「大和丹生川(西吉野)街道」-挿絵の地をめぐる国内最後の旅


前に『街道をゆく』の「十津川街道」と「熊野・古座街道」をたどって、紀伊半島の中央部を南に下ったことがある。(→[紀伊半島で川めぐり])。
「大和丹生川(西吉野)街道」 は、そのコースからほんの短い距離だけちょこんと突きだしたような道で、そのときあわせて回ろうかと思ったのだけれど、日程がきつくなるのであとで別に行くことにしていた。
『街道をゆく』は国内で53街道あるが、その52をめぐり終えて、最後にこの西吉野の短い街道に向かうことになった。

第1日 京都駅 和風レストランよしの川 五新鉄道跡 賀名生バス停跡 柏荘 西田家 福寿荘(泊)  
第2日 丹生川上神社下社 天河大弁財天社 洞川温泉 栄山寺 橿原ロイヤルホテル(泊) 
第3日 [古美術 近藤] 京都駅 

第1日 京都駅 和風レストランよしの川 五新鉄道跡 賀名生バス停跡 柏荘 西田家 福寿荘(泊)

* 新幹線で京都に降り、近鉄に乗り換えて大和八木駅で降りる。
駅から近い営業所でレンタカーを借りる。
南に走って奈良県五條市に入る。
前に紀伊半島を南に縦断した旅もここが起点で、そのときと同じように今日もここで昼どきになっている。


● 和風レストラン よしの川
奈良県五條市小島町449-1 
tel. 0120-367-105 0747-23-0123(さきやま観光株式会社)


吉野川に沿ってあるレストランに入る。
司馬遼太郎一行が、十津川の旅のときにここで昼を食べたと推定される店。
それで僕は前にもここで昼にして、前は妻と2人だった。
今日はひとりだからいい席は遠慮しようと思ったが、明るい店員さんが窓際へどうぞと軽やかにすすめてくれて、窓際の眺めのいい席に座る。
和風レストランよしの川から、吉野川の眺め

前に妻はえびフライ定食にした。僕はハンバーグだったが、えびフライを1口2口もらって食べてみると、こりっとした歯ごたえがあっておいしい。レストランで食事すると妻の選択のほうが正解だったということがしばしばある。次にここに来ることがあったらえびフライにしようとぼんやり思ったのだが、ほんとうにその機会ができたので、えびフライを注文した。
今日もおいしくて、前の心残りがすっきりした。

* 五條市の中心部へ。
図書館に駐車場があるか電話でたずねたら、すぐ前の市役所に置くようにとのことで、市役所に走って駐車した。


■ 五條市立図書館
奈良県五條市本町1-1-5 tel.0747-22-4133


旅に出る前に調べたとき、はっきりわからないところがあり、知りたいと思ったのだが、短時間では求める情報が見つからなかった。
五條市立図書館

* 市役所に車を駐めたまま市内を歩く。

■ 五条駅
奈良県五條市須恵三丁目
(市の名称は五條市だが、駅は五条駅)

五条駅
五条駅

五条駅前バス停
五条駅前バス停
駅舎の外にバス用の小さな待合室小屋が建っている。
ここを起終点にした短い路線がいくつかあるほか、奈良県の大和八木駅と、和歌山県の新宮駅を結ぶバスがとまる。紀伊半島を縦断して167キロもある長い路線で、高速道路を使わない路線では日本一の走行距離という。
待合室にある路線図を見ると、停留所がたくさんあって気が遠くなる思いがする。166もあって、6時間以上かかる。
ここから新宮までは4500円。大和八木までは1090円。
とても長いから1日1往復かと思ったが、新宮駅の通過時間では10時台から15時台までに3往復ある。
南の新宮発は早朝5:53が最初で、あとは7:46、9:59。(キリよく6時、8時、10時発にしたらわかりやすそうだが、なにか理由があるのだろう)
北の大和八木発は、9:15、11:45、13:45で、こちらはととのった数字になっている。

南北からそんな時間に出るバスが、新宮では昼をはさんだ時間に通過する。
前にNHKテレビの『サラメシ』で、この路線の運転手さんが紹介されたことがある。始発から終点まで交替なしにひとりで運転し、途中に短い休憩があってサラメシを食べていた。

かつて奈良県五条駅と和歌山新宮駅を結ぶ五新線(ごしんせん)という鉄道を走らせる構想があった。沿線は吉野杉などの木材の産地で、その木材を輸送するのが目的だった。
1939年に建設を始め、1959年に五条駅から西吉野村城戸(現・五條市西吉野町城戸)まで路盤が完成したところで、鉄道のための路盤をバス専用道としてつかって城戸までのバス便が運行されはじめた。
時代が移って、1982年に鉄道の工事は凍結。
五条-城戸間のバス路線は、国鉄(のちに西日本JRバス)が運行したが、2002年にJRバスは撤退、その後は奈良交通が運行した。
2014年9月30日に奈良交通も運行を終了。
代替として並行する国道を走る便を増便している。
五新線の路盤は、高架が国道をまたいでいたりして障害になる部分は解体され、そのほかのところは歴史的遺物となって残っている。

五条駅前のバス停の小屋の中に、奈良交通のバス路線図がかかっていた。
まだ専用道を走る路線が記されたままの古いものだった。
「専用道大日川」-「衣笠」-「専用道黒渕」といったふうに停留所名がある。並行して国道を走るバス路線もあるから、停留所名が重なるところでは「専用道」を冠していたようだ。
小屋の外には、専用道をつかう路線がない新しい路線図があった。

* 市役所に戻るが、通り過ぎて鉄道跡に向かう。

■ 五新鉄道跡/新町通り

五新鉄道跡
五條市内にも五新線の跡が残っている。
国道を歩いていくと高架部分が見えてきた。
国道をまたぐ真上の部分は最近に解体撤去されたと、五条駅前の観光案内所できいた。


アーチを眺めながらたどっていくと、土手の手前で高架が途切れる。
土手を上がると、吉野川がゆったり流れていた。
吉野川

土手から降りて、吉野川と国道にはさまれた新町通りを歩いて戻る。
両側に古い民家が並んでいて、風情があり、観光客が記念写真を撮ったりしながらポツリポツリ歩いている。
前に五條に来たときは、これから長い十津川へ向かう旅の始まりだった。
司馬遼太郎一行が食事をしたらしきレストランと、須田剋太が挿絵を描いた五條市民俗資料館(五條代官所跡)だけ寄って五條を出た。
その後、鉄道跡とか、新町の古い家並みのことを知り、惜しい思いがしていたのだが、また来られてよかったし、鉄道跡はこの旅でこれから行くところにもつながっている。

* 市役所に戻って車に乗り、国道168号を南に走る。

■ 賀名生の里歴史民俗資料館/賀名生バス停跡
奈良県五條市西吉野町賀名生5番地 tel.0747-32-9010

賀名生の里歴史民俗資料館
「賀名生」とかいて「あのう」とよむ。とてもむずかしい。
資料館の展示をひととおり見てから、外に出て、専用道のバス停跡に向かう。
国道から資料館の駐車場に入ってきたのだが、国道と専用道が資料館をはさんで並行していて、バス停は資料館の裏手の方向にある。

賀名生の里歴史民俗資料館の裏の丹生川
国道と専用道の間を丹生川が流れていて、資料館を出て細い道を行き、橋を渡る。
短い坂をあがるとすぐ専用道にでた。

バス路線は廃止されたが、雨風を防ぐ屋根と壁だけの簡素なバス待ちの小屋は残っている。

五新鉄道のバス専用道のバス停

このバス停は河瀬直美監督による映画『萌の朱雀(すざく)』の主要場面だった。
映画は西吉野の山の斜面の高いところに暮らす一家の物語。
時代は五新線が最終的に断念されたころで、建設に関わっていた一家の主は目的を失って無気力な日をおくっている。
尾野真千子が演じる娘は中学生で、五新線の路盤をつかった専用道を走るバスで通学している。(尾野真千子は実際に地元の中学生だったが、河瀬直美によって主役に抜擢された。目をかけた監督も、それにこたえて演じてさらに飛躍していった女優もすごいと思う。)
家から坂を下りたところにあるバス停が、資料館裏手にあるバス停で、映画に幾度もあらわれて印象深かった。
映画の公開は1997年で、このころバスを運行していたのはJRだったが、バスの車体の文字を「国鉄」に塗り替えて撮影したという。
映画では、停留所の小屋の側面には「清酒五神 五條酒造株式会社」という広告がかいてあった。
バスの運行はなくなり、清酒五神の広告も消され、小屋のなかには「市有地につき一般通行禁止」という注意看板が置かれていた。

西吉野の農家はほとんどが山頂にある。山頂の樹木を伐りはらって畑や果樹園にしているため、西吉野を見ようと思えば、川底ばかり歩いているということは都会でいうと地下道だけを歩いて東京・大阪を見たというようなものだそうである。覚悟して
「登りますか」
 と須田画伯をかえりみると、須田さんも覚悟したらしく、小さくうなずいた。(『街道をゆく 8』「大和丹生川(西吉野)街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1977。以下、別にことわりのない引用について同じ。)

司馬遼太郎はこの旅で谷底にあるような十日市の集落を歩いたとき、西吉野を知る同行者からこんなことをいわれている。司馬遼太郎は坂を上がることが苦手なのだが、それではと1つだけ鹿場(ししば)という地区の高みに上がってみることにした。
でも、そこで重要文化財の家に案内され(重要文化財西田家住宅で後述する)、『街道をゆく』の文章ではその家について記していて、山のうえの暮らしにふれた様子がない。
映画『萌の朱雀』は山の斜面の高いところに暮らす家族を描いている。
朝、釜で御飯を炊くシーンから始まり、湯気がたって、山の朝のすがすがしい空気が画面にあふれていた。
座敷で憩うシーンでは、谷を隔ててむこうの山が青く見わたせる。
「西吉野を見ようと思えば」と言った人は、こういう暮らしの景色を想定していたのだったろう。
映画のおかげで、20年ほど前の五條と西吉野を結ぶ鉄道に関わる歴史と、西吉野の山の暮らしをビジュアルに思い浮かべることができた。

「賀名生和田北口」バス停 短い坂をおりて国道にでると、今運行しているバス路線の停留所があり、「賀名生和田北口」というのだった。
前に十津川に向かったとき、この国道を通った。
そのときは、五條市に鉄道跡の高架が残っているとか、国道に並行してバス専用道があったこととか知らずに走りすぎたのだった。

バス停の壁にかかれていた五條酒造の清酒五神が気にかかっていたが、旅の初日に酒を買っては、あとずっとリュックが重くなる。
帰ってから五條酒造のサイトで注文して届けてもらい、旅をなつかしんで飲んだ。
五條酒造の清酒五神

* 国道168号を南東に走る。道は丹生川に沿っている。川が蛇行していて道が立て続けに2度川を渡ったところで西吉野トンネルに入る。
トンネルを抜けてすぐ左の細い道に入ると、まもなく司馬一行が泊まった柏荘がある。


● 柏荘
奈良県五條市西吉野町黒渕1323 tel.0747-32-0019
http://kashiwaso.biz/

 われわれは黒淵という所ををめざしている。さきに宿をさがしていたとき、黒淵に老舗の宿が一軒あることがわかり、川北さんに交渉してもらったところ、泊めてもらえることになった。

この宿が柏荘で、司馬遼太郎は、この宿にその日会った西吉野の人たちを招いて夕食の宴もしている。川北さんというのは西吉野に住む人で、司馬一行が現地に着いてから案内に加わっている。

僕はこの旅に出る前に行程を考えていたとき、ほぼ夕方ここに着きそうなので泊まりたいと思って電話したが、あいにく満室だった。
それでも話だけでも伺えればと思って寄ってみた。泊まらずに寄るにはあいにく夕方になっていて、旅館としてはいちばん忙しくなる時間だろう。
ためらいながら玄関を入ると女将に迎えられた。用事があって出かけていて、今ちょうど戻ったところ、これから客を迎える準備にとりかかるという、やはり忙しいところだった。玄関にはたくさんのスリッパをきれいに並べてあり、客の到着を待っている。
それでも、わけを話すと玄関をあがってロビーにあがるよううながされた。

柏荘

女将の今北真理子さんは司馬遼太郎一行が来たとき、会っていたのだった。
司馬さんはきさくな人で、司馬作品のファンだった今北さんは著書にサインをいただいという。
須田さんはそれに比べてものしずかだったという。
サインの入った本と、司馬遼太郎が残していった書を見せていただいた。
書は丸い額に入っている。
 石清水ハ天ノ恵ムト(コ)ロ
 下つ里ハ丹生川の末ニテ汲め
 柏荘ニテ 一九七五.九.七 司馬遼太郎
(コ)とあるところは、司馬さんがいい気持ちに酔っていてひと文字抜いてしまったそうで、あとから挿入してある。

西吉野を案内された川北さんは今年90代半ばで亡くなられた。
十日市でその家に寄り、柏荘の宴に加わった鎌田さんも亡くなられたが、鎌田家にはご親族が暮らしておられるとのことだった。
ご迷惑な時間に訪ねてしまったが、懐かしんで話をきかせていただきありがたいことだった。

* 細い道を戻ってまた国道168号に出る。
少し走ると、左に県道20号が分岐している。
国道はかつて十津川に向かって走ったことがある道だったが、ここで左へ県道にそれた。
今夜予約してある宿の近くを通るのだが、まだ日暮れには間があるので先に行くことにした。
鹿場(ししば)というあたりで、県道から左へさらに細い道にはいり、まがりくねった坂を上がった。


■ 重要文化財西田家住宅
奈良県五條市西吉野町鹿場

道がやや広くなっているところに車をとめて、西田家に向かう道を下ると、大きな屋根をもつ家が現れた。
茅葺きはトタンで覆われ、右に時代の新しいふつうの住宅があり、左の斜面にはちょっとした花など育てて庭ふうにつくられている。
重要文化財西田家住宅

でも今たまたま留守というふうではなく、人の気配、生活の気配が薄い。
かといって家も庭もこざっぱりしていて、空き家のようでもない。
わきに五條市教育委員会が立てた重要文化財西田家住宅の説明板がある。
江戸時代17世紀のもので、もとは「西の坊」という寺だったと伝わっている。

前述のように、司馬遼太郎は谷間の底にあるような十日市を歩いたとき、「川底ばかり歩いているということは都会でいうと地下道だけを歩いて東京・大阪を見たというようなもの」と、山の高みに行くことを勧められ、山を上がってこの家に来た。
当主の西田敏一さんと会って話したこと、家の中の間取りのことなどが『街道をゆく』の文章に記されている。
西田家住宅は1968年に重要文化財に指定されている。
司馬一行が訪れたのは1975年だから、すでに文化財に指定されていて、それで案内する人たちもここを選んだのだろう。


須田剋太がその家の内部を描いている。
右奥の部屋には仏像が立っていて、「ホトケサンノマ」といわれる仏間になる。
その手前に畳が(絵から数えられるかぎりでは少なくとも)6枚あるように見える。
須田剋太『西田家』
須田剋太『西田家』

この重要文化財の住宅は、1989年から1991年にかけて解体修理が行われ、修理工事報告書が刊行されている。
古書店で入手してみると、修理前と修理後の間取り図が対比できるように並べて掲載してあり、解体前に6畳だった「ホトケサンノマ」は、さらにそれ以前のもとの姿の4畳に復されている。
1975年に訪れた須田剋太は、解体修理前の西田家を描いたことになる。

* 車に戻り、山道を下って、もとの県道に出た。
すぐ先に十日市の集落がある。


■ 十日町・鎌田邸
奈良県五條市西吉野町十日市

谷間の狭い平地のわりに広い敷地をもった鎌田家がある。
ここに『街道をゆく』の一行が寄って、医師であり、西吉野村長もされた鎌田三郎氏に会っている。

鎌田家 須田剋太『鎌田三郎氏宅』
須田剋太『鎌田三郎氏宅』

今はここで病院は開業していないらしく、ひっそりしている。
私邸にあえて伺いにくいが、住んでいる方の姿を見かけることでもあれば、ごあいさつし、庭だけでも拝見できればと思っていた。

 庭は吉野風の庭で、こういう庭は他の地方にあるのだろうか。
 山を削りとって屋敷地を作るということは、すでに触れた。その削りとって断崖になった山肌をそのまま庭にしてしまうのである。ふつう、世界中の庭というのは平面だが、吉野の庭ばかりは立体であるといっていい。

住む人の姿を見かけることはなかったのだが、家からさがってすこし離れてみれば、なるほど家の背後の山の斜面が庭になっていて、家に入らなくてもみごとな庭を拝見できるのだった。

鎌田家の立体的な庭


鎌田家の前の道は丹生川に沿っている。
丹生川


須田剋太『川底の商家群』は、このあたりを高いところから見おろした視点で描いたようだ。
実際にこういう高い位置に行ったのか、高い位置から見おろして撮った写真でもあって参考にしたのか、想像で視点を補正して描いたのか、わからない。
そもそも僕が通ったかぎりでは、十日市にこれほどの戸数があるように思えなかった。
須田剋太『川底の商家群』

* 十日市の集落を抜けて北に(宿からさらに遠ざかる方向に)走ると唐戸の集落がある。

■ 唐戸

司馬遼太郎の知己に三輪昌子さんという西吉野生まれの人がいて、「大和丹生川(西吉野)街道」の案内役として同行していた。
その三輪さんの生地が唐戸という集落で、県道沿いにある。

須田剋太『唐戸風景』
須田剋太『唐戸風景』

西吉野町唐戸
須田剋太が『唐戸風景』を描いている。
『街道をゆく』の挿絵に道の途中や山の風景がしばしばあるが、対象範囲が広いので、こういうのは場所を特定するのをはじめからほとんど諦めている。
でも『唐戸風景』については、集落の位置は特定できるし、考えられる道がいくつもあるわけではない。それでグーグルのストリートビューで見ていたらそれらしいところがあって、持参する地図にマークしておいた。
光台寺という寺の近くらしい。
レンタカーのカーナビにその位置をセットして行ってみると、道ばたに生えている木が育っていてそのままには見えにくいが、ここと判断していいようだった。

* 走ってきた道を5キロほど戻って、今夜の宿に入った。

● 福寿荘
奈良県五條市西吉野町城戸398 tel.0747-33-0652 松村圭祐さん

宿の裏を丹生川が流れている。
2階の部屋に通されて見おろすと、水が右から左へ(東から西へ)流れている。
右=上流には、明日行く予定の丹生川上神社下社がある。
左=下流は、今日通ってきた賀名生(あのう)のあたりを流れて、五條市街の南で吉野川に合流する。(そして吉野川は西に流れて和歌山県に入ると紀ノ川になり、和歌山市で海に入る。)
対岸にはさっき走り抜けてきたトンネルがあり、恋風トンネルという文字が掲げられている。
早い水音がずっと続いているうちに、ときたま鹿の声がある。

福寿荘から丹生川と恋風トンネル

夕食は1階の食堂で。
大きなテーブルの一端では、ちょうど鹿場に住む男性3人が食事しながらの寄り合いで、なんとなしまじえてもらうふうになった。
『街道をゆく』の挿絵の地をたどっていることを話して、絵を見てもらった。
道からの風景を書いた『唐戸風景』について、光台寺付近であることに異見はなかった。
唐戸生まれの三輪昌子さんが司馬遼太郎一行に出発点から同行して案内したのだが、ひとりの人は三輪さんとは縁戚関係にあるという。
現地で加わって案内した川北さんが今年亡くなられたことは柏荘でもおききしたが、その住まいは挿絵にある橋の上にある家とのこと。
唐戸はこの宿のあたりより100m高く、雪が多いという。
ひとりは植木の仕事をする人で、鎌田家の立体的な庭の手入れにはけっこうな経費がかかっているという。かごつきのクレーン車で作業するそうだから、なるほどどと思う。
ロープなしで枝につかまって作業することもあると話すと、別の人が、えっ、そんな!という感じで驚いていたから、それほど急な斜面ということなのだろう。
ひとりは五條市議会議員で、選挙が近い。そういえば五條市を移動しているうち、幾度か選挙ポスターを貼る掲示板を見かけた。梅林と桜が有名だが、こぶしやもくれんの咲く時期がいい、次はその時季に来るようにとすすめられた。
宿の女将は福寿草のころがおすすめ。
きいているとはなざかりの里という気がしてきた。

食事に子持ちアユがあった。
最初のひとくちを噛んだとき、軽やかな香ばしさにはっとする感じがあった。
卵をたくさん含んでいて、初夏のアユとはまた別の味わいがある。
食事の前にはいった温泉は、湯加減も、ひたっている体感もけっこうなもので、出るのが惜しくなるのを振り切ってあがった。
そして地元の人たちの寄り合い。
司馬遼太郎は柏荘にその日会ったひとたちを招いたのだが、はからずも僕も同じような状況をえられた。
『街道をゆく』の挿絵の地をめぐる旅も国内はこれが最後になるが、こんな幸運でぜいたくなことは初めてで、すてきな一夜だった。

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第2日 丹生川上神社下社 天河大弁財天社 洞川温泉 栄山寺 橿原ロイヤルホテル(泊)

* 朝、川が流れる音がしていて気づかなかったが、外を見ると雨が降っている。『街道をゆく』をたどる旅では、雨が予告されていてもなんとか降られずにすむということが繰り返しあり、いつものお約束のようになっているが、今日はついに降られた。
宿を出るとき、名産の柿をみやげにいただいた。
夕べも満ち足りたが、またさらにうれしさが加わった。

十日市で県道20号から138号に右折し、きのう来た鎌田邸のわきを過ぎる。
対向車があればどちらかが広いところまで後退しなくてはならないほどに狭い道を走る。
おまけに雨だし、道は小さなカーブの連続。
さいわい対向車は1台だけ、広いところで出会っただけですんだ。
道は丹生川と並行していて、川が右に左に入れ替わる。
廃校らしき校舎があって、下市コミュニティ体育館の看板がかかっていた。
あいにくの雨だが、晴れていたら道の両側を過ぎていく木々が紅葉がきれいだろう。
国道309号にいきあたって右折するとすぐ神社があった。


■ 丹生(にう)川上神社下社
奈良県吉野郡下市町長谷1-1 tel.0747-58-0823

駐車場に車を置き、傘をさして、参道のわきから境内に入ると、まずニワトリの声に驚かされ、次に馬小屋があって、白と黒、1頭ずつの馬がいて、これにも驚いた。
ちょうど馬小屋をあけたばかりで、馬の世話を始めようとしている人がいた。
これから飼い葉を与えるところで、近くで眺めても写真を撮ってもいいが、おなかをすかしているから手を出さないように注意を受けた。
大阪から来て世話をしているとのことで、こういう方が何人か交替で世話しているらしい。(あとで駐車場になにわナンバーの車がとまっているのに気がついた。)
雨・水に関わる神社で、止雨に白い馬、祈雨に黒い馬があてられる。

本殿に向かった。
須田剋太が『丹生神社』を描いているが、その絵とは違うふうだ。
鳥居も、しめ縄も、周囲も、共通するところが見当たらない。

丹生(にう)川上神社下社 須田剋太『丹生神社』
須田剋太『丹生神社』

『街道をゆく』の「大和丹生川(西吉野)街道」は、連載3回分だけの短い旅だった。
そのうち第2回に『丹生神社』の絵が掲載されている。
ところが、司馬遼太郎の文章では、実際に丹生神社に寄ったように思えない。
「古社として有名な丹生川上神社も存在する。」
「三輪昌子さんの故郷の西吉野村に丹生川上神社の下社がある」
といった文章で、事実・知識をのべているだけで、実際に訪れたふうではない。

司馬一行』の旅は、下市から出発して、十日市に向かった。
国道309号を南下して、丹生川上神社下社に寄ってから十日市に向かうという行程もありうる。
でも司馬遼太郎の文章によると、西南へゆく枝道を行き、栃原、唐戸という地名を通っているから、県道20号を通ったと考えられる。
十日市に着いたあと丹生川上神社に行くとすると、僕がヒヤヒヤしながら走った県道138号を往復することになる。
司馬遼太郎の文章でも確かにここに寄ったとは読み取れないから、須田剋太は後日なにかしらの資料によって描いたと思える。
そのとき、丹生川上神社は3つあるから、下社ではないほかの写真もあって、違う写真から描いた可能性がある。(こういうことは他の街道でいくつかあった)
・ 丹生川上神社上社 奈良県吉野郡川上村大字迫869-1
・ 丹生川上神社(中社)奈良県吉野郡東吉野村大字小968
ただその2つの神社の写真を見ても、写真だけだからはっきりしたことはわかりにくいが、どうも須田剋太の絵とはしっくりしない。
どちらの神社もそれらしくないし、下社から上社へは東へ約34km、1時間、上社から中社へはさらに約22km、45分ほどかかる。
確かめにはいかないことにして、『丹生神社』の絵は謎のままになった。


これで「大和丹生川(西吉野)街道」の挿絵の地をめぐる旅は終えた。
あと『西吉野入口』という絵があるのだが、こういう景色は場所を特定しがたい。

(須田剋太『西吉野入口』)
須田剋太『西吉野入口』

短い「大和丹生川(西吉野)街道」の旅は、連載3回で、挿絵は6枚。
絵のように風景を眺められたのは『唐戸風景』『鎌田三郎氏宅』の2つだけ。
『川底の商家群』はどこから描いたかわからない。
『西田家』は、中に入れないし、入れたとしても解体修理で様子が変わっている。
『丹生神社』はどこかわからないし、『西吉野入口』は場所を特定できない。
挿絵を描いた地点をたどるという意味では成績がよくなかった。
それでも柏荘の女将が忙しいなか対応された心遣い、福寿荘での温泉と食事と楽しい集まりなど、忘れがたいいい旅になった。
また映画『萌の朱雀』が、五新線のことや西吉野の山の暮らしを教えてくれて、このあたりへの思いをふくらませてくれた。

* このあと天川村に向かった。
天ノ川(てんのかわ)という川が流れていて、天の川(あまのがわ)みたいなその名前に心ひかれていた。


■ 天河大弁財天社
奈良県吉野郡天川村坪内107 tel.0747-63-0334

天河大弁財天社
社殿に対して階段が斜めに上がっていく。
上がりきると、中央にスペースがあり、左に拝殿、右に能舞台がある。
おもしろい空間構成だった。

* 北に走ると洞川温泉がある。

■ 洞川(どろかわ)温泉
奈良県吉野郡天川村洞川

洞川(どろかわ)温泉 天ノ川に並行して温泉街がある。
『萌の朱雀』の家族がここで働いているシーンがあった。
雨の中をゆるゆると歩いて行くと、いい風情に旅館や土産物店が並んでいて、気持ちもしっとりしてくる。
鮮やかな紅葉と黄葉がそろって並んでみごとな宿 があった。
食堂があってランチにした。

* 午前中は十日市から丹生川上神社まで、西から東に県道138号を走った。
東西を結ぶ道はそれより南に県道49号もあって、午後はその道を東から西に走った。こちらも狭い道で、相変わらず雨だし、対向車が現れないことを祈りながら走る。
今度もさいわい道が狭いところで面と向かってしまうことはなかった。
一度、向こうから軽自動車がやってくるのが見えて、広いところで待ったことがあった。ところが近づくまでとても時間がかかって、自転車より遅いのではと思えるほど。ようやくすれ違ったのを見ると、運転者はそうとうな高齢のようだった。車がなくては暮らせないのだろうと苦労を思った。
国道168号に戻って、賀名生を通り、五條市街に戻った。


■ 栄山寺(えいさんじ)
奈良県五條市小島町503 tel.0747-22-4001

『街道をゆく』「十津川街道」の旅で、司馬一行は吉野川を見おろすレストランで食事をとった。文章に店の名はでてこないが「和風レストラン よしの川」と判断して間違いないだろう。
「十津川街道」にこういう文章がある。

「ここへは、来たことがあります」
 須田画伯がいった。だれかに連れられて、おなじこの川の岸辺にある栄山寺まできたとき、ここで食事をとったという。
 栄山寺というのは、私も二十年ほど前、吉野の大淀町佐名伝(さなて)に住む児童文学者の花岡大学氏につれられて栄山寺に行った。栄山寺は天平以前の養老三年(719)の創建だからこの大和においては創建年代のもっとも古い寺のひとつになる。(『街道をゆく 12』「十津川街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1980)

僕はこのレストランに十津川への旅のとき寄ったし、今度の旅のはじめにも寄った。でも近くにあるらしい栄山寺には行かなかったのだが、今夜予約してあるホテルに行くまでに余裕があるので、ようやく寄ってみた。
道に面した駐車場に車を置いていくと、入り口が構えたふうでなくさりげなくていい。拝観料をおさめるのだが、受付の枯れたやさしい感じの老人も何だかふさわしい。

境内に入って、線状の庭がまっすぐ先へのびているのを、ゆるゆる歩いて行く。
鐘楼があり、なかに吊された梵鐘は国宝で、菅原道真の撰、小野道風の書と伝わる銘文があるのだが、暗い楼内に黒い鐘で、字はよく見えない。
さらに先に行くと国宝の八角堂がある。
栄山寺 国宝の八角堂

 私の記憶の景色では境内に雑草がくまなくしげっていて(中略)建物から受ける感動よりも、川原の浅茅(あさじ)ケ原といった印象のほうがつよかった。(同上)
と司馬遼太郎はここを訪れたときのことを書いていて、僕も同じような感想をもった。今は雑草がくまなくしげっていることはなく、手入れがされているが、散髪したばかりの頭みたいに几帳面に整えられていなくて、適度に自然な感じで気持ちががなじんだ。
寺を出て道に戻ると、すぐ先にレストランよしの川が見えている。
こんな近くだったのかと拍子抜けしたほどだが、2度の旅とも旅の初めだったから、こんなに近いとわかっていても寄ることはなかったろう。
車から傘を持って出たが、もう雨雲がとおりすぎたすぎたようで、ささずにすんだ。

* 今夜は橿原神宮前駅の近くのホテルを予約してあり、北に走る。

■ 壺坂寺
奈良県高市郡高取町壷阪3 tel.0744-52-2016

国道168号線を北に走っているとき、壺坂寺へ右に分岐する案内標識を見かけた。
前に近鉄の飛鳥駅でレンタサイクルを借りて壺坂寺まで走ったことがある。
夕暮れまでに時間があるので、右折して壺坂寺まで行ってみた。
ずっと登り坂で、車でもちょっとした距離がある。
寺の駐車場に入ったが、境内はかなり広く、階段の上がり降りも多いから、中には入らずに引き返した。
戻るときに飛鳥駅までの距離を見たら6キロほどだった。自転車で走るのにはたいした距離ではないが、レンタサイクルで山道をよく走ったものだとあらためて思った。
→[大阪から奈良へ竹内峠を越え、京都でコンサートを聴く]

* レンタカーを返す前に給油したいのだが、はじめに行ったガソリンスタンドは給油装置がが梱包されていて、廃業したふうだった。
次に行ったところは、給油装置はいきているが、流通業らしき看板がかかっていて、転業したふう。
3つ目に行ったスタンドでようやく給油できた。
大和八木駅に近い営業所に車を返した。


■ 今井町の街並み
奈良県橿原市今井町

大和八木駅から南に歩いて短い橋を渡ると、そこまでの駅近い商店街、住宅街とは別世界のような一画がある。
その今井町には江戸時代の建造物が多くあり、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
ここは『街道をゆく』の「大和・壷坂みち」に登場するところで、数年前に来たことがある。(→[春の奈良めぐり])

今井町の街並み
ホテルはもう遠くないし、ふらっと寄り道した。
橋を渡ると静かで人が少ない。
たまに地元の人を見かけるだけ。
家の門灯がぽつんと灯ったりして、人こいしくなる時間だ。

* 八木西口駅から電車に乗り、2駅目の橿原神宮前駅で降りる。

● 橿原ロイヤルホテル
奈良県橿原市久米町652-2 tel.0744-28-1511

8階あるホテルの7階の部屋に入る。
窓から外を見おろすと駅がある。
橿原神宮前駅は、路線がYの字状に交わっていて、北へは近鉄南大阪線と近鉄橿原線、南へは近鉄吉野線が出ている。
車庫もあってたくさんの線路があり、7階の部屋まで、電車が走る音、ポイントをこえるときにゴトゴトいう音が、かなりひんぱんに聞こえてくる。
その周囲には住宅が広がっている。
夕べは西吉野の山中の川に面した宿にいたのだが、今日は都市のホテルにいることに、ちょっととまどうような感覚がある。
こういう変化も旅のおもしろさ、楽しみだと思う。

橿原ロイヤルホテルから 近鉄橿原線
近鉄橿原線の電車が走り、向こうには畝傍山(うねびやま)が闇に溶けこもうとしている。

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第3日  [古美術 近藤] 京都駅

* 朝、窓の外を見ると、昨日とは見違えるようにすっきり晴れている。
今日は京都で寄り道してから新幹線で帰る。
木曜日のことで、平日の朝に京都へ向かう電車は通勤通学で混雑するものか、土地勘のないところだからわからない。
8:03発の橿原神宮前始発京都行きの急行に乗ると楽に座れた。
あとは駅ごとに乗り降りする人が多くいて、かなり混雑する区間もあった。
周囲にいる人はほとんど入れ替わって、京都まで乗った人は少ないようだった。
京都駅でコインロッカーにリュックを入れ、地下鉄で四条まで行く。
四条通を東へ歩いて、京都大丸を過ぎ、鴨川を渡ると、正面に八坂神社が見えてくる。


■ [古美術 近藤]
京都市東山区祇園町北側278 tel.075-561-4367

祇園に[近藤]という老舗の古美術店があり、ここに行くようにさしむけるかのようなことがいくつか重なっていた。

京都の天使突抜という奇妙な地名のところに、マリンバ・木琴奏者として活躍する通崎睦美さんが住んでおられる。京都大丸で、画家が希望者の肖像画を描くという正月恒例のイベントを実施していたことがあり、通崎さんは須田剋太に10年にわたって毎年描いてもらったことがある。お姉さんもおられて、姉妹あわせて20枚の珍しい肖像画コレクションになっている。
それを見せていただきに通崎さんの家を訪ねたことがあり、通崎さんから「近くに[近藤]という骨董店があり、須田剋太作品がある」とおききした。そのときは時間の都合で[近藤]までは行きそこねた。
須田剋太『新春初姿  通崎睦美女肖像』須田剋太『新春初姿  通崎睦美女肖像』

松山市にある坂の上の雲ミュージアムでは『街道をゆく』の挿絵原画展を毎年秋に開催している。挿絵と並べて、挿絵の地の現在の風景を撮った写真を展示するのだが、2016年のときには現在のものとしては僕が撮った写真がつかわれた。
あわせて当時の松原正毅館長との対談が企画され、松山に行くことになった。
出かける前に、須田剋太の作品の額装を多く手がけた大阪にお住いの金田明治さんにそのことを伝えたら、「松山の知人に連絡しておく」とのことだった。
その知人は一色成人さんで、対談がある日に坂の上の雲ミュージアムに来られてお会いした。もと松山三越の美術部におられ、その後独立して松山画廊を開いて、どちらでも須田剋太展を開催してこられた方だった。
坂の上の雲ミュージアム 須田剋太『街道をゆく』挿絵原画展
(画像をクリックすると拡大します)

貴重な資料をお持ちで、拝見しながら話をうかがった。
画家が芸術の高みを目指すとしても、画材を調達しなくては絵を描けないし、人びとに知られ認められて描いた絵が売れなければ生きていけない。須田剋太はそうしたことに関心がない人だった。
東大寺の僧、上司海雲は、須田剋太が境内で絵を描く様子を見て、寺の閉門の時間をすぎても描くことをゆるし、住まいとアトリエまで与え、文化人がつどうサロンに加え、須田剋太を支えた。
上司は「壺法師」というニックネームをつけられるほどの壺の収集家でもあった。それで京都の[近藤]の主宰者、近藤金吾さんと縁があり、須田剋太が絵を描いていけるように支援をお願いし、近藤さんがそれにこたえて、画廊やデパートでの展覧会が開催されていった。
一色さんは、須田剋太はまったく経済についての意識がないから「からいこともあったがよく近藤さんが支えた」と言われた。「からいこと」という言葉に、そうとう厳しい場面があり、それでも近藤さんが須田剋太の人と作品を認めて支援したことがうかがわれる。
一色さんは、骨董を見る眼にあわせ、人柄も思い合わせて「近藤さんを尊敬している」とも言われていた。
(→[坂の上の雲ミュージアム『街道をゆく』挿絵原画展 2016]

『街道をゆく』の文章にも[近藤]がでてくる。
「紀ノ川流域」の旅で、司馬遼太郎は根来塗りについて疑問のことがあり、こういうことでたよりにしている近藤金吾さんにたずねている。
この点につき、念のため京都の骨董商の近藤金吾氏に電話できいてみた。近藤氏は前記上司海雲師に大切にされた人で、須田画伯とも古くから深い縁につながっている。(『街道をゆく 32』「紀ノ川流域」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1989)

『街道をゆく』の挿絵の地をめぐる最後の旅で、いくどか示唆されてきた京都の[近藤]をようやく訪れることができた。

古美術 近藤

上の写真の右の道は四条通で、奥に八坂神社の山門が見えている。
店の表のガラス窓のなかには、須田剋太の焼き物と小さな抽象画が置かれている。
近藤金吾さんは亡くなられたが、あとを継いでいる宗田英美さんにお会いし、話を伺った。
[近藤]は老舗の古美術店だが、店内にも須田剋太作品がかかり、店の案内にはこういう文章がある。
日本の六古窯と称される信楽、常滑の壺を中心に、北大路魯山人や人間国宝の黒田辰秋、河井寛次郎といった近世巨匠の作品を取扱っております。
先代、近藤金吾が晩年に至るまで力を注ぎ、プロデュースいたしておりました須田剋太先生(中略)の作品も常設にて御覧いただけます。
今も先代と、先代が力を尽くした画家への敬意がうかがわれる。

店内にでていない作品も見せていただいたなかに、松山で書いた書があった。

松山に来て今子規に会ひたり城の春
櫻花(はな)も見ず会場の花に酔ひて過ぎたり
   一九八八.四..二四 剋太
須田剋太の書「松山に来て今子規に会ひたり城の春」

1988年の松山三越での須田剋太展は4月19日から24日まで開催された。
その最終日に須田剋太が書いて一色さんに贈られたもので、一色さんが須田剋太に関わる作品や資料が[近藤]にそろうように託された。
[近藤]では、特別な由緒のある作品を集めた密度の濃い須田剋太展を鑑賞したかのようだった。故人となった司馬遼太郎、上司海雲、近藤金吾各氏に、今も須田剋太を敬愛し事績を伝えようとされている金田明治さん、一色成人さん、宗田英美さんたちのつながりを感じながら-もちろん須田剋太を敬愛した方はほかにも多くおられて-こんなふうに須田剋太は生きてきたのかと生涯を見はるかす気分になった。
(後日、近藤金吾氏の自伝『壺屋のひとりごと』を読んだ。→[近藤金吾著『壺屋のひとりごと』を国立国会図書館に])

ここ数年、司馬遼太郎『街道をゆく』に須田剋太が描いた挿絵の地をたどってきたが、国内の街道はこの西吉野の旅で行き尽くした。
司馬遼太郎の文章と須田剋太の絵に導かれて、僕にはもともと関心がないし名だたる観光地でもなくて、こういうことがなければ行くことがなかったはずの「こんな景色のところがあるのか」と目を見はるようなところにいくつも行きあたった。
かつて司馬・須田に会った人が懐かしんで思い出を語られるのを聞くこともあった。
司馬遼太郎の文章と須田剋太の絵は完全に1対1で対応しているのではないし、画家はときたま見えたままではなくアレンジして絵をかくこともあり、しばしば謎をかけられて、それを推理しながら歩くことも楽しかった。
過去の点をただたどるのではなく、司馬の文章と須田の絵が今にもふくらんで新たな発見やオドロキがあり、思い返せばどの旅も親しく懐かしい。
旅ごとにこうしてレポートを作ってきたが、これからこれまでの資料を整理し、総体のレポートをまとめておきたいと思う。

* あといくつか寄り道してから地下鉄で京都駅に戻り、新幹線に乗った。
最後の旅は短いが珠玉のようだった。


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参考:

  • 『街道をゆく 8』「大和丹生川(西吉野)街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1977
  • 『街道をゆく 12』「十津川街道」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1980
  • 『街道をゆく 32』「紀ノ川流域」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1989
  • 『街道をゆく 7』「大和・壷坂みち」 司馬遼太郎/著 須田剋太/画 朝日新聞社 1976
  • 『萌の朱雀』 河瀬直美/監督 國村隼・尾野真千子/出演 1996
  • 『重要文化財西田家住宅修理工事報告書』 奈良県文化財保存事務所編 奈良県教育委員会 1991
  • 『 通崎好み』  通崎睦美 淡交社 2004
  • 『壺屋のひとりごと』 近藤金吾 1990
  • 2泊3日の行程 (2017.11/7-9)
    (→電車 ⇒地下鉄 -レンタカー …徒歩)
    第1日 京都駅→大和八木駅-和風レストランよしの川-五條市立図書館…五条駅…五新鉄道跡…新町通り-賀名生の里歴史民俗資料館…賀名生バス停跡-柏荘-鹿場・西田家-十日町・鎌田家-唐戸-福寿荘(泊)
    第2日 丹生川上神社下社-天河大弁財天社-洞川温泉-五條市立図書館-栄山寺-壺坂寺-大和八木駅…今井…橿原ロイヤルホテル(泊)
    第3日 大和八木駅→京都駅⇒四条駅…[古美術近藤]…何必館・京都現代美術館…力餅…思文閣…三条京阪駅⇒京都駅