


● mochajava cafe(モカジャバカフェ)大久保本店
長崎県壱岐市勝本町勝本浦359 tel. 0920-42-0500

古い木造家屋が並んでいる。
もと海産物問屋を改修したカフェがあり、入ってランチにした。

* きのう行った壱岐風土記の丘、月読神社にもう一度寄り道して、芦辺港に戻った。
すぐうしろが海という岸壁の駐車スペースに車を置き、キーを助手席に置き、レンタカーの営業所に電話して、車を離れる。
気楽でいい。


芦辺港から高速船で1時間ほどで博多港に着く。
船を降りるといきなり大都会のど真ん中にいるので、その対比に「おお!」という感じがする。

博多港

船と飛行機の時間の都合でいくらか余裕があるので福岡アジア美術館に寄り道したあと、福岡空港から
羽田行きの便に乗った。

  ページ先頭へ▲

参考:

  • 『街道をゆく 13』「壱岐・対馬の道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1981
  • その後の壱岐への2度目の旅は[日本最古の船着き場からその河口へ-「壱岐・対馬の道」2]
  • 『図説 日本庶民生活史 第1巻 原始-奈良』奈良本辰也/編集委員代表 河出書房新社 1961
    『敦煌への道』 鄧健吾/文 石嘉福/写真 日本放送出版協会 1978
  • 『対馬まで』 金達寿 河出書房新社 1979
    『盗まれた仏像 対馬と渡来仏の歴史的背景』永留久恵 交隣舎出版企画 2013
  • 「声を撃ち込む-天童大人、対馬和多都美神社「声の奉納」の二十五年」 『龍生』 2014.8
  • 『雨森芳洲 マンガ人物誌in対馬』 松原一征/原作 松尾陽子/漫画 交隣舎出版企画 2015
  • 『日本神話』 上田正昭 岩波新書 1970
    『日本神話の研究 上 歴神ノ譜』 山田宗睦 三一書房 1977
  • 『感性の祖型』 田中幸人美術評論集 弦書房 2005
    『漂民の文化誌』 田中幸人 葦書房 1981
  • 『NHKスペシャル 司馬遼太郎思索紀行 この国のかたち』16.2.13放送
  • 3泊4日の行程 (2016.5/12-15) (→電車 ⇒地下鉄 =バス -レンタカー ~船 …徒歩 >飛行機)
    第1日 羽田空港>長崎空港>対馬空港-天神多久頭魂神社・佐護川河口-鰐浦集落-韓国展望所-佐須奈湾…レストラン かっぽれ…はら旅館(泊)
    第2日 -志多留集落・志多留川河口-海神神社・御前浜-峰町歴史民俗資料館-和多都美神社-烏帽子岳展望台-阿麻氐留神社・西漕手-万関瀬戸-大船越-万松院-長崎県立対馬歴史民俗資料館-厳原港-対馬市交流センター-(レンタカー返却)…ホテル ベルフォーレ(泊)
    第3日 …厳原港~芦辺港-一支国博物館-唐人神-印通寺浦-津の宮-雪連宅満の墓-岳ノ辻-久間水産-国分寺-壱岐風土記の丘-曾良の墓-勝本港-朝鮮通信使迎接所神皇寺跡…勝本の街並-カラカミ遺跡-月読神社-天の川酒造-郷ノ浦港…壱岐交通ホテル…モンブラン…アイランド壹岐2号館(泊)
    第4日 -小崎港・和多津美神社-壱岐文化ホール・彫刻家小金丸幾久記念館-(雪連宅満の墓)-(津の宮)-壱岐空港-(朝鮮通信使迎接所神皇寺跡)…聖母宮…mochajava cafe大久保本店-(壱岐風土記の丘)-(月読神社)-芦辺港~博多港=バス停呉服町…福岡アジア美術館…中州川端⇒福岡空港>羽田空港