更新記録


* 『街道をゆく』の挿絵の地を2010年7月から2019年5月の10年間ほどめぐり、そのたびレポートにしてきました。
* 2018年7月から2019年12月にかけて、全レポートを修正しました。
* 以下の各回更新記録は、すべてのレポートの更新を記したものではありません。
[目次]に全レポートをあげてあり、ここはそのうちの一部の写真つきガイドのようなものです。



□ [港町・釜山と古都・慶州-「韓のくに紀行」] (2019.5.5)

『街道をゆく』「2韓のくに紀行」をたどりに韓国へ行った。
司馬遼太郎と須田剋太の韓国紀行は、釜山から慶州、大邱、扶余と周遊して、連載では30回にもわたるのだが、僕のこの旅は釜山と慶州を短くめぐった。

須田剋太『慶州吐含山石窟』
須田剋太『慶州吐含山石窟』


慶州石窟庵 ソックラム



□ [「大徳寺散歩」と「韓のくに紀行」の国内地へ] (2019.1.1)

『街道をゆく』の「34大徳寺散歩」をたどって、前に一度大徳寺を歩いたことがある。いくつもの塔頭があるが、この秋、ふだんは非公開の真珠庵が特別公開されるというので、また大徳寺に向かった。
『街道をゆく』の挿絵の地を訪ねて国内をほぼ回り終えたが、このあと韓国に行きたいと思っている。「2韓のくに紀行」では、日本国内の大阪と滋賀を描いた絵があり、京都の前後の日にその地をめぐった。

生野コリアタウン 須田剋太『大阪生野区猪飼野』
生野コリアタウン 須田剋太『大阪生野区猪飼野』



□ [はじめの旅-「檮原街道」] (2018.3.1)

8年ほど前のこと、久しく関わっていたことが文化庁から賞を受け、副賞がついていて4万円分の「ANA旅行券」をもらった。「ANAの券を使おうよ。どこにする?」と妻に相談したら、「今年は龍馬でしょ」という。2010年のNHKの大河ドラマは坂本龍馬だった。梅雨どきなら飛行機も宿もとれそうなので、高知に行く便を予約した。
そんなふうにふらっと出かけたのだが、これがそのあと50回をこえる『街道をゆく』の挿絵の地をたどる旅の最初になった

吉村虎太郎銅像 須田剋太『脱藩志士吉村虎太郎銅像』
須田剋太『脱藩志士吉村虎太郎銅像』



□ [日本最古の船着き場からその河口へ-「壱岐・対馬の道」2]
(2018.2.10)

壱岐の一支国博物館で須藤資隆館長の講演があるので、僕にとっては2度目の壱岐に出かけた。前のとき「壱岐・対馬の道」の挿絵の地をたどって須藤館長に島内を案内していただいた、その続編になる。前に行きそこねたところをめぐり、河口めぐりも楽しんだ。

古代の幡鉾川(はたほこがわ)の船着き場跡 幡鉾川(はたほこがわ)の河口
古代の幡鉾川(はたほこがわ)の船着き場跡 現代の幡鉾川の河口



□ [「大和丹生川(西吉野)街道」-挿絵の地をめぐる国内最後の旅] (2018.1.16)

『街道をゆく』は国内で53街道あるが、その52をめぐり終えて、最後にこの西吉野の短い街道に向かうことになった。
前に『街道をゆく』の「12十津川街道」と「8熊野・古座街道」をたどって、紀伊半島の中央部を南に下ったことがある。「8大和丹生川(西吉野)街道」 は、そのコースからほんの短い距離だけちょこんと突きだしたような道で、そのときあわせて回ろうかと思ったのだけれど、日程がきつくなるのであとで別に行くことにしていた。

奈良県五條市唐戸 須田剋太『唐戸風景』
須田剋太『唐戸風景』



□ [秋田の内陸へ-大館から鹿角-「秋田県散歩」2] (20107.12.1)

『街道をゆく』の「29秋田県散歩」は前に半分ほどたどったことがある。秋田市と、南部のにかほ市象潟、北部の八郎潟あたりをまわった。2011年3月の東日本大震災からまもない初夏のことで、震災のことが強烈に意識にあり、内陸部までは行かないで太平洋岸に向かった。
6年ほどを経て、秋田市を起点に、残していた能代-大館-鹿角と内陸に入り、十和田湖にでた。

須田剋太『秋田街道』。
道ばたにパラソルを広げて不思議な絵だと思っていたら、「ババヘラ」というアイスクリームを売る路上の売店で、秋田名物だった。
須田剋太『秋田街道』



□  [ 米沢から狐越街道を山形へ-「羽州街道」2 ]
(2017.9.5)

『街道をゆく』「10羽州街道」 の旅は1976年秋のことで、もう40年ほど経っている。司馬遼太郎と須田剋太は山形空港から入り、文章では明らかではないが帰るのも山形空港からだったろう。
僕らは(この旅も妻が同行した)山形新幹線米沢駅から始めて北に行き、山形から新幹線で帰った。
直江兼続の墓 須田剋太『上杉氏墓地』
米沢市林泉寺・直江兼続の墓 須田剋太『上杉氏墓地』



□  [ 富山から「飛騨紀行」を行って「郡上・白川街道と越中諸道」を戻る ] (2017.7.17)
富山を起点にして、「29飛騨紀行」を南にたどり下呂で折り返し、「4郡上・白川街道と越中諸道」 により北上して富山に戻った。古い街並が残る飛騨高山から河口の富山市へ、神通川をたどる旅としてもおもしろかった。
須田剋太『金銀のわく話』
須田剋太『金銀のわく話』
飛騨の山中の鉱山が、江戸期の飛騨国の経済を支え、のちに大きな公害「イタイイタイ病」を発生させ、さらにあとにはスーパーカミオカンデがつくられてノーベル賞をもたらすことになった。



□ [ 桜と桃の紀ノ川-「高野山みち」と「紀ノ川流域」 ]
(2017.6.10)
春のおだやかな日々に、『街道をゆく』の「9高野山みち」にしたがって高野山に行った。
そのあと紀ノ川にそって西に和歌山市へ向かって下り、「32紀ノ川流域」をたどった。

慈尊院より紀の川を見る 須田剋太『慈尊院より紀の川を見る』

須田剋太『慈尊院より紀の川を見る』



□ [ 春を迎える近江-「近江散歩」 (2017.5.3)

司馬遼太郎は近江が好きで、『街道をゆく』でも、まず最初の旅が「1湖西のみち」(1971)だったし、その後も「4北国街道とその脇街道」(1974) 、「7甲賀と伊賀のみち」(1976)、「16叡山の諸道」(1981)で近江の地にふれている。
1983年に、また近江に行くことにしたが、
 近江路は春がいい。しかし車窓から眺める湖東平野は、冬こそいい。
と、12月初めに出かけている。
僕は行くのを惜しむ春でも、冬でもなく、春を迎える3月末に出かけた。
伊吹山にまだ雪が残っていた。

伊吹山 須田剋太『伊吹雪』
須田剋太『伊吹雪』



□ [ 旧正月に中華街へ-「横浜散歩」]
(2017.4.3)

『街道をゆく』の「21横浜散歩」をたどる。
司馬遼太郎一行の取材は1982年のことで、35年前。
みなとみらい21の再開発が始まる直前のことで、今では横浜駅から桜木町駅あたりの湾岸風景は大きく変わっている。
僕はみなとみらい21の再開発より前に横浜に住んでいたことがあり、その後もしばしば訪れていて、『街道をゆく』のほかの回より直接関わりがあって、思い入れが深い。
中華街の旧正月にあわせて出かけた。

須田剋太『横浜港 山下公園』 横浜マリンタワーから山下公園
須田剋太『横浜港 山下公園』    マリンタワーから山下公園 1962



□ [台風と同行二人-「阿波紀行」]
 (2017.1.5)

松山市にある坂の上の雲ミュージアムでの『街道をゆく』挿絵原画展のあと、「32阿波紀行」をたどった。
松山から徳島へレンタカーで走り、徳島空港から羽田へ帰る予定だった。
ちょうど台風が接近していて、西から東へ台風と道連れになった。
徳島空港からは、運休になる前の便にかろうじて乗れた。
台風の徳島空港発JAL便



□ [「北海道の諸道」-開通まもない北海道新幹線に乗る]
 (2016.11.25)

旭川空港から入って札幌~江差~函館と『街道をゆく』の地をたどり(ただし逆回りだが)、2016年3月に開通してまだ半年もたたない北海道新幹線で帰った。
「15北海道の諸道」が週刊朝日に連載されたのは1979年だった。
それから37年後、新幹線だけでなく、変わっていることがいくつもあった。

旭川駅 金滴 北海道新幹線開業記念
旭川駅でコーヒーブレイク 函館から新幹線に乗ってほろ酔いで帰る



□ [紀伊半島で川めぐり-「十津川街道」と「熊野・古座街道] (2016.9.3)

紀伊半島に行った。
中央部の十津川に沿って「12十津川街道」を南下し、半島の南端近くでは古座川・周参見川に沿って「8熊野・古座街道」をたどった。
吊り橋や潜水橋を渡り、河岸の床屋跡をたずね、流れの速さ、水の色の変化に驚き、川にひたる旅になった

「私(わっち)の小さいときの村の床屋さんも、こうでした」
 と、武州の熊谷の奥のうまれである須田画伯も、幼いころに舞いもどったようにぼう然と土間に立っていた。(『街道をゆく 12』「十津川街道」 司馬遼太郎)
須田剋太『川船宿のサンパツ屋』
須田剋太『川船宿のサンパツ屋』



□ [壱岐の博物館と対馬のレストラン]
(2016.8.20)

『街道をゆく』の旅で1977年に壱岐を訪れたとき、道をたずねたのがきっかけで司馬遼太郎は教育委員会の若い職員が歴史ある島の文化を熱心に吸収しているのに出会っている。その職員はのちの2010年に、壱岐の文化財展示だけでなく島おこしも担って一支国博物館が開館したとき、初代館長に就任した。『街道をゆく』のいくつもの旅のなかでも、こういう劇的な展開は珍しい。
壱岐ではその須藤資隆館長に島を一周して案内していただき、楽しい旅になった。

対馬では「壱岐・対馬の道」の最後をしめくくるように印象的な女性のことが書かれている。この女性は司馬遼太郎が文章に書き、須田剋太が挿絵に描いてもいる。
そのレストランに行って食事をすると、たばこをくわえた司馬と女性とが一緒に写った写真を見せてもらった。『街道をゆく』の挿絵の地をたどっていて、旅先の人について文と絵と写真がそろっているのは初めてだった。
一支国博物館

須田剋太『佐須奈の老婦人』
須田剋太『佐須奈の老婦人』



□ [佐賀・長崎のフクザツな海岸線をたどる-「肥前の諸街道」]
  [日光でオランダの燈籠を見てグラバーの遺産を味わう-「肥前の諸街道」] (2016.7.26)
「11肥前の諸街道」にしたがって、福岡-佐賀-長崎の複雑な海岸線をたどって、いくつも橋を渡り、いくつも港を見た。(ついでにいつか見たいと思っていた筑後川にかかる昇開橋も見てきた。)

筑後川昇開橋ちくごがわしょうかいきょう 筑後川昇開橋ちくごがわしょうかいきょう

須田剋太が「肥前の諸街道」の旅で描いた絵に『オランダより献上された釣燈籠』がある。春に平戸に行ったとき、松浦史料博物館で、釣燈籠は日光東照宮に献上されたものと教えられ、夏になり日光で釣燈籠を見てきた。

東照宮 陽明門 日光金谷ホテル
東照宮(工事中) 日光金谷ホテル



□ [「甲州街道」-武蔵野を歩く]
 (2016.7.8)

1970年の「1甲州街道」の旅で、司馬遼太郎は八王子で徳川慶喜の熱心な研究者に会った。
今、その人が営んでいた履物店に行ってみると、荒井呉服店のすぐ隣。
荒井呉服店は荒井由美、のちに松任谷由実となった歌手の生家で、こんなニアミスがあるなんて思いがけないことだった。
また、須田剋太が武蔵国分寺跡の絵を描いているが、そこは1968年の3億円盗難事件のゆかりの地だった。ほんの1キロほど南に府中刑務所があり、その塀の外で東芝府中のボーナス3億円ほどをのせた車を奪った犯行者は、国分寺跡付近で別の車に現金を移し、乗り換えて、逃走した。
そんなことがあった1970年代あたり、僕は立川に住み、妻(になる)人は府中に住んでいて、互いの家の往き来の途中に寄った府中街道のデニーズ西国分寺店は国分寺跡に近い。
「甲州街道」をめぐると、知らなかったことの発見があったが、青春を回想する懐かしい思いもあった。

もと河合履物店と荒井呉服店 須田剋太『史蹟武蔵国分寺趾』
荒井呉服店 須田剋太『史蹟武蔵国分寺趾』



□ [緑の丹波篠山、青い瀬戸内海
(2016.6.22)

『街道をゆく』「4丹波篠山街道」のあとをたどった。
京都から篠山の山中に向かい、1泊したあと神戸方面に南下する。
「丹波篠山街道」は短い旅だったから、神戸から新幹線に乗って家に帰ってしまえるくらいなのだが、あまりにせわしい気もする。
もう1泊して、『7明石海峡と淡路みち』にちょっとからめて、ゆったりした瀬戸内を味わってきた。

須田剋太『猪肉屋さん』 芦屋市立図書館打出分室
須田剋太『猪肉屋さん』 芦屋市立図書館打出分室



□ [秋の日射しの庭-「大徳寺散歩」]
(2016.3.1)

大徳寺にはいくつかの塔頭があるが、非公開のところが多く、近づきがたい印象があってこれまでなんとなし敬遠していた。
行ってみれば人と庭につよい感銘を受けた。
須田剋太『大徳寺大仙院
須田剋太『大徳寺大仙院』



□ [いつか行きたかった萩・津和野へ-「長州路」2]
(2016.1.21)

『街道をゆく』の「1長州路」のうち、下関-防府-萩-津和野をたどった。関門海峡を挟んだ門司には行ったことがあるが、下関は初めて。萩~津和野もいつか行ってみたいと思っていたところ。
あと須田剋太が会津で描いた絵について気になることがあり、松江に寄り道した。
(写真は関門橋。北九州空港からこの橋を越えて長州に入った。)
関門自動車道めかりPA



□ [東日本大震災後の三陸海岸北部(八戸~釜石)-「陸奥のみち」(2015)]
(2016.1.1)

『街道をゆく』「3陸奥のみち」をたどって青森と岩手を旅した。
岩手県洋野町小子内(おこない)の清光館という宿に、100年ほど前に柳田国男が訪れて泊まった。6年後に訪れるとその宿がなくなっていたことを『浜の月夜』と『清光館哀史』に書き、高校の教科書にも掲載されてよく知られている。
司馬遼太郎は『街道をゆく』のなかで何度か柳田国男にふれているが、この宿があったところに行き、須田剋太が絵にも描いている。
この3者の具体的な接点になった場所が今どうなっているか、行ってみた。
今回の行程には、2013年NHKの朝ドラ『あまちゃん』の舞台になったところがある。レンタカーでめぐったのだけれど、三陸鉄道にも乗った。
2011年の東日本大震災のあと、何度かにわたって太平洋岸に行き、この旅で青森から福島までを、ほぼひととおり見たことにもなった。
須田剋太『柳田国男先生の宿った宿 小子内海岸』

須田剋太『柳田国男先生の宿った宿 小子内海岸』



□ [琵琶湖から南へ、北へ-「湖西のみち」 ほか]
(2015.12.10)

琵琶湖を基点にして『街道をゆく』の3つのコースを一度に見てまわった。
・「7甲賀と伊賀のみち」
・「1湖西のみち」
・「4北国街道とその脇街道」
琵琶湖畔海津



□ [ 薩摩へ-「肥薩のみち」2 ]
(2015.6.26)

種子島から船で鹿児島港に渡り、鹿児島県内をまわった。

『街道をゆく』の種子島の旅に同行していた沈寿官さんの窯を訪ねると、沈寿官さんに直接お会いできた。
司馬遼太郎の住まいにあった須田剋太が描いた『桜島』の絵を気に入り、渋る司馬さんを「桜島の絵は鹿児島にあるべき」と説得して譲り受けてきたという。応接間に案内され、その絵を見せていただいた。
沈寿官さんの窯



□ [ 種子島へ-丸木舟と宇宙船- ]
(2015.6.10)

『街道をゆく』に須田剋太が描いた地をたどって「8種子島みち」の種子島に行った。
ここは妻のルーツの地でもあって、100年ほど前に、祖父が種子島から上京し、東京都府中市に住んだ。祖父は50年近く前に亡くなり、それから種子島との接触はなくなっていた。
この旅には妻も同行し、戸籍から確認した種子島の住所をたずねてみると、親族が健在で歓迎された。
その親族から、妻の祖父は単身上京したのだが、さらに1つ上の世代は徳之島の人で、丸木舟で種子島に渡ってきたのだときかされた。これは妻も、今関東に住む祖父の子どもたち(妻にとっては叔母たち)も知らなかったことだった。
米の技術をもった人たちが南方から日本に来たという柳田国男の『海上のみち』を裏づけるような移動が、近代にもあったのかと驚かされた。
種子島はロケットの打ち上げ基地でもあり、『2001年宇宙の旅』で猿が投げ上げた骨片が漆黒の宇宙空間を進む宇宙船に一瞬で転換するように、丸木舟と宇宙船のアナロジーも思った。

鉄砲館の丸木舟の展示 H-2ロケット7号機
鉄砲館に展示された丸木舟 H-2ロケット7号機



□ [ 沖縄の西の果てまで(石垣島・竹富島・与那国島) ]
(2015.5.21)

沖縄本島、石垣島、竹富島、与那国島をめぐった。
青い海と、苛烈な歴史と、独特な文化で、沖縄の旅は印象がとても濃い。

沖縄県立博物館・美術館 石垣市役所
沖縄本島 石垣島
竹富島 星砂の浜 与那国空港行きDHC-8型機
竹富島 与那国島へ



□ [ 東日本大震災3年目の福島-「白河・会津のみち」(2014)] (2015.2.15)

白河を経て会津若松に行った。
原発事故のあと福島県に行くのは初めてなので、後半は太平洋岸を相馬からいわきにくだった。

須田剋太『大内宿』 塩屋崎灯台からの眺め
須田剋太『大内宿』 いわき市薄磯の海岸



□ [ 淡路島の港のいちじろう ]
 (2015.1.23)

『街道をゆく』の旅で淡路島に行くとき、司馬遼太郎一行は明石港から岩屋港まで播但汽船に乗った。須田剋太がそのとき描いたらしき『明石播但渡し場』には、「一二楼」という文字が見える。
司馬遼太郎の文中にはこういう店名はない。今も営業中の店ならインターネットで検索すればひっかかりそうだが、でてこない。現地に着いて、明石できいても、淡路島がわの岩屋できいても、「一二楼」を知る人はなかった。
岩屋で細長い商店街をたずねながら歩きまわったあと、空振りのまま諦めて先に行くことにしたが、商店街から小径にそれた数軒先にある商店の風情が気になって、最後にどういう店だろうと寄ってみた。
そこに奇蹟があって、「一二楼」のことがわかり、たずねあて、存在が幻になりかけていたのにリアルなマッチをもらって帰ることになった。

須田剋太『明石播但渡し場』 一二楼のマッチ



□ [なつかしい龍野から揖保川をくだって室津みなとへ]
 (2014.12.30)

『街道をゆく』の「9播州揖保川・室津みち」をたどってたつの市と周辺を旅した。
今度もいくつかの幸運に恵まれたが、最大のものは室津港にある浄運寺で、庭で草取りをしている人に声をかけられた。
須田剋太がここに来たとき会われていた人で、室津で描かれたほかの絵の場所なども教えていただいた。
なにより『室津風景』の絵。
僕はもっと低い位置で海に面しているところと思いこんでいたのだが、「これはうち」と、最初にここに入ってきた門のあたりに連れられて行くと、なるほどそこからの風景だった。
ここから出てしまっていたら見つからなかったろう。

須田剋太『室津風景』 浄運寺から海
須田剋太『室津風景』

もうひとつは、旅行前のこと、古民家ギャラリーかぐやを主宰する井上正さんに、近く龍野に行くと言ったら、それは僕が青春時代をすごした故郷だという。有益な情報をえられたし、話をきいていると龍野はとてもふるさととしてよさそうな街で、僕まで懐かしい土地に向かうような気持ちになってきた。



 [幸運のえひめ-「南伊予・西土佐の道」] (20014.12.18)

『街道をゆく』の「14南伊予・西土佐の道」をたどって、松山から南にくだった。
須田剋太が絵を描いた場所をたどっていると、しばしば幸運に恵まれる。
この旅の最大の幸運は、宇和島から檮原に向かう途中の松野町でのこと。
絵に店名がかかれている旅館兼うなぎ屋の「末廣」には簡単に行き着いた。ところが絵と、目の前にある風景とが、しっくりあわない。いったりきたり、しばら く悩んだが、とにかく現地は確認できたということで立ち去ろうとしたら、店からヤカンを持った女性が現れ、須田剋太が来たときに会っていた人だった。その ときの様子をきくことができ、なぜ絵と風景がずれているかもわかった。(新しい道ができ、旅館とうなぎの店が増改築されていた)
通りの左の旅館のほうにある仏壇に、右のうなぎ店からヤカンにお茶をいれて供えにいくところだったそうで、すばらしいタイミングで現れてくれた。
松野町 旅館兼うなぎ屋「末廣」

坂の上の雲ミュージアムで、ちょうど須田剋太挿絵原画展が開催中だったことも、高知県檮原では津野山神楽の日だったことも幸運だった。



 [大阪から奈良へ竹内峠を越え、京都でコンサートを聴く] (2014.8.3)

東大阪で須田剋太作品が出品される展覧会がある。
その作品の所有者・通崎睦美さんは木琴奏者で、京都でそのコンサートもある。
どちらにも行くことにして、そのあいだの日に『街道をゆく』の竹内街道(たけのうちかいどう)と壺阪寺をたどった。
竹内峠



 [新潟で「水のあと」と「人のあと」をたどる-「潟のみち」] (2014.7.4)

かつて新潟の低湿地では、水に深くつかって作業するきびしい米作りをしていた。その様子をうつした映画に衝撃を受け、司馬遼太郎は1975年に『街道をゆく』の「9潟のみち」の旅にでた。
「潟のみち」を読んで僕もその映画を見たくなり、2001年に新潟平野をめぐったことがある。挿絵を主眼としたのではないが、思えばぼくが『街道をゆく』の地をたどる最初の旅ではあった。
それから10年以上を経て、ふたたび潟をたどった。
水の駅ビュー福島潟



 [ふたたび佐渡へ] (2014.6.13)

半年ほど前の秋、佐渡に行った。
須田剋太が『街道をゆく』の「10佐渡のみち」で描いた地点をめぐって、どこかわからないところがあったのだが、わかりそうになって再度訪れることにした。


『街道をゆく』にも登場する歴史家、山本修巳氏に教えていただけることになり、山本邸を訪れた。玄関わきに小さなミヤコワスレが咲いている。佐渡に流された順徳天皇が、この花を見で都への思いをしずめていたという物語がある花を配している。
山本修巳邸のミヤコワスレ



 [桜の洛北、漱石の嵐山-「洛北諸道」と「嵯峨散歩」2] (2014.6.9)

春、4月半ばに「4洛北諸道」と「26嵯峨散歩」をたどった。
嵐山で須田剋太が夏目漱石の『虞美人草』の一節をそらんじて同行の人たちを驚かせる。
剋太が旧制熊谷中学のとき、国語の池本先生が漱石の大のファンで、「襟をただして読め、というから、みな憶えてしまったんです。」と言ったことを司馬遼太郎が記している。漱石の『坊っちゃん』のモデル弘中又一は、漱石と愛媛県の松山中学で同僚だったあと、熊谷中学に移った人。
熊谷中学(のちの熊谷高校)は僕の母校でもあり、訪ねて旧職員の名簿を見ると、夏目漱石-弘中又一-池本先生-須田剋太のつながりが浮かんでくるということがあった。

熊谷中学校の古い校舎



 [島原と天草のあかるい海] (2014.4.1)

南にいって島原と天草の海岸をめぐる。きれいな海辺にユニークな橋の数々。解けたナゾもあるし解けなかったナゾもある。

島原の海



□ [「芸備の道」としまなみ海道 +尾道市立美術館の須田剋太展] (2013.12.20)

尾道市立美術館で須田剋太展が開催された。
それを見に行くのにあわせて、『街道をゆく』「21芸備の道」(1979)をたどって広島北部の安芸高田と三次をまわった。
尾道に下ったあと、瀬戸内の島々を結ぶしまなみ街道にのって、いくつかの島もめぐった。

高林坊 須田剋太『高林坊』



□ [はるかな佐渡] (13.9.20)

『街道をゆく』「10佐渡のみち」須田剋太が佐渡金山の採鉱跡を描いている。その近くに、金山で働かされていた水替無宿と呼ばれた人たちの墓がある。僕の出身高校は埼玉県立熊谷高校で、須田剋太の後輩にあたる。(剋太のころは旧制中学だった)。その高校生だったころの国語の時間に、船戸安之先生から佐渡でつくった『水替無宿の墓』の詩をきかされたことがある。
半世紀近く経って佐渡の案内板にその詩が記されていることに驚き、僕がその詩に覚えがあったことにも驚いた。

道遊の割戸
須田剋太『佐渡 道遊の割戸』



□ [大分のふしぎな宿、ふしぎな神社-「豊後・日田街道」と「中津・宇佐のみち」] (2013.2.20)

『街道をゆく』の「8豊後・日田街道」と「34中津・宇佐のみち」をたどりに大分に行った。
宇佐八幡では、広い境内をずいぶん歩き回っても須田剋太の絵のように見える地点が見つからなかった。帰ってから調べていくと京都の石清水八幡宮らしいことがわかり、後日、京都に行ってみるとたしかにそうだった。須田剋太は現地で描いたスケッチだけでなく、資料写真をもとにして挿絵を描くことがあり、錯誤したようだ。
この絵は大胆な構図やくっきりした色調から、数多い挿絵のなかでも展示や印刷物につかわれることが多い。そんなことに関わる人たちも、宇佐八幡現地で何人かたずねた人たちも、じつは石清水八幡宮であることを気づいておられないようだった。

須田剋太『宇佐八幡神矢』 石清水八幡宮
須田剋太『宇佐八幡神矢』 石清水八幡宮



□ [肥後・球磨川へ-「肥薩のみち」1] (2011.12.20)


『街道をゆく』「3肥薩のみち」のうち熊本県内をめぐった。
須田剋太の絵からはいくどもナゾをかけられたが、これが最初だったかも。
左と正面に見える景色を1枚の絵に構成している。
人吉市の願成寺で、僕には初めて行った広い寺だからこういう場所を見落とした可能性もありそう。
でも境内を知り尽くした住職に絵を見てもらうと「合成だね」と即断された。
須田剋太『相良家墓地』
須田剋太『相良家墓地』
願成寺の相良家墓地 願成寺
左に五輪塔が並ぶ位置から... 下を見ると絵に似た曲がり角