「大徳寺散歩」と「韓のくに紀行」の国内地へ


『街道をゆく』の「34大徳寺散歩」をたどって、前に一度大徳寺を歩いたことがある。いくつもの塔頭があるが、ふだんは非公開の真珠庵が特別公開されるという機会があり、また大徳寺に向かった。
『街道をゆく』の挿絵の地を訪ねて国内をほぼ回り終えたが、このあと韓国に行きたいと思っている。「2韓のくに紀行」では、日本国内の大阪と滋賀を描いた絵があり、京都の前後の日にその地をめぐった。

第1日 大阪/猪飼野から天保山 [生野コリアタウン(猪飼野) 天保山 京都(泊)] 
第2日 京都/大徳寺と紅葉の寺めぐり [大徳寺 高麗美術館 東福寺 東寺 大津(泊)]
第3日 近江/新旧の名所へ ['ラ コリーナ近江八幡' 鬼室神社 'MIHO MUSEUM']

* 前に大徳寺に行ったときのことは→[秋の日射しの庭-「大徳寺散歩」]。
* 数年後に韓国に行った→[港町・釜山と古都・慶州-「韓のくに紀行」]。

第1日 大阪/猪飼野から天保山 [生野コリアタウン(猪飼野) 天保山 京都(泊)]

* 新大阪で新幹線を降り、東海道線、環状線外回りと乗り継いで、鶴橋駅で降りた。

■ 生野コリアタウン/猪飼野
大阪市生野区桃谷

「御幸通商店街」には、朝鮮料理の店や、朝鮮の食材や雑貨などを売る店がいくつもあり、生野コリアタウンといわれている。(このレポートでは、政治的・地理的・歴史的区分などに関わらずに、朝鮮半島(韓半島)全体を「朝鮮」という。)
このあたりの旧地名は「猪飼野(いかいの)」で、古代から朝鮮半島からの渡来人が多く住みついていた。
近代では、1910年の日韓併合のあと、1923年に済州島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」が就航して、たくさんの朝鮮の人が労働のために来日し、猪飼野周辺に集まってきた。
日本が敗戦し、朝鮮半島に2つの国ができ、帰国する人、新たに来日する人、世代交代があるが、今も朝鮮系の人の集住地になっている。

ちょうど昼ころ着いた。
平日の昼間なのに人通りが多い。
社会科見学の中学生も大勢往き来している。学校で用意されたらしきテキストを手にしていて、書きこみながら歩いている。
屋台や店先でテイクアウトの食べ物を売るところがいくつもある。
トッポッキは韓流ドラマで何となしなじみがある。棒状の餅をコチュジャンや砂糖で甘辛く煮てある。
ホットクというのは初めてで、薄い円盤状がホットケーキのように見えるから、その韓国語の発音かと思った。でもトッポッキと同じに餅(トク)がベースで、なかに黒砂糖などが入っていて焼きたてだと蜜状にトロっとしているらしい。
ためしてみたいが昼食前なので素通りして、「韓国料理」の看板を掲げ、ガラス窓に定食のサンプルがいくつも並ぶ店に入った。

● 百済離宮
大阪市生野区桃谷5-5-48 tel.06-6777-8291

サムギョプサル定食を注文した。
サムギョプサルは、テーブルに運ばれた炭火で 豚の3枚肉を焼き、葉でくるみ、味噌ダレをつけて食べる。
肉と葉と味噌だから、食べる前に味の見当はつくのだが、口にいれると、その組み合わせのおいしさが予想以上に広がって、不思議な気がするほどだった。
ほかに韓国ノリやスープがつき、昼から生ビールも飲みながら、幸福なランチになった。
生野コリアタウン

須田剋太が描いた猪飼野の絵でも人が多くにぎわっている。
道を横断して「御幸通商店街」という表示がある。
それに並んで∧の形をしたものがいくつもある。
アーケードを支える骨組のように見えるが、すっかり屋根状に道をおおっているようでもない。
今はその骨組はなく、晴れた空がすっきり見えている。
須田剋太『大阪生野区猪飼野』
須田剋太『大阪生野区猪飼野』

右に「錦城商店」という大きな文字が見えるが、今はこういう名の店はない。ほかにもいくつか看板の文字が描きこまれていて、通りを気にしながら歩いたが、どれも見あたらなかった。
「代書」という看板もある。朝鮮から渡ってきて日本の文字を読み書きできない人がいたり、日本で生まれた二世以降の人が朝鮮の人に連絡をとろうとしてもハングルを書けないとかいうことがあって、必須の需要があったかと思える。今日短い時間歩いたかぎりでは、「代書」の看板は見かけなかった。商売として成り立つほどの需要はなくなったろうか。

司馬遼太郎は『街道をゆく』で韓国本土と済州島を旅しているが、そのほかの旅でもあちこちで朝鮮のことを書いている。
 私の朝鮮への関心のつよさは、私がうまれて住んでいる町が大阪であるということに多少の関係があるかもしれない。(『街道をゆく 2』「韓のくに紀行」司馬遼太郎。以下別にことわりのない引用文について同じ。)
猪飼野の最寄り駅の鶴橋駅から、司馬遼太郎が住んでいた(今は司馬遼太郎記念館がある)河内小阪駅までは、わずか10分ほどに近い。
司馬邸の近くには喫茶美術館がある。
経営者は朝鮮から来た人で、司馬遼太郎が親しく、須田剋太も多くの絵を贈り、店内はいわば小さな須田剋太美術館になっている。(→贈られた須田剋太作品は、北海道美瑛の美しい丘に新設した美術館でも展示されている。→[「北海道の諸道」-開通まもない北海道新幹線に乗る]の第1日、新星館)
今その喫茶美術館を営む丁章(チョン・ジャン)氏は詩人で、猪飼野を主題にした詩にこういう一節がある。

埋められた沈黙を土台にして
築かれていった聚落の風景
 老婆の号泣
 男どもの怒号
 子を背負う女たち
 太い指 荒れた手 へし曲がった腰
 路地裏の ゴム屑と 豆もやしの樽
 風呂敷商売(ポッタリジャンサ)
 廃品回収リヤカー
 キムチ 豚足 いしもちの干物
 気品高きチマ・チョゴリ
 ゆらゆら浮かぶ川の小舟
 橋の交番
 商店街に掲げられた横断幕のスローガン
 人々のいがみ合い
 それでも女たちの笑顔と男たちの笑顔と
 そして子供たちの
 笑顔 笑顔 笑顔

その猪飼野が
猪飼野でなくなってしまって
もう久しい
地図から消えたその地を
この世から失うまいとして
はらからたちはうたい
はらからたちはえがき
はらからたちは物語り
はらからたちは撮った
あんまりな喪失感と沈黙までをも
失うまいとして

「神話の地-曹智鉉写真集『猪飼野』に寄せて」から

1973年に実施された住所表示変更により、猪飼野の地名が消滅している。
祖国が不確かで、朝鮮の人たちが古代から拠点としてきた猪飼野の地名も失われた喪失感が深い(だろうと推し測るばかりだが)。

御幸通商店街を東に抜けると細い川があり、御幸橋が架かっている。
この平野川はたびたび氾濫を繰り返していたが、1920年ころ、曲がりくねっていた流れを直線にする工事が行われ、このとき作業に従事した朝鮮の人たちも猪飼野に住み着いたという。
平野川は北に流れて大阪城の東あたりで寝屋川に合流し、さらに寝屋川はそのすぐ先で淀川に合流する。
平野川 御幸橋
川の先端を見たがりなもので、暖かく晴れてもいて、河口に向かった。

* 桃谷駅に歩いて環状線に乗り、森ノ宮でメトロ中央線に乗り換えて大阪港で降りる。

■ 天保山(てんぽうざん)大観覧車
大阪市港区海岸通1-1-10 tel.06-6576-6222

天保山大観覧車
水辺に向かって歩く。
観覧車が見るからに大きく、高い。
1997年開業、直径100mで、完成から数年は世界最大の観覧車だった。
透明なゴンドラもあるのだけど、高所恐怖症の妻が一緒で、観覧車につきあうだけで精一杯で非透明のに乗る。

周囲に大阪市街が広がり、眼下すぐには安治川(あじがわ)の河口があり、これから乗るつもりの渡し船の乗り場もかわいらしく見えている。
生駒山とか関西国際空港とかも見えるらしいのだが、今日は空気がかすんで遠くはだめ。

ゴンドラはゆっくり回って1周15分。
かなりの高度感で、妻はうす目をあけてたまに景色をちょい見するのがやっとだった。

■ 安治川河口と天保山

このあたりは安治川の河口域で、この川のおおもとの起点は琵琶湖までさかのぼる。
近江平野を流れるいくつもの川が琵琶湖に注いでいるが、琵琶湖から流れ出すのは1つだけで、瀬田川と呼ばれる。
京都府に入るあたりで宇治川となる。
大阪府に入る手前の大山崎町で桂川と木津川が合流し、その合流地点より下流が淀川となる。
新大阪駅と大阪駅の間の東海道線の鉄橋をくぐる少し手前で2つに分かれ、西に流れるのが淀川、やや南に流れるほうは大川・堂島川と名前を変えて、中之島から先が安治川となる。
ただ南流がもともとの淀川で、西流は1907年に開削されたもの。
あとからできたほうが本家を名乗るのは、荒川と隅田川の関係と同じになる。

安治川(旧淀川)は大阪湾と大阪市中を結ぶ幹線だったから、大きな船が通れるように河口の浚渫工事が行われ、そのときでた土砂によってできた築山は20mほどの高さがあり、安治川入港の目印とされ、当時の元号から天保山と称されるようになった。
明治にはいり、国防上の必要で砲台を天保山に建設することとなり、土が削られ、高さ7mほどになった。
高度経済成長後、地下水のくみ上げで地盤沈下が起き、さらに低くなった。
今は国土地理院の地図では4.53mの山として記録され、仙台市にある標高3mの日和山につぐ全国2番目の低山になっている。


いちおう山ということにはなっているが、これまでの歴史を勘案して認められているということだろう、今はふつうに山としてイメージされる∧の形をした山体はなくて、平らな地面に天保山頂の標示があるだけ。
天保山

■ 天保山渡船場

すぐ先に対岸へ渡る船の乗り場がある。
小さな小屋が待合所になっている。
時刻表を見ると、1時間に2本ずつで、朝夕だけ5本ある。
こちら側からは00分と30分に出て、所要数分。対岸に着くと、そちらで待つ客を乗せてすぐ折り返してくる。

船出を待っているのは、徒歩の客は僕らと南アジアらしい若い男性2人。
あとは自転車で来ている人たちで、欧米系らしい男女ペアと、日本人数人。
船が出る時間になって乗ると、船内には座席はなく、立ったまま。
船はとても小ぶりだが、ちょっとした速度感があって、白い波をまきあげて進んでいく。
阪神高速の高架橋が河口を越えているが、その平たい金属板のような底面を見あげながらくぐる。
さっき高みに上がってきた大観覧車も見えている。
晴れた日に水を渡るのは気分がいい。
降りたときに時計を見ると、乗ったときから5分だけすぎていた。

安治川河口 天保山渡船場からの船出

左の写真は大観覧車から見おろした安治川河口付近。(写真上が上流=大阪市街地)
右は渡船場を拡大。船が出ていくところで、僕らはこの次、30分後に出た船に乗った。

* 対岸で降りると、工場や倉庫地帯で、近づきがたい風景のなかにコンビニがポツンとある。
ユニバーサルスタジオジャパンの裏の塀沿いに歩くと、ゆめ咲線(JR桜島線)の桜島駅に着く。西九条で環状線に、大阪で東海道線に乗り継いで、京都へ。
先に夕飯をとることにして、地下鉄に乗り四条駅で降りる


● 清水家錦
京都市中京区占出山町314-2 tel.075-212-1271

錦市場の近くの居酒屋で夕食。
前にも妻と来たことがある店だが、妻がどんなところだったか思い出せないというのでまたここにした。
入ってみればすぐ思い出して、なじみの店のような気分になって、満腹ほろ酔いする。

* 京都駅に戻る。
北口を出て、京都タワー、京都ヨドバシと並んだ次に今夜のホテルがある。


● ダイワロイネットホテル京都駅前
京都市下京区烏丸通七条下る東塩小路町707-2 tel.075-344-3055

京都ではホテルをとりにくいと思っていたのだが、京都駅に近くて手ごろな宿泊料のホテルを数日前に予約できた。数年前、京都のホテルをとれなくて大阪に移動したことがあったが、ホテルが増えたためだろうか。
まだ紅葉が楽しめる時期の金曜日なのに、なんだか信じられないよう。
2年前に開業したホテルで、設備もデザインセンスも新しくて快適。
1階にベトナム料理のレストランがあり、朝のビュッフェには和洋の料理のほかにフォーなどベトナム料理も並んでいた。

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第2日 京都/大徳寺と紅葉の寺めぐり [大徳寺 高麗美術館 東福寺 東寺 大津(泊)]

* 朝、京都駅に行くと、大徳寺に向かうバス乗り場にかなり長い行列ができている。
地下鉄で行くことにして、鞍馬口駅で降り、歩く。


■ 大徳寺
京都市北区紫野大徳寺町53

□ 真珠庵

真珠庵はふだん非公開だが、長谷川等伯らの方丈襖絵が修復のためはずされ、約400年ぶりに現代のアーティスト6人によって新調され、特別公開となった。
描いたのは『釣りバカ日誌』の漫画家の北見けんいち、『新世紀エヴァンゲリオン』の山賀博之など。人選の大胆さに驚かされるが、一休禅師が開祖の庵にふさわしいようにも思える。
北見けんいちの絵は、明るい南の島(与論島)で、『釣りバカ日誌』の登場人物や、真珠庵の住職や、自身の夫妻も含めて大勢おおらかに楽しむ人たちが描かれている。古典的名画に囲まれているのとはずいぶん違った空気になっていたろう。
新鮮でよかった。
あと茶室「庭玉軒」、村田珠光作庭と伝わる「七五三の庭」など眺める。

須田剋太『真珠庵(B)』 須田剋太『真珠庵(C)』
須田剋太『真珠庵(B)』 須田剋太『真珠庵(C)』

□ 大仙院・黄梅院

前に来たときにも拝観した大仙院と黄梅院(おうばいいん)に寄った。
大仙院では、住職の尾関宗園さんにまたお目にかかった。
僕の名をほめ、そういう人が須田剋太の足跡をたどって画家もよい人をもったと、認める言葉をいただいた。
今日は妻が一緒だったので、きれいな奥様だと言ってくださる。
黄梅院でも、前にお会いした長田玄渉さんとまた門のところで行き会った。
変わらずに明快でさわやかな話しぶりだった。
黄梅院では庭の紅葉がみごとだった。説明された女性に、毎日おられるから紅葉のいちばんいい時期も見ることができていいですねというと、今年は紅葉が遅れていて、今がいちばんいい時期とのことだった。
少し遅いかもと思って来たのだが、いいときに見られてよかった。

* 大徳寺から高麗美術館は北に2キロ弱。歩けない距離ではないが、昼前でやや空腹。バス停で時刻表を見ていたらタクシーが通りかかったので、手を上げてしまった。
運転手さんが「高麗美術館ならタクシーのほうが安い」という。
タクシーは基本料金450円で着いてしまうが、バスは230円2人で460円。
運転手さんに美術館の近くに食事の店があるといわれたのだが、住宅街でなかなかなさそう。たまたまあった中華の店でラーメンを食べてから美術館に入った。


■ 高麗(こうらい)美術館
京都市北区紫竹上ノ岸町15 tel.075-491-1192
https://www.koryomuseum.or.jp/

高麗美術館は朝鮮半島の美術工芸品、考古民俗資料など1700点ほどを所蔵している。
展示品では、りんとした白磁、青磁の名品が美しいが、おおらかな線で動物や植物を描いた図像もユーモアと解放感があって楽しい。

美術館は在日朝鮮人一世の実業家である鄭詔文(チョン・ジョムン、てい しょうぶん、1918-1989)の蒐集品をもとに創設され、開館時、同文氏は理事長職についた。
開館は1988年で、2018年の初冬に僕らが訪ねたときは『高麗美術館30周年記念特別展「鄭詔文と高麗美術館」』を開催中だった。
司馬遼太郎は鄭詔文と親しく、鄭氏の出版活動や美術館創設を支援した。
展示室ではその2人が朝鮮古来の踊りに加わる映像もながれ、須田剋太の姿もあった。
鄭詔文氏の名は『街道をゆく』にいくどか記述があり、「砂鉄のみち」では同行もされている。

   ◇     ◇

ここからごく私的な思い入れのことに脱線する。
この美術館は初めてなので、どんなところだろうとそのwebページを見ていると、美術館を運営する公益財団法人の評議員のなかに熊倉浩靖氏の名前があって驚いた。
熊倉浩靖氏は群馬県高崎市のひとで、群馬県立女子大学教授・群馬学センター副センター長などされていて、京都にある朝鮮に関わる美術館の役員としてこの名を見ることはまったく思いがけないことだった。

僕は長く井上房一郎というひとに関心をもってきた。
井上房一郎は、群馬県高崎市にある建設会社の経営者だったが、群馬県立近代美術館や群馬音楽センター・群馬交響楽団の設立などに関わった。群馬の文化、さらには日本の文化の発展に大きな貢献をした。
井上房一郎の文化支援は、たとえば美術の領域のことでいえば、自分で作品を購入して美術館も建ててしまうというのではなかった。自社の一部にギャラリーを開き、次々に展覧会を開催することで美術館をもちたいという機運を高めていき、県立美術館の設立に至っている。
僕が埼玉県立近代美術館に勤務していたころ、群馬県立近代美術館と高崎市立美術館の共催で「パトロンと芸術家-井上房一郎の世界-」という展覧会が開催され、井上房一郎の文化振興スタイルに興味をもち、それから井上房一郎の足跡をたどってきた。
熊倉氏は、井上房一郎の高崎高校での後輩で、井上房一郎に目をかけられ、熊倉氏のほうでは井上の文化事業を実務面で支えてきた。
井上の死後、その評伝を書いて刊行もされている。
僕は井上房一郎の事績をたどるうちに熊倉氏をお会いすることがあり、著書からも多くを教えられてきた。

『高麗美術館』という定期刊行物があり、最新刊111号は「開館30周年記念特別号」で、そこに熊倉浩靖氏が寄稿されている文章を読んで、氏と美術館の関わりがわかった。
若かったころ、井上房一郎のほか、鄭詔文と親しかった上田正昭に、精神的苦境にあったのを救われたという。
上田正昭を通じて鄭詔文と会い、鄭詔文が刊行していた『日本のなかの朝鮮文化』に寄稿して、熊倉氏の歴史研究者としての出発点になった。
その後、高麗美術館の創設にあたり、井上房一郎のもとで財団運営に関わっていた経験が生きて支援することとなり、また高崎には朝鮮と縁が深い多胡碑などの遺物があり、その研究を通じても密な関係が続いていたのだった。

僕は須田剋太と井上房一郎を別なきっかけからたどりはじめた。
ところが須田剋太の「剋太」という名は、井上房一郎が文化に関わることに大きな影響を与えた山本鼎の甥の村山槐多に憧れて名のったということがあって(本名は「勝三郎」という)、2つのことが無縁ではなかったと思っていたのだが、また新たなつながりが見つかって、あらためて人生の不思議を感じた。

* バスで京都駅にでて、京都駅からJRにひと駅乗って東福寺駅で降りる。
細い道が、これから東福寺の紅葉見物に行く人、戻ってくる人で、いっぱい。
境内に入るところでは行列ができていて入場待ちかと思ったら、さすがに広い境内のこと、するすると人が入って行って並んで待たずにすんだ。


■ 東福寺
京都市東山区本町15-778 tel.075-561-0087

庭の木々の紅葉がみごと。
本坊の庭園で、重森三玲が作った石と苔の市松模様や、石が北斗七星に配置されたのを見る。

* 東福寺の門前からタクシーに乗って東寺へ。

■ 東寺
京都市南
区九条町1 tel.075-691-3325

京都駅から近くて五重塔をよく目にするのに一度も行ったことがないと妻がいうし、僕も同様なので、2人とも初めてきた。
東福寺のような密度のこい紅葉はなくて、人の密度もずっと低かった。
何度も大きな音量で放送があって、通常の拝観時間でいったん閉めたあと、夜にはライトアップがあると、日本語と英語で繰り返している。

* 京都駅に戻るのに、高架の近鉄線に沿った下の道を歩く。
油小路通にでたところで東海道線を地下道でくぐり、駅の北側に出て、荷物を預けておいたホテルで受け取る。
京都駅では巨大なクリスマスツリーが立ち、大階段には段ごとに照明がついて、都会的幻想的で気持ちをそそられる。
東海道線の上り電車に乗ると、2駅目、10分ほどで大津駅に着く。
隣接する府県の府県庁所在地間の移動時間としては全国最短ではないか。
一転して小さく静かな駅で、降りた人も少なかった。

北口を出て琵琶湖に向かって歩く。
道は下り坂。
両側に小さな個人商店が並ぶ商店街なのだが、たまにある居酒屋類のほかはほとんど閉まっている。街灯も消えていて、暗い。まだ夕方なのに深夜のように心許ない。
京都からわずかの時間でこんな街になる落差が、かえって僕は好き。
ホテルにチェックインしてから食事に出た。


● おで湖
滋賀県大津市中央1-7-18 tel.050-3467-3131

大津百町という古い町並みのなかの民家を再生した居酒屋に入る。
場所がら近江牛のあぶり焼きをとる。自分で焼いて食べる。さすがにおいしい。
おいしいが小ぶりだったので、そんなふうだろうと思って注文したごぼうの唐揚げはもともと太めのごぼうが皿に大量に盛られていて、これでしめのご飯がなくてすんでしまったほど。
店の周囲はひっそりしている。ここにだけ人の出入りがあるが、それもぽつりぽつり程度で、静かないい時間を過ごした。

● ホテル ブルーレーク大津
滋賀県大津市浜大津1-4-12 tel.077-524-0200

京阪電鉄の浜大津駅のすぐ南にある。
窓からはすぐ下に線路、その先に駅、大津港が見え、右のほうには浜大津アーカスや琵琶湖ホテルの灯りがある。
湖面から赤や青の照明を受けた噴水が上がる。

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第3日 近江/新旧の名所へ ['ラ コリーナ近江八幡' 鬼室神社 'MIHO MUSEUM']

* 大津駅まで歩く。
大津駅はにぎやかな京都駅と対比的におもしろい。
駅の北口に着いて、ホームの京都寄りにある地下道をくぐって南口にまわる。
線路に沿って細い用水が流れていて、その脇の道を行くと国道1号線=東海道をくぐる狭く低い地下トンネルがある。
くぐり抜けた先には逢坂小学校があって、トンネルはほとんど小学校専用の通学路のよう。
トンネルをくぐって国道の南側に出て、小学校の脇の歩道を歩いていくと、学校の敷地内に「逢坂の関跡」の碑が立っているのが見えた。
「逢坂小学校」という校名から関所のことも思い出していたが、まさにその関所の跡に建つ小学校なのかと、あらためて歴史を思った。
碑の少し先の営業所でレンタカーを借り、1時間ほど走って最初の目的地に着く。


● ラ コリーナ近江八幡
滋賀県近江八幡市北之庄町615-1 tel.0748-33-6666

近江八幡で知られた和菓子店が、郊外に藤森照信の設計による新店舗をつくった。
三角屋根のてっぺんに木が植わった独特の建物のほか、周囲も日本の昔ながらの田園を感じさせる(といっても、そのままのは実はどこにもなさそうな)独特の風景をつくってある。
それが好評で、昼頃には駐車場が満車で入りくいこともあるというので、ここに真っ先に来た。
僕は前にも「近江散歩」の旅で来たことがあるが、3度目で、妻は初めて。
ひとりで来たときはただ藤森照信の建築を楽しむだけだったが、今日は妻といっしょなので、カフェに入って焼きたてカステラとコーヒーのセットを味わい、あれこれ土産も買った。カステラの焼きたてというのは、ふつう食べるカステラとは別ものと感じるくらいに、ふわふわ柔らかい食感でいいものだった。

* また1時間ほど、琵琶湖の湖岸から離れる方向に走った。
低い丘陵地に入っていく。


■ 鬼室(きしつ)神社
滋賀県蒲生郡日野町小野

『街道をゆく』の「韓のくに紀行」は、週刊朝日の連載では30回だったが、その最終回に「近江(おうみ)の鬼室集斯(クイシルチプサ)」と題して、司馬遼太郎は日本国内の百済の関係地のことを記している。
鬼室福信(クイシルポクシン)という、百済滅亡期に百済の復活のために奮戦した活動家がいた。ある時期、かなりの成果をあげたところで百済王から勢威をうとまれて殺され、百済の復興運動は弱体化して、そこに襲ってきた唐によって百済は滅んだ。
福信の一族の鬼室集斯は百済の王族で、百済の滅亡後に多くの亡命民とともに日本に来た。
日本はまだ開明期にあり、天智天皇は貴重な先導者として手厚く迎え、近江の土地を与えた。
この天智天皇のとき(中略)大学寮が設けられており、百済から逃げてきた鬼室集斯はいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられているのである。(中略)日本最初の大学総長が百済人であったという歴史が出発するのである。
鬼室集斯は晩年に小野(この)という山村に隠棲し、688年に亡くなり、一族や慕う人々によって葬られた。

「韓のくに紀行」の旅は1971年5月のことだった。
司馬遼太郎は韓国から帰ってその紀行文を連載しているうち、寒いころになって、鬼室集斯の墓が滋賀県の山村にあることをきいた。
年が明けたばかりの1972年1月2日、司馬遼太郎は京都で横浜から来た友人に会い、この人が運転に堪能だったことから「たのむからここへ行ってくれ」と頼りにして、近江に向かった。
滋賀県地図に小さな活字で「小野」とあるのをたよりに、幾度も道をたずねながらたどり着いている。
2018年秋に行った僕は、事前にインターネットで場所を確認し、距離と所要時間も調べ、現地ではカーナビに導かれてするすると着いてしまった。
この日は大津でレンタカーを借り、3箇所をめぐって、夕方に指定席を予約してある東海道新幹線ひかり号に間に合うように大津に戻りたかったのだが、ほとんど予定どおりに移動できた。
鬼室集斯の墓が滋賀県の山村にあるという口伝えらしき情報と、鬼室集斯に関わる古い文献と、滋賀県地図から、司馬遼太郎と友人はよく目的地に着いたものと思う。

鬼室神社と周囲の田園は、山や森に囲まれているが、たいした高さはないし近くまで迫ってもいないので、空が広く、風景は明るい。
細い道からさらに導入路のような坂がくだっていて、その先に木立に囲われた神社がある。

鬼室神社のまわりの風景

須田剋太が2枚の挿絵を描いているが、司馬遼太郎は正月早々に京都にいてたまたまの機会があって近江を訪れたのだから、西宮に住む須田剋太はこのときは同行しなかったろう。
当時の交通状況からすると須田剋太があとで別に来たことはありえなそうで、おそらく写真をもとに描いたものと思う。

須田剋太『鬼室集斯墓』
須田剋太『鬼室集斯墓』


鬼室集斯

神社の手前には国際交流広場がつくられている。
鬼室集斯の縁で日野町と韓国恩山面(うんざんめん)が姉妹都市になり、その交流20周年を記念して2009年つくられたと案内板にある。
韓国ふうの意匠と色どりの小さな休憩所があって、風景を眺めながらひと休みした。

* 1時間ほど走ってMIHO MUSEUMに着く。
レセプション棟前の駐車場は満車で、それより手前の駐車場に置いて送迎バスに乗る。
レセプション棟から美術館棟までは電気自動車での送迎があるのだが、ここには行列ができていて、待たずに歩いた。ここには3度目だが、これほど人が多いのは初めて。12月最初の日曜日は冬季休館前の最終開館日で、それで混んだようだ。


■ MIHO MUSEUM
滋賀県甲賀市信楽町桃谷300  tel. 0748-82-3411

みごとなコレクションの数々を見て回った。
なかでも僕が気に入っているのはキューピッド。
1世紀ローマのフレスコ画で、赤い壁面に描かれていたのが、キューピッドを中心に切り取られている。
キューピッドは裸だが、背中には羽根があって浮いていて、マントもつけていて、羽根とマントとが揺らめいているように見える。
キューピッドのほかには赤い空間があるだけで、画面にはほかに具体物はまったくない。それでいっそう浮遊感がましている。
前に来たとき、これが見納めかもしれないと去りがたい思いで眺めたのだが、再会できてよかった。

* また1時間ほど走って大津駅近くのレンタカーの営業所に戻った。
静かな大津駅から10分ほど電車に乗ると、京都駅は人があふれていて、また落差の大きさにあらためて感じ入る。
新幹線ホーム下の混みあう通路で駅弁を買って新幹線に乗った。


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参考:

  • 『街道をゆく 34』「大徳寺散歩、中津・宇佐のみち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1990
    『街道をゆく 2』「韓のくに紀行」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1972
  • 『猪飼野-追憶の1960年代』 曹智鉉 新幹社 2003
    『闊歩する在日』 丁章 新幹社 2004
    『女たちの猪飼野』 太田順一 晶文社 1987
  • 「命の恩人・鄭詔文さんに応え続けたい」熊倉浩靖 『高麗美術館館報』第111号 高麗美術館編/刊 2018
    『井上房一郎・人と功績』 熊倉浩靖 みやま文庫 2011
  • 2泊3日の行程 (2018.11/30-12/2)
     (→電車 ⇒地下鉄 =バス -レンタカー ➩タクシー ~船 …徒歩)
    第1日 新大阪駅→鶴橋駅…生野コリアタウン…桃谷駅→大阪港駅…天保山大観覧車…天保山渡船場~天保山渡船場…桜島駅→京都⇒四条駅…清水家錦…四条駅⇒京都駅…ダイワロイネットホテル京都駅前(泊)
    第2日 京都駅⇒鞍馬口駅…大徳寺➩高麗美術館=京都駅→東福寺駅…東福寺➩東寺…京都駅→大津駅…ホテルブルーレーク大津(泊)
    第3日 …大津駅-'ラ コリーナ近江八幡'-鬼室神社-'MIHO MUSEUM'-大津駅→京都駅